水曜日, 7月 3, 2024
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《食う寝る宇宙》69 オンラインで宇宙講演会

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【コラム・玉置晋】今年は、新型コロナの影響でリモートワークをしている方も多いかと思いますが、講演会も軒並みオンライン開催になっています。

先日、オンラインサロン「Remote Campus(通称リモキャン)」で講演させていただく機会がありました。リモキャンは、水戸市出身の会社員、永田聡さんたちにより、今年3月に立ち上げられました。以来、ほぼ毎日、子どもから大人まで登壇しています。会場を使った講演ではなく、すべてインターネット上での講演です。

僕は今年4月に宇宙ビジネスサロンABLabで「宇宙天気プロジェクト」を立上げました(コラム64参照)。そこでは、「宇宙天気キャスタ」や「宇宙天気インタプリタ」(コラム49 、コラム50参照)といった、社会の現場で草の根的に活動する、宇宙天気の知見を持った人材の発掘を行っていることに触れました。

オンライン講演会では、聞き手も発言することができます。また、チャットを用いて文字入力も可能なので、議論が成立します。これらの機能を使って、様々な立場の方々と白熱した議論を行うことができました。

講師側はボコボコにされることもありますので、ちょっと恐ろしい機能ではありますが、有益なコメントを得ることもできます。原因はどうあれ、おうちで宇宙講演会を楽しめる時代になったのは、なかなか素敵だと思います。

大学はオンライン授業

社会人大学院生として所属する茨城大学は、学生の密を避けるため、許可がなければキャンパスに入ることすらできません。授業はすべてオンラインです。院生の場合は、研究室のゼミへの参加が主となります。プレゼン資料を作成し、その説明を行い、質疑に応えるという流れとなります。

学生さんには、移動しなくてもよい点で好評なようですが、学生同士でワイワイ、キャンパスライフを送れないのはちょっと可哀そうですね。学生の皆さん、いかがです?

会社の若者に聞いたところ、例えば地震が起きたとき、今はまずソーシャルネットワークサービス(SNS)を確認するそうです。SNSは、リアルタイムで災害の情報発信・収集が可能です。これまでの災害時の経験から、電話回線がパンクした後でも、SNSは利用できる可能性が高いと思います。一方で、SNSは悪質なデマや誤った情報が拡散されやすいのは注意です。

この話を聞いた若者のオチとしては、地震が起きたら「逃げる前に」SNSを確認するそうです。まずは身を守ることを考えましょう。(宇宙天気防災研究者)

《映画探偵団》35 つくばにはモンローがよく似合う?

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【コラム・冠木新市】20年前、女子短期大学で講師をしていたとき、『モンローとヘップバーン』をテーマに取り上げた。マリリン・モンローは1926年、オードリー・ヘップバーンは1929年の生まれ。2人は同時代に活躍し共通の映画人たちと仕事をしている。初めのうち、学生の好みはヘップバーンが多かったが、講義終了時になるとモンローファンが急激に増えていった。モンロー作品の変遷を追い、演技に対する真摯(しんし)な姿勢を知ると、馬鹿な娘役は高度な演技であることが見えてくるからだ。

つくば市のイメージキャラクターに、2人のどちらかを選ぶとしたらどうだろうか。『ローマの休日』(1953)で王女に扮(ふん)したヘップバーンを大多数の人が選ぶことだろう。だが、市の中心市街地に建つセンタービルには、さりげなくモンローのイメージが組み込まれているのだ。

モンローカーブと呼ばれる外壁の曲線はいくつもある。ホテル棟のドアの取っ手のくねっとした形は、モンローを模している。また、ロビーに無造作に置かれた黒い椅子は背もたれが波うち、モンローチェアと呼ばれている。そのほか、滝の流れ落ちるステージにもモンローカーブがある。きっと、建物内部にも思わぬ所にあると思う。

ビル設計者の磯崎新は、なぜこんなにもモンローにこだわったのか。映画探偵としてこの疑問を考えてみた。モンローの代表作を俯瞰(ふかん)すると、《水》と関連している作品が多くあることに気付く。

《水》:《滝》《海》《河》

『ナイアガラ』(1953)は、腰を振って歩くモンローウォークが有名だが、物語の背景は雄大な《滝》である。『紳士は金髪がお好き』(1953)は豪華客船が舞台で、《海》の旅が描かれる。『帰らざる河』(1954)は、西部劇で不実な恋人を追い、《河》をさかのぼる話だ。『七年目の浮気』(1954)は、名無しのCMガールと中年男が主人公で、モンスター映画『大アマゾンの半魚人』(1954)の、川のイメージを活用して語られている。

改めて、《水》つながりでセンタービルを見ると、階段の降り口にある青銅の月桂樹に黄金の布が巻き付いた彫刻物(長沢英俊・作)に目がいく。これはギリシャ神話に出てくる川の神ペネイオスの娘、水の精ダフネが、太陽神アポロンのしつこい求婚を拒否し月桂樹となった姿を表現している。目立つ位置にありながら目立たない彫刻なのだが、水の精が樹に変身したものと知れば、モンロー作品の《水》のイメージと重なる。

というのも、ホテル入口の取っ手と月桂樹に巻き付いた布の色は、同じ金色だからである。いや、《水》のつながりは当然だとしても、本当は別の意味合いが強いのかもしれない。

強い者に媚びない自立した女性

モンローは、馬鹿っぽい役を押しつける映画会社に嫌気がさし、反旗を翻して女優初のモンロー・プロダクションを設立した。彼女は次のような言葉を残している。「私はかって映画界に入り、女優になるために戦ったのと同じように、自分の才能を発揮するために、戦わなければならないと悟りました。もし戦わなければ、映画という手押し車に乗せられて売り払われる1個の商品となってしまうからです」。

モンローは自由に企画を選ぶ権利を獲得し、プロダクション第1作『バス停留所』(1956)を制作する。ハリウッドスターを目指す場末のクラブ歌手チェリーは、純情でがさつな牧童に惚れられる。チェリーはしつこい牧童を拒否し続けるが、ラストシーンのバス停留所で心底から反省する牧童の姿に接するとほだされて、妻となる道を選ぶ。

モンローとダフネに共通するのは《水》以上に、アポロンを拒否したダフネ、ハリウッドに抵抗したモンロー、2人の意志の強さなのかもしれない。磯崎新は2人の女性の生き方に敬意を表し建築に引用して見せた。センタービルには、強い者に媚(こ)びないで戦う自立した女性像が秘められているのだ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

《続・平熱日記》69 「犬は私を縛り、亀もまた然り」

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【コラム・斉藤裕之】朝のルーティーンであった散歩をする必要がなくなった。犬のフーちゃんがついに息を引き取ったのだ。18年近く我が家にいたこの犬の思い出話はよそうとは思うのだが…。

しかし、少し前に飼い始めたマルといた年数を勘定すると、都合30数年、毎朝毎夕、雨の日も風の日も、散歩をしたことになる。そして、やや大袈裟に言うと、私の人生での犬との付き合いはこれでひとまずお開き。

さかのぼること1カ月。コロナ禍の暇つぶしに、庭に野菜の苗を植えるべく、スコフィールド(ロシアリクガメ)の柵を移動。1畳ほどの広さの柵をしっかりと据え付けたつもりだったが、ちょっとした隙間から脱走されてしまった。

周りは住宅しかなく、どなたかが見つけて飼ってくれていればいいが…などと思いながら、しばらく近所の道路などに気を配るも、ついに発見に至らず。近所の林で収監後10年。脱獄をする米ドラマの主人公から付けたスコフィールド。ついにミッションコンプリートか。

「家具は家を縛(しば)り、家は人を縛る」という坂本竜馬の言葉がある。意味は大きく違うと思うけど、私の場合「犬は私を縛り、亀もまた然り」。生き物を飼っていると、旅行にも行けない。現にこの20年余の間、家を留守にしたのは母の葬式の日ぐらいだ。

百個を目標に額縁を作ろう

話は変わって、毎年、牛久市の「サイトウギャラリー」で開く「平熱日記展」は今年で10年目。こういうご時世ではあるけども、特に三蜜にもならず大声を上げることもないだろうから、いつも通り開催しようと思う。

ついては、「そういえば定額給付金ってどうしたっけ?」という、ありがちな未来を回避すべく、「あると便利だなあ」と思っていたスライド丸鋸(まるのこ)を思い切って購入。

残暑厳しい中、黙々と作品を入れる額を作り始めた。実は奇特な友人が冗談半分に、御自宅を「斉藤裕之美術館」にするというので、ほったらかしにしていた小さな絵どもを額装しておきたいと思っていたのだ。

それから、来年の今ごろは還暦ということもあって、故郷の粭島(すくもじま)にある「ホーランエー食堂」(海の見える民家食堂)で、ささやかな回顧展をやると口約束をしていたのだが、いつも気になっていたフーちゃんやスコフィールドもいなくなったことだし、家を留守にして島を訪れたいと思い始めた。

それにしてもリアリティーとは。夕餉(ゆうげ)にカミさんがみそ汁の出汁にとったイリコを、鍋のふたに取ってゴミ箱へ捨てた。今までは、フーちゃんのお皿にポイっと投げ入れていたのだが…。アトリエの机の上にもイリコがひとつ。描き終えると、フーちゃんがパクリと食べるはずだった…。

こうも暑いと対抗心さえ芽生えるのは気性のせいか。とりあえず百個を目標に額縁を作ろう。しばらくは脳みそを空っぽにして汗にまみれよう。そういう労働に縛られるのも悪くない。(画家)

《吾妻カガミ》89 つくば市議会の愚かな選択

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】前回のコラム(8月17日掲載)では、4年前の市長選挙で五十嵐さんが掲げた看板公約「運動公園問題の完全解決」について検証しました。今回はその関連ということで、この問題のプロセスで節目になった市議会の動きを取り上げます。結論を先に言ってしまうと、議会は「愚かな選択をした」ということです。

運動公園問題を整理すると、市原前市長が計画(陸上競技場など3施設をUR都市機構から買った土地に305億円かけて建設)を発表多額の建設費に反対する市民運動(住民投票を求める署名活動)が活発化議会が住民投票実施とその要領を可決建設反対が多数を占め前市長は計画の推進を断念「運動公園問題の完全解決」を目玉公約に掲げた五十嵐市長が誕生それから4年経った今「問題の完全解決」は完全未解決―といった流れになります。

こういった経緯から、運動公園問題は、市民の反応に気落ちして4期目への出馬を断念した前市長にとっても、前回選挙で公約の目玉にして当選した現市長にとっても、とても重い案件であった(ある)ことが分かります。前市長は不出馬で失政の責任を取りましたが、看板公約を実現できなかった五十嵐さんはどうするのでしょうか?

現実策を封じた2択住民投票

話がそれましたので元に戻します。節目の動きは、2015年5月12日、「議会が住民投票実施とその要領を可決」した際に起きました。投票用紙の設問を、執行部が推す3択(計画に賛成、反対、見直し)にするか、市議側が提案した2択(賛成、反対)にするかで、議会が紛糾。採決の結果、2択方式が採用されました。これによって、当初の運動公園計画を見直すという、現実策を探る議論は封じられたわけです。

ところが今になって、公式競技ができる陸上競技場が欲しい、空き地になっている運動公園予定地に造ったらどうか―といった声が市議や市民の間から出ています。これは、当初計画(予定地に公認陸上競技場+サッカー兼ラクビー場+総合体育館を建設)のスケールダウン(予定地に陸上競技場だけを建設)ですから、3択の「見直し」そのものです。

もし住民投票が3択で実施されていれば、見直し+賛成が多数を占め、優先度が高かった陸上競技場はすでに完成、今ごろ利用されていたのではないでしょうか。5年前の議会は、スポーツ施設の是非という議会本来の仕事よりも、反市長会派(グループ)の政治的な思惑に支配され、賢さに欠ける選択をしたことになります。この愚かな行動により、市民の利益が大きく損なわれました。(経済ジャーナリスト)

<参考:市議の投票行動>

▼2択方式に賛成した現市議:久保谷孝夫(自民つくばクラブ・新しい風)、五頭泰誠(同)、小久保貴史(同)、神谷大蔵(同)、黒田健祐(同)、北口ひとみ(つくば・市民ネットワーク)、宇野信子(同)、皆川幸枝(同)、滝口隆一(日本共産党)、橋本佳子(同)、金子和雄(新社会党)、塩田尚(山中八策の会)=敬称略

▼3択方式に賛成した現市議:塚本洋二(つくば市政クラブ)、柳沢逸夫(同)、鈴木富士雄(同)、高野進(同)、須藤光明(同)、大久保勝弘(同)、小野泰宏(公明党)、浜中勝美(同)、山本美和(同)、木村清隆(つくば政清会)=同

《つくば法律日記》11 つくば市の2つのメディア

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堀越氏の弁護士事務所があるつくばセンタービル

【コラム・堀越智也】長引くコロナウィルス禍で、相撲、野球、サッカーなどを現場で見ることは制約を受けています。また、米大統領選挙、つくば市長・市議選挙、自民党総裁選挙なども、コロナ禍の影響を受け、民主主義もダメージを受けるかと心配していましたが、現状に危機感を覚える人が多く、いろいろな議論が起きている気はしています。

つくば市長選挙については、出馬に意欲を示していた方がコロナ禍を理由に、立候補を止めると聞いたときは、「つくばの民主主義も疫病の前に敗北した」と、落胆しました。しかし、8月末、現市長に挑戦する方が現れ、議論が活性化するのではと、期待が持てるようになりました。

自民党総裁選では、世論調査で一番人気がある人が、総裁になりそうもないというのはどうかと思いますが、それが政党政治であり、メリット・デメリットがありながら、日本が選択した制度です。一番人気の人が総裁になりそうもないことが、かえって国民の関心を高めているところもあるようです。

コロナ禍の閉塞感に挑む

テレビやパソコンの前で現状を批判することは簡単ですが、僕としては、現状を打開しようと努力している人がいる中、自分は何ができているだろうと考えると、反省することばかりです。

今は、SNSを通して政治的な発言が容易にできる世の中です。SNSはファクトという点で劣ってはいます。しかし、知人がSNSでまちの問題点を指摘、それまで気づかずにいた問題を知ったときには、SNSが無力でないと感じました。

宣伝するわけではありませんが、つくばには「NEWSつくば」という、経験豊富な記者を抱える媒体があります。また、宣伝になるかもしれませんが、僕が代表を務めている「ラヂオつくば」は「NEWSつくば」と提携して、市に関連するニュースを流しています。

「Withコロナ」であっても、こういった媒体に接することは通常通りできますので、僕ができることがあるとすれば、これらの媒体を活かして、つくば市政の新鮮かつ正確な情報を流すことかもしれないと思っています。つくばの市長・市議選挙では、「ラヂオつくば」で特別番組を設け、コロナ禍による閉塞感に挑もうと思っています。(弁護士)

《続・気軽にSOS》68 猫とのコミュニケーション

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【コラム・浅井和幸】私は常日ごろから、コミュニケーションが大事と伝えています。日常の人間関係でも何かの支援でも、相互の気持ちを伝達し合うこと、感じ取ろうとすることが大切と考えています。

事実と推測を一緒くたにして過ごしていることは多いものです。あの人は私を嫌っているとか、私の気持ちを相手は酌(く)んで動くべきだ、という思い込みで日常生活を送りがちです。また支援にしても、良い支援と悪い支援、良い言葉かけと悪い言葉かけに分けて決めつけ、相手がどのように感じているかは二の次、三の次になしてしまうこともしばしば、というより、思い込みで動いていることの方が多いのです。

それは人間同士だけでなく、猫と人間でも同じです。浅井家だけに通じる言葉、「みー触り」「らえる触り」「とまと触り」というものがあります。「みー」「らえる」「とまと」は、浅井家にいる(いた)歴代の猫です。

さば白柄のオス猫「みー」。甘えん坊で、いつも人間にベタベタとくっついてきます。遠くにいても呼べば寄ってくるし、玄関まで人間を出迎えたりします。この猫は、ガシガシ強めに撫(な)でたり、軽く肩叩きをするかのように叩くととても喜びます。この撫で方を「みー触り」と呼んでいます。

猫の気持ちと距離を測りながら

「みー」よりも、一回り大きなスモーク柄のメス猫「らえる」。洗濯機や机の上に乗ると、体当たりをするように甘えてきます。しかし、普段は遠巻きにこちらを見ていました。それだけ強く当たってくるのであれば、やっぱり「みー触り」が良いだろうと思って触ろうとすると、逃げていきます。

いわゆる普通の猫に対する撫で方でも、体を震わせるようにして逃げていきました。ある時、「らえる」と名前を呼びながら、体毛に触るかどうかの優しく触ってみると、逃げることが少なくなりました。

今まで普通だと思って触っていたやり方では、「らえる」にとっては強すぎて嫌だったのです。ある団体に保護されていた「らえる」。過去に、ちょっと嫌な経験もあったのでしょう。若干の人間に対する不信感があったのではないかと思います。この「らえる触り」を繰り返すうちに距離が縮まり、コツはありますが、今ではもう少し強めに触っても逃げなくなりました。

それ以外に、三毛猫(もちろんメス)の「とまと」。ある程度、どのような触り方でも喜ぶのですが、手のひらを押し当てるようにして、ゆっくり震わせるようにすると、落ち着いて寝転がります。これが「とまと触り」。

ある農場に、乳離れするかしないかのうちに捨てられていた「とまと」。カラスに襲われていたところを、その農場主に保護されました。もしかしたら、もっと恐ろしい体験もしていたかもしれません。きっと、大きな面積で触れられることで安心感があったのでしょう。

もちろんこれらは、様々な試行錯誤、猫の反応を見ながら接しているうちに見つけた方法です。少しずつ猫の気持ちと距離を測りながら。(精神保健福祉士)

《くずかごの唄》68 関東大震災 PTSDになった母

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】私は母から9月1日の関東大震災の時の話を耳にタコができるほど聞かされて育った。母は20歳、妊娠8カ月だった。昼御飯を食べている時、今まで経験したことのないほど揺れ、老齢で目の見えなくなった姑(しゅうとめ)の手を引いて、父と3人で京橋の新富町から皇居方面に避難することにしたという。

ご飯は後で食べるつもりで持って出た。あいにくお昼時とあって、どこの家でもかまどに火を焚いていたからたまらない。木造住宅の崩壊した家から煙が出て、あれよあれよという間に、点々と火が広がってしまったという。

15分間くらい歩く間に、火事はますますひどくなって、銀座の通りを横切る時、風が熱風となって左右から吹き付けてくるので、とても怖かったという。

やっとの思いで皇居前広場に着いて、さて、のどが渇いて水が飲みたいと思ったが水がない。井戸水は朝鮮の人が毒を投入したので飲んではいけないという「おふれ」まがいの「噂」が広がって、水が飲めなかったのがとても苦しかったという。

3日間そこで野宿し、父が歩いて探し回って、友達の亀山さんの目黒の家が焼けないで残っていたので、その家にしばらくお世話になり、芝公園の中に臨時の産院が出来たので、そこで兄を出産した。可哀そうに、兄の戸籍謄本には、「出生地 芝公園内2号地」と書かれていた。

怖かった震災時の話を何回も…

震災で京橋区の98%が焼失。焼け出された人たちは、当時は郊外の、自然の豊かな阿佐ヶ谷や荻窪に移り住んだ。

父は子供が大好きで、慶應の学生時代から「藤友会」という、今でいう子供文庫みたいな塾を造って、近所の子供たちに、勉強や水泳を教えていたという。父は早く次の子供が欲しかったらしいが、20歳で震災避難と出産を体験した母が、今でいえばPTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいな精神状態で、不安定で、なかなか子供が出来なかったという。兄の出産から10年たって、やっと私が生まれた。

私がもの心ついた時、母はまるで、蚕(かいこ)が糸を吐き出すように、私をつかまえては、怖かった震災の時の話。何が不安だったか、同じ話を何回もしていた。今思えば、新しく生まれてきた娘に話をすることでストレスを軽減していたのかも知れない。

私は、震災と戦争のつかの間の年月、荻窪の原っぱでのびのびと、楽しい幼年時代をすごして育った。(随筆家、薬剤師)

《ことばのおはなし》25 私のおはなし⑭

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【コラム・山口絹記】「手術、終わったよ」。自分のことばで伝えるというのが、今の私には大切なことだ。それは、とりあえず元気だ、という証拠であり、同時にことばを失っていない、という証拠になるからだ。

自分が元気に生きているということを、一対一で伝えなければいけない人というのは実はそう多くないのだな。手術前に作った連絡リストを眺めながら、そんなことを考えた。

術後のリハビリでは―と言っても、後遺症がほとんどないため、お話するだけなのだが―ずっとお世話になっていた言語聴覚士の方が、失語について学ぶためのおすすめ書籍を教えてくれながら「山口さんのリハビリをしないで済んで、本当に良かったです」と言った。術前は話せた人が術後に話せなくなってしまうことは、当然だが、普通にあることだそうだ。

担当医の先生に抜糸をしてもらったときには、手術の難易度を定量的に教えてほしいと頼んでみた。5段階のグレードのうち、私の状態はグレード2で、グレード3になると手術するか迷う状態。グレード4以上になると手術は危険なため、基本的に放射線治療などになるらしい。

「そういうのって、普通術前に聞きませんかね?」。先生は苦笑しながら、「山口さん、割と無理する人だから、やっぱり3針縫っておきましょう。一応50針の傷ですから、かきむしったりしないでくださいよ。はがれますからね」と、もう一度頭を縫われた。

一度退院してからも、手術の影響で軽い硬膜外出血を起こしたり、短期間に2度インフルエンザで倒れたりといろいろあったものの、桜が咲くころには体調も落ち着いた。

「パパ、だいぶしゃべれるようになったね」

桜吹雪の中を娘に手を引かれて走る。空を舞う花びらと、大きなその幹に私は目を奪われるのだけど、娘はそんなもの見てはいない。素晴らしいものを見つけたのだろう、何かを指差しながら、ただ全力で走る。私には何を指しているのかわからない。

一度失ったことばは取り戻したが、時とともに失ってしまった小さいころの記憶が戻ることはあまりない。失って、取り戻すことのできないものの見方があるとしたら、その視点で、見方で、見たものも失っているのかもしれない。だとしたら、私の中にはどれだけのものが残っているのだろうか。

「何かいいもの、見つけたの?」。ちょっと無粋だなと思いながら娘にたずねてみる。娘は私の顔をじっと見つめてしばらく何かを考えていたようだが、説明することを諦めたのだろう。すべり台へ走っていってしまった。

抱っこした娘の頭にくっついた桜の花びらを払い落としながら、家路につく。

「まだ遊びたい」「帰らない」とジタバタする娘を「お昼ごはんの時間です」とたしなめながら、いつの間にか、娘もずいぶんとことばを話せるようになったものだなと感慨に浸る。

すると、娘がなぜか、内緒話をするように耳元に口を寄せて、「パパ、だいぶしゃべれるようになったね」とささやいた。私は一瞬呆気にとられ、大笑いしながら言った。 「おかげさまでね」-おしまい-(言語研究者)

《雑記録》15 安倍長期政権 ついに限界辞任

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【コラム・瀧田薫】8月28日、安倍晋三首相が辞任の意向を表明した。第2次内閣発足(2012年12月26日)以降、首相在任日数は2800日を超えており、難病を抱えながら激務をこなしてきた首相の自己管理能力には敬服するが、それも限界にきたということだろう。自民党総裁の任期はまだ残り1年あるが、政治空白をつくるわけにはいかない。後任選びを急がねばなるまい。

辞任表明を受け、「突然のことで驚いている」とコメントする有力議員がほとんどだが、後釜首相候補者は活発に動きだしているし、新聞紙上でも「安倍長期政権の総括」が始まっている。

たとえば、政治学者・細谷雄一氏(8月25日付朝日新聞)は、「安倍首相の思想信条(戦後レジーム=戦後体制からの脱却)は、多くの国民の意識とはかけ離れていた。それが、第1次政権が短命に終った理由だ」とし、さらに「第2次安倍政権は先の失敗を教訓として、アベノミクス(実利の経済政策)を前面に押し出すと同時に集団的自衛権行使の一部容認に代表される保守重視のイメージ戦略を組み合わせた、この絶妙なバランス感覚が安倍長期政権を支えた」と指摘している。

安倍首相からすれば、レームダック(政治的影響力を失い、政権末期を指摘される首相や大統領)扱いをされることは不愉快なことだろう。しかし、もっと不愉快なのは「戦後体制からの脱却」が事実上失敗に終わったと指摘されたことだろう。

教育基本法の改正や集団的自衛権行使の一部容認など、一定の成果はあったとする与党内の見方もあるが、「この国を安倍首相の考える本道に戻す」という究極の目標からすれば、満足できる成果ではない。結局、安倍首相は、志半ばにして、失意のうちに第一線を退くこととなった。

トランプ依存外交は幕引き

さて、後継政権の政策課題はどうなるだろうか。イデオロギーについては「戦後体制からの脱却」という看板が継承される可能性は低い。しかし、世界情勢次第では、ナショナリズムへの対応が必要になるかも知れない。

安全保障政策については、安倍政権の敷いた路線が当面継承されるだろう。経済面では、アベノミクスの負の遺産(経済格差の拡大、財政規律の破綻と累積債務、地方の疲弊など)を抱えながら、人口減少と低成長、そしてコロナ禍という苦い現実に向き合わねばならない。

残念ながら、日本の技術競争力は、デジタル化に代表される構造改革についていけず、落ち込む一方である。日本の産業を支えてきた中小企業を支援し、これをベンチャー化するなど、新たな産業政策も必要だ。行政と国会の改革も待ったなしである。いわゆる「政治主導(安倍一強)」を見直すことになろう。

最後に外交面であるが、米大統領選挙の結果一つ、それで国際環境は激変する。これからは、米中対立の狭間で、日本外交の自主性とバランス感覚が問われるだろう。トランプ依存でやっていけた時代は、コロナウイルスの登場で潮目が変わり、安倍首相の退陣とともに幕引きとなりそうだ。(茨城キリスト教大学名誉教授)

《ライズ学園日記》7 何でもできなければ…いけないのか?

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平沢官衙(かんが)遺跡=つくば市平沢

【コラム・小野村哲】教師という立場で、「できないことがあってもいい」などと言ったら、「それをできるようにするのが、お前の仕事だろう!」と、お叱りを受けるかもしれない。けれど英語教師の私には、できないことがたくさんある。まず、算数は苦手だ。「それでよく教師が務まる」と言われるかもしれないが、算数はできても英語はダメだという人も多いに違いない。

一歩職場を離れれば、できないことだらけだと言ってもいい。義母が野菜を育ててくれるおかげで、我が家の食卓には毎日取り立ての野菜が並ぶが、私自身は大根1本まともに育てられない。

私たちは今、改めて「何を目指すのか」を話し合っている。ライズ学園開校時に掲げていたのは、「1人ひとりに異なる学びを尊重し、その可能性を伸長する」ということだ。学校を休んでいたりすれば勉強は遅れる。ゆっくり遠回りをしてくる子もいるが、遠回りは無駄とは限らないし、「遅い」ということは必ずしも「できない」ということではないはずだ。

しかしこの国では、「大器晩成」などという言葉は死語となりかけている。コロナ休校の後、新聞に折り込まれていた大手塾のチラシには、「倍速コース」「ぜったいに取り戻す」と大見出しが躍っていた。マスクをした上にフェイスシールドをした講師とともに、子どもたちはどこに導かれようとしているのだろう。

学校へ行かなくてはいけないのだろうか?

しかし今となれば、「1人ひとりに異なる可能性を伸長する」などとは、大層かっこいいセリフを掲げたものだと思う。「私たちが、伸ばしてあげましょう」といった、上から目線も感じられる。そこで目指すところして「子どもたちの幸せ」をあげてみたが、スタッフからは「幸せってどういうことですか?」と、混ぜ返された。

毎日きちんと学校に行って、高校、大学と進み、就職といったレールの上を無難に進むことをいうのか? だとすると学校は、子どもたちをそのようなステレオタイプにはめるための組織なのだろうか? 幸せはそんなものではないし、これからの学校が目指すのも、そのようなものではないはずだ。

ますます高度化、複雑化する社会では、IT技術者に限っても1人で何でもできるなどと言うことはありえない。新型コロナウィルスの感染拡大で、地方での暮しを模索する人も増えてきているという。価値観は多様化している。なのに学校は、次代の変化に適応できていない。不登校児童生徒のための支援施設として「適応指導教室」というものがあったが、適応指導が必要なのは、むしろ学校の方だ。

1人で何でもできるようにする必要なんてない(大人だってできないんだから…)。学校だって、自分のプラスにならないと思えば、無理に行かなくたっていい。コロナ休校期間に料理を覚え、それをレシピにまとめた子がいる。学校以外にも、学びの機会はいくらだってある。私たちもそんな子どもたちのニーズに応えられるよう、努力を重ねたいと思っている。(つくば市教育委員)

《食とエトセトラ》6 自分のために極上のお茶を

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【コラム・吉田礼子】極上などというと高値、高ければ美味しいに決まっているという方もいらっしゃるかと思いつつ、同じ茶葉でも入れ方でこんなに違うということが今回のお話です。お茶と言えば、煎茶(せんちゃ)が思い起こされるでしょう。

新婚のころ、主人の実家で教えられたことは、お客様がいらしたときは挨拶したらまずお茶を出すこと、茶葉は切らさないようにということでした。子どものころ、母が入れたお茶をお盆に載せて平らに持ち、お茶を出したことを思い出しました。

当時、急須(きゅうす)でお茶を入れることは普通のことでした。半世紀の間に様変わりして、今のお茶の時間は、コーヒー、紅茶、中国茶、ハーブ茶など様々。日本茶に急須を使わないお宅もあるようです。ペットボトルの飲料がない家は皆無でしょう。

お茶を入れる手間、後片付けは面倒とは思いますが、美味しいお茶を出されたときの感激は忘れられません。でも、なかなか思い通りに入れることができず、濃過ぎたのではなどと自責の念にかられます。そこで、美味しいお茶を入れる方法を研究。試行錯誤の末に、お湯の温度、茶葉の量、急須や茶碗などの温め方など、やっとお客様に出せるようになったような気がします。

美味しいお茶の淹れ方

▽まず急須に入る湯量を計り、沸かしたお湯を入れる
▽急須のお湯で茶碗を温め、1人約80ccで何杯分かを確認する
▽茶碗の個数×2グラムの茶葉を急須に入れる
▽茶碗のお湯を急須に戻す
▽1分ぐらい蒸らし茶碗に入れる
▽2煎目のお湯は冷ましてから入れる

そんなお茶の入れ方を意識していたころ、久しぶりに仙台に帰り、母が入れたお茶をひと口。本当においしい。昔、母とデパートに行ったとき、茶葉の手揉(も)み実演を見たことを思い出しました。茶葉が針のように細長くピンとしている。1本いただき口に含む。お茶の香りとほろ苦さが広がる。唾液がジワーっと湧き甘く感じる…。

そんなお茶を入れられたらと思います。煎茶の温度は熱過ぎないように(茶碗の中は55~60度)に。お鮨(すし)屋さんのお茶はアツアツですが、口の中の鮨ネタの脂っこさを取ったり、殺菌のためだそうです。コロナ禍のため、家にいる時間が増えたことと思いますが、時間をかけて、美味しいお茶を入れてみてはいかがでしょう。(料理教室主宰)

《宍塚の大池》68 地元小学校や市民がオニバス保全活動

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葉を突き抜けて咲くオニバスの花(上段左)、葉の裏(同右)、葉を支える葉脈(下段左)、オニバスの閉鎖花(同中央)、 水草保存コンテナ(同右)

【コラム・及川ひろみ】オニバスは春発芽し、夏には直径2メートルもの大きな葉を水面に広げるスイレン科の一年草の水草です。葉・茎など花弁と根を除き、全体に鋭く長いトゲがあることから、オニバスと呼ばれるようになったようです。環境省レッドリスト絶滅危惧II類(VU)の絶滅の危機にある貴重な植物です。

宍塚大池は太平洋側のオニバス北限生育地で1982年、約500株が確認されました。1990年、会が行った調査では36株、その後さらに少なくなり、2000年ごろから宍塚大池ではオニバスが見られなくなりました。

オニバス減少の要因について、環境省「日本の絶滅のおそれのある野生生物」(レッドデーターブック、2002年改訂版)は、湖沼の開発、水質の汚濁土地造成を主原因に挙げています。

オニバスを育てるために会では、大池堤防の下流にオニバスの生育地として「オニバス池」を掘りました。が、そこでアメリカザリガニがオニバスを食べ尽くす現場を目撃しました。残念ながらオニバスをオニバス池で育てることを断念しています。

種を採取し1990年から栽培

オニバスは水面で咲く花とは別に、水中で自家受粉するたくさんの「閉鎖花」を付け、種を付けます。

会では1990年、宍塚大池で採取した閉鎖花の果実から約100個の種を取り、それを基に、1990年から減少が続くオニバスを種から育てる活動を始めました。

地元宍塚小学校(当時)の親御さんから、学校でも育てたいとの申し出を受け、1994年オニバスの若い苗を差し上げました。宍塚小学校では郷土の宝であるオニバスを保全するために池を掘り、成長を記録し、オニバスが絶滅危惧種になった原因を探りました。

その後何代もの先生によってこの活動が引き継がれ、この活動などによって環境省から「環境功労者賞表彰」を授与されました。宍塚小学校が閉校となった今では、土浦小学校がこの活動を引き継いでいます。

1997年、会はオニバスの里親を広く募り、市民によるオニバス保全が現在も続いています。

会は現在、180センチ×120センチ、深さ80センチの中型コンテナ数個による栽培を行っています。

オニバスだけでなく宍塚大池由来のジュンサイ、クロモ、ミクリなど希少種の水草を、20数個のコンテナを使い保全しています。

宍塚大池ではアメリカザリガニを取り除く活動を2006年から続けています。水草が育つ条件が整えばこれらの水草を大池に移植したいと考えています。大池の池底には未だオニバスの種が眠っていることも考えられますが、まずは大池の環境改善が急務です。(認定NPO法人宍塚の自然と歴史の会)

《県南の食生活》16 お盆の今と昔

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【コラム・古家晴美】今夏は新型コロナウィルスの影響で夏祭りが軒並み中止となり、何か忘れものをしてきたような気分だ。しかし、お盆行事は各家庭で例年通り行われたのではないだろうか。お盆はあの世から戻ってくる先祖の霊をもてなし、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、子孫繁栄を祈る。

阿見町大室のあるお宅では、仏壇の前に盆棚(ぼんだな)を作り、仏壇から位牌などを出してホトケサマを祀(まつ)る。以前は、霞ケ浦湖岸で刈ったマコモを干して敷いた上に蓮(ハス)の大葉を載せ、そこに様々な供物を並べた。キュウリやナスで作った馬や牛、自宅で収穫したナス、キュウリ、カボチャ、サツマイモなどの野菜や三度三度の食事だ。

朝食には小豆あんを載せた餅、昼食にはうどん、夕食には白飯と精進揚げなどを用意した。また、7月21日にワカサギが解禁になるので、てんぷらにしてお供えすることもある。

お盆でお供えする餅(もち)は、昭和40年前後まで自宅で搗(つ)いていた。しかし、カゴヤサン(背負い籠に地元の農産物を詰めて常磐線に乗って東京で販売する人)に頼むと、東京で仕入れて来てくれると知ってからは、その人に注文するようになった。

夏場に餅を搗くと、表面がすぐに硬くなってしまい美味しくない。その上、お盆用に少量しか搗かず、あまり手間をかけたくないので、買って済ませるようになったとのこと。地元にスーパーができると、うどんも自宅で打たずに購入した乾麺を使用するようになった。

最近では、自宅で作らなくなった野菜や果物、真空パックの切り餅はスーパーで、マコモはホームセンターで購入してお供えしている。

「近ごろでは金がモテナイ」

シンボン(新盆)の家に見舞いに行くと、以前はビールやお茶、天ぷら、煮物が用意されており、ごちそうになった。ちょうどハスが出始めた時期なので、「新バス(盆バス)だから初物を食べていってくれよ」と勧められた。5ミリくらいの厚さに切り、醤油と酒、砂糖だけで煮たものである。

しかし、最近の新盆は、飲酒運転の取り締まりが厳しくなったことから、ご馳走を出さずに、香典返しのように葬儀社が用意した品物で返礼されることが増えている。ビールや醤油、鰹節、海苔などがセットになっている豪華なものもある。

コロナの影響で世の中の動きが一時停止してしまったが、お盆行事はこのように形を変えながらも、現在でも毎年行われている。餅つき、うどん打ち、シンボン見舞客の接待などの多くが外部化し、確かに余分な気遣いや手間はなくなり気楽になった。

しかし、葬儀ばかりでなく、お盆まで業者にお世話になるご時世。「近ごろでは(なんにでもお金がかかり)金がモテナイ(貯められない)」という土地の表現を教えていただいた。お金を貯めるのは一苦労だ。(筑波学院大学教授)

《続・平熱日記》67 篭(かご)と笊(ざる)

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【コラム・斉藤裕之】夫婦に共通の趣味はないのだが、カミさんがわりと素直に付き合ってくれるのが、たまに出かける骨董市。特にお目当てのものがあるわけでもない。何かの収集家でもないが、古びた道具や家具は今のものとは違う魅力がある。

ゆっくりと小半時(こはんとき)を過ごして何も買わないこともあれば、お宝?を発見できることもあるのだが、結構な確率でカミさんが手にしているのは篭(かご)と笊(ざる)。「どう?」。安すぎる売り値を聞いて、これを作る手間を考えると「どうぞ!」と答えるしかない。

元々「テキスト」は「編む」という言葉から、また「テクスチャー」が材質感と訳されるように、一枚の美しい生地もひとめひとめから成り立つという全体の部分の関係。そうそう、「縦の糸は〇〇〇で横の糸が△△△」という唄の如く、篭や笊は哲学的かつ幾何学的な構造を伴っている。例えば、立派な全集や辞典なども「編む」という。

フィンランドの五輪代表が集中力を高めるために編み物を取り入れたとか、またミス・マープルが事件の解決の合間に編み物をする姿も思い出される。いずれにしろ、「コツコツ」と積み上げるという私の苦手な分野であることは確かだ。

それから、カミさんの趣味のひとつは植物である。いわゆる豪華絢爛(ごうかけんらん)なものではなく、どちらかというと山野草などのひっそりとしたものを好む。訪れた道の駅や直売所では、まずは外回りの鉢物を物色する。最近買ったのは、萱(かや)のようなひょろひょろとした草や垂れ下がる弦(つる)ものの草だ。それらは時々篭に盛られ、台所に置かれる。

私は好んで花を描く方ではないのだが、季節ごとに目にする野の草を描くことがある。ドクダミやアザミは毎年描いてみるのだが、なかなか上手くいかない。そんな時、たまにカミさんの生けた篭の花を拝借して描いてみるのだが、次の日には開いたり萎れたりしていて、途中で止めてしまうことがよくある。

先日は、最近あまり見かけなくなったと言って、カミさんがどこからかツユ草を持ってきた。この夏の花は描いたことがないが、長持ちしそうだから描いてみようと思う。

カミさんは「透け感のある女性」

さて、篭や笊はなど、編まれているものには当然「隙間」があって、これが例えば美術においては大事な要素なのである。今風に言うと、「透け感」?「抜け感」? 絵画にしても彫刻にしても、いい作品は絶妙な透け感を伴っていることが多い。つまりカミさんは「透け感」好きなのか。

確かに、彼女の好きな草木も、いや本人も「透け感」ありだ。「奥さんてどんな人?」と聞かれて、いつも返事に困っていたが、「透け感のある女性」と答えることにしようか。さすがにこれはちょっとすかしすぎか。

ようやく梅雨も明けたある休日。久しぶりに骨董市を訪ねた。カミさんの手にはまたもや小ぶりの篭が。そういえば、昨年、山口の実家を畳む際に、カミさんが最後に持ち出したのは母が集めた篭だった。どうやら篭や笊には女心をくすぐる何かがあるらしい。

蛇足だが、長女はザル、次女は下戸。私はお酒を止めてちょうど1年が経った。(画家)

《茨城鉄道物語》5 TX開業15周年 「南伸」「北伸」を論ず

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つくばエクスプレス=研究学園駅

【コラム・塚本一也】今日8月24日、つくばエクスプレス(TX)は開業15周年を迎えた。当初から私は「(つくば駅が終点の)TXは未完成である」と主張してきた。もともとTXは「常磐線のバイパス」として計画された路線であるから、TXと常磐線相互の振り替え輸送が可能になるように、つくば以北のどこかで常磐線に接続しなければならないと考えているからである。

私はこれまで様々な場面で、TX延伸の持論を展開してきた。しかし、政治・行政あるいは鉄道会社の関係者は、私の主張に内心では賛意を示すものの、いざ行動しようとすると尻込みをしてしまうようである。

TX延伸に関しては、東京湾臨海方面を目指す「南部延伸論」と、茨城空港まで伸ばす「北部延伸論」がある。南部延伸に関して注目しなければいけないのは、どの路線と相互乗り入れを計画するかである。鉄道の相互乗り入れは、縁談に例えることができる。TXの東京駅へ乗り入れを熱望する人は多いが、それは「あの家と縁組したいが、相手がだれかは分からない」と言っているようなもので、ナンセンスである。

将来に夢と希望が描けるようなパートナーと出会えることが、当人だけでなく周りへも幸福をもたらすのではないだろうか。それには、どの路線と相互乗り入れをするかということを考えることが必要である。

国家プロジェクトの大義をつくれ

北部延伸論については、関係者が必要性を認識しつつも、一様に口が重い理由は、財源確保が困難であるという点である。高度成長期に計画された整備新幹線と異なり、低成長時代に突入した今、しかもこれまで鉄道に対して関心の薄かった茨城県が、単独で延伸計画をまとめるのは荷が重いというのが関係者の本音であろう。

大規模プロジェクトを進めるにあたって、財源は、いつの時代でも越えなければならない壁である。しかし、先人たちはその壁を乗り越えて、茨城を発展させてきた。私に言わせれば、「お金がない」のではなく、「やる気がない」のである。試合をする前から、負けを認めているようなものである。

TXの北部延伸を実現させるには、その中心であるつくば市がプロジェクトを引っ張ることが必要条件である。そして、鉄道の運営と下部構造(鉄道施設)の財産保有を別にする、いわゆる「上下分離」の事業スキームを構築しなければならない。

さらに、茨城県が孤立しないようにするために、国家プロジェクトとしての大義をつくることである。首都災害のリスク回避のために一極集中を分散させる―ことなどは、錦の御旗になるであろう。つくば市には多くの研究機関が進出しているし、茨城空港を持っていることも大きなアドバンテージになる。

このように、TX延伸実現のための材料やレシピはある程度そろっているが、問題は一流の料理人が欠けていることである。かつて帝都復興を成し遂げた後藤新平や、筑波研究学園都市を決定した河野一郎のような、先見性と強い信念を持ったプロジェクトリーダーの登場が望まれる。(一級建築士)

《食う寝る宇宙》68 コロナの穴から風が吹く

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【コラム・玉置晋】今、地球の人々を困らせているコロナウィルスを顕微鏡でみると、球形の周りに枝のようなものが放射状に拡がっているように見えます。もともと、コロナという名前の由来は太陽の外側の大気層からきています。

僕らが肉眼で見ている太陽は6000℃の光球です。その外側に10万℃の彩層と呼ばれる領域があり、その外側が100万℃のコロナです。特殊な観測機器を使わない限り、コロナを見ることはできません。唯一見ることができる機会が、月が太陽をちょうど覆い隠す「皆既日食」です。月の影の周りの淡い放射状の光の筋として見ることができます。この姿に似ているので「コロナウィルス」という名前が付いたといわれています。

100万℃の太陽コロナは、その高温ゆえにX線や極端紫外線といった波長の短い光を放っています。これらの光は大気で減衰するため、大気の底にいる僕らのところには届きません。でも、宇宙にある人工衛星で観測することができます。これらの光で太陽を見ると、時折、コロナにまるで穴が開いたように暗い部分が見えることがあります。この穴は「コロナホール」と呼ばれており、彩層から10万℃の高速風が吹いて来ることが知られています。

宇宙天気情報発信の難しさ

2020年8月上旬に「コロナホール」が観測されました。この時、地球の周りには秒速700キロを越える暴風が吹いていました。問題はその温度で、100万℃以上! これは彩層ではなく、コロナの温度です。通常、100万℃のコロナが地球周辺まで飛ばされる現象として、コロナ質量放出「CME(Coronal Mass Ejection)」と呼ばれるものがあります。おそらくCMEが絡んでいると思うのですが、肝心のCMEが見つからないため、確証を得られませんでした。

このことをTwitterでつぶやいたら、海外の見ず知らずの方から「君の言っていることはミスリードしているよ。悪しからず」とご指摘いただいてしまいました。今回のように判断が難しい現象に出合うことは多々あります。

宇宙天気の情報は、今後、社会の様々な領域で重要度を増していくことでしょう。この情報により、影響を受ける人々はどんどん増えていきます。ゆえに、責任ある立場で情報発信をする際は、地上の天気と同様に慎重を要します。一方で、慎重を期するあまり情報展開が遅れて、減災のチャンスを逃してしまうことは避けたいものです。(宇宙天気防災研究者)

《邑から日本を見る》70 『八郷からの便り』を読む

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【コラム・先﨑千尋】石岡市八郷に住む有機農業の仲間橋本明子さんから表題の本が届いた。これまで書きためたものをまとめたという。サブタイトルは「農といのちに注ぐひたむきな愛の記録」。本を開く前に、「ああ、橋本さんも自分史を書く歳になったのだなあ」と思ってしまった。

昨年には、山形県高畠町の星寛治さんがそのものずばりの『自分史』(清水光文堂書房)を出した。今年に入って、知人では、筑摩書房の名編集者で山代巴の本を出すために径書房を作った原田奈翁雄さんが『生涯編集者』(高文研)を、早稲田環境塾の原剛さんが『日本の「原風景」を読む』(藤原書店)を、『文化連情報』という農協病院向けの雑誌を編集していた高杉進さんが『踏跡残し』(自費出版)を出している。自分史と謳ってはいないけれど、それぞれが自分の歩んできた道をふり返っている本だ。それぞれに味わい深く読んだ。

本書の著者橋本さんは、大阪外大を出て大阪労音に勤務し、結婚して東京に移住。消費者運動を進めながら、八郷に共同の消費者自給農場「たまごの会」を作り、1988年に連れ合いの信一さんと共にとうとう八郷に移住し、「日本一小さい畑を耕す」ようになる。その畑で採れた野菜類を知り合いの首都圏の消費者に届けてきた。橋本さんと私との出会いは、多分高畠町有機農研での集まりだったと思う。高畠で有機農業に取り組み、早くに亡くなった片平イチ子さんを描いた『イチ子の遺言』(ユック舎)を2005年に、仲間の山崎久民さん、海老沢とも子さんとまとめている。

「個性豊かな人たち」「小さな農学校の試み」

前置きが長くなった。本書は同じ八郷移住組の合田寅彦さんが編集、出版(ゆう出版)した。本書の構成は、「コメの現場に足を運ぶ」、「八郷の暮らしから見えてきたもの」、「個性豊かな人たち」、「小さな農学校の試み」、「八郷での出会い」など8つのタイトルから成っている。これまで発表してきたことと講演記録に、生まれ育った若狭での生活などを書き足している。

日本の水田を守るために生産者と消費者をつなぐ提携米運動、生産者と一緒に闘った減反差し止め訴訟、消費者が生産現場に足を踏み入れるたまごの会、自立をめざす農学校「スワラジ学園などに関わり、全国を駆け回る。とにかく行動的な橋本さんのエネルギーはどこから生まれ出るのだろうか。

それはやはり、彼女を取り巻く仲間、同志なのだと思う。先にあげた片平さん夫妻、高松修さん、愛媛の無茶々園、全国のコメ生産農家等々。八郷でも杉線香を作っている駒村さん一家、ブドウ栽培の桜井太郎平さん、しめ飾り作りを教えてくれた高倉弘文さんらの活動が活写されている。

著者の橋本さんとはそんなに深い付き合いをしてきた訳ではないので、その生い立ちや若かりし頃のことは知らなかった。本書で、若狭の寺の生活(親が僧侶だった)や大阪労音の活動など、未知の世界を知ることができた。「はじめに」に「一隅を照らす」という仏教の言葉が出てくる。それにふさわしい本、そう考えながら読んだ。(元瓜連町長)

《電動車いすから見た景色》9 障害児が障害児を見下す矛盾

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【コラム・川端舞】障害のある子どもとない子どもが同じ教室で学べる学校は、全ての子どもが安心して過ごせる環境だと、前回のコラムで書いたが、それは私自身の経験からも言える。

私は子どものころ、重度の障害がありながら通常学校の通常学級に通っていたが、教員や親の態度から、無意識に「私は障害があるから、勉強だけはできないと、学校から追い出されるのだ」と信じ込んでいた。学校の特別支援学級には知的障害のある同級生もいたが、当時の私は「自分は勉強ができるから、特別支援学級の生徒たちとは違うのだ」と特別支援学級にいる同級生を見下していたように思う。

今思えば、彼らとろくに話したこともないのに、障害という理由だけで自分とは違う存在だとみなしていて、とても失礼な話だ。

一方、当時の私は、自分にも障害があるのに、他の障害者を見下している矛盾に嫌悪感も持っていた。自分も学校の授業についていけなくなったら、見下される側になるのだという恐怖感もあった。成績の良し悪しだけが、人間の価値を決める物差しだと思っていたのだ。

自分の考え方が間違っていると気づいたのは、大学を卒業後、自立生活センターに関わり始めたことで、様々な障害者と出会ってからだ。できないことは周囲に手伝ってもらいながら、自分らしい生活を送っている障害者が社会にはたくさんいることを知った。知的障害のある人たちと関わったり、彼らを支援している人たちの話を聞いたりする中で、自分1人では難しくても、支援者とコミュニケーションを取りながら、生活のいろいろなことを一緒に決めていく生き方があることを学んだ。

そのような環境の中で、学校の勉強だけがすべてではなく、苦手なことは周囲に手伝ってもらえば、どんな障害があっても社会で生きていけると考えるようになった。同時に、それまで漠然とあった「勉強ができなかったら見下される」という不安感から解放された。

特別支援学級にいた同級生

子ども時代、私の学校の特別支援学級にいた同級生は、通常学級の生徒とは別の教室で多くの時間を過ごしていて、直接関わり合うことはほとんどなかった。もし彼らが私たちと同じ教室で多くの時間を過ごせる環境があり、苦手な授業の時だけ別の教室で学んでいたら、私自身、「できないことがあっても工夫すれば、同じ教室にいられるのだ」と思えただろう。そう思えることが、「自分も、成績の良し悪しに関係なく、教室にいていいのだ」という安心感につながったはずだ。

同じ教室に障害のある子どもとない子どもが一緒にいられる環境こそが、全ての子どもが無条件に「ここにいていいのだ」と安心できる場所なのだ。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

《ご飯は世界を救う》26  「茶の蔵・きむら園」のかき氷

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【コラム・川浪せつ子】残暑お見舞い申し上げます。それにしても、お盆が過ぎたころから、かつては暑さが少しずつ和らいでいたのですが、ここ数年前、9月でも酷暑が続いてバテバテです。

暑いと、冷たいもの、のど越しのよい食べ物が、なんって言っても美味しいです。30度を超えると、アイスクリームより、氷系統のスィーツの売れ行きがよいそうです。そうそう!この暑い時期は、冷たいかき氷、サイコー!!ですね。

昨年もおうかがいした「茶の蔵・きむら園」さんに、かき氷を食べに。今年はコロナの影響で、ソーシャルディスタンスを取らないといけないと、予約制になっていました。その場で予約をしようと思ったのですが、テイクアウトの方々も多く、家に戻り、ホームページから予約表を見ながら、電話で予約しました。

生イチゴと宇治金時

店内は、昨年より間を広くイスが配置され、以前からのテラス席もよい感じです。かき氷はイチゴが定番ですが、「生イチゴ」は売れゆきナンバーワンなのでしょうか、ミニサイズのみでした。こちらのお店はお茶の専門店。やっぱり、お茶のかかった「宇治金時」の白玉と小豆のせ。どちらも本当に絶品でした。しばし夏の暑さを忘れる時間でした。

このお店はお茶の専門店ですが、お茶うけのお菓子、干菓子、可愛いゼリー、金平糖、おせんべいなども売っています。そのほか、お茶にまつわるステキな陶器や小物がたくさん。お茶好きの義母への「母の日のプレゼント」は、こちらで新茶とお菓子をセットにして調達。

日の光は、春の「レモンイエロー」から、秋の「クロームイエロー」(オレンジ系の黄色)になってきて、日差しも部屋に差し込むのが長くなっています。確実に秋に近づいてはいるようですが、この暑さのあとで、体調不良になる方が増えるのですよね。どうぞ、お体をいたわってお過ごしください。(イラストレーター)

《くずかごの唄》67 うがい液は新型コロナの薬?

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イラストは筆者

【コラム・奧井登美子】
「イソジンガーグル、お宅の薬局においてある?」
「昔は20~30本は置いてあったけれど、今はほとんど出ないから、5本くらいしか置いてないわ」
「今、ニュースでイソジンがコロナに効くといったそうで、お隣の奥さんが欲しいんですって」

昔の薬剤師仲間の友だちからの電話で、何やらコロナ関係のニュースで、うがい薬が話題になっているらしいとわかったが、その内容を確かめる間もなく、見知らぬ人たちが、つぎつぎに薬局に飛び込んできた。

「コロナに効くヨードのうがい薬下さい」
「うがい薬で新型コロナが予防できるのですか?」
「予防じゃないよ、治療。薬剤師のくせに何もわかっていないんだな」

「ポピドンヨードあれば何本でもください。子供が車の中で待っているので早く」
「ヨード系は薄め方も難しいし、子供には向かないと思います」
「向くとか向かないとかではない。コロナにこれしか効かない」

ニュース見て殺到 怖い刹那的行動

「ポピドンヨードのうがい薬下さい」
「アズレンスルホン酸系統ならたくさんあるのですが、ヨード系でないとダメですか?」
「ポピドンヨード以外はダメ」

ヨード系の殺菌剤は、口の中の必要な常在菌まで殺してしまう。ヨードチンキと同じ匂いも強く、薄め方を間違えてしまうお年寄りも多いので、ここ20年くらいほとんど需要がない。

大阪府の吉村洋文知事が「テストでよかったから、ポピドンヨードでうがいをしてください」と言ったのが、ニュースに流れたのだということが後でわかった。

テレビで政治家のニュースを見て、専門職の意見など無視して、とっさに反応して刹那(せつな)的に行動する。私はそういう人種がたくさんいるのがわかって、少し怖くなった。(随筆家、薬剤師)