【コラム・斉藤裕之】4月の初め、家のプルーンの木に小さな白い花がいっぱい咲いていて驚いた。これまでも、ぽつりぽつりと咲いたことはあったのだが…。去年植え替えたブーゲンビリアも見事に咲いて、気が付けば、昨年手に入れたレモンの鉢植えもいくつか花が咲いている。

花は色彩にあふれ生き生きとして、描く者にとっても飾る側としても、最も好まれるモチーフだ。バラやユリ、シャクヤクやボタンなどは、文字通り「華のある」モチーフとしてよく描かれるが、私はそれほど引かれない。

ふと、モネの「睡蓮(スイレン)」を思い出した。フランスに留学していた時には美術館のフリーパスをもらっていたので、「睡蓮」のあるオランジェリー美術館(元はオレンジの倉庫だった)に何度も通った。また、パリ郊外のジベルニーにあるモネのアトリエを訪ね、睡蓮の池のある庭も歩いた。

日本では優しい色彩の印象派として知られるモネだが、その眼は驚くほど映像的で一眼レフカメラのようだ。それから、例えば積み藁(わら)の絵や崖を描いた作品を白黒にしてみると、デッサン力が卓抜していることもわかる。そして、一見情緒的に見える色彩は理論的に重ねられている。

しかし、なぜ睡蓮だったのだろう。当時モチーフに苦慮していたモネが、偶然ジベルニーを訪れて睡蓮に出会ったというが…。

歴史的に、花は卓上の静物あるいは風景の一部として描かれた。しかしモネにとっては、睡蓮という花そのものではなく、「睡蓮のある水面」が重要だったのだろう。つまり、ルーアンの大聖堂が建築物としての構造や奥行きを描くために選ばれたのではないように、何度も描かれた庭や池は、モネの求める絵画空間や色彩表現の実験台として格好のモチーフであったのだと思う。

例えばモネが土浦に住んでいたとして、霞ケ浦の広大な蓮田を描いたか? 否。(ゴッホなら蓮を描いたかも)

花はやはり軽くなくてはいけない

さて、今年もドクダミがきれいに咲く季節となった。それから、以前はほとんど見ることがなかったアザミが、ここ数年道端や野にあるのを見つけて、これまた描きたいと思う。そして、ご近所さんの庭先や公園で、白くてころりとしたナツツバキが、こちらは地面に落ちているのを描く。

花はやはり軽くなくてはいけない。どんなにきらびやかでも、華々しくとも、触れれば柔らかく薄く軽くある。だから、アジサイが何キロもあるような塊になってはいけない。それから、花こそ自然の摂理そのままの形をしていて、いい加減には描けない。そのあたりが面倒くさいから、花を避けているのかもしれない。

散歩の途中でネジリバナを見つけた。らせん状のピンクの花がかわいらしいが、こちらは描かずにめでる。「ネジリバナ ねじれて咲いて 素直かな」。どなたの句だったか忘れたが、毎年この花を見ると思い出す。そうだ、今年はクズの花を描こう。毎年描こうとしてうまくいかない花たち。(画家)