【コラム・オダギ秀】ボクの人生は、ずっと、2掛ける3は6、を正解としてきた。ところが、そんなことにこだわってはならないのか、と思わせられることが起こった。これまでの人生を否定されたような、衝撃が走った。

ある日、写真の先生のボクは写真教室で、得々と生徒の作品の講評をしていた。「ここは入れないで、カットした方がいがっぺえ」と、いうようにだ。で、最後に「でも、カメラが傾いているから、カメラが曲がらず、真っすぐだったら、もっとよかったねえ」と付け加えたのだ。

すると、あるベテラン生徒が手を挙げて言った。「でも先生、許容量ってあるんじゃないですか」

はあっ! ボクは狼狽(うろた)えた。そうかあ、許容量の範囲なら、2×3は、5でも7でもいいのかあ。正しい答えにだいたい近ければ、当たりにしたほうがいいのかあ、と思った。

そんなに厳しく正解を求めなくとも、だいたい合っていればよし、とする優しさが、必要なのかも知れない。ボクは、何十年もスバリ正解を求めてきた。何をやってきたんだろう。

そういえば、数年前には円周率は計算がしやすい3にしようと、文科省も優しさを見せていた。ボクは、円周率3.14も、正解ではなくて、3.1415926535897932384626433832795……だって、まだダメなんだと思ってきた。ファジーな価値観を持つ人もいるんだ、と人生がひっくり返る思いで知った。

レンズ遠近感、色彩遠近感、空気遠近感

最近は、注目され販売量が増えて儲かることこそ価値があるとされているから、写真でもテレビなどのCMなどでも、色彩がケバく、目立って眼を引くものがとても多い。自然な色彩を美しく見せるのではなく、派手な眼を引く色彩に仕上げる。

だから、植物の色なども、人工的な、あり得ないほどドギツイ色になっていて、それをいつも見ていると、そんな色が正しい色と思うようになる。それを、当然のように「きれい」と言う、思う、信じる。色の差だとか、違いとか、色の持つ感情や心など、まったく関係なしになる。

たとえば遠近感というものには、様々な種類があるが、とくに写真が表現する遠近感で重要視されるのは、レンズの焦点距離による遠近感、色彩感からくる色彩遠近感、空気感がもたらす空気遠近感なのだが、レンズの焦点距離による遠近感のみしか意識していない人が多い。

だから、写真の奥行とか厚みとか深さの表現など気にもならない、というより、考えようともしない。だいたいこんなもんでいいだろうとか、これでもういいと納得する。(ありゃ、これはちょっと難しい話になっちゃったかな)

許容量ってのは、いいかげんにしていいってことなのだろうか。厳しい時代になったもんだ。(写真家、土浦写真協会会長)

<今日の写真>

水平線を水平に撮るというのは、基本中の基本。つまり、カメラを傾けないで撮影するということ。どんな大工さんも、家を建てるのに傾かないように建てることと同じ。この写真は、水平線を傾けずに撮っている。表現意図によっては、わざと傾けることもある。傾けると、不安感などを表現できる。傾いたビル、不安だろ?