日曜日, 5月 5, 2024
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《宍塚の里山》74 コガモとオオタカ

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(円内写真)オオタカ=撮影:鶴田学(上段中)カモの群れ(左)コガモのオスメス(下段)オスの体そらし、見つめるメス

【コラム・及川ひろみ】今ごろの宍塚大池。ピッツ、ピッツと澄んだ声が鳴り渡っています。カモの中で最も小さなカモ、「コガモ」の雄の鳴き声です。ドバトより少し大きな、両手で包めるほどの小型のカモ。コガモと言っても子どものカモではありません。大池を歩いていると、「あの鳴いているのは何?」とよく聞かれます。その正体がカモと知ると、想定外だったのか、皆さん一様にびっくします。

コガモが盛んに鳴いているとき、しばしば雌への求愛行動(ディスプレー)が見られます。1羽のメスの周りに数羽の雄が、うろうろ、そわそわ。頭を振ったり、体をそらせたり、水面すれすれに首を伸ばして泳いだり、水しぶきを上げたり。時に、緑に輝く美しい羽根や、尾の近くの黄色い羽根を見せびらかし、雌に猛アピールするのが見られます。旅立ち前の真剣な儀式です。

大池では1984年から、野鳥の会の依頼を受け、毎年1月、カモの種類とその数を数えています。数え始めたころ、最も多かったのがコガモでした。しかし、次第にその数が減り、数年後にはマガモが多くなり、それが続きました。コガモが多かったころは、池の周りは松が多く、水面が陰影に富み、今のような明るい池ではありませんでした。

次第に明るい池になっていったこの変化が、コガモの減少に関係しているのではと言われていましたが、なんと、この冬はコガモが一番多く、いつにも増してコガモの澄んだ鳴き声が池に鳴り響いています。コガモが増えた理由はさっぱり分かりません。

3月になるとカモたちは北帰行

もうひとつ、この冬の特徴は、カモがなかなか大池にやって来なかったことです。毎年9月末から、コガモを皮切りに多くのカモがやって来て、冬を越します。ようやくカモがやって来て、数を増えたのは11月。コガモが多数やって来たのは11月末のこと。ずいぶん遅い集結でした。

カモの季節、毎年オオタカによるコガモの狩りが見られるのですが、なかなかコガモがやって来なかったことから、オオタカの出番も大分遅くなりました。オオタカとコガモ、密接な関係があるようです。この冬、大池では、オシドリ、オカヨシガモ、ヨシガモ、ヒドリガモ、マガモ、カルガモ、ハシビロガモ、オナガガモ、トモエガモ、コガモ、ホシハジロ、キンクロハジロが見られました。

3月になると、カモたちの北帰行が始まります。この時、旅の途中の大池に立ち寄るカモも多く、日ごろ見ることのない、珍しい種類のカモが見られることがあります。これからどんなカモに会えるか楽しみです。皆さまも、春間近な宍塚の大池にお運びください。(宍塚の自然と歴史の会 前会長)

《県南の食生活》22 ひな祭り その歴史と形

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手作り草もち

【コラム・古家晴美】今の時期、多くのスーパ―では、袋詰めのひなあられが山積みにされている。ひな祭りと言えば、どちらかというと女児のための朗らかな行事のイメージが強い。しかし、奈良・平安時代の天皇や貴族にとっては、上巳(じょうし、3月3日)は水辺で和歌を詠み、桃花酒(とうかしゅ)を飲み、草もちを食べて邪気を祓(はら)う行事を執り行う日であった。

「ひな祭り」が貴族・武家・上層の商家や農家や都市部で成立したのは、その数世紀後の室町時代から江戸時代にかけてのことだ。それ以前は人間の穢(けが)れを移した人形を水辺に流していたが、これ以降、内裏雛(だいりびな)として屋内に飾られ、江戸幕府がこの日を五節供(ごせっく)の一つに定めた。

さらに農村漁村の庶民における普及は、近代に入ってからになる。つまり、かなり新しい。県南地域でも、戦前にひな人形を所有していたのは、経済的に豊かな家庭に限られた。庶民の子どもたちはひな飾りのある家を見て回ると、その家で作られた甘酒や草もち、ひなあられが振る舞われた。

ひな飾りがない家では、親戚や仲人さん、地域の組合から贈られたお内裏様(だいりさま)が描かれた掛け軸(カケジ、ヒョージ)を飾り、自家製の桜まんじゅうや餅、草もち、赤飯で祝った。

また、初節句には、仲人や親せきなどを招いてご馳走した。特に霞ヶ浦湖岸では、特産物であるシラウオや鯉(洗いや煮つけ)などが饗されたと言う。お祝いのお返しとしては、餅や桜餅、桜まんじゅう、赤飯などを配った。

「ひなあられ」は野外での携行食

このように、ひな人形を飾るようなひな祭りは、庶民にとって比較的最近のことだ。掛け軸で代用していた家庭では、菱(ひし)餅の存在感はあまりなかっただろう。しかし、上巳で食べられていた邪気除(よ)けの草もちはアンコ入りの草もちという形で、また桃花酒はほとんどアルコール分がない甘酒という形で受け継がれ、ひな祭りの行事食となった。

ところで、ひなあられは、野外での携行食として、菱餅を砕いて作ったのが始まりだという説がある。県南地域では見られなかったが、ひな祭りに女性や子どもが磯遊びや山遊びなどに出かけ共同飲食する事例が、近年まで全国的に広く分布している。

おひな様を連れて花見や涼みに行く、あるいは河原に持ち出し、そこで煮炊きしたオヒナガユ(粥)を供え、子供たちと共食するなどの報告もある。他方、本格的な農事開始に先駆け、非日常の空間(磯や山)で1日暮らすことにより、田の神を迎える物忌みの準備をしているのではないか、との分析も興味深い(田中宣一『年中行事事典』三省堂)。

今年のひな祭りをどのように過ごそうか。まずは今晩、ひな人形を飾ってみよう。(筑波学院大学名誉教授)

《遊民通信》11 神秘体験記(2) 宍戸諏訪山

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諏訪大明神御社

【コラム・田口哲郎】
前略

以心伝心はあるのかもしれません。今回はそんなお話です。国土地理院の地形図を見るのが好きです。今どきのマップと違い文字情報は多くないですが、主要施設は地図記号でしっかり記載されています。ある日、旧宍戸町(茨城県笠間市)の地形図を眺めていました。母の実家がありなじみがあるからです。それでも地形図には未知の情報がたくさん載っています。加賀田山(かがだやま)が目に留まりました。母方の父系は武田氏です。一帯の庄屋をしていました。名字帯刀を許された家柄です。

「加賀田山がつぶれても、武田の家はつぶれない」と言われたものだと母から聞かされていましたから、山の名に覚えがあったのです。農地改革で土地を失い武田家は見事に没落。諸行無常です。諸法無我でなければ浮世を生きるのはつらいわけです。

それはともかく、加賀田山の隣に諏訪山というのがあります。山頂に神社マークがあります。そのときは何とも思いませんでした。それからしばらくした夏の日、母が朝方夢を見たと言いました。道の右脇の森に朱の鳥居があり、その奥に道が続いていた。行ったことがない場所だが呼ばれているようだったと。諏訪山の神社かな、と直感しました。朱の鳥居の有無は知りませんが、地形図を立体化すると母の夢の光景になるかも…。

興味が湧き、行ってみました。果たして諏訪山の神社の入口には朱の鳥居と長い参道がありました。母も夢で見た通りだと言います。

宍戸の諏訪大明神

草深い杉林の参道を行くと、急な石段。途中の踊り場には御手洗の石桶があり諏訪大明神と刻まれています。さらに上ると広場に拝殿があり、その奥の細く急な階段の上に板で囲まれた古ぼけた社がありました。

母は幼いころ祖母に連れられて一度きり来たそうですが、裏の山道を来たので赤い鳥居の参道は知らなかったそうです。素人目にもこの打ち捨てられたような神社がなかなかの格式であることが分かりました。後で調べたらそこは宍戸神社と言い、明治時代の一郷一社制度により近隣の平神社と合祀されたものだとわかりました。明治以前は諏訪大明神だったのです。

祖父は母の実家に婿に入りましたが、武田の家柄を誇り、信玄公を輩出した甲斐武田家の直系だと言っていたそうです。家紋は武田菱(たけだびし)です。私は旧勝田市(ひたちなか市)発祥である武田氏が宍戸に土着した末裔(まつえい)だと思っていましたが、ご先祖様が諏訪大明神を勧進(かんじん)したのなら、祖父の言に一理あります。

甲斐武田氏は信濃の諏訪大社を信仰していました。武田氏は滅亡しましたが、落ち延び伝承は各地にあります。宍戸には養福寺(ようふくじ)という天台宗の寺院があり、寺紋は武田菱です。祖父は40年前に他界しましたが、隔世の伝言のようにいろいろ分かったのは不思議です。

母の兄は調べもせず根拠なしと祖父の誇りを嘲笑したそうです。伯父と違って勘の利く私に祖父は伝えたかったのでしょう。成仏しても苦労が絶えない一切皆苦(いっさいかいく)です。羯諦(ぎゃてい)、羯諦。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

《続・平熱日記》80 センスの問題

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【コラム・斉藤裕之】「何が悪いんだ?」という顔でその人はそこに立っている。記者風情の質問には腹が立つのだろう。なにせ首相までやったのだから。ここまでオリンピックを引っ張ってきたのだから。私の親の世代、女性に対する物言いや女性の地位は今思えばひどいものであった。

いやほんの少し前まで自分を含めた周りもそうだった。女に負けるな、女みたいな髪型、女の腐ったような…。とにかく、男は女より優れていて、「男子たるものは」という教育を受けてきた。だから、この大柄な老人のことをとやかく言えるかと言えば、はなはだ怪しい自分がいる。理屈として分かっていても、本心から女性をリスペクトすることは容易ではない。

要するに、地雷を踏まない術(すべ)を身に着けることはできても、聖人君子のようにはなれない。いや、君子でさえも「女子と小人(しょうじん)は…」なんて言っているのだから。

ところで、2人の娘は小学校の時から柔道をやっていた。2人ともそれなりに強くて、長女は県南で優勝したこともある。次女などは県の大会で決勝までいってしまって。ここで勝つと、全国大会で秋田まで行かなければならないというのでちょっと焦ったが、いい感じの接戦で惜しくも負けてくれた。

かわいらしい女の子だと思ってつかみかかりにいくと、一本背負いでぶん投げられる。当時の映像は残っていないが、絵に描いたように男の子を投げ飛ばす姿は、我が子ながら見事だった。

しかし、2人ともそれほど好きではなかったらしく、中学で畳から降りた。実はその間にいただいた金銀のメダルが段ボールひと箱ほどもある。子供たちが巣立ってから、少しずつ不要になったものを捨ててきたのだが、その日、カミさんが引っ張り出してきたのはこの大量のメダル。

時化の日には漁を諦める

寒そうに美術室に入ってきた女子。「この真冬にスカートをはいているだけで尊敬するよ」「ですよね~!」って笑って答えてくれるが。こういう会話が許されるのは、私が人格者だからか、はたまた人畜無害な初老に見えるからか。いや多分センスの問題だ。

ある時から、女性の方が優れているのではないかと気づき始めた。医学部の入試の一件もそうだが、美術大学はずいぶん前から女子と男子の比率が逆転している。ちょうど、オリンピックでマラソンや柔道に女性が活躍し始めた時期と重なるような気がする。特に最近では、ジェンダーやマイノリティーについて世論は敏感だ。

これはとても繊細な問題なのだ。だからセンスを養う必要がある。最近メディアを騒がすのはこのセンスない人たち。そういえば、この方は文部大臣もやられたのでは…。今回の件は、「けがの功名」としてオリンピックのレガシーに。そういうセンス。

段ボールいっぱいのメダルに未練はない。さっさと燃えないゴミに出した。燃えないゴミから作ったオリンピックのメダルが陽の目を浴びる日は来るのだろうか。時化(しけ)の日には漁を諦めるというのもひとつのセンス、勇気だと思うが。(画家)

《邑から日本を見る》82 ずさんな東海第2の避難計画

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麦畑を飛び立つ白鳥

【コラム・先﨑千尋】2月13日夜中の地震にはたまげた。飛び起きてテレビをつけた。東海村は我が家から至近距離。そこにある日本原電東海第2発電所がどうなのかが心配だったから。何事もないことを確認し、また寝た。

翌朝のテレビはもっぱらこの地震の模様を伝えていた。福島にある2カ所の原発には異常がなかったようだが、高速道路で土砂が崩れたり、東北新幹線が不通になったりし、けが人もかなり出た。大学受験にも影響が出ているようだ。

報道では、今回の地震は10年前の東日本大震災の余震だとか。今回は津波が起きなかったので一安心だったが、福島の人たちはさぞ肝を冷やしたのではないかと思っている。10年もたっているのに、余震だとは驚きだ。

その東海村。毎日新聞は全国版の1月31日と2月1日付で、「東海第2避難所1.8万人不足」「責任曖昧 ずさん算定」という記事を載せている。それによると、同発電所をめぐる広域避難計画で、県内の避難所が2018年時点で約1万8000人分不足していた。施設のトイレや倉庫、ステージ、玄関ロビーまで、避難者の居住スペースとして計算していたからだという。

県の基準は「避難者1人当たり2平方メートル」だそうだ。トイレや倉庫まで含めて算出しているので、実際にはもっと少なくなる。あまりにもひどすぎる計画だ。畳1枚よりほんの少し広いくらいのスペースに、台風などの水害とは違い、いつまで続くかわからない長期間の避難生活ができるのか。計画を立てた人や首長、議員の皆さんに実験してもらいたいものだ。

「事故は起きない」楽観が暗黙の前提?

原発事故に備えた広域避難計画は、原発から30キロ圏内の自治体が策定することになっている。茨城県では東海村など14の市町村が該当し、これまでに5市町が策定済みだそうだ。その計画の中身を承知していないが、コロナ騒ぎの前のものなので、現時点では役に立たないだろうと考えている。

県が昨年5月に示した自然災害の際の避難所レイアウトでは、1人5平方メートルを想定している。原発災害にこの基準を当てはめると、広域避難計画そのものが成り立たなくなる。

4年前の県知事選のとき、現職の橋本昌氏が「避難計画などできはしない」と言っていたことを思い出す。県のトップがそう発言しているのだから、私も計画は作れないと思っている。策定済みのところも、作り直さなければならないのではないか。計画策定は原発再稼働の前提となっているので、東海第2原発の再稼働はできないことになる。

毎日新聞の記事には、災害リスク学が専門の広瀬弘忠さんの「あまりにもずさん。本気度が感じられない。『事故は起きない』という楽観が暗黙の前提になっているのではないか」というコメントが載っている。

今度のような最大震度6強の地震がまた発生し、津波も押し寄せたら、10年前と同じような惨事になる。いいかげんな避難計画を策定し、犠牲者が出たら誰が責任を取るのだろうか。「東日本大震災、今も影響。余震警戒さらに10年」と専門家は呼び掛けている。今度の地震はいろいろなことを考えるきっかけを作ってくれた。(元瓜連町長)

《沃野一望》24 正岡子規『水戸紀行』追歩(4)

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宝篋山頂からの筑波

【コラム・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

正岡子規の『水戸紀行』を追歩する令和版テクテク珍道中(子規は自身の水戸行きを東海道中膝栗毛になぞらえている。「僕が野暮次で君が多駄八、これからは弥次、喜多よりは一段上の洒落人となりて一九をくやしがらせるとは妙々思案じゃな」とある)、牛久沼のほとりまでやってきた。沼の水面(みなも)を遠望する。

白鳥が一羽、のんびりと泳いでいる。年末のあわただしい時節、悠然と水面をすべる姿は優雅の極み。年末は、こうして過ごすのですよと諭される。

牛久沼(沼全体は、行政的には竜ケ崎市)を過ぎ、最後の鰻(うなぎ)屋を見送り、行政上の牛久市に入る。

すこしの寄り道で牛久駅にたどり着き、コンコース上にベンチを見つけ、本日二度目の休憩とする。座ったベンチの脇に、東南アジア系の若者グループが無遠慮に数人寄ってくる。理解できない言語で声高に話しあっている。彼らも、年末年始の休暇なのだろうか。子規の時代には、出会うことのなかったであろう若者たち。せかせかと煙草をすい、ザワザワと立ち去っていった。日本での年末年始休暇が、いかほどの残像を残すのだろうか。

若者グループが消え、静けさをとりもどしたベンチでたっぷり休み、ふたたび出発。子規は、藤代から土浦あたりまで、風景描写をいっさい残していない。

「雨は次第に勢を増してうたゝ寒さに堪へず少しふるへながら」歩いたので、景色どころではなかったようだ。「声をはりあげて放歌吟声を始めぬ」とある。何者が通るのだと、明治20年代の街道筋の人たちは、あきれながら見送ったことだろう。

スーパーひたち 圏央道 蜃気楼の街並

令和版は上天気。快調に土浦を目指す。小野川の橋を渡ったところで右手から、JR常磐線の線路が接近する。背後に轟(ごう)音を感じて振り返ると、スーパーひたちが寒風を切り裂き、一瞬に迫り、あっという間に去ってゆく。速い。速い、が、それが何ほどの意味なのか。子規は三日がかりで水戸へたどりついた。一方、現代のスーパーひたちは、上野から一時間半余りで水戸へ着く。スーパーひたちの轟音からこぼれおちるのは、つむじ風だけだろうか。

小野川を渡るあたりは、圏央道とのクロス地点ともなっている。高架の高速道路上を、年末のせわしない自動車の列が、ここでも時間と競争している。子規先生、スーパーひたちや高速道路の狂騒疾駆をあおいだら、何を詠嘆しただろう。

さらに歩き続ける。

やがて、ひたち野うしく駅。古い記憶ではこのあたり、一面の畑だった。科学万博見学用の臨時駅として畑のなかに突如出現したのち、「ひたち野うしく駅」として定常営業をはじめ、それにともない、駅周辺に忽然とビル群が湧きあがった。まだまだ地に足のつかない蜃気楼(しんきろう)の街並。

駅には寄らずに、そのまま国道を進む。このあたりでも子規先生、放歌吟声なされたか。当時は周辺に、民家さえなかったはず。(作家)

《続・気軽にSOS》79 成功体験のみの危険性

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【コラム・浅井和幸】人は、苦しい思いが続いたり、失敗し続けたり、人にばかにされてばかりだと、余裕や自信をなくしていきます。そうすると心がくじけて、身動きできなくなっていくものです。

ここのところ、仕事でうまくいかないことが多いなと感じている人は、だんだんと暗くなり、新しいことに挑戦しづらくなっていきますよね。幼少期からずっと暴力を受け続けると、人とコミュニケーションをとることも怖くなってしまいます。

そのような悪循環に陥っている人に対し、支援者は成功体験をさせてあげるとよいと考えます。自由に動けなくなっているのは、自信がないからだ。だから自信を持つためには、成功体験をすることが必要だと考えるのです。

もちろん、その考え方に私は賛成です。ただし、それのみでは偏った考えで、とても危険だと考えます。成功体験があったほうがよいことは、ほとんどの人は反対しないでしょう。しかし、それのみであると、失敗を恐れすぎてしまう状態に陥る可能性があります。

失敗体験から立ち直る体験

だから、成功体験と同じぐらい、失敗体験から立ち直る体験も必要なのです。ミスをしてもフォローできる感覚、けがをしても傷が治る感覚はとても大切なことなのです。成功できるという自信と、失敗しても何とかなるという余裕の両方があるときに、人は一歩を踏み出しやすいものなのです。

私が失敗から学べることもたくさんあるよと言うことがあります。コミュニケーションが苦手なある青年から質問されたことがあります。「うまく話ができずに相手を傷つけるのが怖い。もし相手が怒ったらどうすればよいですか」と。

私は答えます。「謝ればいいんじゃないかな。気を使いすぎるぐらいの君が、取り返しがつかないほど人を傷つける可能性はとても低いと思うよ。そして、そのイメージをしている相手は、取り返しがつかないほどの傷つき方をする人かな」と。

どんなに完璧にふるまったとしても、どんなに立派な素晴らしい人格や技術の持ち主でも、失敗は必ずするものです。そして、そこから学べることもたくさんあります。このような状況で、このようなやり方をすると失敗するという経験は、大きな学びのある成功体験ともいえるかもしれません。

支援者は、「どこまでの失敗ならば自分がフォローしてあげられるか」という視点も持つことが大切だと思います。今、何かに苦しみ、余裕がなくなっている人に伝えたいです。「自分や他人から、失敗や負けること、苦労することでの学びを奪わないでほしい」と。一つの枠組みでの失敗は、次の枠組みでの成功のカギになります。

とてもまずい肉ジャガを作ったとき、それで自分や誰かを責めたり悔んだりするところにとどまらずに、何が失敗の原因だったかを考えて、次においしい肉ジャガを作る知識として取り入れられるとよいでしょう。ときには、カレー粉を入れてしまって、おいしいカレーにしちゃえばよいかもしれませんよね。(精神保健福祉士)

《電動車いすから見た景色》15 私の中にある無意識の差別

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【コラム・川端舞】「自分はどんな人も差別しない」。そう断言できる人はどのくらいいるだろうか。私にはそんな自信はないし、「もしかしたら無意識に誰かを差別しているかもしれない」と自分を省みることができる人間でいたいと思う。

障害者差別をなくすために、障害者と健常者の関係はどうあればいいのか。健常者の立場から差別について考える研修会が、2月上旬、障害者支援団体「つくば自立生活センターほにゃら」の内部職員向けに開催された(2月16日付)。

研修会では、部落差別を中心とした差別問題を研究する、筑波大名誉教授の千本秀樹さん(71)により、部落差別の基本命題が紹介された。これは、かつて、部落差別をなくすことを目指す運動団体「部落解放同盟」が提唱したものだ。

基本命題の1つは、「社会意識としての差別観念」だ。意識的に差別している自覚のない人であっても、部落差別が蔓延(はびこ)っている社会の中で暮らしていると、無意識のうちに「自分は被差別部落出身でなくてよかった」という差別的考えを持たされてしまう。そして、この考え方がさらに被差別部落と一般大衆の距離を広げる。

車椅子利用者を排除するアパート

身近な例で考えてみる。以前、私が別のアパートに引っ越そうと思い、物件探しをしたとき、ほとんどのアパートは外観を見ただけで候補から外れた。不思議なくらい、どのアパートの玄関にも段差がある。アパートを建てた人は、障害者差別をしているつもりは全くないのだろうが、結果として入居者から車いすユーザーを排除してしまっている。

車いすで入れない場所が当然のようにあちこちにある社会では、「歩けない障害者が悪い」「自分は障害者でなくてよかった」と無意識に思わされる。本当は、車いすで生活することを想定していない社会に問題があるのだが。

このような社会に暮らしている私たち一人一人の中に、無意識のうちに障害者差別が芽生えてしまうのは仕方ない。普段は差別される側になることが多い私でも、もしかしたら特定の属性を持つ人たちを無意識に差別しているかもしれない。人間は自分の知っている範囲でしか、物事を考えられないからだ。

「ほにゃら」の研修会で千本さんも言っていたが、自分の中の無意識の差別に気づくためには、様々な立場の人と対話し、もし自分が相手に対し差別的な言動をしてしまった場合は、相手から率直に指摘してもらう。そして、その指摘を素直に受け取り、相手が自分の言動をどう感じたのかを、直接教えてもらう。それを一人一人が繰り返すことでしか、差別はなくならないのではないか。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

《くずかごの唄》80 「牛乳ごはん」の思い出

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【コラム・奥井登美子】1歳のとき、ジフテリアで死に損なった私は、幼い頃よく熱を出した。発熱で何も食べたくないとき、父はよく「牛乳ごはん」を作って食べさせてくれた。炊き立てのご飯に牛乳をかけただけのものと、スープで味付けしてあることもあった。

父は、明治25年、京橋区の新富町生まれである。近くに芥川龍之介の父上が経営している牛乳屋さんがあって、新鮮な牛乳が手に入ったそうで、牛乳とチーズの入った料理が好きで上手だった。明治時代、外国船の入る明石町近辺は、外国の人も多かったという。

「龍之介は僕よりひとつ上の学年で、同じ鉄砲洲小学校にいたこともある。お父さんは牛乳屋さんで、渋沢栄一と一緒に、東京に牧場まで造って、おいしい牛乳を売っていた」

「まさか、東京に、牧場?」「うん、新宿だか、田端か、そのあたりらしい」。東京の新宿に牧場なんて、あるはずがない。私は父の冗談だと思っていた。

20年くらい前、近藤信行さんが山梨県文学館の館長の時に、「芥川龍之介展をするから見に来ないか」と誘われたことがある。そこで私が見たのは、小学3年生の龍之介少年の手書きのポスター「牛乳を飲みましょう」だった。父の言っていたことは本当だったのだ。

「白米に牛乳なんぞかけるやつがあるか」

土浦に嫁に来て、つわりで何も食べたくなかったときに、突然、なぜか、なつかしい牛乳ごはんが食べたくなってしまった。私はさっそく作って、家族の人たちにも、食べて喜んでもらおうとふるまった。

「牛乳ごはんなの、食べてみて…」「白米というのは、特別の尊い食べ物だ。それに牛乳なんぞかけるやつがあるか。僕は、絶対に食わんぞ」。舅(しゅうと)は断固拒否。見るのも不潔でいやだという。

父と舅。年齢はほとんど同じなのに、この違いは何なのだろう? 渋沢栄一に聞いてみたい。料理が、地域特有の物だった「証」と考えればいいのだろうか。(脚本家、薬剤師)

《ご飯は世界を救う》32 手作りお惣菜「まる環」

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【コラム・川浪せつ子】県独自の緊急自粛宣言が続いています。先月も書きましたが
「(コラムで取り上げるお店を)来月はどうしよう?」が、解決しました。テイクアウト
です。

今回、どうして「まる環(わ)」さん(つくば市下平塚)になったのか? 私は県建築
士会に準会員として入会しています。コロナが猛威を振るい、今年度の女性部の企画会と新年
会がZOOM会議になりました。ZOOMなんて私には無理ムリ!と思ったのですが、なんと
!お弁当付きなのでした。

お弁当につられ、ZOOMに挑戦することに。そのお弁当が「まる環」さんでした。おいし
いご飯と、スケッチもできるし、会議にも参加できるという一石三鳥。

2時間半の会議はけっこう長かったのですが、久々に仲間に会い、充実した時間を持つこ
とができました。後日、まる環のお惣菜を買い物したり。なんでも挑戦していくのってス
テキですね。

ZOOMで審査委員会

その後、またZOOM会議。市民審査員として参加している「つくばショートムービーコンペテ
ィション」(2月15日付)1次審査です。コンペの審査員長は、映画監督でつくば市出身の中村義洋さ
んです。

▽主催:つくばショートムービーコンペティション実行委員会、つくば市、筑波学院大学
▽支援:公益財団法人つくば文化振興財団
▽協賛:公益財団法人つくば科学万博記念財団、ほか2社
▽後援:一般財団法人つくば都市交流センター、ほか2社

ただのオバサンが審査員で大丈夫なのか?と思いながらも、もう6年です。そして、今回はZOOM
会議。いやぁ~、仲間内のワイワイ会議とは違い緊張でした。

最近の映像技術は素晴らしすぎて、ZOOMでは、シミ、シワ、クマ、くっきりです。顔出
ししないバージョンもありますが、やはりお顔は見えないとね。ZOOM会議のために、化
粧方法も研究しなくては!!(イラストレーター)

つくばショートムービーコンペティション>上映作品視聴期間=2月27日(土)13:00~3月7日(日)、受賞作品発表=2月27日(土)15:00~

《つくば法律日記》15 ドストエフスキー生誕200年

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堀越さんの事務所があるつくばセンタービル

【コラム・堀越智也】普段、今から100年前や200年前は何が起きていただろうと考えることで、歴史との距離感をつかむようにしています。今年は、ドストエフスキー生誕200年です。

ドストエフスキーの小説は、大学入試に出たので、どんな小説だろうと思い、手に取ったのが最初でした。代表作の「罪と罰」に始まり、短編小説も読むようになりました。入試のために知識を詰め込んでいるころは、なぜ大学入試で出題されるのか、あまり深くは分かりません。しかし、大学生になり、さらに社会人になり、年を取ると、少しずつその理由が分かってきます。

20代前半で読んだばかりのころは、何が言いたいのか、はっきりは分かりませんでした。ロシア文学独特の長い上に、1人複数ある登場人物の名前を必死に覚えながら読む重労働感は、多くの読者と同じです。長いカタカナの名前は、ボクシング世界戦で来日したナパ・キャットワンチャイやシリモンコン・ナコントンパークビューで鍛えたので自信がありました。しかし、ロシア文学の登場人物は、本名もあだ名も長く、あだ名は本名の跡形も残っていないことがあります。

それでも今、ページの隅々までぎっしり文字で埋められたドストエフスキーの小説を読んだ経験は、自分の財産として残っています。産業革命後、資本主義により貧富の格差が広がり、貧しい人への救いもない世の中で、人が犯した罪と罰についてどう考えるべきか考えることは、法律、政治、経済、その他、多岐にわたる分野の思考力を養います。大人になると、様々な不条理を経験します。そんな不条理とどのように向き合うべきかを考えるヒントにもなります。

貧富の差やコロナ禍による不条理

以前、久米宏さんがニュースステーションで、若者の本離れをテーマにしていた時に、若いころにドストエフスキーを読んでとてもいい世界に入って行けたと言っていました。僕がドストエフスキーを読んだのは、Windows95が出たばかりのころで、スマホはもちろん、インターネットも十分に普及していない時代でした。そして、今のコロナ禍です。

不条理の文学と言えばカミュが有名で、代表作に「ペスト」があります。インターネットやスマホが普及し、ドストエフスキーやカミュの時代とはがらりと違うように見える現在ですが、貧富の差やコロナ禍による不条理。ドストエフスキーやカミュの小説を読み直すと、若いころに読んでから今までの人生経験が線でつながり、何かに気づけるかもしれないと期待しています。

そして、また20年後に何を考えているのかを楽しみにしたい。できれば、それを誰かと語り合いたい。なので、生誕200年のドストエフスキーを多くの人に読んでほしいと願う2021年です。(弁護士)

《吾妻カガミ》100 つくばの市長案件 まだ迷走続く?

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】本コラムも100回を迎えました。安全保障や国際経済などグローバルなことも話題にしたいのですが、つくば市政への読者の関心が強いこともあり、今回もローカルな話にします。大台入りのテーマは、五十嵐市長の政治案件(運動公園問題)はまだ迷走するのではないかという話です。

2つの成功と2つの失敗

本サイトの記事「旧総合運動公園用地の利活用調査 再スタート つくば市議会」(2月3日掲載)を読んで、「変な話だな」と思いました。五十嵐さんが「(用地の)一部は防災倉庫に活用して残りは民間に売却したい」とTVインタビューで発言。これに、議会の審議を軽視していると市議が言いだし、次の特別委員会に市長を呼び、何を考えているのか問いただすことになった、という内容です。

運動公園問題の流れは、前市長が計画(UR都市再生機構から買った用地に陸上競技場などを建設)を発表(A)→多額の建設費に反対する市民運動が活発化(B)→住民投票で建設反対が多数を占め前市長は計画を断念(C)→「運動公園問題の完全解決」を目玉公約に掲げた五十嵐市長が誕生(D)→この公約の柱「URとの返還交渉」に失敗(E)→次の手「民間業者への一括売却」案に議会が難色(F)—に要約できます。この先に、「一部を防災倉庫の活用」案が加わったことになります。

住民投票で前市長の計画を葬り(C)、その勢いに乗って市長に初当選したこと(D)は、市民活動家の五十嵐さんにとって大成功(〇〇)でした。しかし、用地をURに買い戻させる交渉は失敗(E)、その後の民間業者へ一括売却する案(F)も実現せず(✕✕)、五十嵐市政にとって運動公園問題は悩ましい政治案件になっています。

間違いはどこにあったのでしょうか? 私の見立てでは、コラム「つくば市長の看板公約を検証する」(昨年8月17日掲載)でも指摘したように、最初の市長選のときに「就任後直ちにURと(用地)返還交渉を行う」(Dの柱)と、主公約に掲げたことにありました。しかし、市との売買契約ではURが解約に応じることはあり得ず、この公約の実現可能性はほぼゼロでした。「成功誘因」の中に「失敗因子」が潜んでいたわけです。

もう1バツが増える?

話を議会の動きに戻します。先の記事(2月3日掲載)から推測するに、議会では①なぜ運動公園用地に防災倉庫を持ってくるのか②それは同用地に陸上競技場を造る選択肢を封じることになる③防災倉庫を建てる場所なら他にもある―といった意見が出るでしょう。五十嵐さんがこれらの疑問や指摘に十分答えられないと、✕印がもう一つ増えることになります。

私は、防災倉庫は廃校跡や廃庁舎跡の方が適地ではないか、運動公園用地に建てると土地の形が悪くなり(虫食い状態になり)、残った土地の売却にはマイナスではないか、と余計なことを考えています。(経済ジャーナリスト)

《食う寝る宇宙》79 宇宙飛行士と人工衛星の「試験」

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【コラム・玉置晋】日本人宇宙飛行士の募集が今秋に予定されています。僕の周りにも宇宙飛行士を目指している人が何人かいるので、彼らを応援しています。JAXA(宇宙航空研究開発機構)のホームページを見ると、宇宙飛行士の募集・選抜・基礎訓練に関する意見募集や情報提供依頼が出ています。どのような選抜試験になるのか興味津々です。僕は受験するのかって? いやいや、まずは腹のぜい肉をどうにかしろと奥さんに言われておりますよ。

人工衛星も試験を受けなければ宇宙には行けません。宇宙に行くということは過酷です。ロケット打ち上げ時の音響レベルは飛行機エンジンの近くぐらいで、ロケットの噴射による振動は地球重力に匹敵する加速度となります。丈夫じゃないと壊れてしまいます。

そして、無事に宇宙空間に到達したらさらなる困難が。高真空、±100℃の温度差、高い放射線量―。特に放射線は、僕が研究している「宇宙天気」に大きく依存します。地上で素晴らしい働きをしている電子機器でも、耐性がなければ地球一周も持たず機能を失ってしまうでしょう。

小型衛星環境試験設備シェアリングサービス

人工衛星が、ロケットで宇宙に運ばれるのに耐えられて、宇宙空間でも健全に動作することを確認するために、地上で試験を行います。電気性能試験、電磁適合性試験、機械環境試験、熱真空試験、放射線耐性試験など、様々な試験が必要ですが、申請や機材の準備、試験場や試験人員の確保などのノウハウがないと難しくて、これまで宇宙参入の障壁となっていました。

ここに目をつけた人が、僕が所属する宇宙コミュニティ「ABLab」の仲間にいます。「小型衛星環境試験設備のシェアリングサービス」と題して、宇宙ビジネスアイデアコンテストS-booster2019に応募し、見事JAXA賞を受賞しました。そして準備期間を経て、2021年度からサービス提供を開始します。詳細は本サイトの記事「JAXA認定ベンチャー 宇宙・衛星ワンストップサービス提供へ」(1月21日付)をご覧ください。(宇宙天気防災研究者)

<2月前半の宇宙天気>太陽のコロナホールから流れ出した高速太陽風の影響で、2月7日に弱い磁気嵐が発生しました。2月11日現在の宇宙天気は静穏です。新たなコロナホールが見えていますので、本コラムが掲載されるころには高速太陽風が吹いているかもしれません。それではよい宇宙旅行を!

《茨城鉄道物語》9 今度は「ひたちなか海浜鉄道」に乗ってみた

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ひたちなか海浜鉄道湊線の車両:JR勝田駅ホーム

【コラム・塚本一也】新春企画第2弾として、今回は、現在県内で注目の的となっているひたちなか海浜鉄道湊線に体験乗車してきた。

正月明けに、鉄道関係者にとって耳を疑うようなニュースが飛び込んできた。それは、ひたちなか海浜鉄道湊線が、終点の阿字ヶ浦駅から国営ひたち海浜公園までの3.1キロを、2024年度の運行開始を目指して延伸することが認可されたという、ビッグニュースである。

ひたちなか海浜鉄道は、茨城交通とひたちなか市が出資する第3セクターが2008年から運営する鉄道会社であり、湊線は非電化の単線路線である。

私はJR東日本に技術者として15年間勤務した経験をもとに、本コラムを執筆しているが、国鉄の分割民営化以降、LRT(近代的路面電車)以外の地方ローカル線が延伸されたという話は聞いたことがない。バブル崩壊後、景気の低迷や人口減少のあおりを食った形で、地方ローカル線のほとんどが存亡の危機にひんしている。

鉄道経営の特徴として固定費がかかるという問題がある。つまり、空でも電車は時刻表通りに動かさなければならないので、営業収入が無くても人件費やメンテナンス費用がかかる。ゆえに、旅客数の減少は直接純利益に影響するのである。

そのような厳しい経営環境のもとで、営業キロが14.3キロ、駅数が10駅の地方路線が2割以上延伸し、3駅も新設するというのは、無謀ともいえる計画のような気がする。現状を確かめるべく、体験乗車に出向いた。

黄金色に輝く干し芋が見えた!

JR常磐線勝田駅から乗車すると、2駅目の金上(かねあげ)駅辺りまでは住宅地の中を縫うように走っていく。この辺の風景は都心の私鉄とあまり変わらない。そこを抜けると、田園地帯の中を真っすぐひた走る。路線の半分以上は線形が直進ではないか、と思わせるのはこのあたりのせいであろう。

那珂湊駅に着くと、何となくローカル線の雰囲気が漂い、駅舎のたたずまいや人の気配もそれらしくなってきた。これで雪でも降っていたら、高倉健の「駅」を彷彿(ほうふつ)させるロケーションである。いや、「犬神家の一族」の旧作にもラストシーンでもこんなホーム上家があったような気がする。

終点の阿字ヶ浦駅舎

そんなことを考えていると出発時刻になり、ディーゼル車のエンジンがうなり始めた。ここから先は海岸線に沿って走ることになるが、風光明媚(めいび)というわけにはいかず、相変わらずの農村地域を走っていく。広大な畑作地帯はひたちなか名産の干し芋の材料となるサツマイモ畑であろう。

人家の周りのビニルハウスの中には、その干し芋が黄金色の輝きを放ちながら、所狭しと並べられているのが見える。そのビニルハウスの彼方に、突然、大きな観覧車が姿を現し始めた。ひたちなか海浜公園である。「結構遠いなあ」と考えていたら、終点の阿字ヶ浦駅に到着した。

今回の取材で、ひたちなか海浜鉄道に初めて乗車した。延伸の目的は、経営戦略として住民サービスだけでなく、観光客を取り込んで増収を図ることであろう。地域の日常を支えると同時に、観光のキーワードである「非日常」をいかにして演出していくかが今後の課題だ。(一級建築士)

《遊民通信》10 神秘体験記(1)奈良の二上山

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當麻寺曼荼羅(左)と二上山清水

【コラム・田口哲郎】

前略

この世には誰にも疑えない現実がある一方で、「信じるも信じないも、あなた次第」としか言えない超現実があります。神秘体験はそれを垣間見ることです。でも、自分が不思議だと思うことは他人にとっては不思議ではないことがあります。神秘体験を他人と共有することは難しいです。

5年ほど前に奈良を旅行しました。東大寺や平城京、薬師寺を観光しましたが、メインは二上山(にじょうざん)でした。折口信夫の小説『死者の書』を読んでぜひ行きたいと思っていたのです。山頂には大津皇子(おおつのみこ)の墓があります。物語は藤原南家の郎女(いらつめ中将姫)が大津皇子の亡霊に導かれて神がかりのように曼荼羅(まんだら)をひと晩で織り上げ、自らも極楽浄土に誘われるというもの。その曼荼羅は山麓にある當麻寺(たいまでら)のご本尊になっています。

二上山は藤原氏に所縁(ゆかり)深い場所で、藤原氏の祖・藤原鎌足が天皇のための清水を探し彷徨(さまよ)っていたところ、二上山で発見したという伝承があります。私の父方の家紋は藤原氏の家紋、下り藤です。長崎平戸藩の家老の家系ですが、たどれば藤原氏に行きつくはずです。

さて、二上山は標高500メートル程度ということで、簡単なガイドブックを頼りに上り始めました。二上神社口駅から山頂に行き、當麻寺方面に降りるというコースです。最大の過ちは持参したペットボトルに少量の水しか入っていなかったこと。

鎌足公の水? 癒しの清水

山頂には難なく着きました。大津皇子の墓に拝礼し下山する段で水が切れました。高尾山頂のように自販機はありません。仕方ないと歩き始めたら見知らぬおばさんに話しかけられました。當麻寺に行きたい旨を伝えると、「こっちが近道やで」と指さされた方に進みました。

ところが行けども當麻寺に着かず、断崖絶壁に行き当たり、出遭った人に聞くと當麻寺とはまるで反対方向だと言われ、山頂に戻ることに。その途中でも堂々巡りをして喉の渇きと疲労に絶望していました。すると水の音がします。湧き水です。清水が竹筒から涼し気に流れ落ちています。飲める水だと札が立っています。私は夢中で飲みました。

あれほどおいしい水はなかったです。渇きが癒され、力を得たら見落としていた道に気づき、進むと木漏れ降り注ぐ緩やかな林道になり、しばらくして當麻寺に着きました。當麻寺の曼荼羅を眺めているうちにハッとしました。あの水が鎌足公の清水だったのでは…。ここは藤原氏の山で、自分は遠い祖先に導かれて無事に曼荼羅を拝めているのではないか。

言葉にできない感覚に満たされ、阿弥陀(あみだ)仏の前で感涙を零(こぼ)しました。後で地図を見返したら、おばさんのお節介がなければ、水がある道には入れなかったことも分かりました。私はこれを神秘的体験だと思いますが、ただの偶然の連続とも言えます。この手の体験は当事者でない場合、信じるも信じないも、あなた次第ということになってしまいます。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

《映画探偵団》40 つくばセンタービルを展望する

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】「今日、真に躍動している中心的存在は科学と政治である。アートと建築は端の方に追いやられ、あたかも余分なもののように感じられる」(世界的建築家・アレッサンドロ・メンディーニ)

世界的な建築写真家・二川幸夫が「つくばセンタービル」にほれ込み、完成から10年後に全40ページの写真集『GA69』(1993年刊)を出版した。18~19ページに見開きで、ノバホール側から見たセンター広場とホテルの全貌が写しだされている。そして、ページ真ん中の奥の方にポツンと小さな「展望塔」が見える。

中心市街地の松見公園に立つ高さ44.4メートルの展望塔は、菊竹清訓の設計で1976年6月1日に開設された。外観から地元では「栓抜き」と呼ばれていたが、展望塔という素っ気ない名称になり、40数年前のつくばの雰囲気をよく伝えている。

この塔に登ると、筑波山とつくばセンター地区が一望できる。不思議なのは、センター地区のセンタービルに視線が向いてしまうことだ。展望塔が出来てから7年後、1983年6月10日に完成した高さ44.85メートルのセンタービル。この2つは一直線でつながっている。同じ時期の6月に完成、ほぼ同じ高さ、素っ気ない名称から、設計者・磯崎新は展望塔をリスペクトして、センタービルを構成したことが理解できる。

『GA69』には、メンディーニが文を寄せている。「何世紀もの歴史が凝縮した未來主義的エジプトスタイルが、たった一つの広場の回りに集められて、建築史の百科事典的シンボルになっている。それは俯瞰(ふかん)的な広い視野の中で作り上げた『信念』のユートピアと言うべきもので、そのユートピアは、現代の不安定さと混沌から類型的、様式的、制度的に保証する限りなく権威ある流れに反するものである」。

市川崑監督『おはん』の2人で1人

私がつくば市に越してきたのは1993年。写真集刊行と同じ年である。センタービルと展望塔の間に、デパートの映画館、新刊書店、レンタルビデオ店、図書館、美術館、喫茶店、古民家、市民ギャラリー、プラネタリウムなどが集まっていて感激しきりだった。

なかでも、展望塔近くに何軒も連なる古本屋街には何度となく通ったものだ。この2つの建築を結ぶ空間は、歴史と未來の物語が輝くアートゾーンだと思った。いや今でも思っている。

センタービルが出来た翌年、『おはん』(市川崑監督)という映画が公開された。古道具屋の幸吉(石坂浩二)が、ほとんど自己主張しない女房おはん(吉永小百合)と嫌いになったのでもないのに別れ、上昇志向で気の強い芸者おかよ(大原麗子)と一緒になる。しかし、ふとした拍子におはんと寄りが戻り、ラストではおかよと暮らすことになる。一人の男性が二人の女性の間を行ったり来たりする話である。

どちらの女性を好むかは人によるが、市川監督は二人合わせて一人の女性として描いた。地味ながら渋い作品に仕上がっていた。センタービルと展望塔の間を歩くと2つの建築物が一体であると感じられ、この作品がよみがえってくる。

破壊されようとしている壁と階段

今、センタービル広場の一角が破壊されようとしている。ホテル側にエスカレーターを設置するために、階段を造り替えてしまうからだ。そのため、展望塔に向いた壁が取り壊される。だが、その壁には人間の目の形をしたデザインが施されてあるのだ。広場中心にある噴水を見るこの目の形が無惨にも壊されてしまう。

ほかにも、「広場窓ガラス全部の取り替えが決まっているよ」とある人が教えてくれた。初耳だった。オープンハウスの説明会では聞かなかったからだ。つくば市は予算が余り、使いみちに困っているのだろうか。無駄遣いをして文化財を改造するのはよした方がよい。

あと2年でセンタービルは40周年を迎えるが、『GA69』を携えてつくばを訪れる建築愛好家がいたら、あまりの改造ぶりを見て涙を浮かべるに違いない。展望塔は、つくば市役所と市議と科学と政治を優先する市民の行為をジッと見ている。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

《土着通信部》44 UDフォントから始まるSDGsの行方

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オンライン調印式に臨んだ鈴木行方市長(左)=行方市・モリサワ包括連携協定資料

【コラム・相澤冬樹】行方市(鈴木周也市長)とモリサワ(本社・大阪市、森澤彰彦社長)が3日、「連携協力に関する包括協定」を締結したとのプレスリリースが届いた。行方(なめがた)は近隣のまちだが、NEWSつくばのカバーするエリアではない。でも地方自治体がなぜにモリサワ? とは、活字メディアに長く携わってきたものには興味あるところだ。

モリサワが扱うのは「フォント」。昔でいえば活字メーカーで、NEWSつくばの前身である常陽新聞も写植文字にモリサワを使っていた。しかし、行方に事業所や営業所があるとは聞いたことがない。

プレスリリースを読むと、「連携協力に関する包括協定」は地方創生とSDGs推進を目指すとある。同社による連携協定は関東の自治体では初めての事例と紹介している。

行方市は、総合戦略書に「情報発信で日本一プロジェクト」を掲げ、各種の課題に取り組んでいる。このなかで、モリサワのUD(ユニバーサルデザイン)フォントおよびMCCatalog+(多言語ユニバーサル情報配信ツール)の活用を図ってきたのだそう。これまでに職員研修を実施し、情報のユニバーサルデザイン化の浸透を図るなどの協力体制を開始しており、今後この動きを加速化するべく、協定の締結に至った。

UDフォントは筆者のパソコンにも教科書体が入っているが、UDが「ユニバーサルデザイン」とはついぞ知らなかった。より多くの人に、文字の形が分かりやすく、読み間違えにくく、文章が読みやすい―を目指して開発されたフォントということだ。

社会人を対象とした検証実験が昨年10月、同市も参加して行われ、UDフォントは特に40歳以上で読みの速度が約3.3%上がり、誤認を約5.3%回避できるという結果も得られた。

誰一人取り残さない情報発信

で、これがどう地方創生とSDGs推進に結びついていくのか? その要となるのが、MCCatalog+で、同市では2017年から利用している。広報紙、観光ガイド、地域情報誌など、あらゆる紙媒体をデジタル化し、スマートフォンやタブレット端末に手軽に配信できるクラウドサービス。インバウンド対応の多言語情報発信ツールでもあり、日本語・英語・中国語簡体字・中国語繁体字・韓国語・タイ語の7言語への自動翻訳ができ、多言語対応の音声読み上げ機能もついている。モリサワの仕事は「フォント」にとどまらないというわけだ。

配信した情報は、専用ビューア「Catalog Pocket(カタポケ)」で見ることができる。情報の電子化で環境に配慮する一方、外国人住民、文字読みに困難さを抱える人に向けた情報を整理し、配信量を増やし情報格差の軽減を図る狙いという。市は教育現場での利用拡大も進めている。

今回の協定について鈴木市長は「特に、情報発信分野で、一層、戦略的に推進することができるものと確信しています。『誰一人取り残さない情報発信』をキーワードとして、あらゆる協力体制を築くことにより、新たな地域活力の創出や行政サービスの向上が見込めるとともに、職員の働き方改革等にも繋がるものと考えています」とのコメントを出した。

ユニバーサルデザインやSDGsを取り上げた地域づくりは各地でさかんになっているが、入り口がフォントというのはユニークだ。行方バーガーとか、SNS「なめがた日和」とか、霞ケ浦の対岸にいても、その情報発信はいろいろ聞こえてくる。知恵者がいるに違いない。(ブロガー)

《続・平熱日記》79 看板を作ってアレコレ考えた

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【コラム・斉藤裕之】昨年の暮れに友人からゴルフ練習場の看板を作り直してくれと頼まれた。材料はいわゆるツーバイフォーという木材。ちなみにこのツーバイフォー、実際には2インチ×4インチではない。これは製材前の寸法だそうだが、仕上がり寸法、つまり売っているサイズは1センチほども違う。

ついでに、長さの単位はフィートだ。1フィートは約30センチで1尺に近いが、なぜかそれの12分の1が1インチだ。十進法と十二進法が混在していて面倒くさい、と思っていたら、日本のモジュールも6尺で1間という同様にひねくれた単位である。

もひとつついでに、多くの住宅はこの尺という単位でできているが、我が家はメーターモジュールで建ててある。例えば、母は150センチそこそこの背丈だったと思うが、カミさんは165センチ。予想していたわけではないが、我が家の女性3人は165センチを超え、流しに3人並ぶ後ろ姿は戦前なら大女たちのシルエットに違いない。

長さの単位はヒトの体が元になっているのだろうから、流しの高さを従来よりも10センチ高くして、すなわち尺からセンチに変えたのも必然だったのかもしれない。

「趣味は軽トラの方を少々…

さて、訪れたホームセンターの棚には、残り物のようなひん曲がった材料しかない。業界用語で板が曲がったり反ったりすることを「あばれる」と言い、「ケヤキはあばれっぺよ」なんて使う。(同じような状態を表す「ひわる」を普通に使っていたのだが、広島や山口の方言だと気づいたのは何年も前ではない)

次の入荷を待っていると年を越してしまいそうなので、仕方なく、あばれた劣等生たちをゴルフ場で借りた軽トラに積んだ。看板は3メートル×2メートルほどの大きさなのだが、文字をコンビニで拡大コピーし、カーボン紙を挟んで写し取り、ペンキで書いていくという超ローテク作業。あばれた板をいろんな道具で締め付けて、だましながら(平らにしながら)なんとか書き終えた。

コロナ禍で「看板を下ろす」いう言葉を耳にする。実は看板作りを依頼してきたのは大学の後輩で、美術の道を歩んできたのだが、訳あって家業の「看板を継ぐ」ことになった。幸いにも「打ちっぱなし業」はコロナ禍で繁盛しているそうだが。

その後、松くい虫にやられた木を一本倒してくれと頼まれて、その赤松の残骸を持ち帰るときに決めた。「おら、軽トラを買うだ!」と。「趣味は何ですか?」という質問に答えるのにいつも窮していたから、これからは「趣味は軽トラの方を少々…」と言おう。軽自動車といえば昔は360cc。つまり2合。車も当時は尺貫法で作っていたのか?

結局、出来上がった看板は、友人の手伝いで年内に無事取り付けることができた。ところで、近い将来、車も電気屋さんが看板を引き継ぐことになるのだろうか。ともかく私が軽トラでさっそうと現れる日もそう遠くない。果たしてその看板は、「何でも屋」? 「焼き芋屋」? 「ピザ屋」? 野望は膨らむ。(画家)

 

《邑から日本を見る》81 緊急事態宣言延長のあとはどうする

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畑で遊ぶ白鳥

【コラム・先﨑千尋】新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく2回目の緊急事態宣言は、さらに1カ月延長されることになった。初めてプロンプターを使っての記者会見の菅総理の姿は痛々しく映り、この人の体は、失礼ながらあと1カ月もつのかなと思ってテレビを見ていた。

1月の発令の時に1カ月で収束させると見えを切り、「私からの挨拶とさせていただきます」と結婚式の挨拶のように締めくくったことや、「1カ月過ぎて再延長もあるのか」という記者からの質問に「仮定のことについては私からは控えさせていただきたい」と答えたことに、私は、これは何だと思った。組織のトップは常に最悪の事態を想定し、その時どう対応するのかを部下に示さなければならない。その心構えがない社長がいたら即刻クビだ。首長も同じだ。

2月3日の東京新聞の「本音のコラム」欄に文芸評論家の齋藤美奈子さんが、「数のマジック」というタイトルで、東京都のコロナウイルス感染者が減り始めていることについて書いている。それによると、東京都や神奈川県は1月下旬に「積極的疫学調査の規模を縮小する」という通知を保健所に出した。積極的疫学調査とは、陽性者からの聞き取りで濃厚接触者を追跡する調査のことだそうだ。

要するに検査人数を減らすことだ。検査の母数が少なくなれば陽性者の数も減る。最近の夕方のニュースで東京都の陽性者がどうしてこんなに減ってきたのか疑問だったが、その謎が解けた。茨城県の発表でも検査総数(母数)を出していない。だから、陽性者の数の変化だけでは、本当にコロナに感染した人が減ってきたのかどうかはわからない仕組みになっている。おかしいではないか。

死者数が増えていたり、病院などに入れない調整中の人がかなりいることも伝えられており、現場からはすでに医療崩壊が起きているという悲鳴が聞こえてくる。

国民は菅内閣に愛想をつかした?

そうしたとき、与党幹部が銀座のキャバクラとかで規制された時間を大幅に超えて遊び、しかもウソをついていたことが暴かれた。首相自らも、暮れに二階自民党幹事長らと会食したことで頭を下げている。メディアの世論調査では内閣支持率が30%台に落ち込んでいることや、東京都千代田区長選、北九州市議選、鹿児島県西之表市長選などで与党が敗北した結果を見ると、国民が菅内閣に愛想をつかしたのでは、と受け取れる。

4日には、森喜朗東京オリ・パラ組織委員会会長が女性蔑視の発言をしたとか、菅総理の長男らが総務省の幹部を接待したとかのニュースが大きく伝えられている。「菅総理は首相、社長の器ではなく、せいぜい総務部長どまり。間違って首相になってしまったのは国民にとって悲劇」という週刊誌の報道もあるくらいだ。政府与党の危機管理ができていなければ内閣は滅びるしかない。だが、菅内閣が滅びただけではコロナ問題の解決にならないのだ。

ワクチンの接種も大事だが、特効薬ではない。その前に感染源対策。感染者を早く見つけ、隔離、治療すること。中国武漢のように、コロナ専門病院をつくり、そこに患者を集中させること。医療現場でやるべきことは、素人目にもたくさんありそうだ。(元瓜連町長)

《介護教育の現場から》4 重度訪問介護サービスのこと

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学生による茶道の練習

【コラム・岩松珠美】新型コロナの感染拡大に抑制がかからない。基礎疾患を抱える方や高齢などのリスクを抱えている人々には、感染予防の強化が求められているが、今回は介護保険法による訪問介護とは制度が異なる「重度訪問介護」を取り上げたい。障害者総合支援法による事業で、訪問介護員が利用者の住まいを訪問し、生活全般の援助を行う介護サービスである。

常に介護が必要とされる方(原則65歳未満)がこのサービスを受けることで、住みなれた環境で生活が続けられることを目指している。

対象は、「重度の肢体不自由、または精神障害・知的障害により行動上著しい困難があり、常時介護を要する状態」にある方。具体的には、交通事故などで四肢を欠損したり、脊椎損傷によって全身まひになった人や、筋萎縮性側索硬化症(ALS)やパーキンソン病などの難病にかかり、寝返りを打つことも難しいような重度の疾患を抱えている方が多い。日常生活を支えるために、3人の介護者が8時間・3交代が必要である。

現場に求められる人材の質

重度訪問介護の利用者数は年々増加しており、2016年は全国で1万463人に達した。この介護を担う事業所は、2016年時点で約7300カ所ある。訪問介護員は、居宅介護に従事可能な介護福祉士や介護職員初任者研修などの資格所有者、または重度訪問介護従事者養成研修修了者などである。

利用者によっては、家族がいる夜間は介護サービスを利用しないこともあるが、原則的には、利用者に必要な身の回りの援助のすべてに携わる。また、利用者ができることは見守り、援助の必要性が生じたときのために、利用者の近くで待機することも大切である。人工呼吸器装着の利用者の痰の吸引や胃ろうなど医療的ケアが必要で、コミュニケーションの難しい重度障害者のケアをできる訪問介護員は少ない。

訪問介護員と利用者の関わりで重要なことは、利用者と訪問介護員が1対1の対等な人間関係にあり、常にお互いを思いやることである。家族ではない介護者が極めてリスクが高い介護を請け負っている現実に、今のような時期だからこそ、介護の現場に要求される人材の質の高さにハッとさせられることがある。(つくばアジア福祉専門学校校長)