【ノベル・伊東葎花】

嫁が来たよ。40過ぎてようやく結婚した長男の嫁だ。
杓子(しゃくし)定規で生真面目な、なかなかの変わり者だ。

嫁は、毎週土曜日の13時きっかりにチャイムを鳴らす。
そして玄関先で必ず言うんだ。
「お義母さん、こんにちは。生存確認に参りました」
「はいはい。ご苦労さん。この通り生きてるよ」

嫁は背筋を伸ばして、茶室に招かれたようにお茶を飲む。
「つつじが美しいですね」
庭を愛(め)でることも忘れない。マニュアルがあるのかね。いつも同じだ。

「洋一は元気? ちっとも顔を見せないけど」
「洋一さんは、公私ともに順調です」
「職場の挨拶(あいさつ)みたいだね」
「お義母さん、あの葉っぱは紫陽花(あじさい)ですね」
「そう。うちの紫陽花は近所でも有名だよ。まるで虹の国に迷い込んだみたいにきれいだよ」
「虹の国ですか? すみません。比喩は苦手で、全く想像できません」
「まあ、見たらわかるよ。来月には咲くからさ。生存確認のついでに見たらいいよ」

嫁は急に目線を落として、深々と頭を下げた。
「すみません。私がここへ来るのは今日が最後です」
「ええ、なに? どういうこと?」
「洋一さんからお話があると思いますが、私たち、離婚することになりました」
「噓だろう? まだ1年も経っていないじゃないか」
「私たちは、恋愛をせずに結婚しました。婚期を過ぎて互いに焦っていたのです」
「上手(うま)くいかなかったのかい?」
「洋一さんに、好きな人ができました。私と結婚した後に、運命の人に出会ったそうです」
「何だい、それ。ひどいじゃないか。親の顔が見てみたい…って、あたしか!」
「彼は悪くありません。早まって、私と結婚してしまっただけです」
「だけど、あんたはそれでいいのかい?」
「私、別れを告げられても悲しくなかったんです。契約が終わったくらいにしか感じませんでした。つまり、それが答えです」嫁は表情を変えずに、きれいな姿勢のままお茶を飲みほした。
「生存確認は引き継ぎますので、ご心配なく」
「バカだね。そんなのどうだっていいよ」

嫁は立ち上がって庭を見た。
「虹の国の紫陽花、見たかったです。それだけが心残りです」
少し丸まった背中が微(かす)かに震えている。
たった数ヶ月の付き合いだけど、嫁と庭を眺める時間は嫌いじゃなかった。
紫陽花、一緒に見たいよ。

「ねえ、生存確認は、やっぱりあんたにお願いしたいよ。ダメかね?」
嫁が振り向いて、微かに笑った。
「承知しました。では、これからは嫁ではなく、茶飲み友達として伺います」
「茶飲み友達か。いいねえ」

嫁は、深々と頭を下げて帰っていった。
石畳を歩く歩幅が少しだけ乱れている。
可愛くないね。素直に泣けばいいのにさ。

(作家)