【コラム・田口哲郎】
前略

つくば市の洞峰公園は手入れがゆきとどいていてきれいなので、たまに散歩します。ある朝方、遊歩道脇の草むらにカモがあおむけに転がっていました。おそらくネコかカラスにやられたのでしょう。思わず目をそらし、かわいそうにと心の中で手を合わせました。でも、こんな近代都市のなかの公園も「自然」なのだなと感じました。この地球、いえ宇宙はあまねく自然の摂理に支配されていますから、当然なのですが。

大学に行くときに上野の不忍池の脇を通ります。コロナ禍終息がまだ見通せず、すべての講義がオンラインでしたが、資料を借りに行く場合は、どうしてもキャンパスまで行かねばなりません。不忍池にはカモやハトに混じってユリカモメがいて、手すりにとまって休んでいます。このユリカモメ、東京都の鳥ですが、『伊勢物語』のあずまくだりに都鳥(みやこどり)として出てくることは以前書きました。

東京という街は1000年余りでかなり変わりました。東国のひなびた土地だったのが、太田道灌(おおた・どうかん)のころから里になりはじめ、江戸時代、明治・大正を通じて世界有数の大都市に。戦争で焼け野原になって復興したけれど、今度は目に見えない微細生物のせいで、大きな変化をせまられている。このユリカモメはそんな人間社会の変化をあのつぶらな瞳で見つめてきたのです。

人間が社会を必死につくってはこわしてまたつくる苦労をしているのを、悠然と眺めている姿に「自然」を感じます。人間社会も有無を言わさずに「自然」なのかもしれませんね。いまだに人の世は食うか食われるかの原理から脱していないように思えます。洞峰公園のカモが身をもって教えてくれたことです。動物は生きるためには食わなきゃいけません。摂理ですから仕方がない。でもそのどうしようもない営みを反省するのは、人間だけができることとも言えます。

罪なき「自然」と人間

遠藤周作はキリスト教作家ですが、小説やエッセイの主なテーマのひとつは原罪です。人間は生きているうちに、知らず知らずのうちに他人を傷つけてしまっている。意図して傷つけたなら悔いる理由もあるが、無意識に傷つけたら傷つけたという意識すらないので、もっとも恐ろしいというのです。

この生まれながらにしての罪というテーマは、人間が生きているかぎり必ず生まれるものです。夏目漱石の『こころ』の先生が自殺した理由も同じ罪の意識でしょう。人間は自然の摂理から逃れられないのですから、罪からも逃れられないわけです。

キリスト教はこの問題にとくにこだわって考えてきたように思います。摂理だから罪つくりは仕方ないと割り切るのではなく、悔いあらためて神との対話のなかで罪を消化しようとする。これはあまり原罪のような意識を持たない日本人にはよく分からない話です。とはいえ、罪は絶対に悪いことに変わりありません。罪なき「自然」は決して幻想ではない、と思うのです。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)