土曜日, 4月 27, 2024
ホーム ブログ ページ 24

この1年を振り返る時期に 《ハチドリ暮らし》20

0
野菜の収穫がありました

【コラム・山口京子】1年を振り返る時期となりました。みなさんにとって、この1年はどのような年でしたでしょうか。自分としては、体力の低下を実感する年でした。

今まで普通に持てていた物を重いと感じ、今まで普通に歩けていた所までが遠くに感じられるのです。以前と変わらない音量の音が小さく聞こえ、以前と変わらない硬さの食品を硬いと感じるのは、しっかり老化が進んでいるということでしょう。

「体力の低下」を実感した1年。体力はどこに消えてしまったのか…。元気なときは、体のことなど頓着していませんでした。これからは気にしなければと思いますが、自分の体なのに体の内部はブラックボックスで、本当に不思議です。

終活やエンディングのセミナーでは、いつも3つの寿命の話をします。平均寿命、健康寿命、平均余命です。日本人の65歳がこれからあと何年生きるかを予想すると、男性で約20年、女性で約25年です。75歳であれば、男性で約13年、女性で約16年ですので、長生きするほど、平均寿命の年齢を超えていきます。

ですが、一寸先は闇ですので、来年どうなるのかは誰もわかりません。理想は、来年逝くことになっても、百歳を迎えることになっても、それをよしとできる覚悟を持つことだと…。

働く・学ぶ・遊ぶ・関わりあう・介護する

時間は無限に続くとしても、私の時間は有限で、その時間で何をするのかを考えるには、今の年齢がちょうどいいのかもしれないと思うようになりました。そして、私の時間は大きな歴史の時間のなかのどこに生まれて、育っていったのかをわかりたい。改めて、この半世紀の社会がどういう社会だったのかを学び直したいと感じています。

物心ついたときに、目にしたものが何であったのか。どんなものに触れ、どのような感覚を抱いたのか。耳にした話がどんな話だったのか科学技術の輝かしい未来を素直に信じられた時代には、生産力が発展し、人が働かなくてもよい時代が来るかもしれないという話がありました。

現在は、大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムが、地球の持続可能性を脅かして、そのシステム変更が待ったなしという話になっています。

それぞれの専門家が、様々なことを書いたり、話したりしています。それらの説明に耳を傾け、本に学びながら、自分なりに考えてみる作業が、これからの楽しみになりそうです。「働く・学ぶ・遊ぶ・関わりあう・介護する」の5つがつながりあい、バランスが取れたらいいなと願います。(消費生活アドバイザー)

止血のためのアドレナリン 《くずかごの唄》120

0
イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】半分宇宙人に近くなってしまった夫は、自分の好きなものを見ると、我慢ができない。秋は栗。茨城は栗も名産地である。自分で作って、採りたての見事な栗を届けてくださる人がいる。生の栗を見ると、彼はうずうずしてくるらしい。

夫の学生時代、京都大学薬学教授の井上博之先生は植物生薬の権威。山や野原から木の実、草の実などを採集してきて、その成分分析をなさる。井上先生はドイツやオランダの生薬にもくわしいので、卒業後も先生のお供で、何回もドイツやオランダに連れて行っていだいた。

植物成分の分析というのは、全くの根気仕事だ。小さな種を何千粒も集め、皮と薄皮と実に分けて、検体をつくる。栗のような大きな実の厚皮と薄皮をはがす作業は 彼にとって、学生時代を思い出しながらの、実に楽しい作業なのだ。

彼は栗を見ると包丁を研ぎにかかる。我が家の名物「栗の渋皮煮」は、全自動栗剥(む)き機(私が彼につけたあだ名)がいてくれても、出来上がるのに1週間近くかかる。しかし、しかしである。彼が包丁を研ぎ始めると、私は、出血を止めるためのアドレナリンの0.1%液を用意しなければならない。

高峰譲吉氏が発見した外用薬

彼はワーファリン系の血液凝固を阻止する薬を飲んでいる。そういう種類の薬は血を固まりにくくする作用が強いので、出血したときの手当てが大変なのだ。特に、心臓から上の位置の出血は圧力があるから怖い。

夫が風邪を引いて鼻から出血したときも、洗面器を探している間に5~60ml.の血が飛び散って、居間が血だらけになってしまった。そういうときに、アドレナリン液を綿球に含ませて鼻に入れると、すぐに出血が止まる。こんなありがたい外用薬はないのである。

1900年、アドレナリンの発見者は高峰譲吉氏。高峰譲吉氏のめいの明子さんには、小学生のときにかわいがっていただいた。私が疎開して食べる物もないとき、明子さんが「小公女」など、少女向きの本を10冊も送ってくださったので、これらの本を読んで気を紛らわすことができた。明子さんにも「ありがとう」と言いたい気持ちである。(随筆家、薬剤師)

田中正造の研究会、50年で幕 《邑から日本を見る》125

0

【コラム・先﨑千尋】今月3日、群馬県館林市の文化会館で「渡良瀬川研究会閉会記念鉱害シンポジウム」が開かれ、50年の活動にピリオドを打った。このシンポには約100人が参加し、50年の活動を振り返り、同研究会顧問の赤上剛さんの「田中正造はどのような人物か。今の時代に何を訴えているのか」と題する基調講演などがあった。

同研究会は、1973年に群馬県教組邑楽支部が主催した渡良瀬川鉱害シンポジウムが起源。渡良瀬川研究会として正造と鉱毒事件を研究し、正造の思想や運動を継承し、後世に伝えようと発足した。館林市を中心に、これまでに50回のシンポジウムと30回のフィールドワークを行い、会報や会誌を発行してきた。これまでに、宇井純さんや東海林吉郎さんら研究者や被害地の地元関係者などが、公害先進国日本をどうするか、学校での公害教育をどう進めるかについて議論、学習するなど、わが国の正造研究をけん引してきた。

しかし、会員や運営に当たる幹事の高齢化や後継者の不足、さらにコロナによる活動の停滞により、今回のシンポで幕を閉じることにした。36年の歴史を持つ栃木県佐野市の田中正造大学も先月閉学している。

私が田中正造に関心を持つようになったきっかけは、旧水海道市立図書館長の谷貝忍さんから「村で仕事をするなら、田中正造のことを勉強しろ」と言われたことだった。それから田中関係の本を読み、佐野市の生家や谷中村、松木村、足尾銅山の構内などを歩き、正造のような生き方をしたいと思ったこともあった。北海道の雪印乳業の創始者黒沢酉蔵は、すぐ近くの常陸太田市の出身だが、北海道に渡る前に、正造の手足となって谷中村などで活動したこともあとで知った。

目前の事件に真正面から向き合う

ここでは、同研究会の歩みとこの日のシンポの全体については書けないので、私がこの日に学んだことを記す。

「足尾鉱毒事件とは何か。煙害+毒水害であり、最上流の松木村と最下流の谷中村が廃村になった。この事件は近代日本で起きた最大の公害事件であり、この教訓が今まで生かされてこなかった。チッソ水俣病、三井金属鉱業イタイイタイ事件、東京電力福島第一原発事故などすべてで足尾銅山鉱毒事件の総括をせずに、問題を先送りしていることが原因だ」

「政府は国策の加害企業を一貫して擁護してきた。誰一人責任を取らない。謝罪しない。国は被害地域全体の健康・病理調査をせず、被害を隠蔽し、事件はなかったことにしようとしている。マスコミ、労組、司法も含めて、政・官・学・業が癒着・一体化している。生命よりも利益、経済優先の社会が続いている。被害者が立ち上がらない限り救済はされない」

「一般的な正造像は、近代日本の公害を告発した先駆者、命を賭けて天皇に直訴した偉い人、義人というもの。しかし、祭壇に祭られた偉人正造ではなく、欠点や失敗もあった普通の人正造が、目前の事件に真正面から向き合い、そこで学び、血肉化して死ぬまで成長し続け、民を裏切らなかった。その過程を学ぶことが大事」(元瓜連町長)

地方大学の改革が求められるわけ 《地方創生を考える》26

0
ダイヤモンド筑波(筑西市)

【コラム・中尾隆友】日本の大学の卒業生は、米国と比べて決して劣っていないと思う。決してお世辞ではない。それでは、なぜ日本の企業は米国の企業に比べて成長性や生産性が著しく低いのか。それは、日本の大学がリーダークラスの学生を育てることができていないからだ。優秀な経営者が企業を変革し、社会全体を変えていくのだが、日本ではそれが起こりにくいのだ。

大学に決定的に足りないもの

日本の大学に決定的に欠けているのは、日本を引っ張るリーダーを育てるという役割だ。当然のことながら、それは地方の大学にも求められる。茨城の大学にも、地方のリーダーになることができる人材、すなわち、グローバルな視点を持って地方にイノベーションを起こすことができる人材を育成するようなコースがあってよいと思う。

地方が発展するためには、地方からイノベーションを起こすことができる社会にしなければならない。そのために、知の拠点となる大学と地方の経済発展というのは、これまでとは比べものにならないほど密接に関わっていくことになるだろう。

地方大学改革の必要最低条件

日本の少子化が加速していくなかで、多くの大学が淘汰(とうた)される厳しい状況下にある。とはいえ、地方自治体は有為な若者を地元にとどまらせるために、地方大学の改革を通して、その魅力度を底上げできるように懸命に努力しなければならない。

そこで、地方大学を改革するために必要最低条件となるのは、卒業要件を非常に厳しくするということだ。大学が卒業生に対して、リーダーとしてふさわしい知識やスキル、柔軟な思考力を担保できなければ、地方経済の発展に貢献することなどできるはずがないからだ。

首長のリーダーシップにかかる

そういった意味で、私は、地方が少子化をできるかぎり抑え、地方創生を成し遂げるためには、地方自治体の首長のリーダーシップによって地方大学を変革することが欠かせないと確信している。

知事にしても市長にしても、首長が先見性を持った思考力と本質を見抜く才覚を持っていることはもちろん、地域の住民に何が何でも明るい未来を見せたいという情熱を持たなければ、地方の大学の改革、ひいては、地方の明るい未来は期待できないだろう。

できるだけ多くの首長に、地方大学の改革を地方の成長に結び付けるような取り組みを始めてもらいたい。そう願っている。(経営アドバイザー)

早く目覚めた 十三夜に 《続・平熱日記》123

0

【コラム・斉藤裕之】目が覚めて時計を見る。まだ朝には大分早い時間だ。それに昨日よりも一昨日よりも早くなっている。人の体内時計は月の暦になっているらしいということを、東京芸大の名物授業であった生物学の講義で三木先生は力説しておられた。私の中の時計も月に操られているのか。このままだと、どんどん起きる時間が真夜中に近づいていってしまう。

もう少し眠ってみようかと思って布団をかぶるが、完全に目が覚めてしまった。コーヒーを淹(い)れてから描きかけの絵に向かう。バイクが近づいてきてパタンとポストに新聞を入れる音がした。新聞を斜めに読んでから、まだ暗い中、犬の散歩に出かける。

そういえば今日は十三夜だと言っていたな。住宅街の屋根に近い月は驚くほど大きい。なぜ月がこれほど大きく見えるのか。専門家の説明を聞いても納得できない。散歩コースの住宅街に残された竹林の脇を通ると、必然的に思い出すのは竹取物語。竹から生まれた女性が散々わがままを言って月に帰って行くという、何とも煮え切らない物語。

まんまるお月さん。昔の人がまんまる、いわゆる正円を見るとすれば、月か太陽、それから瞳…、竹の断面。「うさぎ うさぎ なに見て跳ねる…」。正円という特別な形は神秘性や物語を生むらしい。しかし十三夜や十六夜(いざよい)のように、ほんの少し不完全なものに風情を感じるところにも日本の感性の懐の深さ。

月の影響でなく歳のせい

最近、有名な絵画にトマトスープやマッシュポテトを投げつけたというニュースが流れた。何百億円もする一枚の絵が、今の格差社会のアイコンとして生贄(いけにえ)になったわけだ。近年、中国が月に基地を造るとかアメリカがアルテミス計画を進めているとか、ここにきてにわかに月面が騒々しくなっている。そのために、それこそ天文学的なお金がつぎ込まれているはずだ。

裕福な、いわゆる1パーセントの「持つ者」が、驚くような金額を支払って宇宙旅行に出かけようともしている。99パーセントの「持たざる者」は、もっと地に足の着いたことに公金を使ってほしいとその映像を冷ややかに見ている。

海辺に住んでいる人や釣りの好きな人達には、大潮だの満潮だのが話題になることがあるけど、ほとんどの人は月を見て潮の満ち引きに考えを及ばせることはない。食品のほんのわずかな値上がりには敏感な庶民には、例えば国防予算の増大などはあまりにも大きくて、遠くで起きていることとして実感が沸かないのと似ているかもしれない。

私の早起きは月の影響ではなく、恐らく歳のせいだと思うのだが…。そういえば、うちの子もセーラームーンが好きだったな。車の中でエンドレスで聞かされたCDのおかげで、今でも主題歌をソラで歌えるもんなあ。でもなんで「月に代わってお仕置き」なんだろう…。そんなことを綴(つづ)っていると、やれやれやっと東の空が白み始めた。(画家)

阿見町のツムラ漢方記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》6

0
ツムラ漢方記念館

【コラム・若田部哲】医療用漢方製剤の国内シェア8割超を販売し、漢方業界をけん引する株式会社ツムラ。その国内最大の生産拠点と国内唯一の漢方記念館が、霞ケ浦の豊富な水資源を背景に、阿見町に設立されていることをご存じでしょうか? 今回はそのツムラ漢方記念館の瀬戸館長に、奥深い漢方の世界についてご紹介いただきました。

医療関係者を中心に漢方の歴史や製造工程を伝え、漢方への理解を広めるために設立されたこの記念館は、阿見町のツムラ茨城工場や研究所のある敷地内に位置しています。来館してまず驚くのが、敷地内に入るとその場に満ちる漢方薬の香り。

期待とともに記念館に足を踏み入れると、正面奥には漢方薬の原料となる生薬がぎっしり詰まった透明な円柱が建ち並んでいます。植物・動物・鉱物など、自然由来の原料生薬はアースカラーのグラデーションをなし、さながら美しい現代アートのよう。

ところで「漢方」と聞いて「中国医学」と思う方も多いかもしれません。ところが実は漢方とは、5~6世紀頃に中国より渡来した医学をベースに、日本の気候風土・日本人の体質に合わせて発展した、日本独自の伝統医学。

漢方医学は考え方が西洋医学と異なり、病気の「原因」を探しそれを取り除くという西洋医学に対し、患者全体を診て自然治癒力や抵抗力に働きかけ、体全体のバランスを整えるという考え方から成っています。

また漢方薬は、自然由来の生薬を原則2種類以上組み合わせてつくられます。西洋薬は、一つの病因の解消を図るのに対し、漢方薬は多成分の生薬を複合させた薬であるため、一つの薬で複数の症状に効果を発揮することもあります。

患者の症状や体質に着目することから、検査値などに現れない不調や病名がつかない未病など、西洋医学では対応が難しい体の不調に対応できるケースも多く、現在認可されている148種の漢方薬は、9割に及ぶ医師により医療現場で処方されているとのこと。

長い歴史と研鑽による英知の結晶

記念館では、アクリルケース内の生薬原料見学のほか、様々な生薬の匂いを嗅いだり、薬学部の学生向けに調剤を体験できるコーナーなど、漢方の奥深さを体感することができます。

展示されている116種の原料生薬の中には、「なんでこれが体にいいと分かったの?」と思うようなものも数多く、例えばボタンの根から作る「ボタンピ」は、根の中心の数ミリの芯を取り除いた外皮の部分のみを使うそうです。芯を取り除くのが最良と分かるまで、どれほど臨床を重ねたのでしょうか…。思わず目がくらみます。

長い歴史と悠久の研鑽(けんさん)による英知の結晶を、肌で感じることができるこの漢方記念館。幅広く魅力が伝わるよう、ウェブ上で「TSUMURA バーチャル漢方記念館」も公開されており、概要の見学が可能です。また、12月から県内の中学、高校向けにもオンラインでの見学を受け付けるとのこと。ぜひ一度ご覧ください!(土浦市職員)

①サイクリストの宿(7月8日付
②予科練平和記念館(8月11日付
③石岡のおまつり(9月8日付
④おみたまヨーグルト(10月6日付
⑤冷たくてもおいしい焼き芋(11月12日

【11日午後4時30分追加】本コラムは「周長」日本一の湖・霞ヶ浦周辺の、様々な魅力をお伝えするものです。

「5時に夢中」の岩下さんの見せる「文化」《遊民通信》54

0

【コラム・田口哲郎】

前略

東京メトロポリタンテレビジョンの月~金曜日夕方5時からの番組「5時に夢中」を楽しく視聴していることは、以前書きました。「5時に夢中」は東京ローカルのワイドショーという感じですが、コメンテーターが多彩で、サブカルチャーの殿堂のようです。

私が好きなのは、木曜日の中瀬ゆかりさんと火曜日の岩下尚史さんです。中瀬さんは新潮社出版部部長で、文壇のこぼれ話を巧みな話術で披露して笑わせてくれます。岩下さんは新橋演舞場勤務から作家になった方で、東京のいわゆるハイ・カルチャーをよくご存じの方で、こちらも話術が巧みで笑わせてくれますが、ひとつひとつのお話に含蓄があるというか、うなずくことが多いです。

岩下さんの小説『見出された恋 「金閣寺」への船出』の文体は流麗で、引き込まれます。岩下さんは國學院大学ご出身ですが、國學院の偉大な民俗学者にして作家の折口信夫の小説『死者の書』などの文体を思わせる傑作だと思います。

さて、岩下さんのインスタグラムの話題が出ていて、美食家としての一面が見られるというので、見てみました。岩下さんらしい、ハイソな生活を垣間見られるのでおすすめです。シティ・ホテルでのパーティーや会食、料亭とおぼしきところでの高級料理など、きらびやかな世界が広がっています。

岩下さんはいつも和装。青梅の築100年の日本家屋にお住まいです。新橋演舞場で日本舞踊のイベントを手がけていた関係で、芸者さんや古典芸能関係の人脈をお持ちです。岩下さんの生活には「文化」のかおりがします。

知らないのに、あこがれる、どこかなつかしい「文化」

文化は日本津々浦々、世界あまねくどこにでもあるものです。でも、岩下さんが見せてくれる「文化」は東京という街がどんどん新しくなってゆく中で、どこかなつかしさを保っている文化です。正直言って、私など新興住宅地、核家族のサラリーマン家庭に育った人間には縁のない世界です。でも、どこかなつかしく、憧れを抱かせる世界です。

宝塚歌劇団の初期の演目に「モン・パリ」というレヴューがあります。私のパリという意味ですが、そこでフランスのシャンソンを翻訳した「わが巴里」という曲を宝塚の男装のスターが踊り歌いました。大正時代、観客の中にパリに行った人などほとんどいなかった時代ですから、パリを「わが巴里」と言える人はほぼいなかったのですが、それでも観客はあこがれの都パリにあこがれを抱いて、そして郷愁さえ抱いたそうです。

岩下さんの東京の「文化」に、私もあこがれと郷愁を覚えます。「文化」とは不思議ですね。「文化」は、日々いろいろなものが変わり、流れてゆき、せわしない世の中にあっても、ひとときのやすらぎを与えてくれるものと言えましょう。やはり「文化」は良いものですね。

ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

つくば洞峰公園問題をめぐる対立と分断 《吾妻カガミ》146

0
つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市にある茨城県営洞峰公園の運営方法をめぐり、県と市が対立、市民の間には分断が生じています。本欄ではこの問題を何度か取り上げてきましたが、今回は対立と分断の起因を整理して、県と市、市民が納得できる策を探ってみます。

維持管理費をどう捻出するか?

県の考え方は、▽園内にグランピングなどのレジャー施設を設けたい、▽その目的は、公園の維持管理費の一部を施設運営会社の収益で捻出することにある、▽同時に、新しい施設は県の観光振興策にも合致し、県の魅力度向上に寄与する、▽新施設を迷惑に思う利用者に配慮し、レジャー施設には利用ルールを設ける―と要約できます。

この計画に対し、公園の日常的利用者が、▽園内にレジャー施設ができると、自然公園の形が壊れる、▽そのような施設は公園になじまないので、公園の現状を変えないでほしい―と反対。市は日常的利用者の側に立ち、▽県の改修計画には賛成できない、▽維持管理費は、公園運営の民間委託でなく、体育館などの利用料引き上げで捻出したらよい―と主張。

要するに、公園運営に民間の知恵を導入し、県財政から出る維持管理費を浮かせ、公園にキャンプなどを楽しむ場としての役割も持たせたいとする県と、今の公園の形は変えず、維持管理費は県財政ではなく、施設利用者に負担させたらよいとする市の対立です。

市長対案を県知事は明確に拒否

複雑なのは、つくば市民は一つにまとまっておらず、県の改修計画に賛成する市民と反対する市民がいることです。県の調査では、賛成市民39%、反対市民27%でした。市民の間に分断が生じているわけです。賛成したのは洞峰公園をあまり利用していない市民、反対したのは日常的に使っている市民と推測されます。ちなみに、県民の賛成は50%(反対は27%)でした。

上のような市民と県民の世論を踏まえ、大井川知事は記者会見で、つくば市の対案(施設利用料値上げ)を明確に拒否。計画の基本(民間委託によるレジャー施設設置と維持管理費捻出)は変えない方針を打ち出しました。

その発言は、▽利用料値上げ案は施設利用者の負担を重くさせ、バランスに欠ける、▽民間委託で運営費用をまかなう県の計画は変えず、近く必要な手続きを開始する、▽県が実施した調査では、県民はもちろん、つくば市民も改修に賛成する人が多かった、▽公園をつくば市に無償で移管するという選択肢もあり、そうすれば市の考え方で運営できる―と整理できます。

徹底抗戦/市民説得/市営移管

日常的利用者に押されて対案を用意し、それを県に示した五十嵐市長は、知事の拒否に遭い、対応を迫られています。市長の選択肢は、▽27%の反対市民を背にして反対運動を展開する、▽39%の賛成市民の意を汲(く)んで県案を呑(の)むよう反対市民を説得する、▽知事が用意した対案(市営に移管→市が自由に運営)に乗る―に絞られます。

本欄では、知事と市長の思考癖を踏まえ、この案件は迷走すると予想。市は「公園を買い取ったら」と提案しました。反対市民を説得できないのなら、運営方法をめぐる県との対立の深刻化を避けるために、市に譲ってもらうのが賢い策でしょう。(経済ジャーナリスト)

<参考> 洞峰公園問題記事と関連コラム

▽記事「…大井川知事…利用料金値上げを否定」(11月20日掲載

▽記事「…利用料値上げを …市長、県に要望…」(11月2日掲載

▽記事「…年明けにも手続き開始…知事 市管理なら無償譲渡」(12月2日掲載

▽144「…洞峰公園問題…県と市の考えが対立」(11月7日掲載

▽139「上り坂の市と下り坂の県のおはなし」(8月15日掲載

▽134「県営の洞峰公園、つくば市が買い取ったら?」(6月6日掲載

台湾の地方選 与党・民進党の大敗《雑記録》42

0

コラム・瀧田薫】11月26日、台湾で4年に一度の統一地方選が行われ、台北市長など多くの首長選で野党・国民党が勝利した。蔡英文総統が率いる与党・民進党は大敗し、蔡氏は直ちに党主席(党首)を辞任したが、総統の任期2024年5月)は全うする旨表明した。

蔡氏は選挙戦を通じて、地域振興策とともに「抗中保台」(中国に抵抗し台湾を守る)政策を掲げ、それを争点化して選挙戦を勝ち抜こうとしたが、選挙は対中融和路線を標榜(ひょうぼう)する野党・国民党の大勝に終わった。これを受けて、中国政府は「平和と安定を求める民意の表れ」と国民党の勝利を歓迎するコメントを発表した。しかし、この選挙結果を見て、台湾の有権者の多くが中国との融和を望んでいると判断すれば、実態を見誤る。

台湾の選挙事情は独特で、国の基本政策(外交方針など)を争点にするのは総統選挙、国民生活の身近な問題(物価、景気など)は地方選の争点といった具合に、国民の意識の中で分けられている。さらに、地方選の場合、地域事情や候補者の地縁・血縁が選挙結果に大きく影響することもあって、対中方針といった国政上のテーマは争点になりにくいのである。

実際、今回の選挙で野党が大勝した理由は、与党の国内政策(コロナ、経済、社会保障など)批判が国民一般から支持されたことにあったわけで、野党の親中路線が国民一般の支持を得たわけではない。民進党としては、選挙結果をうけて、まず内政重視の姿勢を取らざるを得ず、野党・国民党としても与党の国内政策に攻撃を集中する方が党勢拡大のための最適解と考えるだろう。

つまり、対中国政策で与野党が正面切って火花を散らすのは次期総統選が事実上始まる来年夏頃からになると予想される。これまで対中国で強硬路線を続けてきた蔡政権は、当面、内政重視の姿勢を国民向けに見せることになるが、他方、欧米、日本などとの連携(対中国)方針について大きく変えることはないだろう。

次期総統選の行方に注目

さて、中国政府は、地方選後の台湾政治の焦点は次回総統選(2024年1月)に移ったと考えているだろう。総統の任期は2期8年で次回選挙に蔡氏は出馬できない。従って、誰が次期総統になるか、それが中国政府最大の関心事になる。

10月半ばに実施された世論調査によれば、支持率は民進党33.5%、国民党18.6%であり、副総統の来清徳氏が民進党の次期総統候補として最有力視されている。来氏は対中国について、蔡氏以上に強硬な姿勢の人物として知られている。中国政府は、民進党を「台湾独立勢力」と位置づけており、来氏の次期総統就任を阻止するため、今回の民進党の惨敗を好機ととらえ、台湾内の親中勢力に呼びかけて台湾政権に揺さぶりをかけるだろう。

中国に抵抗する民進党が政権を維持するのか、対中融和路線の国民党が政権を奪還するのか、次期総統選の行方が台湾海峡情勢を左右する最大要因であることは言をまたない。(茨城キリスト教大学名誉教授)

頑張ろうとすると嫌なことが起こる 《続・気軽にSOS》122

0

【コラム・浅井和幸】あることがきっかけで、部屋に引きこもるようになった。このままではだめだと思い、がんばって外に出るようにした。あるとき、コンビニで買い物をしていたら、店員に嫌な目つきでにらまれた。もう外には出たくない。

頑張って仕事を始めたら、嫌な客にクレームをつけられた。一念発起してサイクリングを始めたら、自転車がパンクした。バイトを始めたら、体調を崩した。がんばって本を読もうとしたら、道路工事が始まった。

これらは実際に相談に来られた方が話してくれた事柄です。そして共通に言います。「自分は何かを頑張って始めようとすると、必ず邪魔なことが起こる。頑張ると嫌なことが起こるのはどうしてなのか。もうこんな人生嫌だ」

何か行動を起こしても起こさなくても、起こる嫌なこともあります。例えば、道路工事の開始はそれに当たるかもしれません。しかし、ほとんどのことは「頑張るから起こる嫌なこと」なのです。

この場合、「頑張る」とは、行動範囲を広げること、何かに挑戦することです。行動範囲が広がれば、その分、うれしいことも嫌なことも起こる可能性が高くなります。そもそも、頑張れば嫌なことがなくなると思うのが現実的ではないのです。

似たようなことで、能力が上がれば上がるほど、分からないことが増えていくという現象も起こります。能力が低いときは、自分が分からないことが分かっていません。しかし能力が上がり、世界が広がると、知識が増えるのと同時に、自分が知らないこと、分からないことが、より多く実感できるようになります。

失敗から立ち直る経験が大切

話を戻すと、何かに挑戦することは、失敗や嫌な体験が増えることです。それは、成功やうれしい体験が増えるのと同時に起きます。挑戦をせず、自分の能力を伸ばさないで、簡単なことばかり行っていれば、失敗もしないし、余裕を持つことができるでしょう。

簡単な仕事ばかりして失敗をしない人は、他人が失敗をすることを笑うかもしれません。笑われることは嫌なことです。ですが、失敗を笑われるのを恐れるより、失敗する経験すらできないことを恐れてください。

勉強、仕事、恋愛―。人は失敗から多くのことを学びます。失敗の経験をし、そこから立ち直る経験をし、失敗さえも次の目標の糧とすることが大切です。失敗を糧にできる人は、次の難問にも立ち向かって、よりよい方法が見つける才能を持っていることになります。

失敗しない人も、簡単な問題を解決する分には、それほどの劣勢はありません。しかし、少し複雑な問題に対応したとき、経験したことがない場面に出くわしたとき(例えば突然の火事や地震など)には、挑戦をして失敗を乗り越えてきた人が、かなりの優位性を持つことになるでしょう。

人の挑戦や失敗を笑うような人間にはなっていませんか? 成功体験も大切ですが、失敗して、そこから立ち直る経験をすることも、同じぐらい大切なこと実感できていますか?(精神保健福祉士)

バーチャルフォトグラフィーという世界 《ことばのおはなし》52

0

【コラム・山口絹記】バーチャルフォトグラフィーという単語を聞いたことはあるだろうか。

最近のゲーム、例えばソニーのプレイステーション5やマイクロソフトのXbox(エックスボックス)などの家庭用ゲーム機、ハイスペックPCで遊べるようなゲームを普段からプレイしている方々の中ではもはや当然になりつつあるのだが、今のゲームのグラフィックというのは本当にすごいことになっている。知らない人が見たら、ゲームの画面だとは信じられないレベルになっていると言ってもよいだろう。

今コラムの写真は著作権的な都合で現実世界の写真を載せているが、これくらいの景色がどこまでも広がっている世界を自由に動き回れると思っていただいて差し支えない。

そんなすさまじいグラフィックの世界を歩き回って遊べるゲームが数多くある中で、このゲームの画面を写真として記録する活動が少しずつではあるが広まっている。

少しゲームやPCに詳しい方には、「それってつまりスクリーンショット(キャプチャ)でしょ?」と言われてしまいそうだ。もちろん最終的にはスクリーンショットに違いないのだが、このスクリーンショットを記録する前段階で、目の前の情景をより思い通りに撮影するための機能が最近の多くのゲームに実装されている。

思いもよらない世界が広がる

この機能は「フォトモード」と呼ばれることが多いのだが、実際のカメラやレンズにある概念や機能、焦点距離や絞りはもちろん、ゲームによっては複数の照明装置(ライティング)、色収差やノイズを調整できるものまである。つまり、ゲームの中に本格的な機材を持ち込んで撮影ができるのだ。

加えて、現実ではいじることのできない天候や時間を操作したり、現実ではありえないアングルから自由な撮影も可能であることが多い。

これはどういうことかと言うと、プレイヤーそれぞれの感性をかなりの自由度の中で写真として表現できるということだ。ここまでくると、もはやひとつのアートだし、ゲームの中の一機能にとどまらない独立した文化になっていく(なっている?)のだと思っている。スクリーンショットではなく、あえてフォトグラフィーと呼ぶのはこういった現状を踏まえているのだ。

SNS、特にTwitter(ツイッター)などでは、かなりの頻度でコンテストなどのイベントや、バーチャル空間での展示会なども開催されている。興味のある方は是非、「バーチャルフォトグラフィー」という単語でネット検索をしてみてほしい。そこには思いもよらない世界が広がっているはずだ。(言語研究者)

お米を極める旅in柏崎 ② 《ポタリング日記》10

0
門出の夜明け

【コラム・入沢弘子】前回の「お米を極める旅 in柏崎 ① 」(11月6日掲載)に続き、番外編として、10月に参加した「対話型体験」プログラムについて記します。靄(もや)が黄金色に変わり、門出(かどい)の朝が浮かび上がってきました。朝は「お米を知る特別講座」から。米の歴史、お祭りとの関係、米の品種と産地、柏崎の米の品種、分類と活用に至るまでを学びました。

続いての鍋敷き作りは、農業指導士の鈴木貴良さんにご指導をいただきます。Uターンで門出に戻ってから農業一筋35年。耕作放棄地の景観保全を目的に、「門出総合農場」を設立。合鴨(アイガモ)、マガモ農法での米作りをはじめ、大豆栽培と加工品製造、特産品の「じょんのび鶏」飼育、米作依存脱却のための小麦栽培と加工―など、従来の農業に加え、新たな可能性に挑戦している方です。

鍋敷きは、ドーナツ状の藁(わら)、芯に柔らかくした藁を、手でこすり合わせながら巻いていきます。撚(よ)る、繰(く)る、綯(な)うの繰り返し。次に綯う藁が識別できずにいると、「そういうときは、撚りを戻せばいいんです」と鈴木さん。語源を実感したひと時でした。

昼は、柏崎市中心部の割烹ささ川で、巻き寿司づくり体験です。店主の笹川隆司さんの地元の食材にこだわった料理は定評があります。コツを教わりながら、卵焼き、胡瓜(きゅうり)、海老(えび)、干瓢(かんぴょう)、椎茸(しいたけ)、ひじき、桜でんぶ、甘く煮た胡桃(くるみ)を入れた、太巻きずしを作ります。巻いたお寿司(すし)は各自の昼食に。

お米の活用法を五感で体験

絵付けをした網代焼

続いて、老舗菓子店・新野屋の新野良子専務による米菓・網代(あじろ)焼についての講義。日本最古の工業米菓の網代焼は、柏崎の米と海老を使用したお煎餅(せんべい)。他県に勝つために立ち上げた米菓研究所、職人の確保、独自商品流通ルートの開発―など、百年以上メイン商品として製造を続ける努力が感じられ、感銘を受けました。講義の後は、生地を実際に焼き、チョコペンでの絵付け体験。米菓がより身近に感じられました。

夜は、再び割烹ささ川へ。前菜から食後のお茶まで全ての料理に米を使った「米フルコース」をいただきます。京都の料亭・菊乃井の開発したレシピに笹川さんがアレンジを加え、地酒と料理のペアリングを楽しみます。笹川さんの獲った魚や海藻、鈴木さんの育てた米や鶏、市内4つの酒蔵のお酒。料理素材から調味料、嗜好(しこう)品に至るまでを、半径10キロ以内で調達できる柏崎。ここでしか体験できないもてなしに贅沢(ぜいたく)な気分に浸り、夜はふけていきました。

最終日は原酒造の見学。創業2百年以上の老舗は、関東地区でも「越の誉」が有名です。早くから東京営業所を構え、販路拡大を続けてきた賜物(たまもの)でしょう。

今回の「お米を極める旅in柏崎」では、新潟で一番早く米が収穫される柏崎で“お米”の活用法を五感で体験したのは大きな学び。長い年月、地域の活性化につながる活動をしてきたキーマンたちとの対話も非常に印象的でした。数年がかりで取材を続け、その地ならではの魅力を発掘し、対話型プログラムを創る大羽さんにも感服。今後、全国で展開されるプログラムにも注目していきたいです。(広報コンサルタント)

<参考>未来づくりエクスペリエンス by 未来づくりカンパニー

旧統一教会と政治の関係 《ひょうたんの眼》54

0
庭の紅葉

【コラム・高橋恵一】旧統一教会の被害者救済や新たな被害者の発生防止策が国会で検討されているが、なかなか進展しない。合同結婚式や霊感商法が顕在化し、オウム真理教の地下鉄サリン事件でカルト集団の異常さと不気味さが課題になって、旧統一教会に対しても規制の動きがあったが、メディアの報道も減って立ち消えになっていた。

7月8日、参議院選挙の最中に安倍元首相が街頭演説会場で銃殺されるに至って、政治家と旧統一教会との関連が浮上し、改めて信者の異常な高額寄付などによる被害、信者の家庭崩壊などが、長期間続いていることが明らかになった。

旧統一教会は、本部のある韓国ではビジネス集団としての性格が強く、膨大な資金を背景に、韓国国内だけでなく、北朝鮮や米国、南米の諸国で、多様なビジネスを展開している。その資金や赤字の補填(ほてん)は、日本の高齢者や女性の献金などで集められ、韓国の教団本部に送られる年間数千億円が充てられているという。

旧統一教会のスタンスは、過去の日本が朝鮮半島を植民地支配した、日本人は先祖の罪を償(あがな)うために韓国に金銭を提供しなければならない―というもので、その具体化が霊感商法や献金・寄付などだ。結果、マインドコントロールされた信者やその家族が生活破綻するほどになり、教団の意向によって成立した信者同士の夫婦や子供にも、人権問題が生じている恐れもある。

政治家の自浄作用には期待できない

政治家と旧統一教会の関係が調査され、教団イベントへの出席や祝意の提供などとともに、選挙への強力な支援が見えてきた。平成12年(2000)以降の国政選挙では、教団の強力な支援で当選した議員もあり、教団の選挙支援を差配していたのは、元首相という証言が多数報道されている。

旧統一教会は、霊感商法などの批判から逃れるため、教団の名称変更を文部科学大臣に申請したが、当初は認可されなかった。名称変更が認可されたのは、第2次安倍内閣になってからである。同性婚や選択的夫婦別姓など、多様性を認める地方議会でも慎重論が通ってしまう。旧統一教会の主張する方向が、政治の場に表れている。

最近も、貧困や、家庭内でのDV被害などから子供を守るための「こども庁」の設置が、いつの間にか、「こども家庭庁」になっている。

教団は、宗教法人格の取り消しや集金活動の制限を恐れて、政権与党と強く結びついたのであろう。つまるところ、金集め集団にとって、教団を擁護し、収奪活動への制限をさせない役割を政治家に求め、政治家は、無償で強力な選挙応援をしてくれる教団を必要とした。この関係を断たない限り、被害者の救済も防止も成り立たない。

しかし、元首相など、問題の中核にある政治家との関係の調査が拒否されている。不当な金集め教団、いわば反社会団体の選挙支援活動に期待している政治家は、宗教法人の取り消しや被害者救済に消極的だ。

政治家の自浄作用に期待はできない。この状況で出番はメディアである。政治家の、忘れた、記憶にない、知らなかったなどという説明を信用している国民は、ほぼゼロであろう。うそとわかっていながら、追及できないメディアであってはならない。(地図好きの土浦人)

茨城の陶芸家 荒田耕治先生と 《令和楽学ラボ》21

0

【コラム・川上美智子】荒田耕治先生の作品との出会いは、結婚して東京から茨城に移り住んだ1970年春のこと、笠間の佐白山(さしろさん)の麓で開かれていた陶芸市をのぞいたときでした。内側がチタンマット、外側が黒釉彩(こくゆうさい)の洗練された素敵なコーヒーカップのセットを見つけ購入しました。新聞紙に包んでくれた係の人が、「荒田耕治さん」という笠間の若手ホープ作家が焼いたものだよと教えてくれました。

当時、先生はまだ32歳で県窯業指導所を終了し、笠間に築窯されたばかりの頃だったようです。実際に、荒田先生にお目にかかったのは、2005年、国民文化祭茨城県実行委員会で一緒に企画委員をしたときでした。

それがご縁で、2009年、国民文化祭が終了した年に、荒田耕治先生の陶芸教室でご指導を頂くことになりました。以来15年間、茨城県美術展覧会と水戸市芸術祭美術展覧会に連続入選することができ、先生のご指導のおかげで奨励賞や市議会議長賞などの賞も頂き、すっかり陶芸にはまってしまいました。

土をこね、土と向き合い大きな壺(つぼ)や花器に仕上げる工程は、もろもろのことを忘れ手仕事に没頭できる貴重な時間です。手を動かすことで、脳も心も浄化されるのを感じます。そのような大切な機会を与えてくれたのが荒田先生との出会いでした。

先生も、ご自分の作品とは異なる新しい形、思いがけないものが出来上がるのを楽しみにしてくれていたようです。手ひねりで大きな作品を作る手法を、この15年間でしっかり学ぶことができ、そろそろ個展を開いて、先生に見て頂きたいと思っていた矢先の、とても残念な先生のご逝去でした。

伝統工芸の第一人者として活躍

荒田先生は、茨城県を代表する陶芸作家で、伝統工芸の第一人者として活躍されました。黒釉彩、緑藻釉(りょくそうゆう)、幾何文様(きかもよう)、木葉天目(このはてんもく)などの先生独自の作風により、文部科学大臣賞、板谷波山賞、大観賞など、多数の賞をとられ、日本工芸会正会員、茨城工芸会顧問、茨城県美術展覧会参与として、茨城の陶芸界をけん引して来られました。まだまだ作品作りへの情熱をお持ちでいらしたので残念でなりません。

12月18日(日)まで、しもだて美術館で「板谷波山生誕150年記念 茨城工芸会展」が開かれています。先生の遺作となってしまった珍しい黄色の木葉天目茶碗(ちゃわん)が展示されています。木葉天目は、葉の葉脈の跡を茶碗の底に残したもので、木の葉には、珪酸(けいさん)分を多く含む椋(むく)の葉を使います。中国の吉州窯(きっしゅうよう、現在の江西省吉安市)で唐代に始まり南宋時代に最盛期を迎えた技法で、きれいに葉脈の形を残すのには高度な技術が求められます。

荒田先生が、県の三の丸庁舎の庭で、ここには椋の木があるんだよと、うれしそうに葉っぱを集められていたのが懐かしく思い出されます。いつか、そのような作品にもチャレンジし、先生に教えて頂いた陶芸の道、歩んで行ければと思います。(茨城キリスト教大学名誉教授)

ふるさと納税の顛末記 ① 《文京町便り》10

0
土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】年末になると、ふるさと納税でソワソワするお宅もあるかも知れない。魅力的な返礼品をめぐる話題である。しかし、これは、制度導入の経緯からすると、妙な話である。今回は、その顛末(てんまつ)を取り上げたい。

そもそも、高校まで地方圏で教育を受けた若者の相当数が、大学入学や会社就職で都会に出て、その後の社会人生活や結婚後もそこで過ごすのは、20世紀後半の日本社会では(都市部と農村地域の間で教育や就業のチャンスに濃淡がある以上)当然だった。

この若者には財政の観点からは、高校卒業までは地元自治体の教育支出が投入されていた。勤務先の企業は、法人税(国税)および法人住民税を(企業の所在地へ)納めている。会社員としては、給与・報酬から所得税(国税)と個人住民税を(居住地の県・市町村へ)納めている。この会社員も企業も、当該年度に関しては立派な納税者である。

しかし、この会社員を高校時代まで成育させた出身地では、この財政収支の流れはやや釈然としない。少なくとも、地方出身者の高校卒業までに投じた財政資金のある部分は、出身の市町村・県に戻してもらいたい。とりわけ、都市部に出た地方出身者が地元に残った同世代よりも高所得者になっている場合には、そうした矛盾を感じる。

故郷へ還元できる制度はないか?

地方交付税制度は、こうした気分を一部解消する制度でもある。主要な国税5税(所得税・法人税・酒税・消費税・地方法人税)の一部(3割強)を地方の固有財源とみなして、全国の地方自治体を対象に、一定の意基準に従って(地方自治体ごとに基準財政需要額と基準財政収入額を算定し、前者が後者を上回っている場合はその差額を財源不足とみて)財源保障のために一般財源として配分する、という制度である(うち、94%は普通交付税、6%は特別交付税)。

この制度が導入(1954年)されて以降、東京都だけは恒常的に普通交付税の不交付団体だが、市町村の不交付団体(2022年度)は全国で72である(交付団体は1646)。茨城県内の不交付団体は、つくば市、神栖市、東海村である。ともあれ、この制度は全国画一的で、そもそも、個々の納税者には自分の納税額のどの程度が全国に配分されているのか、自覚もトレースも困難である。

個人ベースで、こうした故郷・出身地への還元を実現できる制度はないか、という問題意識はかねてからあった。このあたりの事情は、この制度を(『日経新聞』「経済教室」2006年10月20日で)提案した西川一誠『「ふるさと」の発想』(岩波新書、2009年7月)に詳しい。ちなみに西川氏は、自治省出身で福井県知事(2003~19年)を務めていた。

ともあれ、ふるさと納税制度は、(1)田中康夫・長野県知事が住民登録を自らの考えに近い自治体(泰阜村)に変更するという型破りの問題提起(2004年3月)などもあり、「ふるさと」を必ずしも自分の出身地に限定しない、(2)この納税は、あくまでも所得税・住民税の納税分の一部を対象団体に振り替える寄付金税制として設計され、2008年5月からスタートした。(専修大学名誉教授)

百年亭再生プロジェクトが進行中 《宍塚の里山》95

0
改修工事中の百年亭

【コラム・佐々木哲美】宍塚の自然と歴史の会では、2019年7月に里山に隣接した築100年以上の住宅を購入し、「百年亭」と名付け、修復作業に取り組んでいます。その資金集めに、クラウドファンディング(CF)を使いました。期間は9月5日~10月21日、目標額は300万円としました。

建物の完成には800万円程度が必要ですが、CFに並行して、助成金申込みや様々な手法で、宍塚の里山の重要性を伝えながら資金を集めます。

CFの結果、223名の方から317万5000円の寄付をいただき、目標を達成することができました。どんな方から寄付があったかまとめたところ、会員から27%、非会員から73%と、非会員の寄付が多くを占めました。居住地別では、つくば市32%、土浦市15%など、県内で62%を占めました。

県外では東京都が14%と多く、関東全体では28%を占め、関東以外は9%でした。宍塚から離れると人数は減少しますが、県外からの寄付者が全体の37%にもなり、宍塚の里山保全への支持が全国に広がったことを示しています。

寄付額は1万円が119名(59%)と最も多く、次いで5000円が65名(29%)と続きます。10万円という高額寄付者が4名もいました。今回の成功のカギは、もちろん、寄付していただいた方、知人・友人に働きかけていただいた方、プロジェクトメンバーの努力ですが、ホームページ(HP)の役割も少なくありません。仲介業者READYFORの方々の親身なサポートもありました。

百年亭の創建年と大工名が判明

現在、百年亭再生プロジェクトは、建物の基礎部分の補強工事に取り組んでいますが、工事にあたって解体した玄関の部材から、墨で書かれた古文書が発見されました。専門家の判読の結果、「明治十四年 六月 佐野子 伊助作」と、建物の創建年月と、手掛けた大工棟梁の名前が判明しました。

この発見によって、今まで不明だった百年亭の建設者と築年数が明らかになり、築年数は推定したよりも長く、141年を数えていたことになります。

CFの取り組みは、今後の宍塚の里山保全の資金集めの参考になりました。また、百年亭の歴史が判明したことで、関わっている一級建築士の若者たちをはじめ、多くのスタッフを元気づけています。皆が力を合わせ、再生プロジェクト完成と里山保全に取り組んでいきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 顧問)

はつゆきさん《短いおはなし》9

0

【ノベル・伊東葎花】

はつゆきさんと出会った日、僕はまだ小学生だった。

遊び過ぎた帰り道、肌を切るような冷気に、思わず身を縮めた。

「そこのぼうや、早く帰りなさい。雪が降るわよ」

見上げると木の枝に、透き通るような白い女性がいた。

「雪? まだ11月だよ」

僕が言うと、彼女はほほ笑んで白い指をくるりと回した。

途端に、空から無数の雪が舞い落ちてきた。

灯りがともり始めた夕暮れの町が、幻想的な冬景色に変わった。

「わあ、おねえさん、すごい」

はしゃいで見上げると、木の枝に彼女はいなかった。

僕は彼女を「はつゆきさん」と呼んだ。

はつゆきさんは、初雪の季節になると必ず現れた。

ほんの一言、言葉を交わしてすぐに消える。

年に1度、わずかな時間を過ごすだけなのに、僕にとって彼女はかけがえのない存在になった。

僕は20歳になった。

寒さが足元からじわりと伝わる。今日、初雪の予報が出ている。

いつもの場所に向かうと、やはりいた。

はつゆきさんは、木の枝で静かにほほ笑みながら僕を待っていた。

「今年も会えたね」

「今夜は冷えるわ。温かくしてね」

はつゆきさんはいつものように、白い指を空にかざした。

「ちょっと待って!」

彼女が指をくるりと回す前に、僕は慌てて声をかけた。

「こっちに降りてきなよ。もっと話したい」

はつゆきさんは、戸惑いながら枝を離れ、僕の隣にふわりと舞い降りた。

子供の頃はずいぶん大人に見えたけど、今はまるで可憐な少女だ。

その細い肩に触れようとしたら、彼女はひらりと身をかわした。

「触れてはだめ。溶けてしまうわ」

彼女の身体は雪と同じだ。

僕たちは少し離れてベンチに座った。

時々話して、風に踊る枯葉をながめた。

そして明日も逢う約束をして別れた。

その日、初雪は降らなかった。

それから僕たちは、毎日逢った。

天気予報に雪マークが並んでも、雪は降らない。

やがて、はつゆきさんは少しずつ痩せていった。時おりつらそうに息を吐く。

もう限界だ。これ以上引き留めることはできない。

「今日で最後にしよう」

はつゆきさんは、悲しい瞳で僕をじっと見た。

そしてすっかり細くなった手で、僕の手を握った。

僕の体温が、はつゆきさんの方に流れていく。

「だめだよ。溶けちゃうよ」

はつゆきさんは首を横に振り、僕にそっと寄り添った。

溶けてしまう…。溶けてしまう…。

わかっているのに、離れることができない。

「さようなら」小さな声が風に消えた。

はつゆきさんは、木枯らしのベンチに僕を残し、きれいな水になってしまった。

はつゆきさんが消えた翌日、今年初めての雪が降った。

彼女の代わりの誰かがやって来て、雪を降らせたのだろう。

その姿は、僕には見えない。

きっと、やがて彼女と恋に落ちる、どこかの少年にだけ見えるのだろう。(作家)

時の流れとノスタルジー《遊民通信》53

0

【コラム・田口哲郎】

前略

今年は鉄道150周年イヤーだそうです。1872年に新橋-横浜間に開業した路線が日本初の鉄道になりました。150年前は明治時代ですから遠い昔のように感じます。確かにそうなのですが、今わたしは43歳です。たとえば鉄道の150年のうちの43年間は自分にとってもリアルタイムだったことになります。

単純計算で、わたしが生まれたときは、鉄道は開業して117年だったわけです。歴史の一部が自分の半生にかかっているというのは、なんとも不思議な感覚です。いつも現在だった今が、いつの間にかある程度時間的な距離のある過去になってしまうほど、自分がこの世に存在してきたのだなと驚きます。

ふと気づいたら、高校球児がずいぶん年下になってしまうと言われますが、それが感覚的によくわかるようになりました。

40歳を超えたあたりから、振り返ることができる年月が10年単位になることにも気づきました。若かったとき、いわゆる中高生だった時代は30年前、最初の大学生時代は20年前になります。わたしにとって懐かしい時代は90年代、ミレニアム、そして2000年代です。あのころを思って、ノスタルジーにひたることになるとは思いもしませんでした。

バブル経済がはじけて、失われた10年といわれた時代。阪神淡路大震災に衝撃を受け、9.11同時多発テロに震撼した時代です。携帯電話の登場でコミュニケーションが劇的に変わり、インターネットの登場で情報が洪水のようにあふれるようになった時代です。当時新鮮だったことも、現在は当然のこととして常識になっていたりします。

ノスタルジーは人間の本能!?

人間は歳をとると、現在と過去を自由に行き来できるようになります。まさに今のことが何十年後には過去になってノスタルジーを引き起こすに違いありません。

不思議なのですが、「あのころはよかったな」と、若いときは絶対に言えなかったフレーズが自然と口をついて出てきてしまいます。思い出は美化されますから、過去が現在よりも絶対に良いということはないのです。でも、もう変えられない過去は、どこかふるさとのようなやさしい感覚をよみがえらせてくれるのでしょう。

人間が伝統を大切にするのは、こういう時間の流れへのささやかな抵抗を本能的にしてしまうからかもしれませんね。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

娘さんが始めた家庭菜園《菜園の輪》9

0
家族みんなでサツマイモ掘り

【コラム・古家晴美】和子さんから、開口一番、「9月は忙しくて畑になかなか来られなかったんですよ」という言葉が出る。

つくば市に住む娘さんが始めた家庭菜園を、妊娠時に手伝うようになった川島夫妻。車で片道30分かけて来る。そのこと自体は、とても励みになり、楽しい。しかし、用事が立て込んでいるときや悪天候が続いたときなど、来られないときもある。来れば草むしりに追われ、なかなか作付けに取り掛かれなかったという。

しかし、お彼岸には、秋冬野菜をまき終わり、畑には、青々と小松菜が茂っている。すでに1回間引いて食べている。この日の朝食のみそ汁にも入っていたらしい。また、長ネギ、キャベツやスティックセニョール(ブロッコリー)がすくすくと育っている。今年は娘さんからのリクエストで、イタリアンキャベツ(ちりめんキャベツ)にも挑戦した。ほかに伝統野菜の、のらぼう菜(アブラナ科の野菜)も仲間に加わった。

フルタイムで働いている娘さんは、家事以外に、息子の容太郎君の送迎などに忙しい。それでも仕事帰りや週末に、畑での収穫作業を分担し、それをご両親にも届けている。週1、2回、平日の昼間の野良仕事は、川島夫妻の担当だ。容太郎君が小学校から帰ってくる時間に、仕事を切り上げられるよう、その前の1、2時間を畑で過ごす。

共に食べることで活力を得る

最近のお孫さんの成長について、和子さんは半ばうれしそうに、半ば寂しそうに語る。「以前は、畑仕事以外に、虫を探したり、畑で過ごす時間がもっと長かったんですよ。無論、畑へ来れば、すぐにイチゴを摘んで食べることを楽しみにしていたり、芋掘りなどのイベントがあると聞きつけると、やって来ます。ただ、大きくなるにつれて、畑以外にも関心の幅が広がり、長時間、畑にいることが少なくなってきましたね」

子どもが様々なことに関心を持つことは、喜ばしいことだ。しかし、言葉にはされてはいなかったが、お孫さんと共に過ごす時間が短くなったことの寂しさは、本音かもしれない、と感じられた。

このように、菜園での共同作業は、子供の成長、家族のあり方とともに、変化している。しかし、たとえ、畑で共に過ごす時間が、それによって短くなったとしても、同じ畑で採れた収穫物を食べることによって、家族はつながっているのではないだろうか。日本の民俗は、「共食」と言うものをとても大切にしてきた。共に食べることにより、活力を得ることができる、という考え方だ。

また、子どもの頃に、家族と共に過ごした菜園での時間は、お孫さんにとって将来の大きな宝物となるかもしれない。(筑波学院大学教授)

信州の美術館「無言館」《続・平熱日記》122

0

【コラム・斉藤裕之】「信濃山景クラッシック」。信州の山をテーマにしたグループ展が長野県上田市で開かれた。会期中に当地を訪れるつもりはなかったのだけれども、上田に近い千曲市でギャラリーを開くという上沢さんのお誘いもあって高速に乗った。

2カ月前に訪れた信州はまだ夏の空気が感じられたが、晩秋の信濃路は絵に描いたような紅葉の真っただ中にあった。菅平辺りから、多分あれは北アルプスだと思うのだが、すでに雪をかぶった山々が遠くに見えてきた時には運転席で私の心も高揚していた。

その日は、会場である老舗有名パン屋「ルヴァン」で、この展覧会のコーディネートをしてくれた雨海さんと上沢さんを引き合わせ、酵母の香しいパンをいただきながら久しぶりに美術談義などを楽しんだ。

作家としてまたアートコーディネーターとして活躍されている雨海さん。上田に来る前は益子の役所で文化関係の仕事をしていて、その知識と経験から人望も厚く、幅広い世代の作家に慕われている。上沢さんも長い間東京で現代美術に関わるお仕事をされていて、このたび、ご実家を改装されてギャラリーを開かれるという。どうやら長野に拠点を構えるお2人の仲を取り持つことができたようだ。

ルヴァンのご主人とも再会できた。僭越(せんえつ)ながら、前回訪れた折、この2階の窓から見た烏帽子岳を描いた作品を贈らせていただいたのだが、ご主人、実は元々大学で美術を学んでいらしたと聞いて、いささか恐縮した。

さて、せっかく来たのだから、どこか訪ねてみようということになった。観光するには事欠かない信州だが、「無言館は?」という雨海さんのご提案に虚を突かれた。実は、何となく頭の隅にあったのだが、多分、一生行かないと思っていた場所。

無言の絵画が語るべきこと

無言館は上田市を一望できる小高い丘の上にあった。ケヤキやクヌギが真黄色に染まるなか、十字の形をした建物はあった。先日、テレビでこの無言館を舞台にしたドラマが放映されたとかで、扉を開けると、薄暗い館内には平日というのに、若い人のグループからご年配の方々まで予想外に多くの人がいて驚いた。

この無言館には、先の大戦に出征し若くして亡くなった画学生の絵が飾られている。私の母校の大先輩方々の絵もある。

「先輩方の絵に対する真摯(しんし)な態度、物を見る素直な眼差(まなざ)しに感動しました。どなたも絵が達者でした。私の頃は絵画そのものが表現方法として危うい時代でしたから、入学と同時に違う表現に向かう者も少なからずいたりして。私ももう少し真面目に画面に向かえばよかったと…。いや、これからちゃんと絵を描こうと思います…」

無言館は、飾ってある絵とそれを見る人が無言であることから名前が付けられたというが、饒舌(じょうぜつ)な時代にこそ、無言の絵画が語るべきことがあるような気がした。初めて訪れたという上沢さんも感慨深げだった。来てよかったと思った。

次の日も快晴。上沢さんに千曲市から長野市を一望できる姨捨(おばすて)の棚田を案内してもらって、昼にはクルミだれの新ソバも堪能して、ますます信州のファンになった。来年の春に、上沢さんのギャラリー「アートコクーン」で個展を開くことになっている。半年後、今度は春色に染まる信州に来るのが今から楽しみである。(画家)