【コラム・山口 絹記】ことばの困ったところは、視覚的には思い描くことすらできないものも、描くことができてしまう点だ。

『つくば市のあらゆる大通りを、現在、正三角形のヤギの大群が歩いている。ヤギはどの角度から見ても正三角形であり、光学機器では現在のところ観測不能であることがわかっている。人間の目による計測を試みようにも、ヤギAに意識を集中すると、それに接しているはずのヤギB、C、D、E、F、Gが認識できなくなり、正確な計測ができない』

みたいな文章はいくらでも書くことができる。書けば書くほど、視覚的な情報とはかけ離れていくだろう。想像してしまった方もおられるかも知れないが、“どの角度から見ても正三角形のヤギ”は存在し得ないため、その想像は誤りだ。球体ならまだ、あり得たかも知れないが。

さて、もう一歩進んでみよう。こんなうわさがたったとする。

『観測不能なヤギを、その目で見てしまった者は、言語能力を失ってしまうらしい。話すことはおろか、文字を書くことも、文字入力を行うこともできなくなってしまうらしい』

もっとやってみよう。

『ヤギを見て、ことばを失った者を見た者から、少しずつ情報が広がり始める。加えて、ことばを失った者を見た者まで、ことばを話せなくなっているらしいといううわさもたちはじめた』

誰かが物語ったものを皆で信じる

まったく荒唐無稽で馬鹿げた話だが、滑稽に思えるのは、もしかすると正三角形のヤギだからかも知れない。

『そうこうしているうちに、市内での無断欠席、無断欠勤が増え始め、SNSなどへの投稿が明らかに減少し始める。意味不明な投稿を最後に、多くのアカウントが沈黙しはじめ、1週間もしないうちに市内からは、ことばが消えた』

虚構である。大嘘だ。フィクションというやつである。しかし、例えばこの文章を読んで生じた感情を、あなたがことばにして発したとき、そのことばはフィクションではなくなる、ということは、よく覚えておいたほうがよい。

誰もが見ることのできないものを共有し、現実との境界を曖昧にしていったあげく、皆がその存在を信ずることができれば、それはもう立派な現実だ。

実はこの、誰かが物語ったものを共有し、皆で信じることができる、という性質こそが、ことばの本質的な力なのだ。ことばがあるからこそ、私は日本という想像上のコミュニティに所属していられるし、なにやら得体のしれない自由などというものを満喫することだってできるのだ。

注意しなければならないのは、一度共有してしまったものは、失敗と気づいてもなかったことにはできないということだ。特に、それが負の感情だった場合。それから、それが生活の奥深くまで浸透してしまった場合だ。

失敗に失敗を重ねた上に作り上げられてしまったIfの世界観を、小説界隈(かいわい)ではディストピアSF、と呼んだりする。ディストピアSFが現実になってしまった場合は、寓話(ぐうわ)にするという手もある。(言語研究者)