水曜日, 5月 21, 2025
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《くずかごの唄》81 亭主の誕生祝いに絵巻物を作ってみた

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【コラム・奥井登美子】亭主の92歳の誕生日。盛大に祝ってあげたいが、それがコロナでできない。彼は幼いころから身体が弱く、近くの石川小児科の医師から小学校の入学は無理だと言われ、2年も遅れて入学。体操の時間は見学だったという。

「神の子病なし…。お祈りして、さすって、神様にお願いして、やっと…」。幼児の死亡者が多い時代だったから、姑(しゅうと)の異常なほどの情熱がなかったら育たなかったのかも知れない。

90歳を過ぎても元気で、気が向くと、桜川まで3キロを歩いて散歩。友人との交流が好きで、日仏薬学会の友達、日本山岳会の友達、京大大学院の同級生とのお付き合いが生きがいみたいになっている。

舅(しゅうと)が重度の老人性うつ病で、最後の5年間は毎日が事故すれすれと、介護が大変だった。父親と性格が似てクソ真面目な彼を、私は老人性うつ病にはさせたくなかった。どうすればうつ病を避けられるか、そればかり考えて老後の20~30年を過ごしてきた。

私にとっても、「精神的に元気な92歳」は神様からのうれしいご褒美なのである。「コロナちゃんがびっくり」のお祝いを送ろう。何にしようか? 真剣に考える。

15人、犬2、狐1、牛3が手をつなぐ

日本の昔からの知恵、巻物を作ってみよう。昔の素材を使って、プラスチック文化との決別を心がけよう。半紙を半分に折って、墨でぐるぐるの輪を描き、それを3人の子供たちに送った。「パパの誕生祝いに、この紙に自分の家族の顔と足の漫画を描いて送り返して下さい」。

私は家族の中に動物がいることを予定していなかったので、帰ってきた漫画に、犬、狐 牛が入っていてびっくりした。15人の人間、2匹の犬、1匹の狐、3匹の牛が手をつないで、巻物の中に納まった。巻物の絵は軽くて、小さく丸められて持ち運びも簡単だ。

巻物を居間に張り付けて、2人で乾杯。乾杯の器も友達からの誕生日プレゼント。「誕生日おめでとう。家族がみんなで手をつないで、私たちを見守ってくれている」「うわっ、いいねえ、すごいな」。

彼は、15人の家族にぐるぐる巻きにされて、とてもうれしそうだった。(随筆家、薬剤師)

《ことばのおはなし》31 正三角形のヤギを見た

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【コラム・山口 絹記】ことばの困ったところは、視覚的には思い描くことすらできないものも、描くことができてしまう点だ。

『つくば市のあらゆる大通りを、現在、正三角形のヤギの大群が歩いている。ヤギはどの角度から見ても正三角形であり、光学機器では現在のところ観測不能であることがわかっている。人間の目による計測を試みようにも、ヤギAに意識を集中すると、それに接しているはずのヤギB、C、D、E、F、Gが認識できなくなり、正確な計測ができない』

みたいな文章はいくらでも書くことができる。書けば書くほど、視覚的な情報とはかけ離れていくだろう。想像してしまった方もおられるかも知れないが、“どの角度から見ても正三角形のヤギ”は存在し得ないため、その想像は誤りだ。球体ならまだ、あり得たかも知れないが。

さて、もう一歩進んでみよう。こんなうわさがたったとする。

『観測不能なヤギを、その目で見てしまった者は、言語能力を失ってしまうらしい。話すことはおろか、文字を書くことも、文字入力を行うこともできなくなってしまうらしい』

もっとやってみよう。

『ヤギを見て、ことばを失った者を見た者から、少しずつ情報が広がり始める。加えて、ことばを失った者を見た者まで、ことばを話せなくなっているらしいといううわさもたちはじめた』

誰かが物語ったものを皆で信じる

まったく荒唐無稽で馬鹿げた話だが、滑稽に思えるのは、もしかすると正三角形のヤギだからかも知れない。

『そうこうしているうちに、市内での無断欠席、無断欠勤が増え始め、SNSなどへの投稿が明らかに減少し始める。意味不明な投稿を最後に、多くのアカウントが沈黙しはじめ、1週間もしないうちに市内からは、ことばが消えた』

虚構である。大嘘だ。フィクションというやつである。しかし、例えばこの文章を読んで生じた感情を、あなたがことばにして発したとき、そのことばはフィクションではなくなる、ということは、よく覚えておいたほうがよい。

誰もが見ることのできないものを共有し、現実との境界を曖昧にしていったあげく、皆がその存在を信ずることができれば、それはもう立派な現実だ。

実はこの、誰かが物語ったものを共有し、皆で信じることができる、という性質こそが、ことばの本質的な力なのだ。ことばがあるからこそ、私は日本という想像上のコミュニティに所属していられるし、なにやら得体のしれない自由などというものを満喫することだってできるのだ。

注意しなければならないのは、一度共有してしまったものは、失敗と気づいてもなかったことにはできないということだ。特に、それが負の感情だった場合。それから、それが生活の奥深くまで浸透してしまった場合だ。

失敗に失敗を重ねた上に作り上げられてしまったIfの世界観を、小説界隈(かいわい)ではディストピアSF、と呼んだりする。ディストピアSFが現実になってしまった場合は、寓話(ぐうわ)にするという手もある。(言語研究者)

《雑記録》21 水素カーが走る近未来社会

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【コラム・瀧田薫】クルマの点検でディーラーに出向くと、トヨタの水素カー(MIRAI)が展示されていた。お値段を尋ねると、「ハイエンド車で800万超です。茨城県には2台しかありません」とのこと。豪華なパンフには「酸素と水素の化学反応によって電気をつくり、きれいな空気と水だけを排出するこの究極のエコカーとも呼べるモビリティは、環境性能の高さに加え、より多くの人々に愛される、魅力的な一台を目指して開発されました」と書いてあった。しばし、水素カーが走り回る近未来の社会に思いをはせた。

現在、日本国内で二つの水素エネルギー開発プロジェクトが動きだしている。一つは、川崎重工業を中心とする企業グループで、豪州政府より補助を受け、豪州産の褐炭(かったん)から水素を製造して日本に運搬する実証実験を進めている。もう一つは、千代田化工建設が中心のグループで、ブルネイで産出される天然ガスから水素を製造し、これを液化して日本へ輸送する。つまり、どちらもそれぞれの当該国と日本との間に水素エネルギーのサプライチェーンを構築する狙いであることは共通している。

水素エネルギーの商用化を目指す上で、最大のネックはコストの問題だ。国際金融情報センター理事長・玉木林太郎氏は「投資家や企業にとって、気候変動は倫理や責任の問題ではない。損か得かの問題だ。長期の戦略を立てて脱炭素に対応していかなければ生き残れない」(日経、2020年12月14日付)と言い、さらに「脱炭素のビジネスがペイするかどうか見定めるには、CO2排出をコストとして扱う「カーボン・プライシングが不可欠だ」と指摘している。

中東石油シーライン→日豪水素供給チェーン?

つまり、政府が炭素税を導入し、あらかじめ年次を定めていくら増税していくか決めておく方式である。そうなれば、水素ビジネスの側で、水素がいつごろ化石燃料に対して比較優位に立ち利益を出せるか予想ができるし、開発上の不確定要素を減らすことができる。しかし、そうは言えても、水素ビジネス同士の競争が熾烈(しれつ)なものとなることに変わりはないし、競争に敗者はつきものだ。

「脱炭素」と一口にいうが、国家も、政府も、企業も、労働者もそれぞれの立場でこの大変革の時代を迎えようとしている。地球温暖化のもたらす惨害(さんがい)を思えば、脱炭素化を避けては通れない。しかし、脱炭素で職と所得を失う人たちも出てくるだろう。その人たちの生活をどう保障するか、その一事だけに限っても、社会そして政治に課せられるコストの重さは想像を超える。

ところで、もう一つ別のコスト問題がある。将来、日豪間水素サプライチェーンが中東石油シーラインに取って代わるとしたら、日本の安全保障コストはどうなるだろうか。軍事問題も環境問題の一環として捉え、社会科学や地政学を活用し、限られた資源を最大限活用する智恵と長期的・総合的な視野をもって見直していく必要があると思う。(茨城キリスト教大学名誉教授)

《吾妻カガミ》101 つくば市長の名誉毀損提訴を笑う

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】つくば市長の五十嵐さんが、期間を限って発行されたミニ無料新聞に市長としての名誉を傷付けられたと、その発行人を名誉毀損(きそん)で裁判所に訴えました。1期目の市政を批判されて面白くなかったのでしょうが、五十嵐さんには、関連する記事に対し自分の後援会紙などで反論する機会があったのに、言論に対し言論で対抗しないで司法の場に持ち込むとは…と、思わず笑いました。

言論による名誉毀損には言論で対抗すべき

五十嵐さんの訴えは、昨秋の市長選挙の前(6月~8月)、ミニ新聞の記事(計3号中の22箇所)によって、市長としての評価を傷付けられたから、その損害(130万円)を賠償せよという内容です。訴えられたのは、元つくば市議で「つくば市民の声新聞」発行人の亀山大二郎さん。提訴の概要や亀山さんのコメントは、本サイトの記事(2月17日掲載)をご覧ください。

この無料紙第1号については、本コラム「紙爆弾戦開始 つくば市長選」(昨年7月20日掲載)でも取り上げ、「五十嵐市長の2大失政(運動公園問題の後処理の不手際、つくば駅前ビル再生計画の失敗)などのリポートを掲載、現市長にマイナス点を付けました」と紹介しました。「権力の監視」を編集方針の柱の一つに掲げる本サイトとしても、シンパシー(共感)を覚えたからです。

提訴の話が耳に入ったとき、知り合いの弁護士に名誉毀損のポイントを解説してもらいました。彼によると、「言論による名誉毀損にはまず言論で対抗すべき」という法理論があるそうです。これには「相手に対し対等で反論が可能であれば」との前提が付くそうですが、五十嵐さんは、後援会紙、SNS、記者説明などで反論できたわけですから、発信力は対等どころか、ミニ新聞よりも優位にありました。

そこで、五十嵐さん後援会紙「Activity Report」7~10月発行分(計4号)をチェックしたところ、内容は市長1期目の自慢話ばかりで、「つくば市民の声新聞」への反論は見当たりませんでした。選挙運動中は反論せず、選挙が終わってから裁判所に駆け込むとは、市長=政治家らしくない行動です。

公約は「返還」でなく「返還交渉」だった?

名誉を毀損されたという記事は、先に引用した2大失政のほか、五十嵐市政下で市職員が増え人件費が拡大している(行政改革が不十分)、県からもらえるはずの補助金なしで給食センターを建てた(市が全部負担)、地元業者優先の不自然な発注が目立つ(入札制度への疑問)―などの内容で、とても勉強になりました。

訴状を読むと、五十嵐さんは記事の表現を問題にしています。例えば運動公園問題については、ミニ新聞の記事では用地をURに返還すると公約したと書いているが、公約したのは「返還」でなく「返還交渉」だった、と。交渉がうまくいかなかったから返還できなかった、でも交渉はしたのだから公約は守った、だから記事は間違いであり名誉毀損に当たる―といった論理構成です。この理屈も笑えます。

逆に、笑って済まされない箇所もあります。「歪(ゆが)んだ情報により一旦結果(選挙結果)が生じれば、一時的とは言え地方自治体の体制を混乱に陥れることになりかねない重大な結果を招く…」とのくだりです。こういった表現の自由を封じるような論述は、どこかの非民主国の言論規制を想起させます。(経済ジャーナリスト)

《食う寝る宇宙》80 火星探査「魔の7分間」

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【コラム・玉置晋】ウチの大事な家族である犬の「べんぞうさん」の体調がすぐれません。この数年、検査で腎臓の数値が悪かったので、腎臓ケアの食事に変えていたら、今度は肝臓の調子が悪くなり、手製の食事に替えましたが食欲がなく、昨日も仕事のお休みをいただいて獣医さんに連れていきました。2008年に我が家にやってきたこのワンコ、人間でいえば70歳くらい。70歳だったら、まだまだバリバリ働いている人いっぱいいるぞ。どうか元気になってくれ。

こういう時に限って、仕事の締め切りやら、確定申告の準備やら、異様に忙しい。2月19日早朝に、たまった領収書と悪戦苦闘しながら、NASA(米航空宇宙局)のライブ中継をみていました。NASAジェット推進研究所の火星探査機「パーシビアランス」が火星への着陸を試みている真っ最中です。

これまで各国で試みられてきた火星探査の成功率は半分以下。火星周回への軌道投入、大気圏突入、軟着陸のためのパラシュートの展開―すべて難易度が高い。地球から火星までの距離は光(電波)の速さでも10分かかるので、探査機に事前にプログラムしておき、自己判断させなければならないのです。特に探査機の大気圏突入の時間は、「魔の7分間」として恐れられているそうです。

着陸成功にガッツポーズ

火星の大気圏突入時には、時速2万キロという高速移動しているために、ものすごい勢いで探査機前方の大気を圧しつぶします。圧しつぶされた大気の分子が激しくぶつかり合って、熱が発生します。火星の大気だと2000℃程度に加熱されるので、高温に耐えねばなりません。

そして、着陸点に向かう軌道を修正しつつ、適切なタイミングでパラシュートを開く。しばらく降下した後、「スカイクレーン」と呼ばれるロケット推進で噴射する装置につるされながら、ゆっくりと着陸していきます。この間7分間。NASAの運用室の緊張感がパソコン画面を通じて伝わってきました。着陸成功が報じられたときは、思わず僕もガッツポーズ。

なお、この火星探査機の開発や運用には日本人のエンジニアの方も関わっています。こういう活躍を見せていただくと、僕もがんばらなくちゃねと励みになります。まずは「べんぞうさん」を抱っこしながら、さっさと領収書の山を片付けないと。(宇宙天気防災研究者)

3分宇宙天気>2月19日から太陽の「コロナホール」から流れ出した高速太陽風が地球周辺に吹いています。20日に太陽の「プロミネンス」から発生したガスの塊は、24日に地球をかすめて通過しました。この後、宇宙天気は穏やかになる見込みです。宇宙旅行の際は宇宙天気を見てからお出かけください!

《ひょうたんの眼》34 JOC森前会長の罪深い発言

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【コラム・高橋恵一】JOCの前会長が不適切発言で引責辞任し、次期会長に女性が就いた。元々、首相時代から「失言」の目立つ森前会長だったのだが、今回は、重要ポストを追われ、どうやら院政を敷くのも困難な立場に立たされたようだ。

森前会長は、JOCの女性理事の割合を現在の20%から40%にしようとする目標に関して、評議員会の席で「女性の多い会議は、発言者が多くなり、時間がかかるので困る」という趣旨の発言をした。この発言に対して女性蔑視(べっし)、差別だとする批判が高まり、さらに、発言撤回と反省の記者会見で逆ギレし、当初は、政権や関係者の前会長擁護の動きもあったが、IOC会長の裏切り非難声明により、しぶしぶ辞任することになった。IOCも大スポンサーからの指摘で、変節しただけのようだが…。

この発言と「本音」について、国内でも様々な議論が起こったが、日本の男女格差、ジェンダーフリーのレベルが国際的にも最低位置にあることが、世界に広まってしまった。後任のJOC会長の選び方も、透明性確保が求められたが、今までの組織の流れを引き継ぎながら、世間体を繕うために、女性でオリパラ担当大臣の橋本聖子さんが就任した。これで、右往左往した世間も落ち着き、IOCも安心した。

しかし、日本のジェンダーフリー、民主主義のあり方については、何も進展しなかった。会議の発言者多いと、なぜ困るのか? 男性が場を「わきまえている」ということは、異論をはさむ者(男性)を、初めからメンバーに入れていないということだ。そういえば、首相の記者会見、国会での答弁拒否、政策決定の有識者会議等々、初めから結論ありきで、もともと議論を交わす考えがないということだ。

国会だけではあるまい。多くの、株主総会、諸団体の総会から、多くの地域社会の決め事まで、多様な意見を交わして高め合う機会が少なく、結果として、組織の高度化、成長を妨げている。

民主主義に基づく学者とメディアに期待

古来、日本では、権力者と異なる意見を主張することは、困難を伴った。殿様の言動を変えさせるために切腹、諌死(かんし)した逸話も少なくない。自分と異なる意見を聴くのが大嫌いな上司は数多くいる。それが、自分自身の利害や先入観に基づく場合は、強固である。その上司が国家のリーダーである場合、その拒否が、聞き入れない政策が、国民の生命や生活に重篤な影響を及ぼすことになろう。

先の悲惨な戦争が人権と民主主義の否定に端を発していたことは明らかであろう。現在の気候変動や感染症対策、格差拡大を増幅している経済対策も、日本学術会議への態度に見られるように、政権の科学的思考の薄弱さに裏打ちされている。

社会経済が疲弊して、一部の層だけが富と権力を占有し、庶民の不満が限界に近づくとき、巧妙にファッショ化が進行する。歴史の教訓である。本来、忖度(そんたく)などに陥らない、真に使命感を持った官僚が必要なのだが、国民を誤った方向から救えるのは、人権と民主主義に基づく学者とメディアであろう。(地図好きの土浦人)

《宍塚の里山》74 コガモとオオタカ

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(円内写真)オオタカ=撮影:鶴田学(上段中)カモの群れ(左)コガモのオスメス(下段)オスの体そらし、見つめるメス

【コラム・及川ひろみ】今ごろの宍塚大池。ピッツ、ピッツと澄んだ声が鳴り渡っています。カモの中で最も小さなカモ、「コガモ」の雄の鳴き声です。ドバトより少し大きな、両手で包めるほどの小型のカモ。コガモと言っても子どものカモではありません。大池を歩いていると、「あの鳴いているのは何?」とよく聞かれます。その正体がカモと知ると、想定外だったのか、皆さん一様にびっくします。

コガモが盛んに鳴いているとき、しばしば雌への求愛行動(ディスプレー)が見られます。1羽のメスの周りに数羽の雄が、うろうろ、そわそわ。頭を振ったり、体をそらせたり、水面すれすれに首を伸ばして泳いだり、水しぶきを上げたり。時に、緑に輝く美しい羽根や、尾の近くの黄色い羽根を見せびらかし、雌に猛アピールするのが見られます。旅立ち前の真剣な儀式です。

大池では1984年から、野鳥の会の依頼を受け、毎年1月、カモの種類とその数を数えています。数え始めたころ、最も多かったのがコガモでした。しかし、次第にその数が減り、数年後にはマガモが多くなり、それが続きました。コガモが多かったころは、池の周りは松が多く、水面が陰影に富み、今のような明るい池ではありませんでした。

次第に明るい池になっていったこの変化が、コガモの減少に関係しているのではと言われていましたが、なんと、この冬はコガモが一番多く、いつにも増してコガモの澄んだ鳴き声が池に鳴り響いています。コガモが増えた理由はさっぱり分かりません。

3月になるとカモたちは北帰行

もうひとつ、この冬の特徴は、カモがなかなか大池にやって来なかったことです。毎年9月末から、コガモを皮切りに多くのカモがやって来て、冬を越します。ようやくカモがやって来て、数を増えたのは11月。コガモが多数やって来たのは11月末のこと。ずいぶん遅い集結でした。

カモの季節、毎年オオタカによるコガモの狩りが見られるのですが、なかなかコガモがやって来なかったことから、オオタカの出番も大分遅くなりました。オオタカとコガモ、密接な関係があるようです。この冬、大池では、オシドリ、オカヨシガモ、ヨシガモ、ヒドリガモ、マガモ、カルガモ、ハシビロガモ、オナガガモ、トモエガモ、コガモ、ホシハジロ、キンクロハジロが見られました。

3月になると、カモたちの北帰行が始まります。この時、旅の途中の大池に立ち寄るカモも多く、日ごろ見ることのない、珍しい種類のカモが見られることがあります。これからどんなカモに会えるか楽しみです。皆さまも、春間近な宍塚の大池にお運びください。(宍塚の自然と歴史の会 前会長)

《県南の食生活》22 ひな祭り その歴史と形

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手作り草もち

【コラム・古家晴美】今の時期、多くのスーパ―では、袋詰めのひなあられが山積みにされている。ひな祭りと言えば、どちらかというと女児のための朗らかな行事のイメージが強い。しかし、奈良・平安時代の天皇や貴族にとっては、上巳(じょうし、3月3日)は水辺で和歌を詠み、桃花酒(とうかしゅ)を飲み、草もちを食べて邪気を祓(はら)う行事を執り行う日であった。

「ひな祭り」が貴族・武家・上層の商家や農家や都市部で成立したのは、その数世紀後の室町時代から江戸時代にかけてのことだ。それ以前は人間の穢(けが)れを移した人形を水辺に流していたが、これ以降、内裏雛(だいりびな)として屋内に飾られ、江戸幕府がこの日を五節供(ごせっく)の一つに定めた。

さらに農村漁村の庶民における普及は、近代に入ってからになる。つまり、かなり新しい。県南地域でも、戦前にひな人形を所有していたのは、経済的に豊かな家庭に限られた。庶民の子どもたちはひな飾りのある家を見て回ると、その家で作られた甘酒や草もち、ひなあられが振る舞われた。

ひな飾りがない家では、親戚や仲人さん、地域の組合から贈られたお内裏様(だいりさま)が描かれた掛け軸(カケジ、ヒョージ)を飾り、自家製の桜まんじゅうや餅、草もち、赤飯で祝った。

また、初節句には、仲人や親せきなどを招いてご馳走した。特に霞ヶ浦湖岸では、特産物であるシラウオや鯉(洗いや煮つけ)などが饗されたと言う。お祝いのお返しとしては、餅や桜餅、桜まんじゅう、赤飯などを配った。

「ひなあられ」は野外での携行食

このように、ひな人形を飾るようなひな祭りは、庶民にとって比較的最近のことだ。掛け軸で代用していた家庭では、菱(ひし)餅の存在感はあまりなかっただろう。しかし、上巳で食べられていた邪気除(よ)けの草もちはアンコ入りの草もちという形で、また桃花酒はほとんどアルコール分がない甘酒という形で受け継がれ、ひな祭りの行事食となった。

ところで、ひなあられは、野外での携行食として、菱餅を砕いて作ったのが始まりだという説がある。県南地域では見られなかったが、ひな祭りに女性や子どもが磯遊びや山遊びなどに出かけ共同飲食する事例が、近年まで全国的に広く分布している。

おひな様を連れて花見や涼みに行く、あるいは河原に持ち出し、そこで煮炊きしたオヒナガユ(粥)を供え、子供たちと共食するなどの報告もある。他方、本格的な農事開始に先駆け、非日常の空間(磯や山)で1日暮らすことにより、田の神を迎える物忌みの準備をしているのではないか、との分析も興味深い(田中宣一『年中行事事典』三省堂)。

今年のひな祭りをどのように過ごそうか。まずは今晩、ひな人形を飾ってみよう。(筑波学院大学名誉教授)

《遊民通信》11 神秘体験記(2) 宍戸諏訪山

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諏訪大明神御社

【コラム・田口哲郎】
前略

以心伝心はあるのかもしれません。今回はそんなお話です。国土地理院の地形図を見るのが好きです。今どきのマップと違い文字情報は多くないですが、主要施設は地図記号でしっかり記載されています。ある日、旧宍戸町(茨城県笠間市)の地形図を眺めていました。母の実家がありなじみがあるからです。それでも地形図には未知の情報がたくさん載っています。加賀田山(かがだやま)が目に留まりました。母方の父系は武田氏です。一帯の庄屋をしていました。名字帯刀を許された家柄です。

「加賀田山がつぶれても、武田の家はつぶれない」と言われたものだと母から聞かされていましたから、山の名に覚えがあったのです。農地改革で土地を失い武田家は見事に没落。諸行無常です。諸法無我でなければ浮世を生きるのはつらいわけです。

それはともかく、加賀田山の隣に諏訪山というのがあります。山頂に神社マークがあります。そのときは何とも思いませんでした。それからしばらくした夏の日、母が朝方夢を見たと言いました。道の右脇の森に朱の鳥居があり、その奥に道が続いていた。行ったことがない場所だが呼ばれているようだったと。諏訪山の神社かな、と直感しました。朱の鳥居の有無は知りませんが、地形図を立体化すると母の夢の光景になるかも…。

興味が湧き、行ってみました。果たして諏訪山の神社の入口には朱の鳥居と長い参道がありました。母も夢で見た通りだと言います。

宍戸の諏訪大明神

草深い杉林の参道を行くと、急な石段。途中の踊り場には御手洗の石桶があり諏訪大明神と刻まれています。さらに上ると広場に拝殿があり、その奥の細く急な階段の上に板で囲まれた古ぼけた社がありました。

母は幼いころ祖母に連れられて一度きり来たそうですが、裏の山道を来たので赤い鳥居の参道は知らなかったそうです。素人目にもこの打ち捨てられたような神社がなかなかの格式であることが分かりました。後で調べたらそこは宍戸神社と言い、明治時代の一郷一社制度により近隣の平神社と合祀されたものだとわかりました。明治以前は諏訪大明神だったのです。

祖父は母の実家に婿に入りましたが、武田の家柄を誇り、信玄公を輩出した甲斐武田家の直系だと言っていたそうです。家紋は武田菱(たけだびし)です。私は旧勝田市(ひたちなか市)発祥である武田氏が宍戸に土着した末裔(まつえい)だと思っていましたが、ご先祖様が諏訪大明神を勧進(かんじん)したのなら、祖父の言に一理あります。

甲斐武田氏は信濃の諏訪大社を信仰していました。武田氏は滅亡しましたが、落ち延び伝承は各地にあります。宍戸には養福寺(ようふくじ)という天台宗の寺院があり、寺紋は武田菱です。祖父は40年前に他界しましたが、隔世の伝言のようにいろいろ分かったのは不思議です。

母の兄は調べもせず根拠なしと祖父の誇りを嘲笑したそうです。伯父と違って勘の利く私に祖父は伝えたかったのでしょう。成仏しても苦労が絶えない一切皆苦(いっさいかいく)です。羯諦(ぎゃてい)、羯諦。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

《続・平熱日記》80 センスの問題

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【コラム・斉藤裕之】「何が悪いんだ?」という顔でその人はそこに立っている。記者風情の質問には腹が立つのだろう。なにせ首相までやったのだから。ここまでオリンピックを引っ張ってきたのだから。私の親の世代、女性に対する物言いや女性の地位は今思えばひどいものであった。

いやほんの少し前まで自分を含めた周りもそうだった。女に負けるな、女みたいな髪型、女の腐ったような…。とにかく、男は女より優れていて、「男子たるものは」という教育を受けてきた。だから、この大柄な老人のことをとやかく言えるかと言えば、はなはだ怪しい自分がいる。理屈として分かっていても、本心から女性をリスペクトすることは容易ではない。

要するに、地雷を踏まない術(すべ)を身に着けることはできても、聖人君子のようにはなれない。いや、君子でさえも「女子と小人(しょうじん)は…」なんて言っているのだから。

ところで、2人の娘は小学校の時から柔道をやっていた。2人ともそれなりに強くて、長女は県南で優勝したこともある。次女などは県の大会で決勝までいってしまって。ここで勝つと、全国大会で秋田まで行かなければならないというのでちょっと焦ったが、いい感じの接戦で惜しくも負けてくれた。

かわいらしい女の子だと思ってつかみかかりにいくと、一本背負いでぶん投げられる。当時の映像は残っていないが、絵に描いたように男の子を投げ飛ばす姿は、我が子ながら見事だった。

しかし、2人ともそれほど好きではなかったらしく、中学で畳から降りた。実はその間にいただいた金銀のメダルが段ボールひと箱ほどもある。子供たちが巣立ってから、少しずつ不要になったものを捨ててきたのだが、その日、カミさんが引っ張り出してきたのはこの大量のメダル。

時化の日には漁を諦める

寒そうに美術室に入ってきた女子。「この真冬にスカートをはいているだけで尊敬するよ」「ですよね~!」って笑って答えてくれるが。こういう会話が許されるのは、私が人格者だからか、はたまた人畜無害な初老に見えるからか。いや多分センスの問題だ。

ある時から、女性の方が優れているのではないかと気づき始めた。医学部の入試の一件もそうだが、美術大学はずいぶん前から女子と男子の比率が逆転している。ちょうど、オリンピックでマラソンや柔道に女性が活躍し始めた時期と重なるような気がする。特に最近では、ジェンダーやマイノリティーについて世論は敏感だ。

これはとても繊細な問題なのだ。だからセンスを養う必要がある。最近メディアを騒がすのはこのセンスない人たち。そういえば、この方は文部大臣もやられたのでは…。今回の件は、「けがの功名」としてオリンピックのレガシーに。そういうセンス。

段ボールいっぱいのメダルに未練はない。さっさと燃えないゴミに出した。燃えないゴミから作ったオリンピックのメダルが陽の目を浴びる日は来るのだろうか。時化(しけ)の日には漁を諦めるというのもひとつのセンス、勇気だと思うが。(画家)

《邑から日本を見る》82 ずさんな東海第2の避難計画

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麦畑を飛び立つ白鳥

【コラム・先﨑千尋】2月13日夜中の地震にはたまげた。飛び起きてテレビをつけた。東海村は我が家から至近距離。そこにある日本原電東海第2発電所がどうなのかが心配だったから。何事もないことを確認し、また寝た。

翌朝のテレビはもっぱらこの地震の模様を伝えていた。福島にある2カ所の原発には異常がなかったようだが、高速道路で土砂が崩れたり、東北新幹線が不通になったりし、けが人もかなり出た。大学受験にも影響が出ているようだ。

報道では、今回の地震は10年前の東日本大震災の余震だとか。今回は津波が起きなかったので一安心だったが、福島の人たちはさぞ肝を冷やしたのではないかと思っている。10年もたっているのに、余震だとは驚きだ。

その東海村。毎日新聞は全国版の1月31日と2月1日付で、「東海第2避難所1.8万人不足」「責任曖昧 ずさん算定」という記事を載せている。それによると、同発電所をめぐる広域避難計画で、県内の避難所が2018年時点で約1万8000人分不足していた。施設のトイレや倉庫、ステージ、玄関ロビーまで、避難者の居住スペースとして計算していたからだという。

県の基準は「避難者1人当たり2平方メートル」だそうだ。トイレや倉庫まで含めて算出しているので、実際にはもっと少なくなる。あまりにもひどすぎる計画だ。畳1枚よりほんの少し広いくらいのスペースに、台風などの水害とは違い、いつまで続くかわからない長期間の避難生活ができるのか。計画を立てた人や首長、議員の皆さんに実験してもらいたいものだ。

「事故は起きない」楽観が暗黙の前提?

原発事故に備えた広域避難計画は、原発から30キロ圏内の自治体が策定することになっている。茨城県では東海村など14の市町村が該当し、これまでに5市町が策定済みだそうだ。その計画の中身を承知していないが、コロナ騒ぎの前のものなので、現時点では役に立たないだろうと考えている。

県が昨年5月に示した自然災害の際の避難所レイアウトでは、1人5平方メートルを想定している。原発災害にこの基準を当てはめると、広域避難計画そのものが成り立たなくなる。

4年前の県知事選のとき、現職の橋本昌氏が「避難計画などできはしない」と言っていたことを思い出す。県のトップがそう発言しているのだから、私も計画は作れないと思っている。策定済みのところも、作り直さなければならないのではないか。計画策定は原発再稼働の前提となっているので、東海第2原発の再稼働はできないことになる。

毎日新聞の記事には、災害リスク学が専門の広瀬弘忠さんの「あまりにもずさん。本気度が感じられない。『事故は起きない』という楽観が暗黙の前提になっているのではないか」というコメントが載っている。

今度のような最大震度6強の地震がまた発生し、津波も押し寄せたら、10年前と同じような惨事になる。いいかげんな避難計画を策定し、犠牲者が出たら誰が責任を取るのだろうか。「東日本大震災、今も影響。余震警戒さらに10年」と専門家は呼び掛けている。今度の地震はいろいろなことを考えるきっかけを作ってくれた。(元瓜連町長)

《沃野一望》24 正岡子規『水戸紀行』追歩(4)

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宝篋山頂からの筑波

【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

正岡子規の『水戸紀行』を追歩する令和版テクテク珍道中(子規は自身の水戸行きを東海道中膝栗毛になぞらえている。「僕が野暮次で君が多駄八、これからは弥次、喜多よりは一段上の洒落人となりて一九をくやしがらせるとは妙々思案じゃな」とある)、牛久沼のほとりまでやってきた。沼の水面(みなも)を遠望する。

白鳥が一羽、のんびりと泳いでいる。年末のあわただしい時節、悠然と水面をすべる姿は優雅の極み。年末は、こうして過ごすのですよと諭される。

牛久沼(沼全体は、行政的には竜ケ崎市)を過ぎ、最後の鰻(うなぎ)屋を見送り、行政上の牛久市に入る。

すこしの寄り道で牛久駅にたどり着き、コンコース上にベンチを見つけ、本日二度目の休憩とする。座ったベンチの脇に、東南アジア系の若者グループが無遠慮に数人寄ってくる。理解できない言語で声高に話しあっている。彼らも、年末年始の休暇なのだろうか。子規の時代には、出会うことのなかったであろう若者たち。せかせかと煙草をすい、ザワザワと立ち去っていった。日本での年末年始休暇が、いかほどの残像を残すのだろうか。

若者グループが消え、静けさをとりもどしたベンチでたっぷり休み、ふたたび出発。子規は、藤代から土浦あたりまで、風景描写をいっさい残していない。

「雨は次第に勢を増してうたゝ寒さに堪へず少しふるへながら」歩いたので、景色どころではなかったようだ。「声をはりあげて放歌吟声を始めぬ」とある。何者が通るのだと、明治20年代の街道筋の人たちは、あきれながら見送ったことだろう。

スーパーひたち 圏央道 蜃気楼の街並

令和版は上天気。快調に土浦を目指す。小野川の橋を渡ったところで右手から、JR常磐線の線路が接近する。背後に轟(ごう)音を感じて振り返ると、スーパーひたちが寒風を切り裂き、一瞬に迫り、あっという間に去ってゆく。速い。速い、が、それが何ほどの意味なのか。子規は三日がかりで水戸へたどりついた。一方、現代のスーパーひたちは、上野から一時間半余りで水戸へ着く。スーパーひたちの轟音からこぼれおちるのは、つむじ風だけだろうか。

小野川を渡るあたりは、圏央道とのクロス地点ともなっている。高架の高速道路上を、年末のせわしない自動車の列が、ここでも時間と競争している。子規先生、スーパーひたちや高速道路の狂騒疾駆をあおいだら、何を詠嘆しただろう。

さらに歩き続ける。

やがて、ひたち野うしく駅。古い記憶ではこのあたり、一面の畑だった。科学万博見学用の臨時駅として畑のなかに突如出現したのち、「ひたち野うしく駅」として定常営業をはじめ、それにともない、駅周辺に忽然とビル群が湧きあがった。まだまだ地に足のつかない蜃気楼(しんきろう)の街並。

駅には寄らずに、そのまま国道を進む。このあたりでも子規先生、放歌吟声なされたか。当時は周辺に、民家さえなかったはず。(作家)

《続・気軽にSOS》79 成功体験のみの危険性

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【コラム・浅井和幸】人は、苦しい思いが続いたり、失敗し続けたり、人にばかにされてばかりだと、余裕や自信をなくしていきます。そうすると心がくじけて、身動きできなくなっていくものです。

ここのところ、仕事でうまくいかないことが多いなと感じている人は、だんだんと暗くなり、新しいことに挑戦しづらくなっていきますよね。幼少期からずっと暴力を受け続けると、人とコミュニケーションをとることも怖くなってしまいます。

そのような悪循環に陥っている人に対し、支援者は成功体験をさせてあげるとよいと考えます。自由に動けなくなっているのは、自信がないからだ。だから自信を持つためには、成功体験をすることが必要だと考えるのです。

もちろん、その考え方に私は賛成です。ただし、それのみでは偏った考えで、とても危険だと考えます。成功体験があったほうがよいことは、ほとんどの人は反対しないでしょう。しかし、それのみであると、失敗を恐れすぎてしまう状態に陥る可能性があります。

失敗体験から立ち直る体験

だから、成功体験と同じぐらい、失敗体験から立ち直る体験も必要なのです。ミスをしてもフォローできる感覚、けがをしても傷が治る感覚はとても大切なことなのです。成功できるという自信と、失敗しても何とかなるという余裕の両方があるときに、人は一歩を踏み出しやすいものなのです。

私が失敗から学べることもたくさんあるよと言うことがあります。コミュニケーションが苦手なある青年から質問されたことがあります。「うまく話ができずに相手を傷つけるのが怖い。もし相手が怒ったらどうすればよいですか」と。

私は答えます。「謝ればいいんじゃないかな。気を使いすぎるぐらいの君が、取り返しがつかないほど人を傷つける可能性はとても低いと思うよ。そして、そのイメージをしている相手は、取り返しがつかないほどの傷つき方をする人かな」と。

どんなに完璧にふるまったとしても、どんなに立派な素晴らしい人格や技術の持ち主でも、失敗は必ずするものです。そして、そこから学べることもたくさんあります。このような状況で、このようなやり方をすると失敗するという経験は、大きな学びのある成功体験ともいえるかもしれません。

支援者は、「どこまでの失敗ならば自分がフォローしてあげられるか」という視点も持つことが大切だと思います。今、何かに苦しみ、余裕がなくなっている人に伝えたいです。「自分や他人から、失敗や負けること、苦労することでの学びを奪わないでほしい」と。一つの枠組みでの失敗は、次の枠組みでの成功のカギになります。

とてもまずい肉ジャガを作ったとき、それで自分や誰かを責めたり悔んだりするところにとどまらずに、何が失敗の原因だったかを考えて、次においしい肉ジャガを作る知識として取り入れられるとよいでしょう。ときには、カレー粉を入れてしまって、おいしいカレーにしちゃえばよいかもしれませんよね。(精神保健福祉士)

《電動車いすから見た景色》15 私の中にある無意識の差別

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【コラム・川端舞】「自分はどんな人も差別しない」。そう断言できる人はどのくらいいるだろうか。私にはそんな自信はないし、「もしかしたら無意識に誰かを差別しているかもしれない」と自分を省みることができる人間でいたいと思う。

障害者差別をなくすために、障害者と健常者の関係はどうあればいいのか。健常者の立場から差別について考える研修会が、2月上旬、障害者支援団体「つくば自立生活センターほにゃら」の内部職員向けに開催された(2月16日付)。

研修会では、部落差別を中心とした差別問題を研究する、筑波大名誉教授の千本秀樹さん(71)により、部落差別の基本命題が紹介された。これは、かつて、部落差別をなくすことを目指す運動団体「部落解放同盟」が提唱したものだ。

基本命題の1つは、「社会意識としての差別観念」だ。意識的に差別している自覚のない人であっても、部落差別が蔓延(はびこ)っている社会の中で暮らしていると、無意識のうちに「自分は被差別部落出身でなくてよかった」という差別的考えを持たされてしまう。そして、この考え方がさらに被差別部落と一般大衆の距離を広げる。

車椅子利用者を排除するアパート

身近な例で考えてみる。以前、私が別のアパートに引っ越そうと思い、物件探しをしたとき、ほとんどのアパートは外観を見ただけで候補から外れた。不思議なくらい、どのアパートの玄関にも段差がある。アパートを建てた人は、障害者差別をしているつもりは全くないのだろうが、結果として入居者から車いすユーザーを排除してしまっている。

車いすで入れない場所が当然のようにあちこちにある社会では、「歩けない障害者が悪い」「自分は障害者でなくてよかった」と無意識に思わされる。本当は、車いすで生活することを想定していない社会に問題があるのだが。

このような社会に暮らしている私たち一人一人の中に、無意識のうちに障害者差別が芽生えてしまうのは仕方ない。普段は差別される側になることが多い私でも、もしかしたら特定の属性を持つ人たちを無意識に差別しているかもしれない。人間は自分の知っている範囲でしか、物事を考えられないからだ。

「ほにゃら」の研修会で千本さんも言っていたが、自分の中の無意識の差別に気づくためには、様々な立場の人と対話し、もし自分が相手に対し差別的な言動をしてしまった場合は、相手から率直に指摘してもらう。そして、その指摘を素直に受け取り、相手が自分の言動をどう感じたのかを、直接教えてもらう。それを一人一人が繰り返すことでしか、差別はなくならないのではないか。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

《くずかごの唄》80 「牛乳ごはん」の思い出

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【コラム・奥井登美子】1歳のとき、ジフテリアで死に損なった私は、幼い頃よく熱を出した。発熱で何も食べたくないとき、父はよく「牛乳ごはん」を作って食べさせてくれた。炊き立てのご飯に牛乳をかけただけのものと、スープで味付けしてあることもあった。

父は、明治25年、京橋区の新富町生まれである。近くに芥川龍之介の父上が経営している牛乳屋さんがあって、新鮮な牛乳が手に入ったそうで、牛乳とチーズの入った料理が好きで上手だった。明治時代、外国船の入る明石町近辺は、外国の人も多かったという。

「龍之介は僕よりひとつ上の学年で、同じ鉄砲洲小学校にいたこともある。お父さんは牛乳屋さんで、渋沢栄一と一緒に、東京に牧場まで造って、おいしい牛乳を売っていた」

「まさか、東京に、牧場?」「うん、新宿だか、田端か、そのあたりらしい」。東京の新宿に牧場なんて、あるはずがない。私は父の冗談だと思っていた。

20年くらい前、近藤信行さんが山梨県文学館の館長の時に、「芥川龍之介展をするから見に来ないか」と誘われたことがある。そこで私が見たのは、小学3年生の龍之介少年の手書きのポスター「牛乳を飲みましょう」だった。父の言っていたことは本当だったのだ。

「白米に牛乳なんぞかけるやつがあるか」

土浦に嫁に来て、つわりで何も食べたくなかったときに、突然、なぜか、なつかしい牛乳ごはんが食べたくなってしまった。私はさっそく作って、家族の人たちにも、食べて喜んでもらおうとふるまった。

「牛乳ごはんなの、食べてみて…」「白米というのは、特別の尊い食べ物だ。それに牛乳なんぞかけるやつがあるか。僕は、絶対に食わんぞ」。舅(しゅうと)は断固拒否。見るのも不潔でいやだという。

父と舅。年齢はほとんど同じなのに、この違いは何なのだろう? 渋沢栄一に聞いてみたい。料理が、地域特有の物だった「証」と考えればいいのだろうか。(脚本家、薬剤師)

《ご飯は世界を救う》32 手作りお惣菜「まる環」

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【コラム・川浪せつ子】県独自の緊急自粛宣言が続いています。先月も書きましたが
「(コラムで取り上げるお店を)来月はどうしよう?」が、解決しました。テイクアウト
です。

今回、どうして「まる環(わ)」さん(つくば市下平塚)になったのか? 私は県建築
士会に準会員として入会しています。コロナが猛威を振るい、今年度の女性部の企画会と新年
会がZOOM会議になりました。ZOOMなんて私には無理ムリ!と思ったのですが、なんと
!お弁当付きなのでした。

お弁当につられ、ZOOMに挑戦することに。そのお弁当が「まる環」さんでした。おいし
いご飯と、スケッチもできるし、会議にも参加できるという一石三鳥。

2時間半の会議はけっこう長かったのですが、久々に仲間に会い、充実した時間を持つこ
とができました。後日、まる環のお惣菜を買い物したり。なんでも挑戦していくのってス
テキですね。

ZOOMで審査委員会

その後、またZOOM会議。市民審査員として参加している「つくばショートムービーコンペテ
ィション」(2月15日付)1次審査です。コンペの審査員長は、映画監督でつくば市出身の中村義洋さ
んです。

▽主催:つくばショートムービーコンペティション実行委員会、つくば市、筑波学院大学
▽支援:公益財団法人つくば文化振興財団
▽協賛:公益財団法人つくば科学万博記念財団、ほか2社
▽後援:一般財団法人つくば都市交流センター、ほか2社

ただのオバサンが審査員で大丈夫なのか?と思いながらも、もう6年です。そして、今回はZOOM
会議。いやぁ~、仲間内のワイワイ会議とは違い緊張でした。

最近の映像技術は素晴らしすぎて、ZOOMでは、シミ、シワ、クマ、くっきりです。顔出
ししないバージョンもありますが、やはりお顔は見えないとね。ZOOM会議のために、化
粧方法も研究しなくては!!(イラストレーター)

つくばショートムービーコンペティション>上映作品視聴期間=2月27日(土)13:00~3月7日(日)、受賞作品発表=2月27日(土)15:00~

《つくば法律日記》15 ドストエフスキー生誕200年

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堀越さんの事務所があるつくばセンタービル

【コラム・堀越智也】普段、今から100年前や200年前は何が起きていただろうと考えることで、歴史との距離感をつかむようにしています。今年は、ドストエフスキー生誕200年です。

ドストエフスキーの小説は、大学入試に出たので、どんな小説だろうと思い、手に取ったのが最初でした。代表作の「罪と罰」に始まり、短編小説も読むようになりました。入試のために知識を詰め込んでいるころは、なぜ大学入試で出題されるのか、あまり深くは分かりません。しかし、大学生になり、さらに社会人になり、年を取ると、少しずつその理由が分かってきます。

20代前半で読んだばかりのころは、何が言いたいのか、はっきりは分かりませんでした。ロシア文学独特の長い上に、1人複数ある登場人物の名前を必死に覚えながら読む重労働感は、多くの読者と同じです。長いカタカナの名前は、ボクシング世界戦で来日したナパ・キャットワンチャイやシリモンコン・ナコントンパークビューで鍛えたので自信がありました。しかし、ロシア文学の登場人物は、本名もあだ名も長く、あだ名は本名の跡形も残っていないことがあります。

それでも今、ページの隅々までぎっしり文字で埋められたドストエフスキーの小説を読んだ経験は、自分の財産として残っています。産業革命後、資本主義により貧富の格差が広がり、貧しい人への救いもない世の中で、人が犯した罪と罰についてどう考えるべきか考えることは、法律、政治、経済、その他、多岐にわたる分野の思考力を養います。大人になると、様々な不条理を経験します。そんな不条理とどのように向き合うべきかを考えるヒントにもなります。

貧富の差やコロナ禍による不条理

以前、久米宏さんがニュースステーションで、若者の本離れをテーマにしていた時に、若いころにドストエフスキーを読んでとてもいい世界に入って行けたと言っていました。僕がドストエフスキーを読んだのは、Windows95が出たばかりのころで、スマホはもちろん、インターネットも十分に普及していない時代でした。そして、今のコロナ禍です。

不条理の文学と言えばカミュが有名で、代表作に「ペスト」があります。インターネットやスマホが普及し、ドストエフスキーやカミュの時代とはがらりと違うように見える現在ですが、貧富の差やコロナ禍による不条理。ドストエフスキーやカミュの小説を読み直すと、若いころに読んでから今までの人生経験が線でつながり、何かに気づけるかもしれないと期待しています。

そして、また20年後に何を考えているのかを楽しみにしたい。できれば、それを誰かと語り合いたい。なので、生誕200年のドストエフスキーを多くの人に読んでほしいと願う2021年です。(弁護士)

《吾妻カガミ》100 つくばの市長案件 まだ迷走続く?

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】本コラムも100回を迎えました。安全保障や国際経済などグローバルなことも話題にしたいのですが、つくば市政への読者の関心が強いこともあり、今回もローカルな話にします。大台入りのテーマは、五十嵐市長の政治案件(運動公園問題)はまだ迷走するのではないかという話です。

2つの成功と2つの失敗

本サイトの記事「旧総合運動公園用地の利活用調査 再スタート つくば市議会」(2月3日掲載)を読んで、「変な話だな」と思いました。五十嵐さんが「(用地の)一部は防災倉庫に活用して残りは民間に売却したい」とTVインタビューで発言。これに、議会の審議を軽視していると市議が言いだし、次の特別委員会に市長を呼び、何を考えているのか問いただすことになった、という内容です。

運動公園問題の流れは、前市長が計画(UR都市再生機構から買った用地に陸上競技場などを建設)を発表(A)→多額の建設費に反対する市民運動が活発化(B)→住民投票で建設反対が多数を占め前市長は計画を断念(C)→「運動公園問題の完全解決」を目玉公約に掲げた五十嵐市長が誕生(D)→この公約の柱「URとの返還交渉」に失敗(E)→次の手「民間業者への一括売却」案に議会が難色(F)—に要約できます。この先に、「一部を防災倉庫の活用」案が加わったことになります。

住民投票で前市長の計画を葬り(C)、その勢いに乗って市長に初当選したこと(D)は、市民活動家の五十嵐さんにとって大成功(〇〇)でした。しかし、用地をURに買い戻させる交渉は失敗(E)、その後の民間業者へ一括売却する案(F)も実現せず(✕✕)、五十嵐市政にとって運動公園問題は悩ましい政治案件になっています。

間違いはどこにあったのでしょうか? 私の見立てでは、コラム「つくば市長の看板公約を検証する」(昨年8月17日掲載)でも指摘したように、最初の市長選のときに「就任後直ちにURと(用地)返還交渉を行う」(Dの柱)と、主公約に掲げたことにありました。しかし、市との売買契約ではURが解約に応じることはあり得ず、この公約の実現可能性はほぼゼロでした。「成功誘因」の中に「失敗因子」が潜んでいたわけです。

もう1バツが増える?

話を議会の動きに戻します。先の記事(2月3日掲載)から推測するに、議会では①なぜ運動公園用地に防災倉庫を持ってくるのか②それは同用地に陸上競技場を造る選択肢を封じることになる③防災倉庫を建てる場所なら他にもある―といった意見が出るでしょう。五十嵐さんがこれらの疑問や指摘に十分答えられないと、✕印がもう一つ増えることになります。

私は、防災倉庫は廃校跡や廃庁舎跡の方が適地ではないか、運動公園用地に建てると土地の形が悪くなり(虫食い状態になり)、残った土地の売却にはマイナスではないか、と余計なことを考えています。(経済ジャーナリスト)

《食う寝る宇宙》79 宇宙飛行士と人工衛星の「試験」

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【コラム・玉置晋】日本人宇宙飛行士の募集が今秋に予定されています。僕の周りにも宇宙飛行士を目指している人が何人かいるので、彼らを応援しています。JAXA(宇宙航空研究開発機構)のホームページを見ると、宇宙飛行士の募集・選抜・基礎訓練に関する意見募集や情報提供依頼が出ています。どのような選抜試験になるのか興味津々です。僕は受験するのかって? いやいや、まずは腹のぜい肉をどうにかしろと奥さんに言われておりますよ。

人工衛星も試験を受けなければ宇宙には行けません。宇宙に行くということは過酷です。ロケット打ち上げ時の音響レベルは飛行機エンジンの近くぐらいで、ロケットの噴射による振動は地球重力に匹敵する加速度となります。丈夫じゃないと壊れてしまいます。

そして、無事に宇宙空間に到達したらさらなる困難が。高真空、±100℃の温度差、高い放射線量―。特に放射線は、僕が研究している「宇宙天気」に大きく依存します。地上で素晴らしい働きをしている電子機器でも、耐性がなければ地球一周も持たず機能を失ってしまうでしょう。

小型衛星環境試験設備シェアリングサービス

人工衛星が、ロケットで宇宙に運ばれるのに耐えられて、宇宙空間でも健全に動作することを確認するために、地上で試験を行います。電気性能試験、電磁適合性試験、機械環境試験、熱真空試験、放射線耐性試験など、様々な試験が必要ですが、申請や機材の準備、試験場や試験人員の確保などのノウハウがないと難しくて、これまで宇宙参入の障壁となっていました。

ここに目をつけた人が、僕が所属する宇宙コミュニティ「ABLab」の仲間にいます。「小型衛星環境試験設備のシェアリングサービス」と題して、宇宙ビジネスアイデアコンテストS-booster2019に応募し、見事JAXA賞を受賞しました。そして準備期間を経て、2021年度からサービス提供を開始します。詳細は本サイトの記事「JAXA認定ベンチャー 宇宙・衛星ワンストップサービス提供へ」(1月21日付)をご覧ください。(宇宙天気防災研究者)

<2月前半の宇宙天気>太陽のコロナホールから流れ出した高速太陽風の影響で、2月7日に弱い磁気嵐が発生しました。2月11日現在の宇宙天気は静穏です。新たなコロナホールが見えていますので、本コラムが掲載されるころには高速太陽風が吹いているかもしれません。それではよい宇宙旅行を!

《茨城鉄道物語》9 今度は「ひたちなか海浜鉄道」に乗ってみた

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ひたちなか海浜鉄道湊線の車両:JR勝田駅ホーム

【コラム・塚本一也】新春企画第2弾として、今回は、現在県内で注目の的となっているひたちなか海浜鉄道湊線に体験乗車してきた。

正月明けに、鉄道関係者にとって耳を疑うようなニュースが飛び込んできた。それは、ひたちなか海浜鉄道湊線が、終点の阿字ヶ浦駅から国営ひたち海浜公園までの3.1キロを、2024年度の運行開始を目指して延伸することが認可されたという、ビッグニュースである。

ひたちなか海浜鉄道は、茨城交通とひたちなか市が出資する第3セクターが2008年から運営する鉄道会社であり、湊線は非電化の単線路線である。

私はJR東日本に技術者として15年間勤務した経験をもとに、本コラムを執筆しているが、国鉄の分割民営化以降、LRT(近代的路面電車)以外の地方ローカル線が延伸されたという話は聞いたことがない。バブル崩壊後、景気の低迷や人口減少のあおりを食った形で、地方ローカル線のほとんどが存亡の危機にひんしている。

鉄道経営の特徴として固定費がかかるという問題がある。つまり、空でも電車は時刻表通りに動かさなければならないので、営業収入が無くても人件費やメンテナンス費用がかかる。ゆえに、旅客数の減少は直接純利益に影響するのである。

そのような厳しい経営環境のもとで、営業キロが14.3キロ、駅数が10駅の地方路線が2割以上延伸し、3駅も新設するというのは、無謀ともいえる計画のような気がする。現状を確かめるべく、体験乗車に出向いた。

黄金色に輝く干し芋が見えた!

JR常磐線勝田駅から乗車すると、2駅目の金上(かねあげ)駅辺りまでは住宅地の中を縫うように走っていく。この辺の風景は都心の私鉄とあまり変わらない。そこを抜けると、田園地帯の中を真っすぐひた走る。路線の半分以上は線形が直進ではないか、と思わせるのはこのあたりのせいであろう。

那珂湊駅に着くと、何となくローカル線の雰囲気が漂い、駅舎のたたずまいや人の気配もそれらしくなってきた。これで雪でも降っていたら、高倉健の「駅」を彷彿(ほうふつ)させるロケーションである。いや、「犬神家の一族」の旧作にもラストシーンでもこんなホーム上家があったような気がする。

終点の阿字ヶ浦駅舎

そんなことを考えていると出発時刻になり、ディーゼル車のエンジンがうなり始めた。ここから先は海岸線に沿って走ることになるが、風光明媚(めいび)というわけにはいかず、相変わらずの農村地域を走っていく。広大な畑作地帯はひたちなか名産の干し芋の材料となるサツマイモ畑であろう。

人家の周りのビニルハウスの中には、その干し芋が黄金色の輝きを放ちながら、所狭しと並べられているのが見える。そのビニルハウスの彼方に、突然、大きな観覧車が姿を現し始めた。ひたちなか海浜公園である。「結構遠いなあ」と考えていたら、終点の阿字ヶ浦駅に到着した。

今回の取材で、ひたちなか海浜鉄道に初めて乗車した。延伸の目的は、経営戦略として住民サービスだけでなく、観光客を取り込んで増収を図ることであろう。地域の日常を支えると同時に、観光のキーワードである「非日常」をいかにして演出していくかが今後の課題だ。(一級建築士)