月曜日, 4月 21, 2025
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ふるさと納税の顛末記 ① 《文京町便り》10

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】年末になると、ふるさと納税でソワソワするお宅もあるかも知れない。魅力的な返礼品をめぐる話題である。しかし、これは、制度導入の経緯からすると、妙な話である。今回は、その顛末(てんまつ)を取り上げたい。

そもそも、高校まで地方圏で教育を受けた若者の相当数が、大学入学や会社就職で都会に出て、その後の社会人生活や結婚後もそこで過ごすのは、20世紀後半の日本社会では(都市部と農村地域の間で教育や就業のチャンスに濃淡がある以上)当然だった。

この若者には財政の観点からは、高校卒業までは地元自治体の教育支出が投入されていた。勤務先の企業は、法人税(国税)および法人住民税を(企業の所在地へ)納めている。会社員としては、給与・報酬から所得税(国税)と個人住民税を(居住地の県・市町村へ)納めている。この会社員も企業も、当該年度に関しては立派な納税者である。

しかし、この会社員を高校時代まで成育させた出身地では、この財政収支の流れはやや釈然としない。少なくとも、地方出身者の高校卒業までに投じた財政資金のある部分は、出身の市町村・県に戻してもらいたい。とりわけ、都市部に出た地方出身者が地元に残った同世代よりも高所得者になっている場合には、そうした矛盾を感じる。

故郷へ還元できる制度はないか?

地方交付税制度は、こうした気分を一部解消する制度でもある。主要な国税5税(所得税・法人税・酒税・消費税・地方法人税)の一部(3割強)を地方の固有財源とみなして、全国の地方自治体を対象に、一定の意基準に従って(地方自治体ごとに基準財政需要額と基準財政収入額を算定し、前者が後者を上回っている場合はその差額を財源不足とみて)財源保障のために一般財源として配分する、という制度である(うち、94%は普通交付税、6%は特別交付税)。

この制度が導入(1954年)されて以降、東京都だけは恒常的に普通交付税の不交付団体だが、市町村の不交付団体(2022年度)は全国で72である(交付団体は1646)。茨城県内の不交付団体は、つくば市、神栖市、東海村である。ともあれ、この制度は全国画一的で、そもそも、個々の納税者には自分の納税額のどの程度が全国に配分されているのか、自覚もトレースも困難である。

個人ベースで、こうした故郷・出身地への還元を実現できる制度はないか、という問題意識はかねてからあった。このあたりの事情は、この制度を(『日経新聞』「経済教室」2006年10月20日で)提案した西川一誠『「ふるさと」の発想』(岩波新書、2009年7月)に詳しい。ちなみに西川氏は、自治省出身で福井県知事(2003~19年)を務めていた。

ともあれ、ふるさと納税制度は、(1)田中康夫・長野県知事が住民登録を自らの考えに近い自治体(泰阜村)に変更するという型破りの問題提起(2004年3月)などもあり、「ふるさと」を必ずしも自分の出身地に限定しない、(2)この納税は、あくまでも所得税・住民税の納税分の一部を対象団体に振り替える寄付金税制として設計され、2008年5月からスタートした。(専修大学名誉教授)

百年亭再生プロジェクトが進行中 《宍塚の里山》95

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改修工事中の百年亭

【コラム・佐々木哲美】宍塚の自然と歴史の会では、2019年7月に里山に隣接した築100年以上の住宅を購入し、「百年亭」と名付け、修復作業に取り組んでいます。その資金集めに、クラウドファンディング(CF)を使いました。期間は9月5日~10月21日、目標額は300万円としました。

建物の完成には800万円程度が必要ですが、CFに並行して、助成金申込みや様々な手法で、宍塚の里山の重要性を伝えながら資金を集めます。

CFの結果、223名の方から317万5000円の寄付をいただき、目標を達成することができました。どんな方から寄付があったかまとめたところ、会員から27%、非会員から73%と、非会員の寄付が多くを占めました。居住地別では、つくば市32%、土浦市15%など、県内で62%を占めました。

県外では東京都が14%と多く、関東全体では28%を占め、関東以外は9%でした。宍塚から離れると人数は減少しますが、県外からの寄付者が全体の37%にもなり、宍塚の里山保全への支持が全国に広がったことを示しています。

寄付額は1万円が119名(59%)と最も多く、次いで5000円が65名(29%)と続きます。10万円という高額寄付者が4名もいました。今回の成功のカギは、もちろん、寄付していただいた方、知人・友人に働きかけていただいた方、プロジェクトメンバーの努力ですが、ホームページ(HP)の役割も少なくありません。仲介業者READYFORの方々の親身なサポートもありました。

百年亭の創建年と大工名が判明

現在、百年亭再生プロジェクトは、建物の基礎部分の補強工事に取り組んでいますが、工事にあたって解体した玄関の部材から、墨で書かれた古文書が発見されました。専門家の判読の結果、「明治十四年 六月 佐野子 伊助作」と、建物の創建年月と、手掛けた大工棟梁の名前が判明しました。

この発見によって、今まで不明だった百年亭の建設者と築年数が明らかになり、築年数は推定したよりも長く、141年を数えていたことになります。

CFの取り組みは、今後の宍塚の里山保全の資金集めの参考になりました。また、百年亭の歴史が判明したことで、関わっている一級建築士の若者たちをはじめ、多くのスタッフを元気づけています。皆が力を合わせ、再生プロジェクト完成と里山保全に取り組んでいきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 顧問)

はつゆきさん《短いおはなし》9

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【ノベル・伊東葎花】

はつゆきさんと出会った日、僕はまだ小学生だった。

遊び過ぎた帰り道、肌を切るような冷気に、思わず身を縮めた。

「そこのぼうや、早く帰りなさい。雪が降るわよ」

見上げると木の枝に、透き通るような白い女性がいた。

「雪? まだ11月だよ」

僕が言うと、彼女はほほ笑んで白い指をくるりと回した。

途端に、空から無数の雪が舞い落ちてきた。

灯りがともり始めた夕暮れの町が、幻想的な冬景色に変わった。

「わあ、おねえさん、すごい」

はしゃいで見上げると、木の枝に彼女はいなかった。

僕は彼女を「はつゆきさん」と呼んだ。

はつゆきさんは、初雪の季節になると必ず現れた。

ほんの一言、言葉を交わしてすぐに消える。

年に1度、わずかな時間を過ごすだけなのに、僕にとって彼女はかけがえのない存在になった。

僕は20歳になった。

寒さが足元からじわりと伝わる。今日、初雪の予報が出ている。

いつもの場所に向かうと、やはりいた。

はつゆきさんは、木の枝で静かにほほ笑みながら僕を待っていた。

「今年も会えたね」

「今夜は冷えるわ。温かくしてね」

はつゆきさんはいつものように、白い指を空にかざした。

「ちょっと待って!」

彼女が指をくるりと回す前に、僕は慌てて声をかけた。

「こっちに降りてきなよ。もっと話したい」

はつゆきさんは、戸惑いながら枝を離れ、僕の隣にふわりと舞い降りた。

子供の頃はずいぶん大人に見えたけど、今はまるで可憐な少女だ。

その細い肩に触れようとしたら、彼女はひらりと身をかわした。

「触れてはだめ。溶けてしまうわ」

彼女の身体は雪と同じだ。

僕たちは少し離れてベンチに座った。

時々話して、風に踊る枯葉をながめた。

そして明日も逢う約束をして別れた。

その日、初雪は降らなかった。

それから僕たちは、毎日逢った。

天気予報に雪マークが並んでも、雪は降らない。

やがて、はつゆきさんは少しずつ痩せていった。時おりつらそうに息を吐く。

もう限界だ。これ以上引き留めることはできない。

「今日で最後にしよう」

はつゆきさんは、悲しい瞳で僕をじっと見た。

そしてすっかり細くなった手で、僕の手を握った。

僕の体温が、はつゆきさんの方に流れていく。

「だめだよ。溶けちゃうよ」

はつゆきさんは首を横に振り、僕にそっと寄り添った。

溶けてしまう…。溶けてしまう…。

わかっているのに、離れることができない。

「さようなら」小さな声が風に消えた。

はつゆきさんは、木枯らしのベンチに僕を残し、きれいな水になってしまった。

はつゆきさんが消えた翌日、今年初めての雪が降った。

彼女の代わりの誰かがやって来て、雪を降らせたのだろう。

その姿は、僕には見えない。

きっと、やがて彼女と恋に落ちる、どこかの少年にだけ見えるのだろう。(作家)

時の流れとノスタルジー《遊民通信》53

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【コラム・田口哲郎】

前略

今年は鉄道150周年イヤーだそうです。1872年に新橋-横浜間に開業した路線が日本初の鉄道になりました。150年前は明治時代ですから遠い昔のように感じます。確かにそうなのですが、今わたしは43歳です。たとえば鉄道の150年のうちの43年間は自分にとってもリアルタイムだったことになります。

単純計算で、わたしが生まれたときは、鉄道は開業して117年だったわけです。歴史の一部が自分の半生にかかっているというのは、なんとも不思議な感覚です。いつも現在だった今が、いつの間にかある程度時間的な距離のある過去になってしまうほど、自分がこの世に存在してきたのだなと驚きます。

ふと気づいたら、高校球児がずいぶん年下になってしまうと言われますが、それが感覚的によくわかるようになりました。

40歳を超えたあたりから、振り返ることができる年月が10年単位になることにも気づきました。若かったとき、いわゆる中高生だった時代は30年前、最初の大学生時代は20年前になります。わたしにとって懐かしい時代は90年代、ミレニアム、そして2000年代です。あのころを思って、ノスタルジーにひたることになるとは思いもしませんでした。

バブル経済がはじけて、失われた10年といわれた時代。阪神淡路大震災に衝撃を受け、9.11同時多発テロに震撼した時代です。携帯電話の登場でコミュニケーションが劇的に変わり、インターネットの登場で情報が洪水のようにあふれるようになった時代です。当時新鮮だったことも、現在は当然のこととして常識になっていたりします。

ノスタルジーは人間の本能!?

人間は歳をとると、現在と過去を自由に行き来できるようになります。まさに今のことが何十年後には過去になってノスタルジーを引き起こすに違いありません。

不思議なのですが、「あのころはよかったな」と、若いときは絶対に言えなかったフレーズが自然と口をついて出てきてしまいます。思い出は美化されますから、過去が現在よりも絶対に良いということはないのです。でも、もう変えられない過去は、どこかふるさとのようなやさしい感覚をよみがえらせてくれるのでしょう。

人間が伝統を大切にするのは、こういう時間の流れへのささやかな抵抗を本能的にしてしまうからかもしれませんね。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

娘さんが始めた家庭菜園《菜園の輪》9

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家族みんなでサツマイモ掘り

【コラム・古家晴美】和子さんから、開口一番、「9月は忙しくて畑になかなか来られなかったんですよ」という言葉が出る。

つくば市に住む娘さんが始めた家庭菜園を、妊娠時に手伝うようになった川島夫妻。車で片道30分かけて来る。そのこと自体は、とても励みになり、楽しい。しかし、用事が立て込んでいるときや悪天候が続いたときなど、来られないときもある。来れば草むしりに追われ、なかなか作付けに取り掛かれなかったという。

しかし、お彼岸には、秋冬野菜をまき終わり、畑には、青々と小松菜が茂っている。すでに1回間引いて食べている。この日の朝食のみそ汁にも入っていたらしい。また、長ネギ、キャベツやスティックセニョール(ブロッコリー)がすくすくと育っている。今年は娘さんからのリクエストで、イタリアンキャベツ(ちりめんキャベツ)にも挑戦した。ほかに伝統野菜の、のらぼう菜(アブラナ科の野菜)も仲間に加わった。

フルタイムで働いている娘さんは、家事以外に、息子の容太郎君の送迎などに忙しい。それでも仕事帰りや週末に、畑での収穫作業を分担し、それをご両親にも届けている。週1、2回、平日の昼間の野良仕事は、川島夫妻の担当だ。容太郎君が小学校から帰ってくる時間に、仕事を切り上げられるよう、その前の1、2時間を畑で過ごす。

共に食べることで活力を得る

最近のお孫さんの成長について、和子さんは半ばうれしそうに、半ば寂しそうに語る。「以前は、畑仕事以外に、虫を探したり、畑で過ごす時間がもっと長かったんですよ。無論、畑へ来れば、すぐにイチゴを摘んで食べることを楽しみにしていたり、芋掘りなどのイベントがあると聞きつけると、やって来ます。ただ、大きくなるにつれて、畑以外にも関心の幅が広がり、長時間、畑にいることが少なくなってきましたね」

子どもが様々なことに関心を持つことは、喜ばしいことだ。しかし、言葉にはされてはいなかったが、お孫さんと共に過ごす時間が短くなったことの寂しさは、本音かもしれない、と感じられた。

このように、菜園での共同作業は、子供の成長、家族のあり方とともに、変化している。しかし、たとえ、畑で共に過ごす時間が、それによって短くなったとしても、同じ畑で採れた収穫物を食べることによって、家族はつながっているのではないだろうか。日本の民俗は、「共食」と言うものをとても大切にしてきた。共に食べることにより、活力を得ることができる、という考え方だ。

また、子どもの頃に、家族と共に過ごした菜園での時間は、お孫さんにとって将来の大きな宝物となるかもしれない。(筑波学院大学教授)

信州の美術館「無言館」《続・平熱日記》122

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【コラム・斉藤裕之】「信濃山景クラッシック」。信州の山をテーマにしたグループ展が長野県上田市で開かれた。会期中に当地を訪れるつもりはなかったのだけれども、上田に近い千曲市でギャラリーを開くという上沢さんのお誘いもあって高速に乗った。

2カ月前に訪れた信州はまだ夏の空気が感じられたが、晩秋の信濃路は絵に描いたような紅葉の真っただ中にあった。菅平辺りから、多分あれは北アルプスだと思うのだが、すでに雪をかぶった山々が遠くに見えてきた時には運転席で私の心も高揚していた。

その日は、会場である老舗有名パン屋「ルヴァン」で、この展覧会のコーディネートをしてくれた雨海さんと上沢さんを引き合わせ、酵母の香しいパンをいただきながら久しぶりに美術談義などを楽しんだ。

作家としてまたアートコーディネーターとして活躍されている雨海さん。上田に来る前は益子の役所で文化関係の仕事をしていて、その知識と経験から人望も厚く、幅広い世代の作家に慕われている。上沢さんも長い間東京で現代美術に関わるお仕事をされていて、このたび、ご実家を改装されてギャラリーを開かれるという。どうやら長野に拠点を構えるお2人の仲を取り持つことができたようだ。

ルヴァンのご主人とも再会できた。僭越(せんえつ)ながら、前回訪れた折、この2階の窓から見た烏帽子岳を描いた作品を贈らせていただいたのだが、ご主人、実は元々大学で美術を学んでいらしたと聞いて、いささか恐縮した。

さて、せっかく来たのだから、どこか訪ねてみようということになった。観光するには事欠かない信州だが、「無言館は?」という雨海さんのご提案に虚を突かれた。実は、何となく頭の隅にあったのだが、多分、一生行かないと思っていた場所。

無言の絵画が語るべきこと

無言館は上田市を一望できる小高い丘の上にあった。ケヤキやクヌギが真黄色に染まるなか、十字の形をした建物はあった。先日、テレビでこの無言館を舞台にしたドラマが放映されたとかで、扉を開けると、薄暗い館内には平日というのに、若い人のグループからご年配の方々まで予想外に多くの人がいて驚いた。

この無言館には、先の大戦に出征し若くして亡くなった画学生の絵が飾られている。私の母校の大先輩方々の絵もある。

「先輩方の絵に対する真摯(しんし)な態度、物を見る素直な眼差(まなざ)しに感動しました。どなたも絵が達者でした。私の頃は絵画そのものが表現方法として危うい時代でしたから、入学と同時に違う表現に向かう者も少なからずいたりして。私ももう少し真面目に画面に向かえばよかったと…。いや、これからちゃんと絵を描こうと思います…」

無言館は、飾ってある絵とそれを見る人が無言であることから名前が付けられたというが、饒舌(じょうぜつ)な時代にこそ、無言の絵画が語るべきことがあるような気がした。初めて訪れたという上沢さんも感慨深げだった。来てよかったと思った。

次の日も快晴。上沢さんに千曲市から長野市を一望できる姨捨(おばすて)の棚田を案内してもらって、昼にはクルミだれの新ソバも堪能して、ますます信州のファンになった。来年の春に、上沢さんのギャラリー「アートコクーン」で個展を開くことになっている。半年後、今度は春色に染まる信州に来るのが今から楽しみである。(画家)

つくば市有地売却 おかしな行政手順《吾妻カガミ》145

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市の運動公園用地売却については、その手順のおかしさを何度も指摘してきました。市の財産処分なのに議会の決を取らなかった、公募意見では売却賛成が少数なのに無視した、売却の是非を市民に聞く無作為抽出調査をやらなかった―などです。これらに、行政手続きを終える前に売却契約を結ぶという、おかしな手順も加えておきます。

議会無視(取得するときは議決)、公募意見無視(売却賛成はたった3%)、無作為調査不採用(市政運営の定番を無視)の3点については、137「つくば市長の宿痾 総合運動公園問題」(7月18日掲載)をご覧ください。

市は用途変更ダメの事態も想定

前市長時代、市がUR都市機構から買った運動公園用地は「住宅地域」「文教地区」です。市は8月、この用途を「準工業地域」に変更するとともに、「文教地区」を外すと約束をして、用地を売却する契約を倉庫業者と結びました。この業者は、ここに電子情報倉庫や物流倉庫を建てるそうですから、用途変更が土地取得の前提になります。

そこで、市は10月から、都市計画審議会で用途変更が妥当かどうか審査しています。県とも相談して、来年2月に結論を出すそうです。

用地変更がOKになる前に売却契約を結ぶというこの手順、おかしくないでしょうか? 購入者の使途を確認用途変更を決定売買契約を締結というのが、正しい手順ではないでしょうか? 担当部に手順逆転の理由をただしたところ、ウヤムヤな説明でした。市は、この用地をできるだけ早く処分したいと焦っているようです。

売買契約書には、都市計画審の結論がNOとなった場合に備え、解約条項が入っているそうです。手順が正しい流れであれば、そのような条項は必要ないのに、です。市は、各方面への根回しを済ませ、NOはないと判断しているようですが、その可能性がゼロではないとも思っているのでしょう。ちなみに、土地を元の状態に戻す「解約リスク」は、原則として業者が負うそうです。

元研究者は反対、前市長は慨嘆

先の都市計画変更・公聴会では、元研究者から、用地売却=用途変更に反対する意見が述べられました。その主張については「2人が反対意見を公述…都市計画変更で…公聴会」(11月11日掲載)をご覧ください。

反対意見は、▽未利用地だからと言って、売却してしまうのはデベロッパー(開発業者)の発想だ、▽研究学園都市としては、将来、研究機関用地が必要になる事態を想定し、公有地として残しておくべきだ、▽売却は市の決定だが、学園都市つくばの特殊性を考え、県や国と一緒になって、公有地の扱いを判断すべきだ―と、整理できます。

市は研究学園都市を「経営」する構想力に欠け、その「視野」も遠くが見えていない、ということです。つくば市は困った市執行部を抱えてしまったものです。

元県議・首長の視点から、前市長は「あの土地を売らないで、市有地として確保しておけば、いつでも体育館や陸上競技場を建てられたのに、それを売り払ってしまうとは…。つくば市だけでなく、県南地域にも悔いが残る」と、慨嘆しています。詳細は「今、何をしているのですか? 前つくば市長の市原さん」(11月15日掲載)をご覧ください。(経済ジャーナリスト)

「土浦の花火」~未来へ~《見上げてごらん!》8

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優勝した山﨑煙火製造所の10号玉作品「昇曲付五重芯銀点滅」(土浦市提供)

【コラム・小泉裕司】天気、風力、風向き良好。佐藤亨・土浦市産業経済部長が参拝した日本で唯一の「気象神社」の御利益なのか(10月16日掲載)、近来まれにみる好条件に恵まれた第91回土浦全国花火競技大会は、「無事」終了した。今回の「無事」は、Safe(安全)に加えて、No problem(問題なし)、All good(すべてよし)、Complete(完璧)、Success(達成)と英訳したいほど、見事な大会だった。

とりわけ、18都道県から出品された89作品すべての打上げが完了し、コロナ禍を含め4年間途絶えていた歴代入賞者一覧に、新たに業者名が追記されたことがうれしいし、未来につなぐ第1歩を刻むにふさわしい大会になったと思う。

出品作品については、全般的に斬新性や話題性というよりも、今年1年の集大成的な作品が多かったように思う。むしろ、そうした秀作・力作の数々が土浦の夜空に集結し、披露されたことそのものが、贅沢(ぜいたく)の極みなのだ。

山崎煙火製造所製作の10号玉レプリカ(筆者所有)

部門別では、10号玉の部における茨城県勢の安定した完成度が際立った。特に、優勝した山﨑煙火製造所の作品「昇曲付五重芯銀点滅(のぼりきょくつき いつえしんぎんてんめつ)」は、色のコントラストもさることながら、5つの芯と一番外側の輪を加えた6層の同心円が見事に真円を描いた。聞けば30代の花火師の手によるとのこと。

コンダクター役の山﨑智弘社長は「昨年から、競技大会は若手で作り上げようと取り掛かった。諸先輩から継承した技術を若手がどこまでできるのか試してみたかった」と、「攻め」を強調した。「この業界は次の世代にどう伝承させていくかがとても重要」と続けた。

期せずして、最近の若手花火師の活躍に触れた佐々木繁治前大曲商工会議所会頭の言葉が重なる。「若手は勝手には育たない。素晴らしい実績を残した先輩がいて、初めて若手が育つ」。まさに言い得て妙。

創造花火の部では、女性花火師の感性豊かな作品が高評価を得た。特に、私のお気に入りの花火師、芳賀火工の石村佳恵さん(5月14日掲載)の作品「アマビエに願いを込めて☆」が準優勝。表彰式の集合写真では、最前列に安藤真理子土浦市長と横並びに着座。この土浦で石村さんの笑顔を拝見できたことが、とてもうれしい。

3年後は「土浦の花火100年」

山﨑社長は「コロナ禍、たくさんの方々の支えがあり、大曲や土浦で多くの方に応援をいただき感謝の気持ちでいっぱい。来年は挑戦者として謙虚な気持ちで挑みたい」と、てらいのない言葉で結んだ。主催側の大会実行委員会本部長を兼ねる佐藤部長も山﨑社長と同様、「成功体験を大切にしながら、慢心することなく、反省すべきは検証し、未来につなげたい」と、緊褌一番(きんこんいちばん)の決意を語った。

煙火業者や実行委員会の面々のこれまでの様々な努力や苦労は、部外者には計り知れないものがあったと思う。あらためて、「無事」の開催を成し遂げた皆さんに、慰労と祝福の拍手を送りたい。そして、過去に懲りずに、再訪いただいた観客の皆さんには、心からの感謝の念を伝えたい。「これからも、よろしくお願いします」と。

一方、競技部門ごとのあり方や、スタッフの入れ替えに伴う運営の不慣れなど、確かに気になる点もあった。「土浦の花火100年」に向けて、次回以降、本稿でも再確認してみたい。

これも3年ぶり。翌日早朝の清掃活動は、いまだかつてないぐらい、観客の行儀の良さを実感しながら、拍子抜けするほどの短時間で終了。大会から10日が過ぎて、安全対策の看板類も撤去され、桜川沿いの自宅周辺は、晩秋の静寂な情景を取り戻した。本日はこの辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

宇宙人とのつきあい《くずかごの唄》119

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】大学病院の救急救命室から運よく生還した夫は、いつの間にか日本人でもフランス人でもない、宇宙人になってしまっていた。読む本は「素粒子論のランドスケープ」(大栗博司著)、「ニュートリノで探す宇宙と素粒子」(梶田隆章著)、「時空のさざなみ 重力波天文学の夜明け」(ホヴアート・シリング著)。

宇宙関係の講習会があると、東京、つくば、どこにでも出かけてしまう。家に帰ると、気に入った文章を、墨をすって、ありあわせの紙の裏に筆で書いている。

新聞などの書評に重力波天文学などが載っていると、「読みたいので、すぐほしい。今日中に買ってきてくれ」と言いだす。まちには本屋さんが少なくなってしまって、私は探すのも大変なのだが、こちらの都合は一切考えてくれない。私は宇宙人と付き合っていると考えるしかないのだ。

奥井清の講演タイトル

属していた日本山岳会・茨城支部では、2カ月に1回、市民公開講演会を開いている。その会の彼の演題は、以下のようなものだった。

1.免疫化学について 抗原と抗体(2007年11月)
2.パーキンソン病とその脳科学(2009年1月)
3.ダーウィンの種の起原期限と人類の誕生(2011年1月)
4.ナノテクノロジーの科学と技術について(2011年11月)
5.今までに分かった宇宙の神秘 神の素粒子・ヒッグス粒子の発見(2013年1月)
6.宇宙は無数にあるのか?(2015年9月)
7.天文学の夜明け 重力波の発見(2018年4月)
8.ブラックホールの初撮影 ノーベル賞級の快挙(2019年4月)

合成化学を専攻し、中外製薬の研究所を経て、日本ルセルの研究所長を務めた彼は、合成化学が専門職である。1と2は専門を生かしての講演だが、後は彼自身が分かっているのかいないのか、わからない。

「自分でも分からないことをテーマにしてどうするの?」「提案して、みなで宇宙のことを考えてもらう。それでいいんだよ」。宇宙人の宇宙論だ。(随筆家、薬剤師)

腕立て伏せは何回すればよいか? 《続・気軽にSOS》121

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【コラム・浅井和幸】体を鍛えるためには腕立て伏せを何回しなければいけないのか? これは、その人の筋力によって違うということと、やらないより1回でもやった方がよいということになると思います。

ですが、「何回?」と聞かれたら、回数で答えたくなってしまうものです。30回はやらなければいけないんじゃないのかな、100回はやらなければ意味がないよ、少なくとも10回はやらなきゃ―などと。それぞれの印象で答えがちですよね。確かに、100回以上やらなければ、鍛えるどころか、筋力が落ちてしまう人もいるでしょう。

でも、普段は体を動かさない、筋力の弱い人の中には、1回も腕立て伏せができない人もいると思います。そのような人は、その格好をして30秒ぐらい態勢を保つだけで、筋力トレーニングになるかもしれません。

このように、自分の今の力を把握して、次の一歩を練習して習得することは、意外と難しいものです。気づかずに、毎日を過ごしている人の方が多いのではないでしょうか。特に、困難を抱えて悪循環を起こしているときは、これらの考え方が抜け落ちていることが多いですね。

小さな一歩を積み重ね、大きな山を越える

学校に登校するかどうかで、「良い・悪い」の線を引いてしまうので、朝、布団から出られないところまで自分を追い詰めてしまう。学校にいけないのならば、朝起きること、朝食をとること、家族と会話をすること―などを無駄だと捉えてしまいやすい。今の自分に悪い評価を与え、できる一歩を軽んじてしまうと、できることもできなくなっていきます。

今できることを把握し、次の小さな一歩に挑戦することができれば、その小さな一歩を重ねて、遠くに行ける可能性があります。小さな一歩も、自分がやったことがない一歩ならば、初心者なので、うまくいかないこともあるでしょう。でも、どのような達人も、最初の一歩は「初心者」から始めたはずです。

できないことで悩み、できることをしなくなることが、もったいないと思うのです。小さな一歩も積み重ねることで、大きな山も越えられるという希望を持てない人は、自分が何もできない赤ちゃんのころから多くのものを得てきたことに目を向けてみましょう。

積み重ねてきたことに目を向けることができない人は、周りの尊敬できる人、自分が好きな人に、そのことを聞いてみてください。周りには、自分の成長を喜ばしく思ってくれる人がいることに気付けるはずです。そんな人物はいないと思っている人は、カウンセリングを受けてみてください。きっと自分の素晴らしい価値に気づけるはずです。(精神保健福祉士)

ともに過ごすことを前提にする英断を 《電動車いすから見た景色》36

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送った手紙の実物(内容については本文をお読みください)

【コラム・川端舞】9月13日の記者会見で、永岡桂子文部科学大臣は「インクルーシブ教育システムの目的は、身体的、精神的能力を可能な限り発達させること」と述べた。では、学校で養うべき力とはなんだろうか? 前回紹介した、永岡大臣にお送りしたお手紙の後半では、私自身が考える、社会で生きていくために必要な力についてお伝えした。先月に引き続き、お手紙の要約を紹介したい。

障害者と健常者が一緒に生きていく力

この社会は、健常者が大多数だ。その社会で障害者が生きていくためには、健常者と関わっていくしかない。特別支援学校でずっと過ごし、障害のない同級生と日常的に関わった経験がない障害児が、社会に出たあと、健常者と対等な関係をつくっていけるだろうか。

私は言語障害があり、明瞭な発音で話せない。小学校時代は言語障害を軽減させるリハビリを受けていたが、効果はほとんどなかった。逆に言語障害への劣等感が強くなり、学校でも同級生とあまり話さなくなった。

一方、高校時代も普通高校に通っていたが、小中学校に比べ、学校の先生や同級生が私に直接話してかけくれるようになった。学校で「話す」という経験を積み重ねるうちに、私は「相手が自分の言葉を聞き取れなかったら、聞き返してもらえばいい」ということがわかってきた。

もし、高校時代、特別支援学校に通い、障害のない同級生と話す機会がなかったら、私は、今のように健常者と対等に話せるようにはならなかったかもしない。

特別支援教育→インクル―シブ教育

初対面の人は、たいてい、言語障害のある私に話しかけるのを躊躇(ちゅうちょ)する。しかし、高校の同級生は卒業後10年以上たった今でも、久しぶりに会うと何の遠慮もなく、私に話しかけてくる。高校3年間、同じ教室で過ごした経験が、障害のある私と障害のない同級生に、互いにコミュニケーションをとる力を身に付けさせたのだ。

もちろん、現状の普通学級に障害のある生徒を入れるだけでは、その生徒に十分な支援を提供できないかもしれない。1つの学級の児童生徒数を減らすなど、普通学級の構造自体を変え、普通学級の中で障害のある生徒が十分な支援を受けられる環境にしていく必要がある。そのような環境では、障害のない生徒も、困った時に教員に助けを求めやすくなるだろう。

障害のある子とない子が学ぶ場を分けることを前提とした現在の特別支援教育から、どんな障害のある子も普通学級で過ごすことを前提にしたインクル―シブ教育へ、舵(かじ)を切る英断を永岡大臣がなさることを期待している。(障害当事者)

平沢官衙遺跡・筑波山 《ご近所スケッチ》1

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平沢官衙遺跡の紅葉

【コラム・川浪せつ子】11月から隔月でつくば市周辺の絵をアップしていきます。ご近所のステキな場所をスケッチで紹介する「地元再発見散歩」です。

1回目は、四季折々の自然と古(いにしえ)の筑波に出会える平沢官衙(かんが)遺跡(つくば市平沢353)。今から1000年以上前の奈良・平安時代の筑波郡の役所跡で、国史跡に指定されています。背景の山は筑波山です。

平沢官衙遺跡・桜の絵

平沢官衙遺跡の場所はこちらをクリックしてください。(画家)

小繋事件の発生から100年たった 《邑から日本を見る》123

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小繋事件100周年記念碑の除幕(岩手県小繋)

【コラム・先﨑千尋】この国では、人々は縄文時代から山と共に暮らしてきた。家を建てる木材。屋根を葺(ふ)く茅(かや)。燃料となる薪(まき)や炭。わらび、ぜんまい、クリ、クルミなどの山菜や果実。牛や馬の飼料。後には木を植え、森や林にした。人々にとって山や森、林は暮らしに不可欠のものだった。

その山に入ることを突然止められたら、暮らしはどうなるか。そういうことが、今からおよそ100年前に、岩手県一戸町小繋(いちのへまち・こつなぎ)というごく小さな集落で起きた。明治維新後の地租改正に伴う官民所有区分処分のときに、2000ヘクタールの小繋山が民有地とされたことが発端だった。

1915年に集落で大火が起き、それまでの書類が一切灰になってしまった。そのことをきっかけに、名義を持っている地主が警察力などを使って、山への住民の立ち入りを実力で阻止するようになった。地主は本県那珂湊の人で、北海道などで財を成し、ここの山林を手にしていた。

従来通り、山に入る権利である入会(いりあい)権を行使しようとした人たちは、1917年に民事訴訟を起こし、刑事事件を含めて1966年まで50年にわたって裁判が続いた。

戦後、法社会学の権威で、東京都立大教授だった戒能通孝(かいのう・みちたか)は『小繋事件』(岩波新書)を書き、大学教授の職を捨て、小繋の住民を救うために弁論に当たった。古在由重、丸岡秀子、日高六郎、渡辺洋三、近藤康男などの文化人や学者、法曹関係者らが小繋支援の輪を作った。

親子3代約60年の苦闘の歴史

この裁判が最高裁で審理されているころ、私は早大や岩手大などの学生たちと小繋に入り、援農や子供会活動、集落の経済調査などを行った。私は戒能から「大学で学んだことを自分の立身出世やカネもうけの手段にするな。学んだことを社会に寄与するために生かせ」と教わった。

その言葉が、その後の私の生き方の指針になった。岩手県北の小繋と私が住んでいる茨城の農村の状況は同じではなかったが、おしなべて貧しかった。『貧しさからの解放』という本もあった。裁判は住民側の敗訴で終わった。

10月15日、現地で「小繋事件100周年記念碑」の除幕式が行われ、私も参列した。この記念碑は、裁判の開始から105年経ち、先人たちが生活基盤を死守するために闘い続けた歴史を後世に伝えようと建立したもの。記念式典には、小野寺美登一戸町長ら関係者と地元住民など約60人が出席した。

「小繋の灯」と刻まれた記念碑には、住民が小繋山の地主に対して訴状を出して以降、親子3代約60年に及んだ苦闘の歴史が刻まれ、今後も住民が共同で管理し、入会山として利用する決意も記されている。

戒能は「農民も『拾い屋』から『生産者』になるべきだ」と言い続けてきた。燃料は薪炭からプロパンガスに代わり、小繋から盛岡まで約1時間と、通勤できるようになった。暮らし方は100年前、50年前と大きく変わり、山の存在価値がまるで変わってしまった。小繋の人たちが山をどう使っていくのか、私には分からない。

最近、入会を意味する「コモンズ」という言葉が使われるようになってきた。また「有機農業の復権」も国の農業政策の柱になった。これからも、小繋の行く末に関心を持っていこうと考えながら小繋をあとにした。(文中敬称略、元瓜連町長)

一瞬のために:おしっことおむつの話 《写真だいすき》14

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仲睦まじくする獅子ふたり。どんなものを撮っていても、今だ、という瞬間というものがある。その瞬間というのはとても掛け替えがない

【コラム・オダギ秀】おしっこやおむつの話をすると言うと、また変なことを言い出すのではないかと嫌われそうだが、そうではない。ちゃんとした、大人のカメラマンのおしっこやおむつの話だ。

たとえば、マラソンや野球などのスポーツの写真や、政治や事件などの写真が、一瞬のチャンスを逃さず見事に撮れていても、一般の人は当たり前のような顔で眺めている。

だが、その一瞬のチャンスを逃すまいとしているカメラマンたちは、とてもつらい思いをしていることがある。

競技の場合は野外のことも多いので、近くにトイレがないことがままある。あっても、一瞬、気を抜いて持ち場を離れ、ベストショットを撮り逃がすわけにはいかないのだ。何時間も、トイレを我慢しなければならない。

テレビのクルーに聞いたことがある。どうしてるんだい?と。すると、テレビ局などは大手だから、彼らには交代要員がいるし、尿漏れ紙パットや紙おむつを、局が用意してくれると言っていた。

パレードするときの人々や、お立ちになる皇室の方々もそうなのかなあ、と笑ったことがあるが、規模の小さい新聞社やフリーランスはそうはいかない。カメラマン自身の責任で、何とかしなければならないのだ。

350ccのおむつを買った

ボクも取材で外に出ることはあるが、スポーツは撮らないから、トイレに困ることはそれほど多くはない。だが、撮影会の指導なんてことで、トイレを使えない郊外に出ることは多いので、そっかあ、尿取りパットを着けているのかあ、そいつはいい、と納得した。

それで早速ドラッグストアに行ってみた。なあるほど、パッドもおむつも驚くほど色々な種類がある。ちょっとのお漏らしに最適、なんて魅力的に誘ってくる。早速、お漏らし用60ccというのを買った。

テストをしてみた。すぐに、こんなんじゃダメだとわかった。成人の尿量は、一度に200から300ccなのだそうだ。すると、トイレ1回分とすれば、ちょっとお漏らし用ではなく、一度しか使わなくても、それだけに耐えられる容量が必要なのだ。

何度もドラッグストアを行き来して、350cc用というのを見つけた。これでいい。これだけの容量があれば、安心だ。少し厚みはあるが、外見からはわからない。

残念なのは、せっかく用意しているのだが、まだ、これにお世話になる緊急事態に遭ったことがないことだ。けれど、写真教室の生徒たちには、緊急事態に備えるための的確なアドバイスができるようになった。

土浦市長の「殿様」が落馬!

一瞬のチャンスを逃して思い出すのは、科学万博のときのことだ。ボクはソニーのビルに昇って、そのチャンスを待っていた。4〜5階建てだったろうか、その屋上は手すりのない廊下のようなところで、風がまともに吹き付け、ハラハラ怖かった。

下では、大名行列が通り過ぎることになっていた。土浦の市長が殿様になり、行列の中心スターになる行列が計画されていた。待っていると、来た。カメラを向け撮ろうとしたその瞬間、市長の殿様は馬に乗り損ね、落馬してしまった。いい行列を撮ろうとしていたのに、あ〜あ、残念。

プレスセンターに戻ったら、大いに笑われた。落馬という一番おいしい瞬間を、カメラマンは誰も撮っていなかったと知った。カメラマンは皆、ちゃんとした大名行列を撮ろうとイメージしていたのだろう。フィルムの時代は、失敗は撮る必要がない、と思ったにちがいない。

市長の失敗は、カメラマンにとっては、最高の瞬間だったのに。あのとき、吹きっさらしのビルの上で、ボクがおしっこをガマンしていたかどうかは覚えていない。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

冷たくてもおいしい焼き芋《日本一の湖のほとりにある街の話》5

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【コラム・若田部哲】秋の深まりとともに恋しくなる焼き芋。スーパーの出入り口付近に設置されている焼き芋機のお芋を求める人も多いと思います。この焼き芋機と原材料の生芋を、北は北海道から南は沖縄まで全国に卸し、青果用サツマイモ業界をけん引しているのが、かすみがうら市の「株式会社ポテトかいつか」。また近年はデザイン性の高い直営店も展開し、人気を博しています。今回は同社広報の中村さんにそのおいしさの秘密を伺いました。

主力商品は2010年に開発された新品種の「べにはるか」を独自の貯蔵技術で熟成し、おいしさを引き出したオリジナルブランド「紅天使」。ねっとりとした食感と濃厚な甘みが特徴です。べにはるかが開発されるまで主流だったねっとり系のサツマイモの「安納芋(あんのういも)」は、収穫量の少なさがネックでした。それに対し、べにはるかは栽培しやすく食味も良いと、良いところ尽くしの品種です。

それをさらに熟成させた紅天使の焼き芋の特徴は「冷やしてもおいしい」ところ。直営店でも一番人気は冷蔵の紅天使だそうです。温かい焼き芋のほっとするようなおいしさも格別ですが、冷やし焼き芋はさながら高級スイーツのような深いコクと甘み! 一度食べればクセになること請け合いです。

霞ヶ浦の大地が育む芳醇な甘さ

「冷たくてもおいしい焼き芋」は、それまでの焼き芋のイメージを変えるだけでなく、素朴な印象だったサツマイモのイメージも大きく変えました。直営事業では、女性に喜ばれるように、デザイン性の高さや紅天使を使用したさまざまなスイーツを提供するなど、サツマイモの新たな価値を生み出し、成功を収めています。

また、それらの商品を支える生産体制の充実も注目すべき点。常に高品質な生芋を生産するため、600軒にものぼる契約生産者に対し、土壌の改良から苗の卸し、その年々の気候条件に応じたきめ細かい育成相談を行っています。さらに収穫した芋の全量買い取りにより、生産者が安心して生産に取り組める環境づくりを整備。これらにより、年間2万4000トンという国内最大規模の青果用サツマイモ生産を実現しているのだそうです。

中村さんに同社のこれからについて伺うと、「まだ秋冬のものという印象が強い焼き芋のイメージを払拭(ふっしょく)し、年間を通じておいしさを味わっていただけるよう、さらなるアピールをしていきたいです」とのこと。サツマイモのリーディングカンパニーの同社によって、霞ヶ浦の大地が育む芳醇(ほうじゅん)な甘さが、さらに全国に広がっていくのがとても楽しみです。(土浦市職員)

①サイクリストの宿(7月8日付
②予科練平和記念館(8月11日付
③石岡のおまつり(9月8日付
④おみたまヨーグルト(10月6日付

関東ローカルTV局の情報番組が楽しい!《遊民通信》52

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【コラム・田口哲郎】

前略

ローカルテレビ局のローカル番組が好きなことは前に書きました。まだ好きで見ています。J:COM茨城経由で映るテレビ神奈川、千葉テレビ、テレビ埼玉のスクランブル放送で行われている朝、昼、夕の情報番組です。

朝は千葉テレビ「モーニングこんぱす」、昼はテレビ神奈川「猫のひたいほどワイド」、夕方はテレビ埼玉「マチコミ」(テレビ埼玉はテレビ神奈川経由でしか映りません)です。それに加えて、東京メトロポリタンテレビジョンの「5時に夢中」も見ています。

ローカルテレビ番組の良いところは、視聴者のメッセージを紹介してくれるところです。特に熱心にメッセージを送っているのが、「猫のひたいほどワイド」と「5時に夢中」です。「猫」の方は月曜から木曜まで昼12時から13時半までの1時間半。「5時」の方は月曜から金曜まで夕方5時から1時間の放送枠を持っています。

街の規模が大きいので、情報量が多いということでしょうか。それだけのボリュームのコンテンツに需要があるのがすごいと思います。

番組へのメッセージ投稿がさらに楽しい!

さて、番組へのメッセージです。「猫」の方も、「5時」の方も、ほぼ毎日送っています。たまに読まれます。読まれるとうれしいです。読まれるか、ドキドキするちょっとしたスリルが味わえます。日常の軽いスパイスといった感じです。深夜ラジオのハガキ職人みたいにディープな作り込みがいらない、あっさりしたテイストの文章でも読んでくれますし、何より素直な感想や応援の気持ちが大切です。

「猫」の方は視聴者が電話で出演し、ゲームに参加するというのがあり、先日参加しました。ゲームに勝つと番組特製のバッジがもらえるのですが、惜しくも負けてしまいました。次はもらえるようにがんばりたいです。そのとき、アナウンサーや出演者と少し会話をするのですが、素人ゆえにどぎまぎしてしまうところも。

そこをプロの出演者は声が大きいし、サポートしてくれます。岡村帆奈美アナや照井七瀬アナは仕切りが上手だなと感じました。テレビ番組に日々プロとして出演するのは、楽しそうですが、ご苦労も多いと思います。これからも視聴者を楽しませるローカル番組を作り続けてほしいと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

働き方と年金の関係 《ハチドリ暮らし》19

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ダイコン畑

【コラム・山口京子】働き方と年金の関係について、改めて考える機会がありました。正社員で働いていたり、パートでも一定の条件をクリアすれば、厚生年金に加入することになります。また将来的には、多くのパート労働者を厚生年金の被保険者にしていく方向性が打ち出されています。

1961年に国民皆年金制度がつくられ、現在の公的年金制度の土台ができました。1986年に導入された基礎年金制度は、老齢基礎年金・障害基礎年金・遺族基礎年金という「1階部分」と、厚生年金に加入する人を対象にした老齢厚生年金・障害厚生年金・遺族厚生年金という「2階部分」の制度設計です。

国民年金の加入者は、第1号被保険者・第2号被保険者・第3号被保険者の3つに分類されています。第1号とは、日本に住所を有する20歳以上60歳未満の人で、第2号や第3号に該当しない人たちです。第1号被保険者といわれる自営業者やパートや学生などは本人が保険料を納めることとなり、月額の保険料は2022年度では1万6590円です。

第2号被保険者とは厚生年金の被保険者で、外国勤務の会社員や20歳未満や60歳以上の会社員なども含まれます。厚生年金部分と基礎年金部分が支給対象となります。第2号として厚生年金に加入していれば、給与の一定額を保険料として納付しますが、勤務先も折半して負担していますので、ありがたい制度だと感じます。厚生年金と国民年金の両方に加入していることになります。

「細く長く働く」という選択肢

第3号被保険者とは、第2号被保険者に扶養される配偶者で、一定の所得要件をクリアすれば、自らは保険料を負担しなくても国民年金の加入者となり、老齢基礎年金などを受給することができます。

この第3号被保険者という制度は、1986年の改正でつくられました。当時は会社員の夫と専業主婦の妻という世帯を標準として、収入のない妻に考慮したものだったのでしょう。共働きが増え、女性の収入も上がっていけば、第3号になる人は減少していきます。将来的は、第3号被保険者制度は実質を失い、無くなっていくのかもしれません。

年金受給額でみると、国民年金保険料を40年間ずっと納めた場合、年金額は778,000円です。厚生年金に加入していれば、それに上乗せして厚生年金部分が出ることになり、同年金保険料を納めた期間や金額によって、年金額は異なります。一般的に男性より女性の方が勤続年数は短く、賃金も低いので、女性の方が厚生年金の額が低くなります。

今ごろになって、その事実を痛感しています。もうすぐ65歳になる私としては、これからも、「細く長く働く」という選択肢を考えていますが、どうなることやら。(消費生活アドバイザー)

パンツと節約 《続・平熱日記》121

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【コラム・斉藤裕之】突然だが、私はブリーフ派だ。派と言っても、ブリーフに特別に肩入れするほどの理由はない。ただ、はき慣れているというだけで、身なりに無頓着な人でも、肌に身に着けるものは以外に好みがあるということの例の一つだ。

昔は子供と言えば、ほぼ百パー白のブリーフを履いていた。ところが、高校生あたりになるとトランクス派が出てきた。ちょっと大人びた響きを感じたトランクス。私も目移りしたこともあったが、結局はき慣れたブリーフに戻った。

パリに留学したときもブリーフ。貧乏学生にとってせいぜい下着とシャツ、タオルほどの洗濯をするのにコインラインドリーに行くのは癪(しゃく)で、洗面所で洗うことに決めた。絞るのには大変な、少し大きめのタオルや厚手の衣服は、手すりのようなものに絡めて、ぐるぐるねじって絞る技を編み出した。パンツもなるべく小さくて洗いやすいブリーフが重宝した。

ところで、ブリーフといってもタイプがあって、私の好みは股上がやや浅いもの。誰かがこのタイプのものを新日本プロレス型と呼んでいたが、納得。アントニオ猪木がジャイアント馬場と袂(たもと)を分かち立ち上げた団体のレスラーは、このタイプのパンツをはいた(ややこしいがプロレスラーのはくパンツはトランクスと呼ばれる)。それに対して、馬場や鶴田のいた全日本のパンツは股上の深い縦長のパンツだった。

ところが、しばらくぶりにパンツを買いに行くと、ブリーフの売り場は隅に追いやられている。その上、この新日本型のパンツを探すのは一苦労で、もはや絶滅危惧種である。

ここ10年、20年のうちに台頭してきたのは、ボクサーパンツだ。今やこれが売り場のほとんどを占めている。これを私はミルコ型またはヒクソン型と呼んでいる(わかる人にはわかるかな。いずれも総合格闘家)。私もこのミルコ型を何度か試したが、腿(もも)の付け根あたりに違和感があってだめだった。

安売りで買ったブリーフ

この秋、生活用品が軒並み値上がりして、テレビでは頻繁に「節約術」なるものを特集している。一方で、旅行が割引になると聞くと、あっという間に予約は埋まる。お金がある人は使った方がいいのだろうが、何となく不公平感を感じる。大した得もないのに、買い物するたびにカードを求められるのもうんざり。もはやポイントハラスメント。

先日、安売りの値札につられて買ったブリーフが、ふたを開けてみたら全日本型だった。おしりの辺りがだぶつくのを我慢して履いているが、入浴前にパンイチになると、自然と全日本プロレスのテーマソング(馬場がトップロープをまたぐ映像)を口ずさんでしまう。

次は間違えずに新日本タイプを買って、「猪木ボンバイエ」を口ずさみながら風呂に向かおう。だが、その燃える闘魂アントニオ猪木がこの世を去った。プロレスごっこで、ふすまをボロボロにして叱られ、アリとの異種格闘技戦を固唾をのんで見守った身としては、一つの時代の終わりを寂しく感じずにはいられない。

そういえば、パリにいた2年間は湯船につかることがなかったことを思い出した。少し寒いのを我慢してシャワーで節約。「元気があればなんとかできる、1、2、3、ダー!」(画家)

つくば洞峰公園問題 県と市の考えが対立 《吾妻カガミ》144

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市の県営洞峰公園改修問題が迷走しています。茨城県の計画に日常的な公園利用者が猛反対。そこで県が広く県民を対象にしたアンケート調査(2回目=秋)を実施したところ、改修賛成が50%に達しました。ところが市は、日常的利用者を主対象とするアンケート調査(県が公表を抑えていた1回目=夏)の分析結果(改修反対が86%)を公表、対案をぶつけたからです。

レジャー施設にこだわる知事

県としては賛成50%で理論武装し、計画の基本を維持したいようです。詳細は「知事『市が所有も一つの選択肢』…」(10月25日掲載)をご覧ください。

そのポイントは、▽2回目のアンケート調査では、県民の賛成が50%(反対は13%)、つくば市民の賛成が39%(反対は27%)と、いずれも改修賛成が多かった、▽ただ、日常的利用者の懸念に配慮し、計画の核になる「グランピング」と「バーベキュー」施設に、飲酒可能区画と同時間を設ける、▽自然を残せとの声に応え、樹木伐採は極力抑える、▽公園を市に移管したらどうかとの提案は選択肢のひとつ―などです。

つまり、県民と市民が支持してくれたので、「グランピング」「バーベキュー」施設を設ける計画は変えないということです。公園運営に民間の知恵を入れ、レジャー施設を経営してもらい、その収益で維持管理費を浮かせる、というのが県の構想です。このため、この2施設はどうしても必要な仕掛けなのでしょう。

市の対案は施設利用料値上げ

県の構想に日常的利用者は反発しています。両施設があると、宿泊者の飲酒で騒がしくなり、バーベキューの煙や臭いは迷惑だ―と。市はこの声を踏まえ、県は計画を取り下げ、公園の維持管理費はプールなどの施設利用料の値上げで捻出したらよいとの対案を出しました。詳細は「(公園運営民間委託を)撤回し利用料値上げを つくば市長…」(11月2日掲載)をご覧ください。

そのポイントは、▽1回目のアンケート調査を分析したところ、日常的利用者の86%は県の計画に反対という結果が出た、▽公園の維持管理費を捻出する方策として、施設利用料の値上げでまかなう案に理解を示す人が52%いた―などです。

市営に移管するという選択肢

県と市の考えの違いは上のように要約できます。面白いのは、県民の50%、市民の39%が計画に賛成、日常的利用者の86%が計画に反対―と、県民・市民と日常的利用者で賛否が分かれることです。

県民の賛成50%の数字を踏まえると、県は計画を撤回することはできないでしょう。また市の方は、市民の賛成39%を悩ましく思いながら、日常的利用者の86%が反対していることから、撤回に動かざるを得ないでしょう。

アンケート調査も大事ですが、もうひとつ大事なのは、公園の管理者は市でなく県であるということです。公園サービスの提供者である県としては、市の対案(施設利用料値上げ)を素直には受け取れないでしょう。

私は市vs.県の泥沼化を心配し、コラム134「県営の洞峰公園、つくば市が買い取ったら?」(6月6日掲載)で、公園の市営化を提案しました。県は面子を失わない形で計画を白紙化できるし、日常的利用者の要求(公園を変にいじらない)を100%満たせるからです。知事はこの案を選択肢のひとつと言っていますから、スマートな策ではないでしょうか。

対県提案を市が実施したら?

不動産業者によると、公園周辺の地価は1平方メートル=約10万円、20ヘクタールある公園の市場価格は約200億円だそうです。この数字を踏まえると、タダというわけにはいかないでしょう(少なくとも簿価?)。また、移管されれば、毎年2億円強の維持管理費を市の予算に計上する必要があります。

県の計画に賛成する市民(39%)は、移管に伴う公園買収費と維持管理費にNOと言うでしょう。そういった声には、(日常的利用者が自己負担する)施設利用料の値上げでまかなうと説明すれば、納得するのではないでしょうか。(経済ジャーナリスト)

お米を極める旅 in柏崎 ① 《ポタリング日記》9

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門出かやぶきの里・いいもち棟

【コラム・入沢弘子】愛車「BROMPTOM(プロンプトン)」が故障してしまい、修理に2カ月ほど要するということ。11月と12月のコラムは番外編として、先月参加した「対話型体験」プログラムについて報告します。

前職の会社の同僚・大羽昭仁氏が、「地域が稼ぐ観光」をコンセプトに会社を立ち上げました。彼のプロデュースは茨城県内では「かすみキッチン」(かすみがうら市)が知られています。現在は、各地の地域資源を生かした観光プログラムづくりに取り組んでいます。

私はそのパイロット事業「日本の食の原点・お米を極める旅」に参加しました。自治体プロモーションに携わってきた経験から、どのようなストーリーをつくるのかに興味があったからです。10月中旬、新潟県柏崎市へ。2泊3日の「旅」でした。

越後門出和紙作家の小林康生さん

柏崎駅からタクシーで訪れたのは史跡「飯塚邸」。大地主で、政財界で活躍した一族の家屋です。昭和天皇が滞在された際に名を賜った庭園も案内していただきました。宿場町であり、かつ北前船の寄港地として繁栄した町の歴史がしのばれました。

次に向かったのは高柳町門出(たかやなぎちょうかどい)。市街地を過ぎると程なく鯖石(さばいし)街道。江戸時代は小千谷縮(おじやちぢみ)を運ぶ要路でした。のどかな風景を走ること40分。3メートル以上の降雪がある豪雪地帯、門出に到着です。紙漉(かみす)きの5代目、越後門出和紙作家の小林康生さんが迎えてくれました。

小林さんの和紙は、地元産の楮(こうぞ)を使った品質と高い技術で定評があり、隈研吾氏の依頼でサントリー美術館やジャパンハウスに使用されています。彼が和紙作家活動と共に続けているのが茅葺(かやぶき)家屋の再生。約40年前に空き家になった茅葺家屋修復を開始しました。

その目的は、過疎化する集落に都会の人を呼び込み、交流を深め、地域活性化を図ること。再生した家屋は宿泊施設「門出かやぶきの里」として運営。今では国内外から年間千人以上が訪れ、他地域からの移住も実現しています。

宿泊した「いいもち棟」は、山並みを背景に広がる田んぼの一角。谷内六郎氏の絵にある風景のようです。夜の帳が下りるころ、2階の部屋にいい香りが漂ってきました。囲炉裏のある座敷に降りると、炉端では串刺しの鮎が焼かれていました。

門出の昔話は『北越雪譜』のよう

お米作りの達人・農業指導士の鈴木貴良さんも合流し、軒先で餅つきのスタートです。門出産大豆で作ったきな粉をつけたお餅を堪能するころ、竈(かまど)でお米を炊き始めました。中越沖地震で崩れた壁の土で作った竈に、紙漉きで使用する楮の皮や山で集めた杉の葉をくべていきます。

門出産新米の焼きおにぎり

「SGDSって言うけれど、門出では昔からやってるんですよ」と小林さんがポツリ。食事は集落のご婦人達が交代で作ります。材料はすべて門出産。今夜は酢ずいきと菊のおひたし、揚げ茄子(なす)煮ひたし、のっぺ、野菜天ぷら、糸瓜(へちま)のサラダ、車麩(くるまぶ)と野菜の煮物、馬鈴薯(ばれいしょ)の甘辛和え、鮎の塩焼き、ぜんまいの煮物、お雑煮、そして焼きおにぎり―。

炉端で語る小林さんの幼少期の門出エピソードは、まるで『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』のようでした。

ある方が「日本中の米を取り寄せてみたら一番おいしかった」という門出の米。地域の人々と語らい、風景にふれ、作物を生産者の方が調理し、その場所で味わう。ここでしかできない特別な体験。ぜいたくな気分に浸りつつ、星空を眺め、夜は更けていきました。(広報コンサルタント)