月曜日, 4月 21, 2025
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電車の中を急いで走る 《続・気軽にSOS》12

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【コラム・浅井和幸】朝、ちょっとした想定外のことが重なり、約束の時間にギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際。少しでも早く着かないかと焦る気持ち。思わず、電車の中でそわそわしてしまう体験はあるでしょうか。 事故なのか、道路工事が重なったのか、渋滞している道路が多く、遅刻してしまいそうだ。すぐ次の信号で止まらなければいけないのに、スピードを出したり、車間距離を短くしたり、体をハンドルの近くまで前のめりで自動車の運転をしたことはあるでしょうか。 そんなことをしても目的地に早くつくはずがないのに、早く前に進みたいという意識が体を前に突き動かし、心臓を早く脈打たせるものです。 そして考えます。あれさえ無ければよかったのに、これさえ無ければよかったのにと、過去のことを。挙句の果てには、そもそも日本の電車のシステムや道路の造り方がいけないのだと、イライラを募らせてしまいます。 間違いなく、上記のそわそわした感覚を持ち、もう少し早く家を出ればよかったと嘆いて、疲れるほど努力をしていることなのかもしれません。日本がいけないのだと考えるのも、とても崇高な考えで素晴らしいのかもしれません。 確かに、目的地に着いたら謝ろうとか、目的地の手前の階段を駆け上がろうとか、早く書類を提示できるようにしようとか、対策は考えにくいものではありますが、この対策を考える方が目的に即しているでしょう。 頑張れと言われれば言われるほど、頑張ることを強制されれば強制されるほど、頑張ることを自分で考えれば考えるほど、この目的とは別の手段で頑張ってしまい、疲れるし、憂鬱になってしまうものです。

「頑張る」→「適当にやる」

相談の約束をすると、会えなくなる人がいました。約束をすると、数日前から心構えなどの準備を始めてしまい、約束の当日にはくたびれてしまって会えなくなるのです。そこで、約束をせずに突然訪問するという方法を約束して、会えるようになったケースがあります。 引きこもって家で特にやらなければいけないことは無いと、家族や支援者からは見えるけれど、いろいろな不安や世界の脅威、何かが起こったときの対応を忙しく考えている人もいます。 ビジネスマンでも、大きな未知の仕事を抱えると身動きが取れなくなるという経験をした人もいるかもしれません。頑張れというと、頑張っているのにもっと頑張らなければいけないのかというやり取りもあるでしょう。 そのときの疲労の程度で休む必要もあるかもしれません。そのときは休むことを頑張る必要があります。しかし、それと同じぐらい、今の頑張りを抑えて、目的に即した手段を頑張る必要があるかもしれませんよ。 あえて頑張ると書きましたが、上記の文章の「頑張る」をすべて「適当にやる」に変えて読み替えても面白いですよ。(精神保健福祉士)

大学病院の救急救命室 《くずかごの唄》118

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】大学病院の救急救命室を初めて見た私はショックだった。地球ではない。宇宙船の中。医療器械に囲まれたわずかな空間に、チューブだらけの人間らしきものが横たわっている。

夫は大動脈の中膜(ちゅうまく)の解離(かいり)で意識を失い、倒れてしまった。肺にたまった血液が呼吸を止める寸前に、ドレーンを使って血胸(けっきょう)を抜いてくれた。この病院ならではの手早い技術と処置で、とりあえず命をとりとめたようだ。だが、まだまだ解離した動脈血管からの出血が多いので輸血をしている。いつ呼吸が止まってもおかしくない状態だという。

「いつ何が起こるかわかりません。家族のかたは、5分以内に来られる場所にいてください」。24時間、5分以内の場所に家族は張り付いていなければならない。

「ダークマター 暗黒物質」

こうなると家族の結束しかない。3人の子供とその連れ合いと私。7人でチームを組んで当番をきめ、ノートを1冊作って、医者からの説明など、すべて記入してことにした。夫の兄は千葉大学の医学部外科教授だった人。心配で家にいられなくて、動脈解離の専門医の友達を連れて、毎日来てくれる。

運がよかったのは、脳に行く血管の1センチ下から解離したおかげで、脳の機能が保たれたことである。たった1センチの差で、彼のその後の一生は左右されたのである。5日目に意識が戻り、救急救命室から脱出し、一般病棟に移ることができた。 1カ月ぶりに土浦の家に帰ってきた彼が書いた文字は、「ダークマター 暗黒物質」。(随筆家、薬剤師)

新しい世界へ踏み出すとき 《ことばのおはなし》51

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【コラム・山口絹記】最近、訳あって新しい撮影機材を導入した。ミラーレス一眼というヤツだ。写真を撮らない方でも名前くらいは聞いたことがあると思う。

このミラーレス一眼と言うのは、その名の通りミラーが無い一眼レフのことだ。そもそも一眼レフカメラの「一眼」と言うのは、ファインダーをのぞけば撮影用のレンズを通した像を見ることができるカメラのことで、レンズを通した像をファインダーに届けるためにミラーが内蔵されている。「レフ」というのは「光を反射する」という意味なのだ。

ではミラーがなくなり、どうやって像をファインダーに届けるのかと言うと、ファインダーの中に小型液晶が搭載され、レンズを通した像をリアルタイムで映している。

実はカメラと言っても様々な種類があって、一眼に対してレンズが2つ付いた二眼レフカメラというものもあるし、レンズとは別に測距用のファインダーを持つレンジファインダーというカメラもある。それぞれ一長一短があって、カメラマンは自分にあったカメラを使うことができるのだが、実際のところ現在の主流はミラーレス一眼カメラになっている。

それでも私はこの15年ほど、ずっと一眼レフ機を使ってきた。電子式ファインダーよりも光学ファインダーののぞき心地が好きだったからだ(のぞき心地に関しても現在はほぼ解決されつつある)。

ついにミラーレス一眼にデビュー

そんな私がついにミラーレス一眼デビューしたのには、少し遠回りの理由がある。

実はこの半年ほど、バーチャルの世界での写真撮影にハマっている。バーチャル、いわゆるPCやテレビゲームの中の空間で写真を撮ることができるのだ。実は結構昔からあったシステムなのだが、最近のゲームのグラフィックの向上によって、まるで現実のような写真が撮れるようになってきている。

ゲームの世界を歩き回りながら撮影しているうち、今までの自分であれば撮らなかったような写真もゲームの中では撮るようになった。特にストリートスナップという、いわゆる街中の写真だ。

これは現実の世界でも撮ったら楽しいかもしれない、と思うのに時間はかからなかった。今まで使っていたカメラでも撮れないことはないのだが、いかんせん見た目もデカくて迫力あるカメラのため、街中でサッと使えるコンパクトなカメラ、そう、ミラーレス一眼を導入してみよう、となったわけだ。

次回は、このバーチャル世界での写真撮影、「バーチャルフォトグラフィー」というものについておはなししてみようと思う。(言語研究者)

中国共産党と権力闘争《雑記録》41

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【コラム・瀧田薫】中国共産党は10月23日、習近平総書記(69)=国家主席=の3期目続投(異例)を正式決定し、同時に党の最高指導部である「党政治局常務委員」(習主席を筆頭に7人)の新メンバーを公表した。内外の中国ウオッチャーを驚かしたのは、新任された4人全員が習の側近で占められていたことである。つまり、習は常務委員会内の政敵を一掃し、党と国家における「習一強体制」の実現に成功したのである。

10年前の第18期党大会において、習は常務委員会トップに就任すると同時に、党内の政敵に対する攻撃を開始した。今回の「習一人勝ち」は、過去10年にわたる熾烈(しれつ)な闘争の結果であると同時に、習が目指す、さらに高い目標を実現するために必要な、より強化された権力でもある。

過去10年、今回を含めて3度の党大会があった。大会ごとに選ばれた常務委員の顔ぶれを通観すれば、習の闘争には首尾一貫した戦略があったことが見て取れる。まず18期大会では、常務委員7人中3人が江沢民派、胡錦濤派が1人、習派は彼自身を含めて3人であった。

つまり、このときは派閥均衡による「集団指導体制」(毛沢東による独裁を2度と繰り返さないため鄧小平が定めた慣例)が機能していた。胡派は鄧小平の改革開放路線を継承し、江派は共産党の古い体質を受け継ぐ保守派、習派はソ連邦の崩壊に危機感を抱き、中国における改革開放の必要性を認めつつ、それに先んじる形での共産党の規律と権力の維持・強化を重視する立場であった。

習は鄧小平の遺産・中国流資本主義経済を共産党の強力な監督・管理下に置かない限り、かつてのアヘン戦争のように、あるいはソ連邦のように、中国が蝕(むしば)まれていくことを何よりも恐れていた。そのため、習は着々と戦略通りの権力闘争を遂行、第19期党大会において、江沢民派を排除し、今回の第20期党大会においては胡錦濤派を一掃して、「習一強体制」の樹立に成功したのである。

一党独裁システムを繰り返し精錬

習の仕掛けた権力闘争は、毛沢東が仕掛けた「文化大革命」と共通する性格をもっている。毛沢東の場合は「走資派」攻撃、習の場合は「鄧小平の改革開放路線継承派」攻撃だが、両者に通底するのは、共産党一党独裁のシステムを繰り返し精錬し直すことに全力を傾注する強固な信念である。

習は今回、チャイナセブンをイエスマンで固めることに成功した。この余勢を駆って、彼が毛沢東のように終身主席として党と国家に君臨する可能性もある。それでは、中国は習の思惑どおり、近い将来覇権国家にまで上りつめるのだろうか?

筆者は今回の習の成功が、中国にとって大きな禍根として振り返られる日が遠からず来ると予想する。今回の党大会を契機として、習の強権的支配が強まり、内外の敵に「団結」して立ち向かおうとのスローガンの下、あらゆる領域で党、国家、そして習主席個人に対する忠誠が国民そして共産党党員に要求されるだろう。しかし、それと同時に、習のプーチン化も始まっている。(茨城キリスト教大学名誉教授)

泉秀樹研究② あなたはなぜ神など信じるのか?《遊民通信》51

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【コラム・田口哲郎】

前略

泉秀樹さんは1983年に『率直にきこう あなたはなぜ神など信ずるか』という本を、遠藤周作の愛弟子の加藤宗哉さんと共著で、女子パウロ会という出版社から出しています。同会はカトリックの女子修道会が運営する出版社です。この本で出てくる神とは、キリスト教の神です。内容はインタビュー形式で、対談相手はカトリック関係者です。

その中で目に留まるのは、矢代静一、遠藤周作、曽野綾子、三浦朱門といった当時一線で活躍していたカトリック作家です。そしてマザー・テレサも登場していて、往年のカトリックの勢いを感じます。

面白いのは、泉さんも加藤さんもカトリック信者ではないことです。信者ではない人が、信者に「なぜ神を信じるのか」と問う。なかなか鋭い質問を投げかけるコンセプトです。すべての対談者がそれぞれの個性を出しながら、信仰を語ります。それぞれの味があり、凄(すご)みもあり、なるほどと思わせます。

圧巻は遠藤周作へのインタビュー

泉さんと加藤さんは「三田文学」という慶應義塾の文芸誌で、遠藤周作が編集長をしていたときに、スタッフとして関わっていたそうです。遠藤周作といわば師弟関係にあったわけで、対談も親密さが手伝って、結構深いところまで踏み込んでいるので、読み応えがあります。

泉さんは聞きます。神というものは結局人間がつくったものではないのですか? 遠藤周作は答えます。若いころはそう思うこともあった。でも、もし神が人間の創造物ならば、もうとっくに信仰を捨てていただろう、と。人間生きている間に、罪も犯すし、どうしようもない苦しみに遭遇するときがある。人に言えないけど、心に残って苦しむ罪や不治の病などです。それは人間自身ではどうしようもない。

そのときに、神の方から人間に寄ってきて、苦しみや悲しみを背負ってくれるときがある。「神さまが出てくる時」が人生にはあって、人それぞれだというのです。

神と人間がそうやって関わるときに、人間は救われることがある。それが何なのか、わからない。遠藤はそれを数式の「X」にたとえます。このXは解明し尽くされることはないけれど、自分なりに理解してゆくことが信仰なのだそうです。

こうした信仰というとても個人的な問題に、ためらいなく、軽妙に、しかし真剣に切り込んでゆく才覚を、泉さん、加藤さんはお持ちなのでしょう。この本は日本人のキリスト教信仰についての貴重な証言になっていると思います。

J:COMテレビで「泉秀樹の歴史を歩く」で、神奈川の旧跡を巡って、人間の悲哀を語る泉さん。若いころから人間をじっくり観察しているからこそ、できることなのかもしれません。知れば知るほど魅力的な人物だと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

結婚したい《短いおはなし》8

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【ノベル・伊東葎花】

秋晴れの日曜日。

バラの花とハートの風船で飾られた、素敵なウエディングパーティ。

新郎新婦はとびきりの笑顔で、世界で一番幸せそう。

職場の先輩は、宣言通り30歳の誕生日前に結婚式を挙げた。

白いドレスがまぶしくて、思わずうっとりしてしまう。

フィナーレは、独身女性が目の色を変えて挑むブーケトス。

私は居並ぶアラサーたちを押しのけて、最前列を陣取った。

そして若さと得意の運動神経で、ブーケをこの手にキャッチした。

「はっ? 何でいちばん若いあんたが取るのよ」

先輩たちの冷たい視線を感じながら、私はブーケを空に掲げた。

「次は私の番だー」

ごめんね、先輩方。

若くても、私は焦っているんです。

結婚したいんです。できれば春までに。

2次会を断って、大好きな卓也が待つ家に帰る。

今日こそ、結婚の話をちゃんとしよう。

「ただいま、卓也」

ちらかった部屋でゲームをしていた卓也がちらりと私を見た。

「おかえり。きれいな花だね」

「ブーケトスでね、私のところにブーケが飛んできたの。すごいでしょ。これって運命よ」

「ふうん。よかったね」

「花嫁さんからブーケを受け取るとね、次に結婚できるのよ」

「ふうん。そうなんだ」

卓也は、たいして興味がなさそうに言った。

彼は、ブーケよりも引き出物のケーキに興味があるみたい。

私は卓也のためにケーキを切り分けて、となりに座った。

「ねえ、卓也。10月ももう終わりだね」

残り少ないカレンダーを眺めながら言ってみた。

「11月22日って、いい夫婦の日なんだって」

「へえ」

「いい夫婦って、何だろうね」

「知らないよ。オレに聞くなよ」

「そうだよね」

「ねえ卓也。私が、結婚したいって言ったらどうする?」

「結婚? 誰と?」

「誰って…それは…」

「うん。別にいいよ。結婚したかったらしなよ」

「いいの? だって、卓也、私と結婚したいって言ってたじゃない」

「いつの話だよ。それ、2年くらい前でしょ。オレ、もう違うから」

「そうか。そうだよね。うん。わかった」

私は、一抹の寂しさを感じながら、卓也をそっと抱きしめた。

「卓也、春までに、絶対ステキなパパを見つけるからね」

「うん。オレ、一緒にサッカーしてくれるイケメンのパパがいい」

口の端にクリームをつけた卓也が、元気いっぱいに笑った。

17歳で子供を産んで、ひとりで育てて来た。

卓也は6歳。生意気だけど可愛いの。

卓也が小学校に上がるまでに、収入が安定したパパを見つけなきゃ。

ねっ、卓也。ママ、頑張るね。(作家)

茨城発高温ガス炉と原発再稼働 《ひょうたんの眼》53

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朝はしらふ 夕時はほろ酔いの酔芙蓉(すいふよう)

【コラム・高橋恵一】岸田首相は、エネルギー政策として、既存原発の再稼働と新たな原発の導入を打ち出した。原発の再稼働には、自治体の了解のほか、安全確保と避難計画の策定が必要で、再稼働の条件がなかなか整わない。

広島、長崎などの犠牲を受け、反省を込めて、人類の智恵を生かす試みが原子力の平和利用であった。医療や工業技術への成果があり、エネルギー面の活用が原発であり、その実践に踏み出したのが東海村の原発である。平和利用先駆け県の茨城では、既存型の原発とは別に、日本原子力研究開発機構・大洗研究所で、高温ガス炉の開発が進められている。

高温ガス炉は小型の原発で、既存原発の利用可能温度が300度程度であるのに対し、1000度以上の熱を取り出す。溶鉱炉にも利用できそうだと、米国はじめ各国が開発に取り組んだが、高温が達成できず、米国は開発をあきらめた。

日本、ドイツ、ロシアだけが実験を続け、大洗研が900度の熱取り出しに成功したのが2005年だった。900度は製鉄には向かないが、大洗研は水を分解して水素を発生させ、さらに余熱で発電することに成功した。高温ガス炉は1機で30万人都市の電力と燃料としての水素を供給できる。

実用化すれば、ロス割合が高い長距離送電が必要なくなるし、新興国の都市密度の低い地域のエネルギー供給には極めて有効と考えられる。

高温ガス炉は、炉心は黒鉛を構成材に用い、熱の取り出しは安定元素(爆発しない)のヘリウムガスを用いる。燃料の核物質は4重被服のセラミック使用のペレットで、炉心溶融や放射能放出事故の恐れのない、安全な原子炉とされている。

つまり、事故時、住民避難の必要がない原子炉とされている。使用済み核燃料処分の課題は残るが、温暖化ガスを空中にまき散らす化石燃料より、安定地層に保管する方が現実的かも知れない。

原発の再稼働・新設は止めるべき

岸田首相のエネルギー政策では、東海第2原発も再稼働の対象だが、90万人もの避難計画を策定する必要があり、現実味がない。福島の例を見れば、いまだに帰還困難区域があり、避難の概念からはかけ離れているだろう。地震や津波、隕石(いんせき)や航空機の墜落などがあっても、安全が確保できない限り、原発の再稼働あるいは新設は止めるべきだ。

福島の事故については、政治的な事情で曖昧になっているようだが、元々、原子炉の暴走を止めることができる安全装置(自動復水器)を止めてしまったことなど、運転側の基本的なミスだった。緊急ブレーキのない原発などありえない。どのような先端技術も、基本の技術・操作を無視しては成り立たないのだ。(地図好きの土浦人)

宝篋山を臨む家庭菜園 《菜園の輪》8

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小島さんの畑。宝篋山が見える

【コラム・古家晴美】2006年に退職してから16年間、畑で自家用野菜を作ってきたつくば市在住の小島幹男さん(76)。地域の役員を務める飲み友達のグループでは、全員が家庭菜園で野菜を育てている。皆、実家が農家だったが、勤めに出ていた。定年退職後に、自分の食べる分だけでも、と始めた。

そんな仲間から、自然と野菜に関する情報が入ってくる。「これ、食べたことあるかー」と、新たな品種のものを持ってきてくれる。「うまいなー」と言うと、「じゃあ、種を持ってきてやるよ」と、やり取りが交わされる。

このようにして持ち込まれた野菜の中で、幹男さんと奥様の陽子さんのお気に入りは、赤玉ねぎとラッキョウをかけあわせた赤いエシャロットだ。普通のエシャロットが3月に収穫されるのに対し、1月には採れ、実も大きく、シャリシャリしている。3年前にもらった種が、畑でどんどん増えている。

この季節の収穫物は、大根、ネギ、白菜が主だ。大根は4種類作っている。青首大根をタクアンや切り干し大根用に作るほかに、切漬けや煮物用に少し短めの大根。また、赤い大根や中心部分だけピンク色の大根も栽培している。珍しい品種はたくさん作らないが、楽しみの一つだ。白菜やネギも2種類ずつ作っている。

大根のほかに、ブロッコリー、カリフラワー、キャベツ、小松菜、ほうれん草、チンゲン菜、春菊なども。いずれも、種をまいて家の軒下で苗を育ててから植え付けた。

花畑の前で足を止め、立ち話

このほか、ネモフィラ、キンセンカ、パンジー、ビオラ、デイジー、菊などの花類も、種から育て畑の入り口に植えている。仏壇にはキンセンカや菊は供えるが、他の花は畑に植えておく。散歩する人が、筑波山に連なる宝篋山(ほうきょうさん)を眺めながら、この花畑の前で足を止め、立ち話をしていく。そのひと時を楽しめるように、花を植えているのだという。

これだけ様々な野菜を作っていて、最もおいしいと思ったのは何ですか、という問いかけに、陽子さんから即座に答えが返ってきた。「やつがしらですね」。胃の調子を崩したときに、軟らかくてクリーミーなこの里芋(さといも)を、煮たり味噌汁に入れたりして食べ続けた。もう少ししたら、本格的に収穫時期に入る。

また、畑には、小豆(あずき)をはじめ、大豆(だいず)、黒豆、花豆(はなまめ)など様々な豆類の葉が、青々と茂っていた。実がなり、自宅まで運ぶところまでは幹男さんの仕事だが、そのあと、鞘(さや)から実を出して選別するのは、陽子さんの仕事とのこと。

これだけの広さの畑から採れた豆が、どれだけの量になるかと思うと、気が遠くなる。陽子さんがんばってください。陰ながら応援したくなった。(筑波学院大学教授)

故郷に錦を飾れずとも… 《続・平熱日記》120

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【コラム・斉藤裕之】9月の終わり。朝6時過ぎに家を出た私は、東京駅の新幹線改札の前で立ちすくんでいた。駅員のマイクロフォンは「静岡で大雨のために午前中は全て運休」と連呼している。「ひかり」も見えず、「のぞみ」も絶たれた。どうする? 窓口で手続きをする大行列を見て決めた。踵(きびす)を返して常磐線で帰宅を選択。手には妻の骨壺(つぼ)の入った大きな手提げ袋があった。

次の日の同時刻。新幹線は穏やかな陽光の中、東京駅を出発。昼過ぎには海に一番近いと言われる新幹線の駅、徳山駅(山口県)に着いた。軽トラで迎えに来た弟と、そのまま粭(すくも)島へ。今回の目的は妻をお墓に納めること。それからもう一つは、コロナ禍で延期になったままの「ホーランエー食堂」での作品の展示だ。

出迎えてくれたのはタコ店主さん。早速、作品を並べてみる。軽トラの荷台には、弟があらかじめ採寸しておいた2間ほどの垂木(たるき)など。それを店内の柱の間に渡して小さな作品を引っ掛ける。それから、窓際や入口のちょっとしたスペースにも並べてみる。2階にも作品を置きたかったのだけれども、光の具合で断念。窓から見える鼓ヶ浦(つづみがうら)の風景に座を譲ることにした。

日ごろは鉄工所で働きながら、生まれ育ったこの島で週2日そばを打つタコ店主さん。古い民家を買い取って、自らの手でこの食堂を再生してきた。その心意気と人柄が店の細部に宿っている。その雰囲気を邪魔することなく作品を置く。適当に箱詰めして送った海や島の絵。それから花や鳥など。美術館やギャラリーではなく食堂に置かれた絵。

故郷を出て40数年。錦を飾ることはできなかったが、小さな絵を飾ることができた。結局、案内のはがきも作らずじまいで始まった「平熱日記展 in 粭島」だったのだが、搬入の様子をSNSにアップすると、早速地元のフォロワーの方がシェアしてくれた。高校を卒業してから同窓会などにも全く出たこともないので、誰に知らせるわけでもない私にとってはありがたいことだ。

苔むした美しい墓

粭島には幼いころから父に連れられて訪れた思い出がある。島の少し手前の海岸では毎年春の大潮の日にアサリを掘った。また磯ではアイナメがよく釣れた。気付かないほどの短い橋でつながっている島に渡ると、左手に岩場があった。そこにできた潮だまりに潜って、イソギンチャクやウニ、小魚と飽きることなく遊んだ。

その磯も今ではテトラポットの護岸になっている。島を後にする車窓から見える海辺は、茶色く生き物の気配がしない。この辺りの海岸も、「磯焼け」という現象から免れていないようだ。

次の日。妻の遺骨を弟の家の近くの墓に納めた。ちょうどそのとき、曇り空からほんの一瞬日が差したのを覚えている。脇には清水が流れカワラナデシコが自生する、苔(こけ)むした美しい墓。茨城からは相当離れた場所になってしまったが、「そこにあるのはただの骨」という義妹の言葉で、少し踏ん切りがついた。

帰りの新幹線に乗ったときは土砂降りだったが、東に進むにつれ、青空になって富士山がよく見えた。(画家)

「詩人市川紀行の世界」が刊行される 《邑から日本を見る》122

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陸平の風景

【コラム・先﨑千尋】私の同志の1人である美浦村の市川紀行さんが、このほど「現代詩のありか-市川紀行の世界」(水戸・泊船堂)を出版した。帯に「『詩人村長』市川紀行。若き日、ランボオと出会い、以来、詩作を止める事はない。市川は、2021年『詩撰集ANTHOLOGY(アンソロジー)』をまとめた。友人4人は、所収詩を読み、詩論、感想、詩作の背景、活動を著した」とある。

今回の著作の紹介の前に、市川さんの歩みをウイキペディア風に紹介しておく。

市川さんの父は満鉄調査部社員だった。1940年に中国撫順で生まれた。戦後、牛久村(現牛久市)に帰国した。近くに住井すゑさんが住んでいて、書庫に入り浸りし、すゑさんからは「ノリちゃん」と呼ばれていた。

土浦一高から北海道大学農学部に入り、1968年に高校同級の市川昭子さんと結婚、美浦村に住む。美浦村議を経て、83年に42歳で村長に当選した。

在職中に手掛けたことは、全国初の「村の第九」演奏会などいろいろあるが、何といっても、縄文遺跡陸平(おかだいら)貝塚の保存と活用が歴史に残る大業績だ。それができたのは、セゾングループの堤清二会長と詩を通してウマが合ったこともあるようだ。99年に村長を4期で退任した。

退任後、地域劇団「宙(そら)の会」を主宰し、オリジナル創作劇公演を行った。また地方自治研究会「一望塾」を立ち上げ、市町村長や議員の育成を行った。2014年には「東海第二原発の再稼働を止める会」の共同代表になった。3年前に、心臓大動脈と弁膜の手術を受けている。

その礎には「人」があり、「愛」がある

本書は5章から成る。序論といえる市川さんの「現代詩のありか」に続いて、友人4人がそれぞれ市川さんの詩を論じ、市川像を語る。私が知らない世界がパッと現れてくる。

「言葉の旅人 散文詩『美はいつも』に寄す」を書いた波田野頌二郎さんは、北大の仲間。倉吉市役所で図書館などに勤務し、文化運動に関わった。

「詩に現われた言葉はどんな小さな言葉でも、他の言葉と出会うと新しい世界へ繋がる。それが詩の言葉の不思議というもの。言葉は詩の中で旅をする。詩人も言葉とともに旅をする。…読む私たちも」

「言葉の花摘み 『アンソロジー』へ」は山本哲士さん。茨城県近代美術館などに勤務し、現在は地域事業、観光企画などをしている。

「『アンソロジー』は、表現と出会い、思いを広げる楽しさを教えてくれた。その礎には『人』があり、『愛』がある。人としてのやさしさがあった。彼の『アンソロジー』には、彼が出会った様々な世の草花たちが、言葉という形に変わり、摘み籠に入っている」

「言語声調の激流 詩と地域を貫くもの」を書いた島亨さんは出版社・言叢社の社長。惜しむらくは、本書の出版を見ず、今年2月に亡くなった。

「透徹した表現世界の彫塑にこだわった青春期の詩篇が私たちに伝えるのは、おそらく、後年の地域文化へと深まる意思を支えた『言語声調への信』の大きさではなかったか」

「漂泊から定着へ 詩人とまちづくり」を書いた増尾尚子さんは、市川家の隣の家に生まれ、後に美浦村職員として市川さんを支えてきた。

本書はA5判186ページ、税込み1500円。川又書店(水戸市)、マスゼン書店(土浦市)、須沢書店(牛久市)、栄文堂(龍ケ崎市)で購入できるが、直接購入の場合は市川紀行さん(電話0298-85-0446)へ。(元瓜連町長)

森林環境譲与税をご存じですか?《文京町便り》9

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は、森林環境譲与税を取り上げてみたい。そもそもどれだけの人が、2019年度から森林環境譲与税が施行されていることをご存じだろうか。

譲与税は、国(政府)から地方公共団体(都道府県と市町村)に、使途を細かく指定せずに譲与される。一般国民としては、追加的な税負担は生じないので、大半の国民が知らないのも無理はない。とはいえ、この譲与税の財源はどこにあるのか。

実は、東日本大震災(2011年3月)の後、全国で実施する防災施策対応分として、14年6月から10年間(23年度まで)、個人住民税均等割を年額1,000円(都道府県と市町村で各500円)引き上げていた。それが終了した段階で(24年度から)、この増税分を森林環境税(国税だが、市町村が賦課徴収)に切り替え、それ以降はこれを森林環境譲与税の財源にする、という仕組みが19年3月に成立、施行された。

追加的な税負担ナシでの見事なすり替えだが、この制度の目的には「パリ協定の枠組みの下におけるわが国の温室効果ガス排出削減目標の達成や災害防止を図るため、森林整備等に必要な地方財源を安定的に確保する観点から」、という大義が付与されている。

この譲与税額は全国で2019年度(初年度)200億円だが、20・21年度は各400億円、22・23年度は各500億円、24年度以降は600億円(平年度ベースの森林環境税)が見込まれている。都道府県と市町村への譲与は、それぞれの私有林人工林面積(林野率で補正):5割、林業就業者:2割、人口:3割で案分される。

市町村と都道府県への配分は、2019年度は(当初は市町村の支援を行う都道府県の役割が大きいと想定されるので)8:2だが、経年的に市町村分を引き上げ、25年度からは9:1になる。

使途が決まらず基金へ繰り入れ

譲与実績(2021年度決算)を総額順位で列挙すると(都道府県分と市町村分の合計を都道府県単位で集計)、1位北海道、2位東京都、3位高知県、…33位茨城県、…、45位富山県、46位沖縄県、47位香川県、である。譲与税の配分基準に人口要素が組み込まれているため、大都市部への配分が大きくなる、という問題点が指摘されている。

もう一つの問題点は、使途が決まらず基金への繰り入れの大きいことである。茨城県の2019~21年度の譲与総額は2億3965万円で、21年度末の基金残高は1億527万円なので、44%が基金に繰り入れられている。同期間で、つくば市の譲与総額は5921万1000円で、基金残高は5450万9000円。土浦市の譲与総額は3270万9000円で、基金残高は2358万9000円である。

県以上に、基金への繰り入れが大きい。つまり使途が定まっていない、ということである。これは、全国的な傾向でもある。

つまり、これらの課題は、財政ニーズがまだ顕在化していない段階で、この制度の設計・運用が開始されたことにある。同時に、時代を先取りし、国民を誘導する制度設計の難しさ・悩ましさも示している。(専修大学名誉教授)

変わりゆく里山の生態系 《宍塚の里山》94

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カシノナガキクイムシ対策のトラップを巻いた樹木

【コラム・福井正人】最近の宍塚大池では、数年に一度、雨が少なく異常な渇水が起きた次の年に、アメリカザリガニが大繁殖し、水面を覆っていたハスやヒシがなくなってしまう現象が起きています。数年で回復してくるのですが、再び大渇水が起こると、また次の年には、アメリカザリガニが大繁殖するというパターンを繰り返しています。

雑木林のほうでは、カシノナガキクイムシ(カシナガ)が媒介する菌によって、コナラなどの樹木が枯死してしまう問題(ナラ枯れ)が起きています。里山の生態系は、人々の生活様式と密接に結びついています。里山の樹木は建物の資材や燃料として、落ち葉はたい肥として、ため池の水は農業用水として利用されてきました。人々はこれらの資源が枯渇しないように気を付けながら管理してきました。

このような人々の働きかけが、里山のなかに様々なタイプの環境を生み出し、里山の多様な生態系を育んでいました。

ところが、戦後のエネルギー転換、機械化などにより、人々の生活は大きく変わりました。もちろん、それ自体は人々を重労働から解放することになったので良いことなのですが、里山の資源は利用されなくなってしまいました。ため池の水を引かなくても、河川や井戸からポンプでくみ上げて、田んぼに水を入れられるようになりました。

また、電気やガスの普及により薪(まき)は使われなくなり、建材としての樹木も外国からの輸入木材に代わっていきました。農業用水としての価値が低くなったため池では、池の水を抜いてヘドロを抜くなどの管理が行われなくなりました。

そのような状態で異常な渇水が起こると、毎年管理しているときには起こらなかった急激な環境変化が生じ、水の中の生き物のバランスが崩れ、アメリカザリガニの大繁殖のようなことが起こります。雑木林で起こっているナラ枯れも、被害を受けるのは主に老木で、薪炭林の利用がなくなり、老木になるまで伐採されず放置されたことが、被害の急拡大につながっていると思われます。

自然に向き合い、その変化を記録

宍塚の自然と歴史の会では、里山の貴重な生き物を次世代に残すための活動をしています。宍塚大池の外来種を駆除して在来種を保護したり、かつて大池に繁茂していた水草をバットで保存・育成し、環境が整ったときに大池に戻せるようにしていたり、最近では、急速に被害が広がっているナラ枯れの調査を行ったりもしています。

ただ、人々の生活様式の変化にともない、里山への働きかけがなくなってしまった以上、生き物だけが以前の種類のまま残ってほしいと思うのは、人間のエゴではないかと思うときもあります。ナラ枯れによってコナラの老木が枯れていくのも、人間が伐採しないから代わりに生き物が対処してくれているだけなのかもしれません。

一番がっかりするのは、保全の成果が上がらないことにイライラした人間同士が、小さな意見の相違で対立してしまうことです。

正直、私にはどうするのが一番なのか正解が見つかりません。でも、こうして答えが出なくとも、里山の自然に向き合って考えることが大事なのではないでしょうか。また、変わりゆく生態系を記録していくことが大事なのではないでしょうか。みなさんも一緒に考えてみませんか。(宍塚の自然と歴史の会 副理事長)

文部科学大臣へ送った手紙 《電動車いすから見た景色》35

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送った手紙の実物(内容については本文をお読みください)

【コラム・川端舞】9月9日、国連が日本政府に分離教育の中止を勧告したのを受けて、永岡桂子文部科学大臣が13日の記者会見で、「障害のある子供と障害のない子供が可能な限り共に過ごす条件整備と、一人ひとりの教育的ニーズに応じた学びの場の整備を両輪として取り組む」などとし、「多様な学びの場における特別支援教育の中止は考えていない」と発言した。

これに対し、どうしても永岡大臣に直接お伝えしたいことがあり、お手紙をお送りした。その手紙を要約したものを、2回に分けて紹介する。

「共に過ごす」と「多様な学びの場」は両立しない

私は障害がありながら、小学校から高校まで普通学校の普通学級に通った。小中学校の頃、私はずっと普通学級で過ごしていたが、同じ学校には特別支援学級があり、知的障害のある同級生は学校にいるほとんどの時間を他の同級生とは違う教室で過ごしていた。その様子を見て、当時の私は「自分は勉強ができるから、支援学級にいるあの子たちとは違うのだ」と自分にも障害があるくせに、知的障害のある同級生を見下していた。

学校行事の時は、支援学級の生徒も他の同級生と一緒に参加していたが、いつもほとんど同じ教室にいない同級生を「仲間」だと思えるはずがない。支援学級の生徒とどう話したらいいのかさえ、私を含めた普通学級の生徒は分からず、お客様扱いするしかなかった。

私も支援学級の生徒とほとんど接点はなかったと思っていた。しかし、大人になってから小学校の卒業アルバムを見返すと、修学旅行でその同級生と一緒に班行動をしている写真を見つけ、「同じクラスで、修学旅行の班も一緒だったのか」と驚くとともに、その同級生と話した記憶が一切ない自分にショックを受けた。

障害のある子どもとない子どもが共に過ごすための条件整備と、特別支援学校、特別支援学級などの「多様な学びの場」は両立しない。もし、小中学校時代、支援学級がなく、知的障害のある生徒も、本人が「静かな部屋で休憩したり、自分のペースで勉強したい」と思った時以外は、普通学級で過ごすのが当たり前の環境だったら、他の同級生も彼らを仲間として受け入れることができただろう。

国連も、特定の機能障害に対応するために設計された別の環境で、障害のない生徒から切り離されて行われる教育は「分離」だとして、「インクルージョン」(※編集部注)とは明確に区別している。日本の特別支援学校や特別支援学級は明らかに「分離教育」であり、現在の分離教育を前提とした特別支援教育は見直すべきである。(障害当事者)

【※編集部注】インクルージョン(inclusion)
一般的な日本語訳では「包括、包含」。対語は「エクスクルージョン(exclusion)」で「排除、隔離」といった意味になる。インクルージョンは日本において「インクルーシブ教育」という名で広く知られる。人間の多様性を尊重し、障害のある子どもたちが通常学級で健常児と共に机を並べて学ぶ教育をいう。障害児が一般社会から排除されずに個人の状態に合った合理的配慮の提供を受けられるといった仕組みの整備が求められている。

筑波大学そばの「こおひいはうすらんぷ」 《ご飯は世界を救う》52

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【コラム・川浪せつ子】1978年の創業から、今年で44年になるお店「こおひいはうすらんぷ」さん(つくば市天久保)は、広大な敷地が広がる筑波大学の横にあります。以前から知ってはいましたが、なかなか行けなかったカフェです。

実はバブル経済のころ、らんぷさんから2分くらいの所にある不動産屋さんから、毎週のように、建築物の完成予想図を描く仕事をもらっていました。ですが、男の子3人を保育所に預けながらの子育て中の私は、喫茶店などで外食をする時間もありませんでした。横目で見て通り過ぎていました。

ほかの社からの仕事の依頼も多く、あまりの忙しさで、当時の子育ての思い出は記憶から吹っ飛んでいます。またバブル時代が過ぎたころには。実母のがんがわかり、都内の実家まで通わなくてはならなくなりました。

「おいしい」は、人を幸せにする

やっと最近、「あぁ~、あのカフェに行きたい」と。そのらんぷさんは、店内のインテリアとスィーツも想像以上でした。

あまりにうれしくて、うれしくて、すぐにまた訪問して、今度はランチ。何気ないミックスサンドなのですが、とてもおいしい。こんなに長いことやっていてくださって、ありがとうございます。

30数年間の、いろんなシンドかったことが、消えていくようなお味。「おいしい」は、人を幸せにするのね。(イラストレーター)

経験が生むいろいろな「工夫」 《写真だいすき》13

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高さ20数センチのこの像、地面にシートを敷き腹這いにならないと、撮影は難しい

【コラム・オダギ秀】足取りもおぼつかない先輩老写真家の撮影を見ていて、学んだことがある。彼は年を経て、経験はたっぷり身に付けているが、今の機材には疎(うと)過ぎる写真家だと思っていたから、彼から学ぶことなんてないと思っていた。彼は、生涯、野草や野の昆虫などを撮ることを専門にしていた。

そんな彼に学べたことがうれしい。

彼が野に撮影に出掛ける姿を見た。野の花を撮りに、ヨタヨタと。そんな彼が、手にしていたのはピッケルだ。どこかに登るわけでもない野原でする撮影に、なぜ、ピッケルが要るのだろうか。ボクは、不思議でならなかったが、すぐ、その理由がわかった。

彼は、撮影現場に着くと、いきなりピッケルを地面に突き立てた。雑草が繁茂して足場の悪い地面でも、ピッケルはしっかりと刺さり、立った。体を低くした彼は、そのピッケルを左手で握ると支えにし、その左手の腕に、右手に持ったカメラの重いレンズを載せて支え、撮影にかかったのだ。

これでブレないで撮影できる。こんなやり方は、どんな教科書にも出ていない。長い経験があったから生み出した知恵、工夫なのだ。なるほど、と思って学ばせてもらったが、写真の世界には、経験が教えてくれる工夫がよくある。

中腰にはスタンディングチェア

若い人には無縁なのかもしれないが、年をとると、中腰での撮影がきつくなる。あと10センチ低い位置でカメラを構えたいとか、だからといって座ってしまうと低過ぎるというようなことがあって、その中間の中腰でカメラを構えることが、少し長い時間になると、なんともきついのだ。

そんなときのために、ボクは、スタンディングチェアというのを見つけて使っている。ボクなりに知恵を絞った工夫のつもりだ。

欧米のビジネス会議は、どっかり椅子・テーブルに着いてではなく、少し高いテーブルを囲んで、腰掛けずに討議することが多くなっているそうだ。そんなとき、腰が弱い者はつらいので、スタンディングチェアを使ったりするらしい。

立った姿勢で座ってやれる。そうだ、こんなのがいい、とボクは、一本足で高さが調節できる、そんなスタンディングチェアという椅子を買った。これが、中腰撮影にはとてもいい。長時間、中腰でカメラを構えていても平気だ。椅子一つでいい工夫だ。

サーフボードの短いケース

さて、うんと背の低い被写体に対応するには、シート1枚が必需品だ。シートがあれば、寝転んで撮影できる、とボクは、写真教室などで言ってきた。「100均」のシートでいいから、と。これは、ウソではないが、工夫が必要だ。

確かに、地面に這いつくばって撮影することはよくある。そんなとき、シートが1枚あれば、大助かりだ。だが、地面が荒地だったりデコボコだったりすると、というより大抵は、肘や膝が痛いなど、快適ではない。

肘当てや膝当ては、とても面倒でイヤだ。ボクは、このために、サーフボードの短いケースを見つけた。防水も完璧だし、軽くてショックに強いから痛くない。大きさも適当なものを選べる。ものすごく使用頻度が多く、気に入っている工夫だ。

色々な工夫をすることは楽しいが、それらは大抵、経験が生み出す。やってみると、いろんなことができるようになって面白い。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

待ちわびた土浦の花火まで あと19日《見上げてごらん!》7

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土浦全国花火競技大会実行委員会提供

【コラム・小泉裕司】今回のコラムは、土浦全国花火競技大会実行委員会への取材を元に、煙火業者と出品作品の両面から、今大会(11月5日午後5時30分~8時)の注目ポイントにアプローチしてみた。

花火愛好者が今、最も注目する業者といえば、8月27日の全国花火競技大会(秋田県大仙市大曲)の部門別で優勝2、優秀賞1と圧倒的な成績で内閣総理大臣賞を受賞したマルゴー(山梨県)だろう。キレのよい色使いが持ち味。土浦では、2007年(第76回)、スターマインの部で優勝、同時に内閣総理大臣賞を受賞している。

土浦と大曲の両大会で同大臣賞を受賞したのは、マルゴーのほか、紅屋青木煙火店(長野県)、野村花火工業、山﨑煙火製造所(いずれも茨城県)の4社のみ。このビッグ4は、各競技大会で常に上位に名を連ねており、今大会もファンの期待を超える作品を打ち上げてくれるに違いない。

今年2月11日、霞ケ浦湖畔で開催した「2大花火競技大会『大曲』『土浦』夢の競演」(土浦全国花火競技大会実行委員会 YouTubeチャンネル)に、雪深い大曲から遠路駆けつけてくれた大曲の小松煙火、北日本花火興業、和火屋、そして10数年ぶりに出品する響屋大曲煙火の4社は、いずれも過去、土浦で部門優勝している強豪。こちらも要チェックだ。

ただし、煙火業者によっては、作品の製作担当がいつも同じとは限らず、社内コンペや順番で割り振られるケースもあるので、企業ブランドや過去の成績という先入観は、いったん脇に置いて、55社各社の得意玉を鑑賞してほしい。

土浦は種目別オープン選手権

花火競技は、10号玉の部、創造花火の部、スターマインの部の3部門に分かれる。10号玉の審査は、開花して4~8秒間の間に、形や色のコントラストの鮮明さなどを見極めて採点するのだが、「四重芯菊(よえしんぎく)」や「五重芯菊(いつえしんぎく)」ともなると、芯の数を数えているうちに花火は消え失せてしまう。

特に五重芯は、私たちの動体視力の限界を超えたと言われているが、今大会45玉のうち史上初となる6玉がエントリーされている。過去4大会連続で五重芯が優勝していることからも、この中から優勝作品が選ばれる可能性は高いが、正円で明瞭な色彩の四重芯であれば高得点で優勝争いに加わることができるかもしれない。

創造花火は、その名のとおり、花火のクリエーティブさを競う競技種目。前もって作品タイトルとコメントを見ておくことで、感性豊かな製作者の人柄を想像しながら、作品をより深く味わうことができる。5号玉(直径15センチ)7発の組み合わせで表現する。

今大会は、四季折々の草花や輝く宝石を表現する作品が多いようだが、はやりのパステルカラーをこれでもかというほど仕込んだ花火が主流ではないかと、想像を膨らませている。

以前は速射連発と言われたスターマインは、時間制限2分30秒、4号玉(直径12センチ)から2.5号玉(同7.5センチ)400発以内と、玉数の多さからも土浦はスターマイン日本一を決める大会と言われている。

全作品音楽付は例年と変わらないが、英文字やカタカナだらけの曲名リスト、タイトルやコメントを読んでも、ストーリーは具体化しない。スターマインは、むしろ余計な先入観を排除した白紙の状態で、各社の「持ち味」を堪能するに限る。

「気象神社に行ってきました」。土浦全国花火競技大会実行委員会本部長を兼ねる土浦市産業経済部長の佐藤亨氏は、休暇を取ってJR高円寺駅近くの「高円寺氷川神社」境内に鎮座する「気象神社」を参拝。無事の開催祈願のお札とお守りを受けてきたとのこと。 日本で唯一のお天気にご利益のある神社として実績があるそうで、必ずや願いがかなうことを信じて、あと19日。本日はこの辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

見えなくなれば解決?《続・気軽にSOS》119

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【コラム・浅井和幸】「そんなこと言うもんじゃない」とか、「そんなこと考えちゃだめだよ」とアドバイスをされて苦しんでいる人が多くいます。

子どものころから、何度もこうしつけられ、それを真面目にとらえすぎると、ちょっとした悪いことを考えたり感じたりするだけで、自分は存在してはいけない人間なのだと責めるようなことが起こります。そして、それを押し殺して、誰にも見せないようにと苦しみます。

例えば、人に対して怒りを感じたり、気持ち悪いと感じたりすることは、多くの人に起こることでしょう。私たちは完璧な人間になれませんので当然です。ですが、このように感じただけで、即「悪い人」というわけではありません。怒りや気持ち悪いという感情を、相手に迷惑をかけるように行動化をしなければ、それほどの問題にはならないはずです。

そのように感じても、怒りなどを適切に伝え、コミュニケーションを繰り返せば、お互いの不理解を解消できます。そのためにも、自分の感情や感覚を押し込めるのではなく、まっすぐに受け止め、対応する練習をすることが大切です。

そのためにも、大人や支援者は、子どもや被支援者のネガティブな感情を受け止めることが必要です。人は、問題が目の前から見えないところに行くと、問題が解決したかのような錯覚を起こすものなので、気を付ける必要があります。

問題解決法を省みるとよい

子どもが変なことを言わなくなったのは、問題が解決したのではなく、感じたことを教えてくれなくなっただけかもしれません。リストカット(自傷行為)をしなくなったように見えるのは、見えないところを傷つけているからかもしれないのです。

不登校問題は、その子が卒業をして学校に所属していなければ、問題は消えるかもしれませんが、別の問題になっているかもしれません。A市からB市に移動した、問題を抱えた人は、A市では問題解決でも、B市では問題発生かもしれません。

強引な問題の解決方法が、もっと大きな問題をつくっていないか考えることをお勧めします。愛や正義で問題を無理にたたきつぶすことは、恨みを大きくしてしまうこともあります。戦いばかりを起こしたり、巻き込まれたりしやすい人は、問題解決法を省みるとよいでしょう。(精神保健福祉士)

泉秀樹研究① 泉秀樹とは誰なのか?《遊民通信》50

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小田原城

【コラム・田口哲郎】

前略

泉秀樹という人をご存知でしょうか? 数年前まで私も存じ上げなかったのです。泉氏を最初に知ったのは、J:COMの番組「泉秀樹の歴史を歩く」でした。メガネをかけ、ひげをたくわえた素敵な男性が、物静かなトーンで、歴史にゆかりのある場所を歩きながら、昔のロマンを語ります。

「歴史を歩く」シリーズはいくつかあるのですが、私が好きなのは、今月アーカイブ放送されている「江ノ電沿線史一駅一話」です。鎌倉と藤沢を結ぶ江ノ島電鉄の全駅にまつわる歴史秘話を、ひと駅ひと駅解説するというもの。ゆったりした番組の流れのなかで、江ノ電沿線の風景とともに泉氏の歴史解説が入ります。

視点がユニークなので、へえ!と納得することも多々あり、紹介された旧跡に行ってみたい気分にさせられます。歴史番組でもあり、旅番組でもあり、情報番組でもあるのです。

この泉秀樹という人は誰だろう?と興味がわき、グーグルで検索しました。ウィキペディアには、1943年生まれの作家・写真家とあります。「静岡県浜松市生まれ。慶應義塾大学文学部卒。新聞社勤務を経て、以後、作家・写真家として活動する。1973年、小説『剥製(はくせい)博物館』で第5回『新潮新人賞』受賞。歴史に関する著作が多い」

「泉秀樹の歴史を歩く」の ナビゲーター、慶應の文学部を出ているということで、なんとなく親近感がわきます。そして、小説も書いているのか、と人物に興味がわきました。

多彩な活動をする泉氏

検索していくと、2015年のプレジデント・オンラインの記事に行きつきました。「大事にすべきは学歴ではなく『職歴』です」というタイトルで、ご自分の半生について語っていらっしゃいます。

慶應を出てから、産経新聞の文芸部配属になり、遠藤周作を担当したこと。それが縁になって小説を書き始め、三田文学に投稿したりして、新潮新人賞を受賞したこと。その後、産経を退職して、フリーランスとなり、現在に至ること。遠藤周作、三田文学というワードが出たので、検索子を追加してみると、泉氏の多彩な活動歴が分かりました。

中でも目を引いたのは、「率直にきこう あなたはなぜ神など信ずるか」という1983年に女子パウロから出版された本です。この本を手に入れたら、共著者に加藤宗哉氏のお名前がありました。氏は遠藤周作の愛弟子で、三田文学の編集長も歴任されました。タイトルからして、何か刺激的なことが書いてありそうです。宗教がクローズアップされている昨今、得るものがあるに違いありません。

ひょんなことから知った泉秀樹氏について、何回かにわたって書いてみたいと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

これから大事な金融・投資教育 《地方創生を考える》25

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ダイヤモンド筑波(筑西市)

【コラム・中尾隆友】近年、20~30代の若い世代を中心に、投資を学ぶ人々が増えている。その背景には、主に二つの経済情勢の変化がある。

一つは、いわゆる「老後資金2000万円問題」だ。金融庁が2019年に公表した報告書では、老後資金が年金だけでは2000万円足りないという内容がセンセーショナルに報道され、若い世代の危機意識が高まるきっかけとなった。

もう一つは、物価上昇だ。日本の物価上昇率は22年4月以降、2%を上回る状況が続いている。普通預金の金利がゼロに等しいことを考えると、預金の実質的な価値は物価上昇が進めば進むほど、目減りの度合いが大きくなっていく。

そういった情勢の変化があったせいか、20年3月の「コロナショック」と呼ばれる株価暴落時には、証券会社の新規口座開設者数が若い世代を中心に急激に増加し、その後も増加の一途をたどっている。

要するに、若い世代の多くは日本の脆弱(ぜいじゃく)な年金制度を信用していないため、個人個人が自己責任で資金を運用して、老後資金の不足分を補う必然性に迫られているのだ。

「資産所得倍増プラン」の問題点

その流れの中で、政府は『資産所得倍増プラン』を掲げた。金融庁はこの計画を実現させるために、少額投資非課税制度(NISA)の拡充を進めるとともに、国家戦略として金融教育の普及を目指すという。

しかし、このプランには最も大事な視点が欠けている。日本で圧倒的に足りないのは、ITやAI関連のスキルを持った人材だけではないからだ。本当の意味で、金融関連のスキルを持った人材(金融教育を担う人材)がはるかに足りていないのだ。

今年に入って、地方の金融機関で問題となっているのは「投資関連でプロと呼べる人材がいない」ということだ。外国債券の含み損に苦しむ金融機関が少なくなく、巨額の含み損から、公的資金注入の申請を検討するところも出てきているほどだ。

正直なところ、金融知識に関する資格を取るために学ぶ内容では、金融や投資の世界で通用しないことが多い。金融庁は金融教育の大部分を民間の金融機関に担わせようとしているが、それでよいのか、大いに疑問を感じる。

大学や高校に「金融学科」を

私は、大学はもちろんのこと、高校などでも金融学科があって然るべきだと考えている。そういった意味では、地方のリーダーを育てるためにも、茨城県の大学や高校でそういった取り組みが出てくることを期待したい。

実は、金融や投資に関するスキルは、起業して成功するためにも、会社を経営するためにも、必要不可欠な要素だ。先見性を鍛えるトレーニングになるのに加えて、情勢に応じて柔軟に対応できる能力が磨かれるからだ。(経営アドバイザー)

「消費生活アドバイザー」に慣れません 《ハチドリ暮らし》18

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【コラム・山口京子】消費者の1人として、日々、何かを購入して生活をしているわけですが、消費者という言葉がストンと落ちないというか、違和感を覚えながら、消費者という言葉を使っています。消費生活アドバイザーの資格を取りましたが、なかなか資格名に慣れません。

この社会に生まれると、物心つかないうちから消費者として登場させられます。子どもの関心を引く商品やサービスの開発が止めどない光景を見ていると、正直、怖くなります。人はどこに向かうのかしらと。

自分は消費者の1人であるけれど、同時に働く人であり、働くことを通じてお金を得て、そのお金を使って消費活動をしている。でも、働く場を失ったら、お金の源泉を失ったら、人はどうやって生きていくのかしら…。60歳を過ぎたあたりから、そんなことを思うようになりました。

自分が子どものころ、農村に生まれたためか、畑と田んぼを耕して、家族の食べる分くらいはつくっていました。また市場(いちば)出しもしていた記憶があります。すでに現金がないと生活はできませんでしたが、今ほどに何でもお金で買う生活ではありませんでした。

1950年ごろ、第1次産業従事者は50%ぐらいはいたのではないでしょうか。わが家の祖父母は専業農家でした。父はトラック運転者になり、農業は三ちゃん農業(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)。祖父母が働けなくなると、田んぼは他人に頼むようになっていきました。

「相続土地国庫帰属法」という制度

高度経済成長期は、日本農業の衰退期と重なっているように思えます。経済成長と第1次産業の充実は両立できなかったのでしょうか。広がり続ける耕作放棄地は、他人事ではありません。頼んで耕作してもらっている田んぼを返されたら、私は途方に暮れるばかりです。

農村の閉鎖的で男尊女卑的な環境を嫌って、東京に出てきました。今は茨城に住んでいますが、実家をどうするのか頭が痛い問題です。来年4月、「相続土地国庫帰属法」が施行されます。相続人が相続により望まずに取得した土地を国が引き取る制度です。国にお金を払って引き取ってもらうもので、土地の条件などがこれからはっきりしていくのでしょう。

その制度を利用するか、だれかが有効活用してくれることを願って呼びかけてみるのか。本当なら、自分の食べる分くらいは作る生活が望ましいのだろうとは思うのですが…。庭の一角を耕して畑にしています。大根と白菜の苗を植え替えました。人参の苗も育っています。(消費生活アドバイザー)