土曜日, 5月 24, 2025
ホーム ブログ ページ 47

「ボーン ディス ウェイ」 《続・平熱日記》89

0

【コラム・斉藤裕之】「先生、どうやって学校に来てるんですか」「車」。すると隣の男子がすかさず、「軽トラ!」というツッコミ。春先に買った中古の軽トラはその後期待通りの活躍をしているのだが、実はもうひとつの役割があったのだ。「実はねえ、長女が子供を産むためにうちに帰ってきているものだから、いつも乗っている乗用車を娘夫婦に貸しているんだよ。それにしても、なんで私が軽トラで来ているのを知ってるの?」「だって見たもん!」

別に隠すこともないが、冷やかされるのも面倒くさいと思って、生徒たちが大方登校し終わったころを見計らって、軽トラで校門を通過するようにしていたのだが…。しかし、たまたま遅刻気味のこの生徒に目撃されていて、「軽トラ先生!」と冷やかされるはめになった。

高校生だったころ、古典のK先生はセピア色の軽自動車に乗って学校に来ていた。先生のご自宅の近所に住む合田君は、「K先生の家は米屋で、あの軽自動車でよく米を配達するんよ」と教えてくれた。カラカラというやや非力なエンジン音が聞こえると「お、K先生の米屋カーじゃ!」と冷やかしていた。先生はそんなことを気にもなさらず、さっそうとしておられた。余談だが、K先生のご子息が1学年下にいて、確か現役で赤門をくぐられた。

それから、もう1人思い出すのが筑波大学の芸術系のある先生。とてもきさくでユーモアのセンスに富んだ方で、教え子の方々からも厚い信頼を得ておられたようだ。ある日、その先生がやや薄汚れた軽自動車から降りて来られるのを目撃した。地位も名誉もあるのに、メンツや外聞を気にしない。そんな先達のたくましい姿を思い出しつつも、「でもやっぱ、さすがに軽トラはねえな」。なにしろ、私の見てくれは明らかに工事関係者。

チャイルドシートが届いた

さて、大きな荷物が届いた。チャイルドシートだ。若い夫婦は早速それを私の車に取り付けた。もうすぐこのシートに乗って赤ん坊が帰ってくる。とにかく元気な子であってほしいと願うばかりだが。

登校時間の校門には生徒を乗せてくる車が次々とやって来る。国産車に交じって、高級な欧州車も少なくない。その間隙をついて、その日も軽トラで校門を通過。梅雨の晴れ間で、朝から気象予報士が「洗濯日和」を連呼していた。午後1時過ぎ。帝王切開にて3700グラムの男児を無事に出産という知らせ。すぐに動画が届いた。元気な産声を上げる立派な赤子と安心したような顔の長女。「でかした!」

待てよ、軽トラにはチャイルドシート付けられないなのかなあ。軽トラのモノラルラヂオから、ややこもり気味にレディ・ガガの曲が流れた。「ボーン ディス ウェイ」。(画家)

立花隆と橘孝三郎 《邑から日本を見る》91

0

【コラム・先﨑千尋】「反骨精神持つ水戸っぽ」「知の巨人」と言われた立花隆(本名:橘隆志)さんが4月30日に80歳で亡くなった。長崎市で生まれ、親の仕事の関係で中国に移り、戦後は水戸市で育った。2年時に水戸一高から都立上野高校へ転校したので一緒に学んだことはないが、立花さんは元水戸市長の佐川一信さんと仲が良かったようで、本とモノ書きが大好きな私は、レベルは格段に違っても勝手に先輩、兄貴分だと思い込んでいる。

よく知られているように、立花さんを一躍有名にしたのは、1974年に月刊『文藝春秋』に「田中角栄研究-その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相が失脚するきっかけを作ったことだ。ウィキペディアでは、立花さんの職業を「ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家」としているが、そういう一般的な分類ではとらえ切れない人だった。

立花さんの著作は、田中角栄や日本共産党、農協、天皇と東大、宇宙、脳死、インターネットなどあらゆる分野にまたがり、私にはとても読み切れない。自分ががんと診断され、手術を受けたときは、そのことすら叙述の対象とした。『立花隆の書棚』(中央公論新社)を見ると、歴史、政治、文学、聖書、哲学、自然科学など10万冊を超える蔵書は、「すごい!」の一語に尽きる。関心のあるテーマについて徹底的に調査、分析して、社会に伝える手法を採った。万巻の書はそのために必要であり、それらを丹念に読み込んだ。

現在、佐川文庫を主宰する佐川一信さんの姉、千鶴さんは「茨城新聞」の取材に「本が体にくっついているような子だった」と述べているが、その本の読み方も、書棚の端から順に全部を読んでいたという。同紙には「(水戸市の)川又書店に弁当持参で行った」ということも書いてあり、本に対する執着は並大抵、尋常ではなかったようだ。知りたいという欲求は、性欲や食欲と並ぶ重要な本能的欲求だと位置づけている。

歴史に呼ばれて生まれてきた

立花さんの逝去に対しては多くの人が追悼文を書いているが、その中では『サンデー毎日』7月11日号の保阪正康氏の「立花隆は歴史に呼ばれてこの世に生まれてきた」がよかった。「(日本の運命は)ほとんど滅びるのが確実」という立花さんの見方を紹介し、同世代の責任として「自らの世代が背負い込んだこの時代の人類史上の問題を抽出し、次代の人たちに書籍として残す。人間本来の存在を、歴史上の哲学者や思想家の解明を整理し、新しい視点を浮かび上がらせて、人類上の方向性を示す」ことを課題とした、と書いている。モノを書く一人として肝に銘じなければ、と思う。

右翼の思想家・橘孝三郎は、立花さんの父親のいとこで、ごく近い関係だ。だが、千鶴さんは、立花さんとは孝三郎や愛郷塾の話はタブーだったと言う。先の『立花隆の本棚』には、明治維新や二・二六事件の本は出てくるが、五・一五事件を含めて愛郷塾や孝三郎の本は少ない。「ぼくの親戚には五・一五事件の関係者がいます。橘孝三郎といって」とあるのみだ(527ページ)。保阪氏の追悼文には「農本主義者の橘孝三郎」には触れているが、立花隆との関係については書かれていない。他の人の評伝を見ても2人の関係を誰も書かない。なぜなのか、私には分からない。この際、改めて孝三郎に光を当ててみるのも面白いと思う。(元瓜連町長)

「つくバブル」崩壊は杞憂だ 《茨城の創生を考える》19

0
ダイヤモンド筑波(筑西市)

【コラム・中尾隆友】つくば市の不動産業や住宅販売業は、もともと全国でも屈指の好環境にある。住環境に優れ、東京都心に1時間で行けるメリットが大きいからだ。この10年間で、TXつくば駅や研究学園駅から徒歩30分圏内には、手ごろな価格で購入できる住宅用地はほとんどなくなった。

それがコロナ禍によって、いっそう好環境に拍車がかかっている。テレワークの広がりによって、首都圏から地方へ移住するハードルが下がっているのだ。大手企業やベンチャー企業では、場所にとらわれない働き方を推奨しているところが多い。

その結果として、つくば駅や研究学園駅から徒歩60分かかる区画整理地でも、万博記念公園駅やみどりの駅に近い分譲地でも、住宅用地が飛ぶように売れている。

不動産業や住宅販売業に従事する人々の最大の関心事は、「つくバブル」がいつはじけるのかということだ。こんな異常な状態が続くわけがないと考えている人が多いのは、肌感覚でも理解できる。

テレワーク導入企業は今後も増える

しかし私は、「つくバブル」は意外にはじけないのではないかと考えている。日本の雇用形態がこれから10年、20年単位の時間をかけて、ジョブ型(職務内容や労働時間を定め、成果で評価する雇用形態)に切り替わっていかざるをえないからだ。

日本企業の圧倒的多数が採用するメンバーシップ型(職務に限定がない雇用形態)では、ジョブ型を採用した企業と比べて、従業員のモチベーション低下が著しい。在宅勤務でも十分に評価されるテレワークを導入する企業は、これからも増え続けていくだろう。

そういった意味では、つくばのポテンシャルは下がりにくい。かつてのバブル崩壊のように、土地価格が急落するという心配は杞憂(きゆう)なのではないだろうか。(経営アドバイザー)

今度は関鉄竜ケ崎線に乗ってみた 《茨城鉄道物語》13

0
竜ケ崎線の車両

【コラム・塚本一也】県南地域でかねてから気になる鉄道がありました。それは、関東鉄道の竜ケ崎線です。常磐線の龍ケ崎市駅(竜ケ崎線の名称は佐貫駅)で接続し、総延長4.5キロ、駅数3駅のローカル線です。一体どんな経緯で開業し、どんな人たちが利用しているのか、大変興味がありました。竜ケ崎線は茨城県最古の私鉄であり、1900年に開業し、120周年を迎えました。

そもそも常磐線が開通した1896年時には、竜ケ崎村は仙台伊達藩の領地であった歴史などから、すでに市街地として発展していました。それゆえに、常磐炭鉱の石炭を運ぶ常磐線は、地元との調整やその線形などを考慮し、今の龍ケ崎市の中心部を外れたところを通過することになりました。

しかし、鉄道輸送の必要性を感じた地元有志らの尽力により、竜ケ崎線は4年という短期間で、当時としては珍しい客車を主体とした路線として開通しました。その後、稲敷から鹿島方面への延伸計画もあったそうですが、世界恐慌により、とん挫したということです。

このように長い歴史を持つ竜ケ崎線ではありますが、近年は利用者の減少が課題であり、特に昨年は、コロナの影響により旅客収入の減収に一層拍車がかかったそうです。

ほのぼのとした空気が漂うローカル線

休日の昼、体験乗車をしてきました。交通系のICカードが使えたのは、さすが首都圏を走る鉄道と感じましたが、トイレなどもきれいに整備されており、企業努力の跡がうかがえました。車両は1両編成で、10人ぐらいの乗客がいました。鉄道マニアらしい子供を連れた家族連れもおり、結構、注目されていることに感心しました。

中でも注目すべきは、車両のつり革に、龍ケ崎名物のコロッケがキーホルダーのように飾られていたことです。家族連れも珍しそうに写真を撮っていました。竜ケ崎線が地域に愛され、それに応えるかのように、地域の名産品とコラボしているのでしょうか。なかなか粋なことをするなと、感心してしまいました。

コロナによって、あらゆる旅客輸送事業が痛手を被っていますが、どこかほのぼのとした空気が漂うローカル線に、久しぶりに癒された感じがしました。(一級建築士)

竜ケ崎線のコロッケ手すり

 

つくばセンタービルで「ダイ・ハード」 《映画探偵団》45

0

【コラム・冠木新市】ジョン・マクティアナン監督の「ダイ・ハード」(1988)が無性に見たくなった。ニューヨーク市警のマクレーン刑事(ブルース・ウィリス)は、クリスマスにロサンゼルスの超高層ビルで働く妻のもとにやって来る。そこで左翼テロリストを装う強盗チームと遭遇し、妻と人質を助けるため、ビル内を這いずり回り、時々ぼやきながらも敵を1人ずつ倒していく。犯人の銃弾で粉々になった窓ガラスを裸足で踏み血だらけになったり、白のランニングシャツが黒くなるまでしぶとく戦う。

そして私は「ダイ・ハード」を見ると、なぜかジョン・フランケンハイマー監督の「大列車作戦」(1964)を思い出してしまう。

パリを占領していたナチスドイツが本国に撤退するにあたり、美術愛好家の将校が、美術館にあるルノワール、ゴーギヤン、ゴッホ、マネ、ピカソなどの名画を列車に積み持ち帰ろうとする。それをフランスの鉄道員ラビッシュ(バート・ランカスター)らは、「たかが絵を守るために」と一度は疑問に思うが、結局は「フランスの誇りのために」と命を賭け、取り戻す行動を開始する。仲間は倒されていくが、ラビッシュは油と汗まみれになりながらも最後まで戦い、絵を取り戻す。

「ダイ・ハード」と「大列車作戦」の主人公はよく似ている。

センター広場にエスカレーターは必要か

6月12日。つくばセンター研究会は講演&シンポジウムを27日に開催することを決めた。テーマは「緊急討論 つくばセンター広場にエスカレーターは必要か」。開催まで2週間しかない。翌日からゲストの交渉とチラシ制作(デザイン・三浦一憲、写真・斎藤さだむ)が始まる。

6月17日。1500枚のチラシが印刷所から届く。早速、メンバーに手分けして配布。

6月18日。私は市役所関係(秘書課、広報戦略課、都市計画課、文化芸術課、文化財課、生涯学習課)にチラシを配布。その後、つくばセンター地区活性化協議会関係者に配布しながら会話を交わし、数々の情報を得た。15時半、研究交流センター内の記者クラブで共同代表の三浦氏と会見(5社が集まる)。

6月19日。各地の地域交流センターを回り、チラシ配布。締めくくりは「まちなかデザイン」。専務に「ぜひ出席を」と参加要請した。

6月27日。台風の進路が変わり、雨の予報ははずれた。参加者は60名(市議8名、県議2名を含む)。エスカレーター賛成派にも呼び掛けたが、参加は少なかった。鵜沢隆先生の講演、加藤研先生と六角美瑠先生の話は好評だった。

参加者の発言から教えられたこともあった。「リニューアルのパブリックコメントは実施されていない」「昨年末のオープンハウスは途中で打ち切られた」などだ。

今回はあえてエスカレーターに焦点を当てたのだが、市の改造計画では、ノバホール横の階段は半分削られてスロープになり、広場の窓ガラスは取り替えられてしまう。さらに、ノバホールの正面玄関の通路は変形し、狭くなる。それらを考えると、イベントの反応がよかったなどと安心してはいられないのだ。

最後まで諦めないしぶとさを学ぶ

だからなのか、「ダイ・ハード」の、ビルを占領する金目当ての犯人たちをやっつけるマクレーンを見て、最後まで諦めないしぶとさを思い起こそうとしたわけだ。

7月3日。つくばセンター研究会に新しく参加した方から「文化財を守ることを訴えるだけでは、文化財とも思っていない人たちとの溝は埋まらないのでは」との問題提起があり、次の企画が検討された。

7月5日。ノバホール前。人々の密集する中で、東京オリンピック聖火リレーが行われた。今後、市も予算を使い、センタービル改造計画のイメージアップをはかっていくことだろう。こちらは、泥くさく地道にセンタービルでの「ダイ・ハード」を続けるつもりである。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

「風立ちぬ」考 その1 《遊民通信》20

0

【コラム・田口哲郎】

前略

「風立ちぬ」は長らく堀辰雄の小説を指すものでした。しかし、2013年7月にスタジオジブリ制作のアニメ映画「風立ちぬ」が公開されると、どちらの「風立ちぬ」なのか訊(き)かねば分からなくなりました。というよりも宮崎駿氏が最後の長編アニメと宣言した記念碑的作品に意外な題名をつけたので、「風立ちぬ」は知名度を上げ、堀辰雄の名作を忘却の淵から掬(すく)い出した感すらあります。

高橋源一郎氏が指摘していますが、アニメの方を指すのが現代日本では一般的になりつつあると言えるかもしれません。実際、アニメは小説の映画化というわけではないですし、同じ題名でも内容が違うから区別して呼ぶ方がよいかもしれません。そういう意味でアニメ「風立ちぬ」は宮崎駿の「風立ちぬ」です。

アニメは原作と違って八ケ岳山麓のサナトリウムにおける愛の物語ではなく、零戦の設計者堀越二郎の半生が主題となっています。関東大震災から始まり、太平洋戦争に至る社会変動の物々しいうごめきのうちに、美しい飛行機を造りたいと望む堀越二郎の奮闘が描かれます。

この堀越の伝記に堀の「風立ちぬ」と「菜穂子」が組み込まれている。堀越の妻が菜穂子になっていて、物語の舞台は堀越が勤務している三菱内燃機製造がある名古屋です。小説とアニメの内容の違いはこれ以上言いません。ただ、異なる物語がひとつの名に結びつけられるときに現れる奇妙さを看過するわけにはいきません。

高橋氏の言葉を借りましょう。「宮崎駿は、この設計者・堀越二郎の物語を、なぜ、堀辰雄の物語に、『強引に』接続したのだろうか」(「ニッポンの小説・第三部 第十七回『風立ちぬ』を『読む』」)。この謎を解く手掛かりは関東大震災・戦争のようです。

それぞれの「風立ちぬ」

宮崎氏は「文藝春秋」2013年8月号で、「風立ちぬ」公開に先立って半藤利一氏と記念対談をしています。そのタイトルは「『風立ちぬ』戦争と日本人」。対談は映画のパンフレットやポスターにあった文句「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」的な内容になると思いきや、宮崎氏と半藤氏の戦争体験や家族の思い出が語られ、堀越二郎の零戦の話はまずまずあるとして、堀辰雄の話題はほんのわずかしかありません。

「堀辰雄が戦時中に書いたものを読むと、戦争のせの字もないし、およそ政治的なことはほとんど文章中に書かなかったけれど、やはり、あの時代を真剣に生き、ちゃんと考えていたんだな、と思ったんです」と宮崎氏は語ります。堀は時代性や社会性を作品に反映させていないという評価です。

高橋氏も同様のことを指摘している。彼らは堀の小説が社会性を全く持たないがゆえに敬遠していたけれども、ずっと無視できずにいたと言うのです。宮崎氏と高橋氏を結びつけた小説「風立ちぬ」の魅力は何なのでしょうか? まず、先ほど述べた震災と戦争が関わっています。詳しくは次回。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

コロナワクチン接種「騒動」《くずかごの唄》88

0

【コラム・奥井登美子】コロナワクチンで、町の人たちは促進派と拒否派と分かれてしまっている。

Aさんは、ワクチン接種を息子さんに報告したら「死んでもいいのか。僕は知らないぞ」と、ものすごい勢いで怒られてしまったという。何と言って息子を説得したらいいか途方にくれているらしい。ワクチン拒否派の中には、原理はよく解らないくせに、供給する政治・行政の実力が不満で怒りを爆発させている人もいるらしい。

また、ワクチンそのものが大嫌いという人もいる。江戸時代、ジェンナーの牛痘(ぎゅうとう)を広めようとした緒方洪庵らの蘭学医に対して、「牛痘をしたら牛になる」と言って、怖がった人たちと似たような人が今もいることがわかって、おかしくなってしまった。

「今は何を言ってもだめ、聞く耳をもたない。何も言わないで、コロナが下火になってきたら、ワクチンが効いてよかった、といってやればいい」。

「カロナール」が消えた!

Bさんは副反応の心配性。副反応が出たらどうしようと、接種しないうちから心配で、夜も眠れないという。近所の医者に相談したら「熱が出たらカロナールを処方するから飲めば治る」と言われて少し安心したけれど、薬を出してはくれなかった。カロナール成分の一般薬が薬局にあれば、接種前に用意して持っていたいと言う。

カロナールの成分はアセトアミノフェン。大正8年にスペイン風邪が流行したときも、この薬を使った。いわば昔からある薬だ。

最近、不思議なことに、一般薬として売れる形のカロナールが品切れになっている。処方薬は在庫があるので、処方箋調剤には差し支えないが、世の中にBさんみたいな、熱も出ていないのに薬を用意したい心配性の人がたくさんいるらしく、買い占めが横行しているという。おかしな世の中だ。

「かかりつけ医」って何?

Cさんは健康で、医者にかかったことがない。ワクチン説明書の中の「かかりつけ医」という言葉がピンとこないらしい。

「接種してくれる医院の名簿を見て、お宅の家から一番近くて、すぐに行ける医院に電話して予約すればいいのよ。近ければ熱が出たときでも安心でしょ」

「なーんだ。そんなことでいいのなら、やってみるわ」

「インフルエンザのワクチンのときと同じ。考え過ぎると面倒だから、気楽にいきましょう」(随筆家、薬剤師)

ロシアは中国に押しつぶされるのか 《雑記録》25

0

【コラム・瀧田薫】ソ連邦が崩壊(1991年)してから、今年で約30年が経過した。この間、ロシアは、自国の求心力を保とうと必死の努力を傾け、衰退と分裂の時代をなんとか乗り切ってきた。しかし成長と発展のトレンドはまだ見えてこない。「ロシアの現状は、外交面と軍事面では超大国であり続けているが、それ以外の領域では低開発国でしかない」というのが研究者大方のロシア評である。

ソ連崩壊前の1988年、ソ連経済は中国経済の約3倍の規模であった。しかし今日(2020年)のGDPは中国のそれの約10分の1でしかない。

6月11日、英国・コーンウォールで開かれた「2021年G7サミット」は、西側諸国が現在の中国とロシアをどう評価し、どう扱おうとしているか、検証する絶好の機会となった。今回会議の最重要テーマが「中国の覇権主義にどう対応するか」にあったことは明らかだ。ロシアについては、欧州諸国がその軍事的脅威に言及し、バイデン米大統領に認識を共有するよう要請したが、主要議題になることはなかった。

バイデン氏は、G7閉会後の6月16日、スイス・ジュネーブに立ち寄り、ロシアのプーチン大統領と首脳会談をもった。この会談はバイデン氏の方から持ち掛け、プーチン氏がその誘いに応じたものである。この流れからすれば、バイデン氏がロシアを重視しているかに見える。しかし、会談後の記者会見でバイデン氏が明らかにしたのは、「中国との覇権争いに勝つための一つの条件として、ロシアを重視する」との見解であった。

米ロ首脳ジュネーブ会談の読み方

バイデン氏は、対ロ関係において目指すのは対立の解消ではなく、対立を管理することだと言い、米国の優先事項と価値観の明確な説明ができれば、会談は成功だとも述べた。その上で「ロシアは中国に押しつぶされそうになっている」とのコメントで記者会見を締めくくった。明らかに、中露の連携にくさびを打ち込むための言葉である。

一方のプーチン氏は、別に開かれた記者会見の冒頭、米露関係について「家族のような信頼関係はあり得ないが、会談は極めて建設的だった」と評価した。ロシア国内には、プーチン政権が米国との対立を深めたことで、ロシアの中国依存度が過度なものになることを懸念する向きがある。

プーチン氏にも、米中の覇権争いに割って入ることができないもどかしさを抱えながら、せめて米中両国とロシアとの間の均衡を維持したいとの思いがあり、それが今回の会談に応じる動機ともなった。ともあれ、プーチン氏にとって、今回のバイデン氏との会談そしてバイデン氏のコメントは屈辱的なものであったろう。

プーチン氏は記者会見を「米露関係の将来に幻想をもっていないし、そんな幻想があるはずもない」という厳しい言葉で締めくくった。彼の矜持(きょうじ)が言わせたこのコメントは、プーチン・ロシアの権威主義的体質がさらに高じることを予感させるものに思えた。(茨城キリスト教大学名誉教授)

つくば市議の施設観と文化センス 《吾妻カガミ》110

0
つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくばセンタービルの中央広場にエスカレーターを付けるべきか、付けるのであれば1基でよいか、2基にすべきか。こういった議論が本サイトで盛り上がっています。市の2基設置案に対し、市議や市民から「いらない」「1基でよい」といった声が多く出たことから、市は「まず1基、もう1基は改めて検討」という妥協案で幕引きを図りたいようです。でも、議論はまだまだ続くのではないでしょうか。

この論争について、コラム「中心地区再生計画 出だしでつまずき」(5月17日掲載)の中で、私は「深地下のTX秋葉原駅にはエスカレーターは絶対必要ですが、センター広場にはどうでしょうか」とコメント。控えめに疑問を呈しました。しかし、喧々諤々(けんけんがくかく)の議論になってきたこともあり、少し頭を整理しておきたいと思います。

「広場にエスカレーター」の是非

議論は大きく2つに分けられます。1つは、エスカレーターが2階高架歩道と1階凹型広場をつなぐ設備として必要か否か、という機能面の議論です。TX秋葉原駅のように地下数階と地上をつなぎ、多くの人を混乱なく運ぶのには必要な装置ですが、歩道と広場の行き来には「いらない」でしょう。また、百貨店のように快適に買い物をしてもらう商業施設には必要でしょうが、広場=公園には「いらない」でしょう。

もう1つは、磯崎新さんが設計したセンター広場は文化遺産だから、電動自動階段を設けるのは学園都市の名所を壊すようなものだ、いや文化より利便性だ、という文化面の議論です。どちらかというと私には苦手な分野ですが、観光資源として「いじらない」方がよいのではないしょうか。

加えて、「センタービル改修めぐり市民団体討論」(6月27日掲載)中で紹介された加藤研さん(筑波大助教)の発言を読み、広場には思想性もあることを知りました。「国家がつくった都市の中心をあえて空洞にしたのは、痛烈な筑波研究学園都市批判があった」と。センター広場には、市民に絶えざる自省を促すメッセージが込められているわけです。

その広場にエスカレーターを付けることは、名画に朱の線を勝手に入れるとか、思索の場に不釣り合いな仕掛けを置くようなもの? それでは、文化や哲学に弱い私も不要と言わざるを得ません。

市議さんの「感度」を勝手に点検

各市議はどう考えているのか、「エスカレーター計画で市議会」(6月3日掲載)を取材した記者に一覧表を作ってもらいました(会派、敬称略)。

▽意見を表明せず:山中八策の会=塩田尚

▽2基が妥当だが1基でもよい:つくば自民党・新しい風=黒田健祐、長塚俊宏、神谷大蔵、小久保貴史、五頭泰誠、ヘイズ・ジョン、久保谷孝夫

▽1基でよい:つくば・市民ネットワーク=小森谷さやか、川村直子、あさのえくこ、皆川幸枝/創生クラブ=高野文男、小村政文、中村重雄/清郷会=木村清隆/つくばチェンジチャレンジ=川久保皆実

▽2基ともいらない:自民党政清クラブ=飯岡宏之、宮本達也、木村修寿、塚本洋二、鈴木富士雄/公明党つくば=小野泰宏、山本美和、浜中勝美/日本共産党つくば市議団=橋本佳子、山中真弓/新社会党つくば=金子和雄

(経済ジャーナリスト)

ワクチン接種と社会福祉 《介護教育の現場から》8

0
専門学校の授業風景

【コラム・岩松珠美】梅の実や赤しそがスーパーに並び、梅干しや梅シロップを漬ける梅雨に入った。今、コロナワクチン接種が国や自治体主導で進められている。予防接種法及び検疫法の一部改正によって、ワクチン接種は同法の「臨時接種の特例」に位置付けられ、医療従事者に優先接種する形でスタートした。

65歳以上の高齢者については、ワクチン接種の進め方は自治体によってまちまちだが、自治体の大事な施策として実施されている。茨城県では、3~4月に医療従事者接種、4~5月に施設入所高齢者と従業員に接種が進められた。費用は全額国庫負担で、接種を受ける努力義務が生じる。

接種による健康被害については、国が損害賠償することになっている。つくば市、かすみがうら市、土浦市の特別養護老人ホームなどの施設でアルバイトをしている専門学校の学生たちも、介護従事者としてワクチン接種を受け、接種率は6月末までに、1年生で5割、2年生で9割に達している。

その費用は、個人負担だと1回2070円だが、国が負担する。これは、国民の健康と安全を守るのが政治の役割であるという考え方に基づく。

地域性に合った自治体の役割

社会保障制度整備と相まって、社会福祉をどうするかは国の施策の根幹をなしている。憲法第25条で「生存権」が規定され、日本が福祉国家を目指すことを宣言してからである。

国は、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、その他心身の困窮者に対し、金銭給付を講じている。同時に国民1人1人も、社会連帯の精神に立ち、それぞれの能力に応じて社会的義務が求められ、例えば保険料を納付しなければならない。

税金が高くても生活が保障されるならば構わない、という考え方も確かにある。北欧の福祉制度は最高だと言われているが、「高福祉高税金」は国民の合意として成立している。

ワクチン接種に際しても、地域のニーズに応じた良質の福祉・医療サービスを効率的に提供するために、地方自治体がその地域性に合った展開をすることが求められる。(つくばアジア福祉専門学校校長)

こんなに言っているのに改善されない 《続・気軽にSOS》88

0

【コラム・浅井和幸】かなり前から、何度も何度も繰り返し言っているのに、何も改善されない。そのように感じる人は多いのではないでしょうか。それは、社会に対してかも知れないし、知り合いに対してかも知れないし、家族に対してかも知れません。ときには、自分に対して感じることもあるかもしれませんね。

「人は変えられない、自分は変えられる」ということを鵜呑(うの)みにする必要はありません。私たちはコミュニケーションをとって相手に影響を与え、相手が変わることも経験しているはずです。批判をすることも悪いことではなく、批判をすることで改善されることだってあるでしょう。

しかし、何度も繰り返し伝えているのに変わらないと感じたときに、どのような手段を今後とっていくか、とらえ直すことは大切なことです。もちろん、同じ手段を重ねることも、黙って相手が変わるのを待つことも一つの手段として有効なことはあります。ですが、多くの場面では、同じ要素が集まれば、同じ結果が表れるのは当然で、結果、同じことが繰り返されます。

例えば、「宿題やれ」とか「もっとまじめに考えろ」とか「お菓子を食べるな」とか「不正をなくせ」とかの言葉を、同じ状況で、同じように繰り返し伝えたところで、そこに集まる要素は変わらないので、材料が同じであれば同じ現象が起こり、改善されません。批判を伝える相手が敵対しているならば、同じ現象が起こるどころか、批判とは反対の方向に進み、事態は悪化します。

足りない何かを足すことが必要

もし、同じ言動を繰り返しても変わらないのであれば、そして変えたいと思うのであれば、足りない何かを足す必要があります。それが、その相手と味方の関係になることなのか、むしろその相手は無視して自分が行動してしまうのか、別の批判の仕方をするのか、足りない何かを探し試します。足りない何かは、自分がすべて背負う必要はなく、他の誰か志を共有できる誰かに動いてもらってもよいかもしれません。

また、言動を変えるということで言えば、批判をやめるということでプラスに転じることがあります。学校に行けと言わなくなることで登校できるようになったり、お互いの短所を言い合うことをやめることで、連携して物事を解決できるようになったりする例はたくさんあります。「廊下は危ないから走るな」よりも「廊下は静かに歩いた方が安全だよ」と伝えたほうがよいことがあります。

私が相談を受けてアドバイスをするときに、「来年も落第したら、もう大学をやめてもらうからな」というよりも、「あと3年は大学の費用を出す協力はできるからな」と伝えるようにとアドバイスをする場面が多くあります。「ある何かができないと、悪い未来が待っているからな」と伝え、その後に続く「だから、そうならないように頑張れよ」という言葉を端折(はしょ)ってしまうと、不安をさらに上乗せしてしまいますので、お気を付けください。(精神保健福祉士)

外国語を学ぶコツ① 《ことばのおはなし》35

0

コラム・山口絹記】今年になってから、本格的にドイツ語の学習を始めた。言語学を学んでいると言うと、様々な言語に明るいと思われがちだが、言語学というのは母語以外の言語を学ぶ学問ではない。私もある程度扱えるのは母語である日本語と英語、米語のみで、辞書があればある程度スペイン語を読み書き発音できる程度だ。

「またどうしてドイツ語を?」と訊かれるのだが、残念ながら自分でも理由をうまく説明できない。親の影響で小さいころから目や耳にすることが多かったから。大好きな本を原書で読みたいから。本当は学んでみたかったのに、第2外国語の履修でスペイン語に逃げたから。一度は逃げたのに何度も何度も目の前にきっかけが現れるから。

詳しく書き始めると自分語りの連載になってしまうので今は避けることにするが、私の中でwant(欲求)がwill(強い意思)になり、いつしかbe going to(決定された未来)になっていくには、多くの欲求と、やってもないのに諦めた経験が必要ということがここ数年わかってきた。経験上、もう逃げるべきでないことがわかってしまう。

こうして始めた何かは、いつか自分自身の核なるものに近づく一つの要素になっていく。

心を無にして徹底的に丸暗記

さて、自分語りはこのあたりにして、言語を研究している者として外国語を学ぶちょっとしたコツについて、しばらく書いていこうと思う(本コラムのタイトルに引かれた方はコレが気になるはずだ)。

外国語を学ぶというのは意外と簡単なのだ。まずは心を無にして徹底的に丸暗記すること。目的にもよるが、市販されている単語帳などを使って、せいぜい8000単語程度例文ごと覚えれば、おそらくスタートラインに立てる。なんだかんだコレが一番近道だ。

学習にあたっては可能な限り正確な発音を発話しながら学ぶこと。読み書きしかしないから発音は必要ないと思うかもしれないが、それは違う。ノドが痛くなるくらいには発音しておこう。

それから、できることなら1日3時間、できれば5時間ほど学習に時間をあてること。そうすれば1年ほどでカタチができてくる。正直、1日1時間では厳しい。日本人が高校まで英語を学んでも英語ができるようにならない、などという話はよく耳にするが、当然だ。学習量が足らないだけである。

そして、資金は惜しまず投入しよう。おすすめの書籍や辞書などを人に教えてもらうのではなく、自分なりにおすすめを語れるくらいになる必要がある。

楽な方法など存在しない

最後に、「日常会話レベル」というのが最高レベルだということを覚えておこう。英語で言うならば、TOEICで900点をとっても英語の小説が読めない、などというのはざらだ。

そんなの無理、と思うならば、今はまだ言語学習に対する意欲が足りていないのかもしれない。残酷な事実として、言語学習を始めとしてあらゆることに楽な方法など存在しないのだ。次回から、少し詳細なおはなしをしてみようと思う。(言語研究者)

江戸時代の「酒」 《県南の食生活》26

0

【コラム・古家晴美】前回、江戸前期に著された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697年)に記されていた、日本酒で作る「梅酒」について取り上げた。その後、江戸中期の類書『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』(1712年)に基づき復元醸造された酒を入手し、飲んでみた。せっかくの機会なので、今回は「酒」つながりで、江戸の酒について述べることにしたい。

島根県の若林酒造が醸した「寛文の雫(かんぶんのしづく)」は、アルコール度14%、酸度4.4ミリリットル、アミノ酸度7.1ミリリットル、精米歩合90%、日本酒度(甘さと辛さを示す指標、マイナスになるほど甘くなる)マイナス78、酵母 生酛(きもと)―とラベルに記載されている。正直なところ、お酒というよりも味醂(みりん)に近い甘さだ。

現代の日本酒は、アルコール度数が大体16%、酸度1.5ミリリットル、アミノ酸度1.2ミリリットル、精米歩合70%前後、糖分4%―。日本酒度に関していえば、最近の超辛口がプラス25、大甘口がマイナス60というから、マイナス78がいかに甘いかがわかる。ちなみに、手元のプリズム式の糖度計で糖度を量ったところ、現代の某醸造元の甘口酒が11、超辛口が9、またウイスキーが14.5だったのに対し、「寛文の雫」は23.5であった(値が大きいほど糖度が高い)。

また、醸造学の小泉武夫氏によれば、江戸前期の『本朝食鑑』を復元した酒は、アルコール度数が17度で、酸度7本朝食鑑、アミノ酸度6本朝食鑑、糖分16%と、現代の酒の糖分の4倍だ。味が濃く、味醂のようにとろりとした酒で、「あんなに味の濃い酒、飲めるはずない」「酒に水増ししたものも結構、出回っていたのではないか」とのことだ。

酒の甘辛は世相を映す鏡

そもそも、少量の酒でも満足できる甘口の酒が好まれるのは、乱世や不景気、米不足の世で、飲み飽きない辛口は太平の世に好まれるとの説がある。

江戸後期になると、臼と杵(きね)の足踏み精米から水車精米へと移行し、高精白米が実現し、灘の辛口酒が人気を博す。1877~1990年の市販酒の平均値を示した資料によれば、明治は超辛口、大正はやや甘口、昭和は甘口。ところが昭和60年代以降は、肉食・油消費の増大により、さっぱりした辛口志向だそうだ。

さらに、小泉氏は『延喜式(えんぎしき)』にある古代の天皇や高官が嗜(たしな)む上級酒を再現した。アルコール度数は3%と低いが、酸度7ミリリットル、アミノ酸度9ミリリットル、糖分34%―。江戸の酒よりもさらに甘かった。しかし、このころの大甘口の酒は特権階級の飲みものであった。はちみつや大陸からもたらされた麦芽糖など、甘いものにアプローチできるのは、限られた人々だけだったのだ。下級官吏には、辛口の酒が給与の一部として現物支給されていた。

「たかが酒、されど酒」の甘辛について取り上げた。技術の発達も大きな影響を及ぼすが、味は時々の世相を映し出す鏡である同時に、時代の社会構造がそこに凝縮されているのだと考える。(筑波学院大学教授)

つくば工科高校サポートクラブ 《塞翁が馬》2

0
復元したサポートクラブのチラシ(部分)

【コラム・三浦一憲】音楽祭プロデュースのボランティア活動はいきなり始めたわけではなく、きっかけになることがありました。1999年、娘が県立つくば工科高校・建築科に入学したことが、その「始まりの始まり」です。

学校から帰ってきた娘に「建築の授業どうだった」と聞くと、「つまらなかった。みんな寝ていた」。この返事には笑うしかないのだが、何がつまらなかったのか聞いてみると、何も知らない高校生に、いきなり構造・工法の授業だった、と。大学とは違うと思っていたから、まず建築に興味を持たせるのではなく、最初の授業から構造・工法に入るのかと、驚きました。これで、何とかしないとの気持ちが湧きあがってきたのです。

目の前に何とかしないとのことが起きている。どうしたらいいのか思案した結果、建築の持っている面白さとか、可能性みたいなことを高校生に見せ、体験させることが一番ではないか思い、当時の助川校長に掛け合いました。ボランティア活動では、これが一番大事なことです。

「高校生をサポートさせてください」と校長に話したら、「面白い! 応援するからやってください」ということになり、「つくば工科高校サポートクラブ」が立ち上がります。重要なことは、学校のテリトリーに入り何かするのではなく、外から有益なプログラムを提供することです。プロデユーサーとしての私のスイッチが入った瞬間でした。当時のつくば市は公共建築ラッシュ。これを利用しない手はないと、いろいろ企画しました。

当時のワープロ(フロッピーに保存)で書いた案内は印刷することができず、文字が薄くなったチラシをデジタル処理してなんと判読できる状態にまでしました。それでも分からない箇所は撮影したネガフィルムなどから記憶をたどり、苦労して復元したのがコラム写真です。

サポートクラブの記録(19992001

  • 1回 1999年7月17日  友部で建設中のショッピングセンター見学
  • 2回 1999年8月 3日  国際会議場、カピオホール、ノバホール見学
  • 3回 1999年9月18日  ウェディングドレスできるまで(学内教室)
  • 4回 1999年9月23日  アメリカン2×4住宅見学
  • 5回 2000年2月19日  外国人宿舎「二の宮ハウス」見学1回目
  • 6回 2000年2月26日  エポカルつくば「フランクロイドと日本」講演会
  • 7回 2000年3月18日  クラッシックフレッシュコンサート(学内音楽室)
  • 8回 2000年8月 3日  科学技術未来館~ビーナスフォート~東京国際フォーラム見学
  • 9回 2000年11月27日 外国人宿舎「二の宮ハウス」見学2回目
  • 10回 2001年3月27日  外国人宿舎「二の宮ハウス」見学3回目
  • 11回 2001年10月18日 竹中工務店・技術研究所見学

(まちかど音楽市場代表)

筑波山系のハイキング登山の薦め 《ひょうたんの眼》33

0

【コラム・高橋恵一】オリンピックが最上級のスポーツイベントなら、高齢化時代の庶民が気楽に取り組めるスポーツに軽登山がある。日本で一番登山人数が多いのは、八王子市の高尾山だそうだが、地元びいきで言えば、筑波山も十分に魅力的だ。

加えて、近年は、筑波山の尾根伝いの宝篋山(ほうきょうざん、小田山)や朝日峠へのハイキングも人気があり、週末は各駐車場が混み合う状態のようだ。この南山麓沿いに、宝篋山、東城寺、小野の小町の里、清滝観音(坂東33観音霊場の26番札所)、雪入山ふれあいの里など、家族で楽しめる「名所」「古刹(こさつ)」が連なっている。朝日峠を越えた石岡市八郷地区も、大変魅力的な地域なのだが、それぞれの魅力の紹介は次の機会にしたい。

筑波山や稜線(りょうせん)に連なる各山、峠などからは、360度の眺望景観が自慢で、関東平野や霞ケ浦はもちろん、東京の高層ビル群や富士山、太平洋まで望めるのだが、眼下の常総の地が、日本の武士社会を生み出し、武士社会の発展、確立に大きな役割を担った壮大な歴史ロマンの舞台でもあるのだ。

自然と歴史のロマンの地

武士が朝廷や貴族の警護・軍事のために雇われていた存在から、自ら土地を開墾・占有し、支配する武士・武士団登場の象徴的な存在が、平高望(たいらのたかもち)だ。桓武天皇のひ孫の高望王が、臣下の道を選び、平姓を与えられ、筑波山を仰ぐ常陸国真壁郡石田の地(現在の筑西市東石田)に本拠を置いて私有地を開いた。

長男・平国香(くにか)には石田、二男には羽鳥(桜川市)、三男には豊田郷(常総市)、四男には水守郷(みもりごう、つくば市)を分け与え、さらに、その領域は、常陸、下総、上総の国まで広がった。

平国香と甥の領地争いから平将門の乱が起こり、関東全域を巻き込んだ5年にわたる騒乱は、国香の長男・平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと、下野国)によって平定されたが、大乱を起こしたのも、平定したのも武士であり、武士の存在が大きくなった事件と言われている。その後、平貞盛は中央に出て、最初の武士政権・平清盛に至る伊勢平氏の祖となっている。

平貞盛の弟が常陸国の領地を受け継ぎ、水守郷を経て筑波の多気(たき)山を本拠とし、常陸国の那珂川以南に広く一族(常陸平氏)を配置して、主に常陸国の大掾職(だいじょうしょく、国司の守、介の次の順位の職)を世襲した。

源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、筑西市を本拠としていた八田知家(はった・ともいえ)が常陸の南西部に進出、多気氏(たきし、常陸大掾)に代わり、筑波山麓を領して、小田氏(つくば市)の祖となり、鎌倉時代から戦国時代まで統治した。南北朝時代に、北畠親房を迎え激しい戦いの舞台になるなど、盛衰約400年の歴史が繰り広げられた。

筑波山から眺める霞ケ浦流域の地は、自然災害も少なく、気候も温暖で、常陸国風土記では「常世の国」とはこの地のことではないかと称えられた地でもある。一方で、日本の未来を描き出す研究学園都市には、桓武平氏発祥の地・水守郷があるのだ。筑波山系の峰々から、自然と歴史のロマンの地を眺めてほしい。(地図好きの土浦人)

どさくさに紛れトンデモ法案が成立 《邑から日本を見る》90

0

【コラム・先﨑千尋】テレビも新聞も、コロナワクチン注射とオリンピック・パラリンピックのオンパレード。国会で審議すべき大事な問題があっても、菅総理は野党の追及を恐れてか、国会を延長することなく、今月16日に店じまいしてしまった。しかし、そのどさくさに紛れ、自衛隊基地・原発など安全保障上重要な施設周辺や国境離島の土地利用規制法が16日未明に成立した。

この法律により、重要施設に指定された地域の土地が自由に取引できなくなるだけでなく、利用調査により、国民の思想・良心の自由が侵害されかねない。それなのに、衆参両院での審議時間は20数時間という短いもの。

政府は、この法律は、外国資本が土地を買収し施設の活動を妨害することで日本の安保環境が脅かされる事態に対処するためだと説明している。しかし、国会の審議では具体的な規制対象の区域や行為は明らかにしなかった。今後「規制方針」を決めると言う。

法律では、自衛隊や在日米軍基地、原発などの重要施設の周囲約1キロを「注視区域」に指定。重要性が高い所は「特別注視区域」とする。施設の機能を阻害する行為は処罰対象になる。どこを、何がということは、これから決める。しかしそれは政令などによるので、閣議決定だけ。政府がこうしたいと決めれば、それで通ってしまう。国会は関与できない仕組みだ。恣意的な運用が心配される。

どういう情報を集めるかも政令で定める。政府の裁量次第だ。この法の趣旨が「安全保障上」だから、政府がやろうと思えば何でも調査できるということ。これは憲法で保障されている思想信条の自由に反する危険性がある。

指定区域の候補地は全国で1000カ所以上に上ると言われているが、狙い撃ちされるのは米軍基地の島、沖縄であろう。沖縄本島を含め、すべてが国境離島だ。その気になれば沖縄県全域を区域に指定できる。県民全部を調査対象にすることができるということだ。名護市辺野古では新基地建設が進められている。「機材の搬入を阻止する行為は処罰の対象」になり得る。

首相の首相による首相のための法案

原発の反対運動も対象にされる。なぜ原発が対象になるのかは国会では明らかにされなかった。原発では、周辺の住民は被害者であって、被害をもたらすのは原発そのものなのだ。東京電力福島第1原発の事故でそのことは証明されているではないか。

とにかく、それらの施設の周辺地域では、安全保障の名のもとに市民の行動が日常的に監視される。家族や交友関係にまで及ぶ可能性もある。戦前の治安維持法を思い出す。

6月14日の参議院での参考人質疑で、弁護士の馬奈木巌太郎さんは「取り返しのつかない法案。誰も止められず、事後検証もできない。沖縄を丸ごと監視下に置く発想。首相に限定のない権限を与えており、内閣総理大臣の内閣総理大臣による内閣総理大臣のための法案だ」と述べた。

ナチスドイツの全権委任法と同じではないか。それでも、この法案は国会を通ってしまった。今の国会は野党の勢力が弱いので、首相が「これを通す」と言えば法律ができてしまう。与党の中にまともな政治家はいないのだろうか。つい、ため息が出てしまう。(元瓜連町長)

「大気の窓」と3ミリの宇宙服 《食う寝る宇宙》88

0

【コラム・玉置晋】どうも最近、日に当たると手の甲が腫れるのです。インターネットで検索してみると、日光アレルギーというものがあるそうです。じゃあ日焼け止めを塗ってみなさいよと言われ、奥様の日焼け止めを借りてみたものの、腫れは治まらず。

さらに調べてみると、日光アレルギーの原因となる光の波長は可視光が多いとのこと。日焼け止めは紫外線を防ぐもので、可視光には防御力が限定的であるとのこと。宇宙天気防災研究を志しているのに、太陽からの攻撃に脆弱(ぜいじゃく)とは困ったなあ。とりあえず長袖を着ることにして、ひどいようなら病院に行こうと思います。

地球の大気は、厳しい日光から僕たちを優しく守ってくれています。人体に有害な波長の日光は、地球の大気がその大部分を吸収してくれています。大気に吸収されずに地表に到達しやすい波長領域が可視光や近赤外線で、「大気の窓」と呼ばれています。僕たち地上の生命は、この窓を通して降り注ぐ日光に適応した進化をしてきたわけです。

一方、地球は表面から、大気の窓を通して宇宙空間に赤外線の形でエネルギーを放射しています。二酸化炭素といった温暖化物質が増えてくると、大気の窓を塞ぐ効果があります。これが温暖化問題です。

地球はいかに幸せな場所か

大気の中でも特に僕たちを守ってくれているのは、高度10~50キロの成層圏にあるオゾン層です。紫外線は、エネルギーが高い順にUV-C、UV-B、UV-Aと分類されます。オゾン層は、エネルギーの高い320nm(ナノメートル)以下の波長であるUV-C、UV-Bを吸収してくれます。

だから、オゾン層は「厚さ3ミリメートルの宇宙服」とも呼ばれています。オゾン層の上の宇宙空間では、UV-CやUV-Bを直接浴びることになります。これらの紫外線は目の障害や皮膚がんを誘発させる恐れがあります。宇宙の中で地球がいかに幸せな場所なのか、ヒトは宇宙を知って初めて気が付くのかもしれませんね。

それにしても日光アレルギーの件はマズイなあ。このままだと、大好きなハワイに行っても外に出られないぞ。実にマズイ。(宇宙天気防災研究者)

太陽光発電に浸食される里山の危機 《宍塚の里山》78

0
宍塚大池周辺の地図

【コラム・佐々木哲美】3年前、宍塚里山の南西部にある畑と森林が伐採され、太陽光発電のパネルが設置されました。その面積は約3.5ヘクタールにも及びました。土地所有者の権利の大きさを前に、里山を維持できなかった私たちは無力さを痛感。そこで、土地を取得するために、ナショナル・トラスト(文化財や自然風景地などの保全活動)の取り組みを検討しました。「宍塚の里山」約100ヘクタールのうち数ヘクタール取得すれば、行政も考えるのではないかと期待したからです。

太陽光発電の位置=全国農地ナビから作成

私たちは昨年1月、公益社団法人「日本ナショナル・トラスト協会」の助成金をいただき、改めて土地所有者の調査に入りました。11月には「里山保全のためにNPO法人は何ができるか」をテーマに学習会を開催しました。最近、学習会に参加した方の母親がお亡くなりになり、相続財産の中から50万円を寄付してくれました。また、当会が土地の寄付を受け付けていると知った方から、宍塚の里山に所有する67坪の山林を寄付したいとの申し出がありました。

また、当会が10数年整備してきた土地の所有者から「太陽光発電に土地を貸すか売らないか」と言われているが、どうしたらいいかとの相談もありました。周辺の土地所有者に当たって調べたところ、約2.7ヘクタールの事業が計画されていることが判明しました。その対応を考えているさなか、5月中旬、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」南側に発電設備の材料が突如運び込まれ、あっという間にパネルが設置されました。その後も周辺の草が刈られ、新たな施設建設の勢いは止まりません。

「再生可能エネルギー」が自然を破壊

経産省のホームページにFIT(固定価格買い取り方式)認定の計画は大小を問わず掲載されていると聞き調べてみましたが、確認できませんでした。また、茨城県のガイドライン(2021年4月改定)によれば、50キロワット以上の計画(面積換算700平方メートル以上)は市町村に計画を提出するように定められています。しかし、FIT認定外の情報は公表されていないため、市町村への問い合わせが必要ということでした。

土浦市では2016年12月、「太陽光発電設備の適正な設置に関する条例」が制定され、市内に50キロワット以上の事業用太陽光発電設備を設置する場合は、市との協議が必要となっています。担当者に問い合わせたところ、県のガイドラインに対応した条例改定の動きはなく、経産省ホームページに掲載されている以上の情報は把握していないということでした。

経産省の資料によれば、事業用太陽光発電のコストは、2014年にキロワットアワー(KWh)当たり約34円だったのが、19年には13.1円まで下がりました。30年には5.8円まで下がると予想されています。このままでは、CO2を削減する再生可能エネルギーの美名のもとに「地球にやさしい自然破壊」が加速していきます。 そもそも、CO2を固定している都市近郊の森林を伐採して、太陽光発電とは本末転倒です。一刻も早く里山保全の方策を講じなければなりません。(宍塚の自然と歴史の会 副理事長)

つくば科学万博の夢 《遊民通信》19

0
でんでんINS館のパンフ

【コラム・田口哲郎】

前略

つくば科学万博(国際科学技術博覧会)のテーマが「人間・居住・環境と科学技術」だったと、前回(6月10日付)書きました。つくば万博というと、自然開発や快適性増進のための科学技術の祭典というイメージがありました。しかし、1985年というバブル期直前の時代にも関わらず、住環境や環境に配慮したテーマが掲げられていたのです。

そこで小学生の時、2回訪れた際に入手したガイドブックやパビリオンのパンフレットを引っ張り出してきて、当時を思い出しながら見返しました。一番印象に残っているのは、芙蓉グループが出展していたロボットシアターです。さまざまなロボットが行うショーは楽しく、ロボットのデザインも近未来的でワクワクしたものです。ロボットは「友だちロボット」と呼ばれ、人間との共生が強調されていました。

この共生は、手塚治虫の鉄腕アトムや藤子不二雄のドラえもんなどで扱われてきたものです。カラフルでかわいいロボットが繰り広げるショーを眺めながら、子供ながら自然に明るい未来を思い描くことができました。

今顧みて驚いたパビリオンがあります。日本電信電話株式会社(NTT)のでんでんINS館です。INSは後にADSLとなり、現在の光通信へと進化する高度情報通信システムのことです。配られたパンフレットの中に「INSが築く便利なくらし」というページがあり、テレビ電話やネットショッピングが挙げられています。そして、インターネットを使った自宅学習、在宅勤務、ホームドクター(在宅医療)も書かれています。コロナ禍になって一気に現実味を帯びたことが網羅されています。

高度に産業化した社会が情報化し、集中から分散へシフトし、地域社会が復権し、プラクトピアという社会になるという予言はアルビン・ トフラーの『第三の波』(1980年)でなされていました。このような壮大な予言でなくとも、今現在起こっている事象が35年前にはすでに実現可能なものとして発表されていたんですね。

これからの社会の夢は何か?

ところで、でんでんISN館のテーマは「INSがひらく夢のあるくらし」でした。あのころの夢が実現している2021年現在、便利なくらしは夢に満ちているでしょうか? コロナ禍ということで夢どころの話ではないのですが、それにしても、かつての夢が現実に落とし込まれると、それは夢っぽくなくなるのかもしれません。

夢とは一体何でしょうか。それに、今現在の社会が描ける夢はなんなのだろうかと考えると、これからの社会があまりにも読みにくいので輪郭すらつかめません。2025年開催予定の大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、キーワードは「共創」です。博覧会は、夢の裏には堅実な科学技術・思想があるのだと教えてくれます。競争ではなく共創、夢のためのヒントは何なのか注目したいと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

ナツツバキ、ドクダミ、アザミ、ネジリバナ 《続・平熱日記》88

0

【コラム・斉藤裕之】4月の初め、家のプルーンの木に小さな白い花がいっぱい咲いていて驚いた。これまでも、ぽつりぽつりと咲いたことはあったのだが…。去年植え替えたブーゲンビリアも見事に咲いて、気が付けば、昨年手に入れたレモンの鉢植えもいくつか花が咲いている。

花は色彩にあふれ生き生きとして、描く者にとっても飾る側としても、最も好まれるモチーフだ。バラやユリ、シャクヤクやボタンなどは、文字通り「華のある」モチーフとしてよく描かれるが、私はそれほど引かれない。

ふと、モネの「睡蓮(スイレン)」を思い出した。フランスに留学していた時には美術館のフリーパスをもらっていたので、「睡蓮」のあるオランジェリー美術館(元はオレンジの倉庫だった)に何度も通った。また、パリ郊外のジベルニーにあるモネのアトリエを訪ね、睡蓮の池のある庭も歩いた。

日本では優しい色彩の印象派として知られるモネだが、その眼は驚くほど映像的で一眼レフカメラのようだ。それから、例えば積み藁(わら)の絵や崖を描いた作品を白黒にしてみると、デッサン力が卓抜していることもわかる。そして、一見情緒的に見える色彩は理論的に重ねられている。

しかし、なぜ睡蓮だったのだろう。当時モチーフに苦慮していたモネが、偶然ジベルニーを訪れて睡蓮に出会ったというが…。

歴史的に、花は卓上の静物あるいは風景の一部として描かれた。しかしモネにとっては、睡蓮という花そのものではなく、「睡蓮のある水面」が重要だったのだろう。つまり、ルーアンの大聖堂が建築物としての構造や奥行きを描くために選ばれたのではないように、何度も描かれた庭や池は、モネの求める絵画空間や色彩表現の実験台として格好のモチーフであったのだと思う。

例えばモネが土浦に住んでいたとして、霞ケ浦の広大な蓮田を描いたか? 否。(ゴッホなら蓮を描いたかも)

花はやはり軽くなくてはいけない

さて、今年もドクダミがきれいに咲く季節となった。それから、以前はほとんど見ることがなかったアザミが、ここ数年道端や野にあるのを見つけて、これまた描きたいと思う。そして、ご近所さんの庭先や公園で、白くてころりとしたナツツバキが、こちらは地面に落ちているのを描く。

花はやはり軽くなくてはいけない。どんなにきらびやかでも、華々しくとも、触れれば柔らかく薄く軽くある。だから、アジサイが何キロもあるような塊になってはいけない。それから、花こそ自然の摂理そのままの形をしていて、いい加減には描けない。そのあたりが面倒くさいから、花を避けているのかもしれない。

散歩の途中でネジリバナを見つけた。らせん状のピンクの花がかわいらしいが、こちらは描かずにめでる。「ネジリバナ ねじれて咲いて 素直かな」。どなたの句だったか忘れたが、毎年この花を見ると思い出す。そうだ、今年はクズの花を描こう。毎年描こうとしてうまくいかない花たち。(画家)