金曜日, 11月 1, 2024
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《邑から日本を見る》70 『八郷からの便り』を読む

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【コラム・先﨑千尋】石岡市八郷に住む有機農業の仲間橋本明子さんから表題の本が届いた。これまで書きためたものをまとめたという。サブタイトルは「農といのちに注ぐひたむきな愛の記録」。本を開く前に、「ああ、橋本さんも自分史を書く歳になったのだなあ」と思ってしまった。

昨年には、山形県高畠町の星寛治さんがそのものずばりの『自分史』(清水光文堂書房)を出した。今年に入って、知人では、筑摩書房の名編集者で山代巴の本を出すために径書房を作った原田奈翁雄さんが『生涯編集者』(高文研)を、早稲田環境塾の原剛さんが『日本の「原風景」を読む』(藤原書店)を、『文化連情報』という農協病院向けの雑誌を編集していた高杉進さんが『踏跡残し』(自費出版)を出している。自分史と謳ってはいないけれど、それぞれが自分の歩んできた道をふり返っている本だ。それぞれに味わい深く読んだ。

本書の著者橋本さんは、大阪外大を出て大阪労音に勤務し、結婚して東京に移住。消費者運動を進めながら、八郷に共同の消費者自給農場「たまごの会」を作り、1988年に連れ合いの信一さんと共にとうとう八郷に移住し、「日本一小さい畑を耕す」ようになる。その畑で採れた野菜類を知り合いの首都圏の消費者に届けてきた。橋本さんと私との出会いは、多分高畠町有機農研での集まりだったと思う。高畠で有機農業に取り組み、早くに亡くなった片平イチ子さんを描いた『イチ子の遺言』(ユック舎)を2005年に、仲間の山崎久民さん、海老沢とも子さんとまとめている。

「個性豊かな人たち」「小さな農学校の試み」

前置きが長くなった。本書は同じ八郷移住組の合田寅彦さんが編集、出版(ゆう出版)した。本書の構成は、「コメの現場に足を運ぶ」、「八郷の暮らしから見えてきたもの」、「個性豊かな人たち」、「小さな農学校の試み」、「八郷での出会い」など8つのタイトルから成っている。これまで発表してきたことと講演記録に、生まれ育った若狭での生活などを書き足している。

日本の水田を守るために生産者と消費者をつなぐ提携米運動、生産者と一緒に闘った減反差し止め訴訟、消費者が生産現場に足を踏み入れるたまごの会、自立をめざす農学校「スワラジ学園などに関わり、全国を駆け回る。とにかく行動的な橋本さんのエネルギーはどこから生まれ出るのだろうか。

それはやはり、彼女を取り巻く仲間、同志なのだと思う。先にあげた片平さん夫妻、高松修さん、愛媛の無茶々園、全国のコメ生産農家等々。八郷でも杉線香を作っている駒村さん一家、ブドウ栽培の桜井太郎平さん、しめ飾り作りを教えてくれた高倉弘文さんらの活動が活写されている。

著者の橋本さんとはそんなに深い付き合いをしてきた訳ではないので、その生い立ちや若かりし頃のことは知らなかった。本書で、若狭の寺の生活(親が僧侶だった)や大阪労音の活動など、未知の世界を知ることができた。「はじめに」に「一隅を照らす」という仏教の言葉が出てくる。それにふさわしい本、そう考えながら読んだ。(元瓜連町長)

新学校給食センター完成 土浦市旧新治庁舎跡地

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完成記念式典でテープカットをする安藤真理子市長(中央)ら=土浦市藤沢、同市立学校給食センター

【鈴木宏子】土浦市立学校給食センターが同市藤沢、旧新治庁舎跡地に完成し、21日、完成記念式典が催された。老朽化していた2カ所の学校給食センターを廃止し、9月1日から新センター1カ所で計1万2000食の給食をすべての市立小中学校と幼稚園に提供する。

新センターは、食物アレルギー対応調理室を備え、来年1月から乳製品と卵を除去したアレルギー食を新たに提供する。さらに食育拠点として2階に子供たちが見学できるスペースと研修室を配置しているのが特徴。

2階研修室から見た1階「煮炊き調理室」。計18の釜がある。一つの回転釜で1000食分の煮物、炒め物、ゆで物の調理ができる

調理場は、食材を搬入したり洗ったりするスペースと、調理するスペースを明確に区切り、調理スペースは衣類の殺菌や手指の消毒をし、エアシャワーを浴びないと入れない非汚染区域とするなどして衛生管理を徹底する。

調理能力1日1万2000食は、つくば市のつくばほがらか給食センター谷田部や、古河市の市立学校給食センターと並ぶ県内最大級の施設となる。

完成記念式典には地元県議や市議ら約50人が出席し、新治学園義務教育学校吹奏楽部員が演奏を披露した。安藤真理子市長は「学校給食センターを積極的に活用し、次世代を担う子供たちの心と体を支える拠点施設として適切な管理運営に努めたい」などとあいさつした。

同センターは敷地面積約6800平方メートル、建築面積約4000平方メートル、鉄骨造り2階建て、総事業費は旧新治庁舎解体費用や厨房機器購入費用も含めて約34億6500万円。今回、子供たちが使う食器もすべて新しくなる。

整備に向けては、2006年2月に旧新治村が土浦市に編入合併した後、12年から同基本構想策定委員会が設置され検討が始まった。16年に建設用地を旧新治庁舎跡地とすることを決定、18年に旧庁舎を解体し、建設工事が始まった。

新センター完成に合わせて、下高津の第1学校給食センターと中神立の第2センターの2カ所は7月末で廃止された。

コロナ禍の生産者を応援 ドライブスルーで余剰野菜販売 あみアウトレット

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新鮮野菜お楽しみボックスのイメージ(あみプレミアムアウトレット提供)

新型コロナウイルスの影響で飲食店の売り上げが落ち込み、外食産業向け野菜の余剰が発生している中、生産者を支援し、新鮮でおいしい野菜を食卓に届けたいと、あみプレミアム・アウトレット(阿見町よしわら、三菱地所・サイモン運営)は22日から9月22日までの土日祝日、ドライブスルーで「新鮮野菜お楽しみボックス」を販売するイベントを開催する。

外食産業向けの流通余剰野菜を家庭用にアレンジしたパッケージの販売で、同店と業務用青果物卸売会社「デリカフーズホールディングス」(東京都足立区)が実施する。野菜の廃棄を防ぐための支援活動で培ったデリカフーズのノウハウと、車来場型のアウトレットの特徴を生かす。

ボックスには、大根、プチトマト、キャベツなどの家庭用野菜に加え、通常スーパーなどには並ばない業務用野菜と旬の目利きフルーツなど15品目程度が入っている。価格は3000円(消費税込み)。

購入方法は、見本品を展示している同店フードコートギャラリー前の特設販売所で野菜ボックス引換券を購入する。駐車場内の指定箇所で引換券を提示すると、スタッフが車に直接、野菜ボックスを積み込んでくれ、重い荷物を持つことなく買い物ができる。

◆野菜ボックスの販売は8月22日(土)から9月22日(火・祝)の土日祝日の12日間。受け付け時間は午前9時30分~午後4時(受け取りは午前10時~午後5時)。

◆あみプレミアム・アウトレットの営業時間は午前10時から午後8時。レストランは午前11時から午後9時。問い合わせは電話029-829-5770

《電動車いすから見た景色》9 障害児が障害児を見下す矛盾

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】障害のある子どもとない子どもが同じ教室で学べる学校は、全ての子どもが安心して過ごせる環境だと、前回のコラムで書いたが、それは私自身の経験からも言える。

私は子どものころ、重度の障害がありながら通常学校の通常学級に通っていたが、教員や親の態度から、無意識に「私は障害があるから、勉強だけはできないと、学校から追い出されるのだ」と信じ込んでいた。学校の特別支援学級には知的障害のある同級生もいたが、当時の私は「自分は勉強ができるから、特別支援学級の生徒たちとは違うのだ」と特別支援学級にいる同級生を見下していたように思う。

今思えば、彼らとろくに話したこともないのに、障害という理由だけで自分とは違う存在だとみなしていて、とても失礼な話だ。

一方、当時の私は、自分にも障害があるのに、他の障害者を見下している矛盾に嫌悪感も持っていた。自分も学校の授業についていけなくなったら、見下される側になるのだという恐怖感もあった。成績の良し悪しだけが、人間の価値を決める物差しだと思っていたのだ。

自分の考え方が間違っていると気づいたのは、大学を卒業後、自立生活センターに関わり始めたことで、様々な障害者と出会ってからだ。できないことは周囲に手伝ってもらいながら、自分らしい生活を送っている障害者が社会にはたくさんいることを知った。知的障害のある人たちと関わったり、彼らを支援している人たちの話を聞いたりする中で、自分1人では難しくても、支援者とコミュニケーションを取りながら、生活のいろいろなことを一緒に決めていく生き方があることを学んだ。

そのような環境の中で、学校の勉強だけがすべてではなく、苦手なことは周囲に手伝ってもらえば、どんな障害があっても社会で生きていけると考えるようになった。同時に、それまで漠然とあった「勉強ができなかったら見下される」という不安感から解放された。

特別支援学級にいた同級生

子ども時代、私の学校の特別支援学級にいた同級生は、通常学級の生徒とは別の教室で多くの時間を過ごしていて、直接関わり合うことはほとんどなかった。もし彼らが私たちと同じ教室で多くの時間を過ごせる環境があり、苦手な授業の時だけ別の教室で学んでいたら、私自身、「できないことがあっても工夫すれば、同じ教室にいられるのだ」と思えただろう。そう思えることが、「自分も、成績の良し悪しに関係なく、教室にいていいのだ」という安心感につながったはずだ。

同じ教室に障害のある子どもとない子どもが一緒にいられる環境こそが、全ての子どもが無条件に「ここにいていいのだ」と安心できる場所なのだ。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

セブンイレブンから善意 土浦市社協に食料品など贈る

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寄贈品を前に並ぶ安藤真理子・土浦市長(中央)ら関係者たち=土浦市役所(撮影/車谷郁実)

【崎山勝功】土浦市社会福祉協議会(社協)は20日、大手コンビニチェーンのセブンイレブン・ジャパン(本社・東京)から、同市内の店舗移転に伴い発生した在庫商品の寄贈を受けた。

寄贈されたのは、缶詰やカップラーメンなどの加工食品、文房具や洗剤などの日用品など、段ボール箱で約100個。市役所で行われた寄贈品贈呈式で、社協会長の安藤真理子・土浦市長は「新型コロナウイルスで生活に困窮している家庭もたくさんいる」と感謝、同市内で開設している子ども食堂や、ひとり親家庭向けの学習支援事業「つちまる学習塾」の活動に触れ、「ひとり親の苦労されているお母さんたちに、一つでも多く分けていきたい」と語った。

同席した県社会福祉協議会の沼尻憲・常務理事兼事務局長は「(寄贈品を)必要としている方々や団体、施設などに十分有効活用いただけるものと思う」と述べた。

寄贈品入りの段ボール箱をトラックから下ろして運び込むセブンイレブンの社員たち=土浦市中都町の市老人福祉センターつわぶき

寄贈品は同日午後、市老人福祉センターつわぶき(同市中都町)に搬入された。市社協の木村富秋事務局長は「コロナの影響を受けた生活困窮者や学習支援事業の利用者に対して活用させていただきたい」と話した。

同社は今年3月、県社協、県との間で「社会福祉貢献活動に係る寄贈品に関する協定」を締結。同協定では、店舗改装時に発生する在庫の加工食品や雑貨などの一部商品を県社協に寄贈し、県社協を通じて福祉活動団体や支援を必要とする世帯などに配分する。

同社によると、今回分を含めて同協定による寄贈は県内7例目で、土浦市では初めて。協定に基づく今回の寄贈とは別に、5月中旬にもコロナ禍で生活に困窮した世帯などの支援として、市社協にサンマ水煮などの缶詰約1500個を寄贈している。

「難病患者の防災ガイドブック」作成 交流団体アミーゴ

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「難病患者のための防災ガイドブック」

【山崎実】難病患者、家族に向け月1回、定期的な交流会を開いている「難病カフェ アミーゴ」が、「難病患者のための防災ガイドブック」を作成し積極的な活用を呼び掛けている。

アミーゴは2016年5月の設立以来、毎月1回の交流会を通し、「患者と防災」を活動の柱の一つとして取り組んできた。

難病といっても種類は300を超え、症状もさまざまであることから難病患者に特化したガイドブックはこれまで作成されてなかった。

そこで、患者や家族、支援者の「備え」や「配慮」に役立ててもらうを目指し、昨年3月には基礎資料収集のため、福島、宮城県で東日本大震災を経験した患者、家族への聞き取り調査を実施し、災害への備えについて知識やアドバイスを受けてきた。

ガイドブックは、イラストや写真を多く取り入れ、大きな文字で読みやすさを重視しているほか、実際に情報収集に役立つようQRコードを随所に掲載するなど、読みやすい構成に気配りしている。

具体的な内容は、非常持ち出し袋の中身を紹介したり、袋は玄関先や寝室など決まった場所に保管する、食料を入れる時は水や熱を使わないで食べられるものを用意する、災害発生から3日間は自分の身は自分で守る意識が大切だ、などとしている。

患者自身が考えた「難病患者ならではの必需品」として、日常服用している薬は1週間分くらいあると安心、薬が持ち出せなくなるケースも考えられるの自宅内ので2カ所以上に保存するようにする、保険証や指定難病特定医療費受給者証、処方箋などはコピーでも可、スマホで撮影しておくーなどのアドバイスもしている。

新型コロナウイルス感染者対策についても、3密(密閉、密集、密接)を避け、人との距離を2メートル以上空けるソーシャルディスタンスの遵守を訴えている。

ガイドブックには、災害時に援助を受けやすくするため作成された「緊急用ヘルプマーク」が添付され、裏側には疾患名や必要な処置、飲んでいる薬、かかりつけ医療機関名などが書き込めるようになっており、切り取って使える工夫もされている。

問い合わせはアミーゴ代表の桑野あゆみさん(電話090-2986-8198)

《ご飯は世界を救う》26  「茶の蔵・きむら園」のかき氷

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iイラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】残暑お見舞い申し上げます。それにしても、お盆が過ぎたころから、かつては暑さが少しずつ和らいでいたのですが、ここ数年前、9月でも酷暑が続いてバテバテです。

暑いと、冷たいもの、のど越しのよい食べ物が、なんって言っても美味しいです。30度を超えると、アイスクリームより、氷系統のスィーツの売れ行きがよいそうです。そうそう!この暑い時期は、冷たいかき氷、サイコー!!ですね。

昨年もおうかがいした「茶の蔵・きむら園」さんに、かき氷を食べに。今年はコロナの影響で、ソーシャルディスタンスを取らないといけないと、予約制になっていました。その場で予約をしようと思ったのですが、テイクアウトの方々も多く、家に戻り、ホームページから予約表を見ながら、電話で予約しました。

生イチゴと宇治金時

店内は、昨年より間を広くイスが配置され、以前からのテラス席もよい感じです。かき氷はイチゴが定番ですが、「生イチゴ」は売れゆきナンバーワンなのでしょうか、ミニサイズのみでした。こちらのお店はお茶の専門店。やっぱり、お茶のかかった「宇治金時」の白玉と小豆のせ。どちらも本当に絶品でした。しばし夏の暑さを忘れる時間でした。

このお店はお茶の専門店ですが、お茶うけのお菓子、干菓子、可愛いゼリー、金平糖、おせんべいなども売っています。そのほか、お茶にまつわるステキな陶器や小物がたくさん。お茶好きの義母への「母の日のプレゼント」は、こちらで新茶とお菓子をセットにして調達。

日の光は、春の「レモンイエロー」から、秋の「クロームイエロー」(オレンジ系の黄色)になってきて、日差しも部屋に差し込むのが長くなっています。確実に秋に近づいてはいるようですが、この暑さのあとで、体調不良になる方が増えるのですよね。どうぞ、お体をいたわってお過ごしください。(イラストレーター)

ニホンジカ情報提供呼び掛け つくばでも15年に捕獲

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今年1月、龍ケ崎市若柴町の竜ケ崎ニュータウン近くで撮影されたオスのニホンジカ=榊原均さん提供

【山崎実】明治から大正時代に茨城県内から絶滅したとされるニホンジカが近年、県内各地で目撃されている。県と市町村は、ニホンジカの情報提供を呼び掛けている。

県は昨年7月、県境を超えて「福島・茨城・栃木連携捕獲協議会」を設立した。県内でも今年2月に「県ニホンジカ情報連絡協議会」を設立するなど、ニホンジカ侵入の厳戒体制に入った。

農作物などへの被害対策としては、イノシシ捕獲が行われているが、ニホンジカは農作物だけでなく、樹皮剥ぎなど森林にも被害を及ぼすことが報告されている。

特に近年は、過疎化や狩猟者の減少などから、イノシシ、ニホンジカなどの野生生物の生息域が拡大傾向にあるという。

県内では、2015年11月につくば市内でオスが捕獲された情報がある。昨年5月には結城市内でオスが、11月には県北の久慈川支流・里川周辺を中心に目撃情報があった。今年1月には龍ケ崎市でオスが目撃されている。

生息域の拡大は、まず最初にオスが入り、その後メスが入ってきて繁殖するパターンで、一気に増加するという。茨城県の場合、捕獲または目撃された個体がすべてオスであることから、侵入は初期段階と見られている。

捕獲の取り組みとしては現在、市町村などが行っているイノシシの捕獲に併せたニホンジカの予察捕獲実施に協力を依頼しているが、侵入を防ぐためには目撃情報の収集が必須条件だ。

このため県自然環境課では、県内の市町村広報紙や、「林業いばらき」など関係業界誌などを通して、情報提供の協力を呼び掛けている。

《くずかごの唄》67 うがい液は新型コロナの薬?

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イラストは筆者

【コラム・奧井登美子】
「イソジンガーグル、お宅の薬局においてある?」
「昔は20~30本は置いてあったけれど、今はほとんど出ないから、5本くらいしか置いてないわ」
「今、ニュースでイソジンがコロナに効くといったそうで、お隣の奥さんが欲しいんですって」

昔の薬剤師仲間の友だちからの電話で、何やらコロナ関係のニュースで、うがい薬が話題になっているらしいとわかったが、その内容を確かめる間もなく、見知らぬ人たちが、つぎつぎに薬局に飛び込んできた。

「コロナに効くヨードのうがい薬下さい」
「うがい薬で新型コロナが予防できるのですか?」
「予防じゃないよ、治療。薬剤師のくせに何もわかっていないんだな」

「ポピドンヨードあれば何本でもください。子供が車の中で待っているので早く」
「ヨード系は薄め方も難しいし、子供には向かないと思います」
「向くとか向かないとかではない。コロナにこれしか効かない」

ニュース見て殺到 怖い刹那的行動

「ポピドンヨードのうがい薬下さい」
「アズレンスルホン酸系統ならたくさんあるのですが、ヨード系でないとダメですか?」
「ポピドンヨード以外はダメ」

ヨード系の殺菌剤は、口の中の必要な常在菌まで殺してしまう。ヨードチンキと同じ匂いも強く、薄め方を間違えてしまうお年寄りも多いので、ここ20年くらいほとんど需要がない。

大阪府の吉村洋文知事が「テストでよかったから、ポピドンヨードでうがいをしてください」と言ったのが、ニュースに流れたのだということが後でわかった。

テレビで政治家のニュースを見て、専門職の意見など無視して、とっさに反応して刹那(せつな)的に行動する。私はそういう人種がたくさんいるのがわかって、少し怖くなった。(随筆家、薬剤師)

つくば市などが不交付団体 2020年度普通交付税

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茨城県庁

【山崎実】超高齢社会の進展や人口減少、コロナ禍によるかつてない減速経済の中、国が交付する2020年度普通交付税の市町村分が県から発表された。総額は、前年度比42億3800万円増の1423億7700万円となり、2年連続の増加となった。

一般財源所要額を税収で賄うことができる不交付団体は、つくば市、神栖市、東海村の3市村。昨年度まで不交付団体だった守谷市は3年ぶりに交付団体になった。神栖市は合併特例の適用で今年度まで旧波崎町分の交付税が交付される。

今回、交付決定額が増加した36市町村のうち、増加率20%以上となったのは守谷市、鹿嶋市、阿見町の3市町。社会福祉費の増加による基準財政需要額の増加に対し、企業の収益源に伴う市町村民税(法人税割)、固定資産税(償却資産)等の減少が影響したとみられる。

一方、交付額が減少したのは神栖、ひたちなか、古河、日立、鉾田、常陸大宮の6市。市町村民税(所得税)や、企業の設備投資にかかわる固定資産税(償却資産)の増加等が要因とされる。

コロナ禍後の財政運営は厳しくなることが予想され、財政基盤をどう維持していくか、市町村の力量が問われる。

県分は2年連続増加

茨城県分の普通交付税額も発表され、前年度比85億3700万円増の1787億7100万円となり、2年連続の増加となった。

臨時財政対策債(一般財源不足に対処するため発行される地方債。地方交付税の振替えとしての性格を持ち、一般財源と同様に活用できる)への振替額513億800万円を加えた実質的な交付税額については、2300億7900万円(対前年度68億900万円増)と増加した。茨城県分の主な変動要因は、社会保障関係費の増、法人関係税の減などがあり、これが普通交付税額の増加につながった。

2020年度市町村別普通交付税額
市町村名普通交付税額(万円)対前年度比増減率(%)
水戸市68億44007.5
日立市51億2800△3.9
土浦市30億58000.4
古河市59億0100△4.6
石岡市57億97001.3
結城市21億69003.6
龍ケ崎市28億11001.6
下妻市27億44005.3
常総市34億48007.7
常陸太田市76億53001.1
高萩市23億77006
北茨城市26億19004.3
笠間市62億99001.2
取手市65億97008
牛久市16億28000.8
つくば市
ひたちなか市7億4200△9.5
鹿嶋市1億8500445.6
潮来市33億570011.1
守谷市2900皆増
常陸大宮市67億900△0.4
那珂市36億59006
筑西市63億60001.2
坂東市38億10005.3
稲敷市57億73001.5
かすみがうら市35億66000.1
桜川市52億26007.2
神栖市9900△68.7
行方市53億4002
鉾田市60億9900△0.5
つくばみらい市23億480010.4
小美玉市42億74002.1
茨城町26億8003
大洗町10億24007.6
城里町35億24002.1
東海村
大子町37億52005.6
美浦村11億480018.1
阿見町5億830028.5
河内町17億67008.1
八千代町15億980010.8
五霞町3億110013.9
境町15億10007.4
利根町19億41006
県計1423億77003.1

《法律かけこみ寺》21 法律トリビアの泉

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土浦市文京町の神龍寺山門(写真は本文と関係ありません)

【コラム・浦本弘海】本コラムは、生活にちょっと役立つ(かもしれない)法律マメ知識の提供をコンセプトとしているのですが、今回は役に立つ可能性のなさそうな法律トリビアを。

「法律」という言葉を聞くと、どのような印象をお持ちでしょうか? 「難しそう」とか「固い」というものが真っ先に浮かぶと思いますが、「長い」という印象をお持ちの方も多いのでは。

そこで、今回は短い法律をご紹介します。 なお、この知識を活かす機会は一度もないと思われますので、ご注意ください。

いちばん短い法律

さて、では以下に(多分)いちばん短い法律を。

▼陪審法ノ停止ニ関スル法律(昭和18年法律第88号、1943年)
 陪審法ハ其ノ施行ヲ停止ス

なんと条文にしてわずか1条、法律全体の文字数がたったの12文字です! ただし、附則(付則、法令の本体部分となる実質的な定めに付随して必要となる事項を定めた部分)も含めるとそれなりの長さになります。

ところで「陪審法? 日本は裁判員制度なのでは?」と思われた方は鋭い。これも法律トリビアですが、日本でも一時期(昭和3年から昭和18年、1928 – 1943年)、陪審制(市民から選定された陪審員が裁判に参与して、事実の有無などにつき判断する制度)が実施されていました。

ちなみに、陪審員は「事実の有無」を判断しますが、裁判員は「事実の有無」に加え量刑(刑の重さ)も判断します(法解釈は行いません)。

そして、陪審制を根拠付ける法律が陪審法(大正12年法律第50号、1923年)です。この陪審法は「陪審法ノ停止ニ関スル法律」で施行を停止されているだけなのですね。

ちなみにいつまで停止されているかというと、「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム」(附則3項)となっています。「今次ノ戦争」(第2次世界大戦)は終了したものの、「勅令」は今現在、定められていません。そして裁判員制度が平成21年(2009年)にスタートしています。

条文1条 附則なしの法律

ちなみに条文が1条で附則もない法律に、

▼失火ノ責任ニ関スル法律(明治32年法律第40号、1899年)
民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ在ラス

――があります。この法律は意外と重要です(縁がないことを祈ります)。

民法709条は「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」という規定です。したがって、「失火ノ責任ニ関スル法律」により、「失火ノ場合」で「重大ナル過失」がないときは、損害を賠償する責任を負いません。

日本は歴史的に木造建築物が多く、火事による損害の賠償が高額になりやすかったという事情があり、「失火」の場合はまあ許してあげようということになりました。

ただ「重大ナル過失」があるときは許してもらえませんし、故意の場合はそもそも「失火」ではないので、やはり許してもらえません(当然かもしれませんが)。夏ではありますが、火の元には十分ご用心ください。(弁護士)

リケジョってどうよ? 女子中高生を対象にワークショップ 茨城県

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「理工系進路選択応援事業」ってマジ、カタクね!?(写真はイメージ)

理工系女子応援事業を進める茨城県が「リケジョワークショップ」の参加者を募集している。文系理系の進路選択で迷っている県内の女子中高生を対象にしたワークショップで、9月12日のウェブ開催に向けて、参加を募っている。

今回は、理工系分野で活躍する女性にインタビューを行い、その様子を撮影した「理工系進路選択応援動画」を制作、県内の女子中高生に広く配信するという企画。動画制作にあたって、文理選択や将来の進路選択に迷う女子中高生の意見を参考にしながら進めていくためのワークショップとなる。

9月12日にウェブ開催

対象は県内の女子中高生で、学年は問わない。ワークショップは9月12日午後2時から2時間程度のウェブ開催を予定している。

スマホやパソコンで、自宅や学校等から参加でき、県は「普段おしゃべりできない他校の生徒とも安心に交流ができる」とアピール。首都圏や県内の理工系学部の大学で実際に勉強している女子大学生も参加、受験勉強や進学後の実情について話が聞けるそうだ。

県の理工系女子応援事業は、「科学技術イノベーション分野における女性の参画拡大と次世代のグローバルリーダーの育成を目指し、理工系分野への興味関心と理解を深め、この分野への進路選択を促進させる」取り組みを掲げている。

詳細は県のホームページ。申込期限は9月4日まで。申し込みフォームはこちら

《吾妻カガミ》88 つくば市長の看板公約を検証する

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】車のトランクを整理していたら、段ボール箱の奥から「いがらし立青 つくば市長選 出馬表明 記者発表資料」(2016年8月2日)が出てきました。A4判1枚の発表文では、筆頭公約に「運動公園問題の完全解決」を掲げ、具体的には「予定地は就任後直ちにURと返還交渉を行う」「陸上競技場は適切な場所・規模・方法で確保する」と書かれていました。

今回のコラムでは、五十嵐さんの看板公約ともいえる、この運動公園問題を検証します。具体的公約「陸上競技場…確保」については、本サイトの記事「陸上競技場基本構想会議が初会合」(7月31日掲載)をご覧ください。青字部をクリックすると、問題の経緯・現状・予定がレポートされています。

記事によると、基本構想会議が7月末に開かれ、11月上旬開く予定の会議で、陸上競技場の場所や規模などを詰めることになったそうです。これには、五十嵐さんはこの4年間一体何をやっていたのか、11月上旬って市長選(10月25日)が終わってからではないかと、思わず笑ってしまいました。

といって、何もしなかったわけではありません。廃校になった高校の跡地に、中学生の公式競技ができるレベルの陸上競技場を造る案はありました。しかし、立地、規模、規格などで構想会議の支持は得られず、市はこの案について「一つの事例研究」と弁解したそうです。4年も経つのに、どこにどんな競技場を造るのか、何も決まっていないということです。

「運動公園問題の完全解決」は完全未解決

具体的公約「予定地…返還交渉」については、市長就任後に無理であることが分かりました。市とUR(都市整備機構)の契約書には、既契約に瑕疵(かし)がなければ過去に遡(さかのぼ)って契約を変えることはできないと、記されていたのです。

それなのに、出馬の際には「就任後直ちにURと返還交渉を行う」と宣言していました。「1丁目1番地」の公約に掲げながら、再交渉が可能かどうか、市の担当課に聞くとか、情報公開を求めるといった基本動作をしなかったようです。結果、「予定地…返還交渉」は実現可能性ほぼゼロの公約になり、先の市長選を大きく歪めました。

具体的公約「陸上競技場…確保」にちょっと戻ります。市議の多くは、市が民間に売却しようとしている運動公園予定地に、陸上競技場を持ってきたらどうかと提案しています。この案は五十嵐さんの具体的公約「予定地…返還交渉」と矛盾しますから、市長への忖度(そんたく)も生み、構想会議の議論はかなり歪んだものになるでしょう。

これまでの検証で、五十嵐さんの看板公約「運動公園問題の完全解決」が完全未解決であることが明らかになりました。また、調査不足の公約で市長選が歪められたこと、さらに、陸上競技場検討作業が歪められるであろうことも明らかになりました。これら選挙と行政プロセス(流れ)での歪みは、市政に対する信頼を損ないます。目玉公約は実行されなかっただけでなく、重い後遺症も残したわけです。(経済ジャーナリスト)

《沃野一望》18 伊東甲子太郎の2 新選組の甲子太郎

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かすみがうら市志筑方面から望む筑波山

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

元治元年(1864年)11月、常陸国筑波山の麓、志筑村出身の伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)は、婿入りしていた江戸深川佐賀町の伊東道場を見捨て、門弟7人とともに、京へ出立した。東下してきた新選組局長近藤勇の熱心な勧誘に応じ、新選組に加わるためだった。

余談になるが、元治元年11月といえば、この欄で前々回まで連載した藤田小四郎たち水戸藩天狗党が、常陸国大子町より西上の途についた秋、時代はまさに沸騰点。

新選組は、無理やりおしつけられるかたちで就任した京都守護職会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)の支配下におかれた武闘殺戮集団。伊東甲子太郎が、近藤局長に入隊を誘われたころになると、あまりに過激な戦闘の日々に、戦死、負傷、切腹、逃亡があいつぎ、隊士が60人ほどに減っていた。成り上がり者集め集団の組織力・機動力は、いちじるしく低下していた。近藤勇は、勢力回復のため、やみくもに人材をもとめていた。

そこへ、伊東甲子太郎たちが入隊する。

入隊時の約束通り甲子太郎は、副長土方歳三(ひじかた としぞう)と同格扱いの「参謀」に処遇されると、隊内でその存在感をめきめきと発揮してゆく。

剣の冴えはもとより、尊王攘夷思想にうらうちされた明晰な弁舌、さらには、それまでの新選組気風になかった、ひとりひとりの配下隊員の活動を尊重する組織作りで、古参隊員の信頼さえ獲得していった。

新興理論派VS正統武闘派

いつしか新選組は、伊東甲子太郎派(新興理論派)とアンチ伊東派(正統武闘派)という二極構造の組織になっていった。アンチ伊東派の筆頭は、土方歳三。あらゆる局面で、議論を毛嫌いした。尊王攘夷の是非を論ずる以前に、論ずること自体を受け入れない武骨だった。

「斬って、斬って、斬りまくれ、それが、すべてだ」。土方の猪突猛進は、それはそれで、殺人集団新選組本来の目的を実践してゆく本流であり正論だった。日ごとに、伊東と土方の対立は深まってゆく。

戦闘で敵を討ちもらし負傷を負った隊士に土方は、隊規にのっとり切腹を命じたが、甲子太郎は、隊規を無視してかばった。「傷をなおして、また活躍すればよい」。一命を救われた隊士は、甲子太郎に心酔し、以後の行動をともにしてゆく。

局長の近藤勇は、両者をそれぞれに都合よく使いまわした。本来の武闘の場面では土方を、殺戮(さつりく)戦にかりたてる一方、ひそかにあこがれる学問、論説の静の分野では甲子太郎を尊重した。

伊東甲子太郎に増長の勇み足があった側面は否定できない。次第に、隊の本流から遊離してゆく。新選組をのっとってしまうのか、新選組と訣別(けつべつ)するのか、はたまた土方に斬られるか。甲子太郎に、進退の決断がせまられていた。折から、孝明天皇が崩御。御山陵が東山に築かれる。(作家)

【語り継ぐ 戦後75年】③ 物言わぬ証言者 予科練生の遺品を収集

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人間魚雷「回天」で出撃した特攻隊員のパネル前に展示されている特眼鏡(下の細長い筒)について説明する行方滋子さん=阿見町青宿、陸上自衛隊武器学校内の雄翔館

予科練戦没者の遺品や遺書を保管、展示する「雄翔館」が、阿見町青宿、陸上自衛隊武器学校内にある。第2次世界大戦中、予科練生を訓練した土浦海軍航空隊があった場所だ。特攻隊員として出撃した少年らを訓練し、約1万9000人の死者を出した。

陸上自衛隊事務官として武器学校に勤務する行方滋子さん(48)は10年ほど前から、インターネットオークションなどで予科練の遺品を自費で収集している。

2009年、武器学校広報援護班に異動となり、雄翔館の案内を担当したことがきっかけ。来館者にきちんと伝えたいと予科練について勉強し、10代後半の予科練生たちがどう生きたのか、真実を正しく伝えたいという思いを強くした。

これまでに収集した遺品は、人間魚雷「回天」の特眼鏡(潜望鏡)、予科練で使用された教科書、日の丸の旗に書かれた寄せ書き、割られた杯(さかずき)、当時のアルバムなど240点に及ぶ。杯は、水杯として出征時に割られ神社境内に埋めたものを、後日、母親が掘り起こして金継ぎし保管していたものだという。「母親は、割った杯を継いで元に戻せば息子が帰ると信じていたのだと思う」と行方さん。

予科練にまつわる全国各地の戦跡を回り、生存者や遺族なども訪ね歩いた。「回天」の訓練基地だった山口県大津島、米軍の機銃掃射を受け貨物船に乗船していた予科練生82人が犠牲になった兵庫県淡路島、特攻隊の出撃基地だった鹿児島県知覧や鹿屋などを訪ねた。

さらに生存者や遺族15人ほどの証言を集めた。初めて証言を聞いた元予科練生は、2013年に96歳で逝去したかすみがうら市の角田和男さんだった。太平洋戦争時、撃墜王と呼ばれた海軍中尉で、戦争末期には特攻機を目的地まで援護する役割の直援機でたびたび出撃した。戦後は開拓農民として農業に従事する傍ら、遺族を訪ねたり、南方で慰霊を行うなどした。

訪ねた行方さんに角田さんは、上空で体当たりする特攻隊員を見送ったときの様子や、翌朝の出撃を控えた隊員らと共に過ごした様子を語ってくれた。なぜ海軍は特攻隊をつくったのかについて角田さんは、神風特攻隊の創設者の1人、大西瀧治郎中将について触れ「フィリピンの戦いで一矢報いて講和にもっていき、戦争を終わらせるためだった」と語った。しかし戦争は終わらなかった。

特眼鏡で最期に見た景色

行方さんが収集した遺品は自宅に保管してあるが、回天の特眼鏡は今、雄翔館内の予科練生、北村十二郎の写真パネル前に展示されている。

北村隊員は1945年6月、回天で出撃しマリアナ東方海域で消息を絶った。「回天は一度出撃したら命はなかった。隊員たちが特眼鏡を通して見た最期の景色がどんなものだったか、遺品を通してさまざまな思いを伝えていけたら」と行方さんはいう。

雄翔館は、予科練出身者や遺族などでつくる「海原会」(東京都品川区)が管理している。しかし海原会自体、1973年の創設時は8000人いた会員(うち予科練出身者6000人、遺族2000人)が、現在は創設時の10分の1を下回り、700人以下になっているという。

海原会事務局長の平野陽一郎さん(69)は「予科練の生存者も90歳を超え、予科練生を直接知る親やきょうだいなどの遺族も亡くなってしまったか、高齢化している。武器学校のOBなどにも呼び掛け、一般の思いのある人を募って海原会の会員に迎え、つないでいきたい」と語る。

雄翔館。隣に阿見町の予科練平和記念館がある

世代交代で散逸の危機

予科練の遺品や遺書は戦後、親やきょうだいの手で大事に保管されてきたが、親が亡くなり、きょうだいが高齢化する中、世代交代をきっかけに、廃棄されたり、インターネットオークションに出品されるケースが増え、散逸の危機にあるという。

行方さんは現在、海原会参与・同霞ケ浦副支部長としても活動する。「遺品は物言わぬ証言者。戦没者の思いがこもった遺品が葬り去られないようにしたい」と話す。

《続・気軽にSOS》67 暑いから汗をかくの?

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【コラム・浅井和幸】先に答えを言うと、「暑いから」ではなく、「熱いから」です、という先日の会話をお届けします。

A君「暑いっすねぇ。梅雨なんて早く明けろなんて言ってた自分はどこ行った?ってぐらいに、早く夏が過ぎて欲しいっす」

浅井「ははっ、そうだね」

A君「もう、汗かきっぱ、水飲みっぱ」

浅井「若いからねぇ。汗もドンドン、かくといいよ」

A君「若いから?」

浅井「うん、歳をとると、汗の量が少なくなるらしい。足とか体の下から、汗の量が減ってくるってさ」

A君「へぇ。それって心理学っすか?」

浅井「そんなわけないでしょ。生理学の類かな?わかんないけど。ところでさ、どうして汗をかくんだろうね」

A君「そんなの、暑いからに決まってるじゃないっすか」

浅井「なにが?」

A君「なにがって、気温とか、室温とか」

浅井「うん、そうだね。それも要因にはなるかな?」

A君「なにかのひっかけ問題ですか?」

浅井「いやいや、いつも俺が意地悪をするわけじゃないよ。じゃ、別の質問。汗を止める方法は何?」

A君「それは、エアコンに決まってるでしょ」

浅井「そうだね。エアコンで涼しければ、汗はおさまるね」

A君「それ以外ないですよ。あっ、うちわであおいでも汗はとまる。危ない、また上げ足を取られるところだった」

汗が蒸発するとき体温を奪っていく

浅井「いやいや、意地悪じゃないって。じゃ、寒い冬にマラソンをしたらどう?」

A君「あれ?汗かきますね。寒いけど。熱いから」

浅井「何が熱い?」

A君「体が」

浅井「そうだね。暑い夏に、プールに入り過ぎて唇が青くなるような体験はない?」

A君「自分はないっすけど、クラスメートでは昔いましたね。ブルブル震えてました」

浅井「そう、プールで体が冷えたから、気温が暑いのに汗をかくどころではなく、体を温めようと震えちゃう」

A君「なんか分かってきた気がします。外や部屋が暑いから汗をかくだけではなく…」

浅井「…」

A君「もう、意地悪しないで教えてくださいよ」

浅井「だから意地悪じゃなくて、考えることも大切なんだって。ま、いいか。汗をかくのは、体温が高いから、それを下げるために発汗するんだよ。気化熱っていって、汗が蒸発するときに体温を奪っていくんだ。体温調節で、気温が低くても汗はかくし、気温が高くても震える」

A君「で、それは、何かいい話になるすか?」

浅井「特にするつもりはないけど、そう言われると何かにこじつけたくなるね。そうだな…汗が出るほど暑いときに、エアコン調整ができなければ、タライに水道水入れて足を突っ込んでもよいし、ペットボトルに入れた水を凍らせて、タオルを巻いて体に当てるとよいよ」

A君「それ、いい話ではないです」

浅井「もう、面倒だなぁ。人は原因を固定観念でとらえて間違ってしまうと、固定された対処法、間違った対処法しかできなくなるよ」

A君「おっ、なんとなくよい話になった」

浅井「はいはい、ありがと」(精神保健福祉士)

コロナ対策商品券を162人に重複発送 つくば市

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つくば市役所

【鈴木宏子】コロナ禍の緊急経済対策の一つとして、つくば市が計約8万7200人に配っている1人5000円分の「市民生活応援商品券」について、同市は14日、162人に重複発送してしまったと発表した。

市こども政策課によると、8月12日に2回目の発送をした際、4月16日から同30日の間に出生届を出した108人と、5月1日から6月30日の間に県内に転出した54人に重複発送した。

出生した108人については、7月30日の1回目の発送で住民登録をもとに配ったのに、2回目の追加発送の際、確認を怠ったのが原因という。

転出した54人については、1回目は市内の前の住所に発送し、2回目は転出先に再度、発送してしまったという。

13日に複数の市民から、重複して商品券を受け取ったと市に連絡があり、重複発送が判明した。

同課は14日までに162人全員に電話して謝罪した。重複発送分は回収するとしている。

商品券は、8月1日から11月30日までの間に、市内の約800店(7月末現在)で利用できるもので、18歳以下の約4万6000人と、70歳以上の約3万7000人、障害者約4200人の計8万7200人に配布している。

コロナ禍で影響を受けている家庭や地域経済の支援が目的で、事業費は総額4億3600万円に及ぶ。

5月1日時点でつくば市に住民登録をしている市民が対象だが、0歳児については7月31日生まれまで対象を広げており、追加で発送作業が実施されている。

つくば市またワースト1位 4月の待機児童数

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【山崎実】県子ども未来課が4月1日現在でまとめた県内の待機児童数は193人で、市町村別では昨年に続きつくば市の42人が最も多かった。次いでつくばみらい市30人、取手市と阿見町が各24人。県南地域の待機児童数が123人と全体の64%を占めた。

県全体の待機児童数は昨年同期(345人)と比べ152人減少した。つくば市は減少幅が89人と最も多かったが、ワースト1解消に至らなかった。

待機児童の内訳は、0~2歳児が157人と81.3%を占め、3歳児以上は36人(18.7%)となっている。

県は、待機児童の発生要因として、女性の就業率向上による入所希望者の増加と、追いつかない保育士不足を挙げ、保育の受け皿拡大と、保育人材の確保に取り組んでいくとしている。

具体的には、国の保育所整備交付金などを活用し、地域の実情に応じた保育所、認定こども園、小規模保育施設などの整備や、家庭的保育事業所の増加を図り、市町村の保育受け皿の整備を推進していくとしている。

また保育人材の確保では、いばらき保育人材バンクや保育士修学資金貸付制度など、各種施策を積極的に展開、運用して確保に努めていく考え。

市町村別待機児童数
順位市町村名待機児童数
1つくば42
2つくばみらい30
3取手24
3阿見24
5水戸23
6下妻11
6那珂11
8ひたちなか10
9古河8
10土浦2
10神栖2
10鉾田2
10東海2
14常総1
14守谷1
 193
2020年4月1日現在

《土着通信部》40 根本健一さんのつくばスタイル

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在りし日の根本健一さん=2017年12月、筆者と旅した高松で

【コラム・相澤冬樹】音楽はクラシック党、名画を求めてエルミタージュやフィレンツェの美術館を訪ねたりしていたから、こと芸術に関しては本格志向だった。それでいて新奇さや前衛に傾倒する新しもの好きで、学生や若いアーティストにパトロンじみた支援も行うなど、鄙(ひな)には稀(まれ)な人物だった。鄙―つくば市吉瀬の田園を「ルーラル」と呼んで、筑波研究学園都市の「アーバン」と対置する取り組みを行ってきた根本健一さんが4日、亡くなった。66歳だった。

今の筑波都市整備の前身、第3セクターの筑波新都市開発で竹園や天久保のショッピングセンター開発に取り組んでいた根本さんが退職し、吉瀬の自宅の長屋門で画廊を始めたのは30歳前後、80年代の初めだったと思う。鄙に戻って家業の農家を本格的に継ぐのかと思えば、口にしたのは「農村業」への転身だった。

3セクはデベロッパーだったから、身に着けた不動産業の知識を農村に合った形で事業化する展開を考えた。科学万博のあった85年を契機に退職、長屋門を構えるほどの旧家の母屋はやがてレストランとなり、自宅周辺の小家屋は陶芸工房や貸しオフィス、美術学生のアパート兼作業場として提供された。

平成になると、事業は吉瀬集落からつくば市周辺に及ぶ。吉瀬には林間のオートキャンプ場「フォンテーヌの森」を開設、「アウトドアライフ」やら「RV車」などがトレンドワードとして急浮上していた時期で、時代の先取り感はあった。「グリーンツーリズム」や「クラインガルテン」など農村業にまつわる横文字には即座に反応し、企業化を図ったが、イチゴの水耕ハウス栽培など空回りすることも少なくなかった。

農村のストックを付加価値の先頭に

高度経済成長が続いた80年代まで、農村の都市化は不可逆的で、学園都市周辺の農村部はいわゆる「混住社会」というとらえ方をされていた。しかし「混住」は過渡期の姿ではなく、地域社会の1つのありようであることが、まさにつくばで明確になってきた。根本さんは筑波大学をはじめとした都市計画、地域計画の専門家、芸術家たちと交流するなかで、手法や考え方を学び、地域のなかに具体的に落とし込む作業に没頭した。

2005年のTX(つくばエクスプレス)開業に前後して唱えられた「つくばスタイル」こそ、混住モデルの提示と言えた。このブランドづくりに一役買った根本さんは「CROSSつくば」06年1月号に「つくばスタイル 新・田園ライフの提案」を書いている。「農村のストックを付加価値の先頭に登用する」と市民農園への「モービルホーム」係留などの展開法を提示した。

新しもの好き、根本さんの先取りはいかんせん早すぎたのかもしれない。根本さんの好んだカタカナ言葉、「グリーンツーリズム」も「モービルホーム」も「古民家リノベーション」も、今は地域づくりのツールとして普通に使われるようになった。しかし、時代が追いついてきたとき、根本さんは生き急ぐかのように逝ってしまった。

心臓に持病を抱え、昨年11月脳梗塞に倒れた。以来丸9カ月に及んだ闘病生活。コロナ禍で周囲の面会もままならないなか、家族だけが看取る静かな死だった。

葬儀で井坂敦実さん(最後の筑波町長、元つくば市教育長)は、長い付き合いを振り返り「みんな中途半端になった」、叱るように早すぎる死を惜しんだ。(ブロガー)

【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

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「土浦からの便り」を手に著者の松岡義和さん=北見市・絵本美術館

【相澤冬樹】松岡義和著「土浦からの便り」という本がある。サブタイトルは「北見出身海軍予科練習生の記録」、1992年に北海道の郷土出版社、北見叢書から刊行になった。土浦市立図書館に照会すると蔵書になく、県立はじめ県内の図書館を検索できるレファレンスサービスでも所蔵を確認できなかった。ネット経由で取り寄せると共に、著者の健在を聞いて、北海道北見市に松岡義和さん(82)を訪ねた。

七つボタンの下は傷だらけ

著作にいう「土浦」は、土浦海軍航空隊、いわゆる「予科練」のこと。1939(昭和14)年、阿見町青宿の霞ケ浦畔に設置され、全国から志願してきた14歳半から17歳までの少年を試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をした。戦争末期には神風特別攻撃隊(特攻)の主力となった。予科練出身の戦没者は1万8564人を数える。基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)になっている。

「便り」は、1943年6月に15歳で海軍予科練習生(甲種12期)として入隊、45年4月28日に沖縄戦で特攻死した竹村久志が、北海道訓子府町(くんねっぷちょう)の実家に書き送った25通の軍事郵便と2通の遺書に基づいている。配属された名古屋海軍航空隊で書かれたものや、出撃基地となった鹿児島国分第二基地で書かれたものも含まれるが、「北海道では予科練といえば土浦が代名詞、逆に土浦といえば今も予科練以外のイメージは浮かばない」と松岡さん。同じ時期、北見地方から入隊した予科練生数人の足跡も追っている。

現在、北見市で私設の絵本美術館を運営している松岡さんは名寄短期大学の元学長、劇作家や画家の肩書もある。竹村はその叔父に当たる。松岡さんの母親の実家が竹村家で、12人の兄弟姉妹の長姉、久志が末弟だった。

竹村家に男子は4人いたが、長男(茂)はビルマ、2男(信雄)は北支、3男(実)はシンガポールに出征しており、4男(久志)が軍人になるには志願する以外になかった。家業の雑貨店は戦時中、母親のツタ(1974年没)、妹の佐津子ら残った女性たちで細々と維持していたが、やがて売る品もなく廃業した。兄3人は戦後復員している。

松岡さんは、年齢が10歳しか離れていない叔父の久志を兄のように慕った。1944年1月、ふるさと訓子府に最後に帰省した日のことを、国民学校1年生だった松岡さんは今も克明に覚えている。七つボタンのりりしい制服姿を見に、雑貨店の店先には人だかりができたという。

名指しされ、得意になって一緒に風呂に入ったが、流した背中は傷だらけだった。海軍精神棒、通称「バッター」による罰打をはじめとする過酷な訓練(制裁)による傷跡は、自身の母親には到底見せられない姿だったのだ。

執筆に当たって松岡さんは、土浦に2度足を運んだ。竹村久志が「下宿」とよんで、休日にあそばせてもらった布川屋(土浦市川口)を探しあてたりしている。焼き鳥店の若主人から「裏の長屋のおばさんが予科練の若者を世話していた」という話を聞くことが出来た。おばさんは他界していたが、姓は松井か吉井だったという。

後列右から2人目が竹村久志。北見中学時代の友人と=同書から(渡辺清氏提供)

2通の遺書の意味

竹村久志は2度特攻出撃をしている。一度目の出撃のとき、どこの島かは記されていないが不時着し、島民に救助されて一度は帰還したと軍事郵便の中にある。搭乗したのは九九式艦上爆撃機。複座に操縦と偵察の要員2人が乗ったが、戦争末期には機体を軽くするため偵察関係の機器類はすべて取り外されていた。「久志は偵察要員だったから、やれる仕事がほとんどない。どんな気持ちで片道燃料の飛行機に乗ったのか」と2通の遺書を読み返す。

前略 色々お世話になりました。愈々(いよいよ)これが最後です。お母さん皆様お元気で。白木の箱が届いたならば、たいした手柄はたてないが泣かずにほめて下さい。
桜の散る頃に散るのは本望です。遺品は皆下宿にあります。ひまの時に取りにきて下さい。挙母(ころも、現在の愛知県豊田市の町名)に来たら下宿と愛知さんのお母さんの所まで行って下さい。
佐津子も体に気を付けろ、皆様お元気で、さようなら。
 国分航空基地にて 久志より

故郷のお母さんへ
整列の声がきこえます。今出ます。出撃だ! スクヤケ

松岡さんは出版後も、2通の遺書にこだわり続けた。1通は万年筆でしっかりとした楷書で書かれていたが、もう1通はざら紙に鉛筆の走り書きで、文も短く、左端に「スクヤケ」と書かれていた。「スクヤケ」は「すぐ焼け」のことだと推察したが、なぜ焼かなければならないのか、すぐには理解出来なかった。

後に特攻隊に関する書籍、記録文献、報道番組などによって、鹿児島県内の特攻隊基地のうち、陸軍は知覧から、海軍は鹿屋と国分から、それぞれ出撃したと知る。陸軍では、機体のエンジン不調や敵艦隊を発見出来ず不時着した生存者は、知覧近郊の「寺」に収容され2度と出撃することはなかった。死んだ者として、敗戦の日まで寺で写経などをして生き残ったと聞かされた。

ところが、海軍特攻隊は一度遺書を書いた者は、戦死者として2度と遺書を書くことを許さなかったと松岡さんは断じる。だから、2度目の出撃の時は隠れて鉛筆で走り書きをして、戦友か見送りの婦人会の人に頼んでふるさとへ送られてきた。それが「スクヤケ」の意味だと解せた。

自身が関わる北見叢書はことし結成30周年。叢書は18集まで数え、うち4冊が戦争をテーマにしている。しかし、ここ数年刊行が止まっている。松岡さんは「もう久志の話は書き足すことがあまりない。戦争については、あの時代の関係者や話を伝え聞いた縁者まで多くが亡くなってしまった」と残念がった。

取材後、松岡さんから郵便が届いた。新書判の「土浦からの便り」が同封されていて、「土浦の図書館に届けてほしい」旨信書が入っていた。土浦市立図書館に持参したが、扱いがどうなったか返事はない。