火曜日, 10月 6, 2026
ホーム暮らし【語り継ぐ 戦後75年】③ 物言わぬ証言者 予科練生の遺品を収集

【語り継ぐ 戦後75年】③ 物言わぬ証言者 予科練生の遺品を収集

予科練戦没者の遺品や遺書を保管、展示する「雄翔館」が、阿見町青宿、陸上自衛隊武器学校内にある。第2次世界大戦中、予科練生を訓練した土浦海軍航空隊があった場所だ。特攻隊員として出撃した少年らを訓練し、約1万9000人の死者を出した。

陸上自衛隊事務官として武器学校に勤務する行方滋子さん(48)は10年ほど前から、インターネットオークションなどで予科練の遺品を自費で収集している。

2009年、武器学校広報援護班に異動となり、雄翔館の案内を担当したことがきっかけ。来館者にきちんと伝えたいと予科練について勉強し、10代後半の予科練生たちがどう生きたのか、真実を正しく伝えたいという思いを強くした。

これまでに収集した遺品は、人間魚雷「回天」の特眼鏡(潜望鏡)、予科練で使用された教科書、日の丸の旗に書かれた寄せ書き、割られた杯(さかずき)、当時のアルバムなど240点に及ぶ。杯は、水杯として出征時に割られ神社境内に埋めたものを、後日、母親が掘り起こして金継ぎし保管していたものだという。「母親は、割った杯を継いで元に戻せば息子が帰ると信じていたのだと思う」と行方さん。

予科練にまつわる全国各地の戦跡を回り、生存者や遺族なども訪ね歩いた。「回天」の訓練基地だった山口県大津島、米軍の機銃掃射を受け貨物船に乗船していた予科練生82人が犠牲になった兵庫県淡路島、特攻隊の出撃基地だった鹿児島県知覧や鹿屋などを訪ねた。

さらに生存者や遺族15人ほどの証言を集めた。初めて証言を聞いた元予科練生は、2013年に96歳で逝去したかすみがうら市の角田和男さんだった。太平洋戦争時、撃墜王と呼ばれた海軍中尉で、戦争末期には特攻機を目的地まで援護する役割の直援機でたびたび出撃した。戦後は開拓農民として農業に従事する傍ら、遺族を訪ねたり、南方で慰霊を行うなどした。

訪ねた行方さんに角田さんは、上空で体当たりする特攻隊員を見送ったときの様子や、翌朝の出撃を控えた隊員らと共に過ごした様子を語ってくれた。なぜ海軍は特攻隊をつくったのかについて角田さんは、神風特攻隊の創設者の1人、大西瀧治郎中将について触れ「フィリピンの戦いで一矢報いて講和にもっていき、戦争を終わらせるためだった」と語った。しかし戦争は終わらなかった。

特眼鏡で最期に見た景色

行方さんが収集した遺品は自宅に保管してあるが、回天の特眼鏡は今、雄翔館内の予科練生、北村十二郎の写真パネル前に展示されている。

北村隊員は1945年6月、回天で出撃しマリアナ東方海域で消息を絶った。「回天は一度出撃したら命はなかった。隊員たちが特眼鏡を通して見た最期の景色がどんなものだったか、遺品を通してさまざまな思いを伝えていけたら」と行方さんはいう。

雄翔館は、予科練出身者や遺族などでつくる「海原会」(東京都品川区)が管理している。しかし海原会自体、1973年の創設時は8000人いた会員(うち予科練出身者6000人、遺族2000人)が、現在は創設時の10分の1を下回り、700人以下になっているという。

海原会事務局長の平野陽一郎さん(69)は「予科練の生存者も90歳を超え、予科練生を直接知る親やきょうだいなどの遺族も亡くなってしまったか、高齢化している。武器学校のOBなどにも呼び掛け、一般の思いのある人を募って海原会の会員に迎え、つないでいきたい」と語る。

雄翔館。隣に阿見町の予科練平和記念館がある

世代交代で散逸の危機

予科練の遺品や遺書は戦後、親やきょうだいの手で大事に保管されてきたが、親が亡くなり、きょうだいが高齢化する中、世代交代をきっかけに、廃棄されたり、インターネットオークションに出品されるケースが増え、散逸の危機にあるという。

行方さんは現在、海原会参与・同霞ケ浦副支部長としても活動する。「遺品は物言わぬ証言者。戦没者の思いがこもった遺品が葬り去られないようにしたい」と話す。

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