【コラム・奥井登美子】1歳のとき、ジフテリアで死に損なった私は、幼い頃よく熱を出した。発熱で何も食べたくないとき、父はよく「牛乳ごはん」を作って食べさせてくれた。炊き立てのご飯に牛乳をかけただけのものと、スープで味付けしてあることもあった。

父は、明治25年、京橋区の新富町生まれである。近くに芥川龍之介の父上が経営している牛乳屋さんがあって、新鮮な牛乳が手に入ったそうで、牛乳とチーズの入った料理が好きで上手だった。明治時代、外国船の入る明石町近辺は、外国の人も多かったという。

「龍之介は僕よりひとつ上の学年で、同じ鉄砲洲小学校にいたこともある。お父さんは牛乳屋さんで、渋沢栄一と一緒に、東京に牧場まで造って、おいしい牛乳を売っていた」

「まさか、東京に、牧場?」「うん、新宿だか、田端か、そのあたりらしい」。東京の新宿に牧場なんて、あるはずがない。私は父の冗談だと思っていた。

20年くらい前、近藤信行さんが山梨県文学館の館長の時に、「芥川龍之介展をするから見に来ないか」と誘われたことがある。そこで私が見たのは、小学3年生の龍之介少年の手書きのポスター「牛乳を飲みましょう」だった。父の言っていたことは本当だったのだ。

「白米に牛乳なんぞかけるやつがあるか」

土浦に嫁に来て、つわりで何も食べたくなかったときに、突然、なぜか、なつかしい牛乳ごはんが食べたくなってしまった。私はさっそく作って、家族の人たちにも、食べて喜んでもらおうとふるまった。

「牛乳ごはんなの、食べてみて…」「白米というのは、特別の尊い食べ物だ。それに牛乳なんぞかけるやつがあるか。僕は、絶対に食わんぞ」。舅(しゅうと)は断固拒否。見るのも不潔でいやだという。

父と舅。年齢はほとんど同じなのに、この違いは何なのだろう? 渋沢栄一に聞いてみたい。料理が、地域特有の物だった「証」と考えればいいのだろうか。(脚本家、薬剤師)