月曜日, 5月 12, 2025
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人材の育成・発掘・登用:過去に学ぶ 《文京町便り》5

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】岸田首相は、2021年9月の自民党総裁選からの「新しい資本主義」を、22年6月公表の骨太方針で重点分野は「人への投資」と具体化した。「人への投資」を抜本的に強化するため、3年間で4000億円規模だ。この金額が妥当・十分かどうかも問題だが、誰がこうした人材育成を担うのか。

社会的な行き詰まりを振り返ると、江戸時代末期が参考になる。幕藩・鎖国体制下の江戸時代の後期には、「読み書きそろばん」の修得を第一義とした藩校や寺子屋・道場などが全国に普及していた。一方で、蘭学などの実践的な学問も、長崎・出島や大阪・適塾などの限定された機関で教授されていた。

さらには、西南雄藩は武器調達のみならず、実用知識を目指して、自藩の若者を留学生として(幕府には秘密裏に)派遣していた。

こうした動きは全国に広がり、幕府も各藩もそれぞれの窮状を打破するために(日本全体での国難という認識よりも、自藩の立て直しが優先されていた気味があるが)、積極的に人材を登用し始めた。幕府が派遣した使節団を見てみよう。

津田梅子、福沢諭吉、渋沢栄一…

第1は、安政7年1月(1860年2月)の遣米使節団で、正使、副使、目付・小栗忠順など総数77名が米艦に乗船。軍艦咸臨丸(かんりんまる)に、軍艦奉行、船将・勝麟太郎(海舟)など91名が随行。年少の津田梅子は日本人初の女子留学生として、福沢諭吉も随員として参加。

第2は、文久遣欧使節団で、文久元年12月(1862年1月)、総数38名がヨーロッパに派遣された。日本人として初めて第2回ロンドン万博を見学し、随員には福沢諭吉や福地源一郎もいた。

第3が、第2回文久遣欧使節団で、文久3年12月(1864年2月)、総勢34名がフランスに向かい、パリ協約の成果はあったが幕府は破棄している。

第4は、慶応3年1月(1867年2月)の訪欧使節団で、第2回パリ万博への正式参加を主目的に、将軍慶喜の弟昭武が名代だった。渋沢栄一、箕作麟祥、佐野常民などが同行していた。しかし、慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還の報を1868年1月に受け取ることになった。

人材は登用すべきもの

このほか、幕府最初の海外留学生11名(榎本武揚、赤松則良、津田真道、西周など)は、文久2年9月(1862年11月)、長崎からオランダに向かった。萩藩士・伊藤博文、井上馨など5名も、文久3年5月(1863年6月)、横浜から英国に密出国している。

こうしてみると、その後活躍した人物は、海外渡航という千載一遇のチャンスをリスクとみなさずチャレンジした随員や脱藩者などに多い。派遣した幕府や各藩では当初の主目的は果たせなかった(見返りは得られなかった)が、結果的には、その後(明治期)の日本にとっては不可欠になった。散在していた有為の人材を発掘・登用できたのである。

私の結論は、人材は育成されるものではなく、登用すべきものである。問題は、だれがどのように発掘するか、である。(専修大学名誉教授)

「イナリヤツ」とよばれる谷津田《宍塚の里山》90

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マルバノサワトウガラシ(絶滅危惧Ⅱ類)

【コラム・嶺田拓也】土浦市の宍塚大池の西側には約25アールの通称「イナリヤツ」とよばれる谷津田があります。谷津田とは斜面林(里山)に囲まれた盆地状の地形に展開している田んぼを指します。イナリヤツは5枚の田んぼから成る谷津田で、昭和初期から地元の青年会によって稲作が行われてきました。

戦後、青年会の人数が減ってからは、地元自治会により耕作されてきましたが、1954年からは宍塚大池の近隣に住むお1人の方によって、ほそぼそと耕作が続けられてきました。しかし高齢化などに伴い、2001年以降徐々に休耕する田んぼが増え、2008年にはすべての田んぼが放棄されるようになりました。

イナリヤツは耕作が放棄されたあとも、周辺の里山に降った雨が地下に浸透して谷津奥部や台地斜面の下部からしみ出すことで湿地状態を維持し、通称イナリヤツ湿地と呼ばれていました。この湿地には希少な湿生植物も見られたことから、宍塚の自然と歴史の会では茨城県自然博物館などと共同して、2012年から定期的に湿地内の植生を調査しています。

これまでのところ、湿地全体で150種以上の植物が確認され、マルバノサワトウガラシやミズニラなど、全国や茨城県で絶滅危惧種に指定されている希少な湿生植物10種の生育が確認されました。一方、外来種のセイタカアワダチソウやキショウブなどの定着も認められました。また、ヤナギ類やガマなどの大型で繁殖力も強い植物が繁茂し、何も手を加えないと小型の希少な湿生植物が生育しにくい環境に移行していくこともわかってきました。

絶滅危惧種などをモニタリング

そこで、絶滅危惧種の保全を目的に湿地の維持管理作業も行っています。具体的には、数年おきに刈り払いを行ったり、トラクターなどで部分的に耕したりすることに加え、定期的にセイタカアワダチソウやキショウブなどの外来種の除去も実施しています。

ヤナギ類など大型の植物の掘り取りや除去は大変な作業を伴うため、CSR活動(企業の社会的な貢献活動)との連携や、学生サークルや里山体験実習プログラム生にも参加してもらい、多くの人数をかけて活動しています。近年では、降雨が少なく大池の水位低下などにより乾燥化が進んでしまう年や、逆に長雨が続き湿地全体が10センチ以上も冠水してしまう年など、湿地の環境も年々変動しています。

私たちの会では、今後もイナリヤツ湿地に見られる絶滅危惧種などのモニタリングを継続し、湿地環境の変化にも対応しながら、適宜必要な手を加え、この希少な湿地環境を後代に残すべく活動を続けていくつもりです。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

ガラガラ、ごめんください 昔の日本の訪問作法《遊民通信》43

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【コラム・田口哲郎】

前略

先日の夕方、再びつくばセンター地区のソトカフェを歩いていたら、鳥の鳴き声が広場全体に響き渡っていました。大きな音量で、絶え間なく鳴いているので、なんだろうと思ったら、街路樹にスピーカーがつけられていて、そこから流れている録音された鳥の声でした。最近、街路樹にムクドリの大群が押し寄せて、騒音や糞(ふん)害をもたらして問題化しているので、その対応でしょう。

ムクドリの天敵であるワシやフクロウの鳴き声を流して、ムクドリが木に集まらないようにしているのですね。その効果なのか、わたしが歩いたとき、ムクドリは来ていないようでした。都会にある自然を感じさせますね。人間の生活圏にムクドリがやってくる。動物との共生は理想だけれども、それがゆき過ぎるとご遠慮いただく。せっかくの訪問なのですが、なんとも心苦しいなあと思います。

ところで、昔の映画やドラマを見ていて気になることがあります。かつて日本の家では玄関に鍵をかけなかったのではないでしょうか。現在はオートロック、玄関のインターフォンという二重のロックまであるところがあります。ピンポーン、「どなたですか?」、「誰々です」、「どうぞ」です。

けれども昔は、扉をガラガラ開けてから、「ごめんください」です。ご近所に親類や顔馴染(なじ)みが住んでいたので、治安がよく、まず扉を開けるという訪問方法が許されていたのです。今はお隣さんの氏名さえ知らないということも珍しくないので、ロック解除して放っておくわけにはいきませんよね。

個人主義の台頭と地域共同体の衰退

1970年代から個人主義が強まって、イエ制度や地域共同体は衰退しました。旧来のイエ、ムラ制度から個人が解放されることは良いことなのですが、それゆえにわずらわしいながら、気心の知れた人たちとのささやかな交流は無くなりました。大した用はないけれど、ふらっとご近所に立ち寄り、ガラガラ、ごめんください、あらいらっしゃい、お茶でもあがってって…。そんなコミュニティが現実生活にも確かにありました。

さらに小津安二郎の映画を見ていて思ったのは、セリフのほとんどが「挨拶(あいさつ)」なのです。現在も交わす、おはようございますから始まって、おやすみなさいに至る一連の挨拶です。それが、昔は家族も多かったし、親戚が同居したり近くにいたし、ご近所さんがやってくるので、今よりもかなり多い回数交わされる。

人間同士のコミュニケーションの結構な部分が、実はこうした決まりきった、なんてことはない会話でできているのではないかとふと思いました。深い話なんてあまりしなくて、いいお天気ですね、お加減いかがですか、そんなやりとりから、雨が続きますね、おじいちゃんが昨日から風邪でね、とかそんな話になり、自然にお互いに助け合うようになる。

そうなると、今のようなみんなが孤独な状態はなくなるような気がします。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

ヨーロッパ由来の市民農園 《菜園の輪》5

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篠竹と三月豆

【コラム・古家晴美】民俗学で注目されているのが、日本の農村や都市で利用されてきた自家用野菜を栽培する畑、すなわち「前栽畑(せんざいばたけ)」と、主に非農家の方々が携わってきた「市民農園」の共通点である。歴史を振り返ると、「前栽畑」が在来のものであるのに対し、「市民農園」は20世紀前半のクラインガルテン(農地賃借制度)などヨーロッパ由来のものだ。

が、これらの自家用の小規模「農」は、少量多品種、無農薬・有機栽培への志向など、自宅で「食べる」ということを前提としており、均一化(質・出荷時)・大規模化・単作化を志向している経済活動主体の「農業」とは異なる。

今回は、つくば市内の市民農園で野菜栽培をされている中本暁子さんご一家の「梅雨編」だ。お勤めの暁子さんに代わり、この時期、ご両親が晴れ間を見計らって畑仕事に精を出す。雨天が続くと、1週間に1回ぐらいしか来られず、雑草が生い茂ってしまうときもある。副業としての小規模「農」では普通かもしれない。

市民農園で30平方メートルという、限られたスペースをいかに活用するかを共に考えることは、家族の楽しみの一つだ。現在、2畝(うね)あるじゃがいもを、今日収穫したあとは、地這えのカボチャとズッキーニがつるを伸ばすことができるようにと、あらかじめ畝(うね)の間に植えておいた。

ジャガイモ、近くの三月豆(絹さや)も、今日、取り除く予定だ。弘之さんが、処分する豆とともに、枯れた小枝の塊を片手に持っていた。自宅近くの藪(やぶ)から取ってきた篠竹(しのだけ)だ。三月豆の霜よけと、ツルを這わせるために挿し立てておいたのだ。

農家だった親御さんがそのようにしていたのを思い出して、それにならった。「市民農園」自体は外来のものだが、日本の民俗的知識・技術が息づいている。

「食」と「命」に触れ合う

ナバナやほうれん草があったところには、すでにピーマンとナスを3本ずつ植え、実が付き始めている。きゅうりは2本だ。それ以上植えると、食べきれなくなってしまうからだ。このように、食べる量から逆算して、植え付けするのも自家用野菜畑の特徴といえる。

そして今日の一大イベントは、ジャガイモ掘り。弘之さんが牛糞(ふん)と豚糞を投入し、栄養分豊かになった土から、容太郎くんは葉付きジャガイモもを次から次へと掘り上げ、満面の笑みを浮かべている。容太郎くんの好物であるスイカは、弘之さんが受粉して大切に育てている。また、暁子さんが蒔(ま)いたポピーは、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせている。

野菜ばかりでなく、花やハーブ、家族の好物など、市民農園で「食」と「命」に触れ合う楽しみのときは尽きない。(筑波学院大学教授)

有機農業の輪で循環する暮らしを 《邑から日本を見る》113

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有機農産物を販売する「地球畑」荒田店

【コラム・先﨑千尋】「農水省の事務次官は高校の後輩です」「えっ!」思わず息を飲んだ。

5月下旬、鹿児島市内と錦江湾、桜島を一望できるホテルの一室で、イモ焼酎を飲みながらの有機農業談義。相手は、「かごしま有機農業生産組合」代表の大和田世志人さんと、同組合直営店「地球畑」の代表大和田明江さん、鹿児島での農協運動の牽(けん)引者で二宮尊徳研究の泰斗、八幡正則さん。

今国会で、有機農業の農地を100万ヘクタールにするという「みどりの食料システム戦略」関連の法律と予算が通った。その先頭を走る枝元真徹農水事務次官を裏で支えてきたのが、鹿児島の有機農業生産者だったのだ。

世志人さんは現在、NPO法人全国有機農業推進協議会の理事長も務め、同協議会は昨年3月に「みどりの食料システム戦略に向けた提言書」を農水相に出している。提言には「森、里、川、海、自然環境を合わせた政策の統一を図る。充実した財政支援を押し出す。学校給食の有機化、無償化」などが掲げられている。そうだったのか。

「有機」は「勇気がいる」

鹿児島での有機農業研究会の発足は1978年。私たちも茨城の地で同じ頃に有機農業研究会を立ち上げている。当時、有機農業はまだ市民権を得ていなかった。私たちが「有機」という言葉を使うことに「勇気がいる」と言われていた時代だった。隔世の感がある。

大和田さんたちは、有機農業の仲間を増やし有機農業を広めていこうと、1984年に「かごしま有機農業生産組合」を結成し、地元の有機農産物を消費者に直接届けるために、持続可能な食料システムを構築した。8年後に「地球畑」を市内に開設し、現在は3店舗とカフェを持ち、ネット通販の楽天市場もある。

同組合に入っている生産農家は160人。栽培する野菜はおよそ100品目、果物は20。米、雑穀、茶も生産している。他に、組合では3か所に直営農場も持っている。生産者団体としては国内最大。生協や学校給食などへ出荷し、宅配事業も展開している。

「地球畑」の約束事は、鹿児島の生産者が作る旬の農産物を消費者に届ける、遺伝子組み換え、合成着色料などは使わない、加工品にはゼラチン、精製した砂糖を使用しないなど。

「地球畑」荒田店を見せてもらった。136平方メートルの店には、野菜、果物、日用品、調味料、米、雑穀、畜産物、卵、牛乳、茶、パン、魚などのほか、衣料品、せっけん、化粧品など日常の暮らしに必要なものが、所狭しと並んでいる。さながら有機食材と雑貨の百貨店だ。

「地球畑」の代表を務める明江さんは、岩手県陸前高田市の出身。私とは50年近い付き合いだ。学生時代に環境問題、有機農業に関心を持ち、“異郷”鹿児島の異邦人となり、夫の世志人さんと鹿児島の有機農業運動を引っ張ってきた。

自然と共生しながら命をつなぐ

「有機農業は『こだわりの農業』ではない。自然と共生しながら私たちの命をつなぐ食べ物を作るという、いわば『当たり前の農業』だ。有機農業の輪で循環する暮らしを目指したい」と語る。

6年前にがんにかかっていることが判明した。がんと向き合いながら、仕事に生かされる日々。「仕事を休んでも、がんは治らないでしょ」と開き直る彼女だ。

「朋(とも)有り遠方より来る。また楽しからずや」という孔子の言葉があるが、今回の久しぶりの語らいは、まさにそのようなものだった。八幡さんには生甘酒の作り方を教えてもらった。(元瓜連町長)

鎌倉街道とひまわり迷路《土着通信部》51

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夏至の日差しの下のひまわり迷路=つくば市下広岡

【コラム・相澤冬樹】某局の大河ドラマにあやかり、「鎌倉街道の13km」のタイトルで原稿を書いてもらえないか、研究者にお願いした。土浦市の上高津貝塚ふるさと歴史の広場の学芸員、比毛君男さんはかねて、「中世のみち 鎌倉街道」の企画展を担当し、市内の旧街道を熟知している。ちょうど土浦市内通過分が13km程度だろうとあたりをつけて持ち掛けたら、ほぼ的中の距離感だった。

比毛さんによれば、「茨城県内では、利根町、牛久市から阿見町・土浦市・かすみがうら市にかけて、つくば市の西部、桜川市の一部、ひたちなか市などに鎌倉街道と呼ばれる古道が伝えられて」いるそう。

土浦市内には鎌倉街道の伝承路があり、一部が「旧鎌倉街道」として市史跡に指定されている。そのルートは、市の南部では阿見町荒川本郷・荒川沖東・大房・中村西根・永国・天川・上高津周辺から桜川を渡ったと想定されているということだ。

で、頂戴したのが別掲の地図(本コラム用に再作成している)。ちょうど自分の勤務先近くだったことから、少し歩いてみることにした。

土浦市南部の鎌倉街道=比毛君男さん提供に基づき作成

花室川べりまで行って「源兵衛橋」を探しあてた。車で通れないこともなさそうだが、橋のたもとにたどり着くのが大変だろう。路肩や河岸は雑草に覆われている。橋の北には永国台の住宅団地が広がる。この造成の際、発掘調査で部分的に古道の一部が調査されたのだという。

下高津の高台には土地改良区の水路が通っていて、桜川からポンプアップされた水がつくば市など近隣の水田に供給されている。鎌倉街道はこの水路沿いに通っていて、下高津の高台を下りおりると史跡の高井城跡脇で、6号国道に交差する。イオンモール土浦は目と鼻の先だ。

ここまでのルートはつくば市下広岡と接するあたりを通る。永国台より古い住宅団地、桜ニュータウンを除けば、開発の手はほとんど入っておらず、いかにも市境らしい放置された姿をさらす。耕作放棄地やソーラーパネル群、里山を侵食する竹林などなど。

そうした街道すじを歩くと、今度は迷路に入り込んだ、「ひまわり迷路」。開設を告げている。1年前はたしか梅雨明けに合わせてオープンしていたから、今年はひと月ほど早い。

すでに人の背丈以上に伸びたヒマワリが大輪の花を着けている。運営する中根農園直売所(中根剛代表)に聞くと、今年は約30アールの農地に10万本以上のヒマワリを植えたそうだ。1年前は大した入場料も取っていなかったが、今季は料金箱を設置し、大人200円、中学生100円(小学生以下無料)を求めている。駐車場なども設置していた。

中根さんによれば「ヒマワリ以外にもトウモロコシ畑やコスモスを植えて、11月ごろまで下広岡一帯でさまざまな迷路が楽しめる」そう。元来が休耕地対策として始めたものだが、農地として再開墾して植物を栽培する手間と時間はなかなかに大変。特にこれからは「除草」に半端ない労力がかかる。

鎌倉街道も深い草いきれの中に埋まろうとしている。21日は夏至、今年の夏も暑くなりそうだ。(ブロガー)

◆比毛君男さん執筆の「鎌倉街道の13km」は総合科学研究機構(土浦市)の「CROSS T&T」誌71号に掲載される。発行予定は7月1日ごろ。

運動公園用地売却に見る つくば市の不思議 《吾妻カガミ》135

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市の運動公園用地売却手続きが進んでいます(6月22日ごろ売却先公表→8月22日までに売買契約締結)。これまでの流れを見ていると、手順の「正しさ」をタテにして売却に走る市の振る舞いと、研究学園都市の将来を見据えて阻止しようとする市民の動きが際立ち、市民サイドの問題意識の高さに感心します。

処分する土地は市のものではない?

つくば市が運動公園用地売却に固執する背景(現市長の公約非実現の後始末)、売却手順の異常さ(市民の反対の声を無視、議会の承認手続きも省略)については、このコラムで何度か取り上げました。最近のものでは、129「…『逃げ』の…市長」(3月21日掲載)、130「…蚊帳の外…議会」(4月4日掲載)をご覧ください。

不思議なのは、66億円で購入した運動公園用地が市の大事な財産であるのにもかかわらず、帳簿上は市のものではなく、市のペーパーカンパニー「つくば市土地開発公社」の所有だから、その売却については議会に諮らなくてよい―という手続き論をタテに、議会の議決を回避したことです。

確かに、前市長がUR都市機構から用地を買ったとき、名義上の取得者は土地開発公社でした。しかし、銀行から借りた代金の返済については、議会から「市が債務を保証する」旨の議決をもらっています。返済する元利についても、その額を計上した予算の承認を議会からもらっています。議会の承認を何度も得て、公社の財産目録に載せたわけです。

それを、処分するときは議会の承認は要らないというのは、理解に苦しむ理屈です。仮に行政手続き上は議会をパスできたとしても(私はそうは思いませんが)、議会の承認を取った方が、売却手順の「正しさ」を市民に納得してもらえるのではないでしょうか?

市は「土地転がし屋」になったの?

こういった市の行状は放置できないと、5月20日、市民有志が水戸地裁に住民訴訟を起こしました。議会を軽視した売却の違法性だけでなく、他の視点からも売却は違法あるいは問題があると訴えています。訴状は「売却差止等請求住民訴訟」をクリックすると読めます。

ポイントは、①売却は地方自治法と市条例に反する、②前の持ち主URが用地を収用したときの趣旨に反する、③その土地をURに売却した旧地権者との約束にも反する、④市が売却先を選ぶプロポーザル(事業提案)方式は談合の温床になる、⑤売却後その会社から防災区域を賃借するのは市財政のプラスにならない、⑥売却用地の使途変更手続きが済んでいない、⑦売却は持続可能都市宣言に逆行する―の7つ。

②と③を簡単に言うと、問題の土地を地主さんがURに売ったとき地主さんは「公的に利用される」と思っていたはず、URも市に売るときは運動公園用(公的な施設)と思っていたはず、そこを民間に転売するのは問題だ―ということです。市はいつから「土地転がし屋」になってしまったのでしょうか?(経済ジャーナリスト)

<参考> 住民訴訟による購入リスク:市は、運動公園用地の取得候補企業に対し、売却の違法性について住民訴訟が起きており、市が敗訴するリスク(建物を壊し更地にして返還してもらう?)を承知しておくよう伝えているそうです。地裁の判決は1~2年先でしょうから、8月に売却手続きが完了しても「一件落着」にはなりそうにありません。

あれから11年 東北未来芸術花火2022《見上げてごらん!》3

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【コラム・小泉裕司】時折フラッシュバックする日帰り旅がある。東日本大震災から2カ月が過ぎた2011年5月の連休明け、地元の復旧作業の合間を縫って、甚大な津波被害を受けた宮城県亘理町荒浜地区を訪れた。

復旧間もない東北新幹線で仙台駅を経由し常磐線を南下、到着したJR亘理駅から歩くこと約1時間。途中目に映る「がれき」の山と被災者宅で活動するボランティアの勇姿は今でも鮮明に思い出される。未体験の現実を目の当たりにして呆然(あぜん)とするだけの自分に無力感を覚え、帰宅した後もしばらくの間は安易に訪れたことへの後悔の念にさいなまれる日々が続いた。

持参したカメラは、物見遊山と見られるのではないかと気がとがめ、一度もバッグから取り出すことはなかった。写真を撮影すればするほど記憶が曖昧になる「写真撮影減殺効果」という心理学の研究成果があるらしい。写真を撮ることが目的となってしまい、実際に体験したことが記憶に残らないというのだ。

逆に言えば、亘理町を訪問した11年前の記憶が今も鮮明なのは、一度もカメラのシャッターボタンを押さなかったことで、「減殺効果」が生じなかったからと言えるのかもしれない。

「茅ケ崎サザン芸術花火

震災の月命日にあたる6月11日、犠牲者の鎮魂と新型コロナの早期収束を願い、「東北未来芸術花火2022」が亘理町鳥の海公園で開催され、1万人を超える観客が訪れた。この「芸術花火」は全国30カ所以上でツアー型花火大会として開催されており、花火と音楽のコラボによるストーリー性を重視した、1時間ノンストップで展開する花火イベントである。

2009年に国営ひたち海浜公園(ひたちなか市)で開催した「大草原の花火と音楽」から始まったもので、特に2018年の「茅ケ崎サザン芸術花火」(神奈川県茅ケ崎市)では、日本最高峰のバンド「サザンオールスターズ」の名曲と野村花火工業(水戸市)やマルゴー(山梨県)をはじめとする日本花火の「オールスターズ」がコラボし、茅ケ崎海岸に夜空のエンターテインメントショーを見事に演出した。

花火玉の燃えかす「ガラ」拾い

閑話休題、亘理町の花火に話題を戻そう。会場に到着後、震災犠牲者を慰霊する「鎮魂の碑」の前で手を合わせてから観覧席に着いた。当夜は、無風により滞留した煙の合間からしか見えない花火に観客からは落胆の声が聞かれたが、それでも私は頭上を見上げ続けた。雲の上の犠牲者の皆さんには美しい大輪の花火が届いていることを信じながら。

翌日は早起きして、花火会場で行われた「世界一楽しいゴミ拾い」に相棒と2人で参加した。「芸術花火」ではセットとなっている恒例のゴミ拾いイベントだ。時間経過とともに雨量が増す中、マスクや衣服がぬれるのもかまわず黙々と花火玉の燃えかす、いわゆる「ガラ」を拾い集めるボランティア参加者に感動さえ覚えると同時に、短絡的だが「東北人らしさ」を垣間見たような気がした。

花火打ち上げ後、花火師は花火筒の撤去と同時に大きなガラや黒玉(不発玉)を集めるのが通例だが、夜間、小さなガラまで拾い集め切ることはできないため、どこの花火大会でも欠かすことのできない仕上げ作業である。

亘理町との「ご縁」に導かれた今回の花火旅は、荒浜漁港の海鮮丼とカニ汁、アンコウの肝あえで清掃作業の空腹感を満たし、ゴミ拾いイベントの抽選会で当選した豪華なご褒美「牛タンの詰め合わせ」とともに会場を後にした。本日はこの辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

人に優しくすることはよいこと?《続・気軽にSOS》111

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【コラム・浅井和幸】「人に優しくすることはよいことですよね?」。このような質問を受けることがあります。軽いおしゃべりならば、「そうなんじゃないかな」ぐらいで、軽く流してしまえばよいのですが…。

しかし、深刻な感じ、少し重い感じで聞かれる、真面目に相談されるのであれば、軽く流すわけにもいきません。物事の良し悪しあしは、その場の流れやその場のルール、何を目的にするかで、全く違ってきます。

例えば、相手の荷物を持ってあげる=優しい行為という前提で考えてみましょう。相手が自分で運びたいと思っている流れで、強引にその「優しい行為」をする。人のものに触ってはいけない場所で、人の荷物を持つ。自分の体を鍛えるために荷物を持っている。このような場面で、その行為は嫌がらせになりかねません。

「優しい行為」と思っていることを、そう決めつけるのは、とても怖いことです。それは「トンカツはおいしい」「そばは体に良い」と決めつけるようなものです。油物が苦手な人、そばアレルギーの人からすれば、おいしいとか体に良いとは言えません。

少々の傷やミスはプラスに働く

過度な優しさは、リハビリや人の成長を妨げる要因になります。相手をかわいそうな人だと決めつけ、身の回りのことを全てお世話してしまうと、相手の能力を奪うことにもなりかねません。

厳しい行為が避けられ、たたかれやすい昨今ではあります。しかし、「厳しすぎ」が「よくない」と同じぐらい、「優しすぎ」もよくないことです。完璧な同一の答えは無いものなので、程度問題での調整が必要です。

個々の心や体が鍛えられ、双方の人間関係が育まれる―には、少々の傷やミスはプラスに働きます。厳しくすれば根性が鍛えられるという決め付けと、優しく接すれば人は分かりあえるという決め付けは、同じぐらいの危険性をはらんでいます。

何か言ったり行動したりしたあとに、実際どのような状況になったか、しっかり確認して、次の言動に生かすことが大切です。それでも、相手や世界に優しい目を向け続ける心身の強さを持てることを願い続けているわけですが。(精神保健福祉士)

人生 最後まで自分らしく 《くずかごの唄》110

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】『死を迎える心構え』 加藤尚武(京都大学名誉教授・哲学)著。弟のタケちゃんの書いた本なので、亭主と2人でなめるようにして何回も読んだ。

『死を迎える心構え』PHP研究所

第11章「人生の終わりの日々」の一節。「…未来がなくても未来があるふりをする。ほんとうはたったひとりでこの道を歩いていくのだ。自分で自分に語りかける毎日。思い出という襤褸(ぼろ)をつないで物語をつくって、その物語の世界に垣根を作って、思い出の中を一人で歩いている時が楽しい…」

生まれる時は自分で選べないが、70年、80年、歴史の中を歩いてきて、死ぬ時くらいは最後まで自分らしく死にたいと思う。

昔は、老衰で、すべての内臓の能力に限界がくると、その人の個性を残しながら、その人らしい最後を迎えられたものなのに、今の医療制度は、なぜかそれを許してくれない。

ケアマネ選び、どうすればいいの?

「最後まで自分らしく死にたいなあ、なんでも、救急車呼んでしまうと、病院に連れていかれて、そのまま入院して意識がないのに、何日も、何カ月も機械につながれてしまう、救急車なんか呼ぶなという人もいる。そういう時はどうすればいいんだろう」

「介護認定をしてもらって、こちらの人生の最後のお願いが分かってくれそうな医者を見つけて、訪問医になってくれるか、どうか、探すしかないと思うわ。この前、図書館で借りてきた『在宅死』の本の著者は、大学病院にいても訪問医を体験している人の書いたものが多かった」

「どうやって、気の合いそうな、しかも訪問してくれる医者をさがせばいいんだろう? 困ったなあ」

「訪問医とは気が合ったけれども、ケアマネージャーと気が合わなくてひどい目に合ったという人もいた。ケアマネージャー選び、一体どうすればいいの?」

亭主と2人、タケちゃんの本を読みながら、こんな話をしていた。老人が最後まで自分らしく生きようとすると、今の制度の中では、難しい課題が山のように押し寄せる。人と人のつながりの中で、根気よく解決していくしかないのだろうか。(随筆家、薬剤師)

私が普通学校で過ごしてきた証し 《電動車いすから見た景色》31

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【コラム・川端舞】今年3月、私の故郷、群馬県で活動する某団体のオンラインイベントに参加した。その団体の活動自体にも興味があったが、高校時代の友人がそこで活動していることをSNSで知り、頑張っている姿を見て、刺激をもらいたかった。

もともと、その団体の活動についてあまり詳しく知らなかったし、他の参加者は群馬県内から参加しているようだったので、おとなしくイベントを聞いているつもりだった。イベント後半、参加者同士の交流が始まり、参加者1人1人が自己紹介をしていく。しかし、その時、私のそばには介助者がいなく、障害のある参加者は私だけのようだったので、「私が話しても、誰も聞き取れないよな」と思い、オンラインイベントから退出しようとした。

その瞬間、「かわばっちも何か話してよ」と友人の声がした。学生時代のあだ名で久しぶりに呼ばれ、ドキッとする。「だって、今、介助者がいないから」と答えると、友人は「わかった」と一言。「これで話さなくて済むかな」と思ったのもつかの間、なんと友人が他の参加者に「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か繰り返し聞けば、聞き取れるので…」と私の紹介を始めてしまった。

私を紹介し終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び私に話しかけてくる。「これは逃げられないな」と思い、ドキドキしながら、私は自分の声で話し始めた。友人は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことがうそのように、友人は私の話を聞き取った。

「普通学校にいてよかったんだよ」

専門知識はないのに、私の障害のことを他の人にスラスラ説明できること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。おそらく高校3年間を同じ教室で過ごしたからこそ、できることなのだろう。

正直、普通学校に通っていた当時はつらいことのほうが多かった。障害のある自分が普通学校にいていいのかと、数え切れないほど悩んだ。今でも、障害児が普通学校に通うことを拒否されたり、普通学校で必要な支援を受けられない話を聞くと、普通学校に通っていた自分自身を否定された気分になる。

しかし、障害のある私を同級生として当たり前のように紹介する友人の姿に、「かわばっちは、確かに私たちと同じ教室で過ごしたんだよ。それでよかったんだよ」と言われた気がした。すべてが報われた気がして、涙が出るほどうれしかった。(障害当事者)

洞峰公園の隣「ウエストハウス本店」 《ご飯は世界を救う》48

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【コラム・川浪せつ子】つくば市二の宮の「ウエストハウス」と言えば、誰でもご存知の老舗洋食屋さん。洞峰公園の駐車場に隣接。1982年創業、なんと40周年だそうです。昔ながらの、皆さんに愛される洋食もですが、なんといっても、スイーツがすごい! 季節のフルーツを、ふんだんに使って。

バナナ、イチゴ、マンゴー、メロン、スイカ。そして、秋にはクリ。今までに、いくつ食べたかしら。それに、すんご~い、パフェもあります。

それが、「ビックリサンダーマウンテン」。これ、2回食したことがあります。高さ60センチ。10人前で、テレビでも何度か紹介されました。最近は、それを超えちゃう「シンデレラパフェ」というパフェも、出現したそうな。高さ120センチ!

10数年ほど前には、いろんな、パフェ、スィーツを、食べて、食べて…、描いて、描いて…。その結果は…。今は、泣く泣く封印しています。

「NEWSつくば」の前身、常陽新聞の2011年8月4日付に、「ビックリサンダーマウンテン」の絵とコラムを掲載したこともありました。

平和に食事ができることに感謝

ご無沙汰していたなぁ~と、最近、久しぶりに、ランチに寄ってみました。懐かしい味。洞峰公園+ランチの雰囲気にピッタリの家族連れ。我が家のドタバタ息子たちとは違い、どの子もお利口さんに食べています。

若いご夫婦、ちょっと大変そうだけど、幸せ感イッパイ。こうやって、家族で平和に食事ができることに感謝。いつまでも、この平穏な暮らしが続きますように。(イラストレーター)

キャンプとケロリン屋 《続・平熱日記》111

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【コラム・斉藤裕之】久しぶりに、瀬戸内海に浮かぶ粭(すくも)島からの便り。橋で陸続きのこの小さな島の「ホーランエー食堂」を切り盛りするのは、自らを「タコ店主」と呼ぶご主人。昨年ここで作品を並べようかと思っていたのだけれど、コロナ禍で延期になってしまって…。

お店の急な階段で、屋根裏のような2階に上がると、穏やかな鼓ヶ浦(つづみがうら)、そして山の頂に立つ精蝋(せいろう)会社のレンガの煙突が見える座敷がある。ここに近ごろ、タコ店主さんの高校生の息子さんの友人たちが泊まりに来ると言う。

ところで、昨今人気の高まるキャンプ。かび臭いテントの時代を知る私としては、至れり尽くせりの道具や施設の、言ってみれば道楽ぶりにやや呆れているのだが、果たしてこれが文化として根付くのだろうか。

粭島の手前に黒髪(くろかみ)島という島がある。御影石の採石場があって、大阪城の石垣にも使われたそうだ。

小学校のとき、実家の2階に若いご夫婦が住んでいた。おじさん(ご主人)はこの採石場で働いていて、小さなモーターボートを持っていた。ある日、おじさんは弟と私を黒髪島でのキャンプに誘った。素潜(すもぐ)りで獲ったサザエを焼いて食べたり、ロープにベニヤ板をつけたものにつかまり立ちをして、それをモーターボートで引っ張ってもらう水上スキー?は最高に楽しかった。

小さな入り江にテントを張って寝ていたら、「起きろ!」と言われて、気が付いたら波がテントのすぐそばまで来ていて、夜中に慌ててテントを移動したっけ。それから「買い物行ってくる」と言って、おじさんはボートではるか向かいに見える大津島まで出かけて行ったのを覚えている。

「Wi-FiもTVもないのがええ」

この大津島には巡航船が出ていて、友達とよく釣りに出かけた。人間魚雷「回天」の基地があったことでも知られているが、船着き場には大きなクロダイが悠々と泳いでいるのが見え、川エビをえさに岸壁を探ると、メバルが面白いように釣れた。

ある時、この波止場のすぐ近くに、1軒の店があるのに気付いた。店の名前は「ケロリン屋」。「ラーメン百円」とあったので注文すると、インスタントの袋麺にお湯を注いで渡された。子供心に「恐るべし、ケロリン屋」と思った。そして、あの日モーターボートでおじさんが買い物に来たのも、ケロリン屋だったのだと確信した。

さて、粭島のすぐ東隣には細長い大きな島。水戸一高を舞台にした「夜のピクニック」を撮った、長澤雅彦監督の最新作「凪(なぎ)の島」のロケ地になったという「笠戸島」だ。この島のキャンプ場に、海パンとヤス(魚を突く道具)を持って、自転車で親友の小池君と向かったのは、そういえば高校生の時だったか。

タコ店主さん曰く「Wi-Fiもテレビもないのがええみたい」。ホーランエー食堂の2階への階段は、高校生にとって大人の階段? 波の音しかしない夜、多分、話していることは私が高校生のころと何も変わりないと思うが…。(画家)

「3つの公園」問題と流れ者 《映画探偵団》56

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【コラム・冠木新市】今、つくば市に「3つの公園」問題が起きている。1つめは「洞峰公園」のリニューアル問題をめぐる、大井川県知事と五十嵐市長の対立。 市民団体が結成され、県に協議会設置を求める署名用紙が区会を通じ私の所に送られて来た。明確に反対を主張していないので、パスした。

2つめは「高エネ研跡地をめぐる運動公園」問題。7年前に反対署名してから推移を見守ってきたが、市は迷走を続け、大多数の市民が一括売却反対なのに、市議会は賛否を問うことなく、民間企業に売却を進めようとしている。

3つめはセンタービル内の施設「co-en」問題。比較は不幸の始まりとは知りながらも、「誰でも通れる通路」を歩くと、旧アイアイモールの広くて頑丈な作りを思い返してしまう。通路は大学の廊下みたいな印象で、「会議室」や「コワーキングスペース」が教室に見える。

また、「カフェ」は大学食堂の趣で、若い人や若者気分の大人たちには心地よい空間だろう。通路両脇に波打つ「小上り」だが、以前のベンチのように気楽には座れない。人を会場内に寄せつけない仕掛けなのかもしれない。

大問題なのは、ビル内から広場への出入口が閉じられ、特別会員やイベント関係者しか利用できなくなってしまったことだ。普通の市民の出入口はカフェ側にあるが、お客の間を通るので気兼ねする。 昨年、「つくばセンター研究会」でデータを取ったが、ここが一番人の動きの多い出入口であった。「誰でも通れる出入口」に戻すべきである。

通路からホテルへは一直線につながり、ロビーにモンローチェア2脚が飾られ、説明文と手を触れないでくださいとのプレートが置かれていた。

『つくばセンタービル謎解きツアー』で「そのうち座れなくなりますよ」と予言したが、ようやく文化財として認知されたようだ。五十嵐市長の「意匠を大事に」との口癖の効果が表れた。すごい実績である。できれば、子どもたちの遊び場で、長い間放ったらかしになっている水景の、外れた石段を直してもらいたいものだ。

渡哲也主演の『東京流れ者』

そんなこんなで通路を通るうちに、ここは映画スタジオのセットではないかと思えてきた。

1960年代に、よく分からない映画を作ると言われた鈴木清順監督が日活からクビになった。今では世界的に評価を受けているが、当時はセット美術の木村威夫とコンビを組み、次々に奇妙な野心作を作り、大学生に熱狂的に支持された。私は清順作品の中でも『東京流れ者』(1966)が好きで、繰り返し見た。

やくざから堅気になった倉田が所有する倉田ビルを奪おうと、大塚組が謀略をめぐらし、倉田組の不死鳥の哲(渡哲也)を痛めつけ、反応をうかがう。

義理人情を重んじる不死鳥の哲は倉田を信じ我慢するが、大塚組の罠(わな)にハマった倉田は「哲を殺れ」と指示を出す。裏切られた哲が倉田の運営するクラブ「アルル」に乗り込み、白い壁際沿いの狭い通路やってくる。哲は、寝返った倉田に「それが親分という者の正体だったのか、サカヅキは返すぜ!」と絶縁宣言する。

こう書くと、ただのやくざ映画にしか思えないだろうが、奇妙なカット割り演出と赤や黄色の照明で安っぽいセットを面白く見せ、ポップな仕上がりなのである。

中でも、クラブの壁際沿いの通路が「co-en」の感じと似ている。『東京流れ者』に夢中になった当時の大学生は、現在80代だ。「co-en」をどう見るだろうか。いや、東京からつくばに流れて来た新住民は、「3つの公園」問題に何を感じるのか。

今、つくば市民は「3つの公園」問題に巻き込まれている。問題の根は深く、「筑波研究学園都市」が誕生して以来、つくば市は史上最大の岐路に立っている。不死鳥の哲が、つくばに流れて来る日も近い。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

地方の企業が絶対にやってはいけないこと 《地方創生を考える》23

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ダイヤモンド筑波

【コラム・中尾隆友】先日、つくば市において、近隣の企業経営者や市町村幹部の方々に対して、「2020年代における企業の経営戦略」という題目で講演をさせていただいた。要約すると、以下の通りとなる。

これから、日本には3つの大きな波、すなわち、「人口減少」「デジタル化」「脱炭素化」の波が訪れる。

1つ目の人口減少については、日本の2045年の人口は2015年と比べて16.2パーセント減少するのに対して、茨城県は23.4パーセント減少とかなり大きい。TX(つくばエクスプレス)沿線を中心に人口が増える県南地域と、人口が激減する県北地域の、2極化が進む見通しだ。人口減にどう対応していけばいいのか? 今から考えておく必要がある。

2つ目に、日本では人手不足が進む中で、デジタル化によって効率性を上げなければならない。しかし地方は、大都市圏よりも中小零細企業の割合が多く、デジタル化が遅れがちだ。企業の商品・サービスの商圏を広げる上でも、地方の企業こそ創意工夫をしてデジタル化を進めるべきだ。

3つ目の脱炭素化は、環境にとって必要不可欠だが、企業にとっては大きな負担となる。特に日本は、脱炭素化の国際的ルール作りにうまく関わることができていないので、長期的に見て、国際競争で不利になる可能性が高い。加えて、脱炭素化に関連する法律や商慣習が固まってくるのはまだ先のことで、不確実性が大きい。

自分が成長できるか」「やりがいがあるか」

これら3つの流れを踏まえた上で、経営者が最もやってはいけないのは、根性や気合いといった、マンパワーに依存することだ。従業員が疲弊し、採用ができなくなってしまうからだ。地方ではこの手の経営が多いので注意が必要だ。

とりわけ、今の若者は、仕事に対して「自分が成長できるか」「やりがいがあるか」を重視する。優秀な人材ほど、この傾向が強い。その意味では、若者に仕事の裁量権をある程度与えたうえで、モチベーションを引き上げたり、下からの意見を吸い上げたりする仕組みをつくることが求められる。

近年、野村ホールディングスや電通といった業界最大手の企業でさえ、マンパワー依存の経営に頼り過ぎたために、危機の一歩手前まで追い込まれた。企業の価値は「最後は人」になる。経営者にとって重要なのは、国や自治体のアシストを受けながら、デジタル化が進んでも職を失わない、スキルを持つ人材を育てることだ。(経営アドバイザー)

サイクリング事始め《夢実行人》9

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【コラム・秋元昭臣】友人から譲リ受けたママチャリのスポーツタイプは車齢25歳超の貴重品です。ヨット仲間の友人が毎月15回も、「つくば霞ケ浦りんりんロード」の土浦~岩瀬を自転車に乗っていると聞き、私もやる気が出ました。

サイクリングを始めた昨年5月は、土浦~筑波休憩所の片道20キロ。これは土浦~岩瀬の半分です。ある日調子がよかったので、終点の岩瀬まで完走。その後は、筑波、真壁、雨引休憩所で休んで、岩瀬休憩所で折り返しています。

多少風が吹いても、往復80キロを5時間で走れるようになりました。坂道は、上れば下りますが、行きが向かい風だから帰りが追い風とは限りません。自然の気まぐれは「本職」のヨットと同じですから、最近は風を楽しんでいます。

友人の話では「マイペースが一番」とのこと。それがわかるまでの1年間、「尻が痛い」「腕が痛い」「手がしびれる」「肩がこる」「足がパンパン」などを経験。ベテランのアドバイスでサドル高さを調整したり、姿勢やこぎ方を変えて改善しました。

「暴走老人」と言われながら

転倒、パンク、チェーン切れ、タイヤバースト、サドル金物破損などもありましたが、一つ一つ、自転車屋さんの指導を受けました。工具も持つようになり、前後輪が同時パンクしたときは、パンク修理を楽しみながらやりました。

着るものも、夏の暑さは何とかなりましたが、真冬の手指やつま先の冷たさには苦戦。手袋はミントの下に毛糸のもの。靴下は2枚で対応しましたが、15キロ先の小田休憩所でようやく温もりが。首にはネックウォーマー。体は薄くて軽いカッパで、冷えないように。

夏はペットボトル3本飲んでも、汗をかき、WCいらず。しかし冬は、1本でも飲んだ分は出てしまいました。これでわかったことは、体幹の温度調節は下半身でできること。

手の指が暖まるのは最後ですが、そこを温めたり冷やすことは効果があります。夏は水に浸したタオルを首に巻き、軍手には水をかけました。冷たい手で顔を拭うのは快感です。

皆さんには「暴走老人」との言われましたが、「つくば霞ケ浦りんりんロード」が、サイクリング、ランニング、ウォーキング、通勤通学、生活道路などとして役立っていることも実感しました。(元ラクスマリーナ専務)

魅力的なアイルランド音楽 つくばソトカフェにて《遊民通信》42

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【コラム・田口哲郎】

前略

5月15日、つくば駅そばの「トナリエ」に用事があり、帰りにセンター広場のソトカフェでコーヒーを飲んでいたら、心地よい音楽が聞こえてきました。「音の宝箱つくば2022春」という音楽イベントが行われていたのです。音楽家が野外で美しい音を奏でるというもの。センター広場は広いペデストリアンデッキより低いところがあり、そこで演奏されるので、音が広場全体によく響いていました。

どの曲も素晴らしい演奏でしたが、印象に残った曲がひとつありました。アニー・ローリーのようなアメイジング・グレイスのようなダニー・ボーイのような懐かしいメロディで、どこかで聞いたことがあるような、でも初めて聞いたな、この曲!という感じで、曲名が思い浮かびません。

スマホに聞かせて判別すればよいと気づいたときは、次の曲になってしまっていました。そこでグーグルに「アニー・ローリー アメイジング・グレイス ダニー・ボーイ 似た曲」と思い浮かんだまま入力して検索をかけますが、いまいちピンとくるものがヒットしませんでした。

あれはなんだろう、あのバイオリンの旋律の郷愁をかき立てるなんとも言えない、ゆったりとした良い音楽は! 知りたい欲はつのります。スマホとしばらく格闘していて、ふと気づきました。広場に通じる階段の上に、看板とチラシが置いてあることに。

チラシにバッチリと曲名が書いてありました。「ピムキーン」というアイルランド・ミュージックだそうです。「ピムキーン」とはアイルランド語でカボチャという意味と知りました。アイルランドか! そういう曲相だったなあ。

タイトルがアイルランド語なんてエンヤみたいだなあと思い、アマゾン・ミュージックにあるのだろうかと、また検索をしましたが出てきません。どこかのCDに収録されているかもと検索しますが、見つかりません。わたしの探し方がまずいのかもしれませんが、この曲はまだ音源化されていないのではないでしょうか。

YouTubeで、演奏者と思しき方々が「ピムキーン」を奏でる動画が掲載されていました。ソトカフェで聞いたままです。とても素晴らしい。

ケルト音楽はどこかなつかしい

ところでアイルランドの曲は魅力的なものが多いですね。さきほど名前をあげたエンヤの曲は世界中でヒットし、日本でも人気です。情緒豊かで心に響くメロディがアイルランドの曲には多いです。

アイルランドにはケルト文化が残っていて、これはキリスト教以前の古いものです。アニミズムみたいに木に精霊が宿ると考えたり、海の向こうに極楽のような場所があると考えたりする文化ですので、日本の古来の文化と相通じるところがあるのかもしれませんね。だからどこかなつかしい。

新しい都市つくばの真ん中で、思いがけず「エモい」曲を聞けたことに感謝です。「ピムキーン」。音源化されていないのでしたら、ぜひしていただきたいと思います。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

8050問題と労働者協同組合法 《ハチドリ暮らし》14

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自宅畑の今

【コラム・山口京子】仲間内の勉強会で話をすることになりました。テーマは自由に決めてよいということでしたので、「8050問題と労働者協同組合法」という題にしたいとお伝えしました。

「8050問題」の呼び方は「はちまるごーまるもんだい」です。80代の親が50代の引きこもりの子を抱えている家庭、そこから派生する問題を指します。80代の親の介護や認知症、生活困窮などにより、親子の共倒れや孤立化が社会問題になっています。

数年前、引きこもりの子を持つ家族の会から「これからのライフプラン」で話をしてほしいと言われ、調べ始めました。

「引きこもりの評価・支援に関するガイドライン」によると、「引きこもり」の定義は、「様々な要因の結果として、社会的参加(就学、就労、家庭外での交友など)を回避し、原則的には、6カ月以上にわたって、おおむね家庭にとどまり続けている状態を指す現象概念(他者と関わらない形での外出をしていてもよい)」となっています。

引きこもるきっかけとしては、学校でのいじめ、親の教育虐待、就職の失敗や病気、働いていたものの様々な事情で退職し、その後働こうとしても再就職口が見つからない―などが挙げられます。

引きこもる期間は長期化していて、7年以上が5割近くになっています。30年以上も約6パーセントいると推定されています。内閣府の調査では、100万人以上の引きこもりがいるとされていますが、200万人を超えるという指摘もあります。

社会的引きこもりには居場所づくりが必要

引きこもりは、精神疾患、発達障害、社会的引きこもり―に大別されます。精神疾患であれば医療ケア、発達障害なら教育的・福祉的ケア、社会的引きこもりには安心できる人間関係や居場所づくりの支援が必要です。

私としては、就職関連の挫折から社会的引きこもりになった人を対象に、安心できる居場所づくりと、自分のペースで働ける場が生まれたらいいな、それには労働者協同組合法が使えるのではないか、という思いがありました。

市民が主体者として、協同・連帯して働く「労働者協同組合」(ワーカーズ・コープ)に法人格を与える「労働者協同組合法」が、2020年12月、参院本会議で成立。今年10月から施行されます。

この組合の基本は、組合員が出資し、意見を反映させ、そして働くことです。「多様な就労の機会」を創り出すとともに、「地域における多様な需要に応じた事業」が行われ、「持続可能で活力ある地域社会の実現」に資することが目的です。注目してほしいと思います。(消費生活アドバイザー)

ウクライナ戦争の行方 《雑記録》36

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【コラム・瀧田薫】「金言耳に逆らう」ということわざがある。他人からの忠告や諫言(かんげん)というもの、たとえ正しいとは思っても、なぜか反発してしまうという意味だが、古くは、中国戦国時代の韓非の書「韓非子」に出てくる。戦国時代は治国用兵の術を説く諸子百家が活躍した時代であり、韓非もその1人であった。

日本においては「矛盾」や「逆鱗」という言葉を用いたことで知られる。彼は君側にあって諫言や忠告を口にする際、主の逆鱗にだけは触れぬようにしていたが、それでも、秦王(後の始皇帝)によって投獄され、獄中で自殺したそうだ。

ところで、ウクライナ戦争が始まってもう3カ月になる。「戦争は始めるより終えることの方がはるかに難しい」と言われるが、その通りの展開だ。ウクライナ側もロシア側も戦争のこう着化を望んではおらず、この戦争を自軍有利な形で停戦あるいは休戦に持ち込みたいとの思いは両軍に共通したものだろう。

ただ、国益を損ねる安易な妥協はできないから、交渉条件を徹底的に吟味・検討するだろう。ロシア側の検討プロセスは独裁者プーチンの決断が全てで、彼に助言する者はいても、諫言できる幕僚が存在するとは思えない。

これに対して、ウクライナのゼレンスキー大統領の場合は、国益だけでなく、ウクライナを支援してくれる米欧諸国の意向への配慮も欠かせない。たとえば、5月26日に閉幕したダボス会議における元米国務長官・キッシンジャー氏の発言など、不愉快ではあっても無視はできない。

キッシンジャーの提案

キッシンジャー発言の要点は2つある。ウクライナ政府に対しては、クリミア半島とロシア軍が実効支配しているウクライナ東部をロシアの領土と認めて停戦交渉を妥結にもっていく、いわゆる「ウクライナ領土分割論」を提案した。他方、西側諸国に対しては、ウクライナ戦争を長引かせれば、NATOとロシアの新たな戦争の引き金を引くことになると警告した。

ゼレンスキー大統領は領土分割論を、第2次世界大戦の惨禍を招いた英仏の対独融和政策を引き合いに出して激しく非難したが、自国の国益を損なう提言であることを直感したのだろう。

一方、キッシンジャー氏が停戦にこだわり、NATOのウクライナ戦争への深入りに反対する理由だが、ロシアを徹底的に追い詰めることはせず、戦後もロシアが大国としての存在感を一定程度維持できるよう配慮することが米欧側の利益につながると見ている節がある。

つまり、ロシアを痛めつけて中国の側に追いやる愚策は避けたいのだ。冷戦時代、彼は対ソ連戦略の鍵として中国を利用するアイデアを当時のニクソン大統領に進言した。今回はロシアを対中国戦略の手駒として利用したいと考えても不思議はない。

さて、ゼレンスキー大統領はこれからどうするだろうか。地元テレビのインタビューで、ロシア軍を2月24日侵攻開始より前の位置まで押し返せば、ウクライナの勝利だとの認識を示し、クリミア半島や東部2州の領土回復は交渉を通じて実現したいと述べたという。(茨城キリスト教大学名誉教授)

県営の洞峰公園、つくば市が買い取ったら?《吾妻カガミ》134

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グランピング施設などが計画されている洞峰公園野球場=つくば市二の宮

【コラム・坂本栄】茨城県が改修しようとしている県営・洞峰公園(つくば市二の宮)。つくば市は了解したのだと思い、改修を進めようとしたら、市民から計画の目玉と進め方に疑問の声が。当然、市は市民の側に立ち、県と市はバトル状態に。いっそ、市が公園を県から買い取り、市民に現状のまま利用してもらったら?

県と市のバトルに市民運動が参入

県の改修計画のあらましは「…4社グループに決定…洞峰公園の整備事業…」(2021年11月30日掲載)に出ています。学園都市にふさわしい、レクリエーションも楽しめる、にぎわいを創り出すエリアにする―という考え方で、野球場をつぶし民営のグランピング(宿泊用具が備わった豪華テント)や、バーベキュー施設を設けるのが目玉です。

県の内外からたくさんの人に来てもらい、おカネを落としてもらうだけでなく、公園運営に民間会社も加わってもらい、その上がりを公園管理費の足しにしようという、大井川知事らしいアイデアです。県の魅力度アップ作戦の一環でしょう。

この計画に対し、そんなものは要らないとの声が市民の間から上がりました。自然公園の形が壊され、宿泊者の騒音・酒・たばこ、バーベキューの煙・臭いは迷惑だ、と。市側の懸念は「26項目で(市と県が)やりとり」(5月4日掲載)に詳しく出ています。市民運動も起き、2000人を超える署名を集め、県の計画策定作業に参加したいと言っています。そのいきさつは「県に協議の場設置を要望…」(5月13日掲載)をご覧ください。

県営公園は合併前の谷田部に開園

県にとって、洞峰公園改修は、水戸偕楽園改修(現在策定中)、大洗水族館改修(知事はジンベエザメに執心)、石岡フラワーパーク改修(昨春完了)と同じ、観光振興策です(小粒ではありますが)。市の懸念に配慮し、「騒音、酒、タバコ、煙、臭い」に極力対処することはあっても、改修そのものにはこだわるでしょう。

そこで提案。公園管理費を減らしたい県の立場を考え(魅力度アップの方は勘弁してもらい)、同時に市民の疑問や反対に応えるためにも、洞峰公園を買い取って市営にするのも一案です。

洞峰公園が1980年に開園したとき、つくば市はありませんでした。谷田部町、豊里町、大穂町、桜村が合併して生まれたのは1987年ですから、場所は谷田部町でした。事情通によると、学園都市にふさわしい公園が必要と考えた県が、町の財政力では無理と考え、代わりに造ったそうです。それから42年。市が管理するのは自然ではないでしょうか。

洞峰公園は20ヘクタール、総合運動公園用地が45ヘクタール。運動公園は66億円ですから、土地単価が仮に同じとすると、洞峰公園は29億円になります。これをどれだけ下げてもらうかは、市の交渉力にかかってきます。市と県のバトルが続くことは好ましくありません。それは市と県の関係の泥沼化を意味するからです。(経済ジャーナリスト)