【コラム・川端舞】今年3月、私の故郷、群馬県で活動する某団体のオンラインイベントに参加した。その団体の活動自体にも興味があったが、高校時代の友人がそこで活動していることをSNSで知り、頑張っている姿を見て、刺激をもらいたかった。

もともと、その団体の活動についてあまり詳しく知らなかったし、他の参加者は群馬県内から参加しているようだったので、おとなしくイベントを聞いているつもりだった。イベント後半、参加者同士の交流が始まり、参加者1人1人が自己紹介をしていく。しかし、その時、私のそばには介助者がいなく、障害のある参加者は私だけのようだったので、「私が話しても、誰も聞き取れないよな」と思い、オンラインイベントから退出しようとした。

その瞬間、「かわばっちも何か話してよ」と友人の声がした。学生時代のあだ名で久しぶりに呼ばれ、ドキッとする。「だって、今、介助者がいないから」と答えると、友人は「わかった」と一言。「これで話さなくて済むかな」と思ったのもつかの間、なんと友人が他の参加者に「川端さんは私の高校の同級生で、脳性麻痺という障害があります。言語障害もありますが、何回か繰り返し聞けば、聞き取れるので…」と私の紹介を始めてしまった。

私を紹介し終えると、「…ということで、かわばっちも何か話してよ」と再び私に話しかけてくる。「これは逃げられないな」と思い、ドキドキしながら、私は自分の声で話し始めた。友人は私の話に相づちを打ちながら、時々、他の参加者に私の話を通訳する。高校卒業後、10年以上会っていなかったことがうそのように、友人は私の話を聞き取った。

「普通学校にいてよかったんだよ」

専門知識はないのに、私の障害のことを他の人にスラスラ説明できること。言語障害を気にして話さない私に、余計な気を遣わずに「話してよ」と言ってしまえること。おそらく高校3年間を同じ教室で過ごしたからこそ、できることなのだろう。

正直、普通学校に通っていた当時はつらいことのほうが多かった。障害のある自分が普通学校にいていいのかと、数え切れないほど悩んだ。今でも、障害児が普通学校に通うことを拒否されたり、普通学校で必要な支援を受けられない話を聞くと、普通学校に通っていた自分自身を否定された気分になる。

しかし、障害のある私を同級生として当たり前のように紹介する友人の姿に、「かわばっちは、確かに私たちと同じ教室で過ごしたんだよ。それでよかったんだよ」と言われた気がした。すべてが報われた気がして、涙が出るほどうれしかった。(障害当事者)