コラム・山口絹記】「ところで、前回予告した通り、今回は発話における言語的な正しさ、なんてものについて話すていくンですが。まずはぢめに、あんた、この記事読んでンじゃん、今。それ、日本語を使用すること、可能ってことっしょ。ま、ネイティブなンだから全然すごいもなーんともないですネ」

コラム記事としては不適切な文章を書いてみたのだが、いかがだろう。国語学や日本語学の知識を動員するまでもない。おかしな日本語だ。文法的におかしい、語彙(ごい)の使い方が誤っている。TPOを考慮すればありえない言葉遣いだ。しかし、大まかな意味と意図は伝わってしまっているのではないだろうか。

さて、前置きが長くなったが本題に入る。

私を含めた多くの言語学習者にとって、正しい文法、正しい発音、というあいまいな概念は、発話する勇気をそぐ大きな要因になっている。しかし、上にも書いた通り、かなりおかしな言葉遣いでも相手に大まかな意味と意図を伝えるのには十分であることが多い。

今回の連載における目標はあくまで英語の上達だ。だからあえて言い切ろう。言語における「正しさ」という基準がもしも存在するとしたら、それは唯一「意図が伝わるかどうか」だけだ。

念のため断っておくが、「意味」が伝われば何でもよい、ということではない。先に書いた「意図」には、表面上の「意味」だけでなく、仲良くなりたい、理解しあいたい、などの意思も含まれるととらえていただきたい。

相手に敬意を示すためには、どうすれば失礼な物言いができるかを知っておいた方がよいし、好意を示したければ、敵意を示す方法を知っておいた方が身のためだ。さらに難解なことに、人間というのは、お互いの理解や親睦を深めるために、あえてナンセンスで誤った情報や常識を、誤ったものとして共有することを求める性質を持つ。いわゆる、冗談、ジョークというものだ。

意図を伝えるために最善を尽くす

こういったことを一番効率よく学ぶ方法こそが、今までの連載でも述べてきた、英単語の多義性や歴史、文化などを学ぶことなのだが、どちらかと言えば、机上でいくら学習しても十分でないと知ることの方がよほど大切だ。

正しいと言われる表現さえしていれば問題が起こらないなら、誰だって苦労はしない。売り言葉に買い言葉をしたことのない者はいないだろう。そのいさかいの原因は、果たして文法上の問題だっただろうか。違うだろう。母語ですらしょせんその程度なのだから、外国語を特別扱いする必要などないことは自明である。

何より大切なのは、「意図を伝えるために、どこまでも最善を尽くす」ということに他ならない。一言で伝わらなければ、時間をかけて、場合によっては一生すら賭して、辛抱強くことばを重ねる。これは母語でも同じである。いかがだろう。私の意図は伝わっているだろうか。

四の五の言わずに話し始めよう。ということだ。(言語研究者)