【コラム・奥井登美子】『死を迎える心構え』 加藤尚武(京都大学名誉教授・哲学)著。弟のタケちゃんの書いた本なので、亭主と2人でなめるようにして何回も読んだ。

『死を迎える心構え』PHP研究所

第11章「人生の終わりの日々」の一節。「…未来がなくても未来があるふりをする。ほんとうはたったひとりでこの道を歩いていくのだ。自分で自分に語りかける毎日。思い出という襤褸(ぼろ)をつないで物語をつくって、その物語の世界に垣根を作って、思い出の中を一人で歩いている時が楽しい…」

生まれる時は自分で選べないが、70年、80年、歴史の中を歩いてきて、死ぬ時くらいは最後まで自分らしく死にたいと思う。

昔は、老衰で、すべての内臓の能力に限界がくると、その人の個性を残しながら、その人らしい最後を迎えられたものなのに、今の医療制度は、なぜかそれを許してくれない。

ケアマネ選び、どうすればいいの?

「最後まで自分らしく死にたいなあ、なんでも、救急車呼んでしまうと、病院に連れていかれて、そのまま入院して意識がないのに、何日も、何カ月も機械につながれてしまう、救急車なんか呼ぶなという人もいる。そういう時はどうすればいいんだろう」

「介護認定をしてもらって、こちらの人生の最後のお願いが分かってくれそうな医者を見つけて、訪問医になってくれるか、どうか、探すしかないと思うわ。この前、図書館で借りてきた『在宅死』の本の著者は、大学病院にいても訪問医を体験している人の書いたものが多かった」

「どうやって、気の合いそうな、しかも訪問してくれる医者をさがせばいいんだろう? 困ったなあ」

「訪問医とは気が合ったけれども、ケアマネージャーと気が合わなくてひどい目に合ったという人もいた。ケアマネージャー選び、一体どうすればいいの?」

亭主と2人、タケちゃんの本を読みながら、こんな話をしていた。老人が最後まで自分らしく生きようとすると、今の制度の中では、難しい課題が山のように押し寄せる。人と人のつながりの中で、根気よく解決していくしかないのだろうか。(随筆家、薬剤師)