土曜日, 5月 24, 2025
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オリンピックと衆院選挙 《雑記録》26

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【コラム・瀧田薫】古代オリンピックは、紀元前776年から紀元393年まで、1200年近くにわたって、ギリシアのオリンピアの地で行われた。この古代オリンピックと近代オリンピックとの違いは、古代オリンピックがゼウス神にささげる宗教的祭典だったことである。大会開催中、参加国は聖なる休戦(エケケイリア)を守り、オリンピアへの往還と神域における武力行使を堅く戒めた。

その結果、1200年間、戦争が原因で大会が中止されたことは一度もないという。一方、近代オリンピック120年の歴史には、2度の大戦による大会中止をはじめ、テロによる選手殺害事件(1972年)や、大国によるボイコットの応酬(1980年、1984年)があった。

西洋史学者の橋場弦(はしば・ゆずる)氏は「商業主義とグローバル資本の論理に翻弄される現代のオリンピックは、どこに向かうのか。金銭を超えた聖なる価値を、オリンピックが見失うことのないよう祈りたい」(UTokyo FOCUS 2020年4月)と述べている。

争点は財政政策(増税か減税)か?

さて、衆議院議員選挙の日程だが、コロナの感染爆発中にオリンピック開催を強行した菅首相だけに、オリ・パラ会期中の選挙はないだろう。永田町では、パラリンピック後の9月6日に臨時国会を召集し、補正予算を通して、28日公示、10月10日投開票というスケジュールが有力視されている。ただし、これも「ワクチン接種」の進み具合で延期される可能性がある。

菅政権としては、選挙前に国民の60%程度の接種を終えておきたいところだ。その場合、選挙日程はギリギリ11月28日になる可能性がある。臨時国会を開き、10月21日の衆院議員の任期満了日に解散する方法だが、さすがにこの日程の現実味は薄い。選挙の争点は、コロナ対策、特に財政政策で、具体的には「増税か減税」か、与党、野党それぞれの思惑が交錯する選挙となるだろう。

政府は、コロナ禍への対応で、20年度に3次にわたる補正予算を編成した。医療現場への補助金、企業向け支援、全国民への一律10万円支給などがその中身だが、財源の大半は国債の追加発行(20年度の新規国債発行額は100兆円の大台を超えた)であり、これは過去に類例のない規模である。リーマン・ショック後には消費税の10%への引き上げがあり、東日本大震災後には所得税、住民税、法人税の上乗せがあった。現在、財政当局の本音は「景気回復を条件とする増税案(消費税15%?)」だろう。

これに対し、自民党は選挙前の「だんまり」を決め込み、菅首相は「10年間は消費税を上げない」と公言している。逆に野党は、この時とばかりに「減税」(れいわ新選組の消費税5%案など)を主張するだろう。選挙民にとっては、どう考え、誰に投票するのか、悩ましい選挙となるだろう。

専門家による投票結果予想としては、自民党の議席減で現政権の退陣もあり得るが、自民・公明両党での過半数は維持できるとの見方もある。選挙の結果がどう出ようとも、その後に、財務当局の増税案が急浮上してくることは確かである。(茨城キリスト教大学名誉教授)

五十嵐つくば市政 揺らぐその原点 《吾妻カガミ》112

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市政が滑稽なことになっています。広く意見を聴いて施策を進めるという五十嵐市政の基本がお留守になり、市民の関心が強い事業の策定作業がオープンになっていないと、市民グループから批判されています。五十嵐さんは執行部主導で施策を進めた前市長を批判する運動を繰り広げ、その勢いに乗って市長になった人です。ところが、その原点ともいうべきところを突かれるという、おかしな展開になってきました。

「住民監査請求」棄却理由が傑作

問題になっている事案は「つくばセンタービルリニューアル事業」(総事業費10億3800万円)です。市民グループが、この事業は10億円以上を費やす案件だから、策定に際しては広く意見を聴かなければならない大規模事業に当たるのに、その事業評価が不十分だったと、5月中旬、市に住民監査を請求しました。詳しくは「…18人が住民監査請求」(5月12日掲載)に出ています。

7月中旬、市監査委の監査結果が市民グループに郵送されましたが、市の見解を踏まえてまとめられた結論は「大規模事業評価の対象にしなくてもよい」でした。そのポイントは「監査請求を棄却…」(7月14日掲載)をご覧ください。

棄却理由が傑作です。再生事業を担う会社「つくばまちなかデザイン」への市出資金6000万円は事業費ではないから、この額をマイナスすると事業規模は10億円を下回り、大規模事業の定義(総事業費10億円以上)に当てはまらない、という理屈でした。しかも、出資金をどう扱うかは公表されておらず、市職員マニュアルに書かれていたというのです。アウトかセーフかを決めるルールが非公表では、野球も行政も成り立ちません。

自慢の「大規模事業評価」を回避

前市長の大規模事業(総合運動公園建設)策定が執行部主導であったことから、そういった閉ざされた策定作業を反面教師とし、五十嵐さんの手でまとめたのが「大規模事業評価」です。ところが、その事業評価を回避するため、(出資金も一般事業費も税金なのに)出資金は合計から外すという計算式で、市長自慢の評価作業から逃げました。五十嵐市政の(市民の声に耳を傾けるという)原点はどこに行ったのでしょうか。

センタービルリニューアル事業では、市案の「エスカレーター2基設置」も市民の反対に遭い、見直しを迫られています。事業策定だけでなく、事業内容そのものも「NO」と言われているわけです。市長在任5年。何か実績を残さねばと焦っているのでしょうか? 市民の関心が強い事業については評価作業を行う。これが五十嵐流だったはずですが。(経済ジャーナリスト)

追記:上記の展開については「つくば中心地区再生 出だしでつまずき」(5月17日掲載)でも取り上げました。ご参考まで。

在宅介護 最近事情 《介護教育の現場から》9

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専門学校の授業風景

【コラム・岩松珠美】梅雨がやっと明け東京五輪が始まった。新型コロナのワクチン接種は進んでいるものの、新規感染者はなかなか収まらない。茨城の場合、65歳以上の高齢者、特別養護施設などの利用者、介護・看護スタッフへの接種に早くから取り込んだため、高齢者施設でのクラスター発生は減っている。

医療機関スタッフも先行して接種、集団接種の体制も整備されたが、遅れたのは障害福祉の分野であった。特に、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)など、自宅で医療的ケアを受けながら生活している方々への接種が遅れた。介護保険制度ではなく、障害福祉サービスを活用しながら生活を送っている方々の多くには、まだ接種券が届いていない。

小規模多機能居宅介護事業所

コロナ禍下では、施設の介護実習受け入れも厳しかったが、在宅で療養生活を送る高齢者や障害者を訪問する実習の受け入れは難易度が高かった。介護実習者は留学生が多いこともあり、日本家屋の造りなどに接する機会が少ない。留学生に在宅介護を学んでほしいという受け入れ先もあり、なんとか実現することができた。

今、急性期病院や慢性期病院では、看護師不足だけでなく、患者の世話する介護福祉士の人手不足が問題となっている。病気治療はある程度終えることができても、日常生活の支援を必要とする患者向けの介護サービスがあまり存在しない。

その中で、かすみがうら市にある「小規模多機能居宅介護事業所」が、デーサービス受け入れ、ショートスティ受け入れのほか、訪問介護サービスも提供している。これは住み慣れた家での生活を可能にするものであり、この種のサービスが広がることを期待したい。(つくばアジア福祉専門学校校長)

椅子から転げ落ち 右手が使えない 《食とエトセトラ》13

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台所道具

【コラム・吉田礼子】 青天の霹靂(へきれき)。2週間前、料理教室の後片付けのとき、大鍋を高所に上げようとしたところ、パイプ椅子から転げ落ち、救急車で運ばれた。痛いだけでなく、寒気がして、口が乾いてくる。右手首が曲がり、ありえない方向を向いている。覚悟を決め、これからの3~6カ月を闘いたい。

私事なのでためらいもあったが、友だちに言われ、フェイスブックでお知らせした。思いがけず、たくさんの方からお見舞いや応援メッセージをいただいた。不思議に痛みが和らぎ、この状況に立ち向かう勇気が湧いてきた。オリンピックに限らず、応援によって限界を超える力を発揮できることでは、相通じるものがある。

人は、愛されたり、おいしいものを食べると、幸せホルモンが出てきて、免疫力を高められるそうだ。ありがたいと思う。

ペットボトルは両手でも開けにくい

利き手の右が動かない。初めて実感した、鈍痛、むくみ、痺れ。指を曲げられない。左手しか使えない状態で実感したことがある。ペットボトルが開けられない。牛乳パックを開けるのも無理。袋入りせんべいや豆腐パッケージも開けられない。

最近、ペットボトルは両手でも開けにくいと思っていたが、同年代の多くの人が手の力が弱くなったとぼやき、開けられない自分を責めている。いつから、ペットボトル、びん詰め、袋詰めが開けにくくなったのだろう。オープナーが便利グッズに登場し、しっかり締められるようになった。

その後、(不自由な人が健常者と同じように使える)バリアフリーが普及。1980年代中ごろ、(老若男女、健常者もそうでない人も使いやすい)ユニバーサルデザインが出てきた。台所道具も、グリップが太く、使う人の立場を考えたデザインが登場した。用具のつくり手は、使う人の立場になって、モノづくりをしてほしい。完治はまだまだ先だが、くじけず、まい進したい。(料理教室主宰)

つくば工科高校サポートクラブ(2) 《塞翁が馬》3

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【コラム・三浦一憲】前回「つくば工科高校サポートクラブ」の続きです。見学会一覧(1~11)は前回コラム(6月28日掲載)をご覧ください。

1回:建設中のショッピングセンター見学(1999年7月)

設計した会社の担当者による事前レクチャーのあと、友部の建設現場で受講。学校手配のマイクロバスで移動。教科書には書いてないことを知る現場見学会。生徒にはいい刺激に。

2回:国際会議場、ノバホールなど見学(19998月)

これは挑戦的な企画でした。使用目的の違う3ホールを音響的な側面から見学。建築や音響の専門家でない外部の人間だから、いろいろな疑問に取り組めました。各ホールの音響的な違いを知り、ホールとは何かを感覚的に体験。ラジカセの生音を反響の少ない環境で体感してから、各ホールのステージで鳴らし、1階席、2階席でホールの持つ音響的な特性を体感。

NHKが音響設計したノバホールは反響音が長く、ステージ上に置かれたラジカセの音が豊かに聞こえました。反響音や残響音が豊かな音を作っていることも体験。高校生にはいい勉強になりました。現地で保護者も参加、大人にも刺激に。

3回:ウエディングドレス製作の見学(19999月)

ウエディングドレスのデザインから出来上がるまでを見学しながら、デザイン専門家による講義。最後に、ドレスを女子生徒が着る体験も。デザインから製品になるまでのモノづくり工程を体験。

4回:アメリカン2×4住宅の見学(19999月)

日本の在来軸組み工法とは違う、アメリカ2✕4(ツーバイフォー)プラットホーム工法をモデル住宅で見学。その内装や外観は刺激的でした。当時としては珍しい、ペアーガラス木製サッシの省エネ断熱効果も体験。(まちかど音楽市場代表)

養老孟司先生の講演を聴く《令和楽学ラボ》14

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養老孟司先生

【コラム・川上美智子】つくばのホテルグランド東雲で、東京大学名誉教授の養老孟司先生の講演を聴く機会がありました。養老先生は20数年前の現役時代に東大医学部の学生に解剖学実験を指導されていて、当時受講生だった娘が時々その様子を話してくれました。ホルマリンの臭いが充満する教室で、学生たちが人体解剖をしている傍らで、椅子に座ってじっと本を読んでおられたようです。

学生たちも大変ですが、先生にとっても厳しい時間なのではないかと、当時、思ったりしました。たとえ仕事であったとしても、医学の継承のため、若い学生を育てるため、人体を捧げる運命に至った人に最後まで傍らで寄り添い、畏敬の念を抱きつつも送り出さなければならない先生の気持ちを、本が和らげてくれていたのではと思います。

講演で先生は、「生老病死(しょうろうびょうし)」という言葉を黒板に書かれ、これが人の自然の姿だと言われました。最近、宗教学者の山折哲雄も、人生終焉に向かうテーマとして同名の本を出版しています。生老病死とは、人の人生には「生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと」の四つの苦しみがあり、これを避けて通れないという仏教語(お釈迦様の言葉)だそうです。

つまり、人が生きること自体が思い通りにならない苦しいことであると、仏教は教えています。先生は、演題「今、私たちは何をすべきか」の中で、そうだからこそ、「生(しょう)」のスタート部分の子ども時代には、生きることの楽しさ、社会の明るさを教えてほしいと訴えました。

子ども時代の一定期間、田舎で過ごすのがよい

先生は今、理想の保育園を目指し、保育園の理事長の職に就いていらっしゃるとのこと。毎日、孫や曾孫のような子どもたちと、虫取り、魚獲りで自然に触れ、子どもたちを幸福にしたい、子どもたちに幸せな生活を送らせたい、という思いで過ごされているそうです。

子ども時代は人生にとって最も大事な時期であるのに、子どもたちに大人が真面に相手をしなくなったと話されました。大人は本来の子どもの育ちの目的を忘れ、(動物の親と対照的に)国がつくった教育のシステム維持に夢中になっている、ひたすら務めればよいわけではない、また、近代化の行き過ぎで子どもの育つ環境が自然から離れてしまった―と、嘆かれました。

子ども時代の一定期間、田舎で過ごすのも健康の上でよいことだと、茨城っ子にとってうれしい話もありました。

AI(人口知能)が道具になり、human enhancement(人間拡張)の方向で体の一部とするよい使い方もあるが、果たしてコンピューターが出す解答はすべて正しいか、コロナ予防のためにワクチンの形で細胞に遺伝子を導入することの可否など、この先やってみなければ答えが分からない時代に我々がいる―との警鐘もあり、示唆に満ちた講演でした。

「生老病死」を自分事として捉える年代になった私自身も、大学で教鞭(きょうべん)を執った後、最後にできるお役目として、つくばで保育園の園長をしていますが、先生の深い洞察力と、「子どもは自分で何も言えない」という言葉が胸に刺さりました。(みらいのもり保育園園長、茨城キリスト教大学名誉教授)

にんにく祭りとニンニク 《県南の食生活》27

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一の矢神社のお守り

【コラム・古家晴美】一の矢神社(つくば市玉取)の祇園祭(ぎおんさい)は、旧暦6月7日(今年は7月16日)に開催され、茨城県内の祇園祭の皮切りとされている。「にんにく祭り」としても有名だ。その後、順次、他の八坂神社が祭礼を執り行う。鉾田町には、全戸が参加する一の矢講を編成し、玉取まで参拝に来ていた地区もあったと言う。

潮来市や行方市でも「一の矢の天神様の祭り」として、うどんや餅を作って食べた地域があり、広い地域で知られた祭りであった。では、どうして「にんにく祭り」なのか。諸説あるが、ご祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が朝鮮から持ち帰ったニンニクを用い、江戸時代に流行した疫病退治のために、戸口につるしたことが始まりと言う。

実際には、遣隋使か遣唐使がもたらしたものと推測されている。『万葉集』には、醤酢(ひしおす)とともにニンニクをついてタイを食べたい、という歌がある。『医心方』には、かっけ、風邪、虫刺されに効く、と書かれている。『源氏物語』の「帚木(ははきぎ)」には、風邪のために薬草(ニンニク)を煎じて飲んだ、とある。

禅宗の山門には「不許葷辛酒肉入山門」とあるが、滋養強壮作用があることから、修行の妨げになるということで、葷食(くんしょく=ネギ、ニラ、ニンニク、ラッキョウ、タマネギ)を禁じた。

また、室町から江戸時代にかけては、獣肉の調理や臭い消しに、すりおろしたニンニクが使用された。江戸から昭和にかけて、へき村では、節分の鬼やらいで、とげのある柊(ヒイラギ)、臭気があるイワシの頭とともに、さらに匂いが強いニンニクを門に挿しかける風習もあった。

また、コレラなどの悪疫の流行時に、児童にニンニク入りのお守りを持たせて、悪疫を防いだ。このほか、ニンニクは、腹痛、下痢、風邪の予防と治療に用いられた。

一の矢神社のニンニクは魔除け

では、一般庶民の間では、どのように扱われていたのであろうか。大正末期から昭和初期の食生活について聞き書き調査をした『日本の食生活全集』を見ると、全国的にニンニクの食用が南日本と北海道・東北地方に偏っているのがわかる。特に沖縄では、漬けものが目立つ。ニンニク玉を泡盛に漬けたり、魚や肉との煮物や炒め煮に用い、臭いを抑えた。

カツオのタタキで有名な高知では、そのまま薬味として食べる以外に、ニンニク玉を葉とともについて、ペースト状にしたものを刺身や、カシの餅などに付けて食べる。南部では肉食の臭い消し、東北ではなめ味噌と、多様な食べ方に圧倒される。

では茨城はどうか。ニンニクが大手を振って日常的に採用されるようになったのは、第2次世界大戦、高度経済成長期以降ではないかと推察している。ですから、一の矢神社のニンニクは、あくまでも魔除(まよ)けです。(筑波学院大学教授)

ナラ枯れの脅威! 被害対策奮戦記(上) 《宍塚の里山》79

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ナラ枯れ調査の様子。左上写真はカシノナガキクイムシ成虫のメス(左)とオス

【コラム・佐々木哲美】ナラ枯れはコナラなどの樹木が集団で枯れてしまう病気です。2020年9月初め、森林総合研究所(つくば市松の里)に勤める会員から、つくば市内の数カ所でナラ枯れと疑われる症状がコナラに発生しており、宍塚の里山でも発生していないか、注意して見てほしいと連絡がありました。

ナラ枯れの正式名称は「ブナ科樹木萎凋(いちょう)病」といい、一般には「ナラ枯れ」とか「カシノナガキクイムシ被害」と呼ばれています。「ナラ枯れ」は、ナラ類、シイ・カシ類の樹木を枯らす病原菌と、その病原菌を媒介する昆虫による「樹木の伝染病」です。病原菌は「ナラ菌」と呼ばれる糸状菌(カビ)の仲間で、媒介昆虫は体長5ミリほどの甲虫(こうちゅう)、カシノナガキクイムシです。

このキクイムシのメスの背中(前胸背)には、菌のうという臓器器官があり、この菌のうにナラ菌を入れて、被害木から健全木へ運び、被害を拡大させます。当初、本州の日本海側を中心に被害が拡大、太平洋側に広がり、2020年、茨城県内で初めて、ナラ枯れが確認されました。

10月、会員から宍塚里山のコナラが写真のナラ枯れに酷似していると報告があり、森林総研に見ていただいたところ、ナラ枯れの疑いが濃いということでした。

対処する前にナラ枯れの見分け方と対処の仕方を学ぶ必要があります。今年1月、関係者に働きかけて現地調査を開催したところ、森林総研から主任研究員の升屋勇人さんら3名、県南農林事務所1名、県技術センター1名、樹木医1名、当会3名の参加がありました。観察路に沿って里山を一周したところ、ナラ枯れは13本確認できました。

「樹木の切断」「巻いて処置」「切株処置」

その後、升屋主任研究員に現地に来ていただき、対処方法を「樹木の切断」1本、「巻いて処置」6本、「切株処置」3本、「経過観察」3本―に仕分けていただきました。

まず、「巻いて処置」に区分した樹木の対策ですが、①木の根元をスコップで少し掘る、②立木と捕獲シートの隙間を作るために、シノ竹を7~8本周囲に立てて上下2か所を縛る、③捕獲シートの粘着面を立木に向けて張る、④養生用のビニールシートを2層になるよう周囲に巻く、⑤ガムテープで固定する、⑥根元のシートに土をかぶせて固定する―の手順で行います。切株も同様にスペースを作りながら、粘着テープを巻いてビニールシートで覆います。

この作業を3回に分けて実施し、「巻いて処置」6本、「切株処置」3本を、延べ7名の参加で行いました。試行錯誤をしながら試験的に行いましたが、思いのほかうまくいきました。これでナラ枯れの被害木の処置は一応終え、経過を見ることにしました。しかし、まだ「経過観察」3本の対処と新たな松枯れの被害調査をしなければなりません。(宍塚の自然と歴史の会副理事長)

百聞は一見に如かず 福島第1を視察 《邑から日本を見る》92

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東電福島第1原発1号機の現状 1号機建屋(東京電力提供)

【コラム・先﨑千尋】去る7月10日、私は村上達也前東海村長、海野徹前那珂市長ら「脱原発をめざす首長会議」のメンバー13人と東京電力福島第1原発の構内に入り、事故を起こした1号機から4号機を、100メートルの近距離からわが目で見た。

水素爆発やメルトダウンを起こした原発が目の前にある。1号機は特にひどい。建屋の屋根は吹き飛び、上半分の鉄骨がむき出しになり、天井クレーン、燃料クレーンが落下し、折り重なっている。使用済み核燃料は手つかずで、その真下にある。

海は建屋のすぐ向こうに見える。カモメがのんびり飛んでいる。土曜日だったので、4000人近く働いているという作業員の姿は少なかった。この光景を見て私は「百聞は一見に如かず」という言葉を思い浮かべた。世の中にはじかに見ないと分からないということがあるものだ。

視察見学は約3時間。東電社員が最初に事故概要や汚染水処理状況などを説明し、質疑のあと専用のバスで構内を回る。二重のチェックがあり、携帯やカメラは持ち込めない。事故を起こさなかった5・6号機や、汚染水を多核種除去設備(ALPS)で処理した水をためておくタンク群、浄化設備、廃棄物焼却設備などを、1時間以上かけて案内してくれる。

バスの中で、原発の事故がなければ、いや原発そのものがなければ、このような無駄なことをしなくて済むのに、と考えた。

東電の説明を聞く首長会議メンバー

膨大な量の汚染水

最初の質疑では、核燃料デブリ(燃料と構造物等が溶けて固まったもの)の現状、廃炉作業の今後などの質問が次々に出されたが、最も多かったのは汚染水の処理問題。現在までに125万立方メートルあり、現在でも1日に100~150立方メートル発生しており、来年秋ごろには貯蔵用タンクが満水になるという。

汚染水は、まず燃料デブリを冷却するための水が燃料デブリに触れて高濃度の放射性物質を含んだ汚染水になり、さらに建屋内に流れ込む地下水、雨水が混じり合うことで新たな汚染水が生じる。汚染水にはトリチウム、ストロンチウムなど分かっているだけで63種類の放射性物質が含まれている。この汚染水をALPSで浄化処理したものを東電では「処理水」と言っている。

この汚染水問題について、私は4月26日付の本欄「福島第1の汚染水、海洋放出へ」で問題点を指摘しておいた。この日の東電への質疑でも「東電は2015年に、関係者の了解なしにはいかなる処分も行わないと文書で約束している。約束違反ではないか。風評被害と政府、東電は言っているが実害ではないか。この10年、東電は被害者への賠償を十分に行ってこなかった。今回の海洋放出で、期間、地域、業種を限定せずに補償すると言っているが、信用できない」などと聞いた。それに対する東電の答えは、口調は丁寧だけれどもまともなものではなかった。

首長会議では翌日、北隣にある相馬市の松川浦を訪れ、漁師から現在の状況や汚染水問題をどう考えるかを聞き、その後「政府は汚染水の海洋放出を断念せよ」とする緊急声明を発表した。それらについては次回に報告する。(元瓜連町長)

理科の自由研究 どうしよう 《食う寝る宇宙》90

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【コラム・玉置晋】友人の宇宙ファミリー(コラム44参照)から「ウチの子の学校で、夏休みの宿題で理科の自由研究が必須になったのだけれど、よいテーマはないかなあ」と相談メールがきました。僕はすかさず、「じゃあ、宇宙天気について調べてみたら?」と、自分の研究仲間を増やすべく勧誘しています。

研究テーマの設定は、小中学生であろうと大学院生であろうと悩むものです。科学的な自由研究に取り組むコツを、気象学者の荒木健太郎先生が「科学的な自由研究とは?」と題してまとめてくださっています。参考にしてみてください。僕も先日、友人に教えてもらって、目から鱗(うろこ)が落ちました。

アクセス先はこちらです。「天気自由研究を大募集!『すごすぎる雲の研究』にチャレンジしよう!」

太陽の裏で大爆発

7月14日の夜中、人工衛星が太陽から広がるガスの様子を捉えました。ガスとは太陽の大気(プラズマ)で、これが宇宙空間に吹き飛ばされる現象を「コロナ質量放出(CME:Coronal Mass Ejection)」といいます。地球から、CMEは放射状に拡がって見えました。こういう場合は、地球方向に近づいているか、太陽の反対側に遠ざかっているか、どちらかです。

今回は、地球から見えている太陽面にはCMEの発生源は確認できませんでしたので、爆発は太陽の裏で発生した模様です。続いて、7月16日にも同じ方向に、7月17日には少し異なる方向にCMEが発生しました。このことから、活発な活動領域が少なくとも2カ所、太陽の裏にあることが推測されます。

この活発な活動がいつから続いていたのか、振り返ります。太陽は地球から見て約27日で自転しています。7月3日ごろに太陽面の北半球の西端に黒点ができ、Xクラスと呼ばれる最大規模の太陽フレアを起こしました。この時は強力な発光のみで、CMEが地球に飛んでくることはありませんでした。南半球にも1か所、今にも爆発を起こしそうな黒点がありました。あれから2週間が経ち、これら2カ所の黒点は太陽の真裏を通り過ぎたころのはずです。

これから、これらの黒点が地球から見える位置に回ってきます。活発な活動を維持しているようでしたら、僕は地球防衛のために休日返上で働くことになるでしょう。手伝ってくれる仲間がほしいです。というわけで、理科の自由研究をきっかけに、若手をスカウトしよう!というオチでした。(宇宙天気防災研究者)

TOKYO2020 善後策のプラチナメダル 《ひょうたんの眼》39

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【コラム・高橋恵一】いよいよオリンピックが始まった。東日本大震災の復興の証しとして、福島原発事故の終息の証しとして、安倍前首相がスーパーマリオに扮(ふん)し、原発の処理水も完全にコントロールしているとして、誘致したオリンピックである。最近の商業主義が色濃くなったオリンピック主催を躊躇(ちゅうちょ)する意見もあったが、じり貧の日本経済の回復を見込む動きが強く、2020東京開催が決まった。

大会が半年後に迫るとき、新型コロナウィルスによるパンデミックが起き、中止や2年延期の議論が起こる中で、前首相は「完全な形でのオリンピック」を目指し、1年延期を決断した。

完全な形のオリンピック。私は、1964年の東京オリンピックをイメージする。スポーツを通しての世界連帯、人種、国籍を超えた人々の交流。オリンピック期間中は戦争を中断した古代オリンピックに習う、平和のスポーツ祭典である。日本にとっては、平和国家としてアジア、世界に認めてもらうと共に、戦後社会経済の復興・発展を遂げ、欧米以外のアジア・アフリカ諸国の地位向上の先頭に立つイベントでもあった。

秋晴れの青空にブルーインパルスの飛行機雲が地球連帯を表す五輪マークを描いた開会式には、最大の参加国、最大の参加選手を迎え、新国立競技場を満員にした観衆が応援し、日本中に行き渡ったテレビが中継した。

日本人選手だけでなく、聞いたことのない国の選手やなじみの少ない種目の女子選手など、世界各国のあらゆる選手の活躍に感動し、応援した。各々の国旗の下に整列した開会式に高揚し、全ての競技で全力を尽くした最後の夜は、選手が国別ではなく、入り混じって、手をつなぎ、肩を組んで、満面の笑顔で入場し、互いの活躍を称えあったのだ。「完全な形」の平和のスポーツ祭典の閉会式だった。

全選手と関係者に「栄誉と感謝の気持ち」を

前首相の後を受けて、菅首相は「安心安全」の開催を公約した。本来、世界中で戦闘が止み、パンデミックも終息していてこそ、各国選手が安心して競技に臨め、安全安心で完全な形のオリンピックであろう。少なくとも、戦闘や感染が終息の方向に動いている必要があったが、現実は程遠かった。せめて、参加選手には、困難な事情を抱えながらも、開催地日本への入出国、日本での滞在、そして競技。日本のホストタウンをはじめ歓迎する人々との交流、多くの観客前での全力パフォーマンスなどが保障されるべきだった。

しかし、事前のワクチン接種も不十分。水際対策も検査体制も不十分。来日してから、感染やその疑いで競技できない選手も出てきたし、無観客なので、日本でオリンピックの選手として競技を誰にも見てもらえない選手もいるのではないか。

このままでは、選手や支えてきた関係者にとって、地球上のあらゆる地域から、遠いけど、美しい、おもてなしの日本に来た意味が無くなってしまうのではないか。

困難な状況下で日本に来てくれた選手に、全ての競技のテレビ放映を実施してほしい。参加選手全員に、金メダルあるいは特製のプラチナメダルを与えてほしい。日本国民から、平和とオリンピックを愛する全ての選手と縁の下から支えてくれた関係者への栄誉と感謝の気持ちとして、実現できないか。(地図好きの土浦人)

オオムラサキを見に行こう 《くずかごの唄》90

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【コラム・奧井登美子】私たちが「どんぐり山」と呼んでいる山がある。21年前の2000年、皆でどんぐりの実を持ち寄り、「どんぐりの里子作戦」と名づけて、かすみがうら市加茂の岡野静江さんの畑(1500坪)にまいたのが始まりである。

作戦には130人もが来てくれた。東京の台東区の子供たちや、廃校になった土浦の宍塚小学校の子供たちも参加して、草取り、苗植えなどなど、森づくり作業に喜んで参加してくれた。

どんぐりの苗よりも大きくなってしまった雑草を刈りとるのが一仕事。皆、蚊や蚋(ぶよ)に刺されて大変だった。現地の人たちは、草むしりの前に殺虫剤をまくことを提案してくれた。私たちは将来の昆虫の森を夢に見ていたので、殺虫剤だけはまかないでほしいと、「殺虫剤の勉強会」まで開催してその案を阻止した。

広い畑の下草刈りはあまりに重労働だったので、敷地の半分くらいに段ボールを敷き詰めて、「ペーパーマルチ」を実験してみた。段ボールが溶けてなくなるまでの2~3年間、その場所の雑草は生えずにどんぐりの木を守ってくれた。

雑草取りの手間が省けてとてもよかったと喜んだが、段ボールの下は冬でもかなり暖かいらしく、いつの間にか、ヤマカガシ君とマムシ君たちの別荘になってしまったらしい。

会いに行くことが楽しみ

「マムシが出た」と叫んだら、現地の石川さんのオジサンが素手で5匹もつかまえてくれた。2005年。とうとう、待ちに待ったあこがれのオオムラサキが出現した。さすが国蝶とあって、色といい、貫禄といい、申し分のない格調の高さである。

オオムラサキはエノキで育つ蝶である。近くにエノキがあるに違いない。岡野家の敷地の突き当りにある大きなエノキ。木の下には、春、秋、冬を通じて、かわいい顔をしたオオムラサキの幼虫に会うことができる。私は会いに行くことが楽しみだった。

ほぼ毎年、7月の土曜日に昆虫観察会を開くと、オオムラサキも毎年10羽以上来てくれるようになった。しかし、昨年はコロナで子供たちの参加を止めたら、オオムラサキも来てくれなかった。どうしたのだろうか? エノキは無事だろうか? 森の中にコロナはいないので、今年は昆虫観察会決行と決めた。(随筆家、薬剤師)

※ 昆虫観察会:7月31日(土)午前8時30分、霞ケ浦環境科学センター前集合。問い合わせは霞ヶ浦市民協会(電話029-821-0552)

アリとキリギリス 《続・平熱日記》90

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【コラム・斉藤裕之】生後10日を過ぎてやっと名前が決まった孫。乳もよく飲むし夜泣きもほとんどしない。我が子の場合と違って、目鼻や耳、頭の形や髪の毛など、双方の祖父母の顔まで思い浮かべて、何がどう遺伝しているのか、誰に似ているのか、大げさに言えば、大昔からつながる、そしてこの先つながっていく命の不思議をも感じてしまう始末で、まあいずれにしても、なかなかいい面構えをしていると、ひとりニヤける。

それから、今どきはよくできたもので、旦那さんも長い育休をとって、おむつを替えたり寝かしつけたりで、ここ1カ月はにぎやかに暮らしているのだが、カミさんと2人暮らしのときと比べて、飯の支度やら洗濯やらが意外に大変で、寝床につくときには冷蔵庫の中を思い出しながら明日の献立を考えたりする自分がいたり、梅雨時は洗濯物も乾かないので近所のコインランドリーに朝6時に出かけたら、何台もの乾燥機が回っていることに驚くやら。

そうこうしているうちにも、コロナの勢いは衰えるどころか、東京は緊急事態宣言下でどうやらオリンピックは開かれることとなり、何とも複雑な夏を迎えることとなった。

粭島での作品展は延期

それとは関係ない?関係なくもない?が、何かと家にいる時間が長くなった私を見て、「どこかで働いてきなさい」という指令がカミさんから下された。どこかでと言われても、いまさら雇ってくれるところもないのだが、カミさんの目論見としては、かねてからお誘いのあった草刈りのバイトに行けということらしい。

草を刈る場所は、高低差10メートル、幅数10メートルほどのノリ面。上り下りするだけでも大変だが、刈り取ったカヤやササの葉は滑りやすく、斜面で足を踏ん張りながらの作業。炎天下、汗の量も半端ではない。幸い雇い主が親しい友人ということに甘えて、「半日しかできないよ」と宣言して始めたが、朝8時から始めてお昼には限界が来る。おまけに刈り終えた斜面からまた順番に草が生えてきて、「終わらない夏」の予感。

肉体労働は汗をかいた分のお給金をもらえるので嫌いではない。「アリとキリギリス」という寓話を思い出す。お金が無くなると肉体労働をするしかなかった。そこはアリ的に生きてきたのだが、人から見れば、やはり絵描きはキリギリスなのかもしれない。つまり私は「アリギリス」? しかし、キリギリスとはギリシャっぽい和名で何とも面白い。

残念だが、この夏に予定していた故郷の粭島(すくもじま)での作品展は延期することにした。もう少しすっきりしないと、小さな島とはいえ、いや小さな島だからこそ人を呼び入れることははばかられる。日々変わる孫の顔が見られないのはちと寂しいが、またカミさんとの2人の暮らしに戻る。刈るのをためらったアザミが夏空に赤い花を咲かせている。(画家)

宇宙に行く意味とは? 立花隆さんと野口聡一さん 《遊民通信》21

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フックン船長のぬいぐるみ返還のためつくば市役所を訪れ記者会見に応じる宇宙飛行士の野口聡一さん=20日、つくば市役所

【コラム・田口哲郎】

前略

去る7月5日、つくば市で宇宙飛行士の野口聡一さんが東京五輪聖火リレー走者を務められました。あの笑顔を見て、私は6月23日に訃報が伝えられた評論家の立花隆さんを思い出していました。

立花さんの追悼番組で野口さんは、『宇宙からの帰還』というNASA(米航空宇宙局)の宇宙飛行士にインタビューした立花さんの本を読んで宇宙を目指したこと、立花さんから宇宙体験を社会の精神性に役立てるよう助言されたことを述べられました。宇宙開発と精神性の組み合わせが意外で、立花さん、野口さんの著作を読んでみました。

『宇宙からの帰還』では、宇宙飛行士たちが宇宙で神秘体験をし、宗教に目覚める話が紹介されています。お遍路で神秘体験をする人がいるように、宇宙でも当然起こりうるわけです。2006年の『中央公論』の立花さんとの対談で、野口さんは「ドラスティックな宗教的な目覚め」はなかったと言っています。でも、宇宙冒険による内面の変容体験はあったとも語っていて、追悼番組で宇宙体験を社会の精神性に役立てたいと述べていました。

どういうことだろうと思い、野口さんの学術論文を読んでみました。2014年の「宇宙空間における重力基準系の変化は人にどのような影響を与えるか:身体定位、認知、対人関係を中心に」は、ISS(国際宇宙ステーション)長期滞在の経験に基づくもので、地上では当然の重力(基準系)がほぼ無い宇宙で人間は安心を得られるのか?が検討されています。

宇宙では上下左右の固定がなくて不安だが、地上にあるようなシガラミもない。無重力状態は国家、民族を相対化し、宗教のような精神性までも相対化するだろうというのです。宇宙で「新しい視座を得て新しい価値観を築き上げ」、地上の人々にもそれを理解してもらうことが大切だと締めくくっています。

野口氏の語り方

米国は人口の8割弱が何らかの信仰有りと回答する宗教国家なので、宇宙飛行士も自らの体験を宗教と結びつけたのでしょう。野口さんは特定の信仰を持っていないようですし、科学者でもあるので、内面的な意識の変容の原因を無重力に求め、変容がなんなのか考えています。論文の冒頭に、人類の宇宙進出の理念と意義を人文・社会科学的立場から理解することが重要、とあります。宇宙開発は確実に科学技術による成果です。

でも、宇宙が前よりも身近になり、今後ますます宇宙旅行が普通になっていくのであれば、宇宙に行く意味を人文社会系の視点で語っていくことは必要になるでしょう。立花さんは科学技術を広く世の中に紹介しましたが、その視点は常に「人間が生きることの意味」にあったので、読者に単なる知識ではなく、哲学的な感動を与えたのです。

国家プロジェクトである宇宙開発について、その成果が強調されても、その意味が語られることはあまりないかもしれません。でも、科学技術が実現させる成果の裏にある「夢」を冒険家である野口さんには今後もっと語ってほしいですね。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

つくば市長の名誉毀損提訴、取り下げ? 《吾妻カガミ》111

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】元つくば市議を名誉毀損で訴えた市長の五十嵐さんが、提訴を取り下げるのではないかとの見方が識者の間に広がっています。昨秋の市長選挙の前に元市議が発行したミニ新聞の記事で名誉を傷付けられたと裁判に持ち込んだ、あの件です。裁判はまだ予備段階ですが、どうも勝ち目がないようだと読んでいるのでしょうか?

ミニ新聞の記事は「市政チェック」

この提訴については、本サイトの記事「つくば市長の五十嵐氏 名誉棄損で元市議を提訴」(2月17日掲載)に詳しく出ています。簡単に言うと、市長選前(6~8月)、元市議の亀山大二郎さんが出したミニ紙「つくば市民の声新聞」の記事(22箇所)によって、市長としての名誉を毀損されたから、その損害(130万円)を賠償せよ―という内容です。

私はミニ新聞の市政監視スタンスに共鳴し、コラム「名誉毀損提訴を笑う」(3月1日掲載)、同「…提訴を検証する」(4月5日掲載)、同「…近く裁判開始」(5月3日掲載)で、五十嵐さんのアクションに疑問を呈しました。

ポイントは4つです。(1) 記事はフェイク(うそ)だとの論述には「はぐらかし」が目立つ、(2) 記事は「市政チェック」であって個人批判ではない、(3) 市長(政治家)たるもの市政批判には「対抗言論」で応ずるべきである、(4) 市長の動きは「言論の自由」を封じるものであり看過できない―。詳しくは青色のリンク先をご覧ください。

試合開始前にタオルを投げないで!

現時点で裁判は本格的なファイトにはなっておりません。私、最初はこの名誉毀損提訴に違和感を覚えていましたが、裁判の過程で五十嵐市政の実態、五十嵐市長の政治家としての資質が明らかになるのではないかと、今は原告と被告のファイトを楽しみにしています。五十嵐さんは試合前にタオルを投げるようなことをせず、リングに上がってください。

先の3コラムでは、前米大統領トランプさんのように記事を「フェイクだ、フェイクだ」と連呼した箇所のうち、重要度が高い4カ所について点検しました。

その結果、目玉公約の「総合運動公園用地返還」は「返還交渉」に過ぎなかったことが明らかになりました。また、その「返還交渉」も市長が出向いたのはたった2回だったことも分かりました。さらに、県の補助金がもらえなかった「給食センター建設」では市長の政治力不足が判明しました。もうひとつ、1期中に市職員が大幅に増え「行政改革」がお留守だったことも知れました。

ミニ新聞の記事はフェイクどころか、実に的を突いていたわけです。こういったことを考えると、裁判は名誉毀損を立証する場というより、五十嵐市政の出来栄え、市長の適性を浮かび上がらせる場になる可能性があります。「取り下げ?」との臆測は、「裁判はやらない方が賢いのではないか」との心遣いなのかもしれません。(経済ジャーナリスト)

未確認飛行物体と遭遇 《食う寝る宇宙》89

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【コラム・玉置晋】「ブブブブブーン」。犬のべんぞうさんと一緒に散歩していると、レンコン畑から奇妙な音を発する未確認飛行物体と遭遇しました。僕が住む茨城県土浦市はレンコンの出荷が日本一。家の近所にも広いレンコン畑があって、初夏にはハスの葉っぱが水面から出て、白やピンクのハスの花が咲き始めています。

そんな中から聞こえてくる異様な音に、べんぞうさんは怖がって、アスファルトにお尻をペタンとつけて、歩いてくれません。すると、遠くから「歩行者あり!」と、手を挙げて注意を喚起する方がいました。その方から数十メートル離れたレンコン畑の対面には、リモコンをもって何かを操作する人がいました。

そう、「ドローン」です。大きさはおよそ1.5メートル×1.5メートルと大型機です。ドローンのお腹には肥料が搭載されていて、広大なレンコン畑に散布していたのです。

ドローンとGPSと宇宙天気

実は、僕は少し前にドローンの操縦を習いました。それでわかったことは、風があるときにドローンが流されてしまうので、安定した操縦をするのは簡単ではないということです。そこで活躍するのが、GPS(グローバル・ポジショニング・システム)です。

複数の人工衛星から発せられた測位信号をドローンが受信して、自分の位置を把握します。ドローンが自分の位置を保持するように、自律的に制御してくれます。通常はこの機能をオンして作業を行います。

よって、ドローンは完全にGPSに依存した道具であるといえます。そして、GPSを脅かすのが宇宙天気の嵐の一つ、電離層の嵐です。電離層は、高度50キロ~500キロに広がる電子密度の高い領域です。ラジオで声が聞こえるのは、遠くの放送局から発せられた電波が電離層で反射して届くからです。

一方で、人工衛星から発せられたGPSの電波は、電離層で反射せずに、突き抜けて宇宙から地上に到達する特性を持っています。しかし、地球の大気循環や太陽活動により電離層の電子密度が増減することがあって、GPS電波の通りを悪くすることがあります。

そうしますと、地上のドローンは正確な位置情報がわからなくなっていまい、操縦に支障をきたす恐れがあります。ドローンの普及により、宇宙天気の重要性はより大きくなっています。(宇宙天気防災研究者)

難しいという表現 《続・気軽にSOS》89

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【コラム・浅井和幸】私は、様々な悩みを持ち相談に来られる方に日々対応しています。その来談者に対し、あまりに難しい顔をしていたり、解決が難しい悩みですねと軽々しく言ったりはできません。必要以上に苦しめてしまうかもしれませんからね。もちろん、軽々しく扱うものではありませんから、どれぐらい難しい問題なのか、こちらが感じ取ることは大切です。

簡単な問題であれば、来談者は労力を割いて相談には来ません。持ち込まれる問題は全て難しいものです。少なくても来談者にとっては難しい問題であり、何かしらの支障が出ているわけです。

それに対し、相談を受ける側―カウンセラーとか支援者―も、日々、来談者と一緒に悩んで、どうにか解決できないかと考えています。私は、この支援を行っている側からの相談を受けることもあります。そして、支援者とのコミュニケーションの中で違和感があり、「難しい」という言葉を使わなくなりました。

大げさに表現すると、このような会話になってしまうのです。支援者「…という問題に対応しているのですが、何か対処法はありますか? 難しいですか?」。浅井「難しいですね。だから、いろいろ対処法を考えて…」。支援者「ですよね。浅井さんでも、やっぱり何も出来ないですよね」。

このような会話になってしまうのは、私が使っている「難しい」と、一般社会やこの支援者が使っている「難しい」という概念に大きな開きがあるためです。私は「簡単ではない」とか「すぐには答えが出ない」事柄を表現するときに、「難しい」という言葉を使います。(「難しい」「簡単」などの評価は、次の対処のためにするものだという意識が強いです。さらに工夫を考えて対処が必要だという意味と捉えてもよいでしょう)

シビアな場面で曖昧な表現は誤解を生む

しかし、違和感を覚えるときは、「難しい」とはできないこと、不可能なことを指すことが多いのです。その方たちは意識していないでしょうが、「簡単」はできること、「難しい」はできないことという使い方をしているのです。そして、「難しい」ことは永遠に「難しい」ことで、この先も対処不可能だという思い込みがあるのかもしれません。

普段の会話では、「できない」というと角が立つので、「難しい」と表現して、お互いが傷つかない知恵なのかもしれません。しかし、シビアな場面では、曖昧な表現は誤解を生みやすいものです。うまくいっているときは、曖昧にぼかして、違いはむしろ感じないようにしたほうが、仲間意識を損なわずに済むというメリットがあります。しかし、問題に対処するときは、すれ違っているところをより詳細に明確に感じ、考える必要があるわけです。

うまくいっていないときは、より具体的に、より丁寧に言葉を使う必要があります。それは伝えるときも、聞くときも、どちらも必要です。伝える側と聞く側は、すぐに入れ替わるのですから。(精神保健福祉士)

学校に通えない子どもがいる日本 《電動車いすから見た景色》20

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【コラム・川端舞】人工呼吸器など医療的ケアの必要な子どもとその家族に対する支援法が先の国会で成立した(6月11日)。これにより、小中学校や特別支援学校の設置者は、在籍する医療的ケア児に対し、適切な支援を行う責務を有することになった。

このような流れの中、各メディアで医療的ケア児の現状が取り上げられるようになった。普段、(障害のある者と障害のない者が共に学ぶ)インクルーシブ教育について考えることも多い私だが、恥ずかしながら、今回、一連の報道を見る中で、特別支援学校にも通えない医療的ケア児が少なくない現状を初めて知った。

学校に通えない障害児に対しては、特別支援学校の教員が障害児の家庭などに訪問し、週3回、1回2時間を標準とした訪問教育が行われる。大学時代に特別支援教育について学んだ私は、日本の教育の中に訪問教育が存在することはわかっていたが、なぜ学校に通えず、週3回しか授業を受けられない障害児がいるのか、深く考えもしなかった。

お𠮟りを受けるだろうが、大学時代の私は「特別支援学校にも通えないほど、障害の重い子どももいるのだな」くらいの浅はかな考えしか浮かばなかった。

しかし今回の報道で、特別支援学校の通学バスに看護師が同乗しないために、バスに乗れず、保護者が送迎しないと特別支援学校に通えない場合もあること、単に学校に通う手段がないから、家で訪問教育を受けている障害児がいることを知った。

身近に当事者がいるかどうか

もちろん病気の急性期などで、病室から出られない子どももいるだろう。しかし、通学バスの中で医療的ケアができないために通学できないのは、子ども自身の問題ではなく、通学バス乗車中に医療的ケアができる環境がない社会的な問題だ。

おそらく大学時代の私は、医療的ケアを行っている現場を見たことがなく、医療的ケアが必要な人に会ったこともなかったため、バカ正直に「医療的ケア児は外出が難しいだろう」と思っていたかもしれない。しかし、痰(たん)吸引や人工呼吸器などの医療的ケアを介助者から受けながら、親元を離れて1人暮らしをし、車や電車で当たり前に外出している障害者を身近に知っている今なら、研修を受けた介助者や看護師が付き添えば、医療的ケア児でも当たり前に通学できるのではないかと疑問に思う。

医療的ケア者が身近にいる私だからできる取材もある。つくば市周辺の医療的ケア児の状況や、今回の医療的ケア児支援法によりどう変わるのか、長い目で取材していきたい。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

湖畔の「かすみキッチン」《ご飯は世界を救う》37

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】7月から、霞ケ浦では帆引き船の操業があります。出航場所の一つは、かすみがうら市の歩崎公園横の志戸崎(しとざき)漁港です。今回は、そこを見たいと思いお出かけ。

歩崎公園の周辺は、ナショナルサイクルロード指定の「つくば霞ケ浦りんりんロード」が整備されています。貸自転車なども設置された休憩場所もあります。その2階が「かすみキッチン」。

数年前、この建物のリメイクの絵(建築パース)の仕事を受けました。その数年後、そこの駐車場トイレの全面改修完成予想図も描かせていただきました。2件とも別の設計事務所でした。

どちらもとてもキレイに仕上がっており、以前行ったときより、コロナ禍中にもかかわらず、多くの人が訪れていました。建物の美しさは重要ですね。まさしく「アートは世界を救う」。

霞ケ浦と筑波山

観光物産館「こいこい」

歩崎公園はかすみがうら市。そこから、「霞ケ浦大橋」を渡ると、行方市です。渡って直ぐの場所に、観光物産館「こいこい」があります。実は、18年ほど前、CG&現場写真の合成パースの仕事をやりました。

そのときはコンペでしたが、取ることができ現在に至ります。農産物、湖の恩恵を受けたお魚、珍しい鯉こくなど、おいしいものをたくさん売っており、人気のお店になっています。

ここには「虹の塔」という高さ60メートルの塔があり、360度パノラマビュー。霞ヶ浦、筑波山を一望できます。高い場所が大好きな私にとっては、よいスケッチ場所です。

また、霞ケ浦の岸から、かわいい灯台が出ていました。ミニサイズ、高さ2.7メートル。こちらの灯台の所有者は独立行政法人「水資源機構」ですが、現在は使用されていないそうです。(イラストレーター)

ナショナルサイクリングロード

「地球1個分の経済社会」の実現 《ハチドリ暮らし》3

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ジャガイモの収穫

【コラム・山口京子】「SDGs」というアルファベットをよく目にする。2015年に国連で採択された「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)の略だと数年前に知った。「今のままだと人間社会は持続不可能で、どこかでクラッシュする」という危機意識が根底にあるからこそ、「持続可能な社会」の標榜(ひょうぼう)なのだろう。

SDGsは「誰1人取り残さない」「地球1個分の経済社会」の実現という理念を持ち、「世界を持続可能な、かつ強くしなやかな道筋に移行させる変革をしていくこと」が目的のようだ。17のゴールと169のターゲット、262の指標が明記されている。

17のゴールの1番目は「貧困をなくす」。2020年に広がった新型コロナ感染症によって、貧困化は国内外でより進み、一方で富裕層は利益を上げているという。世界の富がどうなっているのか、「世界の名目GDP」(出典・国際通貨基金=IMF)を調べてみた。

2020年の世界の名目GDP総額は84兆4393億USドル。1位が米国で全体の約25%、2位が中国で約17%、3位が日本で約6%。この3カ国だけで48%にも上る。1人当たりGDPは、米国は5位で6万3415USドル、中国は61位で1万0483USドル、日本は23位で4万0146USドル。ちなみに、対象国192カ国の真ん中(96番目)は南アフリカで5067USドル。

GDP総額を世界の人口約78億人で割ると、1人当たり1.1万USドル。この数字を見ると、自分は使いすぎているのか、お金がかかる生活様式を選んでいるのではないかと思わざるを得ない。

日本の資源消費は地球2.8個分

考えさせられたのは、「地球1個分の経済社会」の形はどのようになるのだろうかということ。「グローバル・フットプリント・ネットワーク」によると、世界の全人口が米国レベルの資源消費をすると、地球は約5個、日本レベルなら2.8個、東チィモールレベルでは0.3個必要という。

SDGsの本質的な課題として、「世界の資源消費の総量を減らすこと」「国際的にも国内的にも適正な分配がされること」を指摘する専門家がいる。それなしにはSDGsは実現できないとも…。

高度成長期から今まで、土に還らないものをたくさん生産、消費、廃棄してきた。「土に還らないものは生産禁止」なんていう法律はできないのかしら。これからの技術に期待するよりも、今できることを実行した方が穏やかに暮らせるのではないかしら。

自分の手で掘ったジャガイモはおいしかった。ほんの少しのジャガイモだから、できたことなのだけれど…。(消費生活アドバイザー)