【コラム・山口絹記】一緒に本を読む、というのは不思議な行為で、即興演奏のようなところがある。基本は私が朗読しているわけだが、娘も慣れたもので文章の途中でも平気で飛び込んでくるのだ。

7年も一緒に本を読んでいれば、なんとなくお互いの呼吸がわかるものだ。「つまりこういうことだよね」と、娘の解釈&要約が始まれば、「パパはこう思うんだけども」と議論になる。話が終われば、何事もなかったかのように朗読に戻るのだが、先ほどの会話も踏まえた適切な位置から文章を継ぎはぎして、なおかつ議論の要約や確認を織り交ぜながら再開する。

「さぁ、読み始めようか」といった掛け声はいらない。2人の会話と物語は地続きで、現実の世界に物語があるとも言えるし、物語の中に2人がいるとも言える。シームレスにつながっているのだ。

もちろん、読んでいて「あー、コレは理解できてないだろうな」という瞬間もたびたび訪れる。しかし、娘も一時的にわからないことには慣れているので、そうそう待ったはかけない。娘の中でも、話の途中でいちいち止めていたらきりがない、という一線があるようなのだ。とはいえ、何度も同じ単語が出てくれば諦めて聞いてくる。

例えば、「猫又(ねこまた)って何?」と聞かれれば、私も「あぁ、猫って長生きすると妖(あやかし)になるんだよ。実家で一緒に暮らしてた猫も20年くらい生きていなくなっちゃったから、たぶん妖になってどこかで暮らしてるんだろぁなぁ。パパが通っていた大学の近くで、昔、猫又が集まって踊ってたって場所もあったよ」といった感じで説明をする。

「忠臣蔵って何?」と聞かれれば、その日のお風呂は忠臣蔵談義になり、孫悟空がわからなければ「じゃあ『西遊記』読んでみようか」というおはなしになるのだ。

こういった、いわば名前的なものは簡単だ。わからなければ説明してもよいし、それに関する本をもう1冊同時進行で読み始めることもある。わからないことは増え続けるが、大切なのは諦めないことだろう。

共有する語彙を増やす

問題は、「教養」や「精神」のような単語だ。こういった単語については、私は徹底的に自分なりの考えを伝えることにしている。娘は私の説明と、物語からくみ取った意味を織り交ぜて吸収し、そしてまた一緒に考えるのだ。

こうして共有された語彙(ごい)というのは、私と娘が会話するときに使える新たな概念になる。親子と言えど、しょせん完全に理解しあうなんて不可能なのだ。私は娘のことを思っているほどよく知らないし、娘だって私のことは実はよくわかっていないはず。

成長すればするほど、その溝はもっと深まっていくのだろうが、その溝を乗り越えてわかりたいと思い続けるのが愛情であって、そのメインツールはことばなのだ。

読書を通じて何かを学んでほしい、などと生ぬるいことを言っている余裕は一切ない。少しでもお互いの見解を知っている語彙を増やしておきたい。そんなことを考えながら、今日も一緒に本を読んでいる。(言語研究者)