水曜日, 5月 14, 2025
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「お迎え写真」の撮り方・撮られ方 《写真だいすき》5

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【コラム・オダギ秀】写真講座の講師を長くしていると、たいていは、マンネリと言うか、ダレてくると言うか、飽きがくる状態になる。ところが、そんな時に講義すると、がぜん盛り上がるテーマがある。受講生皆がこれ以上夢中になるテーマはない。必ず、大変な盛り上がりを見せる。それが「お迎え写真の撮り方・撮られ方」だ。

なぜ皆がこんなに喜々として、お迎え写真の撮り方・撮られ方を学びたいのだろうか。

もちろん、お迎え時の写真というのは、その人のお葬式や仏壇に飾る顔写真、つまりポートレイトのことだ。自分が居なくなった後に、最良の顔で見られていたいという願望があるのだろうが、そんな写真を大抵の者は持っていないことに、最大の理由があるのだろう。

撮って、撮って、撮りまくる

そこで今回は、私の講座でやっている、お迎え時に使う写真の撮り方・撮られ方の話をしたい。撮られ方が分かれば、撮り方は自然に分かる。撮られるようにやってもらって、撮ればいいだけだ。

カメラは、コンパクトデジタルだろうが、スマホだろうが、一眼レフだろうが、何でもいい。アクションカメラは、広角過ぎるので、ちょっと撮りづらい。で、なるべくアップに撮ること。ウェストから上だ。

小道具として白い板(アゴレフと言うが)、これを使う。大きなカレンダーの裏の白い紙でもいい。このアゴレフを、身体の前、ウェストあたりに広げておく。前にテーブルがあれば、その上でもいい。すると、アゴの下が明るくなり、しわも目立たなくなる。

そして表情。口が「への字」にならぬよう、両口角を上げる。目は少し開き気味に。少し上を向いたり、下を向いたり。鏡を見ながら、何度も何度も何度もやってみると、いい表情ができるのが分かる。ああ、この顔で撮られればいいのか、と。誰でもいい顔ができるのに、どうすればいいか知らないだけだ。

そして、いろいろな表情を作りながら、何十枚も撮る。撮って、撮って、撮りまくるのだ。数枚でなく、何十枚も。いまはデジタル時代だから、すぐ見直せる。そして、気に入ったものを選び、プリントしてもらう。以上。

「万一の時はこれを使ってほしい」

余談になるが、そのようなお迎え写真がない場合、かつては、葬儀屋さんが作ってくれた。生前の記念写真か何かから顔を取り出し、紋付、背広、礼服などのボディと組み合わせて作っていた。

その土台になるボディの部分のモデルをやれと、写真会社の社長が部下に命じたが、誰も嫌がってやらない。仕方なく、社長自身がモデルをやったが、彼は若くして亡くなった。彼の体は、生きている時から拝まれていたわけだが、早死にしたのは、あの写真のせいだなんて陰口をたたく者もいて、気分は微妙だった。

ボクは、仕事でポートレイトをずいぶん撮影したので、「万一の時はこれを使ってほしい」と言われているのが、たくさんたまっている。だが幸い、使う羽目になった写真はあまりない。人生100年時代だものなあ~。(写真家、土浦写真家協会会長)

ハラスメントに対するハラスメント 《続・気軽にSOS》103

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【コラム・浅井和幸】情けは人のためならず、巡り巡って自分のために。因果応報。目には目を、歯には歯を。罰が当たる。などなど、良いことをすれば良いことが自分に起こり、悪いことをすれば自分に悪いことが起こる―。こういったことは揺るぎない一般常識ですよね(私は全面的に肯定しませんが…)。

しかし、別の方向にゆがんでいくと悲劇が起こります。例えば、何か不運が起こった人は、日ごろの行いが悪いせいだと決めつける。例えば、悪い行いをしている人には、積極的に悪いことをしてやろうと思ったり、あるいは平然と行動を起こしたり。

けがをしている人や、事故に巻き込まれた人に対して、日ごろの行いが悪いからだと考える。コロナに感染した人の家に石を投げつける。嫌な気分をさせられたと、あおり運転をする、土下座をさせる。いじめをした人や集団に対して、もっと大きな集団でいじめる。何かのハラスメントをした人に対して、嫌がらせをする。

悪意に悪意で対抗してもコスパはよくない

何となく正義の執行をしているようで、心地よい部分もあるかもしれません。自分のコンプレックスやストレスから目をそらして、気分のよさを味わえるかもしれません。その感覚に依存的になり、次の悪者を探し回る人もいるでしょう。

それを続けることは心地よい反面、いつも悪いことに意識を使っているので、嫌な世界に居続けることになります。ストレス解消をしているようにみえて、自分のストレスを抑圧し、精神的なダメージを受け続けることになりかねません。

先日、YAHOO!ニュースに「筋トレ、1日3秒でも効果 手軽な運動法開発へ」という記事がありました。

これと同じように、精神的なダメージも、逆にダメージ回復や喜びの習慣も、わずかな時間の繰り返しの中で、身に付くことを想像してください。そして、あなたはどちらの方向に向かいたいのか、探ってみてくださいね。悪意に悪意で対抗することは、長い目で見ると、コスパはよくないですよ。(精神保健福祉士)

権利を教えてくれた海老原宏美さん 《電動車いすから見た景色》27

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2019年に出版された海老原さんの著書

【コラム・川端舞】昨年のクリスマスイブ、海老原宏美さんが天国に旅立った。何冊か本も出版し、NHKに何度も出演している。私にとっては「権利とは何か」を教えてくれ、子ども時代を肯定するきっかけをくれた人だ。

本人の著書によると、海老原さんは1977年に進行性の障害とともに生まれ、小学校から高校まで車いすで普通学校に通い、大学進学後、24時間介助を受けながら1人暮らしを始めた。

私が初めてお会いした2017年には、人工呼吸器をつけながら、自立生活センター東大和の理事長をしていた。初対面のとき、東京で普通学校に通う障害児を支援していると話す海老原さんに、私も障害児支援に関心はあるが、何をすればいいのか分からないと話した。

海老原さんとの出会いをきっかけに、彼女が代表を務める東京インクルーシブ教育プロジェクト(TIP)に関わるようになった。海老原さんはよく、「どんな障害児でも普通学校に通う権利がある」と言っていた。初めて聞いたとき、権利とは何なのか分からなかった。

しかし、海老原さんやTIPの仲間と国連障害者人権条約を読み込み、「権利とは他の人が当たり前にやっていることを、障害者も当たり前すること。障害のない子が当たり前に通う同じ学校に、障害児も当たり前に通うことなんだ」と理解した。

私の役割

子どものころ、障害のある自分が普通学校に通うのは悪いことなのだと思っていた。だから学校でどんな嫌なことがあっても、我慢しなければいけないのだと。

しかし、海老原さんから権利という言葉を何度も聞くうちに、当時の自分には堂々と普通学校に通う権利があったのだと思えるようになった。障害児がどんなに困っていても、その子どもの支援はすべて介助員に任せ、他の教員は障害児に直接声も掛けない普通学校の環境こそ変わるべきだった。

自分の子ども時代を肯定できたことで、今、普通学校に通っている障害児に対しても「君はそのままでこの学校にいていいんだよ」と言ってあげたくなった。

自分のように普通学校でつらい経験をする障害児が減るよう、子どものころ、周囲の大人にどう関わってほしかったのかを、障害児の保護者や教員に伝えていくことが、私の役割だと思っている。「どんな障害児でも必要な支援を受けながら、普通学校に通う権利がある」と言い続けよう。

障害児が普通学校に通うのは本当に正しいのか迷っていた私の考えを、たった5年間でここまで変えてしまった海老原さん。責任を持って、学校教育の当たり前が変わるまで、天国から見守っていてくださいね。(障害当事者)

入浴中の事故防止 《くずかごの唄》102

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【コラム・奥井登美子】夫がお風呂へ入ると、浴槽に漬かって、ウットリしてなかなか出てこない。コロナの騒ぎで、どこにも行けなくなった老人の唯一「ウットリの楽しみ」だと割り切って、私は大目に見てきた。

いつもは20分。今日はもう30分だ。さすがに心配になって、のぞいて見る。

「ずいぶん長く入っているの、ね…」

「うーん」

返事はするけれど、立ち上がる気配はない。

近づいてみて、びっくりした。腰が抜けて、立ち上がれないのだ。立つ力が、完全に抜け落ちてしまっている。

「困ったわね。ほら、私の腕にしっかりつかまってちょうだい」

私が腕を差し出し、彼は気力を振り絞ってつかまるのだが、どうしても立てない。エイ、ヤー。全身の力で引き揚げようと、私も引っ張ってみたが、ダメだった。

風呂に入った人を引き上げるのに、1人ではとても無理なのがわかった。私はとっさに2階にいる娘を呼び出して、孫まで動員し、浴槽から男1匹を引き上げることができたが、1人暮らしの人はどうすればいいのだろうか?

あと15分遅かったら、彼は声を出すことすらできなくなっていたに違いない。危ないところだった。

高齢者は血管の適応力が落ちる

気温が低いと、老人は急に暖かいお風呂に入った温度差で、血圧がものすごい速さで変化して、熱中けいれんを起こしてしまうらしい。若いときは、温度差などすぐに適応できたのに、老人になると血管の適応力も落ちてしまっているのだ。

知り合いや友だち、今年の冬の寒い日に、3人も入浴中に亡くなってしまっている。本人にとって気持ちのよい浴槽が凶器に変わる。

生活の中で、入浴中の事故防止を真剣に考えないといけない、と思う。(随筆家、薬剤師)

お手頃イタリアンなら「オリーブの丘」 《ご飯は世界を救う》44

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【コラム・川浪せつ子】「イタリアン」っていうお店、多いですよね。大衆的なお店から、本格的なお店まで。ピザ、パスタなど。でも、日本人のせいか、おコメの洋風料理を食べたくなることも。そこで見つけたのが、阿見町の「オリーブの丘」荒川沖店。イタリア料理のほか、スペイン料理のパエリアなどもあります。

おまけに、日本でいう「おじや」―洋風で言うと「リゾット」―が食べられて、ニッコニッコ。おコメ大好きの家でも、あまり食べることのない「アクアパッツァ」「チーズフォンデュ」などを頼んで、連れ合いといろいろな味を楽しめちゃう!

食事が終わったあと、甘いものが食べたくなりますよね。ここには、本当に「ちょこっと」だけスイーツもあります。ダイエット継続中の私でも、あまり罪悪感なく食べられます。

ファミレスなので、お値段も低価格。大枚出したら、ぐんとおいしいものをいただけるでしょうけど、ね。庶民には、やさしい。

画材買い出し時に立ち寄り

残念なのは、我が家からは遠いこと。ホームセンター「ジョイフル本田」に、画材などを買い出しに行くとき、早めに訪問。「オリーブの丘」のはす向かいは、本のリサイクルショップ。

ここで掘り出し物を探すのが、とっても楽しみ。駐車場の向こう側は、100円ショップもあるので、いろいろなお店をハシゴできて、本当に便利です。

お店は関東地方だけみたい。我が家の近くに出店して欲しいけど、無理かなぁ。(イラストレーター)

「オズの国」とつくば 《映画探偵団》52

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【コラム・冠木新市】米国映画史を代表する『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』は、1939年8月と12月に公開され、どちらも監督はビクター・フレミングだった。だがそうした事実よりも、両作品から強烈な影響を受けたのが、13歳のノーマ・ジーン、後のマリリン・モンローである。

父親不明のモンローは、映画編集者だった母親から、この人が父親とクラーク・ゲーブルの写真を示され、信じた。後年、『荒馬と女』(1961)で共演し、「少女のころから憧れてきて、今、そのレッド・バトラーに会ってたのよ!」との言葉が残されている。

『オズの魔法使』のJ・ガーランド

また、母親の親友のおばさんに育てられていたモンローは、『オズの魔法使』の主人公ドロシー役を演じた、ジュディ・ガーランド(16歳)を見てファンとなった。モンローはドロシーの姿に自分を重ねた。

確かに、ドロシー役はモンローの少女時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。モンローが『オズの魔法使』に言及した資料は見当たらないのだが、葬儀で流されたパイプオルガンの曲が『オズの魔法使』のテーマ『虹の彼方に』だったことで、そう推定してよいと思う。

ドロシーは孤児で、エムおばさんに育てられる。そのカンサス州は何もない場所で、映画ではセピア色で表現され、モノクロの印象に近い。ある日、大竜巻に犬のトトと部屋ごと飛ばされ、オズの国に着く。すると、このシーンからカラーになる。

ドロシーは、脳みそのない案山子(かかし)、ハートのないブリキ人形、臆病なライオンと一緒になり、エメラルドの都を目指す。そこには城があり、願いをかなえる大魔王が住んでいる。ドロシーは大魔王に、故郷に戻してくださいとお願いをする。

大魔王は緑色の巨大な鬼みたいな顔で炎に包まれている。いかにも不気味で恐ろしい。だがラスト近くで、それはペテン師オズが作った映像だと、正体が明らかになる。そして、冒険をへて故郷に戻ったドロシーは「家ほどいいところないわ」と語る。

退屈な現実世界が、夢の国オズから戻ると、一番よい場所だったとなる寓話だが、少女時代のモンローにとっては、逆にエメラルドの都が魅力だったに違いない。映画の都ハリウッドを連想させるからだ。

「つくばを歌った曲がこんなにあるとは」

1月30日。「つくばセンタービル謎解きツアー」(主催・つくばセンター研究会)は最終の8回目。103名が参加して終えることができた。

2月6日。ホテルグランド東雲で「新春つくこい祭ツアー」(主催・国際美学院/つくば舞踊研究会、64名が参加)をプロデュースした。

センター地区からバスに乗り、筑波山に向かい、疫病退散の踊りを披露するという設定で、3部形式の第1景「筑波組曲」では筑波の歌8曲を踊ったが、予想以上に好評だった。長年つくば市に住む婦人が「こんなにも地元を歌った曲があるとは思わなかった」と驚いていた。

翌日、疲れが残る中、久しぶりに『オズの魔法使』を見直した。ドロシーたちを苦しめる西の魔女を見ているうちにウトウト寝てしまい、「オズの国」と「ツクバ・シティ」がゴッチャになってしまった。

今年はマリリン・モンロー没後60年。ツクバに暮らす13歳の少女は何を夢見ているのだろうか。つくばほどいいところはない。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

東海第2避難計画請願を強行採決 《邑から日本を見る》105

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海側から見た東海第2原発(中央)

【コラム・先﨑千尋】昨年12月27日のこのコラムで、「原発再稼働めぐり東海村議会が大変」を書いた。それからいくらも時間が経っていない。しかし、2月1日に村議会は原子力問題調査特別委員会で、村の商工会から出された「避難計画の速やかな策定を求める請願」を賛成多数で採択した。同委は議長を除く全議員で構成されているので、3月の本会議でも採択される見通しだ。

この日の委員会は、委員会室での傍聴者が10人に制限され、早くから並んだ商工会関係者と日本原子力発電係者に占められ、再稼働に反対する人は誰も入れなかった。

商工会の請願に賛成した議員からは「早期に策定するか、ゆっくり策定するかどうかが論点で、避難計画の中身の審査は必要ない。住民は早く作ることで安心したがっている。住民の安全のために、今ある知見で策定し、実効性は、その後に訓練などをして見直しをしながら高めればよい」などと主張した。

一方、反対した議員からは「委員会として確認していた専門家の話を聞くことについて、一方的に不要と決めつけるのは問題。2つの請願とも十分な議論が行われていない。実効性ある計画かどうかが大切で、議会が早く作れという意見書を提出することになれば、行政に圧力をかけることになる。採決は時期尚早」などと反論した。

委員会では、委員長が議論を途中で打ち切り、賛成多数で採決した。この請願に反対する議員の1人は「賛成多数で採択すれば、再稼働に伴う広域避難計画は、速やかに策定すべきと考えるのが村議会の意思だということを、世に知らしめることが狙い」と話している。

「今だけ、カネだけ、自分だけ」

昨年3月に水戸地裁は、避難計画の不備などを理由として再稼働を認めない判決を出しているので、再稼働を早くさせたい人たちが動いて、このような請願を議会に出した。

しかし実効性が伴わない計画では、被ばくしない避難や人間らしい避難所生活、元の生活に戻れるなどの保証がまったくなく、住民を危険にさらすだけとなる。早く作れという考えは、国が実効性のある計画策定をと言っているので、そのまま通るはずがないと思えるが、村当局にはプレッシャーになるかもしれない。

原発事故に備えて策定する避難計画の実効性については、国の原子力規制委員会が審査する仕組みになっていない。1月31日の毎日新聞によると、東京電力福島第1原発の事故後、原子力規制委員会が新設されたが、その際、避難計画の議論は置き去りにされ、自治体の避難計画などの審査が必要かどうかの議論はほとんどされなかった、防災も大きな話題にならなかった、という。国が責任を持つかについて、法律にも防災基本計画にも規定されていないそうだ。

事故が起きても、誰も責任を取らない。ブレーキが利かない、あるいはブレーキなしの車を運転するようなものだ。東海村に即して言えば、早く原発を動かしてほしい人たちは、事故が起きても、責任は取らないだろう。否、福島の事故を見ても、責任を取れるはずがない。誰かが「今だけ、カネだけ、自分だけ」と言っていたが、東海第2原発もそうなのか。

東海第2は100%安全だと言う人は誰もいない。もし事故が起きたら、私たち近くの(だけでなく首都圏までの)住民が困るのだ。東海村だけで決めてもらっては困る。(元瓜連町長)

ボートで北浦・利根川をクルーズ 《夢実行人》5

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モーターボート・クルーズ

【コラム・秋元昭臣】昨夏、モーターボートで北浦・利根川をクルーズしました。「水郷」潮来(茨城県)を出発。霞ケ浦の隣りの北浦と利根川を巡り、「小江戸」佐原(千葉県)にも寄って、最後は霞ケ浦畔の温泉で夕日を鑑賞。今回はこのクルーズ報告です。

潮来から、「道の駅潮来」を脇に見て鰐川(わにがわ)に出ると、水中ににそそり立つのは「鹿島神宮西の一之鳥居」(地図番号①)。拝礼し、ボートを左に変針し、神宮橋をくぐると、白く光る五連のアーチ「北浦大橋」(同②)が見えます。

左岸にある「潮来マリーナ」では、釣り堀が楽しめます。マリーナから車で10分の「天然水原温泉・簡保の宿潮来」では、入浴もできます。その近くの「ファーマーズビレッジ」では、キャンプやグランピングのほか、水陸両用バスにも乗れます。

北浦を北上すると、アーチ橋「鹿行大橋」(同③)が見えてきます。さらにボートを進め、左岸に係留。ここから、「北浦温泉北浦荘」まで歩いて5分。鹿島灘の「下律海水浴場」までは車で10分。北浦の北端に位置する鉾田市は、イチゴやメロンの産地ですが、北浦の先端部は水深が浅く、近づくと座礁の危険も。

そこでUターン。どんな御利益があるかは分かりませんが、お社(やしろ)のような「釜谷沖観測所」(同④)に手を合わせ、利根川に向かいます。

赤レンガの横利根閘門をセルフ開閉

鹿島神社の鳥居を背に、鰐川経由で外浪逆浦(そとなさかうら、汽水湖)を越え、神栖市の常陸川左岸「息栖(いきす)神社」に参拝。「常陸川逆水門」(同⑤)を経て、利根川本流に合流。そこで反転し、利根川河口堰(せき)水門を抜け、香取市の「香取神宮一の鳥居」(同⑥)を拝し、「道の駅・川の駅水の郷さわら」に上陸。

ここで休憩してもよし。小野川を上って、「小江戸」佐原の街並み、「伊能忠敬記念館」や「水郷佐原山車会館」などを訪ねるのも面白いでしょう。

さて、今回最大のイベント。利根川を横切り、茨城と千葉の県境付近に位置する「赤レンガの横利根閘門(こうもん)」(同⑦)をセルフ開閉で通過。壁にぶら下がっているスイッチを引くだけだが、スリルいっぱい。後方の水門が閉まり、ドックの水位と出口の水位が同じになると、前方の門が静かに開き、信号が青に変わったらGO! 目の前に横利根運河が広がります。

横利根川はヘラブナの釣り場で有名。休日には、多くの釣りざおが小舟から川面に突き出ています。それらが川幅を狭めるために、デッドスロー(最徐行)で、波を立てないよう航行することが必要です。 出口は牛堀。いつもは、「新横利根川閘門」(同⑧)を通り、右折して潮来に戻ります。でも今回は左折し、「北利根橋」(同⑨)をくぐって、行方市麻生に入り天王崎の「あそう温泉 白帆の湯」に。露天風呂から見る霞ケ浦の夕日は最高です。(元ラクスマリーナ専務)

常磐線スピードアップのカギは? 《茨城鉄道物語》20

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【コラム・塚本一也】在来線の常磐線水戸~東京の最速ダイヤは75分です。新幹線ではありますが、宇都宮(栃木県)~東京は最速49分で結ばれています。このように時間距離が短いことで、宇都宮は東京通勤が十分可能な都市になっています。ちなみに、「水戸~東京:75分」を東北新幹線で探すと、「郡山(福島県)~東京:78分」に相当し、常磐線水戸~東京の時間距離がいかに遠いかが分かります。

都市間競争を考え、茨城の県都・水戸を東京通勤圏内とするには、常磐線の一層のスピードアップが必要となります。しかし、取手~東京においては、通勤時間帯にこれ以上ダイヤが入りません。根本的な解決策はバイパスをつくることですが、朝の通勤時間帯に1本だけ特急を走らせようとした場合、ホームに設ける柵など安全対策がネックになります。

茨城内の常磐線は踏切だらけ

取手以北の問題は踏切の数が多いことです。茨城県内の総キロ程数は180キロ669メートル、千葉県内のそれは23キロ940メートルですが、茨城の踏切数は167カ所(2020年現在)であるのに対し、千葉はなんとゼロなのです。千葉県内のキロ程は、ほぼ取手~荒川沖(26キロ340メートル)となりますが、その間に踏切は34カ所もあります。

千葉県の常磐線沿線自治体は、鉄道と道路の立体交差事業に積極的に取り組んできたわけです。千葉県は東京への通勤圏として人口が増加し、その通勤手段である常磐線の安全・安定輸送が課題でした。そのため、鉄道側は常磐線に緩行線を設けて複々線化し、千代田線との相互乗り入れも図りました。加えて、第2常磐線を計画し、つくばエクスプレス(TX)につなげたのです。

また、我孫子市や柏市などは、踏切事故があるたびに、その対策として立体交差事業を進め、「開かずの踏切」解消策として跨(こ)線橋などを地道に設置してきました。その結果、現在の輸送体制を築くことができたのです。

「開かずの踏切」解消は立体化が必要

これに対し茨城県内では、例えば友部駅構内の友部里道踏切など、大きな事故がありましたが、立体交差には至っておりません。通常、駅舎の建て替えは、自由通路を建設するための支障移転として駅舎を橋上化する―という理屈で予算要求をします。

常磐線・水戸線が通過する友部駅構内にある友部里道踏切

その際、駅周辺整備事業として、駅近くの踏切を立体交差化したりするケースはよくあります。しかし、茨城県の場合、神立も石岡も友部も、踏切を残したまま駅舎を建て替えてしまいました。

今、県内の常磐線で一番の問題は、龍ケ崎市駅の水戸方面にある「第2竜ケ崎街道踏切」です。国道6号線への抜け道となっているため、通過交通が多く、要注意踏切の代表格になっています。同市の萩原勇新市長には是非、立体化に取り組んでもらいたいと思います。(一級建築士)

家計ときちんと向き合う 《ハチドリ暮らし》10

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【コラム・山口京子】1月のある日、家計の棚卸しをして、今年の予定をおおまかに立ててみました。皆さんはどうでしょうか? 2021年の1月1日から12月31日までの1年間の収入と支出の額を確認されましたか? 12月31日時点の資産の残高を書き出し、1年前と比較してどうなったかを点検されたでしょうか? それを踏まえ、これからのライフイベントについて話し合われましたか?

コロナ感染の影響はどれくらいありましたか? 教育資金の準備や住宅ローン返済の見通しなど、計画は実現できそうですか? 見直しが必要になっていますか? 家族を取り巻く環境は様々です。大事なのは家計ときちんと向き合うことです。

わが家はリタイア世帯となりました。収入は年金と少しの就労で、収入と支出はほぼ同じとなり、貯蓄ができなくなりました。今ある資産がこれからどう推移するのかを、ざっくりキャッシュフロー表で見ていきます。あと数年はこの状態を続け、生活のために資産を取り崩すのは70歳以降に延ばしたいと考えています。

そう思っても、将来のことは分かりません。一寸先は闇かもしれません。あるいは、新しいスタートがあるかもしれません。事情が変われば、その都度見直して、乗り切っていきたいものです。

父の施設入所を機に資産残高が目減り

今年から親の家計も見ることになりました。母は銀行に行くのも買い物をするのも、面倒になっています。家計の管理を引き継ぐ時期が来ていると感じました。

収入は年金のみです。支出は生活費と父の施設費用や医療費です。年間の収支がどうなっていて、資産の残高がいくらなのかを把握しました。すると、それまで横ばいだった資産の残高が、父の施設入所をきっかけに目減りしていることが分かりました。

このまま目減りすると、いつ底を突くのか? 母も施設に入ることになったら、そのためにかかるお金はどれくらいになるのか? 今からどんな見直しをすべきなのか? そういうことを初めて妹と話合いました。できるところから書き出しを始めました。

母が施設に入ると仮定して、かかる費用の目安、家や農地の維持にかかる費用―など。兼業農家だったので、小さな田んぼや畑があります。母が言うのには、近所の農家の方に管理してもらっているそうです。ですが、私や妹にはその場所が分かりません。固定資産税の納税通知書を見て、ため息をついています。

親の老いていく姿に、自分の20年後の姿を重ねます。そして、なるべく子どもたちに面倒をかけないようにと願うのですが、どうなるのでしょう。目の前のことを一つひとつ片付けて、片付けが終わるときが来るといいのですが。

あちらこちらで、荒れた畑が目立つように感じます。(消費生活アドバイザー)

91歳 和子さんの絵を描く《続・平熱日記》103

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【コラム・斉藤裕之】和子さんは91歳。今も東京で1人で暮らしている。和子さんは長女の嫁いだ先のおばあちゃんで、つまり私の孫からすればひいおばあちゃんということになる。その和子さんの絵を描いてほしいという。たまたま私の描いた孫の絵の画像をご覧になった、和子さんご自身が望まれたそうだ。

ちゃんとキャンバスに描いた方がいいのかな?とも思ったが、いつも描いている素材がいいということで、遠慮なくそうさせていただいた。人を描くのは嫌いじゃない。なぜかというと、ひとつには余計なことを考えなくていいから。人という単体を描けばいいから。そして、その人「らしさ」が描けるのが面白い。

やがて、ご家族が選んだ写真がメールで送られてきた。集合写真の中から、和子さんを拡大しながらよさそうなのを探すのだが、写真写りがいいのと、絵に向いているのとは若干違う。お若いときの写真もある。迷った末に、1枚の写真に決めて描くことにした。

人を描くのが好きだとは言ったが、うまいとは言っていない。だいたい、最初の描き出しからしばらくは調子がいい。ところが、しばらく描いているうちに、何となく雲行きが怪しくなってくる。

描いているときには、比例、奥行き、明暗、質、立体感、固有色…など、様々なことを瞬時に考えながら筆先を動かしているのだが、人の顔を描くと、どうしても目鼻口などに気を取られて、知らず知らずのうちに、芯のないペラペラな絵になっている。

例えば、日本の地図がいかに正確に描けていても、丸さが描けていなければ地球には見えない。一見複雑に見えるものにでも、必ず軸がある。その軸に対して構造があり、秩序があり、バランスがある。天体にも走る犬にも人の顔にもある。

はからずも前回の逸話の続きになってしまうのだが、それを最初に教えてもらったのが高3の夏。ひたすら石膏(せっこう)像を描いたアトリエだ。先生は初めて木炭を持つ私に、このことだけをしつこく言われ続けた。あれから何10年も経っているのに…。「斉藤! やり直し! 」

戦争を経験した母と同じ世代

選んだ写真は数年前のものだったが、お年の割に皴(しわ)もなく、年寄じみた感じがしない。和子さんのことはほとんど知らないのだが、絵を描きながら、勝手にお人柄などを想像しながら筆を進める。送ってもらった写真のほとんどは何かのお祝いでご家族が集まったときのものだった。

和子さんは一族の母親としていつも中心にいらっしゃる。もしかすると、数年前に亡くなった母と同い年かもしれないとも思った。

戦争を経験した母の世代。生前の母の姿や言葉なども思い出された。もしも生きていたら…ひ孫を抱く姿も容易に想像できた。私が母の絵を描くことはなかったが、母が私に書いた手紙が額に入れて残してある。字を書くのが好きだった母が、我が家の新築を祝って寄こした手紙。

改めて読んでみると、母の気持ちが素直に書かれていて、和紙に少し薄めの墨の色も美しい。あれ?おかあちゃん、カナコの漢字が違っちょるよ!

さて、小さな絵を描き始めて何日目かの朝、私が勝手に想像する「和子さんらしさ」が何となく感じられてきた。出来上がった絵を手製の額におさめた。(画家)

つくば市長の市民提訴 その顛末を検証する 《吾妻カガミ》126

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】ミニ紙に市政を批判され、ウソが多いと発行人の市民を訴えた市長。ところが裁判に勝てないと気付き、取り下げを図ったものの、条件付きの和解を拒否され、逆に「追訴」で裁判を補強した市長。それでもダメと分かり、無条件取り下げをのんでもらい、自ら裁判の幕を引いた市長。つくば市長の市民提訴の顛末(てんまつ)はこんな流れでした。

原告・市長の取り下げ声明(1月20日)は記事「名誉毀損訴訟を取り下げ 五十嵐つくば市長、FBで公表」(1月20日掲載)で、被告・市民(亀山元市議)の記者会見(同1月21日)は記事「当初、口外禁止を条件に和解案 …つくば市長」(1月21日掲載)で、ご覧ください。五十嵐さんの1人芝居に終わった感がある裁判のあらましが分かります。

よく調べずに高齢市民を提訴

発信力がある市長が80歳の高齢市民を提訴(2020年11月、被告が知るのは2021年1月)するという、このユニークな裁判沙汰については本欄でも5回取り上げました。今回はその続きです。

五十嵐さんの当初の主張は、亀山さんが発行する「つくば市民の声新聞」の市政批判記事は虚偽が多く、市長としての名誉を傷付けられた、だからその損害を賠償せよ―というものでした。ところが、記事は市長個人を批判したものでなく、市政の不出来を批判したものだから、民法の名誉毀損にならないことが分かった―これが取り下げの理由、その1です。

途中で補強した主張(2021年9月)は、市長選挙前、ミニ紙は市政について虚偽の記事を載せ、事実をゆがめたから、公職選挙法の虚偽事実公表罪に当たる―というものでした。ところが、それを立証できなかった―これが取り下げの理由、その2です。

よく調べないで裁判に持ち込んだあと、両者の弁護士と裁判官による審理の過程で、ミニ紙の記事は名誉毀損に当たらない、公選法上の問題も立証できない―ことが分かったというのです。実にお粗末です。

ネット上のフエイスブック(FB)に、「提訴の時点で検討が不十分であったことについては反省しております。亀山氏に応訴の負担をおかけしたことについても申し訳なく思っております」(取り下げ声明)と書き込んで済む話ではありません。亀山さんに直接会い、弁護士費用は負担しますと、謝罪するのが大人の作法でしょう。

市長としての適格性に疑問符

亀山さんによると、五十嵐さんが最初(2021年6月)に取り下げを図ったとき、その和解案には「和解により(裁判が)終了したことを除き、正当な理由なく第三者に口外しないことを相互に確約する」「本件訴えの提起や和解内容に関して、論評しないことを相互に確約する」との条件が付けられていたそうです。

分かりやすく言えば、提訴をコッソリ取り下げたいので、その経緯はメディアなどに喋らないでほしい―ということです。取り下げの詳細を市民に知られたくなかったのでしょう。

法律をよく調べないで市民を訴える(市長の適格性に疑問符)。市民への謝罪をネットで済ませる(大人の社会常識が不足)。取り下げの実相を市民に隠す(正しい情報発信とは真逆)。市民の市政批判を萎縮させる(民主政治の基本「言論の自由」を軽視)。今回の一件を検証して、五十嵐さんのこんな行状が明らかになりました。 (経済ジャーナリスト)

<名誉毀損提訴を取り上げたコラム>
▽101「…名誉毀損提訴を笑う」(2021年3月1日掲載
▽103「…提訴を検証する」(2021年4月5日掲載
▽105「…近く裁判開始」(2021年5月3日掲載
▽111「…提訴を取り下げ?」(2021年7月19日掲載
▽120「…批判封じに新手」(2021年11月15日掲載

海軍のまち土浦は元祖パンのまち 《ポタリング日記》5

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【コラム・入沢弘子】「霞浦海軍航空隊にパンを納めていた」と話すパン屋さんが、幼少期に住んだ土浦の家の近所にありました。以前から土浦にはパン屋さんが多かったと思い出し、土浦駅周辺の店11軒を訪ねました。駅ビルやスーパーの店舗内にもあるのですが、今回は地元の独立店でパンを焼いているお店から、昔ながらの味「あんパン」を選びました。

浦総合公園のオランダ型風車の展望台から湖の景色を堪能し、駐車場でトランクの「BROMPTON(ブロンプトン)」を組み立てて出発。高校の購買部でもお馴染みの「栄パン」は霞ケ浦文化体育会館横を通過し国道を渡るとすぐ。工場併設の売店があります。

次の「コパン」は栄パン横のなだらかな坂の上。お店前の信号から住宅街を進み、大通りを渡って土浦日大高校の前を通過。先の常磐線線路を跨ぐ歩行者専用橋を渡ります。坂を下って駅方向に進むと「プレジール」。

この先は土浦第二小学校横の道を線路に向かいます。県道を渡り線路沿い道を行くと、突き当りに「鈴家パン」。工場横の厚い木の扉を開けると、パンの世界が広がっています。鈴家パンも高校の購買部の思い出のある方も多いでしょう。

城下町の街並みに溶け込むパン屋さん

この後は少し離れたお店へ。桜川橋を渡り左岸を上流にひた走り。土浦橋を過ぎた自転車専用道の手前を下ります。桜川保育園の先の「パン工房T-LAMP」は、市内の別の場所から移転してきました。

お店の隣のヨークベニマル前で県道を渡り住宅地を進み、洋菓子屋さん手前を右折直進。旧6号(国道354号)を越すと、道は染谷石材店で直角にカーブ。ここは土浦城の南門跡。屈曲した道は城の防御拠点の馬出があった場所です。

右手に可愛い四角い建物の「小林パン店」。子ども時代に等覚寺の墓地横を通って来たお店です。土浦宿の面影が残る中城通りを抜け、駅前通りを渡ると土浦宿本陣跡の商工会議所に至ります。向かいに昭和のたたずまいを残す「木村屋パン店」。お店の先を左折直進し、駅前通りを亀城公園方面に進むと右手に「フランドル」。赤い店舗テントが目印です。

筑波銀行本店前を左折し瀧泉寺前を進むと、旧町名・鷹匠町の石碑が建つ道にぶつかります。左折しすぐ右折すると「猪俣パン店」。路地を抜けて町の空気を感じられるのが土浦散策の醍醐味(だいごみ)。小回りのきく自転車は最適です。

あとの2軒は駅方向。完成直後の亀城モールを通ります。ここは霞ケ浦へ続く川口川のあった場所。同じく川口川跡のモール505横に「千勝堂本店」。最後は駅前から伸びる八間通りの一つ目の信号先の左手に「中村屋」。れんこんサブレ―が置かれた棚から、あんパンを選びました。

城下町の街並みに溶け込む土浦のパン屋さん。昭和初期から続く店もあり、人々の生活に寄り添うように続いてきました。ふんわりとした生地のパンは、老若男女に愛される、やさしく親しみやすい味。海軍のまち・土浦は、カレーも有名。次の買い歩きはカレーパンにしようかな。(広報コンサルタント)

嫌いな人に嫌われても構わない 《続・気軽にSOS》102

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【コラム・浅井和幸】毎日の生活の中で嫌なことが重なり疲れてくると、せっかくの休日なのに、学校や職場での嫌なことばかりを考えてしまうものです。苦しく余裕がなくなると嫌なものに過敏になるのは、生物の長所でもあるのでしょう。危険を避けるためには必要な特徴です。

ですが、まるで恋焦がれるように、嫌なクラスメートや授業、嫌いな同僚や上司、仕事などを、ずっと考え続けることはお勧めできません。次の月曜日に試すために、対策を練るのであればよいのですが、ずっと「嫌だな、嫌だな」と繰り返すのは、疲労をため込むだけになってしまいます。

この習慣を続けると、良い友達、面白い授業、尊敬する上司、意義を感じられる仕事があったとしても、それらをないがしろにし始めます。そして、嫌なことばかりを繰り返し考えるのです。

自分にとって好ましい人、尊敬できる人の価値観を軽く見て、自分が嫌いな人、尊敬できないとの価値観を大切にしようとしている状態になっていることに気づきにくくなります。嫌いな人に嫌われることを恐れます。

好きな人に悪い態度をとる

なので、人の悪口を言いたくないと思っていても、人の悪口を言う嫌な人に嫌われたくないので、自分が嫌いな人と一緒になって誰かの悪口を言う毎日。能力のない上司に気に入られるために無駄なことをする、性格の悪い同僚のご機嫌を取るために性格の悪い言動を繰り返す。

好きな人や尊敬できる人は、自分を攻撃してこないので、無視してもよい人間となります。場合によっては、少々、八つ当たりしても優しく受け止めてくれるので、厳しく当たってしまいます。

これはとても疲れることですよね。好きな人に悪い態度をとり、嫌いな人に良い態度をとる。だんだん、自分が望まない、自分が嫌いな人間になる努力をしているようなものです。そうはいっても、嫌いなクラスメートや上司を無視してよいかとなれば、そう簡単なものではないですよね(せめて離れているときは無視してもよいと思いますが)。

そこは、どれぐらい最小限の付き合いができるかを考えつつ、もっと大切な、自分が好きだったり尊敬できたりする人との関係をどのように大切にできるかを考えましょう。極端に言えば、嫌いな人に嫌われることを甘んじて受け入れて、尊敬できる人に尊敬されるような、好きな人に好かれるような人間を目指すと考えてみましょう。

そして、それに近づくために現実的に自分に何ができるかを考えて試します。余裕がないときはその考えが浮かばず、「絶対無理」とか「~するしかない」という考えしか浮かばないと思います。そんなときは、尊敬できる人に何かしらのアイデアを分けてもらいに行動に移してみてください。(精神保健福祉士)

義務教育で「キャリア」を考えさせよ 《地方創生を考える》21

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ダイヤモンド筑波(筑西市)

【コラム・中尾隆友】現在の小学校から高校までのカリキュラムでは、児童や生徒は自分がどのような仕事に向いているのか、考えさせられる機会が全くと言っていいほど与えられていない。私の経験からも、高校の時は大学に入るのが大きな目標だったし、大学に入学後も自分が本当に何をしたいのか、よく分かっていなかった。

本稿をご覧になっている多くの人々が私と同じような経験をしているとは思うが、いまの先生方はとにかく忙しく、キャリア教育にまでが手が及ばない状況だ。

保護者対応や事務作業、部活だけでなく、新教科(英語・道徳)やプログラミング必修化への対応にも追われ、児童や生徒の将来の方向性について一緒に話し合ったり考えたりする余裕がないのだ。

しかしながら、これからのデジタル化の時代では、しっかりとしたキャリア教育の体系を確立していく必要がある。そのためにも、初等教育(小学校)から中等教育(中学校・高校)の受け持つ役割は、決して軽視できるものではない。

「自分は何に向いているのか」

そういった意味では、自分が何に興味があるのか、自分が何に向いているのか、児童や生徒は教師とコミュニケーションを取りながら、自らも自問自答する機会を与えられる教育が求められているように思う。

個人個人がそういった過程を経ながら、中学生か高校生のうちに得意分野や適性を伸ばす教育に変えていかなければ、大学生になって自分が本当に何をしたいのかと考えても、なかなか答えは見つからないだろう。

通常であれば中学生から、遅くとも高校生から、生徒が自分で自分のキャリアについて夢を持って考える機会を育んでいく必要がある。

企業と学生の不幸なミスマッチを減らすようにするためにも、学生が大学を卒業する時に「自分はこういう仕事がしたいから、大学でこの専門を選んで勉強をしてきたのだ」と言えるような教育にしてほしい。

つくば市など教育で先進的な取り組みをする自治体では、義務教育でこういったキャリア教育の導入をしてみてはどうだろうか。(経営アドバイザー)

真夜中の高速を走る 《ことばのおはなし》42

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【コラム・山口絹記】これは、昨年、真夜中の東北自動車道での出来事。

この日、私は、大学時代の同期2人と、自分の娘を車にのせ、4人で岩手山のふもとを目指していた。岩手山を登ろうというわけではない。世の中も少し落ち着いてきたということで、そこに住む旧友を訪ねようという、かねてからの計画を実行に移したのだ。

同行したのは、大学の経済学部非常勤講師とプログラマー兼フリージャズドラマー。向かう先に待っているのは、元パン屋さんで現役大工さんという、共通項といえば、今でも変わらず好きなことをやって生きているくらいの面々だ。

興奮のせいか、なかなか寝付かない娘もようやく寝静まった深夜3時ごろ。後部座席からも豪快ないびきが聞こえるので、ミラーに目をやると、講師の彼のほうは静かに景色を眺めている。

「あら、起きてたの?」

「いや、山口くんひとりじゃ寂しいかと思って」

いいヤツなのだ。大学時代から私は彼の下宿先に泊めてもらっては、おいしいコーヒーをごちそうになっていた。副業としてジャズ喫茶で働く彼は、当時から音楽を愛していた。今も昔も、彼の周りは音楽とコーヒーの香りがする。

道沿いに、放射線量を示す電光掲示板が見えてきた。原発事故があったのが、ちょうど私たちが大学を卒業した年。卒業式が中止になったため、皆で奔走して手作りで行った卒業式。学生代表の挨拶をしたのも彼だった。

未曽有の災害、原発事故、世界的なパンデミック。かつてSFの題材として扱われたこれらの事象は、すべて身近な現実となって日常の風景になりつつある。

ジョージ・オーウェルの「1984年」

いつしか話題は、SFで扱われる全体主義に対する、一般読者とアカデミックの世界での認識の違いという、学生時代に戻ったようなものになった。私たちはいつも通り、和気あいあいと話しているのだが、問題は車がはいているオールシーズンタイヤ。これが非常にうるさい。

いつもであればテーブルをはさんでコーヒーを飲みながら、小声で話すような話題だ。しかし、窓を閉め切っても鳴り響く走行音に、後部座席の彼は身を乗り出し、私は話すときだけ口をむけては大音声で話さなければならない。口調もだんだん荒々しくなる。

「んなこたぁわかるけどサァ! フィクションとしてぇ! 面白いのが!大切じゃん! 1984からこっち全体主義って言ったら」

ゴォー(走行音)

「えぇ?なぁに?」

「だからぁ! オーウェルの1984!」

「あぁ! ジョージ・オーウェルね! それはわかるよ! でもねぇ! 当時から学校ではきちんと」

ガタガタゴォー(走行音)

「あぁ? なんつった?」

思い返せばこのとき、いびきが聞こえなかった気がするのだ。朝方到着した盛岡の朝市で、眠そうにしているドラマーの彼は目をこすりながら言った。

「いやぁ、てっきりケンカしてるのかと思ってさ。やべぇと思って寝たふりしちゃったよね」

彼もいいヤツなのである。

おはなしというのは、やさしくするものだと改めて感じ入る出来事だった。文章だって、きっとそうだろうと思う。(言語研究者)

手と耳と鼻で自然を観察 《宍塚の里山》85

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講演する北村まさみさん

【コラム・森本信生】私たち「宍塚の自然と歴史の会」では、毎月、里山について学ぶ「土曜談話会」を開いています。昨年10月の談話会には、手話通訳者の北村まさみさんを招き、「障害者と里山」の題で話してもらいました。今回はその内容の一部を紹介します。

講演では、障害者と共に行う様々な行事についての話がありました。例えば、雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)や、受粉の様子を手話でどう表現するか―などです。植物の様子を的確に捉えていて、大変面白いものだったそうです。

また、暗闇の道を、目が不自由な人が目の見える人をリードする話。さらに、話をせずに情報をどのように他人に伝えるかを、言葉が不自由な人から教わる話。北村さんによると、このような活動を、つくば市の産業技術総合研究所など、いろいろな所で行ってきたそうです。

この流れで、北村さんに企画をお願いし、私たちの会でも「手と耳と鼻で楽しむ観察会」を開きました。木々を触り、植物の匂いを嗅ぎ、なめて味を確かめ、鳥の声を聞き、その気配を感じる―といった、他では体験できない観察会です。視覚以外で自然を感じる面白い観察会でした。

障害を持つ方も楽しめる里山

講演では、「障害は社会がつくる」という言葉が印象に残りました。車いすで移動ができないとか、視覚や聴覚が不自由なために危険を感じるのは、バリアフリーでないからです。社会の仕組みが、障害をより深刻化させているのです。そういったことは、仕組みを変えることで改善できます。

目が不自由で文字を読めなくても、情報機器の発達で軽減されつつあります。文字が直接書けなくても、スマホの音声入力やパソコンのキーボードで可能になっているからです。

事故や病気によって、いつ障害者になるかはわかりません。また、だれでも老化します。障害者が住みやすい社会は、高齢者にも住みやすい社会です。私たちは、障害を持っている方でも里山を楽しめるよう、活動を続けたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 理事長)

公有地売却に見る つくば市の牽強付会 《吾妻カガミ》125

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市の「高エネ研南側未利用地土地利用方針」を読んで、「牽強付会(けんきょうふかい)」という四字熟語が浮かびました。「自分の都合がいいように強引に理屈をこじつけること」という意味です。市はこの未利用地を民間に一括売却する方針を打ち出し、市民に意見を求めましたが、強引に大方の市民は賛成とこじつけたからです。

運動公園用地 強引に民間一括売却へ

つくば市長の五十嵐さんにとって、高エネ研南側未利用地(総合運動公園用地)問題をどう片付けるかは最大の課題です。そこで、市民の声を聴いて市政を進めるという「五十嵐スタイル」に沿って、民間一括売却案を市民がどう思っているか、パブリックコメントの手法を使って意見を聴取しました。

その内容が議会に配られた「…土地利用方針」に出ています。その概要や市議と市側の質疑応答については、記事「『反対は一部』と民間一括売却 パブコメ受け最終方針…」(1月11日掲載)をご覧ください。

意見を寄せた77人のうち、A:明確に賛成した人が2、B:賛成も反対もせず別の利用法を提案した人が57、C:明確に反対した人が6、D:反対して別の利用法を提案した人が7、E:その他が5人―と分類されています。市は、Bの57人は反対ではないから基本的に賛成とこじつけて解釈、「民間一括売却は支持された」と結論付けたそうです。

何が何でも民間一括売却を押し通そうと、パブコメを曲解する「牽強付会」の見本のような整理の仕方です。常識的には、賛成(A)2人、反対(C+D)13人、対案(B)57人―と分類。対案提出者は賛成ではないのだから、反対多数(B+C+D=70)と集約すべきでしょう。

市民の声を知るには住民投票が一番

「クロ」を「シロ」と仕分けした市も、鋭い市議から「その分類はおかしい」と指摘され、まずいと思ったのか、記事「民間一括売却『明確に賛成』は2.5%…」(1月12日掲載)にあるように、対案提出者(B)57人を賛成に分類することを取り止めたそうです。

それでも、民間一括売却は強行するそうですから、思考経路はどうなっているのでしょうか? 何のためのパブコメだったのでしょうか? 市民の声を大事にする市政を捨て、市民の声を軽視することにしたのでしょうか?

市の最初のパブコメ分類は問題ですが、それに応じた方々が市民の代弁者であることは間違いありません。でも、少ないサンプルで市民の声を計るのは正しくありません。そこで提案です。市民の声を広く聴くため、市長発意による住民投票(総合運動公園の是非で実施)か、サンプル数が多い無作為抽出調査(土浦市との合併の是非で実施)をやったらどうでしょうか?

五十嵐さんは、市民発意(署名活動)による住民投票で、前市長の総合運動公園計画を撤回に追い込んだ活動家です。そのスタイルを貫くには、どちらかの方法で民間一括売却に賛成か反対か聴くのが一番です。(経済ジャーナリスト)

<参考> パブコメの対案と市の対応

▽対案:防災施設、公園・緑地、道の駅、学校、カフェ・レストラン、キャンプ場、再エネ施設、研究所、テーマパーク、商業施設、陸上競技場など。

▽対応:「提案は(土地を買う)事業者が地域に資する施設を敷地内の一部に配置する上での参考資料になる」と、事業者に取り入れを要望。

プーチンはウクライナ侵攻を決断するか 《雑記録》32

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【コラム・瀧田薫】ウクライナ情勢が緊迫の度を増しています。1月27日、米政府とNATO(北大西洋条約機構)がロシア側の要求「NATOの東方拡大の停止」を拒否したことで、米ロ間の外交交渉は行き詰まりつつあります。すでに昨年12月の時点で、プーチン・ロシア大統領は「米欧がロシアに対する攻撃的路線を続ける場合、適切な軍事技術的対応策をとる」と述べましたが、「適切な軍事技術的対応策」の具体的中身は明らかではありません。

プーチン氏の強硬姿勢は、裏返せば彼の焦りでもあるでしょう。クリミア半島の併合はロシア国内でこそ高く評価されましたが、ウクライナ国内の反ロシア感情に火を付けました。ウクライナ政府はこれを受けてNATO加盟の意思を表明、米欧諸国に急接近しています。この流れを止めなければとの思い、それがプーチン氏をせき立てています。

プーチン氏の強硬策には好材料もあります。米国は国内の分断があって、外国に対する軍事的介入に出る余裕がありません。アフガンにおける米軍の失敗を見て、プーチン氏が「米国の軍事対応はない」と判断しても不思議はありません。

また、米国と欧州、特にドイツとの間には、対ロシア政策において不協和音があります。ドイツはロシアのエネルギー資源への依存度を強めてきており、ロシアとの関係をこじらせたくないのです。中国については、米欧による対ロシア経済制裁をカバーする役割を期待できます。中ロは米国の弱体化を望む点で一致していますし、中国はいざとなれば、全力でロシア支援に向かうでしょう。

戦わずしてNATOから妥協を引き出す?

以上、プーチンの強硬策を後押しする材料はそろっているようですが、これだけで彼がルビコンを渡ることはないでしょう。彼の政策判断のもう一つの条件は、ウクライナ侵攻の費用対効果の問題です。ロシア軍と米軍が直接衝突する可能性は低く、問題はロシア軍とウクライナ軍の衝突にほぼ限定されます。

しかし、この衝突がウクライナ全土に波及するのか、親ロシア武装勢力が実効支配するウクライナ東部に限定されるのか、あるいは、クリミア半島併合時のハイブリッド戦の再現になるのか、それとも英国の情報部(MI6)が示唆する「ウクライナに親ロシア派指導者を擁立する政治的謀略」が発動されるのか、プーチン氏が何をいつ選択するかによって、その後の結果は大きく違ってきます。

そして問題が複雑になればなるほど、その問題のはらむリスクも大きくなります。ウクライナ侵攻はリスクが大き過ぎるとし、プーチン氏は武力侵攻を避けると予想する外交・軍事専門家もいます。プーチン氏の真の狙いは、戦わずして米国とNATOから妥協を引き出すことにあるとの見方です。

結局、プーチン氏がどう出るか、今の時点で予想はできません。ただ、武力侵攻のあるなしに関わらず、ウクライナ危機が長期化し、国際紛争の火種であり続ける事態を覚悟しておく必要はあると思います。(茨城キリスト教大学名誉教授)

高田保の「ブラリひょうたん」 《ひょうたんの眼》44

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あの花もこの花もみな春の風 高田保の句碑(土浦市・亀城公園)

【コラム・高橋恵一】高田保は、土浦出身の劇作家、映画監督、舞台演出家、随筆家である。旧土浦町の旧家に生まれ、子供のころから気遣いができて話も面白く、同級の者以外とも交流するなど、人望が厚かったそうだ。

旧制土浦中学(現在の土浦一高)を経て早稲田大学の英文科に進み、頻繁に銀座に現れるなど生活を謳歌(おうか)したという。中学の入学試験はトップだったが、2位には阿見町出身の下村千秋がおり、その後、2人とも文筆の道に進んだ。

保は、大学在学中から新劇運動に参加。戯曲に取り組んだり、劇団の脚色、演出、小説の執筆など、幅広い分野で活動。人柄もあって幅広い付き合いがあった。

東京日日新聞(現・毎日新聞)の学芸部長だった阿部真之助から、菊池寛を顧問とした学芸部社友に、大宅壮一、横光利一,吉屋信子らとともに招かれ、活躍。彼らの文章を評して、「マクラの阿部真之助、サワリの大宅壮一、オチの高田保」と言われたこともあるという。

戦時中から体調を壊し、大磯(神奈川)に住まいを移し、晩年は、同じ大磯の志賀直哉の旧居に住んだ。

戦後、1951年の12月から、東京日日に、1日1文「あとさき雑話」を書き始め、新年からは表題を「ブラリひょうたん」に改めた。なぜ、ブラリなのか? なぜ、ひょうたんなのか? 1951年元旦のテーマは、「ブラリズム」だった。立つ位置を縛られず、真実と平和を、軽妙な文章で追及する意思、と私は読んだ。

この随筆では、保の豊富な才能がいかんなく発揮された。政治・社会から、文化・芸術まで、軽妙に取り上げ、菊田一夫(劇作家)と紙上で手紙を交換したり、廣津和郎(小説家、評論家)からは、他の記事を読まず、「ブラリひょうたん」だけを毎日待っていたと言われたりしている。

保と母の葬儀は土浦で一緒に

「ブラリひょうたん」で、私が気に入っている一つに、「税金と文化」に登場する奈良の「日吉館」という宿屋の話がある。古美術研究者など、金のない研究者たちが滞在できる宿屋として有名だった。

そこに、学生たちがコメだけは背負って来たから、安く泊めてくれと言ったら、50円でよろしい、その代わり、他の客より1時間早く起き、できるだけ沢山観て回りなさい、と答えたそうだ。

日吉館に居候のように巣食って、その後、有名な学者になった人も少なくない。古都の奈良美術を誇りとしている宿屋の気概を紹介するエピソードだが、この宿屋に、他の高級旅館並みの税金が課されて、宿屋の存続が危うくなったので、課税のあり方を考え直すべきだという内容である。

保の一面に、母親とのかかわりがある。旧士族の妻として、毅然(きぜん)とした振る舞いが、活け花の話題などで紹介される。

大船の母親のところには、30日か31日には年の暮れの挨拶に行き、元日にも年頭の辞を述べるために、大磯から行ったそうだ。その後、母親は土浦に疎開したのだが、「ブラリひょうたん」を休むと、母上が心配するからと、休みなく書き続けたという。

母親危篤の電報は、保の大喀血(かっけつ)の前日に届き、双方が死を知らなかった。2人の葬儀は、土浦で同時に行われたという。(地図好きの土浦人)