【コラム・斉藤裕之】夫婦に共通の趣味はないのだが、カミさんがわりと素直に付き合ってくれるのが、たまに出かける骨董市。特にお目当てのものがあるわけでもない。何かの収集家でもないが、古びた道具や家具は今のものとは違う魅力がある。

ゆっくりと小半時(こはんとき)を過ごして何も買わないこともあれば、お宝?を発見できることもあるのだが、結構な確率でカミさんが手にしているのは篭(かご)と笊(ざる)。「どう?」。安すぎる売り値を聞いて、これを作る手間を考えると「どうぞ!」と答えるしかない。

元々「テキスト」は「編む」という言葉から、また「テクスチャー」が材質感と訳されるように、一枚の美しい生地もひとめひとめから成り立つという全体の部分の関係。そうそう、「縦の糸は〇〇〇で横の糸が△△△」という唄の如く、篭や笊は哲学的かつ幾何学的な構造を伴っている。例えば、立派な全集や辞典なども「編む」という。

フィンランドの五輪代表が集中力を高めるために編み物を取り入れたとか、またミス・マープルが事件の解決の合間に編み物をする姿も思い出される。いずれにしろ、「コツコツ」と積み上げるという私の苦手な分野であることは確かだ。

それから、カミさんの趣味のひとつは植物である。いわゆる豪華絢爛(ごうかけんらん)なものではなく、どちらかというと山野草などのひっそりとしたものを好む。訪れた道の駅や直売所では、まずは外回りの鉢物を物色する。最近買ったのは、萱(かや)のようなひょろひょろとした草や垂れ下がる弦(つる)ものの草だ。それらは時々篭に盛られ、台所に置かれる。

私は好んで花を描く方ではないのだが、季節ごとに目にする野の草を描くことがある。ドクダミやアザミは毎年描いてみるのだが、なかなか上手くいかない。そんな時、たまにカミさんの生けた篭の花を拝借して描いてみるのだが、次の日には開いたり萎れたりしていて、途中で止めてしまうことがよくある。

先日は、最近あまり見かけなくなったと言って、カミさんがどこからかツユ草を持ってきた。この夏の花は描いたことがないが、長持ちしそうだから描いてみようと思う。

カミさんは「透け感のある女性」

さて、篭や笊はなど、編まれているものには当然「隙間」があって、これが例えば美術においては大事な要素なのである。今風に言うと、「透け感」?「抜け感」? 絵画にしても彫刻にしても、いい作品は絶妙な透け感を伴っていることが多い。つまりカミさんは「透け感」好きなのか。

確かに、彼女の好きな草木も、いや本人も「透け感」ありだ。「奥さんてどんな人?」と聞かれて、いつも返事に困っていたが、「透け感のある女性」と答えることにしようか。さすがにこれはちょっとすかしすぎか。

ようやく梅雨も明けたある休日。久しぶりに骨董市を訪ねた。カミさんの手にはまたもや小ぶりの篭が。そういえば、昨年、山口の実家を畳む際に、カミさんが最後に持ち出したのは母が集めた篭だった。どうやら篭や笊には女心をくすぐる何かがあるらしい。

蛇足だが、長女はザル、次女は下戸。私はお酒を止めてちょうど1年が経った。(画家)