【コラム・山口絹記】娘とふたりで山を登っていた時のことだ。娘に昔のことを聞かれ、「うーん、なんだっけ。思い出せないな」と答えると、「パパは何か望みをかなえちゃったのかもしれないね」と言われてハッとしたことがある。 この、「何か望むものを得た代わりに、大切な記憶を失くす」という設定は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』で主人公のバスチアンが体験するものなのだ。 娘と私の会話には、一緒に読んだ物語の登場人物がたびたび現れる。彼らは私たちにとって、よく知る共通の知り合いや友人のようなものなのだ。 そして彼らが会話に登場するたびに、私と娘の間で彼ら自身やその背景にある物語に対する印象が大きく異なっていることに驚かされる。 ひとつの物語でも、それを受け取った人によって抱く感情や印象が異なるのは、なぜなのだろう。質量のないことばが、私たち一人ひとりに届いたとき、それぞれに違った影響を与えるというのは、当然のことのようで、とても不思議な現象ではないだろうか。 私にもたれかかりながら、私の読む物語に耳を傾ける娘の身体からは、自然と感情が伝わってくる。緊張してこわばったり、笑ったり、身体が熱くなったり。私が気にもとめなかった場面に喜んだり、悲しんだり。私はそんな娘の変化にいちいち驚きながら本を読む。

誰かの物語を体験する行為

物語というのは、それに関わった人の数だけあり、そしてまた、それを受け取る人の数だけ存在する。私たちは、自分自身のひとつの物語しか生きることができないが、本を読むというのは、一時的にせよ、今、ここではないではないどこかで、誰かの物語を体験する行為だ。 そして、そんな物語を誰かと一緒に読むというのはとても特別な行為なのだと思う。きっと娘は、私と一緒に読んだ物語を忘れてしまうこともあるだろう。少しさみしい気もするが、それはそれでよい。 様々な物語が営まれる場所や登場人物というのは、いずれ彼女にとっての何か大切なものに置き換わるスペースになるのだと思う。だから、よいのだ。 一緒に本を読んでいるとき、ふと娘の顔をのぞくと、見たこともないような真剣な表情で挿絵をじっと見ていることがある。自分も大好きな場面で娘が興奮していると、ついつい夜遅くまで一緒に読みふけってしまう。 「まだ読みたい」と言いつつ眠ってしまった娘を抱えて寝室に運んでいると、こんな時間がいつまでも続いてくれたらいいと思ってしまうのだが、娘との読書を卒業しなければならないのは、私の方なのかもしれない。(言語研究者)