火曜日, 5月 13, 2025
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悪いものを取り除くと良くなるか? 《続・気軽にSOS》110

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【コラム・浅井和幸】かなり昔の学園ドラマで、「腐ったミカンがあるとその箱の中の他のミカンも腐るから早めに取り除かなければいけない」というニュアンスのセリフがありました。主人公の先生は「〇〇(生徒の名前)は腐ったミカンじゃない」と突っぱねていたような気がします。

ネットで検索したら、もう40年以上前のドラマのようですね。いやはや、よく覚えていないわけだ。

さて、実際問題ではいかがでしょうか。やはり、職場などで問題を起こす人物にやきもきさせられ、どうやって辞めさせようかと考えている人も少なくないでしょう。

確かに問題を起こす1人を辞めさせると、一気にチームのパフォーマンスが上がりより良い職場になっていくということもあり得ることです。しかし、1人を変えても、また別の人材が足手まといに感じて、悪口の対象になる人間関係というのは少なからずあるものです。

その腐ったミカン・ポジションの人を排除しても、また別の腐ったミカンが現れる。そう感じたときは、実はその場自体に腐ったミカンを作りだすメカニズムができている可能性があります。

どんなに優秀な人が集まった大学でも職場でも、必ず落ちこぼれは出るものです。「経済学者のヴィルフレド・パレート」とか、「パレートの法則」とか、「80:20の法則」とか、「2:6:2の法則」などで検索してみると、面白い情報が出てきますよ。

くず材料でおいしいラーメンを作る

優秀か優秀じゃないかという一つだけの定規、もしくは自分の好き嫌いの判断で、嫌いなものを取り除くことが、結果、自分の望まない方向にその場を動かしてしまうこともあります。そもそも、その「悪いもの」を排除することが難しい場面もあるでしょう。

そんなときは、その「悪いもの」の評価の善悪を抜きに、どのような性質があるかを洗い出し、それを生かすリフレーミングをすることをお勧めします。頑固者は意志が固いとか、お節介は面倒見が良いとか、声が小さいは控えめ―など。

それら短所だと思えるものを特徴としてとらえ、長所にしていける方法や組み合わせを考えて試してみるのです。

例えば、くず材料でおいしいラーメンを作るイメージでしょうか。他の料理では使えそうもないくず野菜や鳥や豚などの骨。これらを味見して、まずいから取り出しちゃえとなったら、おいしいスープが取れなくなるかもしれません。

毒は薄めると薬になることもあるものです。もともと渋柿は甘柿よりも糖度が高いといいます。物事は全てつながっていて影響を与え合っています。個々を良いもの悪いものに分けるのではなく、うまく組み合わせることでより、大きな効果を狙えるかもしれないと意識すると、違う景色が見えてきます。(精神保健福祉士)

老人食のむずかしさ 《くずかごの唄》109

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】「今日のぬかみそはナスにしてくれ」。ナスのぬかみそ漬けくらい難しい漬物はない。色がすぐに変わってしまう。それなのにうちの亭主は、食べたくなって叫んだら、2~3分のうちに色のよいナスを出さないと怒る。

亭主が製薬会社の研究所に勤務していたころ、日仏薬学会の事務長をやっていた。フランスのシラク大統領が来日した時も握手してもらったらしい。

当時の日仏薬学会の会長は東京理科大・薬学教授の辰野高司先生。辰野先生は、おじい様が東京駅を設計した辰野金吾氏。父上は東大のフランス文学者・辰野隆先生で、フランスに対する思いがハンパな人ではなかった。

亭主は高司先生に、フランス人との付き合い方を手に取って教えていただいたおかげで、ワインの選び方、フランス料理に使うチーズの種類などにも詳しくて、私も彼に教わって、家でフランス料理風のニセ料理をせっせと作ったものだった。

仏壇はしょうゆつぎの隠し場所

そのフランス通が85歳を過ぎてから、自分が幼いころ食べていたものだけが食べ物だと思い込むようになってしまった(幼いころの食べ物だけが食べ物と思い込む老人は多いらしい)。味付けはしょうゆとみそ。昔の人がよく食べた、ぬかみそ漬けが大好きで、白いご飯に漬物、半熟の卵があればいいと言う。

昔、あれほど好きだった牛肉のステーキも、食べてくれない。しょうゆを入れてすき焼き風にすれば少し食べてくれる。タンパク質を、どこでどうやって食べさせたらいいか、私は困ってしまった。幸い、霞ケ浦医療センター病院で栄養指導を受けることができた。

私が「塩分制限で塩分は1日6.5グラムですからね」と言うと怒ってしまう彼も、「栄養指導の時に、先生に言われたでしょう。1食2グラムなのよ」と言うと、怒らないで聞いてくれるので助かる。しかし、敵もさるもの。悪知恵を働かせて抵抗するので始末が悪い。

私がこの家に来た時に、近所に住む親戚のばあさんたちから、仏壇の掃除の仕方が悪いとよく叱られた。バラの花を供えた時も怒られた。私は今でも、仏壇の中だけはあまり見たくない場所になってしまった。

亭主は、私が見たくない仏壇の引き出しにしょうゆつぎを隠して、私が苦心して用意した減塩の料理にも、こっそりとしょうゆをかけていたらしい。(随筆家、薬剤師)

こどもと一緒に本を読むということ③ 《ことばのおはなし》46

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【コラム・山口絹記】娘とふたりで山を登っていた時のことだ。娘に昔のことを聞かれ、「うーん、なんだっけ。思い出せないな」と答えると、「パパは何か望みをかなえちゃったのかもしれないね」と言われてハッとしたことがある。 この、「何か望むものを得た代わりに、大切な記憶を失くす」という設定は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』で主人公のバスチアンが体験するものなのだ。 娘と私の会話には、一緒に読んだ物語の登場人物がたびたび現れる。彼らは私たちにとって、よく知る共通の知り合いや友人のようなものなのだ。 そして彼らが会話に登場するたびに、私と娘の間で彼ら自身やその背景にある物語に対する印象が大きく異なっていることに驚かされる。 ひとつの物語でも、それを受け取った人によって抱く感情や印象が異なるのは、なぜなのだろう。質量のないことばが、私たち一人ひとりに届いたとき、それぞれに違った影響を与えるというのは、当然のことのようで、とても不思議な現象ではないだろうか。 私にもたれかかりながら、私の読む物語に耳を傾ける娘の身体からは、自然と感情が伝わってくる。緊張してこわばったり、笑ったり、身体が熱くなったり。私が気にもとめなかった場面に喜んだり、悲しんだり。私はそんな娘の変化にいちいち驚きながら本を読む。

誰かの物語を体験する行為

物語というのは、それに関わった人の数だけあり、そしてまた、それを受け取る人の数だけ存在する。私たちは、自分自身のひとつの物語しか生きることができないが、本を読むというのは、一時的にせよ、今、ここではないではないどこかで、誰かの物語を体験する行為だ。 そして、そんな物語を誰かと一緒に読むというのはとても特別な行為なのだと思う。きっと娘は、私と一緒に読んだ物語を忘れてしまうこともあるだろう。少しさみしい気もするが、それはそれでよい。 様々な物語が営まれる場所や登場人物というのは、いずれ彼女にとっての何か大切なものに置き換わるスペースになるのだと思う。だから、よいのだ。 一緒に本を読んでいるとき、ふと娘の顔をのぞくと、見たこともないような真剣な表情で挿絵をじっと見ていることがある。自分も大好きな場面で娘が興奮していると、ついつい夜遅くまで一緒に読みふけってしまう。 「まだ読みたい」と言いつつ眠ってしまった娘を抱えて寝室に運んでいると、こんな時間がいつまでも続いてくれたらいいと思ってしまうのだが、娘との読書を卒業しなければならないのは、私の方なのかもしれない。(言語研究者)

生存確認 《短いおはなし》3

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

嫁が来たよ。40過ぎてようやく結婚した長男の嫁だ。
杓子(しゃくし)定規で生真面目な、なかなかの変わり者だ。

嫁は、毎週土曜日の13時きっかりにチャイムを鳴らす。
そして玄関先で必ず言うんだ。
「お義母さん、こんにちは。生存確認に参りました」
「はいはい。ご苦労さん。この通り生きてるよ」

嫁は背筋を伸ばして、茶室に招かれたようにお茶を飲む。
「つつじが美しいですね」
庭を愛(め)でることも忘れない。マニュアルがあるのかね。いつも同じだ。

「洋一は元気? ちっとも顔を見せないけど」
「洋一さんは、公私ともに順調です」
「職場の挨拶(あいさつ)みたいだね」
「お義母さん、あの葉っぱは紫陽花(あじさい)ですね」
「そう。うちの紫陽花は近所でも有名だよ。まるで虹の国に迷い込んだみたいにきれいだよ」
「虹の国ですか? すみません。比喩は苦手で、全く想像できません」
「まあ、見たらわかるよ。来月には咲くからさ。生存確認のついでに見たらいいよ」

嫁は急に目線を落として、深々と頭を下げた。
「すみません。私がここへ来るのは今日が最後です」
「ええ、なに? どういうこと?」
「洋一さんからお話があると思いますが、私たち、離婚することになりました」
「噓だろう? まだ1年も経っていないじゃないか」
「私たちは、恋愛をせずに結婚しました。婚期を過ぎて互いに焦っていたのです」
「上手(うま)くいかなかったのかい?」
「洋一さんに、好きな人ができました。私と結婚した後に、運命の人に出会ったそうです」
「何だい、それ。ひどいじゃないか。親の顔が見てみたい…って、あたしか!」
「彼は悪くありません。早まって、私と結婚してしまっただけです」
「だけど、あんたはそれでいいのかい?」
「私、別れを告げられても悲しくなかったんです。契約が終わったくらいにしか感じませんでした。つまり、それが答えです」嫁は表情を変えずに、きれいな姿勢のままお茶を飲みほした。
「生存確認は引き継ぎますので、ご心配なく」
「バカだね。そんなのどうだっていいよ」

嫁は立ち上がって庭を見た。
「虹の国の紫陽花、見たかったです。それだけが心残りです」
少し丸まった背中が微(かす)かに震えている。
たった数ヶ月の付き合いだけど、嫁と庭を眺める時間は嫌いじゃなかった。
紫陽花、一緒に見たいよ。

「ねえ、生存確認は、やっぱりあんたにお願いしたいよ。ダメかね?」
嫁が振り向いて、微かに笑った。
「承知しました。では、これからは嫁ではなく、茶飲み友達として伺います」
「茶飲み友達か。いいねえ」

嫁は、深々と頭を下げて帰っていった。
石畳を歩く歩幅が少しだけ乱れている。
可愛くないね。素直に泣けばいいのにさ。

(作家)

写真が好きになる写真 《写真だいすき》8

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天聖寺如意輪観音(筆者撮影)

【コラム・オダギ秀】もう半世紀ほども昔の話だ。1枚の写真に衝撃を受けた。小さな本の表紙の写真だ。野の花に、小さな石仏がほほ笑みかけていた。何てすてきな写真なんだと、ボクはその写真の虜(とりこ)になり、以来半世紀、写真を職業にしながら、野の石仏を撮ることになった。

そのころは、まだ石仏などあまり注目されておらず、その撮影者は作家だったが、野の石仏の魅力を普及させた先駆者だった。

後に、同じ石仏を何度もその作家が撮ったのを見たが、それらの写真には魅力を感じなかった。同じ石仏なのに、他の写真にはほほ笑みがないのだ。そのことから、写真を撮るときの心情と写真技術がいかに大切かをボクは学んだ。

写真屋さんが撮った記念の集合写真に、感銘を受けたこともある。ボク自身は、何の関係もない写真だ。

同窓会だそうだ。10人ほどの年配の男女が、庭に椅子を並べて掛けている。なかに2脚、誰も座っていない椅子が置いてある。参加したくて、でもどうしても来られなかった2人の席だそうだ。素晴らしい写真屋さんの配慮に感銘を受けた。

欠席された方は、自分がいない椅子だけ写った記念写真を、いつまでも大切にするだろう。関係のない者でも、空席の写った写真を見たら、心に残るだろう。その場に存在しない人も撮れるのだと学んだ。

土浦の医者だった 平本のじいさん

住井すゑさんが、牛久でお元気だったころ、住井さんの裏に住んでいた平本じいさんを紹介してくれた。じいさんは写真がすごく好きだから、と。ボクは、平本さんというじいさんは元医師で、それ以外の素性は知らずにいた。

じいさんはボクに、大切そうに写真集を拡げ、「ブラッサイ(ハンガリー出身の写真家)はいいなあ」と何度も何度も何度も言った。その時のじいさんの表情と、ブラッサイが撮った夜のパリの裏街の写真が忘れられない。医者だった平本じいさんは、ブラッサイのモノクロ写真に、何を見ていたのだろうか。自分の人生に、何か共鳴するものがあったのかも知れない。

そのころ、若いアンチャンのボクは、ブラッサイなんて知らず、適当に相づちを打つだけだったが、じいさんの中のロマンは、人生を振り返る大切なものだったのだろうか。平本じいさんは、自分がやっていた医院を土浦市に寄贈し(今の土浦一中地区公民館)、新治協同病院(今の土浦協同病院)の2代目の院長だったと、ずいぶん後になって知った。

心に残っているだけで価値があり、大切な写真が、たいていの人にある。1枚の写真が、半世紀もの人生を動かすこともあれば、写真を見ることで人生のその時の心情がよみがえり、あらたな活力になることもあろう。どんなに古くなってはいても、写真によってよみがえるのは、断片ではあるが、人生そのものなのではなかろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会長)

平和の象徴「アンネのバラ」 《令和楽学ラボ》18

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キアラ館の前に咲くアンネのバラ

【コラム・川上美智子】ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月。戦闘が長期化し、終わりが見えない深刻な状況になっています。21世紀。平和が当たり前のようになっている日本では、戦場の悲惨さは写真やテレビを通じてしかわかりません。

昨年、国際ロータリー第2820地区(茨城県)では、高校生や大学生を対象とする研修で、平和の大切さを考えてもらうため、戦場カメラマンの渡部陽一さんにZoomで講演してもらいました。写真の中の紛争地域の子どもたちの悲しい目や、被害を受けた女性や子どもの悲惨な姿に思いをはせ、ロータリーが目指す恒久的平和と人道支援の大切さを学ぶ機会となりました。

我々、第2次大戦直後に生まれ、戦争の無い恵まれた時代に人生を送れた世代は幸せです。子どもたち、孫たち、そして子々孫々が、日本を決して戦場にしないよう願ってやみません。

私が勤務していた茨城キリスト教大学(日立市)にも、命の尊さと平和を象徴するアンネ・フランクのバラがあります。5月に満開となり、赤、黄、ピンクと開花とともに色を変えていきます。アンネの父親オットー・フランクが、野バラが好きだったアンネの形見として、友人から譲り受けたこのバラに、「Souvenir d’Anne Frank(アンネの形見)」と名付けました。

先日、久しぶりに大学を訪れ、教会のキアラ館の前に咲くアンネのバラに出会いました。茨城キリスト教学園では、平和を願い、このバラの花を広く知ってもらうため、接ぎ木をして育て、毎年、県内の養護施設、保育園、幼稚園、小中学校に贈っています。その先は400施設に上ります。

園児たちに平和の大切さを語り継ぐ

つくば市鬼ヶ窪の「みらいのもり保育園」でも、2年前に苗木をもらい育てましたが、残念ながら枯らしてしまいました。今年、このバラを育てていた、つくば市議の方とご縁があって、苗木を分けてもらい育て始めました。園児たちに平和の大切さを語り継げられるよう、今度こそ大切に育てます。また、我が家の庭でも育てたいと思っています。

さて、ウクライナのことでは、避難民支援について茨城県国際交流協会から声がかかり、茨城キリスト教大文学部現代英語学科でウクライナ出身のジャブコ・ユリア先生が教鞭(きょうべん)を執っていることもあり、県と大学が連携するお手伝いをしました。

また、茨城キリスト教大は、ウクライナのイワン・フランコ記念リヴィウ国立大学と留学提携を結んでいます。今月、ヨーロッパを経由してようやく留学生が1名、日本に到着しました。彼女は平和な日本で勉学を進められる幸せを感じていることでしょう。今後は日本とウクライナ復興の架け橋になってもらえればと願っています。(茨城キリスト教大学名誉教授、みらいのもり保育園長)

みんなで楽しく田んぼづくり 《宍塚の里山》89

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「田んぼの学校」の田植えの様子

【コラム・阿部きよ子】私たち「宍塚の自然と歴史の会」では、1995年から里山の中の休耕地となった谷津田で稲作りを開始し、1999年以降、子どもから大人までを対象とした「田んぼ塾」を開いてきました。そして、2015年からは、新たな稲作方法を研究開発する「自然農田んぼ塾」と子ども中心の「田んぼの学校」に分かれて、谷津田の稲作に取り組んできました。

田んぼの学校は、年度ごとに家族単位で「生徒」を募集し、①稲作と稲作に伴う伝統文化を学ぶ食農教育、②里山の自然や田んぼの環境について学ぶ環境教育―をしています。

今年度は、定員越えで数家族お断りしましたが、33家族で発足しました。豊かな生態系を持つ宍塚の里山の入り口の休耕田を地主さんからお借りし、機械化以前の方法で、肥料は米ぬかだけ、完全無農薬で稲を育てています。伝統行事の「ならせもち」用に、白、赤それぞれ1種類の餅米の品種と藁(わら)細工用の品種を栽培しています。

子どもが田植えや稲刈りに参加する「田んぼの学校」は各地にありますが、私たちの学校には、以下のような特色があります。

a.子どもも大人も主体的に取り組む、b.種まきから食べるところまで継続して稲と関わる、c.里山の四季の変化の中で感性や知性を駆使し、自然環境を体験しながら学ぶ、d.毎回、作業の意味や稲作の変化について学習し、日誌もつけ、ときには「宿題」もする、e.経験も知識も出身地も異なる老若男女、大人子どもが交流し学び合う―。

子どもは泥んこを楽しむように

参加者が増え、出席率も高いので、種まき、しろかき、田植え、草取り、稲刈り、脱穀(足踏み脱穀機使用)と選別(唐箕=とうみ=)などの作業は、5~6回に分けて実施しています。かかし作りの竹の準備、かかしとお別れする「かかし送り」、正月の伝統行事「ならせもち」(昨年度は餅の代わりに紅白団子を枝につけました)などは、担当係の家族を中心に、準備から片付けまで皆で取り組んでいます。

子どもも大人も、よく働き、よく学びます。最初は泥に入るのが怖くて泣いた子も、他の子の様子を見ながら勇気を出せるようになり、泥んこを楽しむようになっていきます。泥だらけの服を自分で井戸水で洗って着替える子もいます。

子どもたち同士が刺激し合いながら、頼もしい働き手になっていく姿から、親たちもスタッフもエネルギーをもらっています。昨年度は「トム・ソーヤスクール企画コンテスト」に応募し、努力賞をいただきました。

コロナ禍で、皆が一同に集まる機会が減ったこともあり、HP担当の親御さんたちが、作業や行事の様子がわかるHPと、子どもたちの日誌や絵のHPを開いています。皆さまも、私たちの会の田んぼの学校のページを開いてみてください。大人のスタッフはすべて無償ボランティアですが、随時募集中です。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

幻の「筑後氏」から脱し、正しい「小田氏」に 《ひょうたんの眼》49

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特別展のパンフレット(左)と展示図録の一部=土浦市立博物館発行

【コラム・高橋恵一】土浦市立博物館の特別展「八田知家と名門常陸小田氏」(3月19日~5月8日)では、小田氏の初代・八田知家(はった・ともいえ)が「八田氏」から「筑後(ちくご)氏」に名乗りを変え、「小田氏」を名乗るのは、4代目の時知(ときとも、1250年ごろ)からと説明されていました。

私は、八田氏の名乗り(今でいえば苗字)を「筑後」に変えたとする説明は誤りと思うから、訂正すべきだと、特別展前に博物館宛てに出した文書、それから本コラム47(4月20日掲載)で指摘しました。しかし、博物館の本サイトへの「お応え」寄稿(4月27日掲載)では誤りでないとの論拠が示されず、特別展のシンポジウム(5月1日)でも、参加者から質問があったのに、「筑後の件は置いておく」と、取り上げられませんでした。

博物館などが「八田知家」が「筑後」に名乗り(苗字)を変えたとする根拠は、歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」の中の記述で、知家の子供たちが「筑後太郎」「筑後六郎」などと名乗ったとしていることです。

吾妻鏡の人名表記は、名(苗)字に太郎とか七郎などの生まれ順ないし家における順序が示され、さらに実名からなるのが基本とされ、八田右衛門尉(うえもんのじょう)知家、北条小四郎義時(ほうじょう・こしろうよしとき)、結城七郎朝光(ゆうき・しちろうともみつ)などとされています。さらに、本人が五位以上の(朝廷が任ずる)官職に就くと、官職名だけとなり、相模守(さがみのかみ=北条義時)、筑後守(八田知家)などと表記されています。

その子息たちは、親の官職名の後に、名字を省略して、自分の官職や通称と実名が表記されています。北条泰時(やすとき、義時の嫡男)は相模(さがみ)太郎、八田知重(ともしげ、知家の嫡男)は筑後左衛門尉(さえもんのじょう)知重結城朝廣(ゆうき・ともひろ、上野介朝光=こうずけのすけ・ともみつ=の嫡男)は上野七郎左衛門尉朝廣などと表記されています。

いずれも、吾妻鏡の編者が、多くの御家人の人名を記述するにあたって、家系や官位などを整理・判読できるように、ルールに従って記述したと考えられます。つまり、筑後左衛門尉知重、の「筑後」は「筑後守の子息の…」という意味であり、名字を表記しているわけではありません。「相模」太郎も「上野」七郎左衛門尉朝廣も同じ表記ルールです。

「筑後氏」の採用は各種の歴史にも影響

さらに、吾妻鏡の成立は、源氏3代の将軍記が1270年代前半、それ以降の将軍記は1300年ごろとされており、八田氏が名字を変えたとされる時期から70年後にならないと、「筑後知重」という表記は見ることができないのです。名乗りを変えたとする知家は、「筑後」を子息の名乗りの前に表記されることを、いつ認識できたのでしょうか?

今回の特別展やその際に出された図録では、発掘調査の結果、小田城あるいは居館が八田知家の時代に小田に存在したことを否定できない、と報告されました。知家が建立したとされる極楽寺も同様です。小田を名乗ったのは4代目時知からとされる根拠の宝治合戦(ほうじがっせん、1247年)での3代・泰知(やすとも)失脚説も、誤りの可能性が大きいとされました。

近年のつくば・土浦地方の市町村史や歴史展示では、「筑後氏」説の採用を受けて、小田城と八田・小田氏の登場を、従来の通説より70年ほど遅れた年として説明しています。これは鎌倉時代の約半分の年数になり、考古学や交通史、文化史、宗教史などにも影響を与えます。幻の「筑後氏」から脱し、出版物や展示などが訂正される必要があります。(地図と歴史が好きな土浦人)

絵になる散歩、鎌倉の養老先生、洞峰公園の市民《遊民通信》41

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つくば市の洞峰公園

【コラム・田口哲郎】

前略

先日、最近話題の洞峰公園(つくば市二の宮)を散歩しました。遊歩道が、洞峰沼、野球場、サッカー場、テニスコート、子ども広場、温水プール、体育館の周りを巡っています。広々とした良い公園です。先日このコラムでも、都市の中のこの公園にも「自然」があるのだと書きました(3月24日付)。さて、今回はつくば市での「散歩」について考えたいと思います。

2020年から1年近くNHK・BSで放映された「まいにち養老先生 ときどき まる」は『バカの壁』で有名な解剖学者養老孟司さんと18歳の愛猫のまるののんびりとした暮らしを紹介するドキュメンタリーです。

養老先生は鎌倉に住んでいます。まるは老猫なので、先生の家の庭から外に出ませんが、養老先生は毎日散歩します。谷が多い鎌倉は起伏が多く、高齢の先生が歩くのは大変そうですが、風情のある坂をゆっくり登ります。先生の行く先は建長寺や覚円寺などの古いお寺です。

年季の入った木造のお堂で宗教観を語ったり、苔(こけ)に覆われた古い墓場をめぐって死生観を語ったりします。時には、奥さまと二人、近所のおしゃれなモダン中華のレストランで優雅にディナーというような、地位も名誉もある先生らしいハイソな生活も出てきますが、大体は「散歩してる」の印象です。

寺院巡りの次に先生は、北鎌倉駅近くのカフェでタバコをくゆらせながらコーヒーを飲み、プリンを食べる。その映像を見ながら、鎌倉は散歩も絵になるなと思いました。

「使う」から「愛でる」街へ

散歩くらい私もします。その間に哲学的なことを考えたりもします。カフェだって、一昔前までは東京都心にしかなかったけど、もう茨城県南でもおなじみになったスター・バックスでカフェ・モカとスコーンを頼みます(タバコは吸いませんが)。やっていること自体は先生と変わりません。もちろん、養老先生の足元にも及ばないというか、比べるのも申し訳ない私なのですが。

もし養老先生がつくば市に住んでいて、洞峰公園を散歩して、近くのカフェでコーヒーを飲む光景を放映するとしたら、それはそれで素敵だと思うのです。でも、養老先生がそれを鎌倉ですると、1足す1が2になる以上のなにかが付け加えられるような気がします。

1000年近く歴史がある鎌倉と、都市化したのがまだ40年くらいの学園都市を比べてもね―と言われるのはごもっとも。でも、隣りの芝生は青く見えるではないですが、鎌倉に対するあこがれは、逆に街の文化をつくる原動力になるのではないでしょうか。

養老先生が巡っている鎌倉は寺社仏閣が立ち並んでいます。それは人々が「利用」もする場所ですが、心から「尊ぶ」場所でもあります。土地をどう使うかも大切ですが、その土地がどうしたら尊くなるのか。市民の想いを大切にする街になれば、学園都市はいずれ古都になるでしょう。鎌倉も源頼朝が幕府を開いたときは新しい街だったのですから。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

野菜作りへの道、一歩ずつ《菜園の輪》4

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ジミーさんが貸し出している菜園

【コラム・古家晴美】つくば市における様々な菜園の在り方について触れてきたが、今回はそれを脇で支える方から話をうかがった。32年間続けた教員を5年前に早期退職し、農家へと転身された、つくば市在住のジミーさんこと、柳下浩一朗(60)さんだ。長年、多くの子どもたちと接してきたジミーさんが野菜作りを通して目指すのは、子どもに「豊かな体験と素晴らしい出会い」を持ってもらうことだと言う。

その第一歩として、つくば市が募集する農産物オーナー制度の参加農園として手を挙げた。パパイヤとサツマイモの11回の農業体験やイベントを開催。その中で、より興味を持った参加者に貸し農園(菜園)への参加を呼び掛けた。オーナー制に応募した40組120名のうち、6組の家族が現在、フカフカの土に緑が映える菜園で様々な野菜を栽培している。

来年度から有料で本格始動する予定だが、本年度はお試しということで、無料で20平方メートルの菜園を貸し出している。

運営側として、様々な心遣いをしている。菜園へ自動車でやってくる利用者は多い。地元の農家の方の通行に迷惑がかからぬよう、菜園の路肩に防草シートを張ってパーキングスペースを確保した。車を菜園の脇に横付けできるという利点もある。また、自宅からホースで水を引き、菜園の近くで利用できるように工夫した。トイレは仮設を2セット用意したが、利用者が少ないことから、現在は菜園から徒歩1~2分の自宅トイレを開放している。

その他、スコップや鍬(くわ)、マルチシートも無料貸与している。ジミーさんの後ろに付いて畑の中に足を踏み入れると、ホロッと崩れるケーキの上を歩いているような感触だった。3年間、パパイヤを栽培した跡地だそうで、この土なら何を作ってもうまくいく、とのこと。

畑は作り手の個性が出る

「畑は作り手の個性が出る」とよく言われるが、菜園を見ていてそうかもしれない、と感じる。雑草がたくましく生い茂り、作物名を書いた腰高の竿(さお)を目印に、ようやく野菜の存在を確認できる畑。整然と畝が並び、しっかりとかぶせたマルチの苗を植え込む穴が几帳面(きちょうめん)に正円に切り取られている畑。

子どもの手書きと思われるネームプレートとカラフルな風車が立てかけられた畑。まだ、6区画だけだが、様々な畑がある。しかし、ジミーさんはそれがよいのだという。それぞれの個性が出ているから菜園は面白い。

オーナー制で、土や虫、カエルを見たことも触れたこともなかった子どもたちが、数回の農業体験で、みるみる間に成長する。さらに自分の菜園を持つことにより、土との関わり、野菜づくりの体験を深掘りする機会ができる。野菜づくりへの道をゆっくり一歩ずつ前進している。(筑波学院大学教授)

半径1キロの黄金週間 《続・平熱日記》110

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【コラム・斉藤裕之】テレビでは高速道路の渋滞が復活したことをうれしそうに報道している。カーボンフリーだとかガソリンが高いとかコロナがどうとかということは、久しぶりの行動規制のない連休を目の前にしては無粋ということか。

それにしても1年で一番いい季節。ご近所では、草むしりに精を出すご婦人や庭木を見上げて剪定(せんてい)の算段をするご主人の姿をよくお見掛けしたし、ホームセンターに行けば、野菜の苗や土をカートいっぱいに載せた人々でごった返していた。

夫婦2人の我が家では、食べきれないキュウリやナスはよして、ささやかなミニトマトの苗を買って帰った。それから、気になっていたホーロー製の小さなバスタブ型の水槽を掃除することにした。毎年かわいらしいスイレンを咲かせるこの水槽。昨年はここにホテイアオイを入れてみたところ、水面いっぱいに増えて、冬を迎えたころに全部枯れてみっともない様子になってしまった。

実はボウフラ除けのためにメダカを入れてあるのだが、この体では全滅かと思いながら水を捨ててみたところ、「生存者1名、いや1匹発見!」。しかし1匹というのはさすがに寂しかろうと、ホームセンターに赴いた。昨今は、残念ながらメダカの学校は川の中ではなくホームセンターにあるのだ。「12匹で〇〇円!」という特価品を見つけて、1ダースの仲間と水草を買って帰った。

木っ端で箸を作ってみた

薪(まき)を作るのにもちょうどいい季節だ。玉切りにしてあるものを割って、軒下に積んでいく。渾身(こんしん)の力でヨキを振り下ろす無酸素運動。すぐに心拍数も上がり汗も噴き出す。近ごろ何かと耳にするSDGsという言葉。最近、私なりのひとつの答えが見えてきた。それは「美」だ。事実、目の前に積み上がっていく薪のなんと美しいことか。

それから、ふと思い立って久しぶりに箸(はし)を作ってみた。適当な木っ端で斜めのガイドを作る。そこに1センチ角ほどの棒状の木をセットしてカンナで削っていく。30分ほどで出来上がった。水に沈むと言われるほどの密度があって、「鉄刀木」と書いて「タガヤサン」と読む木の箸。他に花梨(カリン)や月桂樹(ゲッケイジュ)の端材もあるので、娘夫婦にも作ってやった。

そして、犬の散歩の道すがら出会った面白い光景。竹林を背負った民家なのだが、そこに立っている樫(かし)の木を伐(き)っている。恐らく重機も入れないのだろう。はしごをいくつもつなげて木に縛り付けている。高さは電柱よりも高いので15メートルはあろうか。遠目には、はしごがいっぱいくっ付いている木に見える。

アート作品のようでもあり、なんだか久しぶりに心が躍る光景だった。半径1キロ内で過ごした今年の連休。(画家)

小出裕章さんが常陸太田市で講演 《邑から日本を見る》112

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田植えを終えた我が家の田んぼ

【コラム・先﨑千尋】「日本は世界一の地震国。避難計画とは、ふるさと喪失計画だ。東海第2原発を再稼働させてはならない」。

5月7日、常陸太田市のパルティホールで開かれた講演会で、元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんが熱っぽく訴えた。この講演会は同講演会実行委員会が主催。最初に記録映画「地震・津波・原発事故」が上映され、東日本大震災による津波と東京電力福島第1原発の事故、飯舘村で事故に遭い昨年10月に甲状腺がんで亡くなった長谷川健一さんらの話などが紹介された。講演会には県内外から420人が参加した。

小出さんの講演のタイトルは「日本の原子力開発と東海第2原発の再稼働」。小出さんは最初に原子力開発が東海村に誘致された経過を話し、「どんな機械でも故障し、事故も起こす。人間は神ではない。必ず誤りを犯す。原子力発電所も機械であり、事故から無縁ではない」と、事故が起きるのは必然だと述べた。そのことを国も電力会社も知っており、それ故に東電は自分の電力供給範囲から原発を追い出し、福島や新潟に作った。

その福島。事故から11年経っても放射線量が高く、現場に行けない。溶け落ちた炉心がどこにあるのかさえ分からないでいる。原子炉を冷やすために水を注入し続け、放射能汚染水が増え続けている。3月現在で汚染水の貯留量は約130万トンになり、国と東電は昨年4月、汚染水を海に流すことを決めた。「地球は水の惑星であり、水を汚すことは究極の自然破壊だ」と、小出さんは危機感を表す。

また、復興の掛け声のもとで住宅支援の打ち切りなど被害者たちが押しつぶされ、汚染があることを口にすると「復興の邪魔だ」と非難されると言う。

「子供たちを被曝から守るのが大人の責任」

さらに、東電は原発事故のあと、「最後の1人まで賠償貫徹」「迅速かつきめ細やかな賠償の徹底」「和解仲介案の尊重」という3つの誓いを立てたが、それは全部ウソだったと小出さんは東電の姿勢を糾弾する。小出さんの指摘を待つまでもなく、最近の相次ぐ東電敗訴という最高裁判決でそのことは証明されていよう。

小出さんは最後に日本原電の東海第2原発の再稼働について触れた。「日本は世界一の地震大国。日本は地震の巣に原発を57基もつくってしまった。東海第2原発から東京駅まで116㌔。首都圏は150㌔圏内にすっぽり入る。半径30キロ圏内に94万人、150キロ圏内に4000万人が住んでいる。その人々が避難できるのか。できたとすると、それはふるさと喪失になる」。

昨年3月の「日本原電は東海第2発電所の原子炉を運転してはならない」という水戸地裁の判決がありながら、国は知らぬ顔で避難計画策定の責任を地元自治体に押し付ける。できるはずがないと批判する。

私は、スライドで紹介された「日本人の大人には、原子力の暴走を許し、福島第1原子力発電所事故を引き起こした責任がある。自分が被曝しても子供たちを被曝から守るのが大人の責任」という、柚木ミサトさんのイラストが強く印象に残った。そして、久しぶりに聞いた小出節に感動した。(元瓜連町長)

認識の対立を克服するには?《文京町便り》4

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】2月24日以降、ロシアのウクライナ侵攻の報道に接していると、戦争の背後に潜む正義は、時代や場所、あるいは人や組織で異なっていることが分かる。侵攻したロシアやプーチンには、少なくとも自国民向けの必然性や正当性があるはずである。

ロシアがこのような暴挙に至った経緯や背景は必ずしもつまびらかではないが、ここ数年来、米国やNATO(北大西洋条約機構)によるロシアへの圧力・圧迫があった(と、少なくともロシアおよびプーチンが思い込んだ)ことは確かである。その意味では彼らには、ゆがんでいたにせよ、なにがしかの必然性があったはずである。それなくしては、このように大規模な「特別軍事作戦」(一方的な侵略)を決行できない。

対して、この侵攻は、侵攻されたウクライナのみならず、EU(欧州連合)、NATO、米国や日本などの民主主義国にとって全く理解できない暴挙である。

この認識の対立構造は、それぞれの国民世論にも反映していて、ロシア国内の世論調査では(国内世論の操作が行われている上に、政府系の御用調査機関と揶揄(やゆ)されているが)、今回の特別軍事作戦は相当の支持を得ている。たとえば、全ロシア世論調査センターの3月17日調査やレバダセンターの4月21~27日調査では、いずれも「支持する」が74%に上っている。

他方で、国連総会でのロシアの軍事行動への圧倒的な非難決議(3月2日の非難決議への賛成141カ国、反対5カ国、棄権5カ国)に見られるように、国際政治・国際世論はロシアへの非難では歩調を合わせている。

関係者・当事者の「良識」に期待

当然ながら、ゼレンスキー政権に対するウクライナ国民の支持は高い。2019年4月の大統領選挙では73%の支持を得て当選したものの、次第に支持率を下げ、ロシア侵攻前は30~40%の支持率に低下していた。それが侵攻直後の2月26~27日調査では91%に跳ね上がっている。

また、米国、NATO各国や日本でも、それぞれの自国政府の対応には、一定の支持が集まっている。ただし、ドイツでは、5月8~15日に実施された州議会選挙では、シュルツ首相の所属する国政与党の中道左派・社会民主党が大敗しているが、この批判票は、ウクライナへの武器供与の判断の遅れなどに起因しているようなので、少なくともロシア批判に揺るぎはない。

こうした対立状況をどう克服させるか。伝統的・歴史的には、相手側を徹底的にたたくというよりも、ある段階・時点からは、緊密な外交交渉や経済関係・文化交流などの相互依存を深めることで融和させる手法が有効だと理解されてきた。しかし現下の厳しい情勢は、それもむなしい経験知・願望かもしれない。

では、どうするか。私は、関係者・当事者の「良識」に期待したい。漠然とした概念かもしれないが、それ以外には、少なくとも私には、現状を突破する出口が見えない。(専修大学名誉教授)

昔「アダルトチルドレン」、今「毒親」 《続・気軽にSOS》109

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【コラム・浅井和幸】おかげさまで、浅井心理相談室はこの6月で20周年を迎えます。様々な方にご支持いただき、本当に感謝しております。以前相談に来られた方からのご紹介で来談されるケースや、相談をして元気になったので精神保健福祉士を目指したいとか、公認心理師やカウンセラーになりたい―といった話を聞くと、とてもうれしくなります。

といっても、「浅井のようになりたい」という言葉を聞くと、うれしい反面、「もっと上を目指した方がよいよ。君はもっと大きな可能性を秘めている」と思いますし、正直にそう伝えます。

相談室を開いたころ高校生だった来談者も、すでに30代になって再び来談されることもあります。皆さん、本当に立派になられて感慨深いものがあります。70代の方もいましたので、あの方はもう100歳を超えるのかぁ―などと考えることもあります。

20~30年前、アダルトチルドレンという言葉を頻繁に目にしました。この言葉はもともと、アルコール依存症の親の元で育った子供が、大人になって様々な支障が出てくるという概念です。その意味が広がり、機能不全家族で育った人が様々な生きづらさを抱えていく―という意味にもなりました。医学的な診断名ではありません。

相談の場でも多く耳にしたものですが、最近では「毒親」という言葉に置き換わっていると感じます。毒親は「親ガチャ」とセットで聞くことも多いですね。これらの言葉の登場に、気持ちが軽くなった人もいるでしょう。こんなにつらいのは自分だけではないのだという仲間意識、訳の分からない苦しさから「毒親に育てられた子ども」に属せたという安心感です。

これは、どこの病院に行っても、何も悪くないと医師に言われ苦しさが続く中、うつ病とか難病などの病名がつくことで、何となく治療法があるのだろうという救われた感覚に似ているのだと思います。カサンドラ症候群という、アスペルガー症候群のパートナーを持つ人の苦悩もこれに似ていますね。

苦しい人に接する人が今とは違う言動をする

しかし、ここからが大きな問題なのです。原因がわかった(つもりになって)、そこで安心して、苦しみ続けてしまうこともあります。というよりも、苦しみ続ける人の方が多いかもしれません。

原因や悪者探しが解決には大切なこともありますが、気持ちを軽くして生活するには、そこに向かうための手段が必要です。親、パートナー、はたまた世界が変わるまで何もせずに耐え忍んで待つという方法を否定するつもりはありません。しかし、今起こっている事象に変化を起こすには、自分自身がささいなことでもよいので、変化することがより効果的です。

それは周りの人にも言えます。苦しいのならば苦しい人が変わればいいではなく、苦しい人に接する人が今とは違う言動をすることが大切です。批判は大切だと思います。ですが、多くの人が、いや、1人でもよいから、自分の言動が変われば周りに変化を及ぼせることに気付くとよいと思います。(精神保健福祉士)

死に方が選べない時代 《くずかごの唄》108

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【コラム・奥井登美子】死に方を自分で選ぶのが難しい時代になってしまった。コロナの流行がそれを加速してしまっている。人生で最後のしめくくり、「ご臨終」が不可能になってしまったのだ。

Tさんはがんの末期で入院したご主人に会いに行ったけれど、コロナの感染を恐れて会わせてもらえなかった。そのままご主人は亡くなって、遺体をさわることすらコロナの危険でできなかったという。愛する夫の臨終に立ち会えなかったTさんはノイローゼみたいになってしまった。

奥井恒夫さんはご近所に住む親戚で、薬剤師。家族の次に大事な人である。認知症予防に碁と散歩。毎日散歩をして、脳と身体、両方を鍛えていた。彼は自宅で倒れ、救急車で入院。コロナで会わせてもらえないまま、亡くなってしまった。亭主にとって、会えないままになくなった恒夫さんの死はショックだった。

在宅死について書かれた本

「このごろ、息を吐くときが苦しい。おやじも最後のころ、そう言っていた。ぴんぴんころりバタンキュー。人間らしさの残っている間に家で死にたいよ。図書館に行って、在宅死の書いてある本借りてきてくれよ」

亭主に頼まれて、私は図書館に行って本を探してみた。

『我が家で最期を』(千場純、小学館)
『こうして死ねたら悔いはない』(石飛幸三、幻冬舎)
『それでも病院で死にますか』(尾崎容子、セブン&アイ出版)
『在宅死のすすめ方』(専門家22人、世界文化社)
『世界一しあわせな臨終 その迎え方の秘訣』(志賀貢、三交社)
『穏やかな死に医療はいらない』(萬田緑平、朝日新書)
『死に方は自分で選ぶ』(平尾良雄、講談社)

死を選ぶ。それぞれ深い意味のある本で、2人で夢中になって読んだ。(随筆家、薬剤師)

例外だった私の子ども時代 《電動車いすから見た景色》30

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小学校時代は歩行器を押して通学していた

【コラム・川端舞】学校教育法では特別支援学校の対象となる障害の程度が定められていて、それより重度の障害を持つ子どもは就学時に教育委員会から特別支援学校への入学を提案される。2007年から、障害児の就学先を決定する際は保護者の意見を聞かなければならないとされたが、それでも特別支援学校の就学基準に該当する障害児はそのまま特別支援学校に入学するのがほとんどだろう。

私も小学校入学時、特別支援学校への入学を提案されたが、両親の強い意向により、私は重度の障害を持ちながら、通常の小学校に入学した。

障害があるのに通常学級に通っている自分が例外的な存在であることは、小学校時代から薄々気づいていた。身体障害のある子どもは自分しか学校にいなかったし、数人いた知的障害のある同級生は、ほとんどの授業を別の教室で受けていた。

時々、道徳の授業で教材に出てくる障害者は、教室で学んでいる同級生とは異なる世界で生きている「特別な存在」だと言われている気がして、実は「障害者」に分類される人間が同じ教室にいることがばれないように、私は息を殺して授業を聞いていた。

「障害を持って通常学級に通う…

大学で特別支援教育を学び、改めて法律上は、私は特別支援学校の就学基準に該当することを知った。特別支援学校での障害児支援に関する研究はたくさんあるのに、子ども時代の自分のように通常学校に通う重度障害児への支援に関する研究はほとんど見つからず、「そんな障害児はいない」と言われているようで、無性に悔しかった。当時の私の調べ方が足りなかったのかもしれないが、通常学校に通う障害児もいる。

でも、私は重度障害を持って生まれ、小学校から高校まで通常学校で学んだ。楽しいことばかりではなく、正直、苦しいことのほうが多かったけれど、障害を持って通常学校に通うことでしか私という人生は始まらなかっただろう。

そして、悩み多き高校時代を経て、地元の群馬からつくば市に引っ越してきてから12年たった今でも、当時の同級生と連絡を取り合うこの人生が間違っていたとは思えない。「障害を持って通常学級に通うのは例外などではなく、当たり前に楽しんでいいことなのだよ」と小学校時代の自分に言ってあげたい。今から20年も前、通常学校に通う重度障害児は確かにいたのだ。(障害当事者)

ラーメン「珍来」茎崎店のオバサン 《ご飯は世界を救う》47

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【コラム・川浪せつ子】「ラーメンまで、描くのね!」。仕事仲間から驚かれました。うん、そう。でもラーメンを描いたのは、生まれて初めて。早く食べないと伸びちゃうし。そして難しそうで。でも今回描いて、いろんなことを思い出しました。

このお店「珍来」は、洞峰公園の道路の向かい側、今はマンションになっている場所にありました。2階建ての雑居ビル。30年くらい前、よく食べに行きました。息子3人がまだ小さくて、外食ではじっとしていられないころ。ご飯を作るのがしんどい時、その珍来さんしか行けなかったのです。

テーブルコーナーは「コ」の字型で、出口部分に親がひとりずつ座ると、子供はウロチョロ出ていくことができません。そして帰り際、お店の方から「ぺろぺろキャンディ」をもらうのが楽しみで、おとなしくしてくれました。元気すぎる息子たちと、格闘の日々でした。

深々としたお辞儀にウルウル

ほどなく洞峰公園店は無くなってしまいました。10年ぐらい後、牛久学園線を走っていた時に見つけた茎崎店。ふと寄ってみると、洞峰公園店のオバサンがいました。おいししいご飯を作ってくれていたオジサンは亡くなり、今は親戚の人が調理をしているとのこと。

その後ずっと疎遠だったですが、今年に入ってから行ってみました。そしてオバサンとお話。

茎崎店と洞峰公園店は、同時にやっていたそうです。でもオジサンが亡くなり、あちらのお店は閉めたと。働き過ぎだったのかなぁ~、感じの良い方でした。うちの息子たちは4年間で3人。私は仕事もしていたので、ヘロヘロ。そんな時、あそこのラーメン屋さんは救いの場所でした。

そして今回、茎崎店を訪問して、再度感動しました。整った店内。会計後のオバサンの深々としたお辞儀。なんだかウルウルしました。目が回るような日々のつかの間に、癒しの時間をくださったお店。おかげさまで、息子たちは税金を払うことのできる大人になりました。本当にありがとうございました。いつまでもお元気で。(イラストレーター)

望まれず産まれる猫の命をつなぐ 《晴狗雨dog》5

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【コラム・鶴田真子美】子猫の季節がやってきました。動物保護団体には野良猫の産んだ子猫の相談が相次ぎます。先週も田植えをしていた近所の農家さんから、ダンボールに入った子猫があぜ道に捨てられていたと相談がありました。

まだ目も開いておらず、産まれてすぐに捨てられたであろう、幼い兄弟5匹。預かりボランティアさんが手分けして連れ帰り、必死の授乳中です。(その映像は以下に)

離乳前の幼い犬猫を自宅に預かり、ミルクを与えて育てるボランティアさんは「ミルクボランティア」と呼ばれます。この方々の存在なくしては、乳飲み子は救えません。

離乳するのは生後2カ月弱。授乳と授乳の間の時間は、成長するにつれて徐々に延びていきます。4時間から6時間おきに。犬や猫がだんだん体重を増やし、よちよち歩くようになり、兄妹で戯れて遊ぶようになるのを見るのは喜びです。

乳飲み猫を預かるボランティア活動

茨城県動物指導センターには現在、子猫が37匹おります。離乳は4匹、乳飲み子は33匹。冬になれば子猫はほとんど居ませんが、春から秋、特に5月、6月は猫の出産ラッシュで、収容される大半は乳飲み子です。(その一覧はこちら

同センターでも、収容された子猫の譲渡を促進するため、乳飲み子猫を譲渡に適した時期まで一時飼養していただく、ミルクボランティアを募集しています。

応募資格は、猫の飼養が可能な家屋に居住している、 同居家族全員の同意が得られている、飼い猫がいる場合はその猫と隔離できるスペースが確保できる、飼い猫は屋内飼養するとともに受け入れ前1年以内に3種以上の混合ワクチンを接種している、子猫のために衛生的な飼養環境と必要資材を確保することが可能である―などです。

ボランティアさんには、以下のような飼養管理セット」が支給されます。 バスケットケース(1個)、ミルク缶(1缶/頭)、哺乳瓶(1個)、カイロ(10個)、シリンジ(数本)、ウエットティッシュ(2パック)、トイレシート(1パック)。

健康異常が確認された場合は、動物病院を受診しその費用を負担することが可能であることや、 センターが実施する「子猫のミルクボランティア講習会」の受講(随時実施)が条件となります。

ボランティアさんが増えれば、望まれず産まれる犬猫の命をつなぐことができます。茨城県動物指導センターの乳飲み犬猫たちを1匹でも助けていきましょう。あなたのお時間を小さな命に分けてくださいませんか。(犬猫保護活動家)

茨城県動物指導センター愛護推進課:〒309-1606 笠間市日沢47 電話0296-72-1200

つくば市長の懸案 これが完全解決? 《吾妻カガミ》133

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市では、総合運動公園用地跡を民間に売却する計画と陸上競技場を廃校跡に造る計画が進んでいます。いずれも五十嵐市長が「完全解決」を公約した案件の具体化です。しかし、運動公園用地跡売却は市民に不評ですし、陸上競技場案もコンセプトに物足りないところがあり、すんなり進むかどうかわかりません。

運動公園用地跡売却は、元の所有者に返すという目玉公約の実現に失敗し、扱いに困った土地をどう使うかorどう処分するか―いろいろ検討した結果です。用地返還とセットの主公約だった陸上競技場の建設案も、どこにandどんなものを造るか―あれこれ検討した結果です。

両方をまとめて解決するには、誰が考えても、未利用の運動公園用地跡に使い勝手のよい陸上競技場を造るのがベストです。しかし、五十嵐さんは(7年前に住民投票で撤回に追い込んだ)前市長時代の計画の一部を採用するのは避け、未利用地は民間に売り払い、陸上競技場は県立高の廃校跡に造ることになりました。

前市長(政敵)の計画をコピーしたくないという政治判断が、合理的な解決策を退けたようです。政治とは窮屈なもので、政治が行政を歪めたと言えるでしょう。

運動公園用地の民間売却に反対する市民

市民の多くは運動公園用地の民間売却に反対しています。コラム125「公有地売却に見る…牽強付会」(1月31日掲載)では、市の意見聴取に応えた市民の90パーセントが売却に反対だった、という数字を紹介しました。

こういった市民の声に押され、民間売却に反対する住民運動「つくば市長リコール住民投票の会」も立ち上がりました。その新聞折り込み資料(青字部をクリックすると一部が読めますの)では、用地売却を「研究学園の危機」と指摘、売却を推進する市長の解任を呼び掛けています。

リコールの会は、未利用地を国あるいは市の公有地として残し、研究機関用や陸上競技場用として使うべきだと主張。研究機関ベルトにある運動公園用地の売却に反対しています。

アクセス性と拡張性に劣る陸上競技場案

陸上競技場案は「物足りない」と先に評しましたが、詳細はコラム99「そろそろ決着?…2大案件」(2021年2月1日掲載)をご覧ください。つくば市の競技場案(第4種公認)は、県営笠松(第1種、ひたちなか市)、水戸市営(第2種)との比較ではもちろん、石岡市営(第3種)、日立市営(同)、龍ケ崎市営(同)に比べても、格落ちだからです。

また、建設用地の廃校跡(7ヘクタール)を運動公園用地跡(45ヘクタール)と比べると、拡張性(他スポーツ施設の増設)、アクセス性(主要道路への経路)などで、前者は後者より格段に劣ります。近隣市町村と組んで、運動公園用地に県営の第1種公認を造らせる―学園都市にはこちらが似合うのではないでしょうか。

要は、五十嵐さんの「総合運動公園問題の完全解決」は、つくば市の将来に禍根を残す恐れがあるということです。学園都市の特性を無視した公有地売却、県南の中核市には中途半場な競技場―になりそうですから。これらを回避するには政治的な障害を取り除くしかない?(経済ジャーナリスト)

洞峰公園の縄張り争い 《映画探偵団》55

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【コラム・冠木新市】「お前さんは反対運動をやらねえのか?」と、つくばの洞峰公園の野球場でいつも会う名無しのカラスに言われた。洞峰公園リニューアル計画のニュースを嗅ぎつけたようだ。カラスの根城(他の野鳥も)が、「グランピング」「ドッグラン亅「BBQ」の場所になる。

洞峰公園の改造は30年間で少しずつ進んできた。野球場の目と鼻の先にある、毎夏クワガタとカブトムシが集まる樹液滴る木が切られた。スズメバチも寄って来るので管理者が危険に思ったのだろうが、ガッカリだった。昨年は久しぶりに野球場の茂みから池に向かう1メートル級の蛇を目撃したが、ガマガエルは7年ぐらいご無沙汰である。木の数と草むらの量に関係しているのではないだろうか。

この数年での一番のショックは、野球場に黒いフェンスが作られ、中を通れなくなったことだった。しばらくして2カ所の扉が開かれ入れるようになったが、今も黒いフェンスを見るたびに冷たさが感じられ嫌になる。

カラスは「俺たちは柵なんてひとっ飛びだからヘッチャラよ」と毒づいていたが、野球場がつぶれるとなると気になるらしく、私を反対運動へとそそのかす。

「カラスの生態系にも配慮してくれ」

実はカラスに言われる前に、大井川県知事に要望書を出そうかなと考えていた。けれどもその矢先、五十嵐つくば市長が知事にリニューアル反対の狼煙(のろし)を上げたので、驚き止めにした。むしろ、つくば市は、2018年に「つくばVAN泊(キャンピングカー)」、2019年に「てぶらでバーベキュー」の実証実験を文教地区の中央公園で推進してきたから、県の計画には賛成だろうと思っていた。

「お前さんは読みが甘いよ。市長は内心実験が失敗したと思っているから、県知事に親切心で教えてやろうとしたんじゃないの 。ついでに、将来、池にカヌーやボートを浮かべて稼ごうなどと考えなさるな、と助言すれば満点だったんだがな」

なるほど、ひょうたんから駒だ。今回の反対により、中央公園にドッグランを作ろうなどという計画は起きてこないだろう。

「俺らの仲間うちではさ、BBQは賛成しているのが多いんだ。ごみが出てエサ場になるからな。問題は野球場じゃないよ。客を多く受け入れるため、駐車場を広げ、木を切ることよ。また、俺たちのネグラが狭くなる。近頃、シン・カラスたちが集まり、木をめぐる争奪戦が絶えず、旧カラスたちの苦労がつづいているんだぜ。お前さんにはわからないだろうが、少しはカラスの生態系に配慮してもらいたいね」

イーストウッドの『荒野の用心棒』

カラスの愚痴を聞き流しながら、映画探偵の私は『荒野の用心棒』(1964)を思い浮かべた。1つの町に2人の親分がいる。その町に流れてきた名無しの男(クリント・イーストウッド)が、2人の親分をたきつけて戦わせ、町から一掃するお話。マカロニウエスタンの始まりとなった作品で、人生のヒントが多々隠されている。

『新!つくば』という移住促進の動画を見た。2人の宇宙飛行士がつくばの街を紹介するもので、つくば市の製作だと思っていたら、茨城県の製作だった。県は人気のある「つくば」をつくば市だけに独占させないぞと思っているようだ。県所有の洞峰公園を稼げる場所にしようと、改造に乗り出してきたのはその思いからだ。つくば市は洞峰公園を自分たちの場所だと感じているから、当然面白くない。

しかし、こう考えたらどうか。筑波山が市や県のものではなく、日本の、いや自然界の生き物である、洞峰公園もその一部と見るべきではないかと。「なにのんきにキザなこと言ってるんだ、バカ野郎! 洞峰公園はな、俺たちカラスのものに決まっているだろうが!」

私はカラスの言葉で改めて気付かされた。洞峰公園リニューアル問題を、縄張り争いや、政治経済活動に利用させてはならないと。でないと、カラスに小バカにされる。皆さん、これからの動きにご注意あれ! サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)