土曜日, 4月 12, 2025
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様々な交通事情:米国での1980年代の経験《文京町便り》19

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は米国での交通・運転事情の体験を語ってみたい。とはいえ、ある特定の地域・時期にことであり、あくまでも私の個人的な感想である。

マイカーを実質的に運転し始めたのは、1980年代初頭、米カリフォルニア州だった。1960年代末期に、日本(地元茨城県)で免許証は取得していたが、東京の生活では、自分で車を運転する必要もなかった。したがって、渡米直前、陸運局に国際運転免許証(かなり大判)を申請し、それを持参したわけである。

入国後2~3カ月して、中古車(後に現地では欠陥車と判明)を安価で手に入れ、キャンパスのかいわいを利用していた。

たまたま郊外に出向くことがあり、パトカーに呼び止められた。そこで警察官(カリフォルニア州)に、日本から持参した国際免許証を見せたのだが、彼はこれを自分は知らないという。国際免許証には、これを承認している外国政府名が記載されていて(そのためにかさばっているわけだが)、当然、米連邦政府もその1カ国である。

しかし、この警察官は、自分はカリフォルニア州の法律に基づいて職務を執行しているのであって、米連邦政府の指示には従う必要はない、という。とはいえ、今回は車線侵入ミス程度なので警告だけにとどめておくと温情措置。

そこで私は、カリフォルニア州の運転免許証を取得するべく、試験会場に赴いた。筆記は、当時は英語以外にも複数の言語(スペイン語、日本語など)が選択でき、私は、試験問題の日本語訳に疑問はあったものの、日本語を選択した。記入済みの解答シートを受け付けに戻せば、30分後に結果が判明。

実技は、私のマイカーに試験監督者が乗り込み、近くの回遊ルートを15分ぐらい周回するというもの。そもそも、この運転免許申請者がどうやって(どのような手段で)ここにやってきたかは、問わない。

要するに、この試験は落とすための試験ではなく、最低限の交通ルールと運転操作マナーをクリアしているかどうかのチェックなのである。できるだけ多くの希望者に、ライセンスを授与することが趣旨だったのである。

希望者にはできるだけ免許証を交付

米国では、大都市以外では鉄道・地下鉄などのネットワークが限定されている関係で、スーパーおよびマイカーは、米国民の日常生活の基本中の基本であり、それなしでは夜も日も明けない。

そのために、できるだけ多くの希望者に運転免許を与え、かつ、ガソリン価格を安価に維持し、利用者にストレスを感じさせないパーキング構造を確保する。初心者でも、運転技能の低下している高齢者であっても、運転操作・駐停車できるようにしておくことが大前提になる。

そうした運転環境になじんでしまったせいか、私は現在でも、スペースに制約のある日本のコンビニなどでの駐車が苦手である。

そのことを、先般の高齢者講習で一緒になった他の受験者にポロっと語ったところ、それじゃ、日常生活で困っちゃうじゃないかと指摘され、だから自分はコンビニにはマイカーでは行かない、と返した。日本では、潤沢な駐車スペースの確保は望めないが、最近の車はカメラ機能が向上しているおかげで、こうした制約は解消されているかもしれない。(専修大学名誉教授)

「里山の暮らし」で学んだこと《宍塚の里山》104

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「里山の暮らし」(左)と「続・里山の暮らし」の表紙

【コラム・阿部きよ子】NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では会発足当時から、宍塚とその周辺の地元の方々から、高度成長期以前の暮らしの様子をお聞きして記録し、2冊の本にまとめました。今回はその中から、山林の利用、特に松の利用について紹介します。

松は肥料分のない土でも岩の間でも育つ木です。菌根菌(きんこんきん)と共生しているおかげだそうです。松が多いということは、痩せた土を意味します。江戸時代の地層の花粉分析では松の花粉が最も多いのですが、縄文時代の地層からは松花粉は出ていません。人々が里山の木、草、落ち葉などを利用した中で、土が痩せ、松に適する土壌に変化したのでしょう。

松は昔の農業と暮らしに欠かせない木でした。大木は頑丈な建築用材として切り出されました。山で切って運び出すのに牛を使った話も聞きました。私たちの会が修築した「百年亭」では、11メートル長さの梁(はり)と床材は松が使われています。宍塚のある旧家で1間(1.8メートル)幅の板戸を拝見したことがありますが、この板が取れる松は一体どんな太さだったのかとびっくりしました。

私がこの里山を歩きはじめた1970年代、「松葉とるべからず」とかかれた木札を見かけたことがありました。松葉は燃料にするほか、野菜の苗床の材料として不可欠なものだったそうです。

松葉を集めたら縄を3本横に並べた上に茅(ススキ)を敷き、集めた松葉を乗せて丸めて束ねます。それが1把(わ)。6把で1駄(だ=馬に乗せる荷物の単位、米俵だと2表が1駄)。家族数に応じて、1年分60駄とか、決まった量を木小屋に蓄えていたそうです。冬に落ち葉かきをしやすいように、8月下旬から下草刈りをし、枝下ろしもして、運び出していました。その結果、当時の松林は遠くまで見通せて、はだしで歩けたそうです。

根は油気が多く、火力の強い燃料となったので、伐採された松の根株も使われました。松の根を掘り起こす「ぼくぶち」の権利を山主から買った人たちは、根本の回りを掘って、横むきの根を1本残し、そこに藤蔓(つる)の縄をかけてぐるぐる回し、下に向かう棒根を抜き取ったそうです。一株の根っこで薪5、6把の量になりました。

今後の里山の在り方を探る

この伐根方法を、里山に通う法政大の学生たちが、地元のお年寄りから実地で教えていただき、休耕畑の開墾をしたことがありました。松林はきのこの宝庫で、特に若い松林に生えるハツタケは多くの人たちに好まれました。実生の3年目くらいの松は正月の門松にちょうどよく、東京の花屋に出荷した人もいたそうです。

1970年代後半に松枯れが広がり、林の景観は変わりました。里山の木は昔のように個々の住民の暮らしに不可欠なものではなくなりましたが、CO₂の削減、酸素の供給、水の保持、多様な生き物をはぐくむなど、万人にとって重要な役割を持つようになってきました。昔を振り返りつつ、今後の里山の在り方を探っていきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

ようこそ、無人島へ《短いおはなし》18

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写真は筆者

【ノベル・伊東葎花】

妻と2人で、無人島へ行く。

無人島だけど清潔なコテージがあり、冷暖房完備。冷蔵庫には必要な食材がある。

つまり、リゾート用に整備された無人島だ。

予約客は、1ツアー1組のみ。

島の存在は、ごく一部にしか知られていない。だから誰にも言わずに行く。

クルーザーで島に着いた。

美しい島だ。夜は星がきれいだろう。

「わあ、素敵なコテージ」

「明日まで、この島すべてが僕たちの物だ」

妻の肩を抱いてコテージのドアを開けた。

誰もいないはずなのに、物音がする。

中に入ると、僕たちと同じ世代の男女が、ソファーに座っている。

「誰だ?」

振り向いた男女は慌ててソファーから降りて、床に頭をこすりつけた。

「すみません。今日予約が入っていたのをすっかり忘れていました。すぐ出て行きます」

「どういうことだ?」

「実はこの家は、私たち夫婦の家です」

「ここは無人島だろう?」

「住んでいるのは私達だけです。この家の掃除や管理をしています」

「無人島じゃないなら、詐欺じゃないか」

「ですから、お客様が来る日は林の中の洞窟で寝泊まりしています。そういう約束で金をもらっているので、ツアー会社にはどうか内密に」

「わかったよ。さっさと出て行け」

「はい」と立ち上がった途端、女がフラフラと倒れた。

「すみません。ジメジメした洞窟暮らしで、すっかり病んでしまって」

女は青い顔で立ち上がった。さすがにちょっと胸が痛む。

「あなた。可哀想よ。泊めてあげたら」

妻が言った。確かにこのまま夫婦を追い出したら後味が悪い。

僕たちの邪魔をしないことを条件に、夫婦を泊めることにした。

夫婦は物音を立てず、僕たちの視界に入らないように気配を消した。それでいて、タオルやドリンクがさりげなく用意されている。有能な執事を雇った気分だ。

夕暮れ、海から戻ると、豪華なディナーが用意されていた。

テーブルには、夫婦からのメモがある。

『差し出がましいとは思いますが、泊めていただいたお礼です』

テーブルに並ぶ料理に、妻は大喜びだ。高級なワインも用意されている。

「後片付けもやってくれるかしら」

「やらせればいいさ。泊めてやったんだ」

僕たちは、いい気分で無人島の夜を楽しむ…はずだった。

目覚めると、もう陽が高い。いつの間にか眠っていたのだ。

ワインを2杯飲んだところで記憶が消えている。

「あなた、私たちの荷物がないわ。クルーザーの鍵もない」

「あいつらだ」

昨日の夫婦を探したが、どこにもいない。

急いで林の中の洞窟に行った。

生活していた後はあるが、夫婦はいなかった。

「あなた、手紙があるわ」

『次の管理人、お願いします。大丈夫。あなたたちのような、マヌケで親切な夫婦が来るまでの辛抱です。グッドラック』

やられた…。

(作家)

甲子園決勝 エンジョイ・ベースボール 《遊民通信》71

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【コラム・田口哲郎】

前略

夏の全国高校野球選手権大会の決勝に神奈川県代表の慶應義塾高校が進出し、昨年の優勝校である宮城県代表の仙台育英高校と対戦し、8対2で優勝しました。慶應義塾高校にとっては、実に107年ぶりの優勝ということになります。この年月の長さが高校野球の歴史を物語っていると言えるでしょう。最初に慶應高校が優勝したのは、1916年(大正5年)の第2回大会、旧制中学の慶應普通部時代です。高校野球黎明(れいめい)期で、学校がいまほど多くなく、野球をすること自体が先進的だったころです。

全国の旧制中学だった高校に通っていた出身者は母校の歴史を眺めたときに、母校が高校野球の全国大会の初期に出場していたことを見つけた人も多いのではないでしょうか。私の出身校の宮城県仙台第二高校も旧制二中時代、1925年(大正14年)に出場しています。初期の全国大会にはこうして全国の旧制中学、私立中学が名を連ねていました。

でも、いまはいわゆる強豪校が常連となっていて、初期に出場していた学校が甲子園にゆくことはほとんどないようです。そうした事情を思うと、慶應高校が103年ぶりに甲子園で決勝戦に進んだことには感慨深いものがあります。

あくまで勝ちにこだわる闘志こそ

慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」というモットーも話題になっています。慶應の生徒がプレーしている様子をテレビで見ていると、笑顔が絶えず、和気あいあいとしているので、野球を「楽しむ」ことなのかと思います。

それはそうなのですが、それだけではなさそうです。『三田評論』という慶應義塾内の広報誌にエンジョイ・ベースボールの記事がありました。この言葉は慶應大学の野球部で脈々と受けつがれてきたもので、それを高校でも監督前田祐吉氏が本格的に使い始めたのだそうです。

モットーの起源は明治43年にさかのぼります。慶應野球部が2人の大リーガーを神戸に招いて合宿を行い、日本人が理論的、系統的に野球戦術を学んだ最初とされる出来事に由来するそうです(「【From Keio Museums】Enjoy Baseballの原点」)。チームワークとしての野球を考え、創意工夫をして、試合では「どこよりも闘争的に勝ちを求める」ことにより、それでこそ味わえるBaseballの楽しみこそがエンジョイ・ベースボールの真意なのだそうです。

ここには鬼気迫る真剣さがにじみでています。慶應の生徒たちの笑顔のうらにあるだろう、どの対戦相手にも負けない闘志、勝利の渇望が、楽しそうに見える不思議。この姿勢はなにも慶應の生徒だけが見せるものではないでしょう。これこそが、日本人が長らく高校球児に見てきた、青春の汗とかがやきなのかも知れません。

草々

(散歩好きの文明批評家)

いよいよ小屋暮らし【続・平熱日記】140

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絵は筆者 140

【コラム・斉藤裕之】寝るところと小さな流しと少し広めの机。できれば朝起きてから寝るまで気持ちの良い、春から冬までを楽しめる風景があること。話をする人が身近にいること。そんなところに住みたい。それはいったいどこだろう?と考えていた。

夏を故郷の山口で過ごす。生まれ育った市街の実家はもう売ってしまって今はもうないが、車で30分ばかり山に入ったところに弟の家がある。カナダでログハウスを作っていた弟は長女を連れて帰国した後、故郷に戻り地元の大工さんに弟子入りする。そして四半世紀ほど前、ここに土地を求め山を切り開いて家を建てた。やがてふたりの娘は巣立ち、今は夫婦2人暮らしだ。

夏が来るたびに私も2人の娘を連れてここにきて、よく海に連れて行ったりしたものだ。なにしろ山も海もあるしお金をかけずに遊べる。薪(まき)で沸かす風呂に娘たちがみんなで入ったり、バーベキューをしたり。夏でも夜は少し寒いくらいに涼しく、エアコンは要らない。しかし月日が経って、今やここに帰って来るのは私ひとりとなった。

仲のよい弟夫妻は趣味趣向が私と合っている。生活のリズムや休日の過ごし方、食べるもの、身の回りの物の趣味や経済観念など。

とりあえず今はやりの二拠点生活

先日弟夫妻が我が家にやって来た。茨城で私の知人の家を建てたりしたのを機に友人にも恵まれ、今回も地元のお祭りの日に宴を設けて楽しい夜を過ごしたりした。短い滞在ではあったけど、娘達のことや自分達の行く末などを話しているうちに、ごく自然とある結論にたどり着いた。

それは弟の敷地に私の小屋を建てること。幸い弟の家は広い敷地の中にあって、私が望むほどのささやかな小屋は十分に建つ。飯は一緒に食べればいいし、別棟の風呂は拝借することにする。余談だが、今の風呂をそろそろ作り直したいというので、庭に転がっている五右衛門風呂の釜を使って、この際風呂を新調しようということにもなった。

そして、とりあえずは今はやりの二拠点生活。その先のことは、またその都度考えればいいということで。

昔住んでいた浦和の別所沼公園に小屋が建っていたのを思い出した。とても気になるそのモダンな小屋は、詩人であり建築家の立原道造の「ヒアシンスハウス」。記憶はおぼろげにしかないのだが、寝るところと机と…、必要最小限のとても心地の良い空間だったような…。

弟の作業小屋には、解体現場から引き取ってきた古材や建具がストックされている。使えるものは使って建てる安価で質素な小屋。アスファルトの上より自然の中を散歩するのが大好きな犬の「パク」もきっと気に入るはずだ。(画家)

酷暑日に核廃絶と核抑止について考えた《吾妻カガミ》165

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霞ケ浦総合公園のハスの花「紹興紅蓮」

【コラム・坂本栄】先のG7広島サミットで、首脳たちは平和記念資料館を訪れて核被爆の悲惨さを見聞きし、核廃絶の必要性を痛感したはずです。それなのに、採択された声明では核兵器が持つ戦争抑止力を正当化しました。8月前半の新聞には、首脳たちの矛盾を指摘する記事も見られ、資料館訪問をお膳立てしながら声明の案文を作成した岸田政権も批判されていました。

核廃絶か?核抑止か? 核保有国、非保有国を問わず、首脳たちとっては頭の痛い問題であり、国際政治学者たちにとっても議論が尽きないテーマです。8月6日、広島での平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「1945年夏の時点で日本が原爆を保有し、米国に対する核抑止力が効いていたら、原爆の投下はなかっただろうか?」と思い巡らしました。

米の原爆開発と理研/京大の研究

当時日本でも、理化学研究所(陸軍の命令と予算、中心は仁科芳雄博士)と京都大学核物理学研究室(海軍の命令と予算、中心は荒勝文策博士)が原爆開発を進めていました。しかし、いずれも研究の域を出ず、豊富な予算と人材を投入した米国の原爆開発(マンハッタン計画)にはとても及びませんでした。

完成した原爆を実戦で使うかどうか、米首脳は悩んだようです。しかし、その破壊力を日本に実感させて降伏に持ち込み地上戦を避けたい(米軍兵士の損耗回避)、巨額の開発費を使った原爆の力を実戦で確認してみたい(開発兵器の実証誘惑)、大戦後に主要な敵となるソ連の諸活動を抑制できる(冷戦想定の政略戦略)―などを総合判断、使用を決断したと伝えられています。

もし日本の原爆開発が実用レベルに達し、その情報が米首脳に届いていたら、不使用論「日本による核報復の可能性」が使用論「米軍兵士の損耗回避」「開発兵器の実証誘惑」「冷戦想定の政略戦略」を抑え、原爆投下をためらっていたかもしれません。

ウクライナに核が残っていたら?

現在進行中のロシアのウクライナ侵略でも、ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた核兵器をウクライナが継承・管理していれば、ロシアは核報復を恐れて侵攻しなかっただろうとの指摘があります。対ロシア核抑止力が効いたはずとの見方です。

ロシア・ウクライナ戦の現実は、G7を中心とする通常兵器の支援もあり、志気が高いウクライナ軍がロシア軍を押し返し、慌てたロシアは隣国ベラルーシに戦場で使う戦術核を配備し、ウクライナをけん制するという妙な展開になっています。いずれやってくる停戦交渉をにらんだカードなのでしょう。

核廃絶と核抑止は厄介な問題です。日本の場合、抑止力として米国の核の傘が差し掛けられています。しかし、78年前のように冷徹な判断を下す米国のこと、この枠組みが不変と考えない方がよいでしょう。岸田さんは「核被爆の悲惨さ確認」と「核抑止力の正当化」をセットで演出しましたが、そのケタ外れの破壊力を再確認して帰った首脳もいたかもしれません。(経済ジャーナリスト、戦史研究者)

筑波大学医学群発 「花火の力」療法《見上げてごらん!》17

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子どもたちが描いた絵と花火(つくばけやきっず提供)。左から「虹はなび」「カエル」「花畑」「流れ星」

【コラム・小泉裕司】千紫万紅(せんしばんこう)のごとく夜空を彩る打ち上げ花火は、見上げる人の心に「感動」や「癒やし」をもたらしてくれる。この「セラピー効果」は、「花火の力」そのものではないか。

筑波大生が学園祭で花火企画

今回は、筑波大学「雙峰祭(そうほうさい)」の花火イベント、第11回「ゆめ花火」を企画運営する同大医学群学生団体「つくばけやきっず」(構成員38人)の活動を紹介しよう。

「ゆめ花火」は2011年、同大医学系学生サークル「賢謙楽学」と「花火研究会」が共同して、同大付属病院で病気と闘う子どもたちを励まそうと、雙峰祭の後夜祭で花火を打ち上げたのが始まり。同病院小児科で闘病中の子どもたちの活動支援を行う「けやきっず」がこの活動を引継ぎ、今日に至る。

今年は、11月8日午後8時30分から、大学構内「虹の広場」で打ち上げ、観覧場所は後夜祭会場の「石の広場」。「ゆめ花火」60発、ミュージックスターマイン200発を計画している。子供たちには会場内特別ブースで楽しんでもらうという。

子どもたちの描いた絵を花火に

花火の形は、子どもたちが思い思いに描いた絵を夜空に再現するというもので、いわゆる「型物花火」といわれる種類の花火。大きさは4号玉(直径12センチ)を使用するとのこと。

第1回から花火づくりを担当する山﨑煙火製造所(つくば市、山﨑智弘社長)の花火師さんは、原画をできるだけ忠実に再現できるよう熟練の技術を傾注するとのこと。型物花火の難しさは、観客側から意図した形が見えるかがポイント。ひとつのデザインに3発使用するのはそのためだろう。子どもたちが大好きな曲に乗せて打ち上げる工夫も欠かせないという。

花火を見た子どもたちのアンケートには「絵が本物の花火になって最高の思い出だった」「辛い闘病生活だったけど花火を見てまた明日から頑張れる」「涙が出るほど感動した」などと。ご家族からは「娘にも私にも勇気を与えてくれた」などの感想が届いている。

現在、小児科病棟や外来で「絵集め」の真っ最中で、全てをどうにか花火として打ち上げたい!と思わせてくれるものばかりだそうだ。

闘病中の子どもに夢と希望を

「ゆめ花火」にかかる費用は、クラウドファンディング「闘病に励む子どもたちに、笑顔と希望の「ゆめ花火」を!」で募っている。筆者も応じてはいるが、昨今の火薬類や諸経費の価格高騰に対応するためには、募集終了日まで残り15日。あともう一踏ん張りというところ。

代表の穗戸田勇一さん(34)=医学類5年=は「第1回を『花火研究会』側で始めた自分が、今度は『つくばけやきっず』側で再び携わることにも感動している。今年はコロナの落ち着きもあって、たくさんの絵が集まっている。子どもたちに夢と希望を与えられるよう、最後まで精一杯駆け抜けるつもり。皆さんのご支援を心からお願いしたい」と話す。

穗戸田さんは、「花火プロデューサー」として、県内外の花火大会の企画運営にも携わるなど八面六臂(ろっぴ)の忙しい毎日を送る。

30年ほど前、3歳の娘が白血病で入院。脊髄注射など小さな体にはかわいそうすぎて目を背けたくなる辛い治療の3年間を、無菌室で過ごした。打たれ弱い筆者は、明日が見えない不安を抱きながら、下を向いて歩く日々が続いた。

「ゆめ花火」発案者の穗戸田さんが、30年前にワープしてくれていたら、「花火の力」療法で、少しでも前を向くことができていたのかもしれない! ちなみに娘は、医療スタッフのご尽力で寛解に至り、元気でいてくれるのが何より。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

世界の見え方《続・気軽にSOS》139

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【コラム・浅井和幸】AさんとBさんは仲が悪く、いつもけんかをしていました。Aさんは、Bさんがいつも自分の悪口を言っていて、嫌がらせばかりしてくると言っています。Bさんは、Aさんは些細(ささい)なBさんの言動に文句を言ってきて、いつもBさんのことを見張っていると言っています。

それぞれは、相手を分析し、自分としては何も思っていないのに、相手が自分のことが嫌いだからわざわざ嫌なことをしてくる、そして、AさんBさんのどちらも、相手は自分にだけそのような悪い言動をしてくるのだ―と主張します。

ですが、それぞれの相手に対する分析はことごとく間違っていました。Aさんは、誰に対しても相手がより良い行動をとれるようにと、口出しをしてしまう人でした。Bさんは、誰に対しても直接悪口を言う人でした。

ただ、他の人はこの2人を避けるような行動をとることに比べて、AさんとBさんは接する機会が多く、さらには自分から寄っていき、小さなことが流せずに、コミュニケーションをとるとエスカレートしてけんかになる2人でした。

ここで面白いと言ったら、真剣な2人には失礼ではありますが、気にかかるところがあります。それは、それぞれの相手に対する評価や推測が間違っているのです。例えば「相手は自分にだけしてくる」とか、「いつも嫌がらせを考えている」とか、「田舎者だからしてくる」など。

もうひとつ面白いのは、もう関わりたくないと何度も言いつつ、自分から近づいて行ったり、長い時間を共にしたり、手紙のやり取りをしたり、相手を正そうとしたり―と、はたから見ると、積極的に関わろうとしているような行動をとるのです。

「防衛機制」の「投影」

人は不快なものを取り除こうと、不快なものを意識し続けるという特徴があります。また、悪い奴が変わるべきで、自分は悪いことは一つもないのだから、何も変わらないと主張する人も多数います。それに加えて、悪い奴をやり込めてやろうという気持ちも出てきます。このようなことから、嫌なものに近づいていき、悪循環を起こすのです。

また、「防衛機制」という言葉を保健体育で習ったかと思います。ストレスから自分を守る機能なのですが、その中で「投影」というものがあります。自分自身を守るために、自分の性格や言動を認めず、相手に自分の悪い面を押し付けるような心の動きです。

自分が相手のことを嫌いだった場合、相手が自分を嫌いだと思い込むことです(ストーカーは、自分が好きな対象が、自分のことを好きであると思い込んで対象に執着していきます)。自分がしている嫌がらせはさておき、相手がよりひどい嫌がらせをしてくるという考えに至ります。犯罪者は被害者意識が高いということは、よく知られている事実です。

世界は苦しいものだ、人間はずるいものだ、日本は弱い者いじめが好きだ、あいつは常識がない―と思ったことは誰にでもあるでしょう。さて、それは本当に対象がそのような状態なのでしょうか? それとも自分自身がそのような状態で、対象に自分の嫌な部分をなすり付けていないでしょうか?(精神保健福祉士)

トランスジェンダーの友人と語る教育《電動車いすから見た景色》45

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】来月、あるイベントで、高校時代の友人と対談する。友人は、出生時に割り当てられた性は女性だが、男性として生きるトランスジェンダー男性だ。高校卒業後10年以上たってから再会し、互いの子ども時代を語り合う中で、今の学校で障害児やLGBTQの子どもたちが過ごしづらいのは、多様な子どもたちがいることを前提に学校がつくられていないからではと感じた。

障害者とトランスジェンダーが教育について一緒に話すことで、今の学校が抱える根本的問題が見えてくるのではと思い、今回のイベントを企画した。

公の場で友人と話すのなら、トランスジェンダーに対する基礎知識は持っておきたいと、書籍を複数購入した。一言に「トランスジェンダー」と言っても、当然、全く同じ人間は存在しないし、差別をより受けやすいトランスジェンダー女性の経験は、トランスジェンダー男性とはまた違う部分もあるはずだから、過度な一般化はせずに、できるだけ冷静に読んでいきたいと思う。

しかし、読み進めるうちに、「この部分は、友人はどうなのだろう」と、無意識に友人との対比で考えてしまう。そんな自分に気づき、苦笑する。子どもの頃、同じ学校に運動障害のある子どもは自分1人だけという環境で育ち、周囲から「理想の障害児」像を押しつけられることに辟易(へいえき)していたのに、同じことを友人にやっているのではないか。

互いのしんどさを同じ俎上に載せる

一方、私にとって一番身近なトランスジェンダーは友人だ。実際のトランスジェンダーが生きているのは、本やテレビの中ではなく、私たちが暮らす現実世界だ。友人が普段、身近で経験する差別について知り、そんな社会を一緒に変えていきたいから、差別を生み出す社会構造について本で勉強する。これは間違ったことではないのかもしれない。

トランスジェンダーは人口の0.7パーセントほどしかおらず、出会ったことがないと思っている人も多いだろう。しかし、全校生徒300人の学校なら2人はトランスジェンダーの生徒がいる計算だ。男女に分けるのが当然とされる学校で、見えなくさせられているだけだ。かつて、重度障害児として普通学校で育った私が、障害児がいない前提で進められる授業の中で、必死に自分という存在を消していたように。

もちろん、友人はトランスジェンダーの代表でなければ、私は障害者の代表でもない。ただ、子ども時代に互いが感じていたしんどさを同じ俎上(そじょう)に載せることで、今の学校にある課題が見えてくるはずだ。(障害当事者)

皆さんと初顔合わせした「金太楼鮨」《ご飯は世界を救う》57

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金太楼鮨

【コラム・川浪せつ子】近場でも知らない飲食店さんがたくさんあることに驚きます。今回のお店、「金太郎鮨」(つくば市東新井)もその一つ。知るきっかけになったのは、自分勝手な思いつきからでした。

昨冬、実母が没した年齢を超えました。長生きの家系だったにもかかわらず、思いのほか早く天に召されました。建築パース(外観イラスト)の仕事をまだしようと思っていましたが、母の闘病、余命宣告の年齢を超え、命の限りあることをつくづく感じ、絵に集中したいと思うようになりました。

そして昨年から、終活ならぬ「水彩活」を始めることに。牛久の水彩画家Tさんと、2回目にお会いしたとき、「一緒に展示会させてもらえませんか?」と、むちゃブリ。「僕でいいのですか?」。そんな謙虚な方。それで気をよくし、茎崎のIさんにも声かけたら、またまた「いいですよ」

今秋、茎崎のギャラリーで展覧会

それでつけ上がった私は、Iさんに「土浦市のOさん、茎崎のSさんもお誘いしたいのですが」とお願い。実はOさんとは話をしたこともなく、今年93歳になる水彩画家K先生と一緒に展覧会にいらしていた、Oさんの絵がステキだと思ったからです。

Sさんは、いろいろな場所で展覧会されていました。その後お会いし、人柄にもひかれました。幸運なことに、皆さんと今年10月末からSさんのギャラリーで展覧会を開くことになりました。皆さん水彩画のキャリアも長く、私はお教えいただくことばかり。つくば市に来て41年。やっと、私の念願だった絵の話ができる方々に出会うことができました。感謝しかありません。

ところで、なんで「金太楼鮨」さん?ですよね。Oさんのお勧めで、5人で初めて顔合わせした場所です。そして、私のお気に入りになりました。(イラストレーター)

金太楼鮨のばくだん丼

「静かなお盆でおめでとうございます」 《訪問医は見た!》2

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筆者の友人が描いたイラスト

【コラム・平野国美】私の生業(なりわい)「訪問診療」は、依頼された各家庭にお邪魔しまして、定期的に診察を行うものです。しかし、これには義務がありまして、その患者さんに24時間対応をしなくてはなりません。熱が出た、腹が痛い、夜独りで淋しい―まで、多彩です。

電話の対応で済むことも多いのですが、出向かなくては済まないことも多々あるのです。当然、患者さんの最期に立ち会わなくてはなりません。今、ひと月に30名近くの看(み)取り、つまり最期に立ち会うわけでして、縛りが多いのです。

開業当初は、私独りで行っておりましたので、普段の生活を楽しむ余裕はありませんでした。しかし、今までに6000軒ほどの家にお邪魔し、患者さんに関わる家族や関係者と話すのは、辛いことも多いのですが、色々な気づきや発見もあります。

20年前、この仕事を始めたころ、農村地帯ではお盆の行事や飾りを見ました。そして、親戚や知り合いがあいさつに訪れる風景を見ながら、診察しておりました。そのときの来客者のあいさつが、いまだに耳を離れません。正座をして深々と頭を下げ、「静かなお盆でおめでとうございます」

「初盆でおさみしゅうございます」

今の時代、このあいさつを知らぬ方も多いと思います。正月でなく、お盆におめでとう? でも昔は、このあいさつが普通に見られたのです。この家に、この1年間、不幸が無くてよかったという意味合いのあいさつだそうです。皆さん、ご存じでしたか? 知らなかったのは私だけではないと思います。

この感動から20年後、このあいさつの対極にある風景を見ました。それは「初盆でおさみしゅうございます」。再び痺れました。確かに、この家では今回が初盆。来客者は神妙な顔つきで正座し、あいさつをします。

昔は普通に、このあいさつも交わされていたようです。遠州三河地区では、盆義理と言われる習慣として残っているそうです。

最近では、新型コロナウイルスによって葬儀や通夜が簡素化され、人を多く集めない形に変わってきました。盆踊りの行事も見なくなりました。お盆のあいさつに、親せき宅や近所を回る習慣も大分消えています。日本人の共同体(コミュニティー)には、そこに生きる人だけでなく、取り巻く自然や死者も一緒になる独特の文化があります。

私の生業は各家庭の玄関を入ってからの仕事です。私の感覚が正常に機能していれば、どこか遠くへ旅に行くことなく、地元で新しい発見をし、感動が手に入ります。「静かなお盆で、おめでとうございます」。このあいさつ、残したいものです。(訪問診療医師)

弘前ねぷたまつりを楽しむ 《邑から日本を見る》141

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弘前のねぷたまつり

【コラム・先﨑千尋】街に笛の音が流れ、太鼓がとどろく。夏の夜に次々とあふれ出てくるねぷたの群れ。ひと夏を謳歌(おうか)する津軽衆が街を練り歩く。私は今月4、5日の夜、繁華街の弘前市土手町とJR弘前駅前に立ち、7年ぶりに弘前のねぷたを堪能してきた。

弘前ねぷたまつりは、三国志や水滸伝などを題材にした、勇壮で色鮮やかな武者絵が描かれた扇型の扇ねぷた、人形の形をした組ねぷた、子ども用ねぷたが、日中の暑さが残る中、「ヤーヤドー」の掛け声とともに市内を練り歩く祭りだ。

今年は、愛好会や子供会、幼稚園、医師会などから、大小合わせて63台が参加。コロナ禍のために4年ぶりの運行となった。まつり本部の発表だと、5日は30万人の人出。観客は早くから場所取りに忙しく、駅前には有料席も設けられていた。各団体のスタートは午後7時。交差点などで、ねぷたを勢いよく回転させると、力強い武者絵と哀愁を帯びた見送り絵が交互に現れ、観衆から拍手が沸き上がっていた。

ねぷたの起源にはいろいろ説があるようだが、暑さの厳しい、農作業の忙しい時期に襲ってくる睡魔を追い払うため、村中一団となって、さまざまな災いや邪悪を水に流して村の外に送り出す、農民行事から生まれた「眠り流し」がねぷた流しに転化した、と言われている。起源は古く、300年以上も前から行われてきた。

大人から子供まで世代交流の場

青森市では同じ行事を「ねぶた」と呼び、いずれも1980年に国の重要無形文化財に指定されている。青森県内では他にも、五所川原市の立佞武多(たちねぷた、高さ23メートル、重さ19トン)や、むつ市の大湊ねぶたなどが、ほぼ同じ時期に運行されている。

弘前ねぷたは、直径3.3メートルの大太鼓を先頭に小型のねぷたから順に運行され、後半には最大9メートルを超える大型のねぷたが登場する。それぞれのねぷたの後には笛や太鼓の囃子(はやし)方の一団が続き、勇壮な囃子の音色を観衆の耳奥に残しつつ、9時過ぎまで中心市街地を練り歩く。

青森市のねぶたは大企業による大型のものが多いようだが、弘前市のねぷたは「下新町ねぷた愛好会」など、町会単位がほとんど。主役は子どもだと言われている。小学校低学年の子どもがねぷたの綱の引き手を務める。高学年になると、角提灯(ちょうちん)や小型の金魚ねぷたを持ち、行列を先導する。中学生になると、太鼓や笛、かねの囃子方に移っていき、年代ごとに役割が与えられている。

ねぷたを通じて子どもたちは地域の大人と関わり、幅広い世代と交流しながら、心身ともに成長していく。子どもを背中におぶった母親が笛を吹いている姿も見かけた。

ねぷたの制作期間中に学校から戻った子どもがランドセルを玄関先に放り投げ、ねぷた小屋に駆けていき、制作を手伝ったり、囃子の練習をしたりするのも、弘前ならではの光景。ねぷたが地域コミュニティの中心になっている。ねぷたの絵を描く絵師は弘前市では40人以上もおり、それぞれが自慢の腕をふるい、違いを見分けるのも楽しみの一つだ。(元瓜連町長)

「世界のつくばで盆おどり」を終えて《映画探偵団》67

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】『第1回 世界のつくばで子守唄』(7月1日開催)と同時並行で、『第11回 世界のつくばで盆おどり』(7月29日、デイズタウン平面駐車場)の準備をしていた。久しぶりの参加である。

私の担当は、やぐら前で披露するステージ部門「Let’s world BON dance!!」(午後1時20分~6時)。二の宮太鼓会、アフリカ(ケニア)、インドネシア、フラメンコ、コンテンポラリーインド、スリランカ、サンガイア(バレ一ボ一ル)、フラダンス、日本舞踊、ベリーダンス、ストリートダンス、ケンニイバンド―などから成る催しだ。

時間は1チーム約20分。炎熱下、カラフルな衣装でダンスなどを披露する。言葉もうまく伝わらない中、外国の1チームが待機場所に見あたらず、探し回ったことも。なんと、観客席に座っていた。

ステージを終え、午後6時からは盆踊りを観賞した。すさまじい人出。延べ1万数千人はいただろう。「つくば音頭」「ダンシングヒーロー」「せかぼん音頭」に混じって、「炭坑節」も流れ、浴衣姿の外国人女性が踊っているのが印象的だった。

今年はコロナ明けのせいか、つくば、日本各地、世界でも盆踊りブ一厶である。13年前とは隔世の感がある。当時は会場に来ても踊る人が少なく、ビンゴゲームの商品で人を集めた。

歌い踊った歌垣が盆踊りのルーツ

2010年、NPOの副代表をしていたとき、盆踊り企画が出て、メンバーから大勢を集めたいとの声が出た。ただの盆踊りではインパクトが弱いので、東映映画『夢のハワイで盆踊り』(1964)をヒントに、『世界のつくばで盆おどり』と命名したが受けなかった。でも約5000人が集まり、しっかり踊る姿が見られてうれしかった。今では『せかぼん』の愛称で知られている。

盆踊りは死者供養と男女の出会いの場であることが知られている。『盆踊り 乱交の民俗学』(下川耿史著、作品社)を読むと、755年ごろ、春と秋に関東各地から筑波山に集まり、歌い踊った歌垣(かがい)が盆踊りのルーツのようである。

『スター・ウォーズ』の元ネタで知られる黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』(1958)に、戦さに敗れた秋月城の雪姫が同盟国に向かう脱出行の途中、火祭りで楽しそうに踊る場面が出てくる。城から出たことのなかった16歳の姫にとって、敵地にあっても息抜きの一時だった。

男女、国を超え、一緒になって踊る行為は平和そのものである。盆踊りは日本が世界に誇れる文化だと思う。日本の盆踊りをつくばに集め、世界にアピールしたらどうだろうか。実は13年前に考えたのだが、今回、久しぶりに運営に参加して思い出した。ひょっとして、10年後に実現しているかもしれない。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

ホームドラマの名物お母さん 《遊民通信》70

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【コラム・田口哲郎】
前略

このごろ、昔のドラマがたくさん再放送されています。最近でも、「二人の世界」「明日からの恋」「夫婦」「心」「道」「太陽の涙」「幸福相談」と、1970年代から80年代に放映されたものが、テレビ神奈川、東京メトロポリタンテレビ、BS11でふたたび放送されています。

このうち、「夫婦」「心」「道」の脚本家は橋田壽賀子さんです。橋田さんのドラマのテーマは家族です。高度成長期は終わり、生活が豊かになり、伝統的な家制度が本格的に崩壊し始めた時代の、家族のあり方を主題に、人間模様を描いています。旧来の「家」概念にしばられる人びとが、お互いに協力したり、ぶつかりながら、自由を尊重しつつ、暮らしてゆく。そんな日常生活はまさに当時のリアルな国民生活のひとつの側面だったのでしょう。

そうした変わりゆく家庭風景のなかで、橋田ドラマでは母親が主人公になることが多いです。「心」では山田五十鈴さんが、「道」ではその役を京塚昌子さんが演じています。山田五十鈴さんは戦前の映画スター、京塚さんといえば「胆っ玉母さん」「ありがとう」で国民的母のようなイメージです。恰幅(かっぷく)のよい、やさしそうだけれども、しつけにはきびしいお母さん。ひと昔前までは、そういう母親像がたしかにありました。

ホームドラマのお母さん役の系譜

山田さん、京塚さんの前に、そういう母親らしい役者さんがいるかと思ったら、ピンときました。東山千栄子さんです。小津安二郎監督の「東京物語」の母親役で有名です。東山さんも恰幅がよく、やさしそうだけれど、どこか芯が通っている、そんな母親を演じられています。

東山さんは華族のお嬢さんだったところ、築地小劇場に出るようになって、役者となりました。山田さんの父親は新派の出身、京塚さんは新派出身の女優さんです。おふたりの演技を見ていると、うまいなあと素人ながらに感心すると同時に、なんともいえない味があります。セリフや所作、架空の人物ながら、その生きざまが見る者を魅了します。

俳優さんのすごさは、人間味を見せてくれることなのでしょう。私は、山田さん、京塚さん、東山さんの演技を見ながら、魅力的な母親と会っているような、不思議な満たされた気分になります。たかがドラマ、されどドラマです。名優さんの演技は、見る者の生き方の参考になるのではないでしょうか。

だから、日本にはホームドラマが長らくあり、国民的母親を演じる俳優が重宝されてきたのだと思います。50年前の文化遺産は本ではなく、映画やドラマになる時代になりました。そうした文化遺産から学ぶことは多いですね。ごきげんよう。

草々
(散歩好きの文明批評家)

牛久栄進1学級増でも山積する地域の課題 《竹林亭日乗》7

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ゆれる穂波(筆者撮影)

【コラム・片岡英明】茨城県の森作宜民教育長は7月26日、2024年度から、牛久栄進高校を1学級増の9学級にし、筑波高校が募集する3学級の中に国・数・英を強化した「進学アドバンストコース」1学級設置する―と発表した。

私たちの会の最初の要望書(2年前)への回答が「学級増は困難」だったことを考えると、来年度の学級増と進学コース設置は小さいが大きな一歩である。県教育庁の担当者をはじめ市議・県議など多くの方々に感謝する。

筑波高を訪れ、定員には満たないものの「つくばね学」を学び、大学進学希望者がいるのに、教員が少ないために十分な指導や指導ができないとの話を聞き、進学指導の充実を県にお願いしてきた。これからも同校を見守り、応援していきたい。

ただ、現在の受験事情を見ると、まだまだ課題が残る。私たちの計算では、「つくばエリア」の県立高校は、県平均よりも現時点で15学級不足し、2030年までを展望すると、さらに10学級不足する。そこで今年4月には、毎年2~4学級の学級増か、学級増の一形態として高校新設を要望したが、牛久栄進が2学級増でなく1学級増にととどまった。

県には「学級増には既存教室で対応し、新校舎は建てない」という縛りがあるようだ。その条件を付けると「つくばエリア」には牛久栄進の次に学級増ができる高校はないから、中学生のために、この縛りを解いて「校舎を建て学級を増やすこと」をお願いしたい。

土浦一高では来年度、付属中の1期生が高校に入る。それに伴い、元々8学級で現在6学級の高校の募集が、来春には4学級になる。「付属中をつくっても総学級数は維持する」との縛りがあるからだ。そのため、来年度、牛久栄進が1学級増えても、土浦一が2学級減り、地域全体の高校入試は厳しくなる。付属中の分を高校で減らすのには疑問がある。

公募校長に求められる高い倫理観

県は7月31日、教員免許不問の民間人を含む校長を採用するため、7名を新規に公募することを発表した。公募校長(来年校長予定の副校長を含む)は現在8名(水戸一高、土浦一高、龍ケ崎一高、下妻一高、水海道一高、鉾田一高、勝田中等、つくばサイエンス高)いるが、日立一高、太田一高、鹿島高、下館一高、並木中等、古河中等、IT未来高に配置するためだ。

高校問題の学習会を開くと、魅力のある高校への期待とともに、民間出身の公募校長に対する疑問の声を多く聞く。県には「民間校長なら県立高校の改革が進む」という固定観念があるのだろうか。

生徒=人間を指導する学校と利益を追求する民間企業では、組織運営の形が異なる。県の学校改革も、校長への信頼があってこそできるものだ。新たな選考要項には、「求める人物像」に「高い倫理観」が加わったようだが、公募採用校長の不祥事が報道され、選考の視点に問題があることに気づいたようだ。

この際、新規の校長公募をいったん立ち止まり、現8校長の学校運営状況を検証してみてはどうだろうか。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

「人生の終わりのための活動」を考える 《ハチドリ暮らし》28

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旅の景色を撮りました

【コラム・山口京子】数年前から、終活に関するセミナーに呼ばれることが増えました。終活とは「人生の終わりのための活動」の略です。人生のたな卸しをしつつ、これからの締めくくり方を考えます。「自分の情報や願いを整理し、これからやりたいことを書き出して実行してくださいね」と話しています。

終活の前段として、いつまで働くか、いつから年金を受け取れるかも大きな課題です。高齢期の長期化で、健康寿命・働く寿命・資産寿命の3つを意識せざるを得ません。健康寿命を延ばすことは、働く寿命や資産寿命にも影響し合います。職種によっては定年が70歳だったり、定年を廃止しています。

一般的に65歳以上の人を高齢者と言い、2022年時点で3627万人、人口の3割弱となっています。みなさんは、65歳以上になった自分の生活や働き方、受け取れる年金の予想額などを意識されているでしょうか。

2022年の日本人の平均寿命は、男性が81.05歳、女性が87.09歳。死亡者が最も多い年齢は、男性で88歳、女性で93歳でした。長生きをするほど、平均寿命を超えていくのがわかります(令和4年度簡易生命表=※メモ参照=より)

認知症の患者は、2025年には700万人を超えると言われています。自分も認知病までに至らなくても、物忘れが増えましたし、体の敏捷性や体力の低下を実感しています。ですので、数年前から身の回りの片づけを始めました。

社会的な活動にも参加する

「思い立ったが吉日」で、資産のたな卸しやエンディングノートの作成、成年後見制度の仕組みや家族信託、遺言や各種委任契約などを調べてみてはいかがでしょうか。

また、人生を振り返って、自分が生きた時代はどういう時代だったかを整理したいと思います。そのうえで、これからどう生きるかをしっかり考えることが求められます。今を生きる宿題、それにどういった答えを出すかが、子どもや孫たちの人生にもかかわるのではないでしょうか。

セミナーでお伝えすることは、①自分の気持ちと向き合いその気持ちを家族に伝え、家族の気持ちも受け止めて思いを共有する、②家計を予算化しその範囲で暮らし、資産寿命を延ばす、③これからの法律の立法や改正にアンテナを張り、それがわが家にどう影響するかを考える、④事情が変われば早めに見直す、⑤社会的な活動に参加する―などです。(消費生活アドバイザー)

メモ※令和3年簡易生命表
政府統計報告書の1つ。日本にいる日本人について、令和3年1年間の死亡状況が今後変化しないと仮定したときに、各年齢の人が1年以内に死亡する確率や、平均してあと何年生きられるかという期待値などを、死亡率や平均余命などの指標によって表したもの。日本の死亡状況の厳密な分析、また0歳の平均余命(平均寿命)など広く活用されている。

「ラージポンポン」 《続・平熱日記》139

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】「異次元の少子化対策」の何がどう「異次元」なのか? そんなことが世間でつぶやかれる中、3次元的に大きく膨らんだのは長女のお腹。1人目に続き帝王切開ということで、一応予定日というか誕生日、時間まで決まっている。その時間、私は授業中だから、心の中で無事に生まれてくることを祈るしかない。

少子化は国家の根幹を揺るがすほどの問題なのかもしれないけど、娘の大きなお腹を見ていると、この「さずかりもの」は国家と関係があるのだろうか? とか、種としては十分すぎるほど繫栄しているし、むしろ増えすぎたんじゃなかろうか? とか、少しぐらい日本の人口は減ったぐらいがいいじゃないか? とか、いや減るべくして減っているのでは? とも思う。

しかし、ソーリとしては「面倒見るよ! 心配しないでバンバン産んで!」と言うしかないのだろう。

それにしても、「異次元」という言葉は、どなたかの入れ知恵なのかもしれないけれど、少し子供っぽい。それよりも、どこからこの予算を引っ張り出すのか。異次元が2次元に、「絵に描いた餅」にならないように。子供が増えると、まず減らされるのはお父ちゃんの小遣いだろう。

ということは、まずは政治家さんの小遣いから減らさないとね。「異次元の身を切る政策」から。

「インハラベビー」

それはそうと、夏休みを心置きなく故郷で過ごしたい。そのために、9月の頭から香川県のギャラリーで開かれる展示のため、数点の作品を早めに準備しておくことにした。そのタイトルが「ディメンション Zero展」。キャンバスのゼロ号サイズの作品展という意味だそうだが、ゼロ次元展とも読める。ゼロ次元というのは宇宙誕生の寸前? 創造のエネルギーの状態? かな。

実は次元という言葉には少しアレルギーがあって、というのも現代美術というくくりの中では絵画のことを2次元表現なんていうものだから、こっちもすっかりその気になって「ニジゲン、ニジゲン…」なんてやっていたら袋小路に入っていっちゃって…。

でもあるとき、シンプルに「絵を描こう!」って思ってから楽になったというか…。そんな苦い経験があるからだ。

数日後、無事に長女が男児出産の知らせ。メールで送られてきた画像を見ながら、何とも言えない幸福感に包まれる。「こんにちは赤ちゃん…」子供の頃にはやった歌が頭の中に流れてきた。

そうね、異次元云々より「こんにちは赤ちゃん予算」くらいにしておくのはどうだろう。それから中学のときの国語の先生の言葉を思い出した。「ラージポンポン、インハラベビー」。当時産休に入られる先生のことを言ったのか…。なんか昭和って感じ。

そういえば四国に行ったことがない。故郷の海岸からはうっすらとその姿が見えるのに。次元は超えられないが、海なら越えられる。行ってみるか…。(画家)

つくばの洞峰公園問題 まだ迷走が続く? 《吾妻カガミ》164

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洞峰公園野球場=つくば市二の宮

【コラム・坂本栄】茨城県営の洞峰公園(つくば市二の宮)が無償でつくば市に譲り渡され、市営化される流れになっていると思っていたら、県議会から「待った」がかかりました。この公園の管理運営方法については県と市の間でホットなやり取りがあり、市がタダでもらうことで県と話がついていましたが、これで幕引きとはならないようです。

県議会が無償譲渡に「待った」

県議会の「待った」とは、知事が鹿島セントラルホテル(神栖市、県の第三セクターが経営)、県立白浜少年自然の家(行方市)などの県財産を安易に処分するのはおかしいと、議会が調査特別委員会を設けて審査する作業が8月2日から始まり、その中に県営洞峰公園も含まれることになったという動きです。

県議会が何を問題にしているのかなど、詳しくは「洞峰公園も調査対象に 県議会が調査特別委設置」(7月31日掲載)をご覧ください。

7月末時点での市のスケジュール感は、9月県議会で譲渡条例を可決してもらう⇒9月市議会で譲受条例を可決してもらう⇒同議会で半年分(10月~来年3月)の公園関連追加予算を承認してもらう―というものでした。しかし、調査特別委(次回は8月30日)が譲渡の是非や条件をチェックすることになれば、県も市もその結論が出るまで動きが取れなくなります。

仮に、調査特別委が「洞峰公園は民間売却でなく、官⇒官だから特別扱いしてもいいが、無償でなく有償にすべきだ」とか、「どうしても無償というなら、県が提案していたグランピング施設などを無償譲渡の条件とせよ」といった結論を出すようなことになると、これまでの基本合意は白紙に戻さざるを得ません。

県は名を捨て実 市は実を捨て名

市は上のスケジュール感を前提に、8月中に無償譲受の是非を市民に聞くアンケート調査を実施する予定でした。しかし、調査特別委の作業に時間がかかれば、当分、この調査は実施できないでしょう。また、仮に調査特別委が無償譲渡にOKを出すとしても、当たり前のことですが、アンケート調査の結果がどうなるかわかりません。

市民説明会の記事(7月22日掲載同29日掲載)によると、市は2択形式の調査を考えていたようです。県の当初案(洞峰公園の野球場に民営のグランピング施設などを設け、その賃貸収益で公園管理費を捻出し、県の財政負担を軽くする)か、市営化案(洞峰公園を無償で市が譲り受け、市の財政負担とコンセプトで管理する)か、どちらかに〇を付ける形です。

私はコラム(下欄参照)で、県と市の「洞峰公園バトル」を終わらせる策として、県営公園の市営化(簿価+アルファで有償譲受)を提案。結局、知事は市側により好ましい無償案を示してきました。県は「名(公園改造計画)を捨て実(管理費転嫁)を取り」、市は「実を捨て(管理費発生)名(公園現状維持)を取る」ことになったわけです。

しかし、市営化案にも賛否があります。譲受賛成派=公園の現状維持を望む周辺市民(緑茂る今の公園のままがよい)、譲受反対1派=公園をあまり利用しない市民(市は余計な予算を使うな)、譲受反対2派=県の当初案を歓迎する市民(グランピング施設などでの魅力度アップは面白い)―などです。

調査は多サンプル・無作為抽出で

調査特別委の結論が出たあと、市は市民の多数意見が把握できるアンケート調査をすべきでしょう。少なくとも、無作為抽出の1000~2000人を対象にすべきです。少サンプルかつ作為抽出でやれば、アンケート調査をしなかった(故意?)運動公園用地売却のケースように、市民の間に強いストレスが残ります。(経済ジャーナリスト)

<参考>
153「洞峰公園の市営化、住民投票が必要?」(3月20日掲載
151「…洞峰公園バトル、勝者は県? 市?」(2月20日掲載
150「つくば市の2大懸案 県が示した解決策」(2月6日掲載
146「…洞峰公園…をめぐる対立と分断」(22年12月5日掲載
144「…洞峰公園… 県と市の考えが対立」(22年11月7日掲載
134「…洞峰公園、…市が買い取ったら?」(22年6月6日掲載

なぜ、このコラム・タイトルなのか? 《訪問医は見た!》1

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海辺の無人駅 JR四国・下灘駅

著者近影

【コラム・平野国美】お初にお目にかかる方も多いかと思います。コラムの担当することになった平野国美(くによし)と申します。「NEWSつくば」の前身である日刊紙「常陽新聞」や無料紙「常陽リビング」でもコラムを書いていましたから、常陽紙を引き継ぐ本ニュースサイトへの執筆は「10年ぶりの復帰」とも言えます。

確か、日刊紙常陽への寄稿が始まったのは、拙著「看取りの医者」(2009年)がテレビドラマ化されたことが契機になったと記憶しています。その後10年、何もしていなかったわけではないのです。医療介護の業界誌やら週刊誌などのメディアで書き続けていました。検索していただくと、ネットで読めるものもあります。

現在は、つくば市内に医院を設け、主に訪問診療を行っています。開業は2002年春ですから、ずいぶん月日も経ちました。生まれは龍ケ崎市、家業は自転車の卸業でした。コラムのタイトルにもつながるのですが、父のトラックの助手席に座り、配達を手伝っていたエリアと、いま診療で回っているエリアは重なっています。

物心が着いたころから50年以上、茨城県南の姿を見てきたことになります。私が高校を卒業する年、当時「軍艦」と呼ばれていた土浦駅が取り壊され、現駅の工事が始まりました。一浪して、筑波大学にたどり着いたのが1985年。つくば市はまだ誕生前で、桜村と呼ばれていたころです。

日本で初めて「村」にオープンした百貨店が筑波西武。つくば科学万博(EXPO85)が開催され、その後の風景の移り変わりを定点観測のように眺めてきました。つまり、《訪問医は見た!》のです。

医療だけでなくサブカルの話も

そして東北大震災前の2010年、拙著「看取りの医者」が大竹しのぶさん主演でテレビドラマ化される打ち合わせの席で、三流原作者の平野は「訪問診療をしていると、各家庭には経済的な問題や家族間の問題が必ずあることがわかる。市原悦子さん主演のドラマ『家政婦は見た』の中で、市原さんが家政婦をしている時間はほとんどありません。ドアの隙間からのぞいている時間がほとんどです」とあいさつしました。

ここで《訪問医は見た!》が成立するのです。そこで聞く話は、私が生まれる前の土浦やつくばの風景もありますし、患者さんの生き様や死に様を見せつけられることもあります。「訪問医に魅せられた」のです。

私は休日には旅に出ます。ピカピカの観光地ではなく、昭和・大正の雰囲気が残る地方都市に向かいます。そこで新たな話を聞くことで、自分の生まれ育った街の伝統・習慣に気付かされるのです。

医療の話だけでなく(むしろこちらは少なめにして)、民俗性やサブカルチャーについても書ければと思っています。自由度を求めて、タイトルを《訪問医は見た!》にしました。また、いつ消えるかわかりませんが、ご愛読よろしくお願いします。(現役訪問診療医師)

【ひらの・くによし】土浦一高卒。1992年、筑波大学医学専門学群卒後、地域医療に携わる。2002年、同大博士課程を修了、訪問診療専門クリニック「ホームオン・クリニックつくば」を開業。著書「看取りの医者」(2009年、小学館)は大竹しのぶ主演でドラマ化。新刊は『70歳からの正しいわがまま』(2023年4月、サンマーク出版)。医療関係業界誌などでもコラム執筆。1964年、龍ケ崎市生まれ。つくば市在住。

日本語の大切さ 《続・気軽にSOS》138

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【コラム・浅井和幸】支援の場では、日本語があまり得意でない外国の方に対応することもあります。私は日本語しか話せないので、日本語ができれば対応しますと伝えますが、困っている人が日本語を話せるとは限らないので、できるところまで対応することになります。

英語をちゃんと勉強していたら、こんなことにはならなかったのかなぁ―なんて愚痴を言っても前に進みません。簡単な日本語と翻訳アプリ、それから身振り手振りで対応します。時には知り合いの通訳を交え、必要な情報を聞き取っていきます。

英語さえできたらと考えていましたが、英語以外の言語の対応を迫られることもあります。翻訳アプリ・通訳者様々です。翻訳アプリも、簡潔に文章を組み立てて音声入力するコツがあるようで、まだ勉強中です。

そうは言っても、日本人の相談を受けることが圧倒的に多いのは確かです。ですが、悩みを聞いている間に主語が変わったり、「てにをは」が間違ったりということが起こります。

もちろん、全て正確な日本語を使って、何一つ間違わずに会話を進めることはできません。それを差し引いても、日本語の使い方が独特な人もいます。主語が変わっていくというのは、抑うつの時にも出ることがあります。特定の人との人間関係がうまくいかなくなったら、全ての人が自分とうまく人間関係が作れないと考えてしまいます。

抑うつの状況でなくても、物事の捉え方が大ざっぱであったり、日本語の表現がうまくなかったりするため、「みんなが自分を悪く言っている」と、「みんな」が口癖の人は多いでしょう。「自分にはいつも嫌なことばっかり起こる」という表現もそうですね。

右・左・真ん中の選択肢

Aさんの前には、右・左・真ん中の3つの選択肢があります。Aさんは、右は絶対にうまくいかないから進みたくないと考えているとします。ですが、私は、とりあえず今は決めつけずに、3つの選択肢があり、それぞれにはメリットとデメリットがあるはずなので、決めつけずに考えていきましょうと説明します。

このとき、私は3つの選択肢が可能性としてあることを提示しているのに、Aさんは絶対に右に行かなければいけないと浅井が言っていると捉え、話が前に進まないことが実際に起こります。この場合、図で説明するとわかってもらえるのですが、言葉だけだとどうしてもニュアンスが伝わらず、相談につながらないこともあります。

Aさんが言っていることを総合的に考えると、右に進むことのメリットが大きく、左と真ん中の道のデメリットが全く想像できない状況で、右以外の道に進めば素晴らしい場所に行けるとさえ考えるようになります。ここで検討せずに進んでしまうと、こんなはずではなかったとなりやすいのです。

人は失敗から学ぶことも大切ですが、その失敗から「やっぱり私には悪いことしか起きない」という感想につながることが残念なことです。次に進むときには、現状の把握がとても大切な要素です。現状の把握と言語での正確な表現方法は密接に関わっていると感じる、今日この頃です。(精神保健福祉士)