日曜日, 11月 9, 2025
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《法律かけこみ寺》21 法律トリビアの泉

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土浦市文京町の神龍寺山門(写真は本文と関係ありません)

【コラム・浦本弘海】本コラムは、生活にちょっと役立つ(かもしれない)法律マメ知識の提供をコンセプトとしているのですが、今回は役に立つ可能性のなさそうな法律トリビアを。

「法律」という言葉を聞くと、どのような印象をお持ちでしょうか? 「難しそう」とか「固い」というものが真っ先に浮かぶと思いますが、「長い」という印象をお持ちの方も多いのでは。

そこで、今回は短い法律をご紹介します。 なお、この知識を活かす機会は一度もないと思われますので、ご注意ください。

いちばん短い法律

さて、では以下に(多分)いちばん短い法律を。

▼陪審法ノ停止ニ関スル法律(昭和18年法律第88号、1943年)
 陪審法ハ其ノ施行ヲ停止ス

なんと条文にしてわずか1条、法律全体の文字数がたったの12文字です! ただし、附則(付則、法令の本体部分となる実質的な定めに付随して必要となる事項を定めた部分)も含めるとそれなりの長さになります。

ところで「陪審法? 日本は裁判員制度なのでは?」と思われた方は鋭い。これも法律トリビアですが、日本でも一時期(昭和3年から昭和18年、1928 – 1943年)、陪審制(市民から選定された陪審員が裁判に参与して、事実の有無などにつき判断する制度)が実施されていました。

ちなみに、陪審員は「事実の有無」を判断しますが、裁判員は「事実の有無」に加え量刑(刑の重さ)も判断します(法解釈は行いません)。

そして、陪審制を根拠付ける法律が陪審法(大正12年法律第50号、1923年)です。この陪審法は「陪審法ノ停止ニ関スル法律」で施行を停止されているだけなのですね。

ちなみにいつまで停止されているかというと、「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム」(附則3項)となっています。「今次ノ戦争」(第2次世界大戦)は終了したものの、「勅令」は今現在、定められていません。そして裁判員制度が平成21年(2009年)にスタートしています。

条文1条 附則なしの法律

ちなみに条文が1条で附則もない法律に、

▼失火ノ責任ニ関スル法律(明治32年法律第40号、1899年)
民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ在ラス

――があります。この法律は意外と重要です(縁がないことを祈ります)。

民法709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」という規定です。したがって、「失火ノ責任ニ関スル法律」により、「失火ノ場合」で「重大ナル過失」がないときは、損害を賠償する責任を負いません。

日本は歴史的に木造建築物が多く、火事による損害の賠償が高額になりやすかったという事情があり、「失火」の場合はまあ許してあげようということになりました。

ただ「重大ナル過失」があるときは許してもらえませんし、故意の場合はそもそも「失火」ではないので、やはり許してもらえません(当然かもしれませんが)。夏ではありますが、火の元には十分ご用心ください。(弁護士)

リケジョってどうよ? 女子中高生を対象にワークショップ 茨城県

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「理工系進路選択応援事業」ってマジ、カタクね!?(写真はイメージ)

理工系女子応援事業を進める茨城県が「リケジョワークショップ」の参加者を募集している。文系理系の進路選択で迷っている県内の女子中高生を対象にしたワークショップで、9月12日のウェブ開催に向けて、参加を募っている。

今回は、理工系分野で活躍する女性にインタビューを行い、その様子を撮影した「理工系進路選択応援動画」を制作、県内の女子中高生に広く配信するという企画。動画制作にあたって、文理選択や将来の進路選択に迷う女子中高生の意見を参考にしながら進めていくためのワークショップとなる。

9月12日にウェブ開催

対象は県内の女子中高生で、学年は問わない。ワークショップは9月12日午後2時から2時間程度のウェブ開催を予定している。

スマホやパソコンで、自宅や学校等から参加でき、県は「普段おしゃべりできない他校の生徒とも安心に交流ができる」とアピール。首都圏や県内の理工系学部の大学で実際に勉強している女子大学生も参加、受験勉強や進学後の実情について話が聞けるそうだ。

県の理工系女子応援事業は、「科学技術イノベーション分野における女性の参画拡大と次世代のグローバルリーダーの育成を目指し、理工系分野への興味関心と理解を深め、この分野への進路選択を促進させる」取り組みを掲げている。

詳細は県のホームページ。申込期限は9月4日まで。申し込みフォームはこちら

《吾妻カガミ》88 つくば市長の看板公約を検証する

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】車のトランクを整理していたら、段ボール箱の奥から「いがらし立青 つくば市長選 出馬表明 記者発表資料」(2016年8月2日)が出てきました。A4判1枚の発表文では、筆頭公約に「運動公園問題の完全解決」を掲げ、具体的には「予定地は就任後直ちにURと返還交渉を行う」「陸上競技場は適切な場所・規模・方法で確保する」と書かれていました。

今回のコラムでは、五十嵐さんの看板公約ともいえる、この運動公園問題を検証します。具体的公約「陸上競技場…確保」については、本サイトの記事「陸上競技場基本構想会議が初会合」(7月31日掲載)をご覧ください。青字部をクリックすると、問題の経緯・現状・予定がレポートされています。

記事によると、基本構想会議が7月末に開かれ、11月上旬開く予定の会議で、陸上競技場の場所や規模などを詰めることになったそうです。これには、五十嵐さんはこの4年間一体何をやっていたのか、11月上旬って市長選(10月25日)が終わってからではないかと、思わず笑ってしまいました。

といって、何もしなかったわけではありません。廃校になった高校の跡地に、中学生の公式競技ができるレベルの陸上競技場を造る案はありました。しかし、立地、規模、規格などで構想会議の支持は得られず、市はこの案について「一つの事例研究」と弁解したそうです。4年も経つのに、どこにどんな競技場を造るのか、何も決まっていないということです。

「運動公園問題の完全解決」は完全未解決

具体的公約「予定地…返還交渉」については、市長就任後に無理であることが分かりました。市とUR(都市整備機構)の契約書には、既契約に瑕疵(かし)がなければ過去に遡(さかのぼ)って契約を変えることはできないと、記されていたのです。

それなのに、出馬の際には「就任後直ちにURと返還交渉を行う」と宣言していました。「1丁目1番地」の公約に掲げながら、再交渉が可能かどうか、市の担当課に聞くとか、情報公開を求めるといった基本動作をしなかったようです。結果、「予定地…返還交渉」は実現可能性ほぼゼロの公約になり、先の市長選を大きく歪めました。

具体的公約「陸上競技場…確保」にちょっと戻ります。市議の多くは、市が民間に売却しようとしている運動公園予定地に、陸上競技場を持ってきたらどうかと提案しています。この案は五十嵐さんの具体的公約「予定地…返還交渉」と矛盾しますから、市長への忖度(そんたく)も生み、構想会議の議論はかなり歪んだものになるでしょう。

これまでの検証で、五十嵐さんの看板公約「運動公園問題の完全解決」が完全未解決であることが明らかになりました。また、調査不足の公約で市長選が歪められたこと、さらに、陸上競技場検討作業が歪められるであろうことも明らかになりました。これら選挙と行政プロセス(流れ)での歪みは、市政に対する信頼を損ないます。目玉公約は実行されなかっただけでなく、重い後遺症も残したわけです。(経済ジャーナリスト)

《沃野一望》18 伊東甲子太郎の2 新選組の甲子太郎

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かすみがうら市志筑方面から望む筑波山

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

元治元年(1864年)11月、常陸国筑波山の麓、志筑村出身の伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)は、婿入りしていた江戸深川佐賀町の伊東道場を見捨て、門弟7人とともに、京へ出立した。東下してきた新選組局長近藤勇の熱心な勧誘に応じ、新選組に加わるためだった。

余談になるが、元治元年11月といえば、この欄で前々回まで連載した藤田小四郎たち水戸藩天狗党が、常陸国大子町より西上の途についた秋、時代はまさに沸騰点。

新選組は、無理やりおしつけられるかたちで就任した京都守護職会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)の支配下におかれた武闘殺戮集団。伊東甲子太郎が、近藤局長に入隊を誘われたころになると、あまりに過激な戦闘の日々に、戦死、負傷、切腹、逃亡があいつぎ、隊士が60人ほどに減っていた。成り上がり者集め集団の組織力・機動力は、いちじるしく低下していた。近藤勇は、勢力回復のため、やみくもに人材をもとめていた。

そこへ、伊東甲子太郎たちが入隊する。

入隊時の約束通り甲子太郎は、副長土方歳三(ひじかた としぞう)と同格扱いの「参謀」に処遇されると、隊内でその存在感をめきめきと発揮してゆく。

剣の冴えはもとより、尊王攘夷思想にうらうちされた明晰な弁舌、さらには、それまでの新選組気風になかった、ひとりひとりの配下隊員の活動を尊重する組織作りで、古参隊員の信頼さえ獲得していった。

新興理論派VS正統武闘派

いつしか新選組は、伊東甲子太郎派(新興理論派)とアンチ伊東派(正統武闘派)という二極構造の組織になっていった。アンチ伊東派の筆頭は、土方歳三。あらゆる局面で、議論を毛嫌いした。尊王攘夷の是非を論ずる以前に、論ずること自体を受け入れない武骨だった。

「斬って、斬って、斬りまくれ、それが、すべてだ」。土方の猪突猛進は、それはそれで、殺人集団新選組本来の目的を実践してゆく本流であり正論だった。日ごとに、伊東と土方の対立は深まってゆく。

戦闘で敵を討ちもらし負傷を負った隊士に土方は、隊規にのっとり切腹を命じたが、甲子太郎は、隊規を無視してかばった。「傷をなおして、また活躍すればよい」。一命を救われた隊士は、甲子太郎に心酔し、以後の行動をともにしてゆく。

局長の近藤勇は、両者をそれぞれに都合よく使いまわした。本来の武闘の場面では土方を、殺戮(さつりく)戦にかりたてる一方、ひそかにあこがれる学問、論説の静の分野では甲子太郎を尊重した。

伊東甲子太郎に増長の勇み足があった側面は否定できない。次第に、隊の本流から遊離してゆく。新選組をのっとってしまうのか、新選組と訣別(けつべつ)するのか、はたまた土方に斬られるか。甲子太郎に、進退の決断がせまられていた。折から、孝明天皇が崩御。御山陵が東山に築かれる。(作家)

【語り継ぐ 戦後75年】③ 物言わぬ証言者 予科練生の遺品を収集

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人間魚雷「回天」で出撃した特攻隊員のパネル前に展示されている特眼鏡(下の細長い筒)について説明する行方滋子さん=阿見町青宿、陸上自衛隊武器学校内の雄翔館

予科練戦没者の遺品や遺書を保管、展示する「雄翔館」が、阿見町青宿、陸上自衛隊武器学校内にある。第2次世界大戦中、予科練生を訓練した土浦海軍航空隊があった場所だ。特攻隊員として出撃した少年らを訓練し、約1万9000人の死者を出した。

陸上自衛隊事務官として武器学校に勤務する行方滋子さん(48)は10年ほど前から、インターネットオークションなどで予科練の遺品を自費で収集している。

2009年、武器学校広報援護班に異動となり、雄翔館の案内を担当したことがきっかけ。来館者にきちんと伝えたいと予科練について勉強し、10代後半の予科練生たちがどう生きたのか、真実を正しく伝えたいという思いを強くした。

これまでに収集した遺品は、人間魚雷「回天」の特眼鏡(潜望鏡)、予科練で使用された教科書、日の丸の旗に書かれた寄せ書き、割られた杯(さかずき)、当時のアルバムなど240点に及ぶ。杯は、水杯として出征時に割られ神社境内に埋めたものを、後日、母親が掘り起こして金継ぎし保管していたものだという。「母親は、割った杯を継いで元に戻せば息子が帰ると信じていたのだと思う」と行方さん。

予科練にまつわる全国各地の戦跡を回り、生存者や遺族なども訪ね歩いた。「回天」の訓練基地だった山口県大津島、米軍の機銃掃射を受け貨物船に乗船していた予科練生82人が犠牲になった兵庫県淡路島、特攻隊の出撃基地だった鹿児島県知覧や鹿屋などを訪ねた。

さらに生存者や遺族15人ほどの証言を集めた。初めて証言を聞いた元予科練生は、2013年に96歳で逝去したかすみがうら市の角田和男さんだった。太平洋戦争時、撃墜王と呼ばれた海軍中尉で、戦争末期には特攻機を目的地まで援護する役割の直援機でたびたび出撃した。戦後は開拓農民として農業に従事する傍ら、遺族を訪ねたり、南方で慰霊を行うなどした。

訪ねた行方さんに角田さんは、上空で体当たりする特攻隊員を見送ったときの様子や、翌朝の出撃を控えた隊員らと共に過ごした様子を語ってくれた。なぜ海軍は特攻隊をつくったのかについて角田さんは、神風特攻隊の創設者の1人、大西瀧治郎中将について触れ「フィリピンの戦いで一矢報いて講和にもっていき、戦争を終わらせるためだった」と語った。しかし戦争は終わらなかった。

特眼鏡で最期に見た景色

行方さんが収集した遺品は自宅に保管してあるが、回天の特眼鏡は今、雄翔館内の予科練生、北村十二郎の写真パネル前に展示されている。

北村隊員は1945年6月、回天で出撃しマリアナ東方海域で消息を絶った。「回天は一度出撃したら命はなかった。隊員たちが特眼鏡を通して見た最期の景色がどんなものだったか、遺品を通してさまざまな思いを伝えていけたら」と行方さんはいう。

雄翔館は、予科練出身者や遺族などでつくる「海原会」(東京都品川区)が管理している。しかし海原会自体、1973年の創設時は8000人いた会員(うち予科練出身者6000人、遺族2000人)が、現在は創設時の10分の1を下回り、700人以下になっているという。

海原会事務局長の平野陽一郎さん(69)は「予科練の生存者も90歳を超え、予科練生を直接知る親やきょうだいなどの遺族も亡くなってしまったか、高齢化している。武器学校のOBなどにも呼び掛け、一般の思いのある人を募って海原会の会員に迎え、つないでいきたい」と語る。

雄翔館。隣に阿見町の予科練平和記念館がある

世代交代で散逸の危機

予科練の遺品や遺書は戦後、親やきょうだいの手で大事に保管されてきたが、親が亡くなり、きょうだいが高齢化する中、世代交代をきっかけに、廃棄されたり、インターネットオークションに出品されるケースが増え、散逸の危機にあるという。

行方さんは現在、海原会参与・同霞ケ浦副支部長としても活動する。「遺品は物言わぬ証言者。戦没者の思いがこもった遺品が葬り去られないようにしたい」と話す。

《続・気軽にSOS》67 暑いから汗をかくの?

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【コラム・浅井和幸】先に答えを言うと、「暑いから」ではなく、「熱いから」です、という先日の会話をお届けします。

A君「暑いっすねぇ。梅雨なんて早く明けろなんて言ってた自分はどこ行った?ってぐらいに、早く夏が過ぎて欲しいっす」

浅井「ははっ、そうだね」

A君「もう、汗かきっぱ、水飲みっぱ」

浅井「若いからねぇ。汗もドンドン、かくといいよ」

A君「若いから?」

浅井「うん、歳をとると、汗の量が少なくなるらしい。足とか体の下から、汗の量が減ってくるってさ」

A君「へぇ。それって心理学っすか?」

浅井「そんなわけないでしょ。生理学の類かな?わかんないけど。ところでさ、どうして汗をかくんだろうね」

A君「そんなの、暑いからに決まってるじゃないっすか」

浅井「なにが?」

A君「なにがって、気温とか、室温とか」

浅井「うん、そうだね。それも要因にはなるかな?」

A君「なにかのひっかけ問題ですか?」

浅井「いやいや、いつも俺が意地悪をするわけじゃないよ。じゃ、別の質問。汗を止める方法は何?」

A君「それは、エアコンに決まってるでしょ」

浅井「そうだね。エアコンで涼しければ、汗はおさまるね」

A君「それ以外ないですよ。あっ、うちわであおいでも汗はとまる。危ない、また上げ足を取られるところだった」

汗が蒸発するとき体温を奪っていく

浅井「いやいや、意地悪じゃないって。じゃ、寒い冬にマラソンをしたらどう?」

A君「あれ?汗かきますね。寒いけど。熱いから」

浅井「何が熱い?」

A君「体が」

浅井「そうだね。暑い夏に、プールに入り過ぎて唇が青くなるような体験はない?」

A君「自分はないっすけど、クラスメートでは昔いましたね。ブルブル震えてました」

浅井「そう、プールで体が冷えたから、気温が暑いのに汗をかくどころではなく、体を温めようと震えちゃう」

A君「なんか分かってきた気がします。外や部屋が暑いから汗をかくだけではなく…」

浅井「…」

A君「もう、意地悪しないで教えてくださいよ」

浅井「だから意地悪じゃなくて、考えることも大切なんだって。ま、いいか。汗をかくのは、体温が高いから、それを下げるために発汗するんだよ。気化熱っていって、汗が蒸発するときに体温を奪っていくんだ。体温調節で、気温が低くても汗はかくし、気温が高くても震える」

A君「で、それは、何かいい話になるすか?」

浅井「特にするつもりはないけど、そう言われると何かにこじつけたくなるね。そうだな…汗が出るほど暑いときに、エアコン調整ができなければ、タライに水道水入れて足を突っ込んでもよいし、ペットボトルに入れた水を凍らせて、タオルを巻いて体に当てるとよいよ」

A君「それ、いい話ではないです」

浅井「もう、面倒だなぁ。人は原因を固定観念でとらえて間違ってしまうと、固定された対処法、間違った対処法しかできなくなるよ」

A君「おっ、なんとなくよい話になった」

浅井「はいはい、ありがと」(精神保健福祉士)

コロナ対策商品券を162人に重複発送 つくば市

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つくば市役所

【鈴木宏子】コロナ禍の緊急経済対策の一つとして、つくば市が計約8万7200人に配っている1人5000円分の「市民生活応援商品券」について、同市は14日、162人に重複発送してしまったと発表した。

市こども政策課によると、8月12日に2回目の発送をした際、4月16日から同30日の間に出生届を出した108人と、5月1日から6月30日の間に県内に転出した54人に重複発送した。

出生した108人については、7月30日の1回目の発送で住民登録をもとに配ったのに、2回目の追加発送の際、確認を怠ったのが原因という。

転出した54人については、1回目は市内の前の住所に発送し、2回目は転出先に再度、発送してしまったという。

13日に複数の市民から、重複して商品券を受け取ったと市に連絡があり、重複発送が判明した。

同課は14日までに162人全員に電話して謝罪した。重複発送分は回収するとしている。

商品券は、8月1日から11月30日までの間に、市内の約800店(7月末現在)で利用できるもので、18歳以下の約4万6000人と、70歳以上の約3万7000人、障害者約4200人の計8万7200人に配布している。

コロナ禍で影響を受けている家庭や地域経済の支援が目的で、事業費は総額4億3600万円に及ぶ。

5月1日時点でつくば市に住民登録をしている市民が対象だが、0歳児については7月31日生まれまで対象を広げており、追加で発送作業が実施されている。

つくば市またワースト1位 4月の待機児童数

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【山崎実】県子ども未来課が4月1日現在でまとめた県内の待機児童数は193人で、市町村別では昨年に続きつくば市の42人が最も多かった。次いでつくばみらい市30人、取手市と阿見町が各24人。県南地域の待機児童数が123人と全体の64%を占めた。

県全体の待機児童数は昨年同期(345人)と比べ152人減少した。つくば市は減少幅が89人と最も多かったが、ワースト1解消に至らなかった。

待機児童の内訳は、0~2歳児が157人と81.3%を占め、3歳児以上は36人(18.7%)となっている。

県は、待機児童の発生要因として、女性の就業率向上による入所希望者の増加と、追いつかない保育士不足を挙げ、保育の受け皿拡大と、保育人材の確保に取り組んでいくとしている。

具体的には、国の保育所整備交付金などを活用し、地域の実情に応じた保育所、認定こども園、小規模保育施設などの整備や、家庭的保育事業所の増加を図り、市町村の保育受け皿の整備を推進していくとしている。

また保育人材の確保では、いばらき保育人材バンクや保育士修学資金貸付制度など、各種施策を積極的に展開、運用して確保に努めていく考え。

市町村別待機児童数
順位市町村名待機児童数
1つくば42
2つくばみらい30
3取手24
3阿見24
5水戸23
6下妻11
6那珂11
8ひたちなか10
9古河8
10土浦2
10神栖2
10鉾田2
10東海2
14常総1
14守谷1
 193
2020年4月1日現在

《土着通信部》40 根本健一さんのつくばスタイル

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在りし日の根本健一さん=2017年12月、筆者と旅した高松で

【コラム・相澤冬樹】音楽はクラシック党、名画を求めてエルミタージュやフィレンツェの美術館を訪ねたりしていたから、こと芸術に関しては本格志向だった。それでいて新奇さや前衛に傾倒する新しもの好きで、学生や若いアーティストにパトロンじみた支援も行うなど、鄙(ひな)には稀(まれ)な人物だった。鄙―つくば市吉瀬の田園を「ルーラル」と呼んで、筑波研究学園都市の「アーバン」と対置する取り組みを行ってきた根本健一さんが4日、亡くなった。66歳だった。

今の筑波都市整備の前身、第3セクターの筑波新都市開発で竹園や天久保のショッピングセンター開発に取り組んでいた根本さんが退職し、吉瀬の自宅の長屋門で画廊を始めたのは30歳前後、80年代の初めだったと思う。鄙に戻って家業の農家を本格的に継ぐのかと思えば、口にしたのは「農村業」への転身だった。

3セクはデベロッパーだったから、身に着けた不動産業の知識を農村に合った形で事業化する展開を考えた。科学万博のあった85年を契機に退職、長屋門を構えるほどの旧家の母屋はやがてレストランとなり、自宅周辺の小家屋は陶芸工房や貸しオフィス、美術学生のアパート兼作業場として提供された。

平成になると、事業は吉瀬集落からつくば市周辺に及ぶ。吉瀬には林間のオートキャンプ場「フォンテーヌの森」を開設、「アウトドアライフ」やら「RV車」などがトレンドワードとして急浮上していた時期で、時代の先取り感はあった。「グリーンツーリズム」や「クラインガルテン」など農村業にまつわる横文字には即座に反応し、企業化を図ったが、イチゴの水耕ハウス栽培など空回りすることも少なくなかった。

農村のストックを付加価値の先頭に

高度経済成長が続いた80年代まで、農村の都市化は不可逆的で、学園都市周辺の農村部はいわゆる「混住社会」というとらえ方をされていた。しかし「混住」は過渡期の姿ではなく、地域社会の1つのありようであることが、まさにつくばで明確になってきた。根本さんは筑波大学をはじめとした都市計画、地域計画の専門家、芸術家たちと交流するなかで、手法や考え方を学び、地域のなかに具体的に落とし込む作業に没頭した。

2005年のTX(つくばエクスプレス)開業に前後して唱えられた「つくばスタイル」こそ、混住モデルの提示と言えた。このブランドづくりに一役買った根本さんは「CROSSつくば」06年1月号に「つくばスタイル 新・田園ライフの提案」を書いている。「農村のストックを付加価値の先頭に登用する」と市民農園への「モービルホーム」係留などの展開法を提示した。

新しもの好き、根本さんの先取りはいかんせん早すぎたのかもしれない。根本さんの好んだカタカナ言葉、「グリーンツーリズム」も「モービルホーム」も「古民家リノベーション」も、今は地域づくりのツールとして普通に使われるようになった。しかし、時代が追いついてきたとき、根本さんは生き急ぐかのように逝ってしまった。

心臓に持病を抱え、昨年11月脳梗塞に倒れた。以来丸9カ月に及んだ闘病生活。コロナ禍で周囲の面会もままならないなか、家族だけが看取る静かな死だった。

葬儀で井坂敦実さん(最後の筑波町長、元つくば市教育長)は、長い付き合いを振り返り「みんな中途半端になった」、叱るように早すぎる死を惜しんだ。(ブロガー)

【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

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「土浦からの便り」を手に著者の松岡義和さん=北見市・絵本美術館

【相澤冬樹】松岡義和著「土浦からの便り」という本がある。サブタイトルは「北見出身海軍予科練習生の記録」、1992年に北海道の郷土出版社、北見叢書から刊行になった。土浦市立図書館に照会すると蔵書になく、県立はじめ県内の図書館を検索できるレファレンスサービスでも所蔵を確認できなかった。ネット経由で取り寄せると共に、著者の健在を聞いて、北海道北見市に松岡義和さん(82)を訪ねた。

七つボタンの下は傷だらけ

著作にいう「土浦」は、土浦海軍航空隊、いわゆる「予科練」のこと。1939(昭和14)年、阿見町青宿の霞ケ浦畔に設置され、全国から志願してきた14歳半から17歳までの少年を試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をした。戦争末期には神風特別攻撃隊(特攻)の主力となった。予科練出身の戦没者は1万8564人を数える。基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)になっている。

「便り」は、1943年6月に15歳で海軍予科練習生(甲種12期)として入隊、45年4月28日に沖縄戦で特攻死した竹村久志が、北海道訓子府町(くんねっぷちょう)の実家に書き送った25通の軍事郵便と2通の遺書に基づいている。配属された名古屋海軍航空隊で書かれたものや、出撃基地となった鹿児島国分第二基地で書かれたものも含まれるが、「北海道では予科練といえば土浦が代名詞、逆に土浦といえば今も予科練以外のイメージは浮かばない」と松岡さん。同じ時期、北見地方から入隊した予科練生数人の足跡も追っている。

現在、北見市で私設の絵本美術館を運営している松岡さんは名寄短期大学の元学長、劇作家や画家の肩書もある。竹村はその叔父に当たる。松岡さんの母親の実家が竹村家で、12人の兄弟姉妹の長姉、久志が末弟だった。

竹村家に男子は4人いたが、長男(茂)はビルマ、2男(信雄)は北支、3男(実)はシンガポールに出征しており、4男(久志)が軍人になるには志願する以外になかった。家業の雑貨店は戦時中、母親のツタ(1974年没)、妹の佐津子ら残った女性たちで細々と維持していたが、やがて売る品もなく廃業した。兄3人は戦後復員している。

松岡さんは、年齢が10歳しか離れていない叔父の久志を兄のように慕った。1944年1月、ふるさと訓子府に最後に帰省した日のことを、国民学校1年生だった松岡さんは今も克明に覚えている。七つボタンのりりしい制服姿を見に、雑貨店の店先には人だかりができたという。

名指しされ、得意になって一緒に風呂に入ったが、流した背中は傷だらけだった。海軍精神棒、通称「バッター」による罰打をはじめとする過酷な訓練(制裁)による傷跡は、自身の母親には到底見せられない姿だったのだ。

執筆に当たって松岡さんは、土浦に2度足を運んだ。竹村久志が「下宿」とよんで、休日にあそばせてもらった布川屋(土浦市川口)を探しあてたりしている。焼き鳥店の若主人から「裏の長屋のおばさんが予科練の若者を世話していた」という話を聞くことが出来た。おばさんは他界していたが、姓は松井か吉井だったという。

後列右から2人目が竹村久志。北見中学時代の友人と=同書から(渡辺清氏提供)

2通の遺書の意味

竹村久志は2度特攻出撃をしている。一度目の出撃のとき、どこの島かは記されていないが不時着し、島民に救助されて一度は帰還したと軍事郵便の中にある。搭乗したのは九九式艦上爆撃機。複座に操縦と偵察の要員2人が乗ったが、戦争末期には機体を軽くするため偵察関係の機器類はすべて取り外されていた。「久志は偵察要員だったから、やれる仕事がほとんどない。どんな気持ちで片道燃料の飛行機に乗ったのか」と2通の遺書を読み返す。

前略 色々お世話になりました。愈々(いよいよ)これが最後です。お母さん皆様お元気で。白木の箱が届いたならば、たいした手柄はたてないが泣かずにほめて下さい。
桜の散る頃に散るのは本望です。遺品は皆下宿にあります。ひまの時に取りにきて下さい。挙母(ころも、現在の愛知県豊田市の町名)に来たら下宿と愛知さんのお母さんの所まで行って下さい。
佐津子も体に気を付けろ、皆様お元気で、さようなら。
 国分航空基地にて 久志より

故郷のお母さんへ
整列の声がきこえます。今出ます。出撃だ! スクヤケ

松岡さんは出版後も、2通の遺書にこだわり続けた。1通は万年筆でしっかりとした楷書で書かれていたが、もう1通はざら紙に鉛筆の走り書きで、文も短く、左端に「スクヤケ」と書かれていた。「スクヤケ」は「すぐ焼け」のことだと推察したが、なぜ焼かなければならないのか、すぐには理解出来なかった。

後に特攻隊に関する書籍、記録文献、報道番組などによって、鹿児島県内の特攻隊基地のうち、陸軍は知覧から、海軍は鹿屋と国分から、それぞれ出撃したと知る。陸軍では、機体のエンジン不調や敵艦隊を発見出来ず不時着した生存者は、知覧近郊の「寺」に収容され2度と出撃することはなかった。死んだ者として、敗戦の日まで寺で写経などをして生き残ったと聞かされた。

ところが、海軍特攻隊は一度遺書を書いた者は、戦死者として2度と遺書を書くことを許さなかったと松岡さんは断じる。だから、2度目の出撃の時は隠れて鉛筆で走り書きをして、戦友か見送りの婦人会の人に頼んでふるさとへ送られてきた。それが「スクヤケ」の意味だと解せた。

自身が関わる北見叢書はことし結成30周年。叢書は18集まで数え、うち4冊が戦争をテーマにしている。しかし、ここ数年刊行が止まっている。松岡さんは「もう久志の話は書き足すことがあまりない。戦争については、あの時代の関係者や話を伝え聞いた縁者まで多くが亡くなってしまった」と残念がった。

取材後、松岡さんから郵便が届いた。新書判の「土浦からの便り」が同封されていて、「土浦の図書館に届けてほしい」旨信書が入っていた。土浦市立図書館に持参したが、扱いがどうなったか返事はない。

《映画探偵団》34 仮面ライダーの聖地を守れ!

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【コラム・冠木新市】1971年に始まったTV映画『仮面ライダー』シリーズは、来年で50周年目を迎える。この間、何度か映画化もされ、世界中に多くのファンを獲得してきている。仮面ライダーとは、世界征服をたくらむ秘密組織ショッカーが、本郷猛という青年を科学技術で改造しようとした怪人である。しかし、完全に改造される前に脱出、逆にショッカーと戦う正義のヒーローとなった。

仮面ライダーを作画した漫画家・石森章太郎は、バッタの目玉と髑髏(どくろ)を混ぜ合わせた顔をもつ不気味なキャラクターに仕立てた。放映当初の人気は今一つだったが、本郷猛が腕を高く上げ、「変身トゥーッ!」の気合いで仮面ライダーとなり、サイクロン号のバイクに乗り、自分と同類の奇っ怪な敵をライダーキックで倒すうちに、子どもたちに爆発的な人気が出た。

その後、仮面ライダー2号、V3と続々仲間が誕生し、現在に至っている。これらの仮面ライダーと怪人たちが戦いを繰り広げるロケは、30年ほど前から幾度となく、つくばセンタービルで行われきた。原始的でもあり近未来的でもあるセンタービルは、善と悪が陣地取りするのには絶好の背景なのだ。

私も『仮面ライダー』の撮影現場を度々目撃している。いや撮影だけではない。仮面ライダーは「まつりつくば」などのショーにも出演し、センタービルと一体感のあるお馴染みのキャラクターとなっている。また仮面ライダーのゲームにも、リアルに描かれたセンター広場やノバホールが出てくる。つくばで暮らす私には、現実と虚構が溶け合った奇妙な空間となっている。

特撮ファンは、茨城県魅力度最下位の報道に接したとき、おかしいと感じたはずである。センタービルは仮面ライダーの聖地として全国で認知されていたからである。

センタービル秘密改造計画が進行中?

日本全国が新型コロナで苦しんでいる最中、「NEWSつくば」の記事(6月26日掲載)を見て驚いた。センタービルの改造計画が進んでいたからだ。さらに、続報で広場に屋根が付けられると知ってあ然とした(6月28日掲載)。思わず「広報つくば」6月号を取り出し見てみたが、センタービル改造計画の記事はなかった。

これまで、市報では「総合運動公園計画」「クレオ再生計画」は大きく取り上げられてきた。それが今回はなぜか沈黙している。また、2年前には中心市街地活性化で騒いでいた市議がピタッと口を閉ざしている。最近、投げ込まれ始めた市議選用と思われるチラシでも、改造計画の件は無視されている。これは一体どうしたことなのか。情報を市民に知らせないようにして、なるべく秘密主義で改造計画を進めているのかと勘ぐりたくなる。

45周年記念『仮面ライダー1号』(2016)をレンタルビデオ屋で借りてきた。この作品では、本郷猛とともに悪の組織ショッカーも出てくるが、そこから分裂したノバショッカーなる組織も登場する。

ノバショッカーは「世界征服」は時代遅れと宣言し、「経済による支配」を考えるビジネス集団であり、日本の国と契約書を交わす合法的な(?)悪の組織なのだ。しかし単なる力まかせのショッカーをあざ笑いながら、力で攻撃する極めて矛盾した組織である。昭和の仮面ライダー1号は、平成の仮面ライダーと協力してノバショッカーを倒す。

つくばセンタービル改造計画を考えた人たちは『仮面ライダー』を見て育った世代であろう。いつの間にか正義の味方ではなく、ショッカー、いやノバショッカーみたいな大人になってしまったのだろうか。虚構世界の仮面ライダーは、これまでセンタービルで様々な怪人たちと戦ってきた。今度は、現実世界の仮面ライダーファンが、つくばセンタービルの聖地を守るために戦いを開始するのではないだろうか。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

コロナ禍困窮の受験生を応援 学費を最大4年間免除 筑波学院大

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筑波学院大学=つくば市吾妻

【鈴木宏子】コロナ禍で家計が困窮し大学進学を断念せざるを得ない受験生に、進学をあきらめないでほしいと、筑波学院大学(つくば市吾妻、望月義人学長)は来年度から、学費を最大で4年間免除する新たな特待生制度を開始する。

①高校の推薦を受けた成績優秀な生徒に、最大で入学金20万円と4年間の学費436万円の計456万円を免除する「指定校特待生推薦制度」と、②情報技術と英語の資格試験合格者にそれぞれ、最大で入学金のほか1、2年次の授業料を半額免除する「資格特待生制度」を創設する。

同大は現在も、入試の成績が優秀な学生を特待生として、初年度の授業料(71万円)の半額を免除する「一般特待生制度」を実施している。2021年度からはこの制度を大幅に拡大する。新制度は、経済的に困窮している家庭の生徒だけでなく一般の成績優秀な学生も対象となる。

「指定校特待生」は、同大が指定する県内外の167校の生徒が対象。同大を第一志望とし、校長が推薦する成績優秀な生徒に入学金や授業料を免除する。ただしテキスト代などは必要で、3年生に進級する際、成績等による再審査を実施する。

「資格特待生」は、新たな情報社会、Society(ソサエティ)5.0時代とグローバル化時代に活躍する人材を育てるため、情報処理技術者試験のITパスポート試験と、英検2級の合格者にそれぞれ入学金や1、2年次の授業料の半額を免除する。対象は各資格試験とも10人程度を見込んでいる。

同大は、経営情報学部ビジネスデザイン学科に「グローバルコミュニケーション」「ビジネスマネジメント」「地域デザイン」「メディアデザイン」「情報デザイン」の5つの履修コースがある。募集人員は計200人で、入試は学校推薦型選抜(推薦入試、募集人員50人)、一般選抜(一般入試、70人)、総合型選抜(AO入試、80人)がある。

詳しくは同大入試グループ(電話029-858-4811、Eメールnyushi@tsukuba-g.ac.jp

夏休みの思い出づくりに スタジオ’Sが工作・イラストをウェブで提案

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ガーランドカレンダーの完成見本(スタジオ’Sホームページより転載)

【池田充雄】関彰商事(関正樹社長)が地域の文化創造の場として運営している、つくば市二の宮のスタジオ’Sが「夏のキッズアート体験 2020-ONLINE(オンライン)」を開催中だ。家の中で楽しい時間を過ごすことができ、夏休みの作品づくりにも適している。

「キッズアート体験」は2016年から毎年夏と冬に体験型のイベントとして開かれてきたが、今夏は新型コロナウイルスの感染が拡大している状況から、ウェブでの開催となった。

シャカシャカカード(同)

2つあるプログラムのうち「おうちでワークショップ」は、家庭でできる3種類の工作メニュー「ガーランドカレンダー」「シャカシャカカード」「ビー玉めいろ」を紹介している。いずれも厚紙や段ボールなどを材料とし、型紙はスタジオ’Sのホームページからダウンロードできる。完成した作品や工作中の様子を写真に撮って投稿すると、オリジナルのスマホ壁紙がもらえる。また投稿写真のうち選ばれたものは、インスタグラムやホームページに掲載される。

ビー玉めいろ(同)

もう一つのプログラム「みんなでつくろう!こどもおえかき水族館」は、中学生以下を対象に、海の生き物のイラストを募集し、集まった作品をスタジオ’Sの壁に飾って、大きな水族館アートを作ろうというもの。募集は31日まで、公開は9月14日からホームページや各種SNSなどで行う。応募者の中から抽選で、自分の作品をプリントした水筒やトートバッグなどがもらえるプレゼント企画もある。

コロナ禍の今年は夏休みが短縮され、つくば市の小中学校は8月1日から23日、土浦市は8日から23日までが夏休みとなっている。加えて今年は地域の行事や催しが軒並み中止となり、旅行や帰省などを取りやめた家庭も多い。春の外出自粛期間ほどではないにしろ、子どもたちとって不自由の多い夏休みになっている。

この企画に携わった関彰商事総務部の草野伸一さんは「例年は会場に直接お越しいただき、筑波大学の学生にもお手伝いいただきながら制作していた。今年はこのような大変な時期でもあり、少しでも何かお役に立てればと思って企画した。一人でも多くの方にご参加いただければうれしい」と話している。

詳細は同ホームページへ。

【高校野球代替大会を終えて】㊦ 「野球の力を感じた」

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得点に湧く土浦湖北ベンチ。無観客のため当然観客席に人の姿はない

【伊達康】今大会は優勝してもその先に甲子園がないことが前提で開催された。小さな頃から甲子園でプレーすることを夢見てきた球児たちにとって喪失感は筆舌に尽くしがたい。

3月から5月半ばまでの学校の休校措置により春季大会は中止となり、多くのチームが通常の部活動すら行えない期間を過ごしてきた。

代わりに用意された代替大会。体裁上、表向きはみな優勝を目指して頑張るとは言いつつも、気持ちの整理を付け、失ったモチベーションを取り戻すことは容易ではなかっただろう。むしろ、モチベーションを失ったまま最後の大会に臨んだ選手がいたとしても不思議ではない。

大会中、何度か球場で取材をした。夏の大会では敗者は泣き崩れることが常であるが、今大会は敗者もそれほど泣くことなく、どこか達観した面持ちで球場を去る光景が見られた。

通常は、敗戦によって、もうこいつらと野球ができない、勝ちたかった、悔しい、無念だという様々な感情が押し寄せて泣きじゃくる者もいるのだが、今回は最初から甲子園への切符がない。敗者の感情の起伏という面からも今大会が持つ独特の雰囲気が感じられた。

「今が一番野球が楽しい」

つくば土浦エリアのチームではないが、私学4強の一角である明秀学園日立の金澤成奉監督が準々決勝後の囲み取材で語った今大会が持つ意味や、コロナ禍がもたらした変化などについて紹介し、今大会の総括としたい。以下は金澤監督の言葉である。

残りアウト一つになってもベンチ内で激しく檄(げき)を飛ばす金澤監督(右端)=ノーブルホームスタジアム水戸

「今大会の意味として一つ言えることは、非常に考える時間を与えてもらったということ。親のことであったり、甲子園がなくなったのになぜ野球をやらないといけないのかと、自問自答しながら野球をやっていく中で、野球って楽しいんだなというのが分かったような気がする。

毎週、選手に日誌を出させているが、日誌に書かれた3年生の言葉の中で、『今が一番野球が楽しい』と、『仲間と野球をやれる喜びを感じている』といった声が非常に多かった。そういった時間を与えてくれたから意味があったと思う。

甲子園という目標があると、私自身もそうだが、どうしてもそちらの欲の方に目が行きがちで、本来の小さな頃から野球をやり始めた時の気持ちというのを失いかけたりする。

この大会は、何のために野球をやっているのだろうとか、やり遂げることの大切さだったり、今自分があるこの場所、この時間、どういった方々のお陰で今があるのか、そういったことを考えさせられ、思いをはせることができた。

特に高校野球というのは保護者の方々の力が大きいので、感謝っていうことはどういうことなのかとか、恩返しというのはどういうことなのかを感じられた大会だったと思う。

特別な大会だったので、特別な思いでずっと一試合一試合大切にやってきた。勝つことを前提にしながら、逆にどういう終わり方をするのかというのを常に頭に描きながらやってきた。やりきった後、終わりを遂げる時に、選手たちに何かを感じてもらいたいという思いで。

本音を言うと9回までやりたかったが、自分の中ではやれることはやれたのではないかなと思う。子どもたちも大変満足した終わり方ができたのではないかと思う。

大会を通して結果が出なくて悔しい思いをした子だっているでしょうし、ヒットを打って親御さんが喜ぶ姿が見られた子もいる。

いずれにしても、子どもたちが頑張る姿でお父さんお母さんがさらに勇気づけられる。子どもと親の絆が深まる。本来スポーツが持つべき姿というか、野球をやっていたからこそ感じられたそれぞれの思いを感じられる。

そういう意味では大変有意義な時間が過ごせた。親御さんたちも、普段は練習までは見に来ないけど、やっぱり子どもたちの姿を見納めたいということで、練習から見に来られている姿を見て、失ったこともあったけど、得たものもあると思う。

そういったいろんな意味を含めた大会だった。こういう年だからこそ1日でも長く1試合でも多く共に戦おうと。こういう年だからこそどの時代よりもお前たちとずっと長く野球をやりたいということを話して、ほぼそれが達成できた。モチベーションが下がった時もあったが、お互いが声を掛け合いながら、やりきるということはどういうことなのか、やりきったときにどんな光景が見えるのかということを、この試合で感じたと思う。

コロナ禍に見舞われた世代だが、様々なことに打ち勝ってきたのが人類なので、そこで野球の力というかそういったことをお前たちは感じたはずだから、これからいろいろ場面で野球で培ったこの乗り越える力、やりきる力を発揮し、今後も、この思い出を大事にしてほしい。思い出は作るものではなく、できるものなんだなということが分かったと思うので、そういう野球の力で人生のあらゆる局面で打ち勝ってもらいたいなと思う」。

追い込まれたらスリーフィンガー分短く持ち、相手にプレッシャーを与えることをチームの徹底事項としている明秀学園日立。4番の久保田翔太であっても例外なくスリーフィンガーにする

心から感謝

大会が始まってみれば、無観客で例年通りとはいかずとも熱く盛り上がり、高校野球の話題が新聞紙上をにぎわせた。一般のファンもラジオやテレビ、速報サイトなどで楽しむことができた。

夏の甲子園と地方大会が中止になり、代替大会の開催自体が不透明だった5月下旬のことを考えると、大会期間中、関係者から陽性判明者が出ることなく日程を消化できたことは奇跡に近い。

新型コロナウイルスのみならず天候までもが足かせとなり日程が進まなかった。運営側の苦労は想像に難くない。当初予定していた県のナンバーワンを決めることはできず異例の4校優勝という形で幕を閉じたが、裏で支えた人たちの尽力には心から感謝したい。

(終わり)

《続・平熱日記》67 ヘビのはなし 「ハミ酒」のことなど

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【コラム・斉藤裕之】我が家の台所に「ハミ酒」と書かれたラベルの小さな小瓶がある。マムシの酒である。故郷ではマムシのことを「ハミ」という。恐らく「はむ」「噛(か)む」からきているのだと思う。このハミ酒は弟から譲り受けたもので飲むためのものではない。実は虫刺されの特効薬なのである。

1年前の実話である。長女の結婚式に出席するために弟夫婦が上京する前日。ほぼぽつんと一軒家の弟宅で、運の悪いことに嫁さんが黄色スズメバチに刺された。それも顔面。すぐに器具で毒を吸い取り、ハミ酒を塗ったそうな。普通に考えれば人前に出られないほどに腫(は)れ上がるはず。しかし次の日の結婚式にはそんなことがあった?というほどに腫れも引いた、晴れやかな笑顔で写真に納まっていたのだ。

八郷のお寺の裏山で薪割りの作業中にお茶を差し入れてくださる奥様が、母屋の玄関にマムシが入ってきて騒動になったという話をされたので、こんな逸話を披露した。

「というわけでとにかく、毛虫やなにかの正体不明の腫れ痒(かゆ)みには、迷わずこのハミ酒をちょちょっとつけると間違いなく治ります。だから今度マムシを見つけたら是非お酒につけて…」と奥様に勧めてはみたものの、自分でやるかと問われれば「否」。思えば奥様も尼僧であることを忘れて、殺生を勧めるとは実に罰当たりであったと少々反省した。

SNS書き込みの「蛇足」「やぶへび」

さて、いつの間にか本堂に足場が組んである。長雨で雨漏りがひどくなり、ついに瓦を葺(ふ)き替えるとのこと。お寺の屋根の曲線は球が転がるのが直線よりも速い。なんとか曲線でアールと物理の先生だかが言っていたのを思い出す。

かれこれ10年ほど前、藁(わら)葺き屋根に被せたトタン屋根の塗装を手伝ったことがある。古い民家の広くて急勾配の屋根の上での作業は想像以上に過酷で、半日も作業をすると足腰がやられる。おまけに船から降りても揺られているかのような錯覚に陥るのと一緒で、地上に降りると暫くは地面が傾いて感じられた。

前後して、隣にある納屋の解体を手伝っていた時のこと。てっぺんの棟のところの藁を外すと、大きなアオダイショウが巣を作って寝ていた。よく家の守り神だとか、寝ている時に梁(はり)から落ちてきたとか聞いたことはあったが、本当に居るのを見たときは感動さえ覚えた。

我が家にもヘビがいる。幼稚園児が作ったものだが、黄色の絵具で塗られたヘビは、見るからにお金を呼びそうな雰囲気を醸し出していたので、取り上げてアトリエの入り口のかもいに置いた。このヘビを作った子も今年で6年生。未だにヘビ様のご利益はない。

さて、そろそろSNSという道具もなんとなく使い方がわかってきた。ほとんどの書き込みは「蛇足」で、「やぶへび」にならないように熟慮すべきである。(画家)

【高校野球代替大会を終えて】㊤ 常総、夏1勝は創部以来初

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ほえながら投じる霞ケ浦の山本雄大投手。総和工打線をねじ伏せた=笠間市民球場

【伊達康】茨城の夏の高校野球代替大会は5日の準々決勝をもって終了した。勝利したのは霞ケ浦、土浦湖北、水戸啓明、明秀学園日立の4校だ。

「3年生全員」戦法通用せず

今大会で最も衝撃だったのは秋優勝の常総学院が、3回戦で多賀に2対3で敗退したことだろう。

大会前から菊地竜雅と一條力真のWエースは全国的にも有名なプロ注目の逸材だった。

初戦の2回戦では菊地が152キロ、一條は148キロとそれぞれ自己最速をマークし、前評判通り圧倒的な投手力を披露した。さらにベンチに入った31人の3年生全員が出場する離れ業をやってのけた。

力投した常総学院の菊地竜雅=ノーブルホームスタジアム水戸

ところが次の3回戦では「できるだけ多くの3年生を起用しながら勝つ」という戦法が通用しなかった。

3回表に連打やバッテリーミスで多賀に一挙3点を先制された。相手のエース神永耀生は2年生ながらこの日の最速139キロをマークするなど、常総学院打線とはいえ簡単には攻略できない、抜群にキレのあるボールで粘りの投球を見せた。

常総学院はチャンスをつくるものの、あと1本が出ず14残塁。7回と8回に1点ずつ返したが、3点が最後まで重くのしかかり敗れた。

佐々木監督は大会前に「コロナ禍で打者がバッティングの感覚を失っており打線が仕上がっていない」と漏らしていたが、不安が的中する結果となってしまった。

夏の大会で常総学院が1勝しかできなかったのは創部以来、初めてのことだ。敗戦の翌日、島田直也投手コーチが監督に昇格し、佐々木監督は新たに統括責任者の任に就くこととなった。常総学院の復権は島田新監督の手腕にかかっている。

タイブレーク救った大魔神・山本雄大

秋準優勝の霞ケ浦も総和工との3回戦で苦しんだ。霞ケ浦は2回裏に二死から4連打で4点を先制したが、総和工は3回表にタイムリーと2番・杉山紘也が肩口から入るカーブを叩きレフトスタンドに運ぶ2ランホームランで1点差とした。さらに6回表、内野安打と盗塁で無死二塁から、4番・横山耕希の三遊間を破るタイムリーで同点に追いついた。

流れは総和工に傾き始めたが、ここで2番手としてマウンドに上がった霞ケ浦のエース山本雄大が盗塁殺と二者連続三振に打ち取って流れを断ち切った。

その後は両者ともチャンスすら作れない。山本は雄叫びを上げながら力投を続けた。総和工の背番号10の先発・永井政人も最速123キロながら両サイドに丁寧に散らす投球で凡打の山を築いた。

3年生で戦うとしていた霞ケ浦であったが、9回裏には何とか攻撃の糸口をつかもうと非凡な打撃センスを持つ2年生の飯塚を代打で起用した。それでも結果はセカンドゴロに終わる。

試合は9回を終えても同点のままで、無死一、二塁から始まるタイブレークに突入した。ここでも山本は殺気だったような投球を演じ、最後のバッターを見逃し三振に仕留めた。6回途中からマウンドに上がり、打者14人に対して被安打1、奪三振9、無四球。相手打線をほぼ完璧にねじ伏せ、最速は自己記録を更新する143キロに達していた。

どちらに転んでもおかしくない息を飲む試合展開に張り詰めた空気が漂う。10回裏、山本の力投に報いるべく、霞ケ浦は先頭の小田倉啓介が送りバントで一死二、三塁とすると、2番・斎藤拓生がセンターオーバーを放ってサヨナラ勝ちを収めた。

10回裏、斉藤拓生の安打で生還した小勝亮央=笠間市民球場

山本の力投がなければこの試合は落としていたに違いない。そんな苦しいギリギリの戦いを乗り越えた霞ケ浦は次から王者の貫禄を取り戻し4回戦では打線が奮起して鹿島学園に11対1と大勝。続く準々決勝はエース山本雄大が圧巻のピッチングを披露し3対0で水城に勝利した。4校優勝とはいえ、霞ケ浦は2年連続で茨城の頂点に輝いた。

土浦ダービーとなった準々決勝

8月5日にノーブル水戸で行われた準々決勝第1試合は土浦日大と土浦湖北の土浦ダービーとなった。試合はボールのキレで勝負する土浦日大エースの中川竜哉と、剛速球でねじ伏せる土浦湖北エースの大坪誠之助の投げ合いとなった。

先手を取ったのは土浦日大だ。2回裏、先頭・中川がセンターへのツーベースヒットで出塁すると、送りバントがフィルダースチョイスとなり無死二、三塁とした。しかし、9番・中村はスクイズを2度失敗し空振り三振。後続も連続三振に倒れ絶好のチャンスを生かせない。

先制したのは土浦湖北だ。5回表、先頭の大坪がセンターオーバーのスリーベースを放つと、ボークで1点を先制。自らが先制のホームを踏んだ大坪はその後二塁を踏ませない圧巻の投球で土浦日大の反撃をしのいだ。さらに9回表、二死から3番・田中のセンター前ヒットと四球、ボークで二塁、三塁とすると,パスボールで2点目を奪った。

後がない土浦日大は一死から代打に関野を投入したが、大坪渾身の144キロストレートに空振り三振。二死から6番・菅野がライト前ヒットで出塁したが、中川はセンターフライで試合終了となった。

試合後、土浦日大の小菅勲監督は「大坪君が良かった。ヒットが出るには出たがつながりを欠いた。反面、相手は長打が出た後にワンチャンスをものにできた。ボークは仕方ない」とうつむきがちに淡々と語った。

ベストピッチで有終の美を飾った土浦湖北の大坪誠之助投手=ノーブルホームスタジアム水戸

土浦湖北の小川監督は「土浦市内同士の対決なので絶対に勝ちたかった」と満面の笑みがこぼれた。完封した大坪については「高校生活で最高の出来、ベストピッチ。6月からひじの調子が悪く長いイニングを投げさせなかった。序盤に点を取られたら替えようと思っていたが、あれだけ気持ちの入ったピッチングをしていたものだから替えられなかった」と絶賛した。

さらに「(梅雨で日程が延び8強決定の)8月2日で大会が終わると聞いたときはひじの状態もあるので、あと1試合なんだと安心した。でも後から、勝ったら(4強決定まで)もう1試合やると決まって不安で仕方なかった」と、日程変更にかかる素直な心境を吐露した。控えに回った選手については「荒木という最速143キロを投げる力のある投手が後ろに控えている。その子も出たかっただろうし、出してやりたかった」と気遣った。

土浦湖北はこの翌日から新チームで岩手に遠征した。外野にいる筆者は、勝った4チームで任意の準決勝と決勝をやればいいのではないかと考えていたが、当人たちは気持ちを切り替えて次に進んでいる。

(続く)

《邑から日本を見る》69 あなたにとって農協とは

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【コラム・先﨑千尋】郵便局やガソリンスタンドと同じに、全国どこにでもある農協(私はJAという言葉は使わない)。その農協は、国民に、農民に必要な組織なのだろうか。金を預ける。必要な金を借りる。生命や建物の保険(農協では共済)に入る。米や野菜、果物、肉などを買う。農業用資材を買う。別に農協がなくとも、今ではどこでも用が足りる。銀行も郵便局も保険、損保会社もある。

スーパー、コンビニ、ホームセンターがどこにもある。窓口対応は銀行や郵便局の方が親切かもしれない。ホームセンターなら何でもそろっているし、価格も農協よりもおおむね安い。だから農協なんか要らないではないか。組合員の多くはそう思っているのだろうと、私はこれまで考えてきた。

では実態はどうか。興味深いデータが最近発表された。全国農協中央会(全中)は先月29日、「JAの自己改革に関する組合員調査」の結果を公表した。この調査は、農協グループが組合員の意思を正確に把握しようと、2018年12月から1年かけて全組合員を対象に行ったもの。

その内容は、①農協の必要性、総合事業の継続、②営農関連事業への期待度・満足度、③営農関連事業の改善点、④農協の地域農業の振興や地域づくりの応援、准組合員の事業利用の制限―の4項目。准組合員とは、農協管内で非農家であっても、金融、共済、購買事業などを利用するために組合員になった人を言う(農家は正組合員)。

生活関連事業は地域の生活に定着

まず、その調査結果のあらましを見ておく。

農協の必要性については、正組合員の93.9%、准組合員の93.5%が「必要」「どちらかといえば必要」と肯定的に回答している。次に、農協の総合事業(金融、共済、資材の購買、農産物の販売、営農指導、農産加工などの事業を1つの農協が総合して行う日本独特の運営方式)については、「継続すべき」「どちらかといえば継続すべき」を合わせた肯定的な回答が91.7%に達している。

農協事業の中で期待度が高いのは営農、販売事業で、生産資材の期待度はそれよりも低くなっている。ホームセンターが随所に立地している現況を反映していると見ていい。しかし満足度では、営農指導、販売、生産資材いずれも「満足」が4分の1前後しかなく、「やや満足」が40%近くと、期待は大きくとも農協がそれだけの対応をしていない状況が読み取れる。

国の規制改革推進会議は、以前から農協の准組合員制度に異議を唱え、なんとかこの制度を除外もしくは利用制限しようと提言してきた。しかし、今回の結果では9割前後が「これまでと同様、利用制限しない方がいい」と答えており、金融・共済、葬祭などの生活関連事業が准組合員を含めた地域の人々の生活に定着していることを示している。

農協組織は本来、力が弱い人たちが集まって作った自主的な組織だ。野放図な運営は社会的な影響が大きいのでそれは困るが、どのような運営を行うのかは組合員が自ら決めることだ。国といえども運営に介入してはならない。中山間地域では農協しか存在していないところもある。地域社会でなお必要な組織であると多くの人が考えていることが、今回の調査結果で分かった。(元瓜連町長)

つくばの仁王、ガマ、犬がマスク 感染拡大防止と終息願い

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マスクを着けたつくば山水亭の仁王像=つくば市小野崎

【鈴木宏子】新型コロナウイルスの感染者数が再び増加する中、つくば市小野崎の料亭「つくば山水亭」の仁王、筑波山中腹「つくばグランドホテル」のガマ、筑波山麓の犬のテーマパーク「つくばわんわんランド」の木造犬がマスクを着け、感染拡大防止を訴えている。

山水亭の仁王は、口を開けた阿形(あぎょう)と、口を結んだ吽形(うんぎょう)の頭部像2体で、玄関前に置かれている。筑波山麓で産出された御影石「真壁石」で造られた守護神で、台座を含め3メートルほどの高さがある。着用したマスクの大きさは縦90センチ、横2メートル程。感染拡大防止と終息を願いながら、白いサテンの生地を縫い合わせ、スタッフが夜なべして手作りしたという。

つくばグランドホテル、フロント前のガマの親子像を案内する小林剛支配人=つくば市筑波

グランドホテルのガマは、筑波山名物「ガマの油」にちなんだ親子像で、フロント前に置かれ、登山客や観光客を長年見守ってきた。親ガマは体長1メートルほどの石彫、背中に乗った子ガマは20センチくらいの木彫。マスクは市販の紙マスクなどを加工してスタッフが手作りした。

つくばわんわんランドの木造犬=つくば市沼田、つくばわんわんランド提供

わんわんランドの犬は、モックンと名付けられた高さ約11メートルと世界最大級の木造犬で、マスクの大きさも縦2.4メートル、横5.3メートルと巨大。こちらもスタッフが白いシーツを縫い合わせて手作りした。(6月18日付)。

いずれもサンスイグループ(東郷治久代表)が運営する。仁王とガマは7月末、犬は6月半ばからマスクを着用している。3施設とも政府の緊急事態宣言が発令された4、5月に一時期、休業を余儀なくされた。再開し、それぞれのスタッフが願いを込めてマスクを手作りした。

つくばグランドホテルの小林剛支配人は「感染者が増えてきている中、一人ひとりが気を付けないと終息はない。感染拡大防止と終息を願ってマスクを着けた」と話している。

《霞月楼コレクション》5 小林巣居人 田園と水郷を生涯描いた自然画人

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霞月楼

芋銭・百穂の二師に鍛えられる

【池田充雄】小林巣居人(そうきょじん)は1897(明治30)年、稲敷郡長戸村(現龍ケ崎市半田町)の農家に生まれた。本名は善。長戸尋常小学校(現長戸小学校)を経て、1911(明治44)年に長戸農業補修学校を卒業、地元の青年学校で農業指導助手を務めた。

作品名・制作年不詳 紙本彩色額装 71×48cm 霞月楼所蔵

1917(大正6)年に画家を志し、牛久の小川芋銭を訪ねる。芋銭の勧めで翌年春に上京し、平福百穂の画塾に入門。後に巣居人は「第一の師・芋銭より発想の自由を教えられ、第二の師・百穂からは厳しい写生を叩きこまれた」と語っている。

1921(大正10)年の第2回中央美術展に初入選。茨展には1923(大正12)年の第1回から出品、2~5回に県賞を連続受賞し、その後無鑑査。院展では1928(昭和3)年の第15回展に「竹林」で初入選、1931(昭和6)年には院友に推挙され、画壇の評価を高めていく。

1929(昭和4)年に帝国美術学校(後の武蔵野美術学校、現武蔵野美術大学)が開校すると、日本画科長の百穂の下で助手として勤務。芋銭との交流も続き、1935(昭和10)年には銚子市海鹿島の潮光庵で数カ月にわたり起居を共にして制作を助けた。余談だが海鹿島は竹久夢二の詩「宵待草」の誕生の地でもある。

院展を出て新興展を設立・再興

1937(昭和12)年、同志11人と共に日本美術院を脱退し「自由拘束なき新興清新なる芸術」を目指して新興美術院を結成。だが1943(昭和18)年の第6回新興展に出品した「土機光象」を巡り意見が対立、巣居人ら3人が同院を脱退する。

小林巣居人

戦時疎開を経て1946(昭和21)年、新治郡高浜町(現石岡市高浜)の篠目(笹目)八郎兵衛の下に移住。八郎兵衛は霞ケ浦に蒸気船を導入した水運業の大立者で、土浦の色川三郎兵衛らと共に日本鉄道土浦線(現JR常磐線)の開通にも尽力した。芋銭の支援者でもあり、潮光庵も篠目家の別荘だった。

この頃の巣居人の活躍は多岐にわたる。1947(昭和22)年の土浦市美術協会設立に協力、1949(昭和24)年の県南美術協会展で審査員。1948(昭和23)年に武蔵野美術学校教授に就任。1950(昭和25)年には戦時中の混乱で途絶していた新興美術院を再興。県展では1952(昭和27)年から審査員を務めた。後の県芸術祭にも晩年まで出品を続け、没後の1979(昭和54)年に「小林巣居人賞」が創設された。

故郷の土と水に生きる小さな命

巣居人は故郷の身近な自然を生涯描き続けた。当初、師2人から得た「枝上人」「巣居」の雅号はいずれも、その人の心の置き所を示すかのようだ。幼少期より育まれた土への親しみは「土機光象」で結実した。上巻では地上の花や鳥や虫などが、下巻では地中の球根やドジョウやタニシなどが、それぞれに生を謳歌する作品だ。自然界の小さな命を愛おしむ心は、宮沢賢治の世界観とも共鳴し「やまなし」「よだかの星」などの作品を生み出した。

「よだかの星」(部分)1951年 紙本彩色屏風二曲一双 第1回再興新興美術院展 茨城県近代美術館所蔵

戦後は高浜を拠点に、水面の移ろいや風に揺れる芦原など、霞ケ浦の風物を主な題材とした。1957(昭和32)年の東京転居後もこの傾向は続く一方、湖面の波立ちや雲の流れをリズミカルに描くなど、表現の様式化・抽象化が進んだ。1958(昭和33)年から約10年間、日本橋の三越本店で個展を開くが、この頃には画面構成はより装飾的になり、色彩もより鮮やかさを増していった。冒頭に掲げた霞月楼所蔵の作品にも同時期の特徴がよく出ている。

老境にたどり着いた清澄な世界

巣居人は1975(昭和50)年、妻の療養のため高浜へ戻った。最晩年の作品では穏やかな色彩と柔らかなタッチで清澄な世界を作り上げた。「春雪」では静かに舞い落ちる淡雪を小鳥たちが見上げ、春の到来を予感する様子を、優しい眼差しで描いている。1978(昭和53)年、81歳で他界。その遺風は三男の小林恒岳が受け継ぎ、高浜や八郷の自然を慈しむ作品を描いていたが、彼もまた2017(平成29)年に鬼籍に入った。

「春雪」1977年 紙本彩色額装 72.5×99.5cm 秋季新興展 茨城県近代美術館所蔵
  • 取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽図録「小林巣居人遺作展」(1980年、茨城県立美術博物館)▽図録「小林巣居人の世界」(2010年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「小林巣居人・恒岳展-故郷への思い」(2013年、茨城県天心記念五浦美術館)▽図録「故郷を愛した作家たち」(2014年、とりでアートギャラリーきらり)▽画集「田園の詩」(1982年、京都書院発行)▽雑誌「常陽藝文」1999年3月号(常陽藝文センター発行)

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

《食う寝る宇宙》67 ネオワイズ彗星観察、筑波山に阻まれる

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【コラム・玉置晋】2020年3月に発見された新彗星(すいせい)「ネオワイズ彗星」が7月に肉眼で見えるというニュースが流れ、観たいなあと思っておりました。都市部で天体を観るためには、肉眼だと1~2等級の明るさにならないと厳しいです。だから、彗星を肉眼で観られる機会はそうそうありません。

20年以上前になりますが、僕が高校生のころ、学校の帰り道、自転車をこぎながら「百武(ひゃくたけ)彗星」(1996年に接近)を観て以来でしょうか。ボヤ~とした小指の先ぐらいのコマがみえたものです。その数年前には、ハレー彗星(1986年に接近)も大きな話題になりましたね。

そんなわけで、是非とも観たかったネオワイズ彗星。今年は6月ごろから雨続きで、全く夜空を楽しめませんでしたが、7月19日には久しぶりに晴れ。今日こそは「観るぞ~」と決意していました。どちらの方角を向けばよいのか調べたところ、北西方向、地平面から拳(こぶし)2個分の高さとのこと。随分、低いところなのね。

僕が住んでいるのは茨城県土浦市。自宅窓から北西方向を観ると、そこには標高877メートルの筑波山。我が家から見て、拳5~6個分の高さでございます。「筑波山、どいてください!」。結局、ネオワイズ彗星を観ることはできませんでした。残念!

新たな太陽活動サイクルの始まり?

話を変え、最近の話題を紹介。太陽活動は11年周期で、活発な時期と静穏な時期を繰り返しています。今は、1755年に記録が始まった第1太陽活動サイクルから数えて、24番目の活動サイクルの末期の極小期におります。

太陽を眺めてもほとんど黒点が現れない状態が続き、このまま地球は氷河期に突入してしまうのではないかという話もチラホラ出ておりましたが、ここに来て黒点が姿を現すようになりました。黒点は強い磁場を持っており、S極とN極のペアで現れます。

S極とN極の並びがポイントで、太陽活動周期により入れ替わります。太陽の北半球の場合、今の第24太陽活動サイクルでは、地球から見て右側がS極、左側がN極という並びだったのですが、今見えている黒点の並びは右側がN極、左側がS極(南半球では順番が反対)です。次の第25太陽活動サイクルの並びに他なりません。

間もなく、新たな太陽活動サイクルの始まりが宣言されることでしょう。第25太陽活動サイクルのピークは2025年と予想されています。(宇宙天気防災研究者)