金曜日, 5月 20, 2022
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【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

【相澤冬樹】松岡義和著「土浦からの便り」という本がある。サブタイトルは「北見出身海軍予科練習生の記録」、1992年に北海道の郷土出版社、北見叢書から刊行になった。土浦市立図書館に照会すると蔵書になく、県立はじめ県内の図書館を検索できるレファレンスサービスでも所蔵を確認できなかった。ネット経由で取り寄せると共に、著者の健在を聞いて、北海道北見市に松岡義和さん(82)を訪ねた。

七つボタンの下は傷だらけ

著作にいう「土浦」は、土浦海軍航空隊、いわゆる「予科練」のこと。1939(昭和14)年、阿見町青宿の霞ケ浦畔に設置され、全国から志願してきた14歳半から17歳までの少年を試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をした。戦争末期には神風特別攻撃隊(特攻)の主力となった。予科練出身の戦没者は1万8564人を数える。基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)になっている。

「便り」は、1943年6月に15歳で海軍予科練習生(甲種12期)として入隊、45年4月28日に沖縄戦で特攻死した竹村久志が、北海道訓子府町(くんねっぷちょう)の実家に書き送った25通の軍事郵便と2通の遺書に基づいている。配属された名古屋海軍航空隊で書かれたものや、出撃基地となった鹿児島国分第二基地で書かれたものも含まれるが、「北海道では予科練といえば土浦が代名詞、逆に土浦といえば今も予科練以外のイメージは浮かばない」と松岡さん。同じ時期、北見地方から入隊した予科練生数人の足跡も追っている。

現在、北見市で私設の絵本美術館を運営している松岡さんは名寄短期大学の元学長、劇作家や画家の肩書もある。竹村はその叔父に当たる。松岡さんの母親の実家が竹村家で、12人の兄弟姉妹の長姉、久志が末弟だった。

竹村家に男子は4人いたが、長男(茂)はビルマ、2男(信雄)は北支、3男(実)はシンガポールに出征しており、4男(久志)が軍人になるには志願する以外になかった。家業の雑貨店は戦時中、母親のツタ(1974年没)、妹の佐津子ら残った女性たちで細々と維持していたが、やがて売る品もなく廃業した。兄3人は戦後復員している。

松岡さんは、年齢が10歳しか離れていない叔父の久志を兄のように慕った。1944年1月、ふるさと訓子府に最後に帰省した日のことを、国民学校1年生だった松岡さんは今も克明に覚えている。七つボタンのりりしい制服姿を見に、雑貨店の店先には人だかりができたという。

名指しされ、得意になって一緒に風呂に入ったが、流した背中は傷だらけだった。海軍精神棒、通称「バッター」による罰打をはじめとする過酷な訓練(制裁)による傷跡は、自身の母親には到底見せられない姿だったのだ。

執筆に当たって松岡さんは、土浦に2度足を運んだ。竹村久志が「下宿」とよんで、休日にあそばせてもらった布川屋(土浦市川口)を探しあてたりしている。焼き鳥店の若主人から「裏の長屋のおばさんが予科練の若者を世話していた」という話を聞くことが出来た。おばさんは他界していたが、姓は松井か吉井だったという。

後列右から2人目が竹村久志。北見中学時代の友人と=同書から(渡辺清氏提供)

2通の遺書の意味

竹村久志は2度特攻出撃をしている。一度目の出撃のとき、どこの島かは記されていないが不時着し、島民に救助されて一度は帰還したと軍事郵便の中にある。搭乗したのは九九式艦上爆撃機。複座に操縦と偵察の要員2人が乗ったが、戦争末期には機体を軽くするため偵察関係の機器類はすべて取り外されていた。「久志は偵察要員だったから、やれる仕事がほとんどない。どんな気持ちで片道燃料の飛行機に乗ったのか」と2通の遺書を読み返す。

前略 色々お世話になりました。愈々(いよいよ)これが最後です。お母さん皆様お元気で。白木の箱が届いたならば、たいした手柄はたてないが泣かずにほめて下さい。
桜の散る頃に散るのは本望です。遺品は皆下宿にあります。ひまの時に取りにきて下さい。挙母(ころも、現在の愛知県豊田市の町名)に来たら下宿と愛知さんのお母さんの所まで行って下さい。
佐津子も体に気を付けろ、皆様お元気で、さようなら。
 国分航空基地にて 久志より

故郷のお母さんへ
整列の声がきこえます。今出ます。出撃だ! スクヤケ

松岡さんは出版後も、2通の遺書にこだわり続けた。1通は万年筆でしっかりとした楷書で書かれていたが、もう1通はざら紙に鉛筆の走り書きで、文も短く、左端に「スクヤケ」と書かれていた。「スクヤケ」は「すぐ焼け」のことだと推察したが、なぜ焼かなければならないのか、すぐには理解出来なかった。

後に特攻隊に関する書籍、記録文献、報道番組などによって、鹿児島県内の特攻隊基地のうち、陸軍は知覧から、海軍は鹿屋と国分から、それぞれ出撃したと知る。陸軍では、機体のエンジン不調や敵艦隊を発見出来ず不時着した生存者は、知覧近郊の「寺」に収容され2度と出撃することはなかった。死んだ者として、敗戦の日まで寺で写経などをして生き残ったと聞かされた。

ところが、海軍特攻隊は一度遺書を書いた者は、戦死者として2度と遺書を書くことを許さなかったと松岡さんは断じる。だから、2度目の出撃の時は隠れて鉛筆で走り書きをして、戦友か見送りの婦人会の人に頼んでふるさとへ送られてきた。それが「スクヤケ」の意味だと解せた。

自身が関わる北見叢書はことし結成30周年。叢書は18集まで数え、うち4冊が戦争をテーマにしている。しかし、ここ数年刊行が止まっている。松岡さんは「もう久志の話は書き足すことがあまりない。戦争については、あの時代の関係者や話を伝え聞いた縁者まで多くが亡くなってしまった」と残念がった。

取材後、松岡さんから郵便が届いた。新書判の「土浦からの便り」が同封されていて、「土浦の図書館に届けてほしい」旨信書が入っていた。土浦市立図書館に持参したが、扱いがどうなったか返事はない。

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