【コラム・先﨑千尋】この国では、人々は縄文時代から山と共に暮らしてきた。家を建てる木材。屋根を葺(ふ)く茅(かや)。燃料となる薪(まき)や炭。わらび、ぜんまい、クリ、クルミなどの山菜や果実。牛や馬の飼料。後には木を植え、森や林にした。人々にとって山や森、林は暮らしに不可欠のものだった。

その山に入ることを突然止められたら、暮らしはどうなるか。そういうことが、今からおよそ100年前に、岩手県一戸町小繋(いちのへまち・こつなぎ)というごく小さな集落で起きた。明治維新後の地租改正に伴う官民所有区分処分のときに、2000ヘクタールの小繋山が民有地とされたことが発端だった。

1915年に集落で大火が起き、それまでの書類が一切灰になってしまった。そのことをきっかけに、名義を持っている地主が警察力などを使って、山への住民の立ち入りを実力で阻止するようになった。地主は本県那珂湊の人で、北海道などで財を成し、ここの山林を手にしていた。

従来通り、山に入る権利である入会(いりあい)権を行使しようとした人たちは、1917年に民事訴訟を起こし、刑事事件を含めて1966年まで50年にわたって裁判が続いた。

戦後、法社会学の権威で、東京都立大教授だった戒能通孝(かいのう・みちたか)は『小繋事件』(岩波新書)を書き、大学教授の職を捨て、小繋の住民を救うために弁論に当たった。古在由重、丸岡秀子、日高六郎、渡辺洋三、近藤康男などの文化人や学者、法曹関係者らが小繋支援の輪を作った。

親子3代約60年の苦闘の歴史

この裁判が最高裁で審理されているころ、私は早大や岩手大などの学生たちと小繋に入り、援農や子供会活動、集落の経済調査などを行った。私は戒能から「大学で学んだことを自分の立身出世やカネもうけの手段にするな。学んだことを社会に寄与するために生かせ」と教わった。

その言葉が、その後の私の生き方の指針になった。岩手県北の小繋と私が住んでいる茨城の農村の状況は同じではなかったが、おしなべて貧しかった。『貧しさからの解放』という本もあった。裁判は住民側の敗訴で終わった。

10月15日、現地で「小繋事件100周年記念碑」の除幕式が行われ、私も参列した。この記念碑は、裁判の開始から105年経ち、先人たちが生活基盤を死守するために闘い続けた歴史を後世に伝えようと建立したもの。記念式典には、小野寺美登一戸町長ら関係者と地元住民など約60人が出席した。

「小繋の灯」と刻まれた記念碑には、住民が小繋山の地主に対して訴状を出して以降、親子3代約60年に及んだ苦闘の歴史が刻まれ、今後も住民が共同で管理し、入会山として利用する決意も記されている。

戒能は「農民も『拾い屋』から『生産者』になるべきだ」と言い続けてきた。燃料は薪炭からプロパンガスに代わり、小繋から盛岡まで約1時間と、通勤できるようになった。暮らし方は100年前、50年前と大きく変わり、山の存在価値がまるで変わってしまった。小繋の人たちが山をどう使っていくのか、私には分からない。

最近、入会を意味する「コモンズ」という言葉が使われるようになってきた。また「有機農業の復権」も国の農業政策の柱になった。これからも、小繋の行く末に関心を持っていこうと考えながら小繋をあとにした。(文中敬称略、元瓜連町長)