火曜日, 4月 30, 2024
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土地の守護精霊「ゲニウス・ロキ」《訪問医は見た!》5

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写真は筆者

【コラム・平野国美】今日は、最近知り得た知識を駆使して、お話をさせていただきます。テーマは「地霊(ちれい)」です。オカルトの姿を見せられるかと、嫌な予感をされる方も多いと思います。NEWSつくばも、コラムニストの人選を間違えたと悔やんでおられるかもしれません。でもご心配なく。職業柄、スピリチュアル、オカルトとは一線を引いております。

この地霊とは、ローマ神話における土地の守護精霊ゲニウス・ロキ(genius loci)の和訳で、大地に宿る精霊や霊的存在を示す言葉なのです。やはり、スピリチュアルかとお思いでしょうが、今の欧米では「土地の雰囲気」や「土地柄」を意味し、本来の守護精霊を意味することはなくなっています。

ノスタルジアという単語が、元はホームシックのような精神科用語であったのが、今は「過去に対する懐かしさ」を意味するようになったように、言葉の意味が変遷したのでしょう。

叱られてしまいますが、学者が設計した計画都市は面白くありません。かつての学識者が私の患者さんとなり、うそか真実かわかりませんが、飛行機から見たレニングラード(現在の名称はサンクトペテルブルク)のような風景の都市を造りたいと語っていた記憶があります。

「つくばシンドローム」という言葉

職住一体型の計画都市=つくばの黒歴史として、「つくばシンドローム」という言葉を覚えている方もあるかと思います。提唱者は、筑波大学医学系の名物教授であった小田晋先生です。

小田先生は、授業で「人間にとって街路は曲がりくねっていなくては駄目。真っすぐなんてありえない。駅前だって、赤提灯があって、ちょっと酔って、電車に30分ぐらい乗って帰らなくては、職場から家へのリセットができない」と、学者らしからぬ話をされていました。しかし、先生は大事な公衆衛生の話をされていたのだと、今、思います。

その後、つくばから東京駅へのバスの運行、そして、つくばエクスプレス(TX)の開通によって、こういった問題は解消されていったのです。つくばに限らず、政治家や都市工学の専門家は機能的な街を提示します。TXは通ったものの、この街には多様な居場所がまだ形成されていないと思うのです。逆に壊されたかも…と。まだ、「地霊」が宿っていないかも知れません。

地霊ゲニウス・ロキとは何でしょうか? 秘められた時間や歴史を大衆が織り込んでいくこと? 私は、上の写真のネオンサインとかに「地霊」を感じます。見慣れた永谷園のネオン、姫路駅前の揖保乃糸のネオンに。ああ、ここへ来たのだと気づかせてくれるパワーを感じます。これを見つける感性も必要なのだと思うのです。(訪問診療医師)

こんぴらふねふね 《続・平熱日記》144

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】随分早い時間に起きて余裕を持って家を出たのに、はたとホームで気が付いた。新幹線に乗り遅れることに。スマホの便利さに油断した。出発時刻と所要時間を勘違い。気を取り直して、30分後の「のぞみ」自由席に乗車。東京駅で辛うじて変更できた岡山から四国に渡る特急の指定席は1席だけ空いていたのだが、岡山でホームに入ってきたのはアンパンマン号。

何となく嫌な予感。車内もアンパンマンのキャラクターで埋め尽くされていて、ほとんどがお子さん連れのファミリーの中、おっさんが1人。場違い感がハンパない。

しかし、アンパンマン越しに見る瀬戸内の島々は格別だった。俯瞰(ふかん)する景色には大小の島々が遠くまで続く。そしてついに四国、丸亀に初上陸。駅前の猪熊源一郎美術館を横目に、「ディメンションZERO展」を開催中のあーとらんどギャラリーに向かう。

到着早々、ちょうどお昼ということで、オーナーの山下さんに近所のうどん屋へ連れていかれる。それから予定を聞かれ、金毘羅さんには行きたいと告げると、夕方には戻ってこられるだろうから、今日は丸亀に泊まっていけばいいと言われて、知り合いのシェアハウスを紹介された。

「金毘羅さんには列車やなあ」。電車ではなくて列車? 山下さん曰(いわ)く、四国は電化されていない鉄道が多いからだという。30分ほどで琴平駅に降り立つ。金毘羅さんは象頭山の懐にあって七百八十五段の石段を昇るらしい。

しかも、ここにきて9月も終わりだというのに、ぶり返してきた暑さが尋常ではない。吹き出る汗。足はガクガク。しかし、杖をついて降りてこられる年配の方々のお姿を見ると、弱音は吐けない。やっとの思いで御本宮までたどり着く。

途中にある「高橋由一(鮭の絵は教科書などでお馴染み)館」をぜひとも訪れたいと思っていたのだが、冷房の効いた館内を暑さ対策のために無料開放していたのにはありがたいやら驚くやら。おかげで汗が引くまでゆっくりと作品を見ることができた。

金毘羅旗の御利益で大漁

夕刻、名物の骨付きもも肉にかぶりつきながらの美術よもやま話。他の個人商店と同様に、街からギャリーが消えていく昨今。ギャラリストとして、また丸亀を愛する方として山下さんの心意気が伝わってきた。

翌朝、丸亀城(これまた想像を超えた石垣の高さ)に登る。山下さんには朝のうどん(早朝から営業している)までお付き合いいただいて、駅でお別れ。それから山口の弟のところに向かった。

翌日、周防灘に出航。実は金毘羅さんが舟や漁の神様であることを知り、弟の舟に「海上安全」の旗を買ってきていたのだ。こんぴらふねふね 追手に帆掛けて しゅらしゅしゅしゅ…。その御利益か、その日は大漁。

良型のアジに混じって、特大のウマヅラやタイ。強烈な引きの正体は初めてみるアイゴ。背びれに毒があって独特の匂いもあるというが、持ち帰って刺身にしたら結構いけた。

帰りの新幹線は、平日だというのに同じような黒いスーツ姿の若者で混んでいた。後で内定式?の日だったことをニュースで見て、また日本に妙なセレモニーがあることを知った。

パクを受け取りに行ったら、マヨねえはパクとの散歩のおかげで、体重が減ったと喜んでいた。お土産には甘いものはやめておいて正解だった。庭仕事が趣味の彼女に、山口の道の駅で買った、よく根っこが取れるという草取り用のコテを渡した。(画家)

八郷で「懐かしい未来」を求めて《邑から日本を見る》146

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やまだ農園の茅葺き屋根の葺き替え作業

【コラム・先﨑千尋】石岡市八郷地区は有機農業の里だ。1974年に、首都圏の消費者たちが自ら安心安全な食べ物を作ろうと有機農業に取り組む「たまごの会八郷農場」がスタートし、1997年には八郷農協に有機栽培部会が結成された。その他にも、有機農業を志す人たちが思い思いの取り組みを始め、定着している。農協の有機栽培部会は今春、日本農業賞大賞に選ばれている。

ここで紹介する山田晃太郎さん・麻衣子さん夫妻は八郷では新参者だ。だがやっていることは他の有機農業者とは一味違う。どう違うのか。今月発刊された、2人と中島紀一さんの共著『やまだ農園の里山農業-懐かしい未来を求めて』(筑波書房)で見ていこう。

2人が旧八郷町恋瀬地区で有機農業を始めたのは6年前。同地は筑波山地北端の山々の麓に広がる里山集落。3人の娘がいる。水田80アール、畑2ヘクタール、山林70アールを借り、「旬の野菜セット」を100軒ほどの消費者に食べてもらっている。

やまだ農園が他の有機農家と違うのは、生産から荷造りまで多くの人たちが携わっていることだ。子どもが通う保育園の仲間を中心に、多くの仲間が農作業に加わっている。6月の田植えには3歳から80歳まで延べ150人の人が参加し、長さ30センチほどの大きな苗を一本植え。子どもたちが田んぼの中を泳ぎ回る。

その他、稲刈りや柏餅づくり、生き物観察会、味噌(みそ)の仕込み、落葉集め、踏み込み温床づくりなど、1年を通してやまだ農園の茅(かや)屋根に人が集まる。それだけでなく、近所の年寄りも仲間に加わり、農作業や農産加工、村の暮らし方などを教えてくれる。

里山復活、人がつながる農園

山田さんたちは5年前に空き家になっていた茅葺(ぶ)きの家に出会い、屋敷ごと譲り受けることになった。築100年、養蚕用に建てられた45坪の大きな母屋で、いろりが2つある。

山田さんはこの茅屋根の家を、地域の人たちが伝えてきた農ある暮らしの豊かさを発信する場にしたいと考え、2021年には「八郷・かや屋根みんなの広場」というNPO法人を立ち上げてしまった。現在はこの家が活動の拠点。みんなが集まる場、学習の場となっている。ここでの活動を通じて「懐かしい未来」を生み出していくのが山田さんたちの目標だ。

この茅屋根は、補修用に大量のススキを集め、昨年春と冬に、茅葺き職人を中心に多くの人の手伝いを受け、見事な屋根に生まれ変わった。

この情報を得たNHKは、屋根の葺き替え作業を中心に、やまだ農園の活動を2年にわたって取材し、昨年7月にBSプレミアムで「筑波山麓KAYABUKIライフ~懐かしい未来」として放映した(現在もYou Tubeで見られる)。

やまだ農園は、「いのち育む水辺、里山復活、人がつながる農園」をめざしており、これからの展開が楽しみだ。本書はこうした一部始終(「自然と共にある農業を目指して」)と、中島さんの「里山農業へ夢を広げて」の2部構成。プロカメラマンだった晃太郎さんの写真が美しい。A5判95ページ、1200円+税。(元瓜連町長)

久しぶりのベトナムで思ったこと 《文京町便り》21

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】9月中旬、ハノイ市のベトナム社会科学院(VASS、国家機関)を訪れた。日越関係樹立50周年記念の会議・シンポジウムへの参加が主目的だった。この会議の主催は、ベトナム社会科学院、国際交流機構(JICA)、日本財団(JF)、専修大学だったが、駐ベトナム日本大使の山田滝雄氏や専修大の理事長・学長から祝辞が披露された。

40周年記念会議の際にも、当時私が主宰していた研究プロジェクト・専修大社会関係資本<ソーシャル・キャピタル>研究センター(2009年度~13年度)とVASSが研究交流協定を結んでいた関係で来訪しているので、10年越しの訪問になる。

会議以外にも現地事情の視察が組まれ、その一環でイオンモールを訪ねた。訪問先はハノイ中心部から南に車で15分程度の郊外で、周辺は田園地帯である。ここの基本的なレイアウトは日本各地のそれと同様で、横長3階建て・1階左右の一方に大型スーパーを配置し、中間部に衣料品などの各種テナント、2階にはレストラン・飲食店、3階にはエンタメ系店舗が入居している。

来店客はこの横長のモールを周回移動し、購買意欲のおもむくままに消費する仕掛けである。対象客層としては、この10年間で30%から70%に急増している同国の中間層、とりわけファミリー・若者・カップルに焦点を当てているようだ。

増えるイオンモール郊外店舗

店長(ベトナム人)・副店長(日本人)の話しによると、地元コミュニティとの連携・意識改革を重視していて、ゴミは出し・捨てるもの(ベトナム人一般のこれまでの意識・行動)ではなく回収・処分の対象にし、清潔さを旨としたトイレなどに加えて、モール全体のグリーン化を促進する観点から、駐車・駐輪(バイク)場からモールへのルートには植栽を配置し、今後はEV設備も設置予定(充電時間がかかっても、その間、モール内に誘導できる)、屋上にはソーラーパネルも設置予定、とのこと。

同国でのイオンモールは、2013年1月にホーチミン市でスタートし現時点では6カ所だが、25年までには16に拡大する予定(30年までには30カ所も)とのこと。意欲的な取り組みに感心した上での私の懸念は、東南アジア各国での混雑した道路際に立ち並んでいる個人商店・飲食店と、こうしたイオンモールの集客力は両立するのか後者に席巻されるのか、という点だ。

かつての日本の中小都市でも、大型シッピングセンターが登場する前の地元商店街はそれなりににぎわいを見せていたが、規制を主眼にしていた大規模小売店舗法(1973年10月公布、74年3月施行)が廃止され、「まちづくり3法」の一環としての大規模小売店舗立地法(98年6月公布、2000年6月施行)以降は、さらなる来訪者の減少からシャッター街となり、さらには店舗それ自体が立ち退き・コインパーキングに変貌している。

今や日本の地方圏では、旧市街地内の伝統的な生活産業の店舗はほとんど姿を消し、代わって、郊外に大規模な駐車スペースを確保したショッピングセンター(イオンモールはその代表例)が立地して、人々の日常生活を支えている。

東南アジアの街の魅力は小規模な商店・飲食店の多様性と活力にあると私は感じるのだが、その馴染(なじ)みやすさ・逞(たくま)しさ・したたかさは、イオンモールの新規性・清潔さ・魅力を跳ね返すのだろうか、それに屈してしまうのだろうか。(専修大学名誉教授)

柳の木の枝《くずかごの唄》132

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】♪ むかし恋しい銀座の柳 ♪ ♪ 「東京行進曲」という歌があった。あの柳は銀座の、どのあたりだったのだろうか? どの町へ行っても、柳の並木があって、そこが、その町の、古い店のたまり場所で、町の名物などを売っていた。

今は、どの町にいっても「柳の並木」がなくなって、高層ビルばかりがひしめいてしまっている。

柳の樹皮の成分はアセチルサリチル酸。ブドウ糖と配糖体となって樹皮に含まれている。解熱鎮痛薬として、今でもたくさん処方されているのがアスピリン。バイエル薬品で出しているのが「バイアスピリン」。

アスピリンは、酸性の胃の中で、痛みを起こす体内物質の、プロスタグランジンを作るのに必要な酵素の働きを抑えてしまう。そこで、錠剤は胃で溶けないで、腸へ行って初めて溶ける「腸溶錠」になっている。

製剤上も、何年か前、薬剤師の話題になった優れた薬品で、副作用も少ないから、今でもかなり人が飲んで痛みを抑えてもらっている。

歯痛には柳の爪楊枝

柳の枝の歴史は古い。ヨーロッパではローマ時代から鎮痛作用があることがいわれてきた。日本でも京都の三十三間堂は、棟木に柳の木を使って、「頭痛封じ」を祈ったという。

昔、歯科医、歯科医院などがなかった江戸、明治時代。歯や歯茎が痛い時、柳の枝で作った爪楊枝でつつけば、植物から自然のアスピリン成分が出てきて歯茎の痛みが取れたという。

柳の枝で作った「爪楊枝」は、アスピリンが含まれているから歯茎の痛い時に、これを使って歯茎をほじると痛みが取れるとあって、少々高くても人気があったらしい、吉原の美人の花魁(おいらん)が、爪楊枝(ようじ)で自分の歯を手入れしている浮世絵があれば面白い。

「柳の枝のツマヨウジ、って、今、どこかで売っているかしら?」「歯医者さんへ行った方が早いよ」。土浦も柳の並木はなくなってしまったが、丁寧な歯医者さんが多い。私は胸を張って、土浦の名物は親切な歯医者さんだと思っている。(随筆家、薬剤師)

自分のことは自分で決める 《電動車いすから見た景色》47

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】前回のコラム(9月14日掲載)で、1970年代、旧・優生保護法の改正案に経済的理由による人工妊娠中絶の禁止が含まれたとき、フェミニズムの運動に関わる女性たちが主張した「産む・産まないは女が決める」という言葉を紹介した。この言葉は、「胎児に障害があれば中絶する」という障害者にとって恐ろしいメッセージにもなり、障害者と女性の対立を生んだ。

しかし、この言葉の根底にある「自分の体のことは自分で決める」という考えは、障害者運動にも通じるもののように思う。

前回も引用した荻野美穂の「女のからだ―フェミニズム以降」(岩波新書)によると、明治以降、中絶は犯罪とされてきたが、戦後の食糧難の中で、優生保護法が成立し、中絶を認める条件が大幅に緩和された。結果、中絶件数は急増し、出生率は低下した。しかし、高度経済成長期に入り、労働力不足が問題視され始めると、今度は国会で中絶を規制しようとする動きが出てくる。

人口政策のため、母胎に負担をかける妊娠・出産や、女性に負担が偏りがちな育児を、国が管理することに抵抗し、自分の体に対する女性の自己決定を尊重したものが、「産む・産まないは女が決める」という主張だった。

これは障害者運動が大切にしている「自分のことは自分で決める」ことにも通じるのではないか。長年、入所施設の中で生活リズムや外出機会などを他者に管理されてきた重度障害者が、施設を出て、必要な支援を受けながら、どこで誰とどんなふうに生きていくかを自分で決められるよう、介助者などの社会制度を整えてきたのが障害者運動だ。

自己決定が尊重され、誰もが自分らしく生きられる社会にしたいという原点に立てば、障害者運動と女性運動はもっと連携できるのではと、最近考える。

トランスジェンダーも同じ

「自分のことは自分で決めたい」のは、出生時に割り当てられた性別と性自認が一致しないトランスジェンダー当事者も同じだろう。

現行の法律では、戸籍上の性別を変更するためには生殖腺を取り除く手術をする必要がある。これは、自分らしい性で生きたいと願うトランスジェンダーに手術を事実上強制するもので、国連も日本に手術要件の撤廃を勧告している。手術を受けることで、自分らしく生きられると感じる当事者には、公的医療保険の中で受けられるようにすべきだが、本人が望まないのに、健康な身体を傷つけるよう求めるなど、絶対にあってはならない。

全ての人が、必要な情報提供や支援を受けつつ、自分のことは自分で決められる社会を、多様な人たちとともにつくっていきたい。(障害当事者)

創業39年、筑波大近くの「フライパン」 《ご飯は世界を救う》58

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【コラム・川浪せつ子】お店の前をよく通り、気になっているけど、行ったことのないお店ってありませんか? 筑波大学の北側、西大通りを曲がってすぐのお店。私にとって、ここ「フライパン」さん(つくば市春日)がそんな所でした。

我が家からだと、西大通りから東大通り方面に行くときの狭い抜け道。ずっとずっと前からあるなぁ~と。入店してみて驚いたのは、創業39年という、長く地域に愛されてきたお店でした。

東京教育大学が、筑波山がある地域に移転して筑波大学となったのが1973年。つまり50年前。そのころから、新規のお店がたくさん出来たのでしょうね。でも、そんなに長く続いているお店は、ほとんどないと思います。

私がつくばに来てから、この秋で42年に突入です。運転免許証を持っていなかった私は、来てまず一番に自動車教習所に通いました。週に数回、渋谷まで仕事で通わなくてはいけないのに、荒川沖駅まで行くのだけでも大変でした。

建築パースの仕事を続けて、こちらでも受注したくて、電話帳で探した建築設計事務所にDM(ダイレクトメール)を100枚出しました。そのときに知り合った設計事務所の方々とのご縁は、今でも続いています。

ささみを上手にいろいろ工夫

「フライパン」さんは、ささみを上手にいろいろ工夫して、提供してくれます。大学の近くのお店ですから、学生さんでもお手頃価格で食べられるよう、工夫なさっているのでしょうね。

昨今の物価高で、飲食店も大変と思います。我が家から歩いて行ける居酒屋さんのランチが、大のお気に入りでしたが、今年に入って閉店されました。居酒屋さんは、特にコロナで打撃が大きかったのだと…。また円安もあり、どんな業界も生き抜いていくのが大変ですね。消費者はどうしても、お財布のひもが堅くなります。

でも、お店には通いたいので、上手に節約しながらうかがうことで、応援させて頂きたいと思います。(イラストレーター)

金色姫伝説 謎解きツアー《映画探偵団》69

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【コラム・冠木新市】「同級生3人でつくばへ遊びに行きたいので案内してくれますか?」と、今は40歳となった女子大生の教え子から突然電話が来た。つくばがテレビで話題になっているらしい。ちょうど『世界のつくばで子守唄』の準備で忙しい時だったけれど、母親になった彼女たちが、つくばでどんな反応を見せるか興味があり、引き受けた。

3人は「サザコ一ヒ一をつくばで飲みたい」「フ一フ一スパゲッティを食べたい」「おいしいパンを買いたい」と、特に食べ物への関心が強かった。つくばを1日で回るのは無理なため、①つくばセンター地区とその周辺、②研究学園と筑波山、③つくば古道と金色姫伝説めぐり―の3コ一スを作成し、選ばせた。すると、うれしいことに③を選んできた。

6月11日(日) 9時、つくばセンターのサザに集合し、モ一ニングコ一ヒ一を飲んだあと、ホテル日航つくばの「つくたび」開発者2人を加えて計7名、車2台で「金色姫伝説モニターツアー」に出発した。

つくば古道に向かう車中、緑の木々を見て3人が「癒やされるう〜」と同時に声を上げた。シン・旧住民の私には見慣れた景色だが、外から来た彼女たちにとっては新鮮な光景に映ったようだ。緑の木々も観光資源になるのだと改めて感じさせられた。

まんじゅう販売したら売れる

始めに訪れたのは、「つくば古道」入口の北条にある国登録有形文化財・宮清大蔵だ。店主の宮本清さんが、元醤油醸造所の仕組みを説明、蔵で記録映画を上映してくれた。終了後、子宝に恵まれる妊婦の形をした「はら宿りの木」を皆でなでる。3人の子持ちの1人は触らなかったが…。

次に平沢官衙遺跡に移動し、散策した後、すぐ近くにあるつくばワイナリーで担当者からブドウ畑の説明を受け、ワインの試飲。早速、3人はワインを購入した。

それから神郡・蚕影山(こかげさん)神社に向かい、ここで、私が金色姫伝説の由来を語った。200段はある階段を登リ下ったあと、1人が「ここでまんじゅう販売したら売れますよね」と言った。階段をのぼったあとには甘い物が欲しくなる、確かにそうだなと思った。

続いて知り合いの屋敷を訪ね、離れにある茶室で額に入った山岡鉄舟の書を見せていただき、神郡の話をうかがった。かなり高齢化が進み、あちこち跡継ぎ問題があるとのこと。皆な神妙な面持ちで聞いていた。

そして中心拠点、神秘的な雰囲気が漂う場所、石蔵Shitenを見学した。ここで、11月3日(金)、4日(土)、5日(日)に、『金色姫伝説旅行記』のイベントをやると説明したら、元アイドルグループの1人は「私も出演したい! 」と言ってきた。そのとき、私はある作品を思い出した。

ソフィア・ロ一レン主演『アラベスク』

アラビア風の唐草模様を意味するタイトル、スタンリー・ド一ネン監督、グレゴリー・ペック、ソフィア・ロ一レン主演の『アラベスク』(1966)。この作品は、人間関係と話が複雑でわかりにくいのだが、それでいて面白く見られる仕上がりなのだ。

大学教授ポロックが、謎の男から、古代アラビアの象形文字の解読を強引に依頼される。手のひらに収まる紙片に描かれた象形文字。この紙片をめぐり争奪戦が繰り広げられる。だから観客は、象形文字の謎解きが重要なのだと思い込む。ところが、実はそうではないドンデン返しがラスト近くで判明するのである。

今度のイベントも、「金色姫伝説」と「うつろ舟事件」の謎解きが目的と思わせておいて、ドンデン返しを仕掛けたいと思った。

夕方、彼女たちは目的を達し大満足で帰っていった。どうやら、つくばと「金色姫伝説」はダシで、実はただ小旅行と買い物と食事を楽しみたかっただけなのかもしれない。サイコドン ハ トコヤン サノセ。(脚本家)

懸案に苦慮する市議会 土浦とつくばの事例《吾妻カガミ》169

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土浦市役所(左)とつくば市役所
【コラム・坂本栄】本サイトが報じた案件で土浦市とつくば市の議会が苦慮しています。土浦のケースは、車いすの中学生がいじめを受け続けたのに市の対応が不十分だったという話。つくばのケースは、県から譲渡される洞峰公園に関する市の予算説明が不正確で議会が判断に迷っているという話。いずれも市側の「逃げの姿勢」に問題があるようです。 いじめ問題をどう調査するか 前回コラム「土浦市のいじめ回答拒否 個人情報保護が盾」(10月2日掲載)では、市立中学校で起きたいじめ問題を取り上げ、市議会はプライバシー保護を理由に調査を見送ったと書きました。ところが、いじめに遭った本人が市議会の議長と文教厚生委員長に調査要望書を提出したことで、議会はこの問題を放置できなくなったようです。 私が入手した要望書「共生社会の実現への協力を要望します」(保護者連名、10月1日付、A4版5枚)には、2019年春から22年春にかけて受けたいじめの実態と学校・教育委員会の不手際の数々が報告されています。加害生徒に対する学校・教育委の調査の仕方がいい加減だったという件(くだり)はなかなかリアルです。 ある有力市議は「要望書が出たことで状況は変わった。議会としてどうするかまだ決まっていないが、何らかの対応は必要になる」と言っています。関係者のプライバシーを保護できるか、当時の加害生徒からヒアリングできるか―といった問題もあり、どういった調査が可能か苦慮しているようですが、この問題の表面化を恐れていた教育委はもう逃げられないでしょう。 洞峰公園の予算をどうするか つくば市のケースは、県から無償で譲渡される洞峰公園の維持管理+補修+更新に必要な予算についての説明が不正確だった、という話です。 6月議会で執行部は、洞峰公園予算は年間1億8600万円(維持管理費1億5100万円+施設補修費3500万円)と説明しました。ところが、本サイトの記事「施設の補修・更新費34億円超 洞峰公園 つくば市、議会に示さず」(9月23日掲載)によって、毎年の1億8600万円のほか、31億円(市長のツイッター)の更新費(20年で順次更新するとすれば年平均1億5500万円)が必要であることが明らかになりました。 維持管理費+施設補修費+施設更新費=関連予算総額を隠したのは、金額を少なめに見せて、関連予算を渋る議員をなだめたかったからでしょう。これは情報操作でないかとの私の指摘に対し、市長は感情的に抗弁しています。要約すると、体育館などの設備・器機は更新せず、修理・修繕で済ませれば、県が数年前に算出した更新費31億円は必要ない―と。 議会がチェックすべき選択肢 どう計算するか議会は苦慮しているようですが、①更新軽視で施設や諸設備・器機が老朽化するのを承知で譲り受ける(市案可決)、②つくば市自慢の都市公園だから更新費用はケチらない(同増額修正)、③新規支出を避けるために洞峰公園を譲り受けない(同否決)―の3案を審議し、決を採ったらどうでしょう。 ①ないし②で決まった場合でも、公園関係予算はもっと増えるかもしれません。というのは、洞峰公園問題のほとぼりが冷めたころ、県は洞峰公園とセットで造った赤塚公園の無償譲渡も仕掛けてくると予想されるからです。その維持管理費も、①ないし②に上乗せされると覚悟しておいた方がよいでしょう。(経済ジャーナリスト) 【参考】 いじめ関連記事とコラム> ▽「いじめをなぜ止められなかったのか… 」(9月3日掲載) ▽コラム166「…車いす生徒に冷たい土浦市」(9月4日掲載<洞峰公園問題の関連記事> ▽「つくば市への無償譲渡は妥当 県議会…」(9月25日掲載) ▽「全員協開き説明を つくば市議16人が…」(10月11日掲載

料理はデザインである《デザインについて考える》1

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イラストは筆者

三橋俊雄さん

【コラム・三橋俊雄】みなさん、はじめまして! 私がデザインの道を歩み出してから、はや半世紀が過ぎました。幼い頃から“絵を描くこと”と“ものづくり”が好きだった私にとって、高校3年時に知った「工業デザイン」の世界は、思ってもみなかった出会いでした。大学は工業意匠学科に進学し、卒業研究では「障害児のためのデザイン」を行いました。

その後、デザイン事務所に入り「プロダクトデザイン」に従事。36歳でもう一度学生に戻り、「地域づくりとデザイン」について学びました。その後、大学教員となってからは、主に「障害者の福祉用具デザイン」や「過疎地域の活性化デザイン」を学生たちと進めてきました。大学で最後に関わったテーマは、「遊び仕事(マイナー・サブシステンス)」という、人間の「生き方のデザイン」でした。

こうして私が歩んできたデザインの道を振り返りながら、みなさんと「デザインの世界」について楽しく語り合えることができればと思っております。

中華の青椒肉絲を作る 

今回は、「料理はデザインである」というお話からいたしましょう。

人は、お腹がすくと「今日は何を作ろうか」と思案します。冷蔵庫をのぞくと、豚肉、ピーマン、タケノコなどの食材があります。そこで、「チンジャオロースー(青椒肉絲)を作ろう」と思い立ちます。もちろん、「青椒肉絲」の具材が台所になければ、必要なものを買いに行くことから始めます。酒、醬油(しょうゆ)、それにオイスターソースなども確認して、料理に取りかかります。

このように、「料理をする」とは、「お腹がすいた」という課題(問題)に対して、食べたい料理をイメージし、食材や調理道具など、台所の限られた条件の中でやりくりしながら料理を行い、最後は食べる(課題を解決する)という一連の行為であり、それは「デザイン」をすることに他なりません。

自分をすてきに見せる

また、あなたが、外出する前に鏡の前で、帽子からドレス、靴下、バッグなど、あれこれと悩み、選ぶという行為も、「自分をすてきに見せたい」という目標に向けた課題解決型の創造的行為であり、それも「デザイン」と言えるでしょう。

そのように考えたら、自転車を直すのもデザインですし、お母さんが赤ちゃんの将来を考えながら育てていくこともデザインです。

このように、わたしたちは、「目標(課題)を抱き」「いろいろ考えて」「それを実行し」「目標に到達する(解決する)」というデザインの行為を、無意識のうちに、日々、行っているわけです。すなわち、みなさん一人ひとりが「デザイナー」であると言っても過言ではないのです。(ソーシャルデザイナー)

【みつはし・としお】1973:千葉大学工業意匠学科卒業/1973〜6年間:GKインダストリアルデザイン研究所/1979〜6年間:二番目のデザイン事務所/1985〜6年間:筑波大学(デザイン専攻)・千葉大学(環境科学専攻)にて学生/1991〜6年間:筑波技術短期大学・千葉大学にて教官/1997〜18年間:京都府立大学にて教員。6年単位で「居場所」を替えながら、さまざまな人と出会い、さまざまなデザインを行ってきました。退職後つくばに戻り、「竹園ぷらっと」「ふれあいサロン」「おやじのキッチン」など、地域の「居場所づくり」「まちづくり」のデザインを行っています。

土浦の花火in大曲《見上げてごらん!》19

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一覧作成は筆者

【コラム・小泉裕司】今回は、「土浦の花火」史上、特筆すべきイベントに立ち会うことができたので、その概要を報告したい。

10月7日(土)、秋田県大曲の秋の夜空で、「土浦の花火」と「大曲の花火」の競演が実現した。そもそも、新型コロナウイルスの影響で第90回土浦全国花火競技大会が中止となったことを受け、昨年1月から2月にかけて、実行委員会が「土浦の花火~後世に伝える匠(たくみ)の技」(2022年4月17日掲載)を霞ケ浦湖畔で開催。最終日、大曲の4社と土浦の6社合同による「二大花火競技大会『土浦』『大曲』夢の競演!!」として打ち上げたのがきっかけ。

大曲の花火 秋の章」の第2幕、「土浦の花火物語」と題し、日本煙火協会茨城地区会が共同して、土浦全国花火競技大会の打上規定にそった作品、10号玉6発、創造花火2組、スターマイン2台をPART1と2に分けて打ち上げたもの。

芯入り割物を中心とした「10号玉の部」は、6社が1発ずつ出品。芯の数が多ければいいというものでもないが、競技大会で常に上位を占める山﨑煙火や野村花火が5重芯ではなく4重芯だったのは、地元として少し寂しいけれども、完璧な正円を披露したのはさすが。

「創造花火の部」には、茨城勢は大会に出品しておらず、今回に限り、山﨑煙火が担当した。これまで10号玉とスターマインに出品、創造花火は未経験の世界だった。独創性やタイトルと花火の整合性など、見る側の想像力をかき立てる、他に例のないユニークな競技部門となっているが、その楽しみを今一つ伝え切れなかったのは残念。

「スターマインの部」は、大曲での経験豊富な堀米煙火店が土浦の規定(4号玉から2.5号玉まで400発以内)に準じた作品を披露し、野村花火は、昨年の土浦で優勝した「水無月のころ」をリメイクし、5号玉を加えた大曲バージョンを披露した。

野村ブルーをふんだんに盛り込んだ八方咲きや1玉1玉の見せ方など、目の肥えた大曲市民を満足させるに十分な作品に仕上げ、会場の拍手喝采を浴びた。

地元の風土・歴史で育まれる花火

大曲の広大な夜空に上がる堀米煙火店のスターマインは、見事な色彩や打上構成を披露したが、上空のすかすか感が多少気になった。それも当たり前。開花時の最大高度200メートルの4号玉と250メートルの5号玉では、そもそも上空の暗闇部分を埋め尽くす広がりが違う。

逆を言えば、土浦の狭あいな空間では、4号玉以下で十分迫力ある構成に仕立て上げることができることを再確認できたことは、意外な収穫となった。改めて、両競技大会は、地元それぞれの歴史や風土に育まれてきたのである。

「土浦の花火」が姫神山をバックに雄物川の対岸から打ち上がるという、考えたこともない企画は無事終了し、来場者への土浦花火の認知度向上という所期の目的は十分に果たしたように思うし、今後もないだろう歴史的な瞬間に土浦市民の1人として立ち会えて、至福のひとときを味わうことができたのである。

実現に至るまでの土浦、大曲の花火関係者や煙火業者の皆さまに、心から敬意を表する次第。

ちなみに、当日の午後、花火伝統文化継承資料館「はなび・アム」(大仙市)で、「土浦の花火、大曲の花火」をテーマとした「花火特別セミナ-」(日本花火鑑賞士会主催)を開催したところ、入場しきれないほど多くの皆さまにご来場いただいた。

両花火競技大会が長年築き上げてきた「友情物語」について、来場者の皆さまが理解を深めていただく一助になったとすれば、5カ月をかけ準備を進めて来たスタッフ、そして講演者の1人として「がんばり」が報われたというもので、うれしい限り。本日は、この辺で「打ち留めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

栗を栽培する四万騎農園《日本一の湖のほとりにある街の話》16

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】秋の味覚・栗と言えば、長野県小布施町や兵庫県丹波市が有名ですが、実は生産量日本一は茨城県。かすみがうら市はその中心地のひとつです。

その中でも「高継(たかつぎ)」という、今では日本の栗栽培において広く普及している方法を確立したのが、同市の「四万騎(しまき)農園」。今回は、同農園の3代目である兵藤昭彦さんに、おいしい栗栽培についてのお話を伺いました。

四万騎農園は昭彦さんの祖父、兵藤直彦氏により大正8年(1919)に創業。直彦氏は凍害に弱い栗の木の育成を改善するため、土台となる台木の高いところで接ぎ木をする高継苗を開発し、茨城の栗の生産性向上に多大な足跡を残されました。

昭彦さんによれば、栗の栽培にはスタンダードな方法がなく、その生産者により正解が異なる面白さがあるそうです。四万騎農園では代々の工夫の結果、木の間隔を4メートル空けて植樹し、さらにその後間伐により8.5メートル間隔としているとのこと。

また、12~3種類に及ぶ品種を生産することにより、9月から10月下旬まで収穫期を広げ、収穫する労力の集中を避けるとともに、時期ごとにより異なるおいしさが楽しめるよう工夫をしているそうです。

渋皮煮のマロンジャムも

ところで栗と言えば秋ですが、この農園には春にも見事な名物が! それが、栗畑一面に咲き誇る菜の花です。緑肥のために数十年前に蒔(ま)いた菜の花が、いつしか種が土にすき込まれて自然に生えてくるようになったとのこと。本来、花を咲かせることが目的ではないものの、この風景を楽しみにされるお客さんが増えたことにより、できるだけきれいに咲くよう、心配りをされているそうです。

さて、同園では生栗のほか、渋皮煮、ジャムなども販売しています。昭彦さんのおすすめは、手間暇かけた渋皮煮。そのほか渋皮煮をベースにして作ったマロンジャムも、看板メニューとして親しまれています。

「プレーン」「ラム」「オー・ドゥ・ヴィ」の3種類のジャムは、粒感たっぷりの濃厚な味わいで、パンやアイスと共にいただくと、濃厚な栗感を存分に楽しめる逸品。また、ローストポークやチキンソテーなど、肉料理のソースに使っても相性抜群でおススメです。

代々の工夫により磨かれてきた、濃厚かつ芳醇(ほうじゅん)な秋の味わいを、ぜひお楽しみください。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

 

➡これまで紹介した場所はこちら

音楽サブスクとノスタルジー《遊民通信》74

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【コラム・田口哲郎】

前略

音楽をサブスクリプションできく時代になりました。アップル・ミュージックやアマゾン・ミュージックなどネットワーク上にあって提供されている無数の曲を月々定額で楽しむことができるサービスです。

30年前はCDからお気に入り曲をカセットテープにダビングしたりしていたのですが、いまはお気に入りの曲をプレイリストに入れればよいので簡単です。

あのころきいていた曲が音楽のサブスクにはたくさんあります。なつかしい曲をきくと、そのころの空気感までよみがえってきて、なんとも言えない気持ちになります。

宇多田ヒカル「Automatic」とノスタルジー 

それをつよく感じるのは、私の場合、宇多田ヒカルの「Automatic」です。この曲は私を20世紀末の東京都心につれていきます。慶應義塾に通っていたころは、三田、麻布、六本木、渋谷あたりによく行きました。当時は空前のカフェ・ブームとクラブ・ブームでした。

喫茶店ではなくカフェ、隠れ家的な空間が城南エリアにたくさんできて、若者がこぞってゆきました。また、ディスコではなくクラブ、小さなハコと言われる空間で、DJが繰り出すテクノ系ダンス・ミュージックで踊る店が、六本木、麻布、渋谷界隈(かいわい)にたくさんできて、そこに若者は夜な夜な通ったのです。

宇多田の「Automatic」はヒットチャート上位にランクインしましたので、カフェやクラブを渡り歩く人たちからすると、少々、メジャーすぎる音楽だったかもしれません。でも、あの「音」はまさにあのころの東京の雰囲気そのものだった気がします。

世界がきな臭く、国内もいろいろと既成概念が突き崩されて、内外で激しい変化が起こっている日本が、あのころは比較的平和でおだやかだったのかもしれません。そうしたぬくぬくとした空気のなかで、若者はカルチャーをつくろうとしていました。とはいえ、それでも人びとはいろいろな問題に向き合いながら、生きていたのですが。

「むかしはよかった…」と言うのは年寄りだと言われますが、私もそんなことをしばしば思わざるをえない年齢になりました。いまの景色をむかしのそれと比べてしまうほどに、街を見てきたということでしょう。

どうしても昔のほうがよいと思えてしまう。宇多田ヒカルの「Automatic」はそんなノスタルジーをかき立てる名曲なのは間違いないようです。

草々

(散歩好きの文明批評家)

自分が生きてきた時代を確かめる《ハチドリ暮らし》30

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散歩の途中に見つけた花

【コラム・山口京子】60歳の還暦の際、「大人になれないまま、おばあさんになってしまった」と感じ、すこし空しい気持ちになったのを覚えています。65歳の今は「これからの時間で、したいことができたらいいな」と思うようになりました。

この数年、自分が生きてきた時代がどういう時代だったのかを確かめたくなりました。時代や社会の空気を吸って、自分の思考や価値観がつくられていったとしたら、その時代や社会の姿が分からないと自分もこれからも見えてこないのではないかと…。

時代や社会というものには建前と本音があり、その隔たりが大きいのではないか…。マスメディアによって見せられている現実と、マスメディアによって隠されている現実があるのではないか…。見せられている現実だけを受け止めて考えてしまうと、なにか大事なことを見落として、誤った判断をしてしまいそう…。

できるなら、誤った判断はしたくないし、間違った認識は避けたいものです。なので、限られた範囲ですが、テレビや新聞だけではなく、報道された記事に関する様々な書き手の本を読むようにしています。そうすると、ニュースで報道されていない事実や歴史、視点、書き手の立ち位置が分かって、目からうろこが落ちる経験を何度もします。本は貴重です。

そもそも国民主権とはなんなのか

戦後78年が経ちます。表向きには、日本は日本国憲法に基づく国民主権の国家であると言われていますが、そもそも国民主権とはなんなのか。主権という言葉を考えたら、すごい意味があるでしょう。主権を担える国民とはどんな国民なのか。

自分はとてもそんな立派な人間ではないから、国民主権という言葉を他人事のように感じてしまいます。大事なことの決定権にはずっと無関心で生きてきた人生だったような…。知人が「テレビや新聞がスポーツで盛り上がったり、芸能人のスキャンダルを大きく報道しているとき、国会でどんな法案が通っているか調べてみるといいよ」と言っていました。

国会なんて意識のうえでは遠い存在ですが、一度法律が可決されるとそれに生活は拘束されます。どんな法律が可決されているのか。その法律の内容はどういうものなのか。だれからのどんな働きかけがあって、どういう法案がつくられるのか。自分が国民として無関心を続けていったときに、国会に働きかけるのはだれなのか。

もしかしたら、国民主権の国であるならば、可決されてはならない法案が可決されているのではないか。わからないことばかりです。(消費生活アドバイザー)

どうする?つくばの2024年高校入試《竹林亭日乗》9

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稲刈り後の田んぼ(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】7月26日、茨城県の教育長は牛久栄進高校の1学級増と筑波高校の進学コース設置を発表し、つくばエリアの高校問題が動き始めた。このとき県が示した中学卒業数推計(2023年)では、水戸2490人、つくば2577人―となっており、両市の高校受験生数が逆転した。

逆転は「時間の問題」と言われてきたが、2023年は高校入試を考える上で大きな節目といえる。これを機に県の姿勢を問い、県への要望を考えてみたい。

今年3月の県議会で教育長は、星田弘司県議(つくば市区)の質問に、①生徒は市内及びエリア内外の県立・私立高など多様な選択肢から進学先を選んでいる、②エリア内の高校数は水戸もつくばも同程度である、③県立と私立の割合も両市とも6割と3割と同程度である―とし、そのため水戸とつくばの高校進学状況に大きな違いはないと答弁した。

この発言には驚いたが、私たちの要望は、つくばエリアの子どもたちの高校入試環境の改善にある。その中で、①県の県立高不足算定は県平均を基準に行っている、②歴史や交通利便性などの違う水戸とつくばを対立的に捉えた比較はなじまない―と考えてきた。

しかし、県の水戸とつくばの状況が同じという答弁があったので、以下、両市の比較を行ってみる。

つくばの入学枠は水戸の3分の1

水戸とつくばの中3生は約2500人で、水戸は全日制県立高校が7校(水戸一高、同二高、同三高、緑岡高、桜ノ牧高、水戸商、水戸工)、2023年の高校募集は52学級、2070人。一方、つくばは3校(竹園高、筑波高、つくばサイエンス高)、募集は17学級、680人である。

つくばの入学枠は水戸の32.8%で、3分の1以下である。両市の歴史や通学条件が違うのは確かだが、それでも、同じ中3生の県立高受験枠がこれほど違ってよいのだろうか。

水戸エリアの県立高校では、市内7校、水戸農高、笠間高、茨城東高の10校。募集枠は68学級、2690人。一方、つくばエリアは、市内3校、石下紫峰高、水海道一高、同二高、守谷高、伊奈高、牛久栄進高の9校。募集枠は53学級、2120人。学校数の差は1でも、つくばエリアは水戸エリアよりも15学級、570人少ない。

2023年の中3生は水戸エリアが3506人、つくばエリアが4229人。つくばエリアが723人多い。そのため2023年度入試の全日制県立高の県平均収容率は68.4%だが、水戸エリアの収容率は76.7%、つくばエリアは50.1%である。

水戸は県平均を上回り、つくばは県平均に届かない。つくばエリアを県平均レベルにする必要学級は72学級であり、現時点で19学級不足。また、水戸エリアに合わせるための必要学級は81学級で、現時点で28学級不足となる。

教育長は、水戸とつくばの共通性を強調したが、両市およびエリアの高校入試の状況は大きく違っている。

早急に県平均水準の県立高校枠を

私たちは水戸市・水戸エリア水準の募集枠を求めているわけではない。つくばエリアの小中学生のために、県平均水準までに入学枠の改善を検討して、11月の2024年県立高募集定員発表の場で、受験生に希望を与えてほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

水俣病と福島汚染水《邑から日本を見る》145

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水俣から見た不知火海(大澤菜穂子さん提供)

【コラム・先﨑千尋】水俣病の未認定患者に一時金などを支給する水俣病被害者救済法(特措法)から漏れたのは不当だとして、近畿など13府県に住む128人が国と熊本県、原因企業チッソに1人当たり450万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が、先月27日、大阪地裁であった。遠野ゆき裁判長は「原告らの症状は水俣病以外に説明ができない」として、国などに1人当たり275万円の賠償を命じた。

この判決はテレビや新聞で大きく伝えられたので、その詳細は省く。特措法では、対象地域を不知火海周辺の特定地域に絞り、救済対象者の年代を限定しているが、今回の判決は特措法対象外の人を水俣病と認めたことが画期的だ。判決で遠野裁判長は「水俣病周辺の漁場は沿岸に限定されず、獲れた魚介類は広く流通していた」とし、線引きを認めなかった。

熊本県水俣市のチッソ水俣工場が毒性の強いメチル水銀を含む排水を不知火海に流し、汚染された魚介類を食べた住民らに手足のしびれや視野狭窄(きょうさく)といった症状が相次いだ。水俣病は1956年に公式に確認され、国は68年に公害と認定した。母親の胎内で影響を受けた胎児性水俣病患者もいる。

私は40年以上前から水俣の人たちと交流を続け、水俣病患者が陸に上がって栽培した無農薬ミカンなどを食べてきた。チッソが垂れ流した排水溝や、汚染された魚介類を埋め立てた公園や水俣病に関する資料館でこれまでの歴史を知り、涙を流しながら語り部の話を聞き、患者たちの活動にも触れてきた。満潮の時に小川に上がってきた魚を最初に猫が食べるところも実際に見た。鏡のようになめらかな不知火海の海。自然が豊かで美しい水俣。そこに「奇病」が襲いかかってきたのだ。

生体濃縮と食物連鎖の恐ろしさ

それで分かったことは「生体(生物)濃縮」と「食物連鎖」の恐ろしさだ。

生体濃縮とは、ある化学物質が生態系での食物連鎖を経て生物体内に濃縮されていく現象を言う。体内に入った有機水銀は、体外に排出される割合が低く、体内に蓄積、濃縮される。小魚を大きな魚が食べ、それを最終的に人が食べる。それが食物連鎖。母親の胎内で母親から有機水銀を吸収し罹患(りかん)するのが、胎児性水俣病だ。生まれた時から水俣病患者だ。

3.11で事故を起こした東電福島第1原発のALPS処理汚染水は8月から海洋放出されているが、どんなに薄められても汚染された魚を食べれば人体に入る。トリチウムやストロンチウム、放射性ヨウ素などの放射性物質が人体に入る。放射性物質による影響には「しきい値」(ある量を超えると変化が現れる境目)がなく、どんなに微量でも生物への影響があると言われている。トリチウムは安全だという学者もいるが、私はその説を採らない。

事故を起こした原発のデブリがいつ取り出せるのか、取り出せないのか、多分誰も分からないと思うが、とにかく汚染水の海洋放出は続く。岸田首相は全責任を持つと言っているが、現時点で、30年後、50年後に水俣病と同じようなことが起きないと言えるはずがない。そしてその頃には関係者は誰もいない。首相は、無責任な発言だと思ってもいないのだろう。(元瓜連町長)

善光寺から金毘羅さんへ《続・平熱日記》143

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】9月半ば、何を勘違いしたのか、私のことを師匠と慕う女性が作品を発表するというので、長野県千曲市のギャラリーをまたまた訪れた。彼女はインドの神様を描く。テーマも画風も私とはほぼ関係がない。

その彼女がなぜ私をして師匠呼ばわりするかというと…。瓦職人である旦那さんの仕事を手伝っているときに、いつも少しだけ余る漆喰(しっくい)をいつも勿体(もったい)ないと思っていたらしく、私の作品を見て漆喰に絵を描いてみたのがきっかけという。人間はずっと昔から漆喰に絵を描いてきたのだから、私が師匠呼ばわりされる筋合いはないのだが。

とにかく、漆喰の取り持つ縁で新たな出会いもあり、夕方からはギャラリーから徒歩3分のところにあるログハウスのレストランでの宴(うたげ)となったわけだが、このレストランのオーナーがかの美学校で赤瀬川原平氏の講義を受けていたというのにも驚いた。

千曲から帰った翌朝、私は斜度30度ののり面の草刈りをしていた。この数年請け負ってきた知り合いの打ちっぱなしゴルフ場での小遣い稼ぎ。

それにしても、今年は彼岸も過ぎようというのに、なんだこの暑さは。近頃は空調服とやらがあって、たいそう涼しいそうだが、私は吹き出す汗さえも自然の循環だと思っているので、Tシャツが重くなるほどの汗をかきながら草を刈る。

多分、こういうじいさんが熱中症にやられるんだろうなあ。大体「きりのいいところまで」というのが危ない。きりのいいところは、得てして「ちょっと無理したところ」にあるものだ。だから、少し手前の中途半端なところでもやめるようには心がけてはいるんだけれど。

愛犬パクはマヨねえに頼んで

何日かでやっと草刈りが終わった。お給金をいただく。そして思った。「そうだ四国行こう!」。千曲に持って行って売れた巣箱のお金を足せば、ちょうど旅費ぐらいにはなる。おあつらえ向きに、今年は学校の秋休みの並びがいい。ちょうど、作品を並べていただいている丸亀市にあるギャラリーを訪ねてみたいと思っていたところだった。

しかも元はと言えば、千曲のギャラリーの上沢さんからの縁でつながった今回の展示。この機会を逃したらもう、四国に行くことはないかもしれないし。

早速、愛犬パクの世話を友人のマヨねえに打診する。人見知りのパクは、なぜかマヨねえにだけはよく懐いている。マヨねえは快く世話を引き受けてくれた。というのも、実は永遠のダイエッターであるマヨねえは、パクとの朝夕の散歩がちょうどいいエクササイズになるらしく、お互いワンワンいやウィンウィンの関係なのである。

その日の午後、少しドキドキしながら切符を買いに行った。岡山までの新幹線、それから丸亀までの特急しおかぜ。特に信心深いわけでもないが、長野善光寺から四国は金毘羅さんへと平熱日記は続く。(画家)

なくなるものと残ったことば 《ことばのおはなし》62

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中秋の名月(筆者撮影)

【コラム・山口絹記】最近、撮影機材に新たなミラーレス一眼カメラを導入した(以前の記事に書いたものとはまた別のカメラだ)。

ミラーレスカメラと言うのはその名の通り、ミラーが無いカメラなのだが、このカメラ、機械的なシャッター機構もないのである。ミラーもなければ、シャッターもない。シャッターを切っても、じゃなかった、“写真を撮っても”、カメラの中ではなんの機械的機構も動かない。

これは、私にとってはとんでもないこと、一つの時代が終わってしまったような出来事なのだが、おわかりいただけるだろうか。おわかりいただけないかもしれない。おわかりいただけなくて、たぶんよいのだろう。

フィルムカメラの時代には、シャッターというのはカメラにとって基本的に必要な機構だった。使い捨てのインスタントカメラにも、一眼レフにも、二眼カメラだろうがレンジファインダーだって、作りは違えどカメラにはシャッターがあった。

しかし、カメラがデジタルに移行していくなかで、比較的安価で、コンパクトなカメラが機械的なシャッターのない機構を採用するようになり、今、この記事を読まれているあなたがお持ちのスマートフォンのカメラにも機械的なシャッターはない。

「いや、私のスマホ、写真撮るとシャッター音するけど?」と思われるかもしれないが、それは“シャッター音”をスピーカーから鳴らしているだけだ。使用するアプリを変えたり、スピーカーが壊れればシャッター音はしなくなる。

だから、一般的にはとっくのとうにシャッターなるものはなくなっていたのだが、それがいよいよ本格的なカメラでもなくなり始めたのだ。なぜ本格的なカメラでは、この機械的なシャッターが必要だったのかは、書き始めると長くなるし、この記事の本題ではないので書かない。気になる方は調べてみてほしい。

「シャッターって何?」

それまで生活に根差していたものも、技術が進歩したり、人々の考え方が変わる中でなくなっていくのは一般的なことだ。レコードに針をのせなくても、カセットテープを巻き戻さなくても、CDがなくとも音楽は聴けるようになった。

まだまだ「巻き戻し/早送り」ということばを見聞きすることはあるけれど、そのことばの意味する本質を理解する人は確実に減っていく。シャッターという仕組みがなくなっても、シャッター音、シャッターボタン、なんてことばはしぶとく生き残っていくような気がする。

我々が使うことばはとても儚(はかな)い存在だ。一方で存外にしぶとかったりもする。私もいつか、自分のこども、もしかしたら孫に、「シャッターって何?」と訊(き)かれるかもしれない。そうなった時、私は「昔はね…」なんて語りだすのかもしれない。まったく興味深いものだ。(言語研究者)

医療通訳ってどんな仕事なの?《医療通訳のつぶやき》1

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うちの猫
松永悠さん

【コラム・松永悠】医療通訳ってどんな仕事なの?と、私はこれまでいろいろな人から聞かれました。確かになじみのない仕事ですよね。多くの人にとって通訳というと、会議通訳や観光ガイドのイメージが強いのかもしれません。しかし商談や観光は、通訳が登場する一場面に過ぎません。

グローバル化が進む今では、私たちの隣人や同僚、子供の同級生の中に当たり前のように外国人がいます。そんな彼らも病気になれば病院で受診することになります。日常生活に困らない程度の日本語ができても、病院に来れば話が違ってきます。

治療はインフォームドコンセント(医師の十分な説明と患者の同意)を大前提としているため、患者は医師の説明を正確に理解しなければなりません。誤解や勘違いは、後に大問題になりかねないため、医師も外国人患者に極めて慎重に対応しているのです。

ここでいよいよ医療通訳の出番です。この仕事をするために、語学だけでなく、人体の構造や様々な検査、病気などの専門知識を幅広く勉強して、さらに医療通訳技能検定試験にも合格しなければならず、医療通訳は通訳の中でも極めて専門性の高い職種です。

医療通訳が医師の説明を患者に、そして患者の要望や疑問を医師に、さらに医師の回答を患者に返すということを繰り返していきます。最終的には両者が満足のいくコミュニケーションが取れ、スムーズに治療することができるようになります。

診察中のどこかで誤訳があったら、信頼関係だけでなく、トラブルに発展してしまうので、とにかく責任重大です。忠実に訳すことは基本中の基本で、さらに患者の話に隠された心配や疑問、うまく説明できない部分まで気付き、拾い上げ、確認してから医師に伝えるところまでできれば上級者です。

日本の医療制度を理解するのも大変

母国語で自分の病気を説明するのは簡単だと思う人もいますが、一概には言えません。表現力や語彙(ごい)力の足りない患者もいるのです。

そういうときは、私が誘導して伝えたいニュアンスをうまく引き出すことも非常に大事です。一口に「痛い」と言っても、ズキズキ、ピリピリ、ジンジンもあれば、鋭い痛みに鈍い痛み、波を打つような痛みなど、いろいろあります。ときには時間をかけて説明して、きちんと理解してもらってから次の話に進みます。

診察だけでなく、多くの外国人患者にとって大変なのは日本の医療制度への理解です。保険証の正しい使い方から高額療養費控除まで、わからないことだらけです。ここでも、私から説明したり、病院の医療ソーシャルワーカーさんに力を借りたりと、他の医療従事者と連携プレーをすることで、外国人患者も日本人患者と同じ治療が受けられるようになるのです。

大変な部分ももちろんありますが、そんな苦労よりも、やり遂げたときの達成感が一番のご褒美です。外国人患者を助けることは日本人医療従事者を助けることでもあるので、時間と体力が許す限り、第一線に立ち続けたいと願うばかりです。(医療通訳)

【まつなが・ゆう】北京で生まれ育ち、大学で日本語を専攻した後、日系企業に就職。24歳のとき、日本人夫と結婚して来日し、気がつけば日本にいる時間が長くなっています。3人の子供を育てながら、保護犬1匹、保護猫5匹も大切な家族。子育てが一段落した今、社会のために、環境のために、何ができるか、日々模索しています。

駐車場の手前で思ったこと《続・気軽にSOS》142

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【コラム・浅井和幸】先日、あるお店に入るのに、小道から駐車場へ右折をしようとしました。私が運転する自動車の前を走る自動車は慎重に歩道を歩く歩行者を観察してから右折を始めました。歩行者の動きを確認してから動き始めたはずのその車は、私が考えるコースとは違う方向に徐行し始めたので、私はすぐにその車の後についていかずに、ことの様子を停車したまま見守りました。

私の前の自動車の前を横切る歩行者は、自動車前方から後方へ歩いています。自動車が右折をすることを考えると、歩行者は左側から右側へ歩いている状況です。私の前の自動車は、歩行者の今は空いている前方に向かって徐行し始めたのです。

もちろん、その瞬間は、歩行者はまだ左側にいるので、右側が空いている状況です。しかし、今、左側にいる歩行者は数秒後には右側に移動するのです。結果、自動車は歩行者が向かう数メートル先で数秒後に接触することが予想されます。結局、数秒後に、自動車は自分の目の前を歩行者が歩いていることになったため、停車することとなりました。

徐行ですから、特に危険な場面ではありません。しかし歩行者が先ほどまでいた地点は、現時点では歩行者の後方(自動車からは左側)となり大きく空いているのです。わざわざ歩行者が向かう先に車を移動させて鉢合わせになり停車するよりも、数秒待っていれば歩行者をやり過ごして、私の前の自動車は10秒弱という時間ではありますが早く駐車場に入れたことになります。しかも、歩行者にぶつかりそうになるかもと足を止めさせるような気を使わせずに。

現在の常識は何十年前の常識?

このように人や時間、物事はそこにとどまらずに未来に進んでいます。今現在の止まった感覚で空いているスペースに車を移動させることは、数秒後には空きスペースではなくなることがよくあることです。

将棋やゴルフで活躍し大金を手にするヒーローが出てきて、我が子にもそれらを学ばせようと考えるとします。確かに、そのブームがあることで競技が盛んになり、レベルも上がることでしょう。しかし、競技人口も増え、苛烈(かれつ)な争いに我が子を送り出すことは、賞金から遠くなる可能性もあります。

ブームの店を出すことで、供給過多となり、倒産・借金の道が待っているかもしれません。今考えている常識や普通は、何十年前の時代に合った教えかも知れません。先を見通すことは、我々凡人には難しいこと、いや、できないことだといっても過言ではないでしょう。しかし、これが当たり前だと思い込むことは、悪循環を起こしやすく、そのときは注意して観察、または信頼できる人に相談しましょう。

今や、過去に固執して、それをこれからの流れと思い込んで行動してしまうことは、人の進行方向が10秒後も空きスペースだと勘違いして、結果、その人と接触してしまうような動きをしているのかもしれないのですから。(精神保健福祉士)