水曜日, 5月 14, 2025
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かすみがうらマラソンコースを自転車散歩《ポタリング日記》7

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【コラム・入沢弘子】今年は3年ぶりに日本有数の市民マラソン大会「かすみがうらマラソン」が開催決定。参加予定者の方々は胸躍る思いでしょう。

そんな気持ちを少しだけ味わいたいと思い、私も10マイルコースを折り畳み自転車で走ってみました。今回はナショナルサイクルルートに指定された「つくば霞ケ浦りんりんロード」の霞ケ浦コースのごく一部。短い区間でしたが、他地域の自転車用道路と比べ、地面の凹凸や樹木の根などの障害物がなく、景色を楽しむことができ、最高のポタリングになりました。

快晴の土曜日午前9時。「りんりんポート土浦」の駐車場はまだ余裕がありました。トランクから愛車「BROMPTOM(ブロンプトン)」を取り出し、スタート地点に向かいます。

一昨年開催予定だった、第30回記念大会時にリニューアルしたスタートゲートに到着。未使用のゲートから、ランナーより少しお先に自転車で出発しました。新川を渡り、境川と並行する県道へ。この道の広い歩道は自転車通行可なので、私のような初心者ポタリストは安心です。

左手は一面のハス田の平坦な直線道。シラサギがゆるやかに飛び交っています。土浦バイパスにぶつかったら右折。両側にハス田が広がっています。今の時期は水面だけですが、初夏から秋にかけては、波のように風に揺れるハスの葉や花が見られます。

手野町南の信号を越すと、道は緩やかな上り坂になりました。民家と雑木林の単調な景色と重いペダル。ギアチェンジし、ラデッキー行進曲を歌いながらリズミカルにこいでいきます。坂を上り切った手野町信号から折り返し。途中に勾配(こうばい)4.5パーセントの標識がありました。下りは霞ケ浦越しに富士山が望める絶景です。

霞ケ浦の前に広がるハス田

坂の下に戻ったら信号を左折。石岡田伏土浦線に入ります。JA水郷つくばれんこんセンター、レンコン直売所、レンコン農園とレンコン尽くし。通称・レンコン街道です。道路から霞ケ浦まで広がる一面のハス田。今は植え付け前の準備・代かきの最中です。あぜ道には作業の軽トラックがたくさん止められていました。

沖宿郵便局を越したところで、霞ケ浦名産の看板が目に入ります。おなかが空いたので行ってみることに。「常盤商店」は、以前に土浦ブランドの仕事でお世話になったお店。住宅地の一角で、紺色の暖簾(のれん)が迎えてくれました。霞ヶ浦で獲れた魚からシラウオとエビの加工品を購入。

折り返し点から湖岸道に出ました。聞こえてくるのは、小さな波音とヒバリの声。この田村地区は土浦藩4代藩主・土屋篤直(つちや・あつなお)が編んだ「垂松亭(すいしょうてい)八景」に詠まれた場所。道沿いの古い水天宮・水神社は、霞ケ浦と肥沃(ひよく)な土地に恵まれたこの場所の農業・漁業を見守ってきたのでしょう。

霞ケ浦越しに見える、土浦駅周辺のビル群を眺めながら走っていると、あっという間にりんりんポートに到着。出発から1時間、16キロの小さな旅でした。

「かすみがうらマラソン」まであと2週間。当日の好天候と、参加者の皆さんが安全に楽しめることをお祈りしています。(広報コンサルタント)

認知のゆがみ《続・気軽にSOS》106

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【コラム・浅井和幸】私の若いころ、不良少年同士で目が合うと、ケンカをすることがよく起こりました。たまたま目が合うだけで、相手がケンカを売ってきたから、ケンカになった。悪いのは相手であり、自分は売られたケンカを買っただけと、お互いが言うのです。

まったくケンカをすることもない、オタクっぽい容姿の生徒が見ただけでも、「ケンカ売ってんのか、おらぁ」となります。これは、血気盛んな若者だからという理由だけでなく、うまく物事が捉えられない、認知のゆがみからくるものかもしれません。

当人は、相手が自分と目が合うことは、ケンカを売ってきていると決めつけて、世界を捉えています。ケンカを売る気はない相手の行動を、ケンカを売ってきていると、本気で感じているのです。

これは、昔の不良少年に限った話ではありません。物事を決めつけ、マイナス思考をして、飛躍した結論を出す。生きづらさを抱える人が日常的にやっていることがあります。

例えば、一つの仕事がうまくいかなかったことに対し、自分は運が悪い。まじめに仕事をしているから、うまくいかない。周りのうまくいっている人たちは、ズルいことをしているから、うまくいく。自分は、ズルができないから、周りからバカにされている。

例えば、自分は相手のためにアドバイスをしてやったのに、相手はその通りに動かない。相手は自分をなめている。自分はバカにされている被害者だ。自分は被害者なのだから、相手とこの社会から賠償金を取らなければいけない。

人間の力はそう大差はない

これらは極端ではありますが、デマに流されやすい人、いつも自分が不幸である人、陰謀論に流され自分だけは世界の裏や真実を知っていると考えている人は要注意です。世の中、良いことも悪いこともあるし、少々の能力差はあっても、人間の力はそう大差はないものです。

自分だけ大きな力を持っている、自分だけ大きな不幸を背負っている、周りの人は何の苦しみもなくうまく生きている―というような極端なことはありません。

人は1人でいると、考え方、感じ方が偏るものです。孤独は思考を深めますが、極端に非合理な方向に向かってしまうことがあります。何かうまくいかないな、悪循環になっているなと思ったら、そしてそれがとても苦しいものだったら、カウンセラーや医師に相談してみてください。

「自分はどうかな」と思ったら、ネットで「認知のゆがみ」「認知行動療法」とかで検索してみてください。何かに気づくことがあるかもしれません。人や社会は、良いところも悪いところもあるし、ポジティブな部分もネガティブな部分も持っているものです。

どちらもあるし、その中間もある。その程度問題の中で、自分が向かいたい方向を見つけられる言動を積み重ねましょう。(精神保健福祉士)

こどもと一緒に本を読むということ 《ことばのおはなし》44

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【コラム・山口絹記】娘と一緒に本を読むようになって、かれこれ7年近くになる。ゼロ歳の頃から読み聞かせを始めて、一体何冊読んだだろうか。我が家には娘の本が200~300冊あるのだが、図書館からも2週間ごとに20冊借りている。本によっては同じものを何百回と読み返すから、単純に何冊という話でもなさそうだ。

こう書くと、育児や教育に熱心という印象を抱かれそうだが、私はお世辞にも良い父親ではない。娘に「公園に行こうよ」と言われても、「えー、ヤダ!」なんて言う親だ。私は出不精だけど本ならいくらでも読んでくれる、ということを、2歳の頃には娘なりに認識し、本の束を抱えて私のところに持ってくるようになった、というだけのおはなしだ。

7年間。ずいぶんと、いろいろなことがあった。

母親がいないと常に泣いていた娘が、いつしか『くつしたくん』や『バスなのね』を読めば泣き止むようになった。上野公園で買ってもらった『よるくま』のぬいぐるみとはいつも一緒だったし、『あいうえお でんしゃ じてん』は一緒に暗記するまで読み込んだ。

『くまたくんシリーズ』や『リサとガスパールシリーズ』は私が好きで一人で読んでしまい、娘に見つかってよく怒られた。私が脳内出血で失語になったときは、娘が『だいすき ぎゅっ ぎゅっ』を代わりに読み聞かせてくれた。

休みの日は、絵本を10冊読むことから始まり、私がトイレの便座に座っているときも本が運び込まれ、本屋に行けばまず1時間は帰れないし、私が自分の本を読んでいるときも「声に出して読んで」と頼まれる。

そして今、斉藤洋さんの『ルドルフとイッパイアッテナシリーズ』や、角野栄子さんの『魔女の宅急便シリーズ』、畠中恵さんの『しゃばけシリーズ』、上橋菜穂子さんの『守り人シリーズ』あたりを一緒に読んでいる。

6歳児と34歳が知識を探り合う

もともとは、もうすぐ小学生になる娘の読み聞かせ卒業に向けて、昨年から準備を始めたのがきっかけだった。今まで一緒に本を読むときは、読み聞かせというよりは、読みながらおしゃべりをするような感じだったのだが、本を読むというのは、本質的には孤独な行為だ。

読書という行為の、底の見えない深淵(しんえん)の淵に手をつないで一緒に立ち、共に底をのぞいてみる。つまり、「一人で本を読むというのも、こんな感じで面白い」という体験をさせる、読書独り立ちしていく娘への、私なりのはなむけのようなつもりだったのだ。

だがしかし、絵本を読むそのノリで、小説を読むのが楽しくなってしまったようだ。そして、私も楽しい。完全に予想外である。

6歳児と34歳がお互いの語彙(ごい)や知識を真剣に探り合い、共有しながら物語の中を進むとどのようなことになるのか。というおはなしはまた次回にしよう。(言語研究者)

【訂正】1日午後1時30分、写真を差し替えました。

柚のランドセル 《短いおはなし》1

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挿絵は筆者
伊東葎花さん

【ノベル・伊東葎花】

わたしの名前は柚(ゆず)。4月から小学生になるの。

ママにもらったランドセルはオレンジ色。

太陽の色だねってママが言った。

わたしはママとふたり暮らし。

ママは隣町の研究所で働いているから、わたしはいつもお留守番。

だけど寂しくないわ。だってもうすぐ小学生だもの。

今日、ママは会社をお休みした。

「柚、いっしょに小学校へ行くわよ」

ママはそう言って、よそ行きのお洋服を着せてくれた。

小学校へ行くのは初めてだったから、すごくうれしかった。

ママはわたしの手をぎゅっと握った。顔が少し怖い。

小学校は、とても大きかった。広い庭を囲むように、桜の木が植えられている。

まだ3分咲き。入学式にはきっと満開ね。

ママは、口をぎゅっと結んで職員室に入った。

「教頭先生、入学を承認して下さい」

「またあなたですか」

窓辺に座っていた教頭先生が、あきれた顔をした。

「今日は娘を連れてきましたの。ほら、見てください。どこから見ても立派な6歳児でしょ。他の子と、何ら変わりありません。お願いします。柚を入学させてください」

教頭先生は、困ったようにため息をついた。

「確かにこの子はよくできています。人間そっくりだ」

「人間ですよ。年齢に合わせて成長させるし、感情だってあるんです」

「どんなに人間そっくりでも、ロボットの入学は認められません」

「柚は人間です」

「参ったなあ」と、教頭先生は頭をかいた。

「ちょっと調べさせていただきましたが、あなた、数年前に娘さんを亡くされてますね。小学校の入学前だったとか。それで娘さんそっくりのロボットを造った。お気の毒だと思います。お気持ちはわかりますよ。だけどね、その子は人間じゃない。どんなに高性能でも機械だ。残念ですが、何度来ても答えは同じです」

ママは唇をかみしめて、今にも泣きそうな顔をした。

帰り道、ママは手をつないでくれなかった。

ただ悲しそうに、桜の花を見上げていた。

家に帰っても、ぼんやり空を見ていた。

顔をのぞき込むと、ママは泣いていた。

わたしが小学校へ行けないから。わたしがロボットだから。

悲しい気持ちは理解できるけど、わたしの目から涙は出ない。

いっしょに泣いてあげられなくてごめんね。

西の窓から夕陽が射し込んで、ランドセルを照らした。

「ママ見て。夕焼けとランドセル、同じ色だね」

ママは振り向いて、少し笑った。

そしてわたしをぎゅっと抱きしめて「ごめんね、柚」と何度も言った。

きっとわたしじゃなくて、天国の柚に言ったんだ。

柚が行くはずだった小学校。柚のランドセル。

夕焼け空が、夜の色に変わっていく。

ねえママ、明日もわたし、ママの子どもでいいんだよね。(作家)

【いとう・りつか】小説ブログを始めて12年。童話、児童文学、エンタメ、SFなど、ジャンルを問わずに書いている。文学賞にも挑戦中するもやや苦戦気味。第19回グリム童話賞大賞、第32回新見南吉童話賞特別賞、第33回日本動物児童文学優秀を受賞。妄想好き。猫好き。趣味は読書と太極拳。東京生まれ、美浦村在住。伊東葎花はペンネーム。

ウクライナ危機と日本の戦略 《ひょうたんの眼》46

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メジロの来るツバキ

【コラム・高橋恵一】プーチン大統領のロシア軍が、ウクライナへの理不尽な侵攻をしてから1カ月が過ぎてしまった。ヨーロッパ各国をはじめ、ほぼ全世界が非難する中で、プーチン大統領は、核兵器使用や第3次世界大戦も厭(いと)わないという、無茶(むちゃ)ぶりだ。ウクライナの市民と動員されたロシア側兵士の生命がどれだけ失われるのだろうか?

日本は、この事態にどう対処すればよいのだろうか。当面は、経済的負担、支援をしながら、欧米に歩調を合わせて行くしかないのだろう。今後は、安易に、防衛力の一層の強化が叫ばれるのだろうか?

しかし、今回のプーチン大統領の侵略行為が、先の戦争における日本の行動によく似ていることを考えれば、日本の軍事力強化策は、世界や日本国民が受け入れるとは思えない。また、兵器は限りなく進化(?)高度化(?)するので、絶対安全な軍備などはありえないことも明らかになった。中国で「矛盾」という言葉ができたのは何千年前なのだろう?

絶望的な2度にわたる世界大戦の反省から、戦後の世界秩序を構築したのは、国連であり、戦勝国の武力を抑止力とした。しかし、武力の裏付けは経済力競争になり、結局、人類に平和をもたらしていない。ウクライナ以外にも、危険な地域はたくさんある。

一方、先の大戦の反省から生じた考え方、行動規範に、ユネスコ憲章があり、日本国憲法がある。日本国憲法は、平和の実現のために武力を使わないという日本の姿勢を、「国際社会における名誉ある地位」とし、ユネスコ憲章では、国家間の平和を維持するためには「政府間の政治的、経済的取り決めではなく、国民間の相互理解・尊重と連帯が必要」としている。

現在の、国際紛争の要因として、経済力の成長競争があり、所得格差の拡大がある。裏返して、軍拡競争にもなっているが、人間生活の真の豊かさ、安心を考えたとき、基準を考え直して、地球規模で持続可能な社会構築に目標を置くよう提案されている。

自らの国民力・多面的な自給力

日本がとるべき戦略は、自らの国民力・多面的な自給力をつけることではないか。「日本は小資源国なので」という認識が一般的だが、温帯地帯の自然環境にあり、広大な海洋に囲まれていて、知的技術的水準の高い日本の地政学的な可能性は膨大である。耕作放棄地の再生や養殖の拡大による水産業などによる、食糧自給率の確保。太陽光や地熱、風力などと共に、森林資源やバイオ燃料の発電。昔、水車のあった渓流や小河川ならダムを作らなくとも小水力発電ができる。

挙げればきりがないが、自らの国土や海洋が有する資源を活用して、自給率を高める取り組みは、太平洋諸国やアジアの諸国でも一緒に協力して推進できる取り組みだ。日本の、そのような行動こそ、国民同士の理解、相互尊重が向上し、アジア太平洋地域、ひいては世界の平和実現に実質的な役割を担うことができると思う。(地図好きの土浦人)

報道をにぎわした「国際女性デー」 《令和楽学ラボ》17

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【コラム・川上美智子】3月8日は世界中の女性のための日、「国際女性デー」でした。1975年の国際婦人年に、国連がこの日を「国際女性の日」に制定しました。今年は「持続可能な明日に向けて、ジェンダー平等をいま」がテーマとなりました。国連が2050年に向けて目指す、SDGs 17の目標中の5番目のゴールが「ジェンダー平等を実現しよう」です。

イタリアではこの日、黄色のミモザの花を女性に贈り祝います。私は長年にわたり、県や市町村の男女共同参画計画策定に携わってきましたので、マスコミの紙面で大きく取り上げられるようになったのをうれしく思います。

国際女性デー。1908年のアメリカの縫製労働者の労働条件改善に立ち上がった女性のストライキに端を発し、1910年に社会主義インターナショナルが女性の選挙権獲得などの声を上げ、「女性の日」としたのがその前身です。時を同じくして、日本では1911(明治44)年、平塚らいてうが『青鞜(せいとう)』発刊し、自我の覚醒、女性解放の声を上げました。フェミニズムの登場です。

そもそも日本の女性差別の構造は、鎌倉時代の武家社会の確立と共にあると考えられています。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が人気となっていますが、小栗旬演じる主人公の北条義時の息子、北条泰時(鎌倉幕府第3代執権)が定めた武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は、仁、礼、忠義、道理など、儒教思想の影響を受けています。

その世界観は、江戸期の封建社会でも貫かれ、強化され、『女大学(おんなだいがく)』に記される三従思想となり、明治期へと受け継がれます。明治国家は平等、人権などの西欧近代思想を取り入れつつも、男女不平等などの基となった家父長制は継承し、労働の分野では若い女性が安い労働力として組み込まれました。

女性の能力が100%発揮できる社会目指して

役割分担意識は今もなお、女性の生き方の足枷(かせ)になっています。「アンコンシャス・バイアス」と言葉は変えられましたが、我々の潜在意識に潜んでいます。

社会へのアクセスなどの男女差(男女比)を示す指標として、世界経済フォーラムによるジェンダーギャップ指数(GGI)があります。日本の2021年のGGIは世界156カ国中120位、順位は年々下がってきています。健康(82位)、教育(92位)、経済(117位)、政治(147位)と、国会議員や閣僚、行政府の長の在任年数の男女差が大きいのが影響しています。

そうは言っても、就業分野への女性の進出はこの40年余で大きく上昇しました。写真にあるように、かってM字型就業と言われていた女性の年齢階級別労働力率は、馬の背型を経て、台形に近づき、女性の就業率は71%に上がりました。結婚しても、子どもが生まれても、離職しないで働き続ける女性が普通になってきました。

ただ、その実態は、非正規雇用が58%となかなか正規雇用に就けません。また、正規雇用であっても職位の差があり、給料は男性の76.8%に止まっています。まだまだ、社会の受け入れは女性に厳しい状況にありますが、女性の能力が100%発揮できる社会を目指して、バイアス解消に努めていかなければなりません。(茨城キリスト教大学名誉教授)

読書文化の復権を願って―水戸の佐川文庫 《邑から日本を見る》108

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【コラム・先﨑千尋】3月19日、水戸市の郊外、河和田町にある佐川文庫の木城館で行われたピアノ・リサイタルに足を運んだ。文庫を主宰する千鶴さんのお誘い。ここでのコンサートは若手の音楽家がメイン。この日は、東京芸大卒業後、ベルリン芸術大学でピアノを学んだ北村朋幹さんの晩年のベートーベンのピアノソナタ3曲。静かな、時には体全体を鍵盤にたたきつける動きに魅了され、ベートーベンを堪能した。

佐川文庫は、1984年から1993年まで水戸市長を務めた佐川一信さんの姉千鶴さんが「ぼくの好きな本や音楽を集めて一般に公開したい」という一信さんの夢を実現させて、2000年に開館した。3万冊の書籍と1万枚のクラシックCDでスタートし、現在は書籍が5万冊、CDが2万5千枚になっている。

佐川文庫は、生前に彼が集めた蔵書を自宅の後ろに小屋を建て、児童書も置いて、近所の子供たちに公開したことに始まる。彼が市長の時に建設した西部図書館はドーム形のデザインが特徴。周囲に大回廊があり、芝生の上でも本が読める。音響もよく、ここでCDを聴くとコンサート会場にいるような気分に浸ることができる。この図書館にも法律関係の専門書と洋書5千冊が寄贈され、佐川文庫という一室に収まっている。

「若い子が本を読むのには開放感がある方がいい」

一信さんは学生時代、図書館が開館すると入り込み、閉館になるまで本を読んでいるという読書三昧の生活を送っていて、図書館には強いこだわりがあった。その時の思い出が「読書文化の復権」という理念につながり、水戸芸術館とともに佐川市政の柱の一つになった。それを千鶴さんが引き継ぎ、読書と音楽の城=一信さんのメモリアルホールとしての「佐川文庫」に結晶したということだ。

ゆったりとした書棚。本を読むテーブルは庭に面し、ガラス張り。とても明るく開放感がある。座るスペースも一つ一つ広く作られていて、周りを気にしないでいい。「若い子が本を読むのには開放感がある方がいい。土日には子どもたちが勉強に来る」と千鶴さんは言う。絶えず静かな音楽が流れている。公共の図書館にはない雰囲気に浸れる。私はここでお茶をいただきながら、千鶴さんとしばしのおしゃべりを楽しむ。

一信さんは高校で私の2級先輩。下駄(げた)のような角張った顔で、生徒会長をしていたのを思い出す。早大大学院卒業後、大学で講師を務めながら会社を経営し、1984年に「市民派市長」として当選。水戸芸術館の建設や千波湖の浄化などの実績を残した。93年に当時の県知事がゼネコン汚職で逮捕された後の知事選に出馬し、いわれのない中傷を浴び、僅差(きんさ)で敗北。95年に54歳で亡くなった。セルバンテスの理想を追う姿に共感していた一信さんは、さながら現代の「ドン・キホーテ」だったのではないか、

佐川文庫に入ると、ぎょろりとした目の一信さんに、「お前、この頃どうしているんだ、がんばっているか」と声をかけられている気がする。(元瓜連町長)

恥ずかしながら 私のウイルス体験記 《文京町便り》2

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】前回のコラム(2月27日掲載)原稿を編集部に提出した数日後、私のパソコンがウイルスに汚染されました。今回はその顛末(てんまつ)をお話しします。

Wi-Fi接続していたPCが、2月23日午後2時過ぎ、けたたましい警告音(サイレン)とともに、甲高い女性の声「PCの電源を切らないで」が繰り返されました。PC画面には、赤字で「ウイルスに感染されました、至急、034-579-0166に電話をください」が出ている(あえて、その時の不自然な電話番号を表示しておきます)。

とりあえずは電話すると、画面で「MICROSOFT Windows, Mike Miller」と自称する人物が音声(不自然な日本語)で出現し、無料診断の結果、私のパソコンの問題点は「1.service stop, 2.no network security, 3.hacker found」だと表示。加えて、ハッカーの顔写真(囚人風の外国人(ボカシ))が表示され、恐怖感を煽(あお)る。

これを解消するには、plan 1(4年間保証で2万円)かplan 2(7年間保証で3万円)だと、と迫ります。私は、これはおかしいと反論するも、この担当者は近くにコンビニはあるか、と問う。コンビニFがあると答えると、そこで該当額のGペイカードを購入するように、と指示。

半信半疑ながら、そのコンビに出向き、店員(40歳前後の男性)にGペイカードの所在を尋ね(そもそも使ったことがないので)、経緯を話すと、「振り込み詐欺かもしれない」と案じ、「一度、家電屋で見てもらった方がいい」とアドバイス。我に返り(カードを購入せず)自宅に戻り、この間(15分程度)接続していたPCをシャットダウン。

ロシア製の対策ソフトをインストール

次は、近くの家電量販店Kでのやり取り。担当者(30歳前後の物静かな青年)は、PCのハードディスクをチェックし、特に問題は発生していない模様だと仮診断。私からは、思い返すと、ここ2週間ほど、PC導入時にデフォルトで設定したウイルス対策ソフトWの更新要求メッセージを無視していたことが今回の原因なのかもしれない、と反省の弁。

するとこの担当者は、同店推薦のソフトK(店頭販売のウイルス安全対策ソフト、3年保証、13,200円)のインストールを勧め、私もそれに応じました。その後、ウイルス対策は支障なく動作しているようですが、このソフトKはロシア人が設立した企業で、その持株会社はロンドンの企業とのこと。

まさに、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界のゆえに、何がより完全な対策なのか不明ですが、ロシアのウクライナ侵攻の前日だったことと符合しているとも感じています。ご参考までに、皆様にご報告しておきます。(専修大学名誉教授)

30年が、たった40分! 《写真だいすき》6

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暗い所に置かれていた風神像:1度のシャッターに約30分

【コラム・オダギ秀】大学を出てからずっと、写真を撮ることを仕事にしてきた。どのくらいの時間、写真を撮ってきたかと、フィルムを使っていた昔、計算してみたことがある。仕事として写真を撮って30年ぐらい過ぎたころだ。そしたらなんと、40分ほどにしかならない。

と言うのは。

フィルムの時代だから、36枚撮りフィルムを月に100本撮ったとして3,600枚。1年にすると43,200枚。それを30年続けて1,296,000枚。撮る枚数が少ない大判カメラで撮ることも多いから、実際にはその半分としても、約60万枚以上の写真を撮ってきたことになる。

その写真のシャッター速度を、1枚当たり平均250分の1秒で撮ったとすると、1/250秒×60万枚。するとそれは、合計40分ほどになる。たった!

つまり、ボクが、一生懸命、30年間、写真を撮り続けてきたと言っても、シャッターを切っていた時間は、ほんの1時間にも充たない、約40分でしかないということなのだ。

こんな話をすると、大方の人は「ふふうん」と、感心したような顔をする。それが狙いでこんな話をしているのだが、しかし、この話にはウソがある。実は、一度のシャッターに、何十分もかかることもあるのだ。

30~40分かけて1枚のシャッターを切る

たとえば、薄暗いお堂の中の仏像を撮影させていただく時など、30~40分かけて1枚のシャッターを切るというようなことは、ごく当たり前のことなのだ。自分の体が動いてカメラに振動を与えてしまわないよう、そっとシャッターを開き、暗いからフィルムに写真が写るまで、じっと身をすくめて時が流れるのを待つ。

寒さで身体が震えたり、暑さで汗がしたたっても、ただじっと、30分も1時間も、時が過ぎるのを待つのだ。

そのような時は、30年かけて切ってきた60万回のシャッターと同じ長さの時間を、たった1回のシャッターに費やすことになるのだ。数回シャッターを切れば、それだけで何時間にもなるのだから。

考えてみると、「製造」時間に、そんなにも差がある製品なんて、他にあるだろうか。ある時は、数百とか数千分の一秒で生み出されるのに、ある時は、その何万倍もの時間をかけて作られる。その製品を見る者は、そんなことを意識することはまずなく、同じ次元で評価する。

写真というのは、面白い世界だと思う。(写真家、土浦写真家協会会長)

春は「フナののっこみ」の季節 《宍塚の里山》87

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フナの子どもたち

【コラム・福井正人】私たちの会は毎月第3日曜日、地元農家と「田んぼさわやか隊」を結成し、宍塚の里山周辺の水田の整備活動を行っています。このエリアの農業水路には、春になると「フナののっこみ(産卵のための遡上=そじょう=)」が見られます。今回はそこで見られる魚たちを紹介します。

宍塚大池を水源とするこの水路は、大池から備前川までの約2キロ、宍塚の里山から北東に流れています。上流域は里山の谷津田の脇を流れる土水路で、昔ながらの水路の景観を残しています。中流域が田んぼさわやか隊の活動エリアで、圃場(ほじょう)整備された田んぼの脇を流れていますが、土水路のまま残されています。

下流域は三面コンクリートになっていますが、中流域から流出した土砂が堆積していることが生き物にはプラスになっているようです。残念ながら、上流域の里山内の水路と中流域の土水路の間には、コンクリートU字溝暗渠(あんきょ)と約40センチ水位差がある場所があります。このため、上流域と中流域の魚類の行き来、特に遡上を阻害しています。

会が地元の方のお話をうかがってまとめた聞き書きには、昔はウナギをはじめとして多くの魚類が下流側から宍塚大池まで遡(さかのぼ)っていたことが紹介されています。それを思うと残念ですが、里山内の水路には、いまでもドジョウやヨシノボリなどの魚類や多くの生き物を育んでいます。

備前川から産卵のために遡上

中流域に目を向けると、水路は里山の谷津田域のそれに比べると直線的ではあります。でも、土水路として残されているため、側面や底面にデコボコがあり、植物なども生えるため、水の流れに緩急ができ、隠れ場所もあって多くの生き物に生息する場を提供しています。

特ににぎやかになるのが、田んぼに水を入れ始まる4月~初夏です。4月になるとフナが備前川の方から産卵のため遡ってきます。これが「のっこみ」です。特に、雨が降って水量が増えた翌日に多く見られます。水位の上昇や水の濁りが遡上を誘発しているのかもしれません。

5~6月になると、この水路でふ化したフナの子どもが見られるようになります。また5月下旬から初夏にかけては、ハゼの仲間(ウキゴリ、ヨシノボリ、ヌマチチブ)の子どもたちが霞ケ浦から備前川を経て遡ってきます。この水路が「魚のゆりかごと」して機能していると思うと、うれしくなります。

水量が少なくなる秋には、これらの魚たちは備前川の方へ下っていきますが、秋から冬の間も常に水が流れているため、水が枯れることはなく、ドジョウやヨシノボリなどは通年見ることができます。こうして見ると、田んぼさわやか隊の活動エリアが、多くの生き物を育む場所としても重要なことが分かります。

田んぼさわやか隊では隊員を募集しています。興味を持たれた方のご参加をお待ちしています。(宍塚の自然と歴史の会理事)

都市の中の「自然」から学ぶ 洞峰公園・不忍池 《遊民通信》37

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【コラム・田口哲郎】
前略

つくば市の洞峰公園は手入れがゆきとどいていてきれいなので、たまに散歩します。ある朝方、遊歩道脇の草むらにカモがあおむけに転がっていました。おそらくネコかカラスにやられたのでしょう。思わず目をそらし、かわいそうにと心の中で手を合わせました。でも、こんな近代都市のなかの公園も「自然」なのだなと感じました。この地球、いえ宇宙はあまねく自然の摂理に支配されていますから、当然なのですが。

大学に行くときに上野の不忍池の脇を通ります。コロナ禍終息がまだ見通せず、すべての講義がオンラインでしたが、資料を借りに行く場合は、どうしてもキャンパスまで行かねばなりません。不忍池にはカモやハトに混じってユリカモメがいて、手すりにとまって休んでいます。このユリカモメ、東京都の鳥ですが、『伊勢物語』のあずまくだりに都鳥(みやこどり)として出てくることは以前書きました。

東京という街は1000年余りでかなり変わりました。東国のひなびた土地だったのが、太田道灌(おおた・どうかん)のころから里になりはじめ、江戸時代、明治・大正を通じて世界有数の大都市に。戦争で焼け野原になって復興したけれど、今度は目に見えない微細生物のせいで、大きな変化をせまられている。このユリカモメはそんな人間社会の変化をあのつぶらな瞳で見つめてきたのです。

人間が社会を必死につくってはこわしてまたつくる苦労をしているのを、悠然と眺めている姿に「自然」を感じます。人間社会も有無を言わさずに「自然」なのかもしれませんね。いまだに人の世は食うか食われるかの原理から脱していないように思えます。洞峰公園のカモが身をもって教えてくれたことです。動物は生きるためには食わなきゃいけません。摂理ですから仕方がない。でもそのどうしようもない営みを反省するのは、人間だけができることとも言えます。

罪なき「自然」と人間

遠藤周作はキリスト教作家ですが、小説やエッセイの主なテーマのひとつは原罪です。人間は生きているうちに、知らず知らずのうちに他人を傷つけてしまっている。意図して傷つけたなら悔いる理由もあるが、無意識に傷つけたら傷つけたという意識すらないので、もっとも恐ろしいというのです。

この生まれながらにしての罪というテーマは、人間が生きているかぎり必ず生まれるものです。夏目漱石の『こころ』の先生が自殺した理由も同じ罪の意識でしょう。人間は自然の摂理から逃れられないのですから、罪からも逃れられないわけです。

キリスト教はこの問題にとくにこだわって考えてきたように思います。摂理だから罪つくりは仕方ないと割り切るのではなく、悔いあらためて神との対話のなかで罪を消化しようとする。これはあまり原罪のような意識を持たない日本人にはよく分からない話です。とはいえ、罪は絶対に悪いことに変わりありません。罪なき「自然」は決して幻想ではない、と思うのです。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

受け継がれる土になじむ習慣 《菜園の輪》2

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中本さん親子。父の川島弘之さんと3世代

【コラム・古家晴美】最寄り駅から徒歩圏内にあるつくば市内の貸し農園を利用している、40代の中本暁子さん親子―息子の容太郎くん(小学校低学年)、70代の父の川島弘之さん、母の和子さん―に、お話をうかがった。暁子さんは、農園近くのマンションに13年前に引っ越してきてから、同僚の紹介によりここで野菜作りを始めた。畑は約30平方メートルで、年間使用料は約1万円である。

前のアパートでも庭先を使って野菜を作っていた。父が家の庭で畑仕事をする姿を見て育ち、自然と植物の成長を見守ることに楽しさを感じるようになったと言う。暁子さんは独学で野菜作りに取り組んでいたが、8年前の妊娠で畑の手入れが十分にできなかった。

そこに手を差し伸べたのが弘之さんだ。平日の畑の管理を和子さんと行い、週末には孫の容太郎くんと畑で会うという楽しみもできた。容太郎くんは歩けるようになると、ほどなく、はだしで畑に入り、土遊びを始めていたと言う。現在でも友達を呼んで、共にじゃがいも掘りをしたり、ミミズを関心深気に観察したりと、農業に対する関心も高い。

父の参加により、菜園は新たな段階に入る。暁子さんによれば、父が牛糞(ふん)や山からいただいてきた腐葉土を畑に入れてくれたことにより、収穫量が大幅に増えた。

中本暁子さん・容太郎くん、川島弘之さん・和子さん親子

弘之さんは農家の出身で、幼いころから土いじりになじんでいた。土がないと落ち着かないと言う。教員生活の合間に、庭先でずっと野菜作りをしてきた。しかし、全く苦労がなかったわけではない。秋蒔(ま)きで越冬させねばならない三度豆(さんどまめ)は、この畑ではその時期に蒔くと枯れたり、カラスに食べられた。試行錯誤を繰り返しながら、遅蒔きにして5月に収穫することにした。

また、容太郎くんのリクエストに応えて作り始めたスイカも、最初の2年はうまく実がならなかったが、摘果(てきか)の工夫を重ね、昨年は10玉近く収穫できた。基本的に無農薬で有機肥料しか使わないので、安心して大根の葉っぱも食べられるし、何といっても、植物が育つのを見守る楽しみは農耕民族のDNAでしょうね、と暁子さんは言う。

今年は冬が寒く氷点下の夜になり、菜花(なばな)は全滅し、ほうれん草も乾燥してしまった。大根は地面から下は食べられたものの、地上に出ている部分は凍ってしまい、食べられなかった。自然に左右されることが多い野菜作りだが、親子3世代、親の背中を見ながら、土となじむ習慣は、脈々と受け継がれているのではなかろうか。(筑波学院大学教授)

「エノコログサ」の名前の由来は? 《続・平熱日記》106

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【コラム・斉藤裕之】アトリエには冬を越すために置いてある鉢が3つ。食べ終わった後の種から生えたアボカド。これは樹齢20年ぐらい。数年前に買ったレモン。それから一番古くからあるブーゲンビリア。どれも大ぶりの鉢で結構な重さがあって、背丈は40~50センチほど。

薪ストーブの近くに置いたせいか、レモンは小さな白い花をこの冬中絶え間なく咲かせていて、アボカドも大きな葉を茂らせている。ブーゲンビリアも若芽を出して元気そうだったのだが、だんだんと葉が少なくなってきた。落葉しているわけでもなく不思議に思っていたら、ある日、犬のハクが葉を食べているのを見つけた。

エノコログサという雑草がある。ネコジャラシとも呼ばれて馴染(なじ)みのある草だが、エノコロ、すなわち犬コロの尻尾に似ているところから名前が付いたといわれる。

しかし、犬は胃の中をきれいにするのにこの草を好んで食べて吐き出す。少なくとも我が家にいた犬はすべてそうだった。犬コロが好んで食べるから、エノコログサと名付けられたと私は勝手に考えている。しかし、ブーゲンビリアの葉を食べる犬は初めてだ。

まるで犬コロの常備薬

ところで、授業もそろそろ終わりに近づいてきて、毎年、最後の授業には何か気の利いた話でも一席ぶって…と思うのだが。「ありがとうございました。私のこと忘れないでね!」と言って、教室を後にする生徒たち。

多分忘れないけど、正直に言うとほとんど名前を憶えていない。ここ数年は悪気があるわけでもなく、本当に名前を覚えられないし、覚える間もなく1年が過ぎるのだ。それから、何人かは覚えているとか、逆に何人かは覚えていないというのはまずい。例えば廊下ですれ違いざまに、「私の名前覚えていますか?」と聞かれることがある。「〇村〇子!」と適当な名前を言う。

その名前があまりにも昭和過ぎて、相手も笑っている。もしもこの時2人連れだった場合、1人は覚えていて2人目目は覚えていないとなると、生徒は傷つく。教師たるもの常に公平でなくてはならない。だから誰の名前も覚えていないということにしたわけだ。

さてエノコログサは、まるで犬コロの常備薬のように、真冬でもほんの少しだけ律儀に緑の葉を残している。ハクもそれを食べてはオエオエやっている。よく見ると、昨年の穂がそのまま立ち枯れて、早春の風にそよいでいる。その形は麦に似ていて、実際に食用になると聞いたことがある。

ウクライナの小麦の穀倉地帯の地質を「黒土」と習ったことを思い出す。テストに「〇〇戦争はなぜ起こったか?」という質問があったら、「人間が愚かだから」と今なら書く。

結局、今年も最後の授業は特に何も言わずに終わってしまった。そろそろ3つの鉢も外に出そう。(画家)

公有地売却に見る「逃げ」のつくば市長《吾妻カガミ》129

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つくば市役所正面玄関サイド

コラム・坂本栄】つくば市が総合運動公園用地跡の売却要項を発表しました。この土地をどうするかは五十嵐市長の政治案件ですが、売却の手順にはおかしな点がいくつかあります。売却に反対する市民団体は市の動きに怒り、市長解職(リコール)運動を開始しました。これから数カ月間、つくば市は騒々しくなりそうです。

事業提案(プロポーザル)方式で行われる売却の詳細やスケジュールについては、「一括売却へ10日公募開始 つくば市旧総合運動公園用地」(3月8日掲載)、「一括売却へつくば市公募開始 リコール運動へ市民団体は受任者集め…」(3月10日掲載)をご覧ください。

市民の声も議会の役割も無視

おかしな点その1は、売却が市民の支持を得ていない(市民の声から逃げている)ことです。コラム125「公有地売却に見る つくば市の牽強付会」(1月31日掲載)でも書いたように、市が行ったパブリックコメント(意見募集)では、77人のうち売却に賛成は2人、残りは反対か対案提示か分類不可でした。2択方式(賛成か非賛成)で分けると、賛成はたった3パーセントです。

パブコメではサンプルが少ないから、住民投票とか無作為アンケート調査で改めて市民の声を聴いてみよう―というのが五十嵐流だと思いますが、わずかな賛成にもかかわらず、市長は民間売却に打って出ました。きちんと調査するのが恐かったのでしょうか?

おかしな点その2は、市が事実上保有する用地の売却を議会に諮らなかった(議会から逃げている)ことです。その理屈は、土地は都市開発公社(市の不動産部門)が所有し、市の帳簿に記載された財産ではないから、議会の同意はいらない―だったそうです。議会手続をきちんとするのが恐かったのでしょうか?

4年前、五十嵐市長は「大型事業の進め方に関する基本方針」をまとめ、ビックプロジェクトを進める際には「民意の適切な把握」「議会への適切な報告」をきちんとやると宣言しました。公有地処理は大型事業ではありませんが、民意把握と議会了解の大事さは同じはずです。民意と議会を無視した市長は、自分で定めた市政運営の基本を自ら捨てたようです。

市民団体が掲げる5つの罪状

五十嵐市長はどうして運動公園用地跡の売却にこだわるのでしょうか? 「五十嵐市長リコール住民投票の会」記者会見リリースに面白い数字が出ています(青字部をクリックすると出てきます)。

市長リコール団体が「罪状」として挙げているのは、①運動公園用地の民間一括売却、②センタービル改修事業の不手際、③市政を批判した元市議提訴、④市長が受領した多額の政治献金、⑤市長1期目の退職金辞退―の5点です。「エッ」と思ったのは④の金額の多さです。

茨城県選挙管理委員会に提出された政治資金収支報告書によると、2016年度(1回目の市長選挙の年)4397万円、2017年度1086万円、2018年1041万円、2019年度1440万円、2020年度(2回目の市長選の年)2651万円―だったそうです。政治資金と土地売却は何か関係があるのでしょうか?(経済ジャーナリスト)

手こぎボート、モーターボート、ヨットとの出会い 《夢実行人》6

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【コラム・秋元昭臣】小学生のころの話。春になると、土浦市内を流れる桜川には色とりどりのボートが浮かび、土手には舞台もできました。花見は土手に敷物を広げて弁当。ボートをこげない母は、弟に「いつかボートに乗りたいね」と話していました。

中学生のころの話。父や友人たちが入る土浦中学(現土浦一高)ボート部が、桜川畔の貸しボート屋「鈴木ボート」で、ヨット「早風号」を打つ(作る)ことなりました。私はボート屋の兄さんと顔見知りになり、小遣いをためてボートを貸してもらいました。桜川を下り、常磐線の鉄橋をくぐりると霞ケ浦が見え、波も風も大海のようでした。

高校(土浦一高)時代の話。創立間もないヨット部に入部。当時、事業用以外の小型モーターボートは免許がなくても運転できました。弟の高校入学祝いのときに小型を借り、霞ケ浦に出たのがモーターボートの初体験でした。

大学時代の話。ボートを借り、コウモリ傘を帆代わりにして遊びました。東京からの友人が浮き輪を持って来て、「これで大丈夫かな~」には笑いました。当時、ライフジャケットは貴重品。一高ヨット部で使っていたのは、霞ケ浦航海軍空隊予科練生が着用していたお古でした。

「ま~、ボートは木製だから、転覆しても浮いている。でも、オールだけは流さないで!」。これがボート屋のアドバイスでした。そこには下駄箱があり、靴を預けて乗ったものです。乗り逃げされないためだった? 船に乗ること=家に上がること? それが作法だったのかもしれません。

家族5人でヨット「早風号」を操船

ヨット「早風号」が完成すると、鈴木ボートで父の帰りを待って、家族5人で乗りました。空冷式の小型船外機を掛けて出発。桜川から霞ケ浦に入るところで、マストを立てる作業は楽しいものでした。

コースは風により違いましたが、霞ケ浦の(土浦海軍)航空隊跡沖から引き返すのが一つのルートでした。帆は2枚あり、小さな前帆(ジブセール)は子供たちが担当。大きな帆(メンセール)は父が舵(かじ)を取りながら操っていました。今に比べたら「ヨットまがい」でしたが、当時は霞ケ浦唯一。帆は地元「香取テント」製でした。

鈴木ボートの話では、霞ケ浦で初めてヨットを走らせたのは、茨城大学農学部の先生だったそうです。「早風号」は何度も改造され、私の一高ヨット部時代も、帆走の姿を見ることができました。(元ラクスマリーナ専務)

事実と推測は分けて考える 《続・気軽にSOS》105

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【コラム・浅井和幸】事実と推測は分けて考えることが大切です。ですが、以外にこれは難しく、私たちは普段の生活で事実と推測をあいまいにしたまま生活しています。もちろん、事実と推測の間にきっちり線を引くことは難しいので、二つを分ける境界線の識別は難しいでしょう。ですが、事実とは明らかに隔たりのある推測を事実と思い込んで考えてしまうこと、感じてしまうこと―が多々あるものです。

自分から笑顔であいさつをしたのに、それに対して相手はそっけない素振りだった。だから相手は自分を嫌っている。「そっけない素振り」は事実ですが、「嫌っている」は推測ですね。そもそも、あいさつもあまりできないほどコミュニケーションが苦手なのかもしれません。いつもはもっと素っ気ない人なのに、いつもより笑顔を作ろうと努力した結果なのかもしれません。(以前、コミュニケーションが苦手な美人がお高くとまっていると思われるというコラムを書いたことがあります。)

人を見るとほえる犬、かむ犬がいます。威嚇をしてくるぐらいに、強気な犬であると考える。「ほえる」「かむ」は事実で、「強気」は推測あるいは評価ですね。強気どころか怖がりでビクビクしているから、ほえたりかんだりする犬はいます。

「自分が相手を嫌いだ」「相手が自分を嫌っている」

学校に行けないのは不真面目だからでしょうか。もしかしたら、真面目過ぎて、全てを完璧にこなさなければいけないと、重く考えていて学校に行けなくなったのかもしれません。

認知のゆがみや物事への決めつけは、とても生きづらい悪循環を起こすことがあります。周りとうまくいかないことが多い場合は、事実と推測の区別がついているか、もう一度考え直す必要があるかもしれません。もしかしたら自分は、目が合ったらけんかを売ってきたと決めつける、不良少年のような感覚で生活しているかもしれないということを。

防衛機制という言葉を聞いたことがあるでしょうか。保健体育の授業で習ったかもしれませんが、人がストレス状態になるとき、自分を守るための心のメカニズムです。その防衛機制の一つに「投影」というものがあります。自分の中にあるものを認めたくないときに、それを相手のせいにする心の動きです。「自分が相手を嫌いだ」ということを認められず、「相手が自分を嫌っている」というようなものです。

世界は自分を嫌っている、社会はたいしたことができない、周りの人たちは無能だ、みんなが悪意を持って接してくる―などなど。実は、自分自身が受け止めきれないために認められない、自分自身への評価なのかもしれませんよ。(精神保健福祉士)

当たり前に介助を受けられる安心感 《電動車いすから見た景色》28

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【コラム・川端舞】私は障害のため、口周りの筋肉をうまく使えず、食事を食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまう。それが原因で、子どもの頃は周囲から怒られたり、からかわれたりしていた。きちんと唾液や食べ物を飲み込めるようにリハビリをし、親にも「毎回、意識して飲み込みなさい」と言われ続けた。

しかし、勉強や遊びに集中すると、いつの間にか、よだれで服を汚してしまう。親からは「よだれは努力次第で直せる」と言われたが、どんなに気を付けていても、少し気を抜くとよだれは出てしまい、再び親に注意されることの繰り返しだった。中学・高校時代は、よだれで制服を汚してしまったことを親に知られないように、毎日、親が仕事から帰ってくる前に、自分でハンカチを濡らし、制服の汚れを拭いていた。

大人になった今でも、食べこぼしたり、よだれをたらしたりしてしまったとき、どうすればいいのか分からなくなる。服を汚してしまったのを介助者に見られるのが恥ずかしい。

しかし、介助者は嫌な顔一つせず、当たり前のように、食べこぼしを拾ったり、ティッシュでよだれを拭いたりしてくれる。私が無意識に謝ると、「なぜ謝るの?」と逆に聞かれることもある。「介助者は舞さんの介助をするために、舞さんの家に来ているのだから」と。自分が悪いから出てしまうのだと思っていたよだれを、ただの生理現象と捉え、さりげなく片付けてくれる介助者を見ると、「今の自分のままでいい」と言われているようで安心する。

「当たり前」を絶やさないように

障害者に対し、「助けてもらって当たり前に思うな」と言われることがあるが、食事をする、服を着替える、買い物に行くなど、生活するために必要な介助を当たり前に受けられることが、「自分はここにいていいのだ」という安心感につながる。

でも、その「当たり前」は昔からあったわけではなく、今まで多くの障害者たちが社会と闘い、重度障害者が介助を受けて1人暮らしができる仕組みを作った上に、現在、私の気持ちを大切にしながら生活を支えてくれる介助者がいるからだ。その「当たり前」に感謝しながら、「当たり前」を絶やさないために、私のできることをしていきたい。

その1つが、自分のような障害者のありのままの暮らしを社会に発信することで、介助者のサポートがあれば、どんなに障害が重くても1人暮らしできることを多くの人に知ってもらうことだと私は思っている。(障害当事者)

小学6年生の東京大空襲 《くずかごの唄》104

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【コラム・奥井登美子】半藤一利氏の著書に「15歳の東京大空襲」というすさまじい内容の体験本がある。私たちは、小学6年生の夏休み、空襲に備えて東京に子供がいてはいけないと、3~6年生が強制疎開させられた。

学校ぐるみで学童疎開した6年生は、疎開中は寮母さんが足りないので、下級生の面倒をみたり、お医者さんに薬を取りに行ったりと、班長さんと言われながら雑用をこなした。

1945(昭和20)年3月。中学の受験日に備えて、何日か前に一斉に帰京しなければならない。まさか3月10日に東京大空襲があるとは知らず、2~3日前に帰京した人が多い。東京大空襲では、墨田区、台東区、江東区などに、334機の爆撃機が爆弾を落として8万5000人が焼死している。

敗戦から3年経って、小松川高校に転校した私は、友達が空襲体験を語りたがらないのに驚いた。あまりに過酷な体験なので思い出したくないのだ。

やけど跡を懸命に隠す少女

家族が全員壕(ごう)の中で亡くなったのに、自分は生き残ったという人も何人かいた。防空壕という名の、手堀り壕の中は狭い。10人ぐらいでいっぱいになり、中から蓋を閉められてしまう。疎開していて防空壕の仕組みの分かっていない6年生は、火の迫ってくる中、どうしてよいかわからずに立っているうち、蓋が閉まって、中に入れなくなってしまった。家族は壕の中で蒸し焼きになったが、1人生き残ることができたという。

火をよけてガード下に逃げ、3歳の弟の手を握っていたら、手が冷たくなってくる。不安になってよく見たら、弟は死んでいたという友だちもいる。酸素の少ない空気が3歳の子供の背の高さに流れて、酸欠で亡くなってしまったのだろう。背の高さで生死が分かれてしまうこともありうるのだ。

やけどの傷跡を、懸命に隠している少女も何人かいた。みな残酷な体験を忘れようと、必死になって楽しいことだけを探し回っていた。はしゃぎ屋の敏ちゃんが、30年後に「ガラスのうさぎ」を書いて話題になった、高木敏子さんだ。彼女と同じような体験をした少女たちがたくさんいたことを忘れてはいけない。(随筆家、薬剤師)

トナリエキュート1階の「魚丼屋」《ご飯は世界を救う》45

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【コラム・川浪せつ子】TXつくば駅を上がったところの商業施設「トナリエキュート」。1階にあるパン屋さんのカフェにはよく寄りました。ところがそのお店が2月中旬で閉店。コロナ禍でお客さんが減ったためなのでしょうか。悲しい出来事でした。1階のフードコートに入ったことはありませんでした。

2月19日午後、つくば市主催の「ショートムービーコンペディション」(2月26日付)がつくばエキスポセンターのプラネタリウムで開かれました。私はその選考委員。その前に食事をしようと、フードコートに立ち寄りました。私はちらし寿司が好きなのですが、外食ではあまりお目にかかれません。でも、ありました。「魚丼屋」さんが。

注文したのは「漬けばらチラシ・アボカド丼」。お値段はとってもお手頃。大好きなちらし寿司に、これまた大好きなアボカド! かわいいお魚の小さな入れ物にお醤油。何とも言えない幸福感。お味もグー。

コロナで映像業界も美術業界もピンチ

今回のコンペはグレードが高く、プロの方が多く出展してくださったようです。審査委員長の中山義洋監督さんが「コロナでは、飲食業界より映像業界の方が大変です。失業率ほぼ70パーセント」とスピーチ。これには驚きました。そのため仕事が減ってしまい、プロの方がこのコンペに出展して下さったのかなと。

コロナで仕事が激減したのは映像業界だけではありません。美術業界もピンチです。画家さんたちの出展するギャラリーも、閉鎖する所が増えています。絵が売れない。そして有名な先生が教えるカルチャー教室も人が減っています。

暗い話で終わりたくないな。

広島に原爆が落ちた翌年、がれきの中に若木が伸びてきたそうです。植物は強いですね。あの日、広島にいた実父がそう話してくれました。希望は捨てないでください。(イラストレーター)

原子力施設攻撃は人類への犯罪行為だ 《邑から日本を見る》107

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門出彩るサイネリア =那珂市のしどり農園

【コラム・先﨑千尋】プーチンのとどまるところを知らないウクライナへの侵略。強大な核戦力を背景にし、2月末には核兵器運用部隊を戦闘警戒態勢に置くよう命令した。さらに停止中のチェルノブイリ原発を占拠し、今月4日にはウクライナ南部のザポロジエ原発を武力で制圧した。同原発は6号機まであり、欧州で最大。ウクライナ総電力の2割を供給している。同国のクレバ外相は「爆発すればチェルノブイリ事故の10倍の被害になる」と警告している。

運転中の商用原子力発電所への軍隊による攻撃は史上初めて。国際法やジュネーブ条約・議定書に明確に違反する行為だ。運転員はロシア軍に銃口を突き付けられながら運転を続けている模様だが、心身ともに疲労して、正常な運転操作やトラブルへの対応ができなくなる可能性が高い。また、運転を素人が強制的に止めれば、最悪の場合、東京電力福島第1原発事故の時のように原子炉が炉心溶融後に原子炉建屋が爆発・崩壊することもあり得る。変電所や送電網が破壊されれば原発の運転も不安定になり、不測の事態が起きることも想定される。

最新の情報では、チェルノブイリ原発では外部からの電源が切断され、非常用電源で動かしているようだが、放射能漏れなどが懸念される。ザポロジエ原発で外部電源が遮断されたら、ロシアも含めてヨーロッパ全体に被害が及ぶ。ロシアは、訓練を受けた原子炉操作員を制圧した発電所に配置し、ウクライナの操作員から引き継ぐことを考えているのだろうか。誰でもわかるように、素人は手を出せない。

原発は何よりも「おっかない」代物

プーチンの狙いは何か。原発の制圧で、電力という市民生活の要を押さえ、ウクライナのゼレンスキー政権に圧力をかけ、核戦力に言及し、欧米に圧力をかけるねらいのようだ。毎日、ウクライナの人たちが殺害され、街が破壊され、他の国に避難する映像をテレビで見せつけられているが、プーチンはよその国に「中立化、非武装化、政権交代」を要求し、住宅や病院、学校までも破壊している。聞く耳を持たない彼の暴虐をどうすれば止められるのか。胸が痛むばかりだ。

IAEA(国際原子力委員会)のラファエル・マリアーノ・グロッシ事務局長は、2020年に原子力の安全と防護の7つの柱を表明した。それは、原子炉、核燃料プールなどの施設の物理的な安全性が維持されなければならない、運営スタッフは安全及びセキュリティの義務を果たし、不当な圧力から解放された意思決定を行う能力を有するなど、基本中の基本なのだが、それがプーチンにいとも簡単に破られてしまった。「人が作ったルールは人によって破られる」ということだ。

わが国の原発はどうか。当然だが、今回のような戦争を想定した防御策は講じていない。自然災害も含めて有事の際、原発は巨大なリスクになると肝に銘じる必要があることをウクライナ情勢は教えている。本県には日本原電東海第2発電所があり、会社は再稼働を目指しているが、すぐ近くに住んでいる私にとっては、原発は何よりも「おっかない」代物である。(元瓜連町長)