木曜日, 5月 16, 2024
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神社仏閣の逆襲「ゲニウスロキ」《看取り医者は見た!》7

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写真は筆者

【コラム・平野国美】今日のタイトルは「神社仏閣の逆襲」ですが、中身はこの表現ほど過激なことはありません。神主さんも僧侶さんも、今後の神社仏閣の存在について多少不安を感じています。人口減少、少子高齢化、シャッター商店街化が、檀家や参拝客の減少につながるのではないかと。

いくつかの神社とその商店街の成り立ちを調べると、戦後、引揚者に境内を開放して住まわせ、そこに闇市が立ち上がり、飲み屋街や商店街として発展した歴史が見られます。そのため、敷地や建物が避難所の役目を果たし、その一角に怪しい場所が存在したこともありました。それゆえ、本体の寺社仏閣が枯れてゆくと、商店街も同じ道筋をたどる運命共同体なのです。

私は、こういった場所を、いつからか探して歩くようになりました。今は寂しげなのですが、全盛期のざわめきや勢いを感じるのです。郊外の大型ショッピングセンターでは味わえない雰囲気があります。佐賀神社にあったアーケードの商店街に唯一残った店、八女市の神社と同居してシャッター街化した所などです。大家が先か?店子が先か? いずれにしろ、運命共同体だったのです。

神田明神のIT系お守り

茨城南部では最近、寺社仏閣で新たな動きが始まっています。私たちが学生だったころ、学校の古典や漢文の先生には、神主や僧侶と併任の方がおりました。この20年間、私が仕事で回っている間に、寺社仏閣の世代交代が始まりました。

新しい後継者は古文や漢文の先生でなく、IT系の方もおります。神社仏閣のホームページをしっかりと作られ、SNSも利用し情報を発信しています。おそらく、御守りや御札に関しても伝統と斬新さを混ぜて来るでしょう。

数年前、神田明神では、システムエンジニアの皆さんに対し、IT系の御守りが用意されていましたし、将門神社にはキューピーちゃんの将門バージョンが置かれていました。石岡の歴史ある神社の神職は、有名な雑誌の編集者でした。その仕事で得た人脈を利用して、ファッションショーも開催しています。

お祭りでは御神輿(おみこし)の担ぎ手が街から消えたように見えましたが、TXの開通もあって新住民が住むようになり、担ぎ手が抽選になる地域もあるようです。

時代が変わり、担い手も変わっていく姿に期待してしまいます。今、神社仏閣の存在の仕方は大きく変わりつつあると思います。地霊そのものである神社仏閣の逆襲が始まりそうです。(訪問診療医師)

<参考>

「ゲニウスロキ」シリーズ、前回「地域の神社仏閣」はこちら、前々回「土地の守護精霊」はこちら

農協がなくなってしまった!《邑から日本を見る》147

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「常陸農協ふれあいプラザ瓜連」と移動金融店舗「だいすき号」

【コラム・先﨑千尋】先月26日、私が住んでいる常陸農協瓜連支店が店を閉じ、今月6日に「ふれあいプラザ瓜連」に替わった。私はこれで、この地区(旧瓜連町)から農協がなくなってしまった、と思った。ATMはそのままで、購買品は取り扱うというものの、農協としての機能は隣接の那珂支店に移行された。同農協管内では、同日に山方支店、水府支店もなくなった。

今回の店舗再編計画は、茨城県内農協の本支店体制整備方針(2014年策定)により、貯金や共済で一定の事業量がない支店を統合するというもの。県全体では192店舗を105店舗にほぼ半分に減らし、常陸農協でも10店舗が消える。農協も経営環境が厳しくなり、赤字店舗を減らすということだ。

旧瓜連町管内ではすでに常陽銀行が撤退し、金融機関として残っているのは郵便局だけだ。ATMやコンビニがあり、キャッシュレスの時代だから、1日に10数人程度の来客しかいない店は残さないという方針は、経済原則では当たり前のことかもしれない。だが、私には寂しさが残る。

農協という組織の前身は産業組合で、産業組合法は1900年に成立している。資本主義経済の中で、農民は経済的に弱い立場にあった。弱い者でも集まれば強くなると先人たちは考え、信用、購買、販売の組合をつくった。共済事業は戦後始まった。

農協に行けば用が足りた

瓜連町地域では、1933年に保証責任静村信用販売購買利用組合(静村産業組合)が誕生し、水郡線静駅前に事務所、倉庫を建てた。その時、敷地内に、協同組合の元祖である二宮尊徳(金次郎)を祀(まつ)った報徳神社も建立している。同組合は、戦時統制経済のもとで「農業会」と看板を塗り替え、戦後の1948年に「農業協同組合」となった。

静村は無医村地域だった。そこで産業組合の先人たちは、組合主導で国民健康保険組合を設立し、診療所を開設、無料診療を実施した。戦後は農協が引き継ぎ、茨城県協同病院静村分院となり、医師と看護師が常駐し、往診まで行った。県内で診療所を持つ農協はここだけだった。

静村農協はそれだけでなく、理髪所を持ち、澱粉(でんぷん)工場、製粉製麺所を経営し、肥料・農薬などの農業資材だけでなく、酒や塩、切手も含めた日用品も販売していた。葬儀用の祭壇もいち早く備え、葬儀があれば貸与していた。とにかく、農家の暮らしに必要なものは農協に行けば用が足りた。私が子どもの頃、床屋は農協以外にはなかった。農協の総会のあとは演芸会があり、年寄り、子どもまでが芝居や漫才などを楽しんだ。

酒は四斗樽(たる)から量り売り。あとで聞いた話だが、宿直に当たった職員が寝しなに少し酒樽から失敬し、その分、水を入れてごまかした。それが続くと酒がだんだん薄くなり、売り物にならなくなってしまったとか。

頭で分かっていても寂しい

同村農協は、このように県内でも最先端を行く活動を展開していた。1953年には「茨城農政研究会」が結成され、「茨城農民自由大学」を開いた。この活動にも農協青年部の活動家が積極的に関わり、近藤康男、山川菊栄、住井すゑ氏らを講師に招き、多くの聴衆を集めた。

このような先駆的な活動を行ってきた農協が消えてしまう。農業が衰退し、今や農協に頼らなくとも生きていける。必要でないものはこの世から消え去る運命なのだと頭で分かっていても、やはり寂しい。(元瓜連町長)

軽トラデート 《続・平熱日記》145

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】弟の次女は誰に似たのかとても勉強が好きで、大学で英語を学んだ後にちゃんとした会社に就職した。その後大学の同級生と結婚して、そのだんなさんもお堅い仕事に就いているのでとりあえず弟夫婦も安心という、なんとも親孝行な娘だ。

余談だが、見た目が幼く見えるせいで、私の長女の結婚式では未成年が飲酒していると勘違いされたり(お酒はかなり強い)、また仕事で海外に出張するというのだが、外国の人から見ると余計に幼く見えて、子供がやって来たと思われはしないかと心配している。

そんな姪(めい)夫妻が茨城に遊びに来たいという。山口の山の中で育ったせいか、東京での都会暮らしに物足りなさを感じるらしく、通勤圏内のちょっと郊外、つまり茨城に住んでみたいらしい。

いつだったか、この姪夫婦がこの前うちに来た時に近くをドライブしたいというから、あいにく軽トラしか空いてないけどいいかと聞くと、むしろ軽トラがいいという。天気も良かったので筑波山方面を勧めておいた。軽トラには似つかわしくないいでたちの若いカップルは、うれしそうに出かけて行った。

軽トラには乗用車にはない特別感があるのかもしれない。座席は狭いし地面の振動がダイレクトに伝わってくるので、妙な一体感がある。地元民のような、労働中のような、気取りがないのもいい。どこを回ったのか詳しくは忘れてしまったが、夕方帰ってきた2人は茨城にも軽トラにも満足していた様子だった。

乗り心地は軽トラより軽乗用車

そんなことがあって(というか前回の軽トラデートも茨城移住の布石だったとも考えられもするが)、今回の軽トラデートの目的地は守谷らしい。守谷は都心へのアクセスも良く、今や人気の住宅地だ。車があれば海にも山にも行ける。都心から同じ距離・時間離れた神奈川や埼玉では、家賃も高いし車を持つのは容易ではない。

ただ2人にはその先の計画もあって、将来外国で暮らすという夢があるそうな。もしも私が親なら、せっかく安定した仕事に就いているのに…と思うだろう。ところが、弟夫妻は「自分たちの生きたいように」と言うばかりか、移住先に遊びに行きたいとまで言っている。

まあ、私も弟もまたその長女も海を渡って暮らした経験があることを考えると、「とりあえず日本脱出」という遺伝子が斉藤家には受け継がれているのかもしれない。

ところで、今回は軽トラではなく軽乗用車を貸した。守谷偵察?を終えて帰って来た2人は「やっぱり乗り心地は軽トラよりいいですね」と素直に答えた。

コロナ禍で結婚式はしていない姪夫妻。随分と長い間娘のために母親が編んだレースのドレスを着て、今年の5月、生まれ育った家の庭でやっと記念の写真を撮ることができた。あいにくの空模様だったそうだが、撮影をする間だけ雨雲が協力してくれたそうだ。

帰り際の姪に、むかごご飯を炊いて持たせた。しばらくして「むかごご飯おいしー!」とメールが来た。ふたりだったらなんとかなるさ。まずは茨城にいらっしゃい。軽トラ、いつでも空いてるよ。(画家)

小美玉市の古刹・鳳林院《日本一の湖のほとりにある街の話》17

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】小美玉市の鳳林院( ほうりんいん)は、14世紀の室町時代は応永年間に開山されたとされる、市内有数の古刹(こさつ)です。初心者歓迎の坐禅体験会を定期的に開催していることで有名な同寺にて、物思いにふけりがちな秋、煩悩多きこの身を清めるべく坐禅体験をしてきました。

そもそも坐禅は、インドの菩提達磨(ぼだいだるま)を開祖とする禅宗の修行の一つ。日本では禅宗の代表的な宗派に曹洞宗と臨済宗があり、それぞれ内容が異なりますが、曹洞宗である鳳林院では、一般的な坐禅のイメージに近い、ただただ無心に黙って坐る「只管打坐(しかんたざ)」という行を体験できます。

この月に一度の坐禅会は50年以上前から行っているとのことで、老若男女問わず、県内外から20人ほどの参加者があるそうです。 

まずはご住職に坐禅の流れをご説明いただき、早速体験に移ります。「結跏趺坐(けっかふざ)」という独特の足の組み方で坐り、両手を「法界定印(ほっかいじょういん)」という、半円を組む形で組みます。目は薄く開け、1メートルほど先の畳の上に落とし、天井から頭がつられているイメージで、いざ坐禅開始!

「煩悩の一つや二つ減らせるかな…」。いきなり煩悩が浮かびます。これはイカン。すると、「考えちゃだめだ、心を無に…」と思ってしまい、次いで「『考える』とはどういうことか?」と、意識の別のところから突っ込みが入ります。ううむ、心を無にすることのなんと難しいことか。

普通のしがらみを捨てるのが坐禅

しばらく、そんな感じに脳内で悪戦苦闘していると、ふと鳥のさえずり、さわやかな秋風の音がただ聞こえ、周囲と一体となった感覚が!…と感じるや、「あ、今無心になっていた!」と、湧き上がる雑念。トホホ、ふり出しに逆戻りです。

ほぼほぼ煩悩、合間にほんの少しの無心の境地?を体感し、十数分ほどで体験を終わりました。

「無心の境地を少しは得られるのではと思いましたが、難しいですね…」。苦笑すると、ご住職は穏やかにお答えくださいました。「初めて体験する多くの方が『何か得られるのでは』と期待されています。ですが、『ただただ坐り、一生懸命何もしない』ことで、普段のしがらみを『捨てる』のが坐禅なのです」

つまり、最初に「得る」のではなく、まずは余計なものを「置いていく」ことで、その結果として心身がリセットされ、新しい自分が得られるということなのだそう。

情報化の急速な進展により、私たちは常に膨大な情報の処理を強いられています。そのことに疲れてしまったとき、いったん心身をリセットする坐禅は、現代社会に生きる私たちにとって、とても心休まるリフレッシュの時間となるでしょう。ぜひ一度、日常の喧騒(けんそう)から離れたひと時をご体験ください。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

これまで紹介した場所はこちら

土浦一高の募集学級削減問題を考える《竹林亭日乗》10

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日没前の「紫峰」筑波山

【コラム・片岡英明】牛久栄進高の募集が来年から1学級増えるという、県教育庁のうれしい発表が7月にあった。一方、2020年まで8学級だった土浦一高の募集は、21年に7学級、22年、23年には6学級になり、来年は4学級に減らされることに心を痛めている。

教育庁は11月2日、土浦一高の来年の募集について、付属中からの進級2学級、高校4学級になると発表した。結局、私たちの高校学級削減停止の要望は届かず、土浦とつくばを中心とした県南の高校受験生は大きな苦労をかかえることになる。

そんな中、土浦一高の募集削減の影響を小さくとらえ、「付属中に入る生徒もいるので影響は少ないのではないか」といった疑問に聞くことがある。そこで今回は、高校受験を正確に論じるために、生徒の増減を、県立・私立の中高一貫や県立付属中の生徒を除いた、高校入試の当事者数で考えてみたい。いわば「真水」の分析だ。

中卒者が増えているのに募集削減

先の疑問に応えるため、つくば市の並木中等学校と茗渓学園中学校を除いた「市立中学卒業数」で、土浦一高の高校削減問題を考えてみたい。

23年入試では、つくば市立中学卒業者が入学した県立高校は、多い順に竹園高200人、牛久栄進高129人、土浦二高113人、土浦一高88人で、これらトップ4校の入学者数は530人。これは、つくば市立中学卒業数2183人の24.3%、茨城の県立高入学1265人の41.9%である。

トップ4校の募集学級数とつくば市立中学卒業数の推移を見ると、以下のようになる。

▽20年:4校とも8学級、つくば市立中卒業生1928人(32学級)

▽21年:土浦一高7学級、          同 1954人(31学級)

▽22年:土浦一高6学級、          同 2065人(30学級)

▽23年:土浦一高6学級、          同 2183人(30学級)

▽24年:牛久栄進9、土浦一高4学級    同  2175人(29学級)

20年入試は4校とも8学級で32学級だったが、県の「付属中を設置しても総学級数は増やさない」との方針で、土浦一高の募集枠は減っている。24年入試では20年と比べ卒業数は247人増えるが、受験者の多いトップ4校の募集は3学級減となる。

付属中設置と並行して、つくば市の高校受験生が減少しているなら、土浦一高の募集削減の影響は小さいが、実態は逆で、生徒増の中での募集削減になる。

生徒増に対応する募集学級増を

県の高校改革プランでは生徒の3分の2を県立高が担うとしているので、つくば市の増加数247人の3分の2に当たる164人分、つまり県立高4学級増が必要となる。そのうちトップ4校が県立入学全体の41.9%を占めるから、生徒増に伴い、トップ4校にはその41.9%の69人、最低1学級増が必要となる。

これは、20年の土浦一高8学級時代の水準を回復するには、24年時点のトップ4校で4学級増が必要であることを意味する。

以上、土浦一高の4学級削減への対策を考えてきたが、つくばエリアの県立高校不足と生徒増の中で、土浦一高の一層の定員削減は受験生にとって「泣き面にハチ」である。入学者の多いトップ4校を中心に、緊急に募集学級増ができないものだろうか。

11月の土浦一高の定員削減発表で、9月のコラムで書いたトップ4校の10学級体制の必要性がさらに高まったと思う。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

「東京ブギウギ」が教えてくれること《遊民通信》76

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【コラム・田口哲郎】 

前略

笠置シヅ子さんをモデルにした朝の連続テレビ小説「ブギウギ」がおもしろくて、見ています。笠置さんの「東京ブギウギ」は有名で、40代の私でも知っていました。このドラマが放映されるまでは、懐メロとして戦後復興の象徴として、人びとを励ました名曲という紹介のされ方をしていたと思います。

世界情勢はきな臭いですが、コロナ禍がようやく終息し、これから経済を復興させてゆこうというわが国の機運に、ふたたび笠置さんの「東京ブギウギ」はマッチしているのかも知れません。戦後復興の歌謡曲というと、思い出すのは、笠置さんと同じ松竹歌劇団出身の並木路子さんの大ヒット曲「リンゴの歌」です。

この歌をめぐって、ふたりの作家が正反対のことを言っていました。ひとりは堀田善衛さんです。戦後中国から引き揚げてきて、「リンゴの歌」を聴いて、あんなに悲惨で愚かな戦争で負けたのに、リンゴがどうのと歌って浮かれていてけしからん、と思ったそうです。

もうひとりは、なかにし礼さん。やはり中国から引き揚げてきたときに、「リンゴの歌」を聴いて、なんとすばらしいんだろう、もう自由なのだ、と感動したといいます。

ふたりの意見は真っ向から対立します。けれども、どちらにも感じるのは、戦争の愚かさと人びとに残した傷です。そして、とてつもない災禍を経験したあとに、深く悲しみ、絶望のふちに立たされながらも、日々懸命に生き、立ち直ろうとした人びとのひたむきな姿です。

リズムウキウキは人びとの真情

「東京ブギウギ」は、傷ついた人々を恋と踊りへといざなう歌です。世界のうたブギを大都会東京の月の下で恋人と踊ろう、と笠置さんは明るく歌います。イデオロギーや感情論でもなく、堀田さんの皮肉やなかにしさんの素直な感動をごちゃ混ぜにして、とにかく明るくゆこうという姿勢は、実は当時の人びとの心情の真実だったのかもしれません。

実際、日本は経済大国になり、バブル経済期に人びとはただひたすらディスコで踊り、世紀末にはクラブで踊ることになるのです。

思想や信条は天下国家を論ずるには大切かも知れませんが、そこで生きている人びとが持っている思いというもの、ついつい忘れられてしまう真情を、笠置さんの「東京ブギウギ」は気づかせてくれると思います。つらくても、音楽が流れたら、うれいなく踊る。

これは新しい感覚ではない気がします。作家の岩下尚史さんは、和歌は意味よりも調べが大切とおっしゃっていました。日本人は昔から、うさを忘れて、楽しいことに身をゆだねて、困難を乗り越えてきた人びとなのかも知れませんね。

「ブギウギ」の今後の展開が楽しみです。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

高齢者が抱える健康・孤独・お金の弱み《ハチドリ暮らし》31

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庭に秋のバラが咲いています

【コラム・山口京子】先月、「シニアのための消費者トラブル防止」の講座に呼ばれ話をしてきました。講座が終わって、改めてシニアをめぐる環境がどうなっているのか振り返ってみました。

日本人の高齢化率は上昇を続け、人口の3割弱は65歳以上となっています。また、世帯の構成では、単身世帯が全世帯の第1位を占めるようになりました。高齢者のお金を狙う詐欺や悪質な商法が後を絶ちません。

高齢者の抱える不安や弱みには、大きく分けて健康・孤独・お金の3つがあると言われています。

健康に関しては、テレビやラジオ、ネットやスマホ、新聞のチラシや雑誌の広告など、様々な媒体が健康食品やサプリメントなどの宣伝を四六時中流しています。老化は病気ではないのに、あたかも老化を病気のように見なし、アンチエイジングをすすめる風潮が気になります。

不安をあおって商品を購入させようとするマーケティング戦略が主流なのでしょうか。自分の軸をもって、批判的に広告を読み取る姿勢が求められているように思います。

孤独に関しては、1人暮らしが寂しい、話し相手がいない中、たまたま来た業者がやさしそうな人だったから、家に入れてしまった。話を聞いてくれて親切にしてくれたので、勧められた商品を断れず、次々に高額な買い物をしてしまったというケースがあります。

また、1人で対応したため、押し切られて契約してしまったなど、そうしたことを防止するには、地域の見守りを広げることです。高齢者の異変のサインに気づき、声をかけ、相談につなげる取り組みの重要性が指摘されています。

自分の不安や弱みを自覚する

お金に関しては、何年か前「老後2000万円問題」が話題になりました。老後のお金の見通しが立たない、お金が底をつくのが先か、寿命が先かという不安の声を聞きます。預金だけでは利息が付かないため、必ずもうかるという投資を勧められたが、お金を振り込んだ後連絡が取れない―といった相談が警察や消費生活センターに寄せられています。

トラブル防止には、自分の不安や弱みを自覚すること、相手となる悪質な業者の手口を知ること、対処の方法を事前に学んでおくこと、トラブルに遭ったら1人で悩まないで周りに相談することです。

そもそも広告のお勧めではなく、自分が本当に必要なのかを見極めること。購入の基準を価格の安さではなく、自分の必要度におくことが大事でしょう。お金の算段については、長期的な収支予想を立てたいものです。(消費生活アドバイザー)

2024年の米大統領選挙(2)パレスチナ紛争《雑記録》53

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黄バラ(筆者撮影)

【コラム・瀧田薫】米バイデン大統領はハマスのテロについて米国民に向けて演説し、米国がウクライナ戦争、パレスチナ紛争、そして対中国覇権競争、つまり三正面に戦争や紛争を抱えた厳しい状況にあると指摘した。一方、来年の大統領選挙で復活を目指すトランプ前大統領は「自分の在任中、中東に多くの平和をもたらしたにもかかわらず、バイデンはその平和をすり減らしている」(朝日新聞 ワシントン支局 10月8日付)と批判した。

今後、パレスチナ紛争がどのような経過をたどるか予断を許さないが、いずれにしても、次回大統領選挙における大きな争点になると思われる。

ところで、筆者がバイデン氏の演説中特に注目したのは、米国の過去の失敗について率直に吐露し、イスラエルがその轍を踏むことに重大な懸念を表明したことである。2001年、アルカイダによるテロを経験した米国人は、イスラエル国民がハマスのテロに感じている「恐怖、怒り、復讐心」を理解できるとして、まずイスラエルへの共感を表明した。その後、イスラエル国民に向けて、アルカイダのテロ時の米国民のように「怒りに我を忘れてはならない」と強調した。

9.11以降の米国は復讐心とナショナリズムで燃え上がった。ジョージ・W・ブッシュ大統領は2003年、イラクのサダム・フセイン政権がアルカイダを支援し大量破壊兵器を保有しているとして、対イラク戦争を宣言した。国連武器視察団はイラクに大量破壊兵器が存在しないと公式に発表し、英国を除く仏、独、カナダなどの友邦はもちろん、ホワイトハウス国家安全保障会議(NSC)からもイラク情勢を見誤っていることへの懸念の声が出ていた。

にもかかわらず、ネオコン(新保守主義者)の声に圧倒されてイラク戦争は強行され、独裁者フセインは捕らえられ処刑されたが、米国は戦後イラクの秩序回復に失敗した。結局、オバマ政権が2011年にイラク駐屯軍を撤収させたが、イラク国内は無政府状態となり、その後さらに暴力的で破壊的なテロ組織ISIS(イスラム国)が出現する契機となった。

ハマスが仕掛けた罠

軍事専門家は、イスラエル軍がガザを徹底的に破壊し、ハマスを殲滅できたとしても、その後の見通し(実行可能な安全保障、統治戦略)がないままであれば、自国の政治的混乱を招来し、より手強くより過激な敵(パレスチナの一般市民の復讐心から生まれる)をつくる結果を招く。そうなれば、イスラエルはハマスの仕掛けた罠(戦闘に敗れても戦争に勝つ戦略)に陥ることになると分析している。

心に衝撃をうけ、恐怖や怒りに我を忘れている人間をどう落ち着かせるか。心理学の専門家であれば、バイデン氏が強調した「共感すること」が最善の方法であると言うだろう。果たしてイスラエル首相ネタニヤフ氏は国内外から噴出するハマスへの復讐心や恐怖心を抑え込めるだろうか。もし、勢いに任せてガザに侵攻すれば、その結果はイスラエルにとって惨憺(さんたん)たるものになるだろう。(茨城キリスト教大学名誉教授)

茗渓の学園運営に磨き TX駅南移転は29年 《吾妻カガミ》170

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現在の茗渓学園の正門側

【コラム・坂本栄】日本自動車研究所(JARI)の未利用地(TX研究学園駅南側)売却は、売り手=JARI、買い手=大和ハウス工業、主な活用者=茗渓学園学校の3者にとって好ましい、WIN-WIN-WINの形になりました。今やつくば市の中心区になった研究学園駅周辺は、北側の商業ゾーンに加え、南側の開発も進むことで、一層にぎわいそうです。

人材育成と中高一貫が一致

記事「…自動車研用地に茗渓学園が移転へ …研究学園駅南側、大和ハウスが開発」(10月20日掲載)にもあるように、広い土地の売却は「公募型プロポーザル」で行われました。取得希望企業の提示価格(配点500)と事業計画(配点500)を採点し、合計点が一番高い企業に売却する方式です。JARIは、「高く売りたい」だけでなく、「どう使われるか」も重視したわけです。

公募要領には「環境配慮、産業発展、人材育成…を意識した取り組み…」と記載し、応募企業に学園都市にマッチする事業計画を提出するよう求めました。結果は、計画に「中高一貫校」を盛り込んだ大和ハウスが897点と、805点の2位企業、783点の3位企業を大きく引き離しました。JARIと同社の考え方が合致したと言え、WIN-WINです。

話があったのは今年の3

大和ハウスの計画では、取得用地の30%弱が「中高一貫校」に割り当てられ、「人材育成」が事業計画の目玉になっています。同社は、その学校として私立の茗渓学園(つくば市稲荷前、学生数1526人、1979年創立)に狙いを定め、水面下で話を進めてきました。

茗渓学園校長・理事の宮崎淳氏

茗渓学園の宮崎淳校長・理事によると、この件が大和ハウスから提案されたのは今年3月でした。「それまでは、創立70周年に向け、現在地に新しい施設を造り、体育館に冷暖房を入れるといった、長期計画を立てていた」。思わぬ話に上層部は驚いたそうですが、今では「茗渓にとって駅南移転は大きなプラス」とのコンセンサスができています。

大和ハウスのスケジュールでは、売買契約=2023年11月、受け渡し=23年12月、商業施設完成=26年夏、マンション完成=28年初、中高一貫校完成=28年初となっていますから、28年4月のTX駅南開校(学園移転)が可能です。しかし、今の中学1年生の通学先が途中で変わらないよう、駅南開校=29年(創立50周年)春を考えているそうです。

強力な筑波大&経済界人脈

茗渓学園は、筑波大学とその前身の東京教育大学のOB会「茗渓会」によって設立されました。14人の理事の中には筑波大の現・元教授が3人います。経済界との関係も強く、現理事長は中川喜久治氏(中川ヒューム管工業社長、土浦商工会議所会頭)です。理事には関正樹氏(つくば市に本社機能がある関彰商事の社長)も名を連ねています。前理事長は常陽銀行頭取を務めた西野虎之介氏(東教大OB、故人)でした。

こういった強力な筑波大&経済界人脈を背景に、茗渓学園は駅南移転を機に大化けし、3者中1番のWINNERになるかもしれません。

現在の生徒概要は、▼県外から32%/県内から68%(つくば市内39%)▼帰国子女約300人▼留学生約40人▼寄宿舎利用者約230人▼海外大合格者約120人(累計)―ですが、TX駅南への移転によって首都圏からの生徒が増え、「入口も出口も海外」(宮崎校長)という学園の特性に磨きがかかると予想されるからです。(経済ジャーナリスト)

<駅南開発模型の説明>

校長室に置かれた駅南開発の模型

▽左の模型:斜めに通る道路の左上はマンション区。道路の右上が中高一貫校区。道路の下は商業施設区と研究施設区。一番下は物流倉庫区。

▽右の模型:中高一貫校区を拡大。ブルーは学校棟や寄宿舎など建物。グリーンはラグビー場など校庭。

地域の寺社仏閣「ゲニウス・ロキ」《看取り医者は見た!》6

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写真は筆者

【コラム・平野国美】著名な神社・寺院の近くには駅が建てられた時代がありました。駅名に限らず、地名や門前の商店街にもその名称が使われています。これらの宗教施設は、地域の信仰や歴史的な背景を示すものとして、地元の人々にとって重要な存在なのです。前回コラムで書いた「地霊 ゲニウス・ロキ」の一つでもあると思います。

それは地域のアイデンティティであり、観光客にとっても、その地域の歴史や文化に触れる機会となります。宗教が少しタブー視される現代ですが、我々の伝統的な宗教は、そこがコミュニティでした。昔は寺子屋として読み書きを習い、人生相談の場所であり、誕生から成人を、そして死までの通過儀礼に関わってきた場所でした。

しかし、少しずつ、その存在が意義を失いつつあると思えるのです。関係者から話を聞いていると、存続維持には経済的な問題も出てくるのです。人口減少もあり、今後に危機を感じている寺社仏閣は多いようです。「月間住職」という雑誌も、かなり以前から、この種の問題を取り上げています。寺社仏閣だけでなく、個人商店、私どもの存続も同様の問題です。

テレビCMが流されている有名な厄よけ大師は、跡取りが帰った時には存続の危機だったそうです。そのとき、住職の年齢が厄年に当たり、同窓会名簿を使いダイレクトメールを出した結果、今の隆盛となったそうです。五芒星(ごぼうせい)のマークで有名な京都の神社も、50年前は次の台風で倒壊の危険もあったそうです。

近隣の住人のボランティアで、何とか維持されていたそうですが、安倍晴明が小説・映画に登場した瞬間に女子高生にブレイクし、京都で一番経済効率の良い神社になったそうです。しかし、五芒星を印字した商品をコントロールしようとして、門前の住民との対立を招いたようです。

寺社仏閣は町おこしの起爆剤となるのか?

今、寺社仏閣は町おこしの起爆剤となるのか? 寺社仏閣は地域の文化や歴史と深く結び付いており、古い建築物や芸術作品、宗教行事には独自の魅力があります。それゆえ、観光資源としての役割も果たします。地域に観光客を呼び込み、地域経済の活性化につながる可能性があります。

そして、日常においては交流・イベントの拠点となるのです。宗教行事に限らず、様々なイベントが行われ、地域の活性化やコミュニティの形成に寄与することがあります。 ただし、宗教施設単独では、その効果も薄いでしょう。町おこしの成功には他の要素も関与します。例えば、交通、宿泊施設、他の観光資源との連携などが必要です。強いては、地域住民との協力なども必要です。

寺社仏閣が町おこしの起爆剤となるかどうかは、地域の特性を住民と、どう考えるか? 決して、立派な施設だけでなく、「けったいなもの」が面白い仕掛けになることもあります。上の写真は、そんな魅力を感じるものです。(訪問診療医師)

わたしたちのことばのおはなし《ことばのおはなし》63

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】ドイツ式の乾杯は、相手の目から目を離しちゃいけないんだ。日本でビールジョッキを持ち上げ、英語で話す台湾人の彼女の目を見つめながら、わたしはいろいろなことを思い出していた。

今からちょうど20年前の台湾。わたしは14歳で、彼女は12歳だったと思う。まだ共通の言語を持っていなかったわたしたちは、常に手近にある紙と筆記具で漢字と絵を書き殴り、身振り手振りで意思疎通をしていたんだ。もっともっと話したいことがあるのに、表現できない。伝えられない。これはわたしの、ことばというものに対する核となる想いだ。

彼女はあれからイギリスに留学した後、ドイツで結婚して今はホーチミンにいる。日本に来たのは久しぶりだ。駅の改札で待ち合わせをしたわたしたちは、さっと歩き出しながら英語で会話をする。紙と筆記具が無くても会話ができるというのは本当に便利で、幸せなことだ。

わたしたちは生まれる場所を選べないのと同時に、生まれた場所に依存するとは限らない母語を選ぶこともできない。しかし、幸いにも、わたしと彼女は共通する第二の言語を選択することができた。自分の話す第二の言語を自由に選択できるというのもまた、幸せなことだ。

英語8割に日本語と独語と台湾語

「さて、どうしようかな」とわたしが東京のビル群を見上げながら言うと、「ドウシヨウカナ」と彼女がマネをする。「You understand?」「No.」「I wonder what to do.」「ナルホド」わたしたちの共通言語はもはや英語だけではない。何語だろうと使えるものはすぐに学んでなんでも使わなければならない。

本屋には行きたい。でもあとはどこでもいいかな、と彼女は言った。あなたに会うことが最優先事項だったんだから、場所はどこでもいいよ。

違いない。まぁ、案内する身としては困らないでもないのだが。一日中話しながら、あてもなく東京を歩き回って、最後はわたしもよく知らない居酒屋に入った。日本に来たんだから日本酒にしようかと思ったが、ビールにした。大ジョッキだ。

中ジョッキと大ジョッキはどれくらいの量なのかと聞かれる。日本のそれはハッキリとは決まってないんだ。ドイツと違って。 Eichstrichもない。 英語8割に日本語とドイツ語と台湾語が混じって、ときおり自分がどこにいるのかわからなくなる。この感覚が、わたしは本当に好きなんだ。

ことばとは何なのだろう。学問の問いとして曖昧過ぎることはわかっているが、それでも考えてしまう。まぁいい。今はもう一杯だけ飲もう。わたしたちはもう一度、ドイツ式の乾杯をする。(言語研究者)

「土浦の花火」の歴史と見どころ《見上げてごらん!》20

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2022年に優勝した3部門の花火(筆者提供)

【コラム・小泉裕司】再来年の2025年、「土浦の花火」は100年を迎える。1925年9月、神龍寺(土浦市文京町)住職の秋元梅峯和尚が、霞ヶ浦湖畔で開催した「土浦町全国花火競技大会」がルーツ。当時も今と同様、全国から花火師が集ったという。

山本五十六元帥も関係? 

この花火大会は、霞ヶ浦海軍航空隊殉職者の慰霊、秋の収穫への感謝や商工業の活性化が開催の趣旨とされている。長岡花火(新潟県)を見て育った山本五十六元帥が航空隊に副長として着任し、神龍寺山門近くに下宿していた時期と重なることから、資料としては確認されていないものの、彼が大会誕生に関わりがあったとしても不思議はない。

戦争や水害、天皇の崩御、最近では連続した花火事故、コロナ禍などによる中止や中断を乗り越えながら、11月4日(土)に第92回大会を迎える。これまで、大会の発展に尽くした先人の優れた知恵や計り知れない苦労があったに違いない。

戦後の大会の再開と発展に貢献したのが、北島義一氏(元土浦火工㈱社長、1908~79)。数々の競技大会で優秀な成績を収めるなど、花火技術の発展に寄与すると同時に、後進の育成にも力を注いだ。義一氏の教えは、山﨑芳男氏(山﨑煙火製造所会長)や今野正義氏(㈱北日本花火興業会長)など、その後の日本花火をけん引する花火師達に引き継がれている。

20回目の内閣総理大臣賞

毎年、大会に前後して、義一氏とゆかりのある煙火業者の面々が神龍寺の北島家の墓所を訪れ、墓前に白菊が手向けられる。その姿を、大会の始祖・梅峯和尚の銅像がかたわらから見守る。もちろん、筆者も大会前後に神龍寺を訪れ、大会の安全を祈願して両所で手を合わせる。

2000年から授与され今回で20回目の「内閣総理大臣賞」には、こうしたご縁に導かれた経緯がある。そもそもは1961年にさかのぼる。この年から、義一氏の努力により「通商産業大臣賞」が授与されることになったが、俯瞰(ふかん)的視野の義一氏の後押しがあって、1964年から大曲花火(秋田県)にも同賞が授与されることになった。

時は流れ、2000年。大曲に「内閣総理大臣賞」が授与される際には、通産大臣賞の恩返しとばかり、大曲から国への働きかけによって、土浦にも授与されることになったという。まさに同志としての「友情物語」が、両大会の発展の礎になっていることは間違いない。

筆者提供

10号玉、創造花火、スターマイン

土浦全国花火競技大会は、打ち上げてから消えるまでのわずか10秒前後の間に幾重もの同心円を描く「10号玉」、花火師のクリエイティブなセンスと新技術が楽しめる「創造花火」、夜空を千紫万紅に彩る「スターマイン」の3部門に分かれて、優勝を目指して競技が展開する。

各部門の優勝者の中から、最も優れた作品を打ち上げた業者に、花火師最高位の名誉である内閣総理大臣賞が授与される。技術力、芸術性、創造性、品質性などで日本最高峰の花火作品が、晩秋の澄んだ夜空に集結する。花火師にとっては、今年1年の集大成とも言うべき頂上決戦が始まる。

今年から審査標準玉を変更

さて、大会進行で変更となる点、注目すべき作品や煙火業者を紹介しよう。まず、競技開始の直前に打ち上げる「審査標準玉」が今年は変更となる。昨年まで、芯が2つ、全体で3つの円を描く10号玉割物「八重芯変化菊」を採用していたが、今年からは芯が3つ、全体で4つの円の「三重芯変化菊」を採用する。

八重芯が初めて登場したのは1928年と歴史も古く、今年の八重芯出品は1玉となっており、妥当な変更といえる。むしろ遅すぎた感も否めない。審査員長が採点した標準玉の点数を参考として、以後89作品の審査が行われるのだが、例年は70点中盤がアナウンスされる。そのわけは、ここで高得点を付けると、実績豊富な業者が登場する後半の採点の際、大いに困ることになるから。

10号玉の注目は、6業者が挑戦する「五重芯」だろう。まさに匠(たくみ)の技。完璧な6つの真円を描いた作品が優勝に最も近いといえるが、目視できなければ意味がない。すべて手作りで作られる粋な花火に、ビデオ判定などもってのほか。

ハートや動物の「型物」に注目

今年の創造花火は、「型物」に注目したい。「型物」は、たとえば、ハートや動物の形などを模した2Dの世界なので、審査員に意図した形が見えるどうかがポイント。今年は「型物の神」と言われる㈱北日本花火興業(秋田県)、㈱芳賀火工(宮城県)、北陸火工㈱(石川県)の女性花火師の作品が要チェックだ。

スターマインの最近の傾向は、レギュレーション(規定)の400発をめいっぱい打ち上げる「スターマインの土浦」ともいわれる「迫力系」と、1玉1玉をじっくり見せる「しっとり系」に分かれる。いずれにしても、すべての作品が音楽付きなので、曲と花火のマッチングが優劣を決めることになる。

打上げ時は人の前を歩かない!

最後に、有料観覧席で見る皆さんにお願いがある。花火が打ち上がっているときは、人の前を歩かないこと。作品は、上空、中空、低空を効果的に、まさに生け花のごとく描き出す。これからという佳境に、「あなたの顔は見たくない」。

花火の公式パンフレットで、作者のコメントを読みながらイマジネーションを膨らますのもよし、何も考えず、ただひたすら音と光の世界に没頭するもよし-。花火の楽しみ方は、それこそ自由。

私は、東京高円寺にある「気象神社」から木箱入りのお守りを取り寄せた。どうか御利益がありますようにと安全祈願。恒例の「打ち留め-」は、大会終了まで、「おあずけー」「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

仕事に慣れても胸が痛む《医療通訳のつぶやき》2

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陽子線治療用のマスク

【コラム・松永悠】1年って早いものですね。気が付けば秋です。読書の秋とか、食欲の秋とか、スポーツの秋とか、まあ色々あります。私の秋はなんだろうと思った時、なかなかまとまらなくて困りました。

平日は仕事をこなして、パーソナルトレーニングジムでガチ筋トレも楽しんで、そして週末だってやることがいっぱいです。9月には日本酒フェスのボランティアスタッフを2回、10月には自分で大人数の食事会を主催したり、着物仲間と着物で川越まつりに行ったり…。やりすぎじゃない?と周りから言われることも、1回や2回じゃないです。

医療通訳の仕事をする時、医師や患者と濃厚な話を長時間交わし、プライベートのイベントでは、初めて出会う来場者や久しぶりに会う友人と楽しい会話をいっぱいするように心がけています。笑顔で浅く広く、とにかく、たくさんの人と話すことに集中します。

これはエネルギーをたくさん必要とすることです。でも私はこのエネルギーを消費して、次につながるエネルギーを生み出しているのです。どうしてここまでやるのか、週末くらいのんびりしたらいいのではと疑問に思う人もいると思います。

リスクを抑え人生を楽しむ

理由は医療通訳という仕事にあります。数年前からがん患者や難病患者ばかり担当していて、小児がんの幼稚園児から高齢患者まで、様々なケースを見てきました。どんなにこの仕事に慣れているといっても、やはり胸が痛む状況と遭遇します。

脳腫瘍を患っているのに無邪気に笑っている小さい子供。再発におびえながら最先端治療である陽子線に希望を託すエリートサラリーマン。初めての来日はまさかのがん治療という高齢者。一人ひとりストーリーが違っていても、共通しているのはもっと生きたいという気持ちです。

ある10歳の男の子がすっかり私に懐いてくれて、会うたびに世間話をいっぱいしてきて、私もニコニコしながら対応します。しかし、実はこの子が思わしくない状況でした。成功率を高めるために、陽子線治療と同時に化学療法もすることになって、そうなると発熱、嘔吐、抜け毛といった副作用がこの明るい子を苦しめることになります。それを私はただ見ているだけで、できることは一つもありません。

いつからか、私は変わりました。この患者たちがしたくてもできないことを、私がいっぱいしようと思うようになりました。日頃からしっかり健康管理をして、胃カメラ、大腸カメラ、がん検診などを欠かさず受け、リスクを最小限に抑えて、あとは最大限に人生を楽しむことにしました。

上の写真のマスクは陽子線治療をする際、顔を固定するためのもので、子供患者を励まそうとヒーローが描かれています。治療室の中には頑張れという意味の中国語「加油」も貼ってあります。病気と戦う人はみんなヒーローです。そして彼らに伴走する私にできるのは、一生懸命仕事することと、一生懸命人生を楽しむことです。(医療通訳)

知識や経験の風船が膨らむと《続・気軽にSOS》143

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【コラム・浅井和幸】何事にも経験を重ねると、感じられることが増えていきます。知識や技術も増えて、多くのことを自分のものとしていけるでしょう。一歩一歩は小さくても、その積み重ねが大きなものとなっていくものです。

何か新しいことを始めたとき、自分は大きなものを得た気分になるでしょう。それは、格闘技イベントの観戦をしたときに、まるで自分が強くなったかのような。はたまた、福祉や心理学の講演を聞きに行き、初めて知った知識を得意満面に誰かに話したくなるような。

初めてのこれらの感動に包まれながら、自分はすでに大きなものを得たと感じられることでしょう。さらに、このままいけば10年後には知らないことはなくなると思えるかもしれません。3年先輩は全く手の届かない存在に感じられて、自分も3年後にそうなれるか心配になりながらも、人から手の届かない人間になれると考えるかもしれません。

学ぶほど自分の小ささを感じる

しかし、この世界はとてつもなく広く、自分が知ること感じることは、その世界のほんの一部に過ぎないことに気づくようになります。なぜか、学べば学ぶほど自分の小ささを感じるようになることもあります。

それはまるで、風船が膨らめば膨らむほど、風船の表面積が大きくなるように、物事を知れば知るほど、知らないことの多さに気づくようになるものです。それが、誰も知らないことを自分は知っていると感じる、もしくは考えているとしたら、たいして膨らんでいない風船であり、膨らんでいるとしても、風船の内側しか考えられなくなっている自分を顧みることをお勧めします。

そうしないと、大した量を得ていない小さな風船のような知識のままで、さらに小さな中の世界を見るだけで、成長につながらない状況に陥っているかもしれないのですから。(精神保健福祉士)

ゲルニカをまた描くのか《ひょうたんの眼》62

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ふくれみかん(筆者撮影)

【コラム・高橋恵一】「ゲルニカ、重慶、広島」という言葉をご存じだろうか。第2次世界大戦の前夜、1937年4月にスペイン・バスク地方の古都ゲルニカをドイツ空軍が突然爆撃した。人口7000人の3分の1が犠牲になり、都市無差別爆撃の始まりといわれている。

当時、空襲下の市民の恐怖、怒り、悲しみを描いたピカソの壁画で知られているが、その後も、日本軍による重慶爆撃、米国による広島への原爆投下があり、ゲルニカの犠牲者2000人、重慶の犠牲者2万人、広島の犠牲者20万人。狂気が10倍ずつ拡大する一般市民への都市無差別爆撃に、人類への警告を込めたのが「ゲルニカ、重慶、広島」である。

広島から80年経った現在、パレスチナの地で、イスラエルとアラブのテロ組織が、報復、復讐の繰り返しの挙句、地球上の80億人の目の前で、大虐殺が行われようとしている。

ガザ地区は、幅10キロ、長さ40キロ。太平洋と北浦に挟まれた砂丘状の鹿島地方(鉾田市、鹿嶋市、神栖市)のような地域だが、そこに220万人が住んでいる。今、毎日、空爆が続いており、すでにゲルニカの3倍の民間人が死んでいる。さらにイスラエルの地上部隊がトンネルに立てこもるハマスを壊滅させるため、ガザ自治区内に侵攻しようとしている。

ガザ地区紛争、戦争でなく妥協で

80年前、日米戦の硫黄島では、日本軍が島内に坑道を張り巡らし、執拗(しつよう)にゲリラ戦を展開してほぼ全滅し、米軍も膨大な死傷者を出した。2万1000人の日本軍は、戦傷で捕虜となった約1000人を除いて全員が戦死した。6万1000人の米軍は、戦死6800人、戦傷2万1900人とされている。一般住民は、全て島外に疎開した。

沖縄は、米軍上陸前からの艦砲射撃と空襲により、市街地は廃墟となり、住民は島北部山中と島南部の石灰岩台地に点在する自然洞窟「ガマ」(地下壕)に避難したが、日本軍が司令部ごと南部撤退して、避難住民を戦闘地帯に巻き込むことになり、絶望的な状況になってしまった。

沖縄線での日本軍(含む軍属)戦死者9万4000人、民間人死者は9万4000人とされるが、沖縄で招集された軍人軍属(2万8000人)など含めると、約15万人、県民の3人に1人が死亡した。米軍の戦死者は1万4000人、戦傷者は5万6000人。戦力の差がはっきりしていたが、勝者の被害も膨大な戦闘の結果である。

迫っているイスラエルのガザ侵攻は、沖縄戦と硫黄島戦を合わせた、戦争の名を借りた大虐殺行為になることは誰の目から見ても明らかだ。ハマスは人質を解放し、武装解除して、ガザを去る。イスラエルはガザ自治区を解放し、ヨルダン川西岸地区への入植を中止し、オスロ合意を順守する。国連が平和維持部隊を派遣してでも、これらを保障する。

同じ土地に、主権国家が重複するということは、永遠の戦争ではなく、妥協するしかないのだ。(散歩好きの土浦人)

おばけカボチャ《短いおはなし》20

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

秋の日はつるべ落とし。

おばあさんは夕食の支度の手を止めて、カーテンを閉めようと窓辺に寄った。

「おや?」

庭に、おばけカボチャが立っていた。

いつもなら、ギャーと叫んで失神するところだが、おばあさんは驚かない。

なぜなら今日はハロウィンだから。

「あらあら、おばけカボチャに仮装しているのね。どこの子供かしら。ええっと、お菓子をもらいに来たのよね。たしかクッキーがあったわ。ちょっと待ってね。おばけカボチャさん」

おばあさんはキッチンの戸棚からクッキーの缶を取り出した。

「あったわ」

振り向くと、おばけカボチャが、おばあさんのすぐ後ろにピタリとついていた。

「ああ驚いた。なあに。待ちきれなかったの? はい、クッキーよ」

おばあさんがクッキーを差し出しても、おばけカボチャは受け取らない。

「いらないの? これしかないのよ。困ったねえ」

おばけカボチャは何も言わない。じっとおばあさんを見ている。

「そろそろおじいさんが寄り合いから帰ってくるわ。夕飯の支度を急がなきゃ」

おばあさんはスーパーの袋から大きなかぼちゃを取り出した。

それをまな板の上に置くと、流しの下から出刃包丁を取り出し「えいやあ」と振り下ろした。

「ひいっ!」

叫んだのは、おばけカボチャだ。

「おやまあ、あんた、どうしたの?」

振り向いたおばあさんの手には、よく研がれた包丁が握られている。

「うわあああああ」

おばけカボチャは、一目散に走り去った。

「あらまあ、お菓子いらないのかしら。変な子ね」

夜、寄り合いから戻ったおじいさんは、大好物のかぼちゃの煮物に舌鼓を打った。

「うまいかぼちゃだ」

「おじいさん、そういえばね、今日、おばけカボチャが来たのよ」

「なんじゃ、それは?」

「ハロウィンの仮装よ。どこかの子供がおばけカボチャに仮装してきたのよ」

「子供? ここは老人専用の集合住宅だぞ。子供なんかいないだろう」

「あら、そういえばそうね。じゃあ、あれ、本物のおばけだったりして」

おばあさんは、かぼちゃの天ぷらを食べながら首をひねった。

* * *

そのころ、おばけカボチャは、こっぴどく叱られていた。

「人間を驚かせるのがおまえの仕事なのに、逆に脅されてどうする」

「すみません。でも、あのばあさん、まるで山姥(やまんば)ですよ。包丁で真っ二つにされるところでした」

「ハロウィンと重なってしまったのが失敗だった。次こそ頑張れ。リベンジの日は12月22日だ」

「はい。今度こそ、しっかり驚かせます」

* * * *

「ねえ、おじいさん、西洋ではカボチャと言えばハロウィンだけど、日本はやっぱり、カボチャと言えば冬至ね」

「そうだな。ばあさん、おいしいカボチャを頼むよ」

「包丁、研いでおかなくちゃ」

冬至は、12月22日です。(作家)

放射線治療装置をリニューアル《メディカル知恵袋》1

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新しい放射線治療機器(リニアック)

【コラム・大城佳子】筑波メディカルセンター病院の医療従事者がこのコラムを担当することになりました。少し難しいかもしれませんが、皆さまのご参考になればと思っています。

放射線治療とは

放射線治療は手術や薬物療法と並び、がんの治療の中で重要な役割を果たしています。放射線治療はその名前の通り放射線をがんに照射します。放射線が当たったがん細胞はDNAに損傷を受け、死滅していきます。陽子線や重粒子線も放射線治療の一つです。当院では最も一般的なX線を使った治療を行っています。

X線はレントゲンやCT検査に用いられています。レントゲン検査の際に何の刺激を感じることなく、すぐに終わってしまうのと同様に、放射線治療も痛みや熱を感じることなく、短時間で終了します。体への負担が少ないことが放射線治療の最大の利点です。

そして放射線治療は「病気を治す」という根治目的以外にも、症状を良くする緩和照射、例えば、がんの痛み止めや麻痺の予防、止血などにも効果を発揮します。ですから、放射線治療はがん治療において幅広い効果を期待できます。

一般的にがん細胞は正常細胞にくらべて放射線に対して弱いため、毎日少しずつ照射をすることにより、正常な細胞を回復させながら、がん細胞だけを死滅させることができます(図1)。そのため、放射線治療では一般的に平日毎日の通院が必要です。図1

新しくなった放射線治療

近年、より高精度で効果的、そしてより副作用が少ない治療を目指して、放射線治療技術は目覚ましい進歩を遂げています。

当院では2015年以降、強度変調放射線治療(Intensity modulated radiotherapy : IMRT)を導入しています。これは「機械から出てくるビームの強さを変えて、避けたい臓器の線量を下げて、目的の腫瘍(しゅよう)にたくさん放射線を当てる」という治療です。当初は前立腺癌の治療にのみ利用されていましたが、最近は肺や骨盤など、様々な部位の照射に応用しています。

これにより、これまで治療が難しかった症例が治療できるようになったり、より副作用を少なく治療できるようになったりしています。

今回(2023年10月)、新しい放射線治療の機器(リニアック)が稼働します(写真)。通常の放射線治療に加えて、より高精度な治療に特化した仕様となっています。

小さな脳転移に対しては定位照射が適応となることが多いです。定位照射とはピンポイント照射ともいわれる治療です。小さな腫瘍に対して、大きな線量の放射線を少ない回数で照射することにより、強い効果を発揮します。これまで、複数個の転移に対して定位照射を行う場合は、一個ずつ治療する必要がありましたが、新リニアックでは一度に複数個の転移を治療することができるため、治療期間を短縮することができます(図2)。

図2

また、近年では背骨(脊椎)の転移に対しても、定位照射を行うとより進行を抑えることができ、高い効果が期待できることが報告されています。しかしながら、背骨の中には太い神経の束である脊髄があり、たくさんの放射線が脊髄に照射されてしまうと副作用により麻痺が生じてしまいます。そのため、定位照射は非常に難しく、再照射も困難でした。

しかし、新リニアックには背骨の定位照射に特化したソフトが導入されたため、これまでに比べて定位照射のハードルが下がり、再照射が可能になる機会も多くなります。

最近の放射線治療

日本では歴史的背景から一般的に放射線に良い印象は持たれていません。しかしながら、医療で用いる放射線はその安全性が確立されています。また、一昔前は放射線治療=治らないという時代もありました。しかし、わずか10年前と比べても、現在の放射線治療の技術は格段に進歩し、より効果が高く、より安全になっています。

放射線治療の方法は様々です。ここにご紹介した高精度照射ではなく、古典的で簡単な放射線治療が最適な場合もあります。茨城県は通常のX線治療のみならず、筑波大学に陽子線治療、つくばセントラル病院にサイバーナイフを有しており、非常に放射線治療機器に恵まれています。

当院では、必要があればこれらの近隣施設にご紹介し、それぞれの特性を生かしながら、地域全体で、できるだけ速やかに、最適な治療を提供していきたいと考えています。(筑波メディカルセンター病院 放射線治療科診療科長)

【注】この記事は筑波メディカルセンター病院広報誌「アプローチ89号」でもご覧いただけます。

横瀬夜雨の小貝川堤《写真だいすき》25

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夜雨の生家近い小貝川堤は、今はきれいに整備され、詩碑の傍には舗装道も通っている。夜雨はこのあたりに腰を下ろし、筑波山の四季の移ろいを眺めていたのだろうか(写真は筆者)

【コラム・オダギ秀】横瀬夜雨の小貝川堤。悲しみを託して詠(うた)った詩が、その悲しみゆえに世間に称賛され、どんなにもてはやされたとしても、その悲しみが癒やされるわけでは、決してない。下妻市横根。筑波山を仰ぐこの地をぬい、小貝川が流れている。川堤には、草木に覆われて、うずくまるように詩碑がひとつ立っている。

花なる人の恋しとて

月に泣いたは夢なるもの

破れ太鼓は叩けどならぬ

落つる涙を知るや君

「やれだいこ」と題されたこの詩の作者は、横瀬夜雨(よこせやう、1878~1934)といい、茨城の3大詩人のひとりと言われている。

夜雨の家は近在に知られた豪農だったが、彼は、3歳の時、くる病に罹(かか)り、2年遅れて小学校に入学、成績は常に一番であったという。だが4年の時に骨身にしみる屈辱感を味わい、以来登校せず、自宅にこもって読書独学し、詩作を始めた。そんな中、夜雨は、近隣の美少女 琴に思いを寄せたが、彼女は間もなく嫁いでしまった。

叩けど鳴らぬ破れ太鼓

詩碑の「やれだいこ」は、くる病と、進学もできなかった劣等感を負った夜雨が、初恋と失恋の中で月に泣き、自らを、叩けど鳴らぬ破れ太鼓と自嘲した詩なのであった。が、夜雨の悲しみを詠った心とは裏腹に、彼の詩の評価は彼の成長とともに高まった。

夜雨の詩に惹(ひ)かれた文学少女が、夜雨を訪ねて来たことも再三あったという。だが、薄暗い部屋にうずくまる彼の姿を見て、逃げるように帰って行った者も少なくはなかったと伝えられている。

異性へのあこがれと孤独とを胸に抱きながら青春時代を過ごした夜雨は、ちょうど川堤の詩碑のあたりに腰を下ろし、筑波を望むのが常であったらしい。筑波山の朝夕の色の移り変わりを眺めて、心を満たしていたのだろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

里山の鳥 モズ《宍塚の里山》106

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モズ(筆者提供)

【コラム・片山秀策】今回は、秋になると里山で目立ち始める野鳥、モズについて紹介します。モズは、スズメとムクドリの中間の大きさで、里山だけでなく市街地でも見られる鳥です。漢字で「百舌鳥」と書くように、ウグイスなど他の鳥の鳴きまねが得意です。

関東では1年中いるのですが、秋から春にかけて鳴き声を出したり、子育てをするなど活発に動き回るので目立ちます。童謡「モズが枯れ木で」で歌われるように、木や電柱の天辺(てっぺん)で「キチキチキチ」や「キーィ」と鳴き声をあげる「高鳴(たかな)き」を始めると、秋が到来します。

モズの高鳴きはエサが少なくなる冬の訪れに向けての縄張り宣言で、縄張りが見通すことのできる高い場所で鳴くのです。縄張りに入ってきた別のモズを見ると、雌雄に関係なく追い払い、時には激しくつかみ合いになることもあります。

「モズの高鳴き七十五日」ということわざがあって、高鳴きを初めて75日目に初霜が降るということで、農作業の目安にしている地域もあります。

モズの貯蔵食のハヤニエ

モズのエサは主に昆虫やカエルなどの小動物ですが、ネズミや小鳥など自分の体と同じくらいの大きさの動物を狩ることがあるので、「小鳥の猛禽(もうきん)」と呼ばれることもあります。猛禽は脚で獲物を捕まえますが、モズはクチバシで獲物をくわえて捕まえます。

狩った獲物はすぐに食べるだけでなく、木の枝や棘(とげ)に刺して冬の間の保存食にする「早贄(ハヤニエ)」を作ります。ハヤニエは他の野鳥では見られない行動です。注意して見ていると、イナゴ、カエル、ネズミ、トカゲなどが刺さっているのを見ることができます。ザリガニやカタツムリのハヤニエを見たことがあります。

ハヤニエ(筆者提供)

モズは里山で冬を越す野鳥の中で一番早く、2月初旬ごろから繁殖を開始します。そのころは、オスがエサを持ってメスにプロポーズします。メスが雛(ひな)のように羽を震わせてエサをねだると、結婚成立になります。低木や竹林に巣を作り子育てして、4月ごろに巣立ちヒナが見られるようになります。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

「体験王国いばらき」待ち営業⇒積極的アピール《遊民通信》75

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【コラム・田口哲郎】 

前略

JR常磐線の普通列車にヘッドマークがついており、「体験王国いばらき」とありました。デヴィ夫人が女王だと宣伝していましたが、なんだろうと思って調べてみました。

特設のホームページがあり、「体験王国」キャンペーンは、茨城県とJR、関連業者など、全県をあげて行なう国内最大の観光キャンペーンとのことだそうです。

コンセプトは「コロナ禍で変わるライフスタイルと旅行への意識。体験の質、感動の深さ、日常生活へのフィードバック。茨城DC(デスティネーションキャンペーン)では、本県の強みである3つのテーマに沿ったコンテンツを組み合わせ、一人ひとりの“ものさし”に寄り添える、新たな茨城観光のカタチを提案していきます」とあります。

観光もコミュニケーションの時代

コロナ禍で変わったのはライフスタイルだけではありません。街と人の関係性が変わりました。とくに関東は東京一極集中があり、東京に物理的に行かなければ、買い物も娯楽も観光もなかったものが、オンラインが発達したおかげで、東京に行かなくても済むようになりました。

人びとが東京に向けていたお金と時間が、ほかの行き先を求めています。寝に帰るだけだったベッドタウンにも観光の魅力があるはずだと、いま、あらゆる自治体が自らの街の魅力探して、アピールしています。

東京は海外からの観光客にアピールし始めています。昔は東京といえども首都機能と居住環境が混在した都市でした。しかし、いまは「お・も・て・な・し」の精神があふれ、どこも自らの魅力を意識して、発信力を高めている印象です。庶民の生活の苦しさとは裏腹に、街自体がショーケースのようにきらめいている感じがします。

国策の実験場である東京は別として、東京の郊外でしかなかった関東各県、とくに北関東諸県もインバウンドを呼び込むことに注力しています。名だたる観光地でも、たとえば価値ある古い建物がポツンとあるだけだと、期待外れ、などと言われる時代です。何万キロの旅程の果てに来日した観光客に、そんな期待外れを味わわせるわけにはいかない、という気持ちもあるでしょう。

魅了して、自分で体験をしてもらう

観光地は「みてもらう」から「魅了して、そして自分で体験をしてもらう」という、観光客側の立場になった工夫やアピールをしていることがうかがえます。

そうなると、観光の魅力度の価値は観光客の評価も重要なので、発信側がこれだけやりました!ということも大切なのですが、受け手の声を聞くことも大切になりますね。観光にも、人と人、1対1のコミュニケーションがより重視される時代の到来ですね。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)