木曜日, 5月 2, 2024
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みんなで楽しく田んぼづくり 《宍塚の里山》89

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「田んぼの学校」の田植えの様子

【コラム・阿部きよ子】私たち「宍塚の自然と歴史の会」では、1995年から里山の中の休耕地となった谷津田で稲作りを開始し、1999年以降、子どもから大人までを対象とした「田んぼ塾」を開いてきました。そして、2015年からは、新たな稲作方法を研究開発する「自然農田んぼ塾」と子ども中心の「田んぼの学校」に分かれて、谷津田の稲作に取り組んできました。

田んぼの学校は、年度ごとに家族単位で「生徒」を募集し、①稲作と稲作に伴う伝統文化を学ぶ食農教育、②里山の自然や田んぼの環境について学ぶ環境教育―をしています。

今年度は、定員越えで数家族お断りしましたが、33家族で発足しました。豊かな生態系を持つ宍塚の里山の入り口の休耕田を地主さんからお借りし、機械化以前の方法で、肥料は米ぬかだけ、完全無農薬で稲を育てています。伝統行事の「ならせもち」用に、白、赤それぞれ1種類の餅米の品種と藁(わら)細工用の品種を栽培しています。

子どもが田植えや稲刈りに参加する「田んぼの学校」は各地にありますが、私たちの学校には、以下のような特色があります。

a.子どもも大人も主体的に取り組む、b.種まきから食べるところまで継続して稲と関わる、c.里山の四季の変化の中で感性や知性を駆使し、自然環境を体験しながら学ぶ、d.毎回、作業の意味や稲作の変化について学習し、日誌もつけ、ときには「宿題」もする、e.経験も知識も出身地も異なる老若男女、大人子どもが交流し学び合う―。

子どもは泥んこを楽しむように

参加者が増え、出席率も高いので、種まき、しろかき、田植え、草取り、稲刈り、脱穀(足踏み脱穀機使用)と選別(唐箕=とうみ=)などの作業は、5~6回に分けて実施しています。かかし作りの竹の準備、かかしとお別れする「かかし送り」、正月の伝統行事「ならせもち」(昨年度は餅の代わりに紅白団子を枝につけました)などは、担当係の家族を中心に、準備から片付けまで皆で取り組んでいます。

子どもも大人も、よく働き、よく学びます。最初は泥に入るのが怖くて泣いた子も、他の子の様子を見ながら勇気を出せるようになり、泥んこを楽しむようになっていきます。泥だらけの服を自分で井戸水で洗って着替える子もいます。

子どもたち同士が刺激し合いながら、頼もしい働き手になっていく姿から、親たちもスタッフもエネルギーをもらっています。昨年度は「トム・ソーヤスクール企画コンテスト」に応募し、努力賞をいただきました。

コロナ禍で、皆が一同に集まる機会が減ったこともあり、HP担当の親御さんたちが、作業や行事の様子がわかるHPと、子どもたちの日誌や絵のHPを開いています。皆さまも、私たちの会の田んぼの学校のページを開いてみてください。大人のスタッフはすべて無償ボランティアですが、随時募集中です。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

幻の「筑後氏」から脱し、正しい「小田氏」に 《ひょうたんの眼》49

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特別展のパンフレット(左)と展示図録の一部=土浦市立博物館発行

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家と名門常陸小田氏」(3月19日~5月8日)では、小田氏の初代・八田知家(はった・ともいえ)が「八田氏」から「筑後(ちくご)氏」に名乗りを変え、「小田氏」を名乗るのは、4代目の時知(ときとも、1250年ごろ)からと説明されていました。

私は、八田氏の名乗り(今でいえば苗字)を「筑後」に変えたとする説明は誤りと思うから、訂正すべきだと、特別展前に博物館宛てに出した文書、それから本コラム47(4月20日掲載)で指摘しました。しかし、博物館の本サイトへの「お応え」寄稿(4月27日掲載)では誤りでないとの論拠が示されず、特別展のシンポジウム(5月1日)でも、参加者から質問があったのに、「筑後の件は置いておく」と、取り上げられませんでした。

博物館などが「八田知家」が「筑後」に名乗り(苗字)を変えたとする根拠は、歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」の中の記述で、知家の子供たちが「筑後太郎」「筑後六郎」などと名乗ったとしていることです。

吾妻鏡の人名表記は、名(苗)字に太郎とか七郎などの生まれ順ないし家における順序が示され、さらに実名からなるのが基本とされ、八田右衛門尉(うえもんのじょう)知家、北条小四郎義時(ほうじょう・こしろうよしとき)、結城七郎朝光(ゆうき・しちろうともみつ)などとされています。さらに、本人が五位以上の(朝廷が任ずる)官職に就くと、官職名だけとなり、相模守(さがみのかみ=北条義時)、筑後守(八田知家)などと表記されています。

その子息たちは、親の官職名の後に、名字を省略して、自分の官職や通称と実名が表記されています。北条泰時(やすとき、義時の嫡男)は相模(さがみ)太郎、八田知重(ともしげ、知家の嫡男)は筑後左衛門尉(さえもんのじょう)知重結城朝廣(ゆうき・ともひろ、上野介朝光=こうずけのすけ・ともみつ=の嫡男)は上野七郎左衛門尉朝廣などと表記されています。

いずれも、吾妻鏡の編者が、多くの御家人の人名を記述するにあたって、家系や官位などを整理・判読できるように、ルールに従って記述したと考えられます。つまり、筑後左衛門尉知重、の「筑後」は「筑後守の子息の…」という意味であり、名字を表記しているわけではありません。「相模」太郎も「上野」七郎左衛門尉朝廣も同じ表記ルールです。

「筑後氏」の採用は各種の歴史にも影響

さらに、吾妻鏡の成立は、源氏3代の将軍記が1270年代前半、それ以降の将軍記は1300年ごろとされており、八田氏が名字を変えたとされる時期から70年後にならないと、「筑後知重」という表記は見ることができないのです。名乗りを変えたとする知家は、「筑後」を子息の名乗りの前に表記されることを、いつ認識できたのでしょうか?

今回の特別展やその際に出された図録では、発掘調査の結果、小田城あるいは居館が八田知家の時代に小田に存在したことを否定できない、と報告されました。知家が建立したとされる極楽寺も同様です。小田を名乗ったのは4代目時知からとされる根拠の宝治合戦(ほうじがっせん、1247年)での3代・泰知(やすとも)失脚説も、誤りの可能性が大きいとされました。

近年のつくば・土浦地方の市町村史や歴史展示では、「筑後氏」説の採用を受けて、小田城と八田・小田氏の登場を、従来の通説より70年ほど遅れた年として説明しています。これは鎌倉時代の約半分の年数になり、考古学や交通史、文化史、宗教史などにも影響を与えます。幻の「筑後氏」から脱し、出版物や展示などが訂正される必要があります。(地図と歴史が好きな土浦人)

絵になる散歩、鎌倉の養老先生、洞峰公園の市民《遊民通信》41

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つくば市の洞峰公園

【コラム・田口哲郎】

前略

先日、最近話題の洞峰公園(つくば市二の宮)を散歩しました。遊歩道が、洞峰沼、野球場、サッカー場、テニスコート、子ども広場、温水プール、体育館の周りを巡っています。広々とした良い公園です。先日このコラムでも、都市の中のこの公園にも「自然」があるのだと書きました(3月24日付)。さて、今回はつくば市での「散歩」について考えたいと思います。

2020年から1年近くNHK・BSで放映された「まいにち養老先生 ときどき まる」は『バカの壁』で有名な解剖学者養老孟司さんと18歳の愛猫のまるののんびりとした暮らしを紹介するドキュメンタリーです。

養老先生は鎌倉に住んでいます。まるは老猫なので、先生の家の庭から外に出ませんが、養老先生は毎日散歩します。谷が多い鎌倉は起伏が多く、高齢の先生が歩くのは大変そうですが、風情のある坂をゆっくり登ります。先生の行く先は建長寺や覚円寺などの古いお寺です。

年季の入った木造のお堂で宗教観を語ったり、苔(こけ)に覆われた古い墓場をめぐって死生観を語ったりします。時には、奥さまと二人、近所のおしゃれなモダン中華のレストランで優雅にディナーというような、地位も名誉もある先生らしいハイソな生活も出てきますが、大体は「散歩してる」の印象です。

寺院巡りの次に先生は、北鎌倉駅近くのカフェでタバコをくゆらせながらコーヒーを飲み、プリンを食べる。その映像を見ながら、鎌倉は散歩も絵になるなと思いました。

「使う」から「愛でる」街へ

散歩くらい私もします。その間に哲学的なことを考えたりもします。カフェだって、一昔前までは東京都心にしかなかったけど、もう茨城県南でもおなじみになったスター・バックスでカフェ・モカとスコーンを頼みます(タバコは吸いませんが)。やっていること自体は先生と変わりません。もちろん、養老先生の足元にも及ばないというか、比べるのも申し訳ない私なのですが。

もし養老先生がつくば市に住んでいて、洞峰公園を散歩して、近くのカフェでコーヒーを飲む光景を放映するとしたら、それはそれで素敵だと思うのです。でも、養老先生がそれを鎌倉ですると、1足す1が2になる以上のなにかが付け加えられるような気がします。

1000年近く歴史がある鎌倉と、都市化したのがまだ40年くらいの学園都市を比べてもね―と言われるのはごもっとも。でも、隣りの芝生は青く見えるではないですが、鎌倉に対するあこがれは、逆に街の文化をつくる原動力になるのではないでしょうか。

養老先生が巡っている鎌倉は寺社仏閣が立ち並んでいます。それは人々が「利用」もする場所ですが、心から「尊ぶ」場所でもあります。土地をどう使うかも大切ですが、その土地がどうしたら尊くなるのか。市民の想いを大切にする街になれば、学園都市はいずれ古都になるでしょう。鎌倉も源頼朝が幕府を開いたときは新しい街だったのですから。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

野菜作りへの道、一歩ずつ《菜園の輪》4

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ジミーさんが貸し出している菜園

【コラム・古家晴美】つくば市における様々な菜園の在り方について触れてきたが、今回はそれを脇で支える方から話をうかがった。32年間続けた教員を5年前に早期退職し、農家へと転身された、つくば市在住のジミーさんこと、柳下浩一朗(60)さんだ。長年、多くの子どもたちと接してきたジミーさんが野菜作りを通して目指すのは、子どもに「豊かな体験と素晴らしい出会い」を持ってもらうことだと言う。

その第一歩として、つくば市が募集する農産物オーナー制度の参加農園として手を挙げた。パパイヤとサツマイモの11回の農業体験やイベントを開催。その中で、より興味を持った参加者に貸し農園(菜園)への参加を呼び掛けた。オーナー制に応募した40組120名のうち、6組の家族が現在、フカフカの土に緑が映える菜園で様々な野菜を栽培している。

来年度から有料で本格始動する予定だが、本年度はお試しということで、無料で20平方メートルの菜園を貸し出している。

運営側として、様々な心遣いをしている。菜園へ自動車でやってくる利用者は多い。地元の農家の方の通行に迷惑がかからぬよう、菜園の路肩に防草シートを張ってパーキングスペースを確保した。車を菜園の脇に横付けできるという利点もある。また、自宅からホースで水を引き、菜園の近くで利用できるように工夫した。トイレは仮設を2セット用意したが、利用者が少ないことから、現在は菜園から徒歩1~2分の自宅トイレを開放している。

その他、スコップや鍬(くわ)、マルチシートも無料貸与している。ジミーさんの後ろに付いて畑の中に足を踏み入れると、ホロッと崩れるケーキの上を歩いているような感触だった。3年間、パパイヤを栽培した跡地だそうで、この土なら何を作ってもうまくいく、とのこと。

畑は作り手の個性が出る

「畑は作り手の個性が出る」とよく言われるが、菜園を見ていてそうかもしれない、と感じる。雑草がたくましく生い茂り、作物名を書いた腰高の竿(さお)を目印に、ようやく野菜の存在を確認できる畑。整然と畝が並び、しっかりとかぶせたマルチの苗を植え込む穴が几帳面(きちょうめん)に正円に切り取られている畑。

子どもの手書きと思われるネームプレートとカラフルな風車が立てかけられた畑。まだ、6区画だけだが、様々な畑がある。しかし、ジミーさんはそれがよいのだという。それぞれの個性が出ているから菜園は面白い。

オーナー制で、土や虫、カエルを見たことも触れたこともなかった子どもたちが、数回の農業体験で、みるみる間に成長する。さらに自分の菜園を持つことにより、土との関わり、野菜づくりの体験を深掘りする機会ができる。野菜づくりへの道をゆっくり一歩ずつ前進している。(筑波学院大学教授)

半径1キロの黄金週間 《続・平熱日記》110

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【コラム・斉藤裕之】テレビでは高速道路の渋滞が復活したことをうれしそうに報道している。カーボンフリーだとかガソリンが高いとかコロナがどうとかということは、久しぶりの行動規制のない連休を目の前にしては無粋ということか。

それにしても1年で一番いい季節。ご近所では、草むしりに精を出すご婦人や庭木を見上げて剪定(せんてい)の算段をするご主人の姿をよくお見掛けしたし、ホームセンターに行けば、野菜の苗や土をカートいっぱいに載せた人々でごった返していた。

夫婦2人の我が家では、食べきれないキュウリやナスはよして、ささやかなミニトマトの苗を買って帰った。それから、気になっていたホーロー製の小さなバスタブ型の水槽を掃除することにした。毎年かわいらしいスイレンを咲かせるこの水槽。昨年はここにホテイアオイを入れてみたところ、水面いっぱいに増えて、冬を迎えたころに全部枯れてみっともない様子になってしまった。

実はボウフラ除けのためにメダカを入れてあるのだが、この体では全滅かと思いながら水を捨ててみたところ、「生存者1名、いや1匹発見!」。しかし1匹というのはさすがに寂しかろうと、ホームセンターに赴いた。昨今は、残念ながらメダカの学校は川の中ではなくホームセンターにあるのだ。「12匹で〇〇円!」という特価品を見つけて、1ダースの仲間と水草を買って帰った。

木っ端で箸を作ってみた

薪(まき)を作るのにもちょうどいい季節だ。玉切りにしてあるものを割って、軒下に積んでいく。渾身(こんしん)の力でヨキを振り下ろす無酸素運動。すぐに心拍数も上がり汗も噴き出す。近ごろ何かと耳にするSDGsという言葉。最近、私なりのひとつの答えが見えてきた。それは「美」だ。事実、目の前に積み上がっていく薪のなんと美しいことか。

それから、ふと思い立って久しぶりに箸(はし)を作ってみた。適当な木っ端で斜めのガイドを作る。そこに1センチ角ほどの棒状の木をセットしてカンナで削っていく。30分ほどで出来上がった。水に沈むと言われるほどの密度があって、「鉄刀木」と書いて「タガヤサン」と読む木の箸。他に花梨(カリン)や月桂樹(ゲッケイジュ)の端材もあるので、娘夫婦にも作ってやった。

そして、犬の散歩の道すがら出会った面白い光景。竹林を背負った民家なのだが、そこに立っている樫(かし)の木を伐(き)っている。恐らく重機も入れないのだろう。はしごをいくつもつなげて木に縛り付けている。高さは電柱よりも高いので15メートルはあろうか。遠目には、はしごがいっぱいくっ付いている木に見える。

アート作品のようでもあり、なんだか久しぶりに心が躍る光景だった。半径1キロ内で過ごした今年の連休。(画家)

小出裕章さんが常陸太田市で講演 《邑から日本を見る》112

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田植えを終えた我が家の田んぼ

【コラム・先﨑千尋】「日本は世界一の地震国。避難計画とは、ふるさと喪失計画だ。東海第2原発を再稼働させてはならない」。

5月7日、常陸太田市のパルティホールで開かれた講演会で、元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんが熱っぽく訴えた。この講演会は同講演会実行委員会が主催。最初に記録映画「地震・津波・原発事故」が上映され、東日本大震災による津波と東京電力福島第1原発の事故、飯舘村で事故に遭い昨年10月に甲状腺がんで亡くなった長谷川健一さんらの話などが紹介された。講演会には県内外から420人が参加した。

小出さんの講演のタイトルは「日本の原子力開発と東海第2原発の再稼働」。小出さんは最初に原子力開発が東海村に誘致された経過を話し、「どんな機械でも故障し、事故も起こす。人間は神ではない。必ず誤りを犯す。原子力発電所も機械であり、事故から無縁ではない」と、事故が起きるのは必然だと述べた。そのことを国も電力会社も知っており、それ故に東電は自分の電力供給範囲から原発を追い出し、福島や新潟に作った。

その福島。事故から11年経っても放射線量が高く、現場に行けない。溶け落ちた炉心がどこにあるのかさえ分からないでいる。原子炉を冷やすために水を注入し続け、放射能汚染水が増え続けている。3月現在で汚染水の貯留量は約130万トンになり、国と東電は昨年4月、汚染水を海に流すことを決めた。「地球は水の惑星であり、水を汚すことは究極の自然破壊だ」と、小出さんは危機感を表す。

また、復興の掛け声のもとで住宅支援の打ち切りなど被害者たちが押しつぶされ、汚染があることを口にすると「復興の邪魔だ」と非難されると言う。

「子供たちを被曝から守るのが大人の責任」

さらに、東電は原発事故のあと、「最後の1人まで賠償貫徹」「迅速かつきめ細やかな賠償の徹底」「和解仲介案の尊重」という3つの誓いを立てたが、それは全部ウソだったと小出さんは東電の姿勢を糾弾する。小出さんの指摘を待つまでもなく、最近の相次ぐ東電敗訴という最高裁判決でそのことは証明されていよう。

小出さんは最後に日本原電の東海第2原発の再稼働について触れた。「日本は世界一の地震大国。日本は地震の巣に原発を57基もつくってしまった。東海第2原発から東京駅まで116㌔。首都圏は150㌔圏内にすっぽり入る。半径30キロ圏内に94万人、150キロ圏内に4000万人が住んでいる。その人々が避難できるのか。できたとすると、それはふるさと喪失になる」。

昨年3月の「日本原電は東海第2発電所の原子炉を運転してはならない」という水戸地裁の判決がありながら、国は知らぬ顔で避難計画策定の責任を地元自治体に押し付ける。できるはずがないと批判する。

私は、スライドで紹介された「日本人の大人には、原子力の暴走を許し、福島第1原子力発電所事故を引き起こした責任がある。自分が被曝しても子供たちを被曝から守るのが大人の責任」という、柚木ミサトさんのイラストが強く印象に残った。そして、久しぶりに聞いた小出節に感動した。(元瓜連町長)

認識の対立を克服するには?《文京町便り》4

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】2月24日以降、ロシアのウクライナ侵攻の報道に接していると、戦争の背後に潜む正義は、時代や場所、あるいは人や組織で異なっていることが分かる。侵攻したロシアやプーチンには、少なくとも自国民向けの必然性や正当性があるはずである。

ロシアがこのような暴挙に至った経緯や背景は必ずしもつまびらかではないが、ここ数年来、米国やNATO(北大西洋条約機構)によるロシアへの圧力・圧迫があった(と、少なくともロシアおよびプーチンが思い込んだ)ことは確かである。その意味では彼らには、ゆがんでいたにせよ、なにがしかの必然性があったはずである。それなくしては、このように大規模な「特別軍事作戦」(一方的な侵略)を決行できない。

対して、この侵攻は、侵攻されたウクライナのみならず、EU(欧州連合)、NATO、米国や日本などの民主主義国にとって全く理解できない暴挙である。

この認識の対立構造は、それぞれの国民世論にも反映していて、ロシア国内の世論調査では(国内世論の操作が行われている上に、政府系の御用調査機関と揶揄(やゆ)されているが)、今回の特別軍事作戦は相当の支持を得ている。たとえば、全ロシア世論調査センターの3月17日調査やレバダセンターの4月21~27日調査では、いずれも「支持する」が74%に上っている。

他方で、国連総会でのロシアの軍事行動への圧倒的な非難決議(3月2日の非難決議への賛成141カ国、反対5カ国、棄権5カ国)に見られるように、国際政治・国際世論はロシアへの非難では歩調を合わせている。

関係者・当事者の「良識」に期待

当然ながら、ゼレンスキー政権に対するウクライナ国民の支持は高い。2019年4月の大統領選挙では73%の支持を得て当選したものの、次第に支持率を下げ、ロシア侵攻前は30~40%の支持率に低下していた。それが侵攻直後の2月26~27日調査では91%に跳ね上がっている。

また、米国、NATO各国や日本でも、それぞれの自国政府の対応には、一定の支持が集まっている。ただし、ドイツでは、5月8~15日に実施された州議会選挙では、シュルツ首相の所属する国政与党の中道左派・社会民主党が大敗しているが、この批判票は、ウクライナへの武器供与の判断の遅れなどに起因しているようなので、少なくともロシア批判に揺るぎはない。

こうした対立状況をどう克服させるか。伝統的・歴史的には、相手側を徹底的にたたくというよりも、ある段階・時点からは、緊密な外交交渉や経済関係・文化交流などの相互依存を深めることで融和させる手法が有効だと理解されてきた。しかし現下の厳しい情勢は、それもむなしい経験知・願望かもしれない。

では、どうするか。私は、関係者・当事者の「良識」に期待したい。漠然とした概念かもしれないが、それ以外には、少なくとも私には、現状を突破する出口が見えない。(専修大学名誉教授)

昔「アダルトチルドレン」、今「毒親」 《続・気軽にSOS》109

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【コラム・浅井和幸】おかげさまで、浅井心理相談室はこの6月で20周年を迎えます。様々な方にご支持いただき、本当に感謝しております。以前相談に来られた方からのご紹介で来談されるケースや、相談をして元気になったので精神保健福祉士を目指したいとか、公認心理師やカウンセラーになりたい―といった話を聞くと、とてもうれしくなります。

といっても、「浅井のようになりたい」という言葉を聞くと、うれしい反面、「もっと上を目指した方がよいよ。君はもっと大きな可能性を秘めている」と思いますし、正直にそう伝えます。

相談室を開いたころ高校生だった来談者も、すでに30代になって再び来談されることもあります。皆さん、本当に立派になられて感慨深いものがあります。70代の方もいましたので、あの方はもう100歳を超えるのかぁ―などと考えることもあります。

20~30年前、アダルトチルドレンという言葉を頻繁に目にしました。この言葉はもともと、アルコール依存症の親の元で育った子供が、大人になって様々な支障が出てくるという概念です。その意味が広がり、機能不全家族で育った人が様々な生きづらさを抱えていく―という意味にもなりました。医学的な診断名ではありません。

相談の場でも多く耳にしたものですが、最近では「毒親」という言葉に置き換わっていると感じます。毒親は「親ガチャ」とセットで聞くことも多いですね。これらの言葉の登場に、気持ちが軽くなった人もいるでしょう。こんなにつらいのは自分だけではないのだという仲間意識、訳の分からない苦しさから「毒親に育てられた子ども」に属せたという安心感です。

これは、どこの病院に行っても、何も悪くないと医師に言われ苦しさが続く中、うつ病とか難病などの病名がつくことで、何となく治療法があるのだろうという救われた感覚に似ているのだと思います。カサンドラ症候群という、アスペルガー症候群のパートナーを持つ人の苦悩もこれに似ていますね。

苦しい人に接する人が今とは違う言動をする

しかし、ここからが大きな問題なのです。原因がわかった(つもりになって)、そこで安心して、苦しみ続けてしまうこともあります。というよりも、苦しみ続ける人の方が多いかもしれません。

原因や悪者探しが解決には大切なこともありますが、気持ちを軽くして生活するには、そこに向かうための手段が必要です。親、パートナー、はたまた世界が変わるまで何もせずに耐え忍んで待つという方法を否定するつもりはありません。しかし、今起こっている事象に変化を起こすには、自分自身がささいなことでもよいので、変化することがより効果的です。

それは周りの人にも言えます。苦しいのならば苦しい人が変わればいいではなく、苦しい人に接する人が今とは違う言動をすることが大切です。批判は大切だと思います。ですが、多くの人が、いや、1人でもよいから、自分の言動が変われば周りに変化を及ぼせることに気付くとよいと思います。(精神保健福祉士)

死に方が選べない時代 《くずかごの唄》108

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【コラム・奥井登美子】死に方を自分で選ぶのが難しい時代になってしまった。コロナの流行がそれを加速してしまっている。人生で最後のしめくくり、「ご臨終」が不可能になってしまったのだ。

Tさんはがんの末期で入院したご主人に会いに行ったけれど、コロナの感染を恐れて会わせてもらえなかった。そのままご主人は亡くなって、遺体をさわることすらコロナの危険でできなかったという。愛する夫の臨終に立ち会えなかったTさんはノイローゼみたいになってしまった。

奥井恒夫さんはご近所に住む親戚で、薬剤師。家族の次に大事な人である。認知症予防に碁と散歩。毎日散歩をして、脳と身体、両方を鍛えていた。彼は自宅で倒れ、救急車で入院。コロナで会わせてもらえないまま、亡くなってしまった。亭主にとって、会えないままになくなった恒夫さんの死はショックだった。

在宅死について書かれた本

「このごろ、息を吐くときが苦しい。おやじも最後のころ、そう言っていた。ぴんぴんころりバタンキュー。人間らしさの残っている間に家で死にたいよ。図書館に行って、在宅死の書いてある本借りてきてくれよ」

亭主に頼まれて、私は図書館に行って本を探してみた。

『我が家で最期を』(千場純、小学館)
『こうして死ねたら悔いはない』(石飛幸三、幻冬舎)
『それでも病院で死にますか』(尾崎容子、セブン&アイ出版)
『在宅死のすすめ方』(専門家22人、世界文化社)
『世界一しあわせな臨終 その迎え方の秘訣』(志賀貢、三交社)
『穏やかな死に医療はいらない』(萬田緑平、朝日新書)
『死に方は自分で選ぶ』(平尾良雄、講談社)

死を選ぶ。それぞれ深い意味のある本で、2人で夢中になって読んだ。(随筆家、薬剤師)

例外だった私の子ども時代 《電動車いすから見た景色》30

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小学校時代は歩行器を押して通学していた

【コラム・川端舞】学校教育法では特別支援学校の対象となる障害の程度が定められていて、それより重度の障害を持つ子どもは就学時に教育委員会から特別支援学校への入学を提案される。2007年から、障害児の就学先を決定する際は保護者の意見を聞かなければならないとされたが、それでも特別支援学校の就学基準に該当する障害児はそのまま特別支援学校に入学するのがほとんどだろう。

私も小学校入学時、特別支援学校への入学を提案されたが、両親の強い意向により、私は重度の障害を持ちながら、通常の小学校に入学した。

障害があるのに通常学級に通っている自分が例外的な存在であることは、小学校時代から薄々気づいていた。身体障害のある子どもは自分しか学校にいなかったし、数人いた知的障害のある同級生は、ほとんどの授業を別の教室で受けていた。

時々、道徳の授業で教材に出てくる障害者は、教室で学んでいる同級生とは異なる世界で生きている「特別な存在」だと言われている気がして、実は「障害者」に分類される人間が同じ教室にいることがばれないように、私は息を殺して授業を聞いていた。

「障害を持って通常学級に通う…

大学で特別支援教育を学び、改めて法律上は、私は特別支援学校の就学基準に該当することを知った。特別支援学校での障害児支援に関する研究はたくさんあるのに、子ども時代の自分のように通常学校に通う重度障害児への支援に関する研究はほとんど見つからず、「そんな障害児はいない」と言われているようで、無性に悔しかった。当時の私の調べ方が足りなかったのかもしれないが、通常学校に通う障害児もいる。

でも、私は重度障害を持って生まれ、小学校から高校まで通常学校で学んだ。楽しいことばかりではなく、正直、苦しいことのほうが多かったけれど、障害を持って通常学校に通うことでしか私という人生は始まらなかっただろう。

そして、悩み多き高校時代を経て、地元の群馬からつくば市に引っ越してきてから12年たった今でも、当時の同級生と連絡を取り合うこの人生が間違っていたとは思えない。「障害を持って通常学級に通うのは例外などではなく、当たり前に楽しんでいいことなのだよ」と小学校時代の自分に言ってあげたい。今から20年も前、通常学校に通う重度障害児は確かにいたのだ。(障害当事者)

ラーメン「珍来」茎崎店のオバサン 《ご飯は世界を救う》47

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【コラム・川浪せつ子】「ラーメンまで、描くのね!」。仕事仲間から驚かれました。うん、そう。でもラーメンを描いたのは、生まれて初めて。早く食べないと伸びちゃうし。そして難しそうで。でも今回描いて、いろんなことを思い出しました。

このお店「珍来」は、洞峰公園の道路の向かい側、今はマンションになっている場所にありました。2階建ての雑居ビル。30年くらい前、よく食べに行きました。息子3人がまだ小さくて、外食ではじっとしていられないころ。ご飯を作るのがしんどい時、その珍来さんしか行けなかったのです。

テーブルコーナーは「コ」の字型で、出口部分に親がひとりずつ座ると、子供はウロチョロ出ていくことができません。そして帰り際、お店の方から「ぺろぺろキャンディ」をもらうのが楽しみで、おとなしくしてくれました。元気すぎる息子たちと、格闘の日々でした。

深々としたお辞儀にウルウル

ほどなく洞峰公園店は無くなってしまいました。10年ぐらい後、牛久学園線を走っていた時に見つけた茎崎店。ふと寄ってみると、洞峰公園店のオバサンがいました。おいししいご飯を作ってくれていたオジサンは亡くなり、今は親戚の人が調理をしているとのこと。

その後ずっと疎遠だったですが、今年に入ってから行ってみました。そしてオバサンとお話。

茎崎店と洞峰公園店は、同時にやっていたそうです。でもオジサンが亡くなり、あちらのお店は閉めたと。働き過ぎだったのかなぁ~、感じの良い方でした。うちの息子たちは4年間で3人。私は仕事もしていたので、ヘロヘロ。そんな時、あそこのラーメン屋さんは救いの場所でした。

そして今回、茎崎店を訪問して、再度感動しました。整った店内。会計後のオバサンの深々としたお辞儀。なんだかウルウルしました。目が回るような日々のつかの間に、癒しの時間をくださったお店。おかげさまで、息子たちは税金を払うことのできる大人になりました。本当にありがとうございました。いつまでもお元気で。(イラストレーター)

望まれず産まれる猫の命をつなぐ 《晴狗雨dog》5

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【コラム・鶴田真子美】子猫の季節がやってきました。動物保護団体には野良猫の産んだ子猫の相談が相次ぎます。先週も田植えをしていた近所の農家さんから、ダンボールに入った子猫があぜ道に捨てられていたと相談がありました。

まだ目も開いておらず、産まれてすぐに捨てられたであろう、幼い兄弟5匹。預かりボランティアさんが手分けして連れ帰り、必死の授乳中です。(その映像は以下に)

離乳前の幼い犬猫を自宅に預かり、ミルクを与えて育てるボランティアさんは「ミルクボランティア」と呼ばれます。この方々の存在なくしては、乳飲み子は救えません。

離乳するのは生後2カ月弱。授乳と授乳の間の時間は、成長するにつれて徐々に延びていきます。4時間から6時間おきに。犬や猫がだんだん体重を増やし、よちよち歩くようになり、兄妹で戯れて遊ぶようになるのを見るのは喜びです。

乳飲み猫を預かるボランティア活動

茨城県動物指導センターには現在、子猫が37匹おります。離乳は4匹、乳飲み子は33匹。冬になれば子猫はほとんど居ませんが、春から秋、特に5月、6月は猫の出産ラッシュで、収容される大半は乳飲み子です。(その一覧はこちら

同センターでも、収容された子猫の譲渡を促進するため、乳飲み子猫を譲渡に適した時期まで一時飼養していただく、ミルクボランティアを募集しています。

応募資格は、猫の飼養が可能な家屋に居住している、 同居家族全員の同意が得られている、飼い猫がいる場合はその猫と隔離できるスペースが確保できる、飼い猫は屋内飼養するとともに受け入れ前1年以内に3種以上の混合ワクチンを接種している、子猫のために衛生的な飼養環境と必要資材を確保することが可能である―などです。

ボランティアさんには、以下のような飼養管理セット」が支給されます。 バスケットケース(1個)、ミルク缶(1缶/頭)、哺乳瓶(1個)、カイロ(10個)、シリンジ(数本)、ウエットティッシュ(2パック)、トイレシート(1パック)。

健康異常が確認された場合は、動物病院を受診しその費用を負担することが可能であることや、 センターが実施する「子猫のミルクボランティア講習会」の受講(随時実施)が条件となります。

ボランティアさんが増えれば、望まれず産まれる犬猫の命をつなぐことができます。茨城県動物指導センターの乳飲み犬猫たちを1匹でも助けていきましょう。あなたのお時間を小さな命に分けてくださいませんか。(犬猫保護活動家)

茨城県動物指導センター愛護推進課:〒309-1606 笠間市日沢47 電話0296-72-1200

つくば市長の懸案 これが完全解決? 《吾妻カガミ》133

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市では、総合運動公園用地跡を民間に売却する計画と陸上競技場を廃校跡に造る計画が進んでいます。いずれも五十嵐市長が「完全解決」を公約した案件の具体化です。しかし、運動公園用地跡売却は市民に不評ですし、陸上競技場案もコンセプトに物足りないところがあり、すんなり進むかどうかわかりません。

運動公園用地跡売却は、元の所有者に返すという目玉公約の実現に失敗し、扱いに困った土地をどう使うかorどう処分するか―いろいろ検討した結果です。用地返還とセットの主公約だった陸上競技場の建設案も、どこにandどんなものを造るか―あれこれ検討した結果です。

両方をまとめて解決するには、誰が考えても、未利用の運動公園用地跡に使い勝手のよい陸上競技場を造るのがベストです。しかし、五十嵐さんは(7年前に住民投票で撤回に追い込んだ)前市長時代の計画の一部を採用するのは避け、未利用地は民間に売り払い、陸上競技場は県立高の廃校跡に造ることになりました。

前市長(政敵)の計画をコピーしたくないという政治判断が、合理的な解決策を退けたようです。政治とは窮屈なもので、政治が行政を歪めたと言えるでしょう。

運動公園用地の民間売却に反対する市民

市民の多くは運動公園用地の民間売却に反対しています。コラム125「公有地売却に見る…牽強付会」(1月31日掲載)では、市の意見聴取に応えた市民の90パーセントが売却に反対だった、という数字を紹介しました。

こういった市民の声に押され、民間売却に反対する住民運動「つくば市長リコール住民投票の会」も立ち上がりました。その新聞折り込み資料(青字部をクリックすると一部が読めますの)では、用地売却を「研究学園の危機」と指摘、売却を推進する市長の解任を呼び掛けています。

リコールの会は、未利用地を国あるいは市の公有地として残し、研究機関用や陸上競技場用として使うべきだと主張。研究機関ベルトにある運動公園用地の売却に反対しています。

アクセス性と拡張性に劣る陸上競技場案

陸上競技場案は「物足りない」と先に評しましたが、詳細はコラム99「そろそろ決着?…2大案件」(2021年2月1日掲載)をご覧ください。つくば市の競技場案(第4種公認)は、県営笠松(第1種、ひたちなか市)、水戸市営(第2種)との比較ではもちろん、石岡市営(第3種)、日立市営(同)、龍ケ崎市営(同)に比べても、格落ちだからです。

また、建設用地の廃校跡(7ヘクタール)を運動公園用地跡(45ヘクタール)と比べると、拡張性(他スポーツ施設の増設)、アクセス性(主要道路への経路)などで、前者は後者より格段に劣ります。近隣市町村と組んで、運動公園用地に県営の第1種公認を造らせる―学園都市にはこちらが似合うのではないでしょうか。

要は、五十嵐さんの「総合運動公園問題の完全解決」は、つくば市の将来に禍根を残す恐れがあるということです。学園都市の特性を無視した公有地売却、県南の中核市には中途半場な競技場―になりそうですから。これらを回避するには政治的な障害を取り除くしかない?(経済ジャーナリスト)

洞峰公園の縄張り争い 《映画探偵団》55

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【コラム・冠木新市】「お前さんは反対運動をやらねえのか?」と、つくばの洞峰公園の野球場でいつも会う名無しのカラスに言われた。洞峰公園リニューアル計画のニュースを嗅ぎつけたようだ。カラスの根城(他の野鳥も)が、「グランピング」「ドッグラン亅「BBQ」の場所になる。

洞峰公園の改造は30年間で少しずつ進んできた。野球場の目と鼻の先にある、毎夏クワガタとカブトムシが集まる樹液滴る木が切られた。スズメバチも寄って来るので管理者が危険に思ったのだろうが、ガッカリだった。昨年は久しぶりに野球場の茂みから池に向かう1メートル級の蛇を目撃したが、ガマガエルは7年ぐらいご無沙汰である。木の数と草むらの量に関係しているのではないだろうか。

この数年での一番のショックは、野球場に黒いフェンスが作られ、中を通れなくなったことだった。しばらくして2カ所の扉が開かれ入れるようになったが、今も黒いフェンスを見るたびに冷たさが感じられ嫌になる。

カラスは「俺たちは柵なんてひとっ飛びだからヘッチャラよ」と毒づいていたが、野球場がつぶれるとなると気になるらしく、私を反対運動へとそそのかす。

「カラスの生態系にも配慮してくれ」

実はカラスに言われる前に、大井川県知事に要望書を出そうかなと考えていた。けれどもその矢先、五十嵐つくば市長が知事にリニューアル反対の狼煙(のろし)を上げたので、驚き止めにした。むしろ、つくば市は、2018年に「つくばVAN泊(キャンピングカー)」、2019年に「てぶらでバーベキュー」の実証実験を文教地区の中央公園で推進してきたから、県の計画には賛成だろうと思っていた。

「お前さんは読みが甘いよ。市長は内心実験が失敗したと思っているから、県知事に親切心で教えてやろうとしたんじゃないの 。ついでに、将来、池にカヌーやボートを浮かべて稼ごうなどと考えなさるな、と助言すれば満点だったんだがな」

なるほど、ひょうたんから駒だ。今回の反対により、中央公園にドッグランを作ろうなどという計画は起きてこないだろう。

「俺らの仲間うちではさ、BBQは賛成しているのが多いんだ。ごみが出てエサ場になるからな。問題は野球場じゃないよ。客を多く受け入れるため、駐車場を広げ、木を切ることよ。また、俺たちのネグラが狭くなる。近頃、シン・カラスたちが集まり、木をめぐる争奪戦が絶えず、旧カラスたちの苦労がつづいているんだぜ。お前さんにはわからないだろうが、少しはカラスの生態系に配慮してもらいたいね」

イーストウッドの『荒野の用心棒』

カラスの愚痴を聞き流しながら、映画探偵の私は『荒野の用心棒』(1964)を思い浮かべた。1つの町に2人の親分がいる。その町に流れてきた名無しの男(クリント・イーストウッド)が、2人の親分をたきつけて戦わせ、町から一掃するお話。マカロニウエスタンの始まりとなった作品で、人生のヒントが多々隠されている。

『新!つくば』という移住促進の動画を見た。2人の宇宙飛行士がつくばの街を紹介するもので、つくば市の製作だと思っていたら、茨城県の製作だった。県は人気のある「つくば」をつくば市だけに独占させないぞと思っているようだ。県所有の洞峰公園を稼げる場所にしようと、改造に乗り出してきたのはその思いからだ。つくば市は洞峰公園を自分たちの場所だと感じているから、当然面白くない。

しかし、こう考えたらどうか。筑波山が市や県のものではなく、日本の、いや自然界の生き物である、洞峰公園もその一部と見るべきではないかと。「なにのんきにキザなこと言ってるんだ、バカ野郎! 洞峰公園はな、俺たちカラスのものに決まっているだろうが!」

私はカラスの言葉で改めて気付かされた。洞峰公園リニューアル問題を、縄張り争いや、政治経済活動に利用させてはならないと。でないと、カラスに小バカにされる。皆さん、これからの動きにご注意あれ! サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

満天の星 大曲のSPRING FESTA《見上げてごらん!》2

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「SPRING FESTA」のプログラム表紙(左)と「新作花火コレクション2022」の出品花火師

【コラム・小泉裕司】何十年ぶりだろう。最後は家族でキャンプだったのか、テーマパークだったのか、とにかく思い出せないし、今後もないはずだったGW旅行。コロナ禍、恐る恐る出かけた先は秋田県大仙市大曲。実は昨年11月、「大曲の花火実行委員会」は2022年度の花火大会の年間日程を発表、その第1弾は4月29~30日の2日連続と知り、早速、宿を手配していたのだ。

訪れた「SPRING FESTA(スプリング フェスタ)大曲の花火」は、「再始動」をテーマとして「新作花火コレクション」と「春の章 世界の花火・日本の花火プログラム」の2夜連続、合計1万3千発を打ち上げる豪華プログラムだ。

初日の「新作花火コレクション」は、45歳以下の若手花火師の登竜門となっている競技大会。茨城県からは昨年に続き、㈱山﨑煙火製造所(つくば市)の山﨑智弘さんが出品した。予報通り、冷雨の中で行われた競技は、今野貴文さん(大仙市)が総合優勝。土浦全国花火競技大会「創造花火の部」で16回優勝している老舗煙火店㈱北日本花火興業の5代目候補として、各地の競技大会で実績を積み上げている。

私のお気に入りは、アイデア豊富な芳賀火工(宮城県)の石村佳恵さんの花火。今回も、同県出身の羽生結弦選手の氷上4回転半ジャンプを時差式花火で夜空に見事に描ききり、新作花火の部準優勝を受賞した。

私が所属する日本花火鑑賞士会は、当夜鑑賞した会員によるスマホ投票で「会長賞」を決める。私は迷うことなく地元の山﨑さんを一押ししたが、受賞は次回以降に持ち越しとなった。次代を担う若手花火師の止まらぬ挑戦に胸を熱くしつつ、ホテルに戻り冷えた体を温泉でリハビリし、翌日に備えたのである。

みんな、この日を待ってたんだよね

2日目は絶好の花火日和。3年ぶりの開催となった「春の章」は、日中から多数のカメラマンが土手上に位置取りしていた。「みんな、この日を待ってたんだよね!」

今回のメーンプログラムは、日本煙火芸術協会60周年記念事業花火だ。まるで「日本花火物語」と言っても過言ではないほど、過去から現在に至る花火技術の進化を凝縮した構成は圧巻。究極とも言われる五重芯菊や様々な色の小花を咲かせる千輪菊、回転しているかのごとき時差式花火など、一玉一玉が半端なく高品質で花火博覧会のごとし。

当協会は、競技大会で優勝経験のある煙火業者29社で構成し、茨城県からは野村花火工業㈱(水戸市)や㈱山﨑煙火製造所など4社が加盟している。

「大曲の花火」は全演目が終了した後、南こうせつさんの「満天の星」(作詞・岡本おさみ、作曲・南こうせつ/1995年発売)が流れる中、雄物川をはさんで花火師さんと観客がトーチや電灯を振り合い、エール交換を行うのが恒例。花火旅に巻き込んだ「相棒」とともに、対岸の花火師さんに「ありがとう、大曲」の思いを込めて懐中電灯を振り返した。

久々のGW旅行は、「相棒」も満喫したようで、まん丸の菊型花火のごとく大団円なり。本日はこの辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

<参考動画> スプリングフェスタ「春の章」ダイジェスト

TX県内延伸で何が実現するのか 《茨城鉄道物語》23

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つくばエクスプレス

【コラム・塚本一也】前回のコラム「TX延伸ルート選びに必要な視点」(4月8日掲載)では、国家プロジェクトの行方に迷いが生じたときには「そもそも論」に立ち返ることが重要であると述べました。そこで今回は、延伸先選びの視点をいくつか示してみます。

茨城空港を「国際空港」にするには?

第1の「そもそも論」は、首都圏の羽田・成田国際空港はいずれ「満杯」になることが予想されるため、第3の国際空港として、茨城空港の機能をアップすることです。TXが茨城空港に伸びるだけでなく、羽田との直通運転が可能となれば、首都圏の様々な航空需要に応える能力を備えることになります。

国際化が格段に進むであろう10~20年先を見据え、また甚大な被害をもたらす大規模災害を想定したバックアップ機能として、TXを首都圏の重要交通インフラに位置付ける視点です。

アジアの大手LCC(格安航空)会社に茨城空港を使ってもらおうと、県がその社長を現地へ招いた際、「TXでも乗り入れてくれるなら就航させてもいいですよ」といった発言があったそうです。彼らは、TXの茨城空港乗り入れが実現すれば、使い勝手が悪い成田便を茨城便に切り替えるのではないでしょうか。

しかし、この構想に問題がないわけではありません。茨城空港は航空自衛隊の飛行場ですから、現状では滑走路使用に制限があり、成田並みの国際便受入は無理です。でも空港の周辺には平坦な土地が豊富にありますから、やる気になれば滑走路拡張は可能です。

もう一つの問題は、競争相手として米軍横田基地があることです。元都知事の故石原慎太郎氏は、横田基地の軍民共用構想(首都圏第3国際空港化)をぶち上げ、同基地への高速鉄道乗り入れを準備しました。しかし、共用交渉は進んでいません(茨城空港にチャンスがあります)。

水戸を「東京通勤圏」にするには?

第2の「そもそも論」は、北部延伸によって県内経済を活性化するために、水戸市とつくば市をTXでつなぐというインフラ整備構想です。その沿線が活性化するだけでなく、常磐線とのコラボレーションによって、水戸~東京が「1時間圏内」になるでしょう。水戸地域がごく普通の「東京通勤圏」に入るということです。

TX延伸先絞り込みは関心を呼んでいますが、当事者の1人、つくば市長は関心が薄いと聞きます。TX延伸が都市機能を拡大すること(第3の「そもそも論」)が分かっていないようです。つくば市内には「県立高校が少ない」という声がありますが、土浦方面に伸びれば、土浦市内の高校への通学が容易になり、教育圏が拡大します。

政治や行政を担当する者にとって、インフラ整備と財政運営は基本中の基本です。視野を広く持ち、鉄道や道路で他市とつながり、自らも発展するという構想が必要ではないでしょうか。私事によりこのコラムを少しの間休載します。再開の際には、またTXの話をしたいと思います。(一級建築士)

障害者もヨットやボートで遊べる 《夢実行人》8

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3年前の「誰でも楽しもう霞ケ浦」子供の日大会の様子=土浦市川口、ラクスマリーナ

【コラム・秋元昭臣】霞ケ浦遊覧船運行やヨット・ボート係留をしている会社「ラクスマリーナ」(旧土浦京成ホテル・京成マリーナの事業を継承)では、年4回の「誰でも楽しもう霞ケ浦」イベントを開催しています。

1997年、同系列の犬吠埼京成ホテル(現犬吠埼ホテル)が客室を増築した際、同ホテルを「バリアフリー」にしようと、車椅子でも利用できるホテルに改装したのがきっかけでした。

その3年後、同ホテルは「天然温泉黒潮の湯」をオープン。当時では珍しいバリアフリー温浴施設を設けたところ、地域の高齢者や観光客が大きく増えました。そして、翌年には全館バリアフリーに改装されました。それが、同系列の土浦京成ホテル・京成マリーナにも及んだわけです。

改装前、車椅子ではマリーナの2階へ上がれませんでしたが、現在では可能です。また、多目的トイレも2カ所設置、国内でも有数のバリアフリーな施設になっています。

でも、ハード面のバリアフリーだけでは、カヌー・ヨット・モーターボートを誰もが楽しむことができません。そこで勉強会を開き、課題解決に取り組みました。その一つが、JR土浦駅からのアクセス改善です。駅員の協力を得て、視覚障害者用の音声・点字案内を設け、介助者なしでもマリーナに来られるようにしました。

3年前の子供の日大会

4回の「誰でも楽しいよね」大会

京成マリーナの社員はホテルのバリアフリー研修会にも参加して、介助のノウハウなどを学びました。そして、「誰でも楽しもう霞ケ浦」というキャッチフレーズを掲げ、2005年から年4回、障害者も参加できる「安全祈願・寒風大会」(1月)、「子供の日大会」(5月)、「海の日大会」(7月)、「体育の日大会」(10月)を開催してきました。

昨年まではマリーナが主催していましたが、今年から「B&G土浦海洋クラブ」の主催になり、ラクスマリーナは共催で参加しています。それぞれの大会には「海洋レジャー安全・振興協会」(小型船舶操縦士免許試験機関)も加わり、土浦警察署に警備艇を出してもらい安全を確保しています。

「誰でも楽しもう霞ケ浦」の理念は、「国籍・年齢・性別・障害の有無に関わらず、お互いに助け合い、安全に楽しくマリンスポーツを体験する」です。今年の「寒風大会」、「子供の日大会」は終わりましたが、障害者カヌー「パラマウントカヌー in 茨城」(6月4日)、「海の日大会」(7月10日)、「体育の日大会」(10月9日)はこれからです。(元ラクスマリーナ専務)

問い合わせ先> 電話:029-822-2437 メール:info@lacusmarina.com

入院で高額療養費制度を使う 《ハチドリ暮らし》13

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ジャガイモ畑

【コラム・山口京子】4月に連れ合いが8日ほど入院しました。医療費の総額は約50万円、そのうち自己負担は3割の約15万円でした。ですが、高額療養費制度を使うことによって、実際の支払額は66,800円でした。

事前に、市役所の国民健康保険課に行き、「健康保険限度額適用認定証」を申請しました。高額療養費の限度額は本人の所得によって変わるので、限度額を知ることが大事です。その額と高額療養費の対象にはならない項目(食事患者負担額、差額ベッド、日用品レンタル代など)を加えて、支払額が算出されます。

4人部屋に入りましたが、差額ベッド代はかからず、日用品費の支払いは別でした(4人部屋でも差額ベッド代が取られることがあるので事前の確認が必要)。なので、病院に払ったのは高額療養費限度額57,600円と食費9200円(1食460円×20食)だけでした。これに日用品レンタル代と雑費12,000円を加えても、総費用は8万円弱でした。

医療保険はチェックが必要

以前、終身医療保険に加入した場合、支払う保険料の総額がいくらになるのか、一生のうちに何回くらい入院するのか―などについて調べたことがあります。わが家の場合、連れ合いが加入していた医療保険の月額保険料は約5000円、30歳から80歳まで入っていた場合の総額は300万円になります。保障は入院日額5000円と手術給付金でした。

ですが、定年を機に解約したので、実際は210万円程度を払ったことになります。それに対して、30歳以降の入院歴は4回、入院日数は延べ33日。支払った医療費の実費は約30万円。公的医療保険制度や健保組合の療養付加金のおかげで、自己負担はかなり軽減されました。

突然のケガや病気による入院や手術は予想外であり、不安が募ります。「お守り」として保険に加入する人も多いのでしょう。ですが、医療保険加入にあたっては、医療費に充てる備えに不足があれば、その不足を保険で補うという整理をします。

どの程度を想定するかは、①公的医療保険制度の仕組みや健保組合の福利厚生を知る、②わが家の家計を把握する、③本人はどういう治療を希望するのか―などを踏まえた判断になるでしょう。元気なうちに家計のたな卸しや、病気に対する心構えをしておきたいと思いました。(消費生活アドバイザー)

「ゲルニカ」を思い出すとは… 《続・平熱日記》109

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【コラム・斉藤裕之】玄関の壁に1枚の薄汚れた色紙が飾ってある。もう大分前のことになるが、ある古物屋でのこと。特に興味もなかったのだが、色紙がぎっしり詰まった箱に何となく手を伸ばした。レコードを探すように、手前から次々と引き出して見ていた。と、引き抜いた1枚の色紙を見た瞬間、「これは!」と手が止まった。値段を聞くと、どれでも10円だという。

持ち帰った色紙はピカソのドローイングだった。ハト、その中に顔が描かれている。ペンで一息に描かれた線は天才の引いたものだと、一瞥(いちべつ)しただけで分かった。画集やカタログなどで調べてみると、確かに書き入れられている年にピカソは来日している。また、よく似た絵柄も確認できた。だが、ピカソの絵が10円で売っているはずがない。多分印刷だろうと思って、ルーペで拡大してみたが…。

パリにいたときは、すぐそばにピカソ美術館があってよく通った。スペインでもピカソの美術館を訪れた。よくピカソについて質問される。大方の場合、ピカソはうまいのか否かの質問なのだが、何と答えていいかいつも戸惑ってしまう。「太平洋は広いのか?」と聞かれているように。

絵画というよりプロパガンダ

これがうわさに聞く「ゲルニカ」か。長女をベビーカーに乗せてスペインを貧乏旅行した折に訪れた、マドリードのソフィア王妃芸術センター。防弾ガラスに収まる「ゲルニカ」は想像したものより大きく、モノクロームで力強くスピード感にあふれていた。

まさに彼にしか描けない美術史上重要な代表作であることは確かだが、絵画としてよりもむしろプロパガンダという側面を感じずにはいられない。戦争を描くのは大変繊細なことだ。当時すでに高名であったピカソは、様々な理由からこの絵を描かざるを得ない状況にあったといわれている。だが、発表された作品の評価はイマイチだったとか。

その後教科書にも掲載され、万人の知るところとなるわけだが、21世紀の今、こんなかたちで思い出すとは…。

「日本の幸せと平和のために」

「日本で一番大きい島はどこじゃ?」「佐渡!」「沖縄!」…「正解は国後島じゃ!」。45年前、高校1年最初の地理の授業の記憶。ワールドカップでロシアはヨーロッパ予選に入っているが、東の端は日本の目の前。今、はるか西で起っている惨事は文字通り対岸の火事ではない。

我が家を訪れた人のほとんどがこの色紙に気付かない。「これピカソ?」。以外にも気付いたのは、美術にほとんど興味がないと思われる義兄だった。ゲルニカのものとは違って、優しいふっくらとした線。色紙にはフランス語で「日本の幸せと平和のために」と書かれている。(画家)

ウクライナ人が書いた「プーチン幻想」を読む 《邑から日本を見る》111

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孫も手伝う谷津田の田植え

【コラム・先﨑千尋】ロシアのウクライナ侵攻(侵略)から2カ月以上経つ。プーチンが当初考えていた数日間での占領はかなわず、いつどのような形でこの戦争が終わるのかに焦点が移った。今日(5月9日)はロシアの対独戦勝記念日だそうだが、プーチンはどのような演説をするのだろうか。

ロシアのウクライナ侵略開始前から不思議に思っていたことの一つに、アメリカのバイデン大統領が「プーチンがウクライナへの侵攻を決断したと確信している」という類の情報を流し続けてきたことがある。米政府は、侵略後も、ロシアの攻撃状況や兵力、後方支援の問題などの機密事項と思えることを、それこそリアルタイムで刻々公開してきている。さらに、ミサイルや新兵器などを次々にウクライナに提供し続けている。

実質的にロシアとアメリカの代理戦争ではないかとすら思える。もうかるのはアメリカなどの「死の商人」だけだ。国連は無力であることも証明された。

先日、脱原発を目指す首長会議に出席した折、世話人の1人、三上元・元静岡県湖西市長から「この本が面白いよ」と、グレンコ・アンドリー「プーチン幻想」(PHP新書)を紹介された。著者はウクライナ人。翻訳ものではなく、著者が日本語で直接書いている。本の帯には「かつてウクライナは、世界三位の核保有国だった。しかし『非核三原則』を掲げ、あげくはクリミアをロシアに奪われた。日本在住のウクライナ人が、平和ボケ日本人に贈る警告の書。プーチンに騙(だま)されるな!」とある。

なるほど面白い。小説を読むときの面白さではなく、初めて知るロシアとプーチンの世界。新書だから一気に読める。3年前、安倍首相の在任中に出版された本だから最新の情報はないが、本書は「日本人が知らないプーチンの正体」「ロシアは『約束を破るために約束をする』」「ウクライナの教訓-平和ボケと友好国への妄信が悲劇を招く」から成り、読めば、プーチンとはこういう人なのだということが分かる。

侵略前のプーチン像は100%ウソ

柔道や秋田犬などから、プーチンは親日、プーチンは反中、プーチンはロシアや東スラブの伝統文化を目指す保守主義者、プーチンは国際金融資本と戦っている勇者という、ウクライナへの侵略前の日本人のプーチン像は100%ウソ、と著者は最初に断じる。そして、そういう説がなぜ間違いなのかを著者は次々に論証、立証している。その筋道がはっきりしているのが面白いゆえんだ。

プーチン体制はいかにして出来上がったのか、責任の半分はアメリカにある、アメリカはソ連の崩壊を望まなかった、インターネット空間も徹底的にコントロール、プーチンと側近による国家の私物化、人を殺してもよいという考え方、安倍政権の対露外交は間違っている―などのフレーズは、今読んでみるとホントによく分かる。

日露間の北方領土問題は当分棚上げされるだろうが、著者の主張は「北方四島は不法占領されているのだから、『返ってくる』ではなく、『取り返す』『返還させる』だ。早期に解決しなければならない理由はない。千島列島も南樺太も係争地なのだ。唯一の解決策は占領状態の終了」と明快だ。政治家や外務省の人たちだけでなく、多くの日本人に読んでもらいたい本だ。(元瓜連町長)