【コラム・浅井和幸】事実と推測は分けて考えることが大切です。ですが、以外にこれは難しく、私たちは普段の生活で事実と推測をあいまいにしたまま生活しています。もちろん、事実と推測の間にきっちり線を引くことは難しいので、二つを分ける境界線の識別は難しいでしょう。ですが、事実とは明らかに隔たりのある推測を事実と思い込んで考えてしまうこと、感じてしまうこと―が多々あるものです。

自分から笑顔であいさつをしたのに、それに対して相手はそっけない素振りだった。だから相手は自分を嫌っている。「そっけない素振り」は事実ですが、「嫌っている」は推測ですね。そもそも、あいさつもあまりできないほどコミュニケーションが苦手なのかもしれません。いつもはもっと素っ気ない人なのに、いつもより笑顔を作ろうと努力した結果なのかもしれません。(以前、コミュニケーションが苦手な美人がお高くとまっていると思われるというコラムを書いたことがあります。)

人を見るとほえる犬、かむ犬がいます。威嚇をしてくるぐらいに、強気な犬であると考える。「ほえる」「かむ」は事実で、「強気」は推測あるいは評価ですね。強気どころか怖がりでビクビクしているから、ほえたりかんだりする犬はいます。

「自分が相手を嫌いだ」「相手が自分を嫌っている」

学校に行けないのは不真面目だからでしょうか。もしかしたら、真面目過ぎて、全てを完璧にこなさなければいけないと、重く考えていて学校に行けなくなったのかもしれません。

認知のゆがみや物事への決めつけは、とても生きづらい悪循環を起こすことがあります。周りとうまくいかないことが多い場合は、事実と推測の区別がついているか、もう一度考え直す必要があるかもしれません。もしかしたら自分は、目が合ったらけんかを売ってきたと決めつける、不良少年のような感覚で生活しているかもしれないということを。

防衛機制という言葉を聞いたことがあるでしょうか。保健体育の授業で習ったかもしれませんが、人がストレス状態になるとき、自分を守るための心のメカニズムです。その防衛機制の一つに「投影」というものがあります。自分の中にあるものを認めたくないときに、それを相手のせいにする心の動きです。「自分が相手を嫌いだ」ということを認められず、「相手が自分を嫌っている」というようなものです。

世界は自分を嫌っている、社会はたいしたことができない、周りの人たちは無能だ、みんなが悪意を持って接してくる―などなど。実は、自分自身が受け止めきれないために認められない、自分自身への評価なのかもしれませんよ。(精神保健福祉士)