月曜日, 5月 6, 2024
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桜の開花と宇宙天気キャスタ 《食う寝る宇宙》83

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【コラム・玉置晋】今年はコロナ禍だったこともあり、お花見は犬の「べんぞうさん」とのお散歩で終わってしまいました。茨城県では3月下旬に満開となり、4月上旬には葉桜になっております。最近の桜の開花は随分早くないですか? 僕が小学校に入学した時(1985年4月)の思い出は、入学式では桜はつぼみ、数日後に教室から見た校庭の満開の桜があまりにきれいで、よく覚えています。

気象庁のデータベースから茨城県水戸市の桜開花日グラフを作成しました。

僕が小学校に入学した1985年、水戸市の桜の開花日は4月7日でした。水戸市の小学校の入学式は4月6~8日となりますので、入学式の桜はつぼみだったという僕の記憶は確からしいことがわかりました。

また、年により開花日にはバラつきがあって、僕の一つ上の学年(1984年入学)は4月20日が開花日で、一つ下の学年(1986年入学)は4月10日が開花日でした。もしかしたら、入学年によって入学式の思い出の風景が異なるのかもしれませんね。

次に大きな特徴として、1990年代以降の桜の開花日は3月に多くなっていることがわかります。茨城県の小学校に入学された、現在35歳以下の方の入学式の思い出は緑の若葉なのではないでしょうか。

月や火星から開花便りが届く?

テレビで桜の開花情報を伝えているのは気象キャスタです。開花情報と気象には密接な関係があり、季節の変化など、総合的な気象状況の推移を把握するのに、桜をはじめとした「生物季節観測」が気象庁により行われてきました。

僕が所属しているABLab宇宙天気プロジェクトでは、「宇宙天気キャスタ」の育成について検討しています。まずは、現在すでに気象キャスタとして活躍している方が、地上天気から宇宙の天気まで解説することを想定しています。2025年の太陽活動極大期に向けて、宇宙天気キャスタが生まれていくことでしょう。

そして将来、月や火星から開花の便りが届くことを期待しています。(宇宙天気防災研究者)

学童疎開の思い出 《くずかごの唄》83

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】私は土浦市立真鍋小学校の学校薬剤師を何年か勤めた。この学校には、校庭のまん真ん中に、昔寺子屋だったときの名残の桜の古木がある。入学式の日は、6年生が新入1年生をおんぶして満開の桜を一周する。

初めてこの光景をみたとき、私はどういうわけか、涙があふれて、あふれて、止まらなくなってしまった。私にとって小学6年生は生涯で一番忘れられない年なのである。

昭和19年の夏休み、私たち小学生は空襲時に備えて、3年生から6年生まで東京から強制疎開しなければならないことになった。縁故のある人は縁故疎開。ない人は学校ごとの学童集団疎開。成績順にクラス分けしていたので、1番組の男の子は3中(今の両国高校)、女の子は7女(今の小松川高校)を目指していた。

仲良しだったクラスメートとバラバラに別れてしまう。そのとき、皆で「3月12日の都立の受験日には帰ってくる」堅い約束をしてしまった。

父も母も京橋生まれで、田舎に親戚のない私と3年生の妹は、集団疎開を選ぶしかなかった。上野駅に送りに来た父は「困ったことがあったら、すぐ連絡してください。迎えに行くから」と言ってくれた。

山形から長野へ再疎開

今考えると、いきなり26万人もの児童が地方に分散するのである。住む所、食べ物など、学校を用意する地方の人たちもさぞかし大変だったに違いない。

山形県湯の浜温泉の旅館に宿泊することになった私たち。はじめは、3食、何とかありつけたが、1か月くらいして食事の量が極端に少なくなり、お腹が空いて我慢ができない。子供なりに、お手玉の中に入っている小豆を取り出して食べたりした。

父に手紙を出して迎えに来てもらい、私たち家族は何とか無事に長野県へ再疎開することができた。

友達との約束の日、私は猛反対されて上京できなかった。約束を守って受験のために帰った友達は、否応なく3月10日の東京大空襲に巻き込まれてしまった。私たちが受験する予定だった東京下町のエリアで、30万人もの人が亡くなったという。(随筆家、薬剤師)

救いの歌詞物語② 罪とゆるしとマグダラのマリア 《遊民通信》14

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涙ティアーズ

【コラム・田口哲郎】

前略

『新約聖書』にマグダラのマリアという女性がたびたび出てきます。マリアというとイエスの母マリアを思い浮かべます。マグダラのマリアは聖母とは別人で、イエスに付き従った女性グループのひとりだったと言われます。ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(2003年)などでイエスの妻だったという説も言われますが、詳細は分からない人です。

ですから、マグダラのマリアが聖書に出てくる罪深い女、つまり娼婦と同一視されたり、最後の晩餐でイエスに香油を注いだ娼婦だとされたり、確証はないままに、いつの間にか罪深い女に措定されてしまいました。キリスト教の長い歴史の中で、聖母マリアは純潔の象徴として、マグダラのマリアは罪の象徴として意図的に意味づけられたのではないかというのが現在の定説です。

しかし驚くことに、貶(おとし)められたマグダラのマリアはカトリックでは聖人になっています。罪深いながら回心してイエス・キリストを信じたからです。復活したイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアだったとされています。

このマリアが最も感動的に描写されるのは「ルカによる福音書」7・36〜50です。マリアは晩餐の席にいたイエスの髪に香油を塗り、彼の足を自らの髪を涙で濡らして拭きます。イエスはマリアの帰依に「あなたの罪は赦(ゆる)されている」と言います。人間は誰しも罪の意識を負っています。悪事を積極的に行わなくても、いつの間にか犯した罪に苛まれることもある。太宰治の「生まれて、すみません」的な悲しみです。

どうしようもない悲しみはトラウマや良心の呵責(かしゃく)となり自分を苦しめます。マリアはなりふり構わずイエスの足にすがりました。イエスは想像を超える言葉を掛けます。今まで誰がマリアの苦しみに寄り添ってくれたでしょうか。差別や叱責はあっても共感はなかったはずです。孤独で八方塞がりの中でマリアは絶望していたでしょう。

イエスはマリアの罪を背負って赦しました。赦されることで、人は「生まれてよかったんだ」と思うことができます。私は、このときイエスも泣いていたのではないかと思います。乱発される免罪符では効き目はありません。人間はそう簡単に赦せません。赦せるのは神だけなのかもしれません。マグダラのマリアを想い、またひとつの詩が浮かびました。

歌詞「涙(ティアーズ)」

古びた窓から見える
場末の街

ひとりよりふたりがいいなんて
笑わせるね
夜毎変わる恋人は
さびしさだけ置いてゆく

どうして……

だけど、酒場で遭ったあの人は
私のために泣いたんだ

情けの涙に洗われて

初めて心を抱かれたの
初めて心を抱かれたの

ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

シン・住民がやって来る 《映画探偵団》42

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】1993年、「今度つくばに引っ越して来た新住民です」と地元の方に挨拶したら、「新住民は私で、あなたは新新住民ですよ」と訂正された。つくばの歴史を実感させられた瞬間である。だからか、2005年につくばエクスプレスが開通し、移住してきた人を見たとき、「あ、新新新住民だな」と思った。2021年の現在、中心市街地はマンションと住宅の建設ラッシュだ。私は次に来る人たちは、シン・住民なのだと考えている。

シン・住民は、AI中心のスマートシティやスーパーシティを期待する人か、自然中心の自給自足リサイクル社会を志向する人か、気になるところではある。だがそれよりも、シン・住民にとって、センタービルは老朽化した建物に映るか、歴史的文化財アートに映るか、どのように見えるのだろうか。

1983年、世界的注目を集めたつくばセンタービルの住所は、新治郡桜村大字花室字千上前1364番地で、村の中に建っていた。40年ほど前の村人はセンタービルをどう眺めたのだろうか。村の誇りと感じたのか、それとも無関心だったのか。このあたりが調査不足で盲点だった。

三船敏郞主演『七人の侍』

急に『七人の侍』(黒澤明監督)を見る気になったのは、それがきっかけだった。村人の思いを知りたかったからだ。少し見るつもりで見始めたのだが、結局3時間27分全編を一気に見てしまい、改めて世界映画史上の名作だと思った。

『七人の侍』は、戦国の世に百姓たちが侍を雇い、村を襲う野武士の群れと戦う話だ。侍のリーダーは負け戦さ続きの不運な初老の男・勘兵衛(志村喬)。他の6人もしがない浪人暮らしである。この侍たちが金にも名誉にもならない命懸けのボランティア仕事を引き受ける。表向きは侍が主人公だが、物語上は百姓が主人公といえる。侍は戦いのアドバイザーであり、戦いの主体は百姓たち。百姓たちの描写がリアルなため、侍たちの魅力が一層引き立つ仕掛けである。

中盤のクライマックスは、侍の菊千代(三船敏郞)が、百姓たちの隠していた武具を見つけ、勘兵衛に持ってくる場面。侍たちは急に沈痛な面持ちとなる。それらは落武者狩りの戦利品で、侍たちは落武者として追われた経験があった。

侍の1人が「この村の奴らが斬りたくなった」ともらす。すると突然、菊千代が侍たちに向かい、「百姓ほど悪擦(わるず)れした生きものはねーんだぜ。正直面してすぐ嘘をつく! けちでずるくて人殺しだ! だがこんなけだものを作ったのはお前たちなんだよ!」と、涙を流しながらわめきたてて百姓と侍の両者を猛烈に批判するのだ。勘兵衛の目に涙がにじむ。菊千代は百姓出の偽の侍だった。

『つくばセンター研究会』

センタービルのリニューアルを他の人はどう受けとめているのか知りたくて、『つくばセンター研究会』なる場を設けてみた。3月17日に8名集まったが、意見を聞くよりも前にリニューアルの件を初めて知った人が3入もいて驚いた。

4月4日の2回目には10名集まった。「エスカレーター2基はいらない」が私の主張だが、あってもなくてもいいという意見もあった。話題は、まちづくりや県と市の連携などへと広がったが、何よりも問題は話をする場が全然なかったことだなと思った。新型コロナがあったからかもしれないが、それを理由に市民を置いてけぼりにして、ドンドン改造計画を進めることはいかがなものであろうか。

2023年のセンタービル40周年記念に向けて、記録映画製作とつくばセンターツアーを計画中だと話したところ、参加者が「ある美術大学で40周年企画の検討が始まっている」と教えてくれた。今では旧住民となった私だが、これからは菊千代の立場で、やって来るシン・住民のための良きアドバイザーを探すつもりでいる。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

身近にある?人生の楽園 《続・平熱日記》83

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【コラム・斉藤裕之】斜め向かいのお宅。「ハクちゃん」と名付けた白い犬との散歩から帰ってきたとき、駐車場にバックしている若葉マークの車を見守るお母さんと出会った。

「免許とったんですねえ」「そうなんですけど、娘の運転、怖くて」。車を運転しているのは、小学生のときにうちに絵を描きに来ていた女の子だ。

生活の足しにと、難色を示すカミさんを説得して絵画教室を開いたのは10年ほど前か。そして、この春に3人の小学生が卒業を迎え、最後に残ったひとりが3年生のミーちゃん。ひとりでは寂しかろうということで、この際教室を解散することに決めた。いろんな子がいたなあ。電車オタク、まんが大好き、天才、おしゃべりな男子…。

そういえば、先日、土浦で小さな展覧会を開いたリサちゃんもうちに来ていた子だ。大学で地質や気象を学び、研究のために訪れた日本や世界各地の思い出を絵にしたためて展示していた。元々の才能に加えて、彼女の見たい世界が素直に描かれていてよかった。リサちゃんは、この春から高校の理科の先生になるというが、ぜひとも絵を描き続けてほしい。

ところで、「ミーちゃん好きなテレビはなに?」と聞いたことがある。「…人生の楽園!」「あんた、シブいな!」。確かに、ミーちゃんは絵を描くのも好きだけど、マッチを擦って薪(まき)ストーブに火をつけたり、木をくべたりするのが大好き。ミーちゃんには、この教室は「小さな人生の楽園」だったのかもしれない。

「食べられる粘土細工、ピザ」

コロナの影響も重なってか、都会からやや近郊のゆったりとした環境に生活の拠点を移す傾向があるとか。また若者の間で小屋暮らしや1人キャンプなんてのも流行(はや)っているそうだ。ペストが流行ったときのように、つまり人間回帰、「ルネッサンンス!」的な時代の流れの始まりか。

さて、最後の教室の日。ミーちゃんのリクエストと卒業生の門出を祝って、教室の名物となった「食べられる粘土細工、ピザ」を薪ストーブで焼くことにした。そもそも子供たちに絵を教えようと思ったこともないが、美味しいピザは必ず一度は食べさせた。なんともふざけた絵画教室だった。

こうして、なんとな~く、サイトウちゃんの絵画教室はお開きとなったわけだが、ミーちゃんの心残りは野良だったハクちゃんが懐いてくれなかったこと。

春の始まり。暖かい日差しの中、ハクちゃんと散歩に出かける。「サイトウちゃーん!」「はて、どなた?」。ハクちゃんを優しく撫(な)でるうら若き女性、それはミーちゃん。そんな日が来るといいね、ハクちゃん。楽園は意外に身近にあるのかもしれない。(画家)

書評「人新世の資本論」《雑記録》22

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【コラム・瀧田薫】斎藤幸平氏著の本書の核心は、旧来のマルクス理解を根底から覆し、エコロジーの視点からマルクスを解釈し直し、そこからさらに進めて、「人新世」(人類の経済活動が地球を破壊する環境危機の時代)を克服する方途、さらには豊かな未来社会に至るための実践論(「脱成長コミュニズム論」)を引き出したことにある。

読後感を一言でいえば、「宮沢賢治にこそ読んでもらいたかった1冊」であるということだ。宮沢と斎藤には時空を超えて共通する一つの思いがある。

すなわち、資本主義が追求する効率、利潤、経済成長を、環境破壊、労働疎外(個人は経済活動を担う歯車と化す)そしてコモン(共同体や共有財)解体の原因であると断じ、格差や生きづらさを生む資本主義社会から脱して、豊かな人間らしい生活と環境を求めようとする、その一点において両者は同じプラットフォーム上にある。

もちろん本書の狙いは、都市の生活や最新テクノロジーを捨てて農耕共同体社会に戻ることではない。21世紀の現実と向き合い、環境危機を克服し、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢として、「脱成長コミュニズム」が提唱されているのである。そのことを確認した上で、宮沢の思想を本書読解のための補助線とする方法、その有効性を指摘したいと思う。

「人間と環境」に関する新しい知見

本書に対する批判の代表的な例は、「脱成長を標榜(ひょうぼう)する文明に繁栄などあり得ない」とする主張であろう。それに対する斎藤の反論については、本書を読んでいただくとして、それとの関連で、宮沢における「定常状態」(経済成長のない均衡状態)理解について簡単に触れておきたい。

バリ島は土地が肥沃(ひよく)であったことから、島民は朝夕それぞれ2~3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなど、それぞれの好む創作活動に当て、そのパフォーマンスを神へのささげものとすることで、日々の安息を得ていたとの事例報告がある。つまり、バリ島共同体をいわゆる「定常状態」に近いものとして理解した例である。

宮沢は、彼の著書「農民芸術概論」、その他において、このバリ島に強い関心を寄せている。ちなみに、井上ひさしは「バリは農業と芸能と宗教の島である。大切なのは、一人一人の人間がそれぞれ農業人と芸能人と宗教人との三つの人格を一身に兼ねていることで、宮沢賢治が見たらおそらく涙を流してよろこんだであろう」(エッセイ「演ずるバリ島」)と書いている。

井上は、1人3役をこなすバリ島人の生き方に、宮沢における「理想の人間像」を重ね合わせていたのだろう。ともあれ、今後、宮沢の思想と斎藤における「脱成長コミュニズム」思想が対比され、そこから「人間と環境」に関する新しい知見が生まれれば、それは21世紀を生きる人々にとってこの上ない贈り物となるだろう。(茨城キリスト教大学名誉教授)

つくば市長の名誉毀損提訴を検証する《吾妻カガミ》103

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】今回も五十嵐つくば市長の名誉毀損(きそん)提訴問題を取り上げます。というのは、前々回の「つくば市長の名誉毀損提訴を笑う」(3月1日掲載)に多くのアクセスがあり、関心の強さを実感したからです。3月の市長会見も、提訴は「表現の自由」に照らして違和感があると問う複数の記者に、五十嵐さんは「(ミニ新聞の市政批判)記事はフェイク(虚偽)だ」と応じ、ホットなやりとりになりました。

市長批判記事は「フェイク」?

この問題の概要、原告=五十嵐さん、被告=ミニ紙「つくば市民の声新聞」発行人・亀山さんのコメントについては、本サイトの記事「つくば市長の五十嵐氏 名誉毀損で元市議を提訴」(2月17日掲載)をご覧ください。五十嵐さんのSNSや訴状によると、提訴理由は、数多くの虚偽の内容を記載し、正しい情報を伝えずに選挙に重大な影響を与えた、ゆがんだ情報による選挙結果は自治体を混乱に陥れる―ということです。

私は先のコラムで、この件について3つの視点を示しました。1つは、政治家たるもの記事には言論で対抗すべきであり、裁判沙汰とは市長らしくない、と。2つ目は、名誉毀損訴状の最初の箇所(総合運動公園用地返還公約の未達を指摘する記事への反論)は明らかに「逃げ」の論理で構成されている、と。3つ目は、「表現の自由」抑制を是とするような訴状の論述は看過できない、と。

以上、おさらいです。以下、記者会見で「フェイク」の例として挙げた「谷田部給食センター建設計画」についての記事が、本当に虚偽なのかどうか検証します。

市長の政治力不足が明らかに

ミニ新聞は「前市長の計画を破棄し、新たに再設計を行い、県からの『補助金なし』に切り替えてしまった」とリポート、給食センターが市の予算だけで建てられたと指摘しました。これに対し訴状は、県に予算を付けるよう要請したが、補助金の交付が認められなかった―と反論しています。つまり、最初から「補助金なし」だったのではなく、結果として「補助金なし」になったという主張です。

いずれにしても「補助金なし」だったことは事実ですから、「フェイクだ」と騒ぐような話ではありません。それよりも、訴状の論述によって、五十嵐さんには(県からおカネを引っ張ってくるという)市長に求められる政治力の不足が明らかになりました。訴状で自ら名誉を毀損してしまい、何か冗談のような話です。

また記者会見では、同様の提訴を前市長も行っていたと、前例があることを強調しました。確かに、病院経営者だった前市長が、市長時代に市営病院を廃し、自分の病院に患者を誘導した―といった趣旨のビラがまかれ、前市長は発行者を名誉毀損で訴えました。しかし、その内容は市政を利用して個人的利益を図ったという中傷であり(判決は前市長側の勝訴)、市政の出来不出来を点検したミニ新聞の記事とは別物です。(経済ジャーナリスト)

雑草は強い? 弱い? 《続・気軽にSOS》82

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【コラム・浅井和幸】自然農法という手法を使って農業を営んでいる、あるユーチューバーの動画がありました。そこでは、「雑草とは弱いものなんだ」というニュアンスのことを話されていました。

はて?何のことやら?となりますよね。ちょっと気を抜くと、あっという間に生い茂る雑草。草刈りをしようが、除草剤をまこうが、駆逐することは難しいことは周知の事実でしょう。アスファルトやコンクリートを打ち破って生えてくる雑草。屋上だろうが屋根の上だろうが、お構いなしの強さです。

農業は雑草との戦いだという言葉も、どこかで聞いた気がします。そのような雑草を、どうして弱いと表現したのか、先ほどのユーチューバーに話を戻します。

雑草が弱いと聞くと驚くけれど、では、その雑草を一種類だけ種から植木鉢で育ててみてください。結構これが難しくて、なかなか育ってくれないものなのです。ある特定一種類の雑草が育つ環境を、人工的に作ることの難しさなのだろうと推測できるわけです。

つまり、私たちが、家庭菜園、農業、庭や道路の整備などで苦戦を強いられる雑草は、その環境でよくて育つ種類の草が育っているということです。雑草同士も自分が生き延びるため、子孫を残すために、早く芽を出したり、早く高く伸びて日に当たったりなど、いろいろな生存競争をしています。

たまたま、そこに適応している草ひっくるめて、人間の価値観で見た目が悪いとか、食べられないとかで、邪魔な草を雑草と呼んでいるわけです。たまたま育った草を、種類の区別なく邪魔だと一緒くたに捉えているから、「雑草は強い」と感じてしまうらしいのです。

弱者の中の弱者が強者に勝つ

どこかで聞いた話でうろ覚えですが、私達の周りにある雑草は、森などでの生存競争で負けた弱者である(だったかな?)ということです。

海で暮らしていた魚の祖先は骨がなく、その中での弱者が川に逃げ、ミネラルが必要なので骨を作って蓄えた。川でも生存競争があり、川での弱者が海に逃げ、骨があるために早く泳げるなどの利点で、もともといた骨のない魚に打ち勝ったという話に似ていますね。

弱者の中の弱者が、もともとの強者に勝つという生存競争の妙です。私たち人間は強くなりたい、頂点に立ちたい、よりよく生きたいという願望があります。その中で、自然界では食物連鎖の頂点に立つ大型肉食獣が、ことごとく絶滅の危機に直面しているという話には考えさせられます。

弱者とカテゴリーされる方が生活困窮し苦しんでいる一方、テレビや新聞では強者であるはずの偉い人たちが連日の謝罪会見。弱者と強者、被害者と加害者。生存競争で、敵対か、協力していくのか、それぞれが自由に生きていけばよいのでしょう。

生き方は人の好き好き。ここまで書いてきて、私の好きな言葉の一つに「君子、和して同ぜず」がふと思い浮かびました。ま、別に君子になる必要もなく、私は愚者のまま生きていきますが…。(精神保健福祉士)

3月11日に家族が増えたおはなし 《ことばのおはなし》32

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【コラム・山口 絹記】出産予定日を数日過ぎた深夜2時。「破水してるかも…」と言いながら、私の部屋に入ってきた妻。「いやぁ、そんな出てないかも、我慢できるくらいの痛みだし」

いやいやいや。破水してる時点で病院直行でしょう。我慢できるとかできないとか、関係ないでしょう。車のエンジンをかけ、暖房を入れ、座席シートにビニールを敷いて、寝ていた上の娘(もうすぐ6歳)に上着と靴下を装着して病院へ。

かけていたラジオから、震災から10年、みたいな話が流れてきた。

そうか。どうやら2人目の我が子は3月11日、あの日からちょうど10年のこの日に生まれるらしい。

こんなご時世なので、出産には夫といえど立ち会えず、面会も1人だけで毎日15分まで。上の娘のときはつきっきりで、妻の背中を全力で押し続け、へその緒も切らせてもらえたし、夜遅くまで病室にいられたことを考えると、ずいぶん違った世界になっていて興味深い。

すっかり目がさえてしまった娘を寝かしつけ、落ち着かない気持ちをごまかしごまかしギターをいじってみたり、狭い部屋をウロウロ歩いているうちにカラスが鳴き始め、外も明るくなってきてしまった。コーヒーをいれていると娘が目をこすりながら寝室から出てきて、無言でストーブをつける。

娘が幼稚園に行ってしまうと、また1人家の中をウロウロ。10時が過ぎたころ、妻から無事に産まれた旨の電話がかかってきた。

15分というのは本当にあっという間で、受付から病室までの距離を考えると、産まれてきた我が子を抱っこして、ミルクを飲ませているうちに終了してしまう。上の娘はちゃんと幼稚園行ったよということ、付き添えなくてごめんね、ということ、元気に産んでくれてありがとう、ということを伝えるのがやっとで、面会時間終了の電話が鳴った。

グッド・バイよりもグッド・ラック

自分のこどもがどんな道を歩んでいくのだろう。私自身とは違った初期設定の世の中で、こどもたちはどんなことを感じるのだろう。

はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ、などということばもあるが、自分のこどもたちが過去を前提に未来に思いをはせるのは、まだもう少し先のことになるだろう。私もそれに習って、こどもたちとは、先だけを見ていこうと思う。

3月11日という日にも、息子は私に違った趣を与えてくれた。考えてみれば、365日、何もなかった日なんてないのだ。特別じゃない日なんてない。

本人が実際に経験しなかった事象を、経験したものが押し付けるのも、押し付けられる側からしたら迷惑な話でしかないだろう。

3月11日はおまえさんが産まれた日。彼にとってはそれで十分だ。そのうち、彼自身の悲喜こもごもが追加されるのかもしれないが、それはもう親の領分ではない。勝手に生きるだろう。

今の自分のこどもたちに必要なのは、グッド・バイよりもグッド・ラック、だと私は思っている。(言語研究者)

満開の桜川河口で満月を見下ろす 《土着通信部》45

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29日午後7時22分撮影、土浦市港町

【コラム・相澤冬樹】満月の夜は、土浦駅東のビル屋上に陣取った。ここからだと眼下に桜川河口から霞ケ浦土浦入りまでを見渡せる。河口部には両岸の堤に桜が植わっていて、満開の樹冠越しに月の出が望めるはずだった。

お月さまの写真は毎月のように撮っているが、満月に限ると桜の時期では1年前の4月7日の宵だった。新型コロナウイルスの感染拡大で、ちょうど国の緊急事態宣言が出た日のこと。月の出は午後5時過ぎで、「月は東に日は西へ」太陽コロナも沈む時分だし、お月見ぐらいよろしかろうと勝手な理屈をつけて霞ケ浦畔まで出掛けたのである。

ところがこの日は東の空に低く雲がたれ込め、まさに桜の季節の花曇り。水辺から昇るお月さまは拝めず、雲間から満月が姿を現したのは午後9時過ぎ。自宅からでも見物可能な高みに昇ってからだった。

お月見とはいうが、月の出の時間帯にこだわるようになったのは、二十三夜をはじめとする「月待」の行事に興味をもった(コラム第16回第22回)からだった。中天に昇った月を撮れば天体写真になってしまうが、地表近くなら樹木や水辺の写り込みが逆に興趣を誘う。月の出と同時に空の色調が一変するのをおもしろがった。

そんな話をしていたら、昨春土浦駅東に事務所を構えた知人が「花見の時期においでよ」と誘ってくれた。3階建てのビル屋上から川岸の桜並木を一望できるのが自慢だ。今年は早めに散ってしまいそうな懸念もあったが、満月の3月29日は昨年より1週間以上早く、ぴったり満開のタイミングに合った。

東に開けたロケーション

月の出時刻に合わせて午後6時30分過ぎにビルを訪ねると、知人は「曇ってしまったねえ」と迎えてくれた。屋上に昇ると日はとうに沈み、河口の先、東の方角は点々と街の灯が見える程度で月の気配はない。今年も低く立ち込めた雲に月見を阻まれるのか。

しかし10分も経つと、対岸上空の一点ににじむような赤みが差し、やがて月の色だと分かる。昇る月はいつだって深紅の色合いなのだ。

「あれは雲じゃなく霞。霞ケ浦特有の春霞ですよ。じきに満月が見えるはず」と解説するそばから、桜並木を越えたあたりでこうこうと輝きだした。手前の桜と望遠でのぞく満月、いずれかにしか焦点は合わないが、構図をいろいろ探してシャッターを押した。

「春霞 かすみの浦を 行舟の よそにもみえぬ 人をこひつつ」藤原定家

霞ケ浦のおかげで、高いビルに昇らずとも東に開けた展望を持つ土浦は、月の出見物に格好のロケーションをもっている。平坦な地形で、家屋や電線・電柱にさえぎられることもあまりない。ビューポイントに月の出の時刻と方角を表示する掲示板を設けたり、月光サイクリングを仕掛けたり、観光資源としてもっと活用できるはず。月々の月見のたびに思うのである。(ブロガー)

料理を作る楽しみ 《食とエトセトラ》11

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ハヤシ卵

【コラム・吉田礼子】料理作りに目覚めたのは小学3年のころと記憶している。その年、中耳炎の治療で通院するために、仙台に住んでいた伯母の家に10日ほど泊めてもらうことになった。大分よくなったころ、伯母が通っていた料理教室について行った。そのときのメニューは、缶詰めのサケとみじん切りのタマネギをマヨネーズであえたものを、くり抜いたトマトに入れる、「トマトのファルシー」だった。

あまりのおいしさに、家に帰ってから自分で作り家族に食べてもらった。そのときの家族の驚きと「おいしい」の連発を思い出すと、幸せな気持ちになる。その経験が料理作りのスタートだったと思う。もちろん食いしん坊で、母が料理をしているのを見て、手伝うのも大好きだった。

私の故郷は宮城県の鳴子温泉。母は「(9月の)温泉祭りのときに、初物のマイタケを食べるんだよ。雨が降ったら虫が入るから、水にトウガラシを入れて虫出しをするんだよ。マイタケのある場所は親兄弟でも教えないんだよ」と言っていた。

人はほめて伸ばす

料理修業の最初のころ、ダイコンの千切りはハードルが高い。冷し中華作りのときに、キュウリが切りやすいことがわかり、たくさん練習をした。最初は不器用な自分が情けなかったが、少しずつできるようになり、料理の喜びが分かるようになった。そして、新しいアイデアも出てくるようになった。

小学4年のとき、私は初めて創作料理を考えた。「ハヤシ卵」である。オムレツに乗せるのは、ケチャップ派、ソース派があると思うが、ケチャップとソースの合わせ技も。フライパンに直接入れ、卵が半熟の状態で混ぜると、口の中で三種一体となっておいしい。

ケチャップとソースを合わせるとハヤシライスの色になるので、この料理を「ハヤシ卵」と命名した。小4担任の先生はよく覚えていて、母と会うと、その話に花が咲いたと言っていた。くじけずにできたのは、母や先生の励ましがあったからこそ。「人はほめて伸ばす」を信条に育ててくれた母に感謝している。(料理教室主宰)

密を避け生活を満喫する 《ひょうたんの眼》35

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石岡市湯袋峠の岩割り桜

【コラム・高橋恵一】4カ月後に予定されている東京オリンピックに、外国からの観客を受け入れないことが決まった。選手も、選手村と競技場以外の行動は制限されることになるようで、オリンピック誘致の決め言葉「おもてなし」は、空振りになってしまうようだ。

オリンピックの経済効果を期待し、特にインバウンドの復活に期待し準備していた業界は、戦術を再構築せざるを得ない。早速、コロナ感染収束の状況も見えないうちから、「GOTOキャンペーン」の再開を言い出したりしているが、慌ててさらなる深みに落ちないように考えるべきだ。

観光とは、文字通り光輝くすばらしい景色、宝、イベントなどに接し、自らの体験を豊かにすることであろう。観光を提供する側も、最大に感動してもらうための「おもてなし」を用意するはずだ。しかし、近年のインバウンド客やGOTOキャンペーン実施時の報道を見ていると、渡月橋に大行列ができたり、浅草や鎌倉の食べ歩きなど、おおよそ日本を満喫する行動とは言えないだろう。観光地では、観光客も観光の対象でもあるのだ。

ホテルや旅館での食事や接待にしても、合宿の朝食でもあるまいし、美しい盛り付けの郷土色豊かな配膳で日常との差別を楽しめてこそ、「おもてなし」なのだと思う。宿泊については、インバウンド対応で「民泊」が登場したが、ホストファミリーとの交流を前提とした昔からのホームスティとは異なる。簡易な宿泊だけなら、ビジネスホテルの利用を進めるべきだろう。

「密」を追いかけてきた日本

この際、「観る側」ファーストを考えてみよう。スポーツやコンサート、観劇などは、会場が一体化して、感動を共有することも素晴らしいのだが、テレビの方が細かい動きや周囲にかき消されていない音声で解説などもあり、理解しやすく満喫できる。

美術品や文化財などは、展示会の混雑の中で鑑賞するより、図録の方が判りやすい。鳥獣戯画やゴッホのひまわりを立ち止まらないで見ることは無理だ。阿修羅像や飛鳥大仏とは、何時間も向き合って語り合いたい。渡月橋では、途中でたたずみ、桂川の流れの音に触れたい。

コロナ感染防止で「密」を避けるように要請されているが、今日の日本は、「密」を積極的に追いかけてきたのではないだろうか。大量生産、大量消費、一極集中…。限りなく競争を求め、行き着くところは、資本と権力の集中だろうか。

密を避けて生活を満喫する。改めて日本人に求められている生き方かもしれない。(地図好きの土浦人)

「知識」と「知恵」の違い 《食う寝る宇宙》82

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【コラム・玉置晋】高校教員をしていた亡き父のアルバムを整理していたら、切り抜きが出てきました。卒業する生徒に向けたメッセージかと思います。

「高校の勉強が完成するとは、『知識』が『知恵』に高められることだ、という人もいます。(例えばボク)。それでは、『知識』とか、『知恵』とは何でしょう。ボクはこう考えています。『知識』とは、ある物事についての明確な理解、認識を持つこと。つまり、簡単にいえばオボエルこと、だね。『知恵』とは、物事の理(ことわり)を考え、判断し、処理する心の働きのこと。つまり、簡単にいえば、『オボエテイル』ことを使って、頭を『ハタラカセル』こと、だと思うね」

父が教壇に立っていた30年前と比べて、世の中は大きく変わりました。インプットされる情報量も何十倍となっています。人間の頭に格納する知識の価値は下がり、替わりに外部記憶(例えばインターネットの情報)にいかに効率よくアクセスできるかが重要視されています。しかし、知恵(「オボエテイル」ことを使って頭を「ハタラカセル」こと)はどんなに時代が変わっても、大事なことに変わりありません。わが父ながらよいことを言った。

寝坊したのは太陽フレアのせい?

先日、岩手県大船渡市に住む地球防衛隊(コラム25参照)の仲間から、スマートフォンのアプリを開けなかった、太陽フレアの影響ではないか?と連絡がありました。もちろん冗談なのですが、この手のネタは2017年の秋からSNSで見かけるようになりました。

きっかけは、2017年9月に「通常の1000倍の大型太陽フレアが観測」されたと関係機関からプレスリリースが出たことによります。当時、カリブ海では大型ハリケーンの被害を受けて、その救援活動の最中に、大規模な電波障害が生じたという報告がありました。(日本では大きな影響はありませんでしたが)

そのため、何だかよくわからない脅威である太陽フレアは、「寝坊したのは太陽フレアのせい」といったジョークの恰好の餌食となりました。この反応は「宇宙天気防災研究者」としては懸念材料でして、よかれと思って発信した情報がオオカミ少年になってしまわぬように注意を払わないといけません。(宇宙天気防災研究者)

<3分宇宙天気>2021年3月22日、太陽の北半球で巨大なプロミネンス(紅炎)が見られました。ガスの塊(CME:コロナ質量放出)が噴出され、地球方向に向かっています。3月25日以降、到来する可能性がありますので、宇宙旅行ご予定の方は宇宙天気をウォッチ!

オオシマザクラのはなし 《令和楽学ラボ》12

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日立市かみね動物園のオオシマザクラ

【コラム・川上美智子】今年は桜の花の開花が早く、各地から垂れ桜やソメイヨシノの花便りが届いています。ここ茨城県でも既に桜が満開になっているところもあります。

今から10年ほど前、桜の名所である日立市の依頼で、大学の研究室では「オオシマザクラ」の研究に取り組みました。オオシマザクラは、日本に自生するサクラ野生種の1つで、日本の固有種とされ、交雑しやすいため多くのサクラ栽培種の原種となっています。

例えば、明治初期に誕生したソメイヨシノも、DNA解析からオオシマザクラを父に持つことがわかっています。また、オオシマザクラを母種とするサクラも多数あり、これらはサトザクラ群と言われています。原木は木炭や浮世絵の版木、茶筒などに使われてきました。葉は滑らか、無毛で食べやすいところから、桜餅の葉として利用されてきました。花びらは白色でソメイヨシノよりやや大きく、4月ごろ、新葉が出る時期に咲くのが特徴です。

日立市のオオシマザクラは、日立銅山の歴史と深い関係にあり、新田次郎原作・松村克弥監督の映画「ある町の高い煙突」にそれが描かれています。明治後期、銅の製錬による煙害(2酸化硫黄の発生)が大きな問題となり、煙害に強い樹木としてオオシマザクラが採用され、植樹が始められました。

大正4年(1915)に大煙突が建てられるまで、数万本のオオシマザクラの苗木が伊豆大島から移植され、さらに耐煙樹種研究のために作られた農場では、苦心の末、120万本の苗木栽培が行われたと言います。その後、オオシマザクラの苗木にソメイヨシノの苗木の接ぎ木も行われ、日立市全体がサクラの町になって行きました。

「桜香るうどん」の開発は断念

研究室では、特有のかぐわしい香りをもつサクラの花と葉を利用した商品づくりを試みました。手始めに、サクラの葉と花の揮発性成分について分析したところ、強い樹木であるだけに、葉からはクマリンやベンズアルデヒドなどの芳香をもつ抗菌成分と猛毒の青酸(シアン化水素)などが見つかりました。

クマリンは抗菌作用のほか、抗血液凝集(ぎょうしゅう)作用などがありますが、大量摂取すると肝毒性、腎毒性をもたらします。シアン化水素はミトコンドリア中で酵素チトクロームオキシダーゼと結合し、細胞呼吸を阻害して呼吸困難や窒息を引き起こします。生葉よりも乾燥した葉で、これらの成分の含有量が高まるため、サクラの葉粉末を練り込んだ「桜香るうどん」などの開発を試みましたが、商品化は断念しました。

ちなみに、クマリン自体も食品添加物としては認められていません。と言うことで、サクラは花を愛でることに留めた方がよさそうです。(茨城キリスト教大学名誉教授)

食うか食われるかを目の当たりに 《宍塚の里山》75

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大池で見られるオオバン(下段左から)ウシガエルのオタマをくわえる、オタマジャクシを横取りされる、草の実を探す、特徴的な脚

【コラム・及川ひろみ】秋から春にかけて、宍塚大池では、白いおでこが目立つ水鳥、オオバンが見られます。1994年までは来たり来なかったりでしたが、それ以降は毎年見られ、数も年々増えています。オオバンは全国的に増えている野鳥です。繁殖地の調査などが行われていますが、その理由は分かっていません。

オオバンはオオタカなどに比較的捕まりやすく、池の縁で羽根をむしられたオオバンを見ることも少なくありません。オオタカがオオバンを仕留めたときには、池の中にオオバンを力ずくで沈めて窒息させ、その後、岸に引き上げます。タカの脚の強さは想像以上!

今年、仕留めたオオバンの羽をむしり始めたところで、哺乳動物に横取りされた現場を見ました。宍塚では中型哺乳類が生態系の頂点であることが分かります。(この哺乳動物、アライグマ、タヌキ、キツネ、ハクビシン…、何なのか残念ながら分かりません)

オオバンが水草や陸の草の実などをついばむ姿をよく見ますが、実は結構な動物食。ウシガエルのオタマジャクシ、アメリカザリガニもよく食べます。オオバンは潜るのが得意で、カモたちよりこのような獲物が手に入りやすく、冬の間、よく食べていました。

しかし、カモたちにとって、これらの獲物はよだれが出るほどうらやましいのか、そっと近づき、オオバンがくちばしにくわえたオタマジャクシなどをひょいと横取りします。しかし、オオバンは捕られても何事もなかったかのように、また水に潜り、生き物探し。時に、口に入らないほどの大きなものを捕り、水面に何度も打ち付け、食べやすいサイズにしてのみこみます。

オオバンはクコの葉が好き

こんな姿が見られるのは真冬で、春が近くなってくると、動物食から植物食になるようです。

オオバンが好きなのはクコの葉です。クコの枝は細く、登って小さな葉を食べるのは一苦労ですが、落っこちそうになりながら徹底的に食べます。よほどの好物のようで、クコの群落の葉が丸坊主になります。以前飼っていた鶏はクコの葉が大好物でした。

クコは長寿の薬ともいわれていますが、これを知っているかのようです。私も春先、クコの若い芽を摘み、ゆで、ゴマあえなどでいただきます。結構いけます。(ゆでてから時間がたつと青臭くなるのでご注意)

里山の生き物を丁寧に観察していると、生き物同士の、食うか食われるかの関係が見えてきます。生態系という言葉の重みが実感できます。オオバンはカモより遅くまで見ることができます。(宍塚の自然と歴史の会 前会長)

救いの歌詞物語① 貧しさと諦めと平穏と《遊民通信》13

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イラストは筆者

【コラム・田口哲郎】
前略

「羽根のついた靴」で味をしめて、歌詞を書くようになりました。いつか誰かに歌ってもらえることを密かに待ち望みながら。

コロナ禍で満員通勤電車はめっきり減りましたが、つい2年前まではスシ詰めの列車が大量の人間を都心に送り込んでいました。大学に再入学する前は私も都心に通勤していましたので、毎朝の満員電車はとてもつらかったです。

ある日、乗っている電車が大きな河にかかる鉄橋を渡っているときに、詩の断片が浮かびました。またある日、マザー・テレサのドキュメンタリーを見ているときに、また断片が浮かびました。マザー・テレサはコルカタの路上生活者に手を差し伸べた聖女ですが、私は思いました。(マザーはなぜ、わかりやすい貧しい人々を救うのだろう? ここに家の中でひとり苦しむどうしようもない私がいるのに…)

そのとき、ハッとしました。私は路上生活者を無意識に差別していたのです。彼らとは違う自分を必死に探していました。でも、それは間違いです。私こそが貧しいのです。マザーの救いを求めているのは私だったのです。私は知らぬ間に欲望優先の競争社会で生き、他人をx顧みない習性が染み付いてしまっていました。満員電車に押しつぶされる私こそが哀れで、救われたい。この気づきが詩の断片をつなぎました。

歌詞「平穏(セレニティー)」

鉄橋架かる大きな河
水面に映る満員電車

わたしは急いで運ばれる

どこへ?

みんなそんなに強く押さないで
どうしよう
思ったよりも 心は脆い

あれはもうすぐわたしが昇るビル
うしろ髪をひかれて
目を瞑(つむ)りながら

街路にできた水たまり
水面に映る遠いビル

わたしは彷徨(さまよ)い続ける

どこへ?

犬よ そんなに顔を舐(な)めないで
大丈夫
思ったよりも 心は静か

あれはもうすぐわたしが昇る空
思い残すことなく
微笑(ほほえ)みながら

緊張と不安と競争で疲れ切った心を休ませるときかも知れません。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

大震災10年後の山菜採り《県南の食生活》23

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山菜のコシアブラ

【コラム・古家晴美】ちょうど10年前、東日本大震災という大惨事に見舞われた。この地震は、多くの方々の命、家族、家、仕事、故郷を奪い、漁業・農業など第1次産業に携わる方々の生活にも深刻な影響をもたらした。

食との関わりで言えば、春秋の楽しみとされてきた野山での山菜やキノコの採取にも大きな打撃をもたらした。現在、店頭に並ぶキノコ類の多くは栽培されたものであり、野菜類とともに、セシウム含有量は基準値以下なので安全性が保証されている。

しかし、茨城県のホームページを見ると、昨年末(2020年12月25日)のデータによれば、県南地域では、石岡市の野生・・山菜であるコシアブラ(特に放射性セシウムの含有量が多いとされる)や、つくば市や石岡市の野生・・キノコの出荷が制限(実質的には禁止)されている。

どうして畑の野菜が大丈夫なのに、事故後10年近くもたつ森林の中の植物に食用にできないほどのセシウムが残留しているのか。専門外のことなので、理解が不十分な点があると思うが、その点あらかじめご容赦いただきたい。

吉田聡氏(放射線医学総合研究所2012)によれば、「大気中に放出されて地表に沈着した放射性物質の多くの部分は、様々な生物が共存する生態系であり、かつ人が木材、食糧、水、燃料を供給源とする森林・・に存在する。樹木やその落葉に沈着した放射性セシウムの73パーセントは深さ5センチでの表層土壌表層に存在するが、残りの部分は、より深い土壌と植物(主として樹木)である」(傍点は筆者)。

放出されたセシウムは森林に残留

これが根を通して吸収されて葉に至り、再び落葉して林床に帰るという循環を繰り返す。セシウムは森林に残留し、そこに生息するキノコや山菜、その他の食用植物は比較的高濃度の状態で維持される、ということだ。

野生の山菜について、令和3年3月18日の報告を基にもう少し詳しく見ると、県南全域で、コゴミ、コシアブラ、ゼンマイ、タケノコ(牛久市と阿見町を除く)、タラの芽、ワラビ、ウワバミソウ、ネマガリダケ、シドケ、ウルイ、行者ニンニク、サンショウ(葉・実)、ジネンジョ、セリ、ツリガネニンジン、フキ、フキノトウ(龍ケ崎市を除く)、ウドの出荷に際しては、モニタリング調査を行うことが求められている。

セシウムが100ベクレル/㎏のもののみ出荷が認められる。裏返せば、いまだに残留の可能性が否定できないことになる。こういったことは、県のホームページセシウムの山菜モニタリング検査が参考になる。

私たち人間は自然に対しとんでもないことをしでかしてしまったのだ、と改めて痛感する。10年後に自戒の念を込め、食と環境の関わりについて触れた。(筑波学院大学教授)

骨折り損の… 《続・平熱日記》82

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【コラム・斉藤裕之】駅前のイルミネーションのオブジェを撤去しているとき、無理に力を入れた瞬間、脚立から落ちて身体の左半分をしこたま打った。瞬間的に何とか被害を最小限にしようと体が反応して、地面が近づくまでスローモーションのように感じた。「鎖骨は大丈夫そう。顔は擦り傷か? あばらはやったかも?」。

小学校のときに、右手を折ってから骨折は何度か経験している。あばらは多分5、6回はやっている。多分というは、レントゲンを撮っても「あー折れてますねえ」と言われて湿布をくれるだけなので、医者で確認をとれたのが3回ほど。前回は、酔っぱらって家の入口で転んで骨折したのが10年ほど前か。そのときは医者に行って骨折と断定された記憶がある。

その日の夕方は何とか風呂に入って横になった。しばらく寝てしまって、起き上がろうとしたら起き上がれない。痛みをこらえながら、カミさんに何とか起こしてもらった。多分ヒビぐらいは入っているのだろう。しかし日雇い先生はこれぐらいで休めない。鎮痛剤を飲んでなんとかごまかすしかない。

ところで、このコラムは日記として書いていることもあって、極めて個人的な事柄を書かせてもらっている。私が父の日記を読んでそうであったように、何年、何10年も先に、娘たちがこれを読んで事実を知るということも面白い。

娘たちは私の書くものに全く興味がないのだが、この際、あばらを痛めたのを機に記すことにした。

娘の子は「ボーン・イン・イバラキ」

長野県の北部、白馬の手前の小谷(おたり)という駅を降りると、鹿島槍ケ岳を臨む山の斜面に東京芸大の山小屋がある。大学院生の夏。そこではしゃぎすぎた私はマウンテンバイクから落ちて鎖骨を折ってしまった。そのまま何日かを過ごして東京の病院に行ったら、「筋肉が緊張しているからこのまま固めましょう」と言われた。だから、今でも右の鎖骨は少し膨らんでいる。

さて、その年の秋。不完全燃焼に終わった長野の旅をリベンジするために、当時すでに結婚をしていたカミさんと、骨折が完治しないまま上高地などを訪れた。そのときにできたのが長女だ。つまり長女よ、あなたは「メイド・イン・マツモト」なのよ。

「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」はごく早い時期に出会った諺(ことわざ)だ。多分、少年漫画の中に書いてあったような気がする。本来はネガティブな意味で使われる諺だが、痛みをこらえてケヤキの枝からイルミネーションを外していると、人生それでいいような気がしてきた。この作業が終われば春が来る。それにしても汗ばむような陽気で、毎年、確実に春の訪れが早まっているのを実感する。

顔の擦り傷は1週間、あばらの痛みは1カ月の我慢。そして6月に十月十日を迎える長女が、出産の準備のために帰ってくる。つまり、彼女の子供は「ボーン・イン・イバラキ」となる。(画家)

農林水産業の再生へ 福島で祈念大会《邑から日本を見る》84

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東日本大震災復興祈念大会=13日、郡山市

【コラム・先﨑千尋】福島の農協団体が13日、郡山市で東日本大震災復興祈念大会を開き、同県の農林水産業の再生に総力を挙げて取り組む決意を確認した。東日本大震災と東京電力福島第1原発の事故から10年になり、多くの報道がされているが、私も大会前後に現地に入り、取材した。同県の第1次産業は、震災と原発事故によって、農業が8割以下、林業が7割以下、漁業が5割以下にまで落ち込んだ。

大会は農協グループが主催し、県森連、県漁連、生協連などが共催。関係者約800人が参加した。菅野孝志・県農協中央会長は挨拶で「生産者の熱い思いを受け止め、担い手確保の支援対策や生産、加工、流通を一体的に確保する産地づくりに全力をあげる。福島の農林水産業の明るい未来のために、共に手を携えていこう」と呼び掛けた。祝辞では、全国農協中央会の中家徹会長が「安全・安心だというPR活動の展開や消費者対策だけでなく、流通対策も含めて復興支援に力を入れていく」と述べた。

決意表明では、飯豊ファーム(相馬市)の竹澤一敏社長、あかい菜園(いわき市)の船生典文社長、会津よつば農協の吉津紘二さん、陽と人(ひとびと、国見町)の小林味愛社長が登壇し、それぞれの取り組みを述べ、岩瀬農高の生徒たちが動画で発信した。

「地域の人たちに、変わらぬ『農の風景』を届けていくのが私たちの責務」という竹澤さん。「震災と台風、コロナなどの試練を乗り越えてきた。持続可能な農業を次世代につないでいく」と述べた船生さん。「地理的表示(GI)保護制度に登録された南郷トマトのように、福島全体の農産物が特別のものになっていけるように」と表明した吉津さん。「震災時は国家公務員だったが、福島応援のために福島で起業した。競争ではなく、共存共栄の考えで新しいことに挑戦していく」と明るい表情で語った小林さん。それぞれに若い人たちの強さとたくましさを感じ取ることができた。

「農業の復興なくして福島の復興はない」

協同メッセージの発信では、県漁連の野﨑哲会長が試験操業の終了を踏まえ、「操業拡大を図るには風評対策、流通の回復が最重要課題だ」と強調。県森連の秋元公夫会長は「森林・林業の再生を図る取り組みは緒に就いたばかりで、やめることなく進めていく」と述べた。消費者代表として登壇した県生協連の吉川毅一会長は「もう10年なのか、まだ10年なのか」と会場に問いかけ、「農業の復興なくして福島の復興はない。今後も『地産地消ふくしまネット』に結集し、皆さんと共に連携していく」と誓った。

協同メッセージに続いて、福島市出身の俳優梅沢富美男さん、会津若松市出身の県しゃくなげ大使大林素子さん、古殿町出身で東京南麻布にある日本料理「分とく山」総料理長の野崎洋光さんの応援メッセージが動画で放映された。

大会は最後に、県農業会議の鈴木理会長が、大震災と原発事故から10年を経ても残っている課題を解決するために、「農林漁業の復興・再生の取り組みを強化し、国・県・市町村との連携を進め、農林漁業者と消費者の協同に力を結集しよう」という大会決議案を読み上げ、満場一致で採択された。(元瓜連町長)

正岡子規『水戸紀行』追歩 (5) 《沃野一望》25

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ハス田からの筑波

【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

年末休暇を利用しての、正岡子規『水戸紀行』追歩は、どうやら土浦市へたどりつく。これより土浦市の標識の建つ地点に、荒川沖の一里塚が残る。正真正銘の水戸街道を歩いていることになる。

往時の姿をよくとどめる市指定史跡の一里塚をすぎ、荒川沖入り口で旧水戸街道と別れ、6号国道を進む。自然に足が速くなる。帰心はやはり矢のようだ。原の前からふたたび旧水戸街道へはいる。

通りすぎる中村集落には、荒川沖の一里塚の次の一里塚が崩れ残っている。集落の民家のほとんどが、街道にたいし直角の向きで並び、旧街道の面影をとどめている。ゆっくり味わいながら歩きたい街道筋だが、歩道の区分が整備されていない道は、脇を走り抜ける車が怖い。道の狭さが、当時の様子を伝えている。

東小学校の脇を下り、さらに直進。大聖寺まえを経て永国の坂を上がる。この辺までくると、子規先生の水戸紀行追歩をわすれ、自宅の風呂とビールばかりが去来する。中高津の土浦四中脇をすぎ、無事自宅へ到着となる。風呂を沸かし、どっぷり浸かって、とりあえずのビール。うまい。ありがたいことだ。子規先生の水戸紀行に比べれば、なんと恵まれた条件の歩みの1日。これも、時代の差。

土浦の印象は芳しくない

明けて、12月29日。

午前6時、土浦市中高津の自宅から、水戸紀行追歩後半へ出発する。日の出前の東の空が幻想的な朱に染まり、前途を祝福している。上空は、まだ暗い。本日は6号国道を北へ向かい、まずは石岡を目指し、足や膝と相談しながら水戸まで、歩けるか。どうか。

黎明(れいめい)の土浦市内を通過する。早朝の街は、ひっそりと静まりかえっている。

さてその土浦、どうも子規先生の印象は芳しくない。それとなく昼食を断られたり、まずい食事の曖昧(あいまい)屋から、ほうほうのていで逃げ出したり、車屋に法外な料金を吹っ掛けられたりの散々な目をのろっている。

そんなことでしたら、我が家にお立ち寄りいただき、ゆっくり鰻など召し上がっていってほしかったものをと嘆く市内の旧家の方もいらっしゃるだろうが、今となっては取り返しのつかないこと。

ちなみに子規が土浦を通過した明治22年(1889)は、土浦の老舗料亭「霞月楼」が開業した年。「霞月楼」については「NEWSつくば」で連載企画を掲載しているから、ご参照を。貧乏書生の子規は、もとより霞月楼の開業を知らなかっただろうし、知っていても支払いにたる懐具合ではなかったにちがいない。

子規は、真鍋の高台へ上ってゆく。(作家)