【コラム・先﨑千尋】このコラムを書きつづって、今回がちょうど100回になる。いつでも、伝えたいことや書かなければならないことがいくつも頭の中にあり、その中からテーマを選んで、私の思いを読者の皆さんにぶつけてきた。取り上げる課題が何もない時が来ればいいなと思う時もあるが、実際はそうはいかないでいる。今回は、私も関係している「いばらき未来会議」が設立して1年経ち、その集まりで私が話したことなどを伝えたい。

同会議は昨年、県議会で「東海第二原発の再稼働の賛否を問う県民投票条例案」が否決されたのがきっかけで、県内各地の市民団体のネットワークを作ろうと結成された。情報の共有や連携などが目的。

同会議の1周年記念講演会は「農業と原発問題を考える」というテーマで、11月6日に水戸市で開かれた。私の講演のあと、笠間市で「あした有機農園」を主宰する涌井義郎さんも交えたパネルディスカッションがあった。

2011年の東京電力福島第1原発の事故で、多くの福島の人たちは避難生活を余儀なくされ、現在でも原発周辺の人たちはふるさとに戻れないでいる。飯舘村は福島第1原発から30キロ離れており、村民たちは当初、放射能で汚染されていることを知らされずにいた。避難指示が出たのは4月22日。他の人たちが避難を終えたあとだったから、飯舘村の住民たちは条件のよいところを見つけられず、その後の苦しい生活が始まった。

東北は原発の「植民地」

私は講演の最初に「東北地方は、大和朝廷にとっては異民族(エミシ)の住む野蛮なところ。そのために、1000年以上も「征夷大将軍」という官職が置かれ、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を結び、明治政府に抵抗した。戦後は福島や新潟に原発が設置され、電力の『植民地』とされた」と話した。

そして「日本一美しい村」と言われた飯舘村の原発事故後の状況や村の人々の対応に触れ、国が進める「強い農業、もうかる農業、スマート農業」ではなく、原発事故後の地域を守っていくには、阿武隈山系の人たちが営んでいる「農地を守り、老若男女合わせて生きがいを求める小規模農業」こそがふさわしい暮らし方だ、と結んだ。

パネルディスカッションで、涌井さんは、水戸市にある鯉渕学園で有機農業を教えてきた後、笠間市で有機農業を志す人のために「あした有機農園」を開き、これまでに30代から50歳までの15組が独立し、県内で充実した生活をしているという報告をした。涌井さんは、そうした人たちが生産した農産物や加工品を販売するため、一昨年秋に「町の駅笠間宿」内にオーガニックの直売所も開いている。

その後の意見交換では、東海村前村長の村上達也さんが、1999年のJCO事故後、村の総合計画を策定した時、農業を衰退させてはならないと考え、福祉、環境、教育と並んで農業も村の柱の一つに入れたと話し、それを受けて涌井さんは「放射能汚染は最大、最悪の環境破壊だ。地球上のすべての生き物が影響を受ける」と語った。(元瓜連町長)