【コラム・奥井登美子】私は母から9月1日の関東大震災の時の話を耳にタコができるほど聞かされて育った。母は20歳、妊娠8カ月だった。昼御飯を食べている時、今まで経験したことのないほど揺れ、老齢で目の見えなくなった姑(しゅうとめ)の手を引いて、父と3人で京橋の新富町から皇居方面に避難することにしたという。

ご飯は後で食べるつもりで持って出た。あいにくお昼時とあって、どこの家でもかまどに火を焚いていたからたまらない。木造住宅の崩壊した家から煙が出て、あれよあれよという間に、点々と火が広がってしまったという。

15分間くらい歩く間に、火事はますますひどくなって、銀座の通りを横切る時、風が熱風となって左右から吹き付けてくるので、とても怖かったという。

やっとの思いで皇居前広場に着いて、さて、のどが渇いて水が飲みたいと思ったが水がない。井戸水は朝鮮の人が毒を投入したので飲んではいけないという「おふれ」まがいの「噂」が広がって、水が飲めなかったのがとても苦しかったという。

3日間そこで野宿し、父が歩いて探し回って、友達の亀山さんの目黒の家が焼けないで残っていたので、その家にしばらくお世話になり、芝公園の中に臨時の産院が出来たので、そこで兄を出産した。可哀そうに、兄の戸籍謄本には、「出生地 芝公園内2号地」と書かれていた。

怖かった震災時の話を何回も…

震災で京橋区の98%が焼失。焼け出された人たちは、当時は郊外の、自然の豊かな阿佐ヶ谷や荻窪に移り住んだ。

父は子供が大好きで、慶應の学生時代から「藤友会」という、今でいう子供文庫みたいな塾を造って、近所の子供たちに、勉強や水泳を教えていたという。父は早く次の子供が欲しかったらしいが、20歳で震災避難と出産を体験した母が、今でいえばPTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいな精神状態で、不安定で、なかなか子供が出来なかったという。兄の出産から10年たって、やっと私が生まれた。

私がもの心ついた時、母はまるで、蚕(かいこ)が糸を吐き出すように、私をつかまえては、怖かった震災の時の話。何が不安だったか、同じ話を何回もしていた。今思えば、新しく生まれてきた娘に話をすることでストレスを軽減していたのかも知れない。

私は、震災と戦争のつかの間の年月、荻窪の原っぱでのびのびと、楽しい幼年時代をすごして育った。(随筆家、薬剤師)