火曜日, 4月 30, 2024
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《邑から日本を見る》82 ずさんな東海第2の避難計画

【コラム・先﨑千尋】2月13日夜中の地震にはたまげた。飛び起きてテレビをつけた。東海村は我が家から至近距離。そこにある日本原電東海第2発電所がどうなのかが心配だったから。何事もないことを確認し、また寝た。 翌朝のテレビはもっぱらこの地震の模様を伝えていた。福島にある2カ所の原発には異常がなかったようだが、高速道路で土砂が崩れたり、東北新幹線が不通になったりし、けが人もかなり出た。大学受験にも影響が出ているようだ。 報道では、今回の地震は10年前の東日本大震災の余震だとか。今回は津波が起きなかったので一安心だったが、福島の人たちはさぞ肝を冷やしたのではないかと思っている。10年もたっているのに、余震だとは驚きだ。 その東海村。毎日新聞は全国版の1月31日と2月1日付で、「東海第2避難所1.8万人不足」「責任曖昧 ずさん算定」という記事を載せている。それによると、同発電所をめぐる広域避難計画で、県内の避難所が2018年時点で約1万8000人分不足していた。施設のトイレや倉庫、ステージ、玄関ロビーまで、避難者の居住スペースとして計算していたからだという。 県の基準は「避難者1人当たり2平方メートル」だそうだ。トイレや倉庫まで含めて算出しているので、実際にはもっと少なくなる。あまりにもひどすぎる計画だ。畳1枚よりほんの少し広いくらいのスペースに、台風などの水害とは違い、いつまで続くかわからない長期間の避難生活ができるのか。計画を立てた人や首長、議員の皆さんに実験してもらいたいものだ。 「事故は起きない」楽観が暗黙の前提? 原発事故に備えた広域避難計画は、原発から30キロ圏内の自治体が策定することになっている。茨城県では東海村など14の市町村が該当し、これまでに5市町が策定済みだそうだ。その計画の中身を承知していないが、コロナ騒ぎの前のものなので、現時点では役に立たないだろうと考えている。 県が昨年5月に示した自然災害の際の避難所レイアウトでは、1人5平方メートルを想定している。原発災害にこの基準を当てはめると、広域避難計画そのものが成り立たなくなる。 4年前の県知事選のとき、現職の橋本昌氏が「避難計画などできはしない」と言っていたことを思い出す。県のトップがそう発言しているのだから、私も計画は作れないと思っている。策定済みのところも、作り直さなければならないのではないか。計画策定は原発再稼働の前提となっているので、東海第2原発の再稼働はできないことになる。 毎日新聞の記事には、災害リスク学が専門の広瀬弘忠さんの「あまりにもずさん。本気度が感じられない。『事故は起きない』という楽観が暗黙の前提になっているのではないか」というコメントが載っている。 今度のような最大震度6強の地震がまた発生し、津波も押し寄せたら、10年前と同じような惨事になる。いいかげんな避難計画を策定し、犠牲者が出たら誰が責任を取るのだろうか。「東日本大震災、今も影響。余震警戒さらに10年」と専門家は呼び掛けている。今度の地震はいろいろなことを考えるきっかけを作ってくれた。(元瓜連町長)

《邑から日本を見る》82 ずさんな東海第2の避難計画

【コラム・先﨑千尋】2月13日夜中の地震にはたまげた。飛び起きてテレビをつけた。東海村は我が家から至近距離。そこにある日本原電東海第2発電所がどうなのかが心配だったから。何事もないことを確認し、また寝た。 翌朝のテレビはもっぱらこの地震の模様を伝えていた。福島にある2カ所の原発には異常がなかったようだが、高速道路で土砂が崩れたり、東北新幹線が不通になったりし、けが人もかなり出た。大学受験にも影響が出ているようだ。 報道では、今回の地震は10年前の東日本大震災の余震だとか。今回は津波が起きなかったので一安心だったが、福島の人たちはさぞ肝を冷やしたのではないかと思っている。10年もたっているのに、余震だとは驚きだ。 その東海村。毎日新聞は全国版の1月31日と2月1日付で、「東海第2避難所1.8万人不足」「責任曖昧 ずさん算定」という記事を載せている。それによると、同発電所をめぐる広域避難計画で、県内の避難所が2018年時点で約1万8000人分不足していた。施設のトイレや倉庫、ステージ、玄関ロビーまで、避難者の居住スペースとして計算していたからだという。 県の基準は「避難者1人当たり2平方メートル」だそうだ。トイレや倉庫まで含めて算出しているので、実際にはもっと少なくなる。あまりにもひどすぎる計画だ。畳1枚よりほんの少し広いくらいのスペースに、台風などの水害とは違い、いつまで続くかわからない長期間の避難生活ができるのか。計画を立てた人や首長、議員の皆さんに実験してもらいたいものだ。 「事故は起きない」楽観が暗黙の前提? 原発事故に備えた広域避難計画は、原発から30キロ圏内の自治体が策定することになっている。茨城県では東海村など14の市町村が該当し、これまでに5市町が策定済みだそうだ。その計画の中身を承知していないが、コロナ騒ぎの前のものなので、現時点では役に立たないだろうと考えている。 県が昨年5月に示した自然災害の際の避難所レイアウトでは、1人5平方メートルを想定している。原発災害にこの基準を当てはめると、広域避難計画そのものが成り立たなくなる。 4年前の県知事選のとき、現職の橋本昌氏が「避難計画などできはしない」と言っていたことを思い出す。県のトップがそう発言しているのだから、私も計画は作れないと思っている。策定済みのところも、作り直さなければならないのではないか。計画策定は原発再稼働の前提となっているので、東海第2原発の再稼働はできないことになる。 毎日新聞の記事には、災害リスク学が専門の広瀬弘忠さんの「あまりにもずさん。本気度が感じられない。『事故は起きない』という楽観が暗黙の前提になっているのではないか」というコメントが載っている。 今度のような最大震度6強の地震がまた発生し、津波も押し寄せたら、10年前と同じような惨事になる。いいかげんな避難計画を策定し、犠牲者が出たら誰が責任を取るのだろうか。「東日本大震災、今も影響。余震警戒さらに10年」と専門家は呼び掛けている。今度の地震はいろいろなことを考えるきっかけを作ってくれた。(元瓜連町長)

チビっ子炭治郎ら鬼退治 つくばの雷神様でコロナ退散願う

【崎山勝功】新型コロナウイルスの収束を願い、つくば市上郷の金村別雷(かなむらわけいかづち)神社で11日、節分祭が催された。邪気を払い、疫病退散にパワーを持つ祭神をまつることから、境内には人気アニメ「鬼滅の刃」のキャラクターに扮した参拝客が多数参集、一風変わった「鬼は外」が展開された。 暦の節分から9日遅れての節分祭には、市内外から約150人が参加した。所雅彦宮司(60)が感染症の収束を願う祝詞(のりと)を奏上し、コロナ禍以前の生活に戻るよう祈願した。現在のコロナ禍や2011年の東日本大震災を念頭に、「歴史は繰り返すので、雷神様の故事にならって『コロナ禍が収束していい暮らしになる』よう願う神事にした」という。 雷神様は神社の祭神の別雷大神(わけいかづち)のこと。雷を支配する神で、雷除けや疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)治癒の神としても信仰されている。 節分祭の運営に協力した上郷市街地活性化協議会によると、雷神様はとどろき渡る雷鳴のようなことば「霹靂一聲(へきれきいっせい)」で邪気を払うのだそうだ。これをアニメの登場人物、我妻善逸(あがつまぜんいつ)の必殺技「壱ノ型 霹靂一閃(へきれきいっせん)」に引っかけて、同アニメのコスチュームでの参加をSNS上で呼び掛けたという。 すると、アニメの主人公、竈門炭治郎(かまどたんじろう)や嘴平伊之助(はしびらいのすけ)の扮装をした子供たちを中心に参加者が集まった。つくば市上郷の坂入恭輔さん(33)は冨岡義勇に扮して参加。「少ないかなと思ったけど、来てみたらけっこう多くの人がいた。皆さんの息抜きになっていいのではないか」と語った。 境内では地元バンド「ケンニイバンド」らがアニメの登場人物に扮して、アニメ主題歌「紅蓮華(ぐれんげ)」を演奏。登場人物に扮した子どもたちが「コロナは外」の掛け声に合わせて豆まきをした。つくば市の三谷心奈美さん(11)は「楽しかった」と鬼退治に興じた。 金村別雷神社は931(承平元)年の創建と伝わる。1707(宝永4)年ごろに天然痘ウイルスの流行や富士山噴火、宝永の大地震など自然災害が相次ぎ、翌1708年に災害収束を祈願して同神社の本殿を再建したという。こけら葺きの本殿などが県指定有形文化財(建造物)になっている。

《邑から日本を見る》79  秋田からの「いぶりがっこ」を食べながら

【コラム・先﨑千尋】30年来の秋田の知友から手作りの「いぶりがっこ」が届いた。添えられた手紙には「昔は金が無くても暮らせる世の中だった。バスにも乗らず、飲み物は水。食堂に入らず、宿は親戚や知り合いの家。オリンピックの総費用1兆5000億円以上、参加選手約15,000人。選手1人あたり1億円。何かおかしい」とある。そうだそうだとうなずきながら、いぶりがっこをかみしめる。 その秋田は大雪で、救助のために自衛隊が出動している。横手市立栄小学校は30年前に木造校舎を建てたが、雪に埋もれ、雪をかきだす様子をテレビで見た。そのモデルとなったのは私が住んでいる瓜連小学校の木造校舎だったので、関心が人一倍だ。これでは子供たちが「かまくら」を作って楽しむどころではないなと、かの地に思いをはせた。 昨年から地球を襲っている新型コロナウイルスの脅威。テレビでは朝から晩までこのニュース。コメンテーターや医療専門家たちがそれぞれ自分の主張をしているが、一向に事態はよくならない。菅首相は小池東京都知事らから背中を押されて、7日にやっと緊急事態宣言を出したが、世論調査の数字やテレビで聞くちまたの声からもわかるように、遅すぎたという声が圧倒的だ。 私もそう思う。医療崩壊が始まっているのが一番怖い。「Go Toトラベル」などにうつつを抜かしているよりも、そのカネを医療現場に注ぎ込み、PCR検査を大幅に増やし、人の動きを止める、休業要請をした業者には損害補償をきちんとする。私はそのことが最低限必要だと考えている。 「今だけ、カネだけ、自分だけ」 そして菅総理大臣や西村担当大臣、政党幹部らが医療現場に足を運び、現場で懸命に努力している人たちの声を聴く。そしてコロナを止めるという覚悟を決める。政治家として当たり前のことがどうしてできないのか不思議だ。経済を回すこと(カネ)よりも命最優先ではないか。「命あっての物種」という言葉もある。 国民の共感と協力を得るためには、手元の紙に目を落として読み上げるのではなく、ドイツのメルケル首相などのように、メリハリのある自分の言葉で強く訴えることが大事だと思っている。 平時なら優秀なスタッフがいるから、首相、知事、首長は、極端な言い方をすれば誰にでもできる。しかし今は国民すべてが戦場にいる。事態がどうなっていくのかわからない。瞬時に情勢を判断し、的確な指示を出す。それがトップの役割だ。それができないのなら、辞めてもらうしかあるまい。週刊誌やネット情報では、すでに次の首相選びが始まっている。 東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故からまもなく10年になる。経済の仕組み、人としての生き方など、震災と事故によって国民と政治家の考え方が変わると期待していたが、その後の世相を見ていると、「今だけ、カネだけ、自分だけ」という考え方は変わっていないようだ。コロナ騒ぎがあっても同じだと思える。私たち日本の人々は、どうして同じ轍(てつ)を踏むのだろうか。(元瓜連町長)

《邑から日本を見る》79  秋田からの「いぶりがっこ」を食べながら

【コラム・先﨑千尋】30年来の秋田の知友から手作りの「いぶりがっこ」が届いた。添えられた手紙には「昔は金が無くても暮らせる世の中だった。バスにも乗らず、飲み物は水。食堂に入らず、宿は親戚や知り合いの家。オリンピックの総費用1兆5000億円以上、参加選手約15,000人。選手1人あたり1億円。何かおかしい」とある。そうだそうだとうなずきながら、いぶりがっこをかみしめる。 その秋田は大雪で、救助のために自衛隊が出動している。横手市立栄小学校は30年前に木造校舎を建てたが、雪に埋もれ、雪をかきだす様子をテレビで見た。そのモデルとなったのは私が住んでいる瓜連小学校の木造校舎だったので、関心が人一倍だ。これでは子供たちが「かまくら」を作って楽しむどころではないなと、かの地に思いをはせた。 昨年から地球を襲っている新型コロナウイルスの脅威。テレビでは朝から晩までこのニュース。コメンテーターや医療専門家たちがそれぞれ自分の主張をしているが、一向に事態はよくならない。菅首相は小池東京都知事らから背中を押されて、7日にやっと緊急事態宣言を出したが、世論調査の数字やテレビで聞くちまたの声からもわかるように、遅すぎたという声が圧倒的だ。 私もそう思う。医療崩壊が始まっているのが一番怖い。「Go Toトラベル」などにうつつを抜かしているよりも、そのカネを医療現場に注ぎ込み、PCR検査を大幅に増やし、人の動きを止める、休業要請をした業者には損害補償をきちんとする。私はそのことが最低限必要だと考えている。 「今だけ、カネだけ、自分だけ」 そして菅総理大臣や西村担当大臣、政党幹部らが医療現場に足を運び、現場で懸命に努力している人たちの声を聴く。そしてコロナを止めるという覚悟を決める。政治家として当たり前のことがどうしてできないのか不思議だ。経済を回すこと(カネ)よりも命最優先ではないか。「命あっての物種」という言葉もある。 国民の共感と協力を得るためには、手元の紙に目を落として読み上げるのではなく、ドイツのメルケル首相などのように、メリハリのある自分の言葉で強く訴えることが大事だと思っている。 平時なら優秀なスタッフがいるから、首相、知事、首長は、極端な言い方をすれば誰にでもできる。しかし今は国民すべてが戦場にいる。事態がどうなっていくのかわからない。瞬時に情勢を判断し、的確な指示を出す。それがトップの役割だ。それができないのなら、辞めてもらうしかあるまい。週刊誌やネット情報では、すでに次の首相選びが始まっている。 東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故からまもなく10年になる。経済の仕組み、人としての生き方など、震災と事故によって国民と政治家の考え方が変わると期待していたが、その後の世相を見ていると、「今だけ、カネだけ、自分だけ」という考え方は変わっていないようだ。コロナ騒ぎがあっても同じだと思える。私たち日本の人々は、どうして同じ轍(てつ)を踏むのだろうか。(元瓜連町長)

《土着通信部》42 福島第1原発事故から10年が迫る町

【コラム・相澤冬樹】東京電力福島第1原発事故に伴う住民避難が続く福島県双葉町を先月末、約6年ぶりに訪ねた。環境省が現地で開いた「福島再生・未来志向シンポジウム」に参加を申し込んだ。原発の隣接地に設けられた「中間貯蔵施設」への現地見学を希望してのGoToだった。 東日本大震災から10年となる来春に向けての情報収集という意図が働いた。そのせいか、取材メモは数字を書きとる作業に終始しがちだった。 たとえば中間貯蔵施設では、毎日約2800台のダンプトラックを受け入れているという話を聞いた。「ペースカー」と呼ばれる10トントラックには1台6~7個のフレコンバッグが積まれているそうだ。 フレコンバッグには、福島県内の除染に伴い発生した土砂や廃棄物などが詰め込まれている。6年前には地表を剥ぎとられた田畑や原野に、膨大な量の土のう袋が野積みされていた。あの黒い袋の現時点の回収地点が、中間貯蔵施設ということになる。 施設は、原発を取り囲むように、双葉、大熊両町にまたがって6号国道から海側の約1600ヘクタールの地域を占めている。ここに汚染土を最終処分までの間、安全に集中的に貯蔵すべく、環境省が設置、中間貯蔵・環境安全事業(JESCO)が運営する事業が2015年から行われてきた。 輸送対象となる福島県内の汚染土は約1400万立方メートルに達するとされ、11月までに約7割の965万立方メートルが同施設に運びこまれた。21年度中には完了の見通しということである。 こんな数字ばかりをメモしていると、逆に現場にいることのリアリティーを失いかける。目の前では、集めてきた土を、放射線量の最も高い原発隣接地の地面の中に埋め立てるという風変わりな作業が展開されている。しかも、これはあくまで中間処理でしかない。法律では「45年3月12日までに同施設から全ての廃棄物を搬出し、県外最終処分しなければならない」と定められている。地中のアンダーコントロールを、どこまで信じたらいいのか。 まだだれ一人戻っていない 結局、2日間のシンポジウム日程で、一番印象に残った数字は双葉町の伊沢史朗町長による「町にはまだだれ一人戻っていない」だった。 県内自治体で唯一全町避難が続いていた双葉町だが、3月に一部の地域で避難指示が解除された。JR常磐線双葉駅周辺の帰還困難区域と、町北東部の避難指示解除準備区域。ただ、産業団地への企業誘致や住宅整備などを進めるための「先行解除」で、居住は想定していない。 町長は2022年春の特定復興再生拠点の解除を目指し、双葉駅周辺に役場や住宅、商業施設などを集約するコンパクトな町づくりを掲げる。住民が帰還した際の雇用の受け皿になるよう産業団地が整備され、県内外の12件17社と立地協定を結んだ。 3月に常磐双葉インターチェンジが供用開始、常磐線は全線での運転が再開され、町へのアクセスは向上した。9月には解除区域に飲食店が入る産業交流センターや東日本大震災・原子力災害伝承館がオープンした。農地再生を目指し、営農再開に向けた実証実験も始まった。 しかし町長の前には冷たい数字が横たわる。震災・原発事故以前の2011年2月末の人口7100人は、ことし11月30日現在5798人まで減少した。住民意向調査では、「戻りたいと考えている」との回答は約1割にとどまり、「戻らないと決めている」が6割を超える。住民帰還への道のりは険しい。(ブロガー)

《土着通信部》42 福島第1原発事故から10年が迫る町

【コラム・相澤冬樹】東京電力福島第1原発事故に伴う住民避難が続く福島県双葉町を先月末、約6年ぶりに訪ねた。環境省が現地で開いた「福島再生・未来志向シンポジウム」に参加を申し込んだ。原発の隣接地に設けられた「中間貯蔵施設」への現地見学を希望してのGoToだった。 東日本大震災から10年となる来春に向けての情報収集という意図が働いた。そのせいか、取材メモは数字を書きとる作業に終始しがちだった。 たとえば中間貯蔵施設では、毎日約2800台のダンプトラックを受け入れているという話を聞いた。「ペースカー」と呼ばれる10トントラックには1台6~7個のフレコンバッグが積まれているそうだ。 フレコンバッグには、福島県内の除染に伴い発生した土砂や廃棄物などが詰め込まれている。6年前には地表を剥ぎとられた田畑や原野に、膨大な量の土のう袋が野積みされていた。あの黒い袋の現時点の回収地点が、中間貯蔵施設ということになる。 施設は、原発を取り囲むように、双葉、大熊両町にまたがって6号国道から海側の約1600ヘクタールの地域を占めている。ここに汚染土を最終処分までの間、安全に集中的に貯蔵すべく、環境省が設置、中間貯蔵・環境安全事業(JESCO)が運営する事業が2015年から行われてきた。 輸送対象となる福島県内の汚染土は約1400万立方メートルに達するとされ、11月までに約7割の965万立方メートルが同施設に運びこまれた。21年度中には完了の見通しということである。 こんな数字ばかりをメモしていると、逆に現場にいることのリアリティーを失いかける。目の前では、集めてきた土を、放射線量の最も高い原発隣接地の地面の中に埋め立てるという風変わりな作業が展開されている。しかも、これはあくまで中間処理でしかない。法律では「45年3月12日までに同施設から全ての廃棄物を搬出し、県外最終処分しなければならない」と定められている。地中のアンダーコントロールを、どこまで信じたらいいのか。 まだだれ一人戻っていない 結局、2日間のシンポジウム日程で、一番印象に残った数字は双葉町の伊沢史朗町長による「町にはまだだれ一人戻っていない」だった。 県内自治体で唯一全町避難が続いていた双葉町だが、3月に一部の地域で避難指示が解除された。JR常磐線双葉駅周辺の帰還困難区域と、町北東部の避難指示解除準備区域。ただ、産業団地への企業誘致や住宅整備などを進めるための「先行解除」で、居住は想定していない。 町長は2022年春の特定復興再生拠点の解除を目指し、双葉駅周辺に役場や住宅、商業施設などを集約するコンパクトな町づくりを掲げる。住民が帰還した際の雇用の受け皿になるよう産業団地が整備され、県内外の12件17社と立地協定を結んだ。 3月に常磐双葉インターチェンジが供用開始、常磐線は全線での運転が再開され、町へのアクセスは向上した。9月には解除区域に飲食店が入る産業交流センターや東日本大震災・原子力災害伝承館がオープンした。農地再生を目指し、営農再開に向けた実証実験も始まった。 しかし町長の前には冷たい数字が横たわる。震災・原発事故以前の2011年2月末の人口7100人は、ことし11月30日現在5798人まで減少した。住民意向調査では、「戻りたいと考えている」との回答は約1割にとどまり、「戻らないと決めている」が6割を超える。住民帰還への道のりは険しい。(ブロガー)

12/16 気象研オンライン研究成果発表会

今年度の気象研究所(つくば市長峰)の研究成果発表会は、新型コロナウイルス感染症対策のためオンライン開催となる。温暖化やゲリラ豪雨などをテーマに、5人の研究者による講演動画が12月16日午後2時からホームページ上に公開される。来年1月27日午後2時まで。各講演のあらましをまとめた予稿は掲載済み。 「オンラインで伝える研究の最前線」で、発表される5講演のテーマ、講演者は次のとおり。 ▽「北極域の急速な温暖化」庭野匡思(気象予報研究部主任研究官) ▽「令和2年7月豪雨の特徴-球磨川流域に記録的大雨をもたらした線状降水帯の構造と発生過程」益子渉(台風・災害気象研究部室長) ▽「集中豪雨予測のための水蒸気ライダーの開発」酒井哲(気象観測研究部主任研究官) ▽「スーパーコンピューター『富岳』を用いた豪雨や洪水の予測に向けて」川畑拓矢(気象観測研究部室長) ▽「津波の即時予測技術の発展-東日本大震災から10年」対馬弘晃(地震津波研究部主任研究官) 予稿は講演ごとにホームページに掲載されている。

《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

【池田充雄】霞月楼2代目の堀越正雄・満寿子夫妻は、山本五十六の土浦での親代わりのような存在で、日頃から親身に世話し、転出後も交流が続いたという。 ある日2人の下に山本から手紙が届く。正雄が贈った成田山のお札への礼状だ。日付は昭和16年(1941年)12月5日。太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃の3日前で、北方航路では真珠湾に向けて機動部隊が進軍、山本が座乗する旗艦「長門」以下主力部隊は、退却支援のため山口県岩国市の柱島泊地に待機していた。 手紙にある「最後の御奉公に精進致し居り候」の文言が暗示的だ。もはや生きては帰らぬ覚悟を示したか。海外経験が豊富で彼我の国力の差を知る山本は、対米戦争にはもとより反対の立場だったとされる。1940(昭和15)年9月の近衛文麿首相との会談では「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と答えていた。 航空軍備の重要性を認識 山本は1884(明治17)年、新潟県長岡市坂之上町に旧長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生、当時の父親の年齢から五十六と命名された。日露戦争中の1904(明治37)年、海軍兵学校を卒業。翌年、装甲巡洋艦「日進」に配属され、5月27日の日本海海戦に参加した。砲弾の炸裂により左手の指2本を失い、左大腿部に重傷を負った。 その後は乗艦勤務を経て、海軍砲術学校教官や海軍省軍務局員などを務める。1916(大正5)年、旧長岡藩城代家老職の山本家を相続。1619(大正7)年、旧会津藩士の娘・三好礼子と結婚した。 1919(大正8)年4月から約2年間米国に駐在し、ハーバード大学で学ぶ。1923(大正12)年6月から9カ月間、ワシントン軍縮条約下の欧米各国の情勢を視察し、日本海軍の将来には航空戦力の充実が不可欠との信念を抱く。 断髪令で隊の風紀を刷新 1924(大正13)年9月1日、自らの強い希望により霞ケ浦海軍航空隊に赴任。12月1日に教頭兼副長(後に副長兼教頭)に就くと、初日の朝礼で号令台から総員を見渡し「下士官兵にして頭の毛を伸ばしている者は皆切れ。一週間の余裕を与える。終わり」と宣告した。 霞ケ浦航空隊は1922(大正11)年11月の創隊で、隊員の間では英国教官団の影響から長髪の者が多く、腕一本で空を駆ける職人気質と、命知らずのやくざ気質が表裏を成し、遅刻や脱営も日常茶飯事だったという。そこでまずは軍紀風紀の刷新に着手し、勘や名人芸に頼らぬ合理的な飛行技術の確立を目指した。 土浦在勤中の山本の住居は、「山本五十六伝」(朝日新聞社)によると長岡中学の後輩・大崎教信少佐が建てた家だそうだ。神龍寺(土浦市文京町)の参道右手、今は墓地がある辺りにあった。なお当時の参道は桜並木が覆っていたが、1938(昭和13)年の大洪水で枯死している。 神龍寺の秋元梅峯住職とは意気投合し、1925(大正14)年9月に土浦で最初の花火大会を2人の私費で開催した。目的は海軍航空殉難者の慰霊、2年前の関東大震災の犠牲者の追悼、不況にあえぐ土浦の商業振興、農業収穫への感謝など。これが現在の土浦全国花火競技大会の基礎となった。 ブーゲンビルの空に散る 山本の霞ケ浦在任は1年3カ月で終わり、1926年(大正15年)1月から2年間、駐米大使館付武官を拝命。帰国後は空母「赤城」艦長などを経て、1929年(昭和4年)11月少将に進み、以後は海軍航空本部長や海軍次官などの要職を歴任。1939(昭和14)年に連合艦隊司令長官、1940(昭和15)年に大将となる。 1941年(昭和16年)10月に成立した東條英機内閣は、米英蘭3国に対する開戦方針を推し進め、11月26日に対米交渉が決裂すると、12月8日の真珠湾攻撃で戦端を開いた。山本率いる連合艦隊は、初期の南方作戦では良好な戦果を挙げたものの、翌年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以後戦況は悪化の一途をたどる。 1943(昭和18)年4月18日、東部ニューギニア・ソロモン群島での戦いの最中、山本は前線視察のためラバウル基地を飛び立つが、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せに遭い撃墜された。享年59歳。 下半身像を56年ぶりに発見 山本には元帥の称号が遺贈され、同年6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われた。また12月8日には土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校、阿見町青宿)第1練兵場の号令台横に、コンクリート製の立像が建てられた。像の高さは3.6メートル、台座を含めると6.3メートルに達した。 1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると、進駐軍の狼藉を恐れて、山本の像は胴から半分に切断され、霞ケ浦に沈められた。上半身は1948(昭和23)年に湖底から引き揚げて神龍寺に安置され、1952(昭和27)年に菊池朝三元少将らが海軍殉職者のための慰霊祭を開いた。菊池は山本の部下で終戦時の海軍総隊参謀副長。梅峯の長女と結婚し、1959(昭和34)年から12年間土浦市議を務めている。 上半身像は1958(昭和33)年に生家跡の山本記念公園に移されたが、風雨による傷みから1970(昭和45)年に青銅の複製像に置き換えられた。原像はいま海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校、広島県江田島市)の教育参考館にある。 下半身像も湖底にあるものと考えられてきたが、2002(平成14)年の調査で台座近くの地中に埋まっていると判明。56年ぶりに掘り出され、雄翔館前に新しく建てられた山本像の台座下部に収められた。号令台横の古い台座には今、山本の揮毫による「常在戦場」の碑が置かれている。 ●取材協力・参考資料陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽神龍寺▽阿川弘之「山本五十六」(1994年新装版、新潮社)▽三和多美「海軍の家族」(2011年、文芸春秋)▽阿見町歴史調査委員「海軍航空隊ものがたり」(2014年、阿見町予科練平和祈念館)▽「霞月楼百年」(1988年、霞月楼)▽「阿見と予科練」(2002年、阿見町)▽阿見町民話調査班「爺さんの立ち話」(2003年、阿見町)▽「花火と土浦」(2018年、土浦市立博物館)▽常陽新聞2002年6月11日付▽長岡市山本五十六記念館ウェブサイト▽土浦商工会議所ウェブサイト▽ウィキペディア シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

9世帯の家主が意見交換 つくば「もん主の会」初会合

【鴨志田隆之】NPO法人つくば建築研究会(つくば市台町、小玉祐一郎理事長)が主催する第1回もん主の会が27日、つくば市大の塚本康彦さん宅で開かれ、長屋門への民泊機能を付加する「もん泊プロジェクト」の趣旨説明が行われた。会合には研究会の坊垣和明副理事長をはじめ、古民家研究の筑波大学・山本幸子准教授、オブザーバーとしてつくば市都市計画部・大塚賢太次長が出席。家主側では塚本さんほか市内在住の9世帯11人が参加した。 「もん泊プロジェクト」は、古い農家に点在する長屋門を利活用し、イベント会場としての提供や貸店舗展開などを経て、最終的に宿泊機能を実現させることが目的。坊垣副理事長は「関東地方の農家や商家独特の様式である長屋門を地域資源として活かし、文化交流や経済活動を掘り起こすことがねらい。つくば市内には217軒の長屋門が現存しており、江戸末期から大正時代の建築など幅広い歴史的価値が眠っている。これらを改修して維持・宿泊運営するためのビジネスモデルを模索中だが、まず家主の皆さんに主旨を理解していただき、賛同を得なくてはならないと考えている」と述べた。 家主側からは現在の長屋門の維持状況がそれぞれ説明され、多くの建物が物置扱いであるか、老朽化が進み維持していくこと自体が負担になっている実態が紹介された。もともと古い建築である上、2011年3月の東日本大震災で大きなダメージを受けたことが老朽化を加速させているという。 「次の代に相続させるとしても、使い道の無い状態では税負担も馬鹿にならない」「土台をなんとか保たせ、何か良い活用のアイデアがないかと年月を消費している状況」といった声が出る中、塚本さんからは「一足飛びに問題が解決できるわけではない。もん主だけでなく、地域との相互理解も必要だと思う」との意見もみられた。 塚本さん宅の長屋門をモデルケースとして「もん泊仕様」に改修する準備を進めている研究会では今後、プロジェクトに参加している建築家や地元工務店の協力を経て、改修内容や費用概算を見積もることにしている。もん主の会については今後も機会を見て継続する考え。11月1日には市民シンポジウムも開き、ビジネスモデルとしてどんなケースが実現可能かなどの討論を行う予定だ。

《続・平熱日記》70 水戸の歴史館で学んだこと

【コラム・斉藤裕之】ここ数年でカミさんと県内をよく回った。この日訪ねた水戸の歴史館で茨城の歴史を見ながらそう思った。「魅力のない県、茨城」。私も始めはこの手のランキングに目くじらを立てるのは大人気ないと思っていたが、万年最下位効果?もあってか不思議と茨城をメディアでよく見かけるような気がする。 例えば、U字工事(ゆーじこうじ)のネタがなぜ受けるのか。これが20位とか30位の東京から遠い地方ではつまらない。つまり、茨城は今や「万年最下位のいじられキャラ」としてのおいしい地位を築きつつあるということか。 さて展示も終盤に差し掛かったころ、「廃藩置県」というところに目が留まった。「牛久県、知事、周防(すおう)の守…」? 周防といえば我が故郷・山口県東部。「周防だって」とかみさん。ググってみる。なんと、長く牛久藩を治めた領主は戦国時代に周防の国からはるばる呼ばれた方で、それに因(ちな)んで姓を山口氏としたそうだ。 「そうじゃったんか!」と山口弁で呟(つぶや)きそうになった。ちと大袈裟(おおげさ)だが、たまたま住んでしまったと思っていた牛久に、少しだけ運命的なものを感じた。しかし、この微妙な感動を誰と分かち合えるわけでもなく、とりあえず共感してくれそうなのは、縁あって牛久で2棟の家を建てた山口に住む弟くらいのものか。 「今日は終戦記念日じゃ」 実は歴史館に来たのは、カミさんの同僚の方が企画に携わった展示をやっているとのことで、お供することになった次第だ。35度を超えた気温も手伝って、「茨城と戦争」というテーマはちょいと気が重かったのだが。 私の故郷は海軍の燃料所があったところで(今も数万トン級のタンカーが出入りする)、戦時中は空襲を受け、母はよくその話をした。学校の先生も、よく戦争中の体験を語った。時代は高度経済成長期。忙しくておかずの少ない夕餉(ゆうげ)には「今日は終戦記念日じゃ」、ご飯をがっついて食べる様子を見ると「欠食児童がおるよ」などと、まだまだそんな言葉が日常的に使われていた。 そんなことを思い出しながら見る戦時中の白黒写真に写っているのは、どこかで見かけたような今の若者たちとよく似た顔の青年たちだ。 「茨城? 結構いいところだよ!」 最近気になることがある。震災以降のことだろうか。子供たちまでもが「ぼくらのプレーでみんなを勇気づけたい…」とコメントし始めたことだ。そう、スポーツやエンターテイメントの世界で、よく耳にするようになった。そんなことを考えて試合をされたり、歌われたら堪(たま)らない。頼むから、そんな薄っぺらい大人の受け売りはやめてくれ。 将来に向けて、自分で考えることのできる子供を文科省は育てるらしいが、国や会社にいいように使われないような教育のことかな? 戦争に反対する糸井重里さんの名コピーを思い出した。「とにかく死ぬのやだもんね」。 20年前に、今住んでいる土地を探してきのはたカミさん。帰りに立ち寄った直売所で、新鮮で美味しそうな野菜や果物でいっぱいになったカゴを抱えてご満悦。「茨城? 結構いいところだよ!」(画家)

《続・平熱日記》70 水戸の歴史館で学んだこと

【コラム・斉藤裕之】ここ数年でカミさんと県内をよく回った。この日訪ねた水戸の歴史館で茨城の歴史を見ながらそう思った。「魅力のない県、茨城」。私も始めはこの手のランキングに目くじらを立てるのは大人気ないと思っていたが、万年最下位効果?もあってか不思議と茨城をメディアでよく見かけるような気がする。 例えば、U字工事(ゆーじこうじ)のネタがなぜ受けるのか。これが20位とか30位の東京から遠い地方ではつまらない。つまり、茨城は今や「万年最下位のいじられキャラ」としてのおいしい地位を築きつつあるということか。 さて展示も終盤に差し掛かったころ、「廃藩置県」というところに目が留まった。「牛久県、知事、周防(すおう)の守…」? 周防といえば我が故郷・山口県東部。「周防だって」とかみさん。ググってみる。なんと、長く牛久藩を治めた領主は戦国時代に周防の国からはるばる呼ばれた方で、それに因(ちな)んで姓を山口氏としたそうだ。 「そうじゃったんか!」と山口弁で呟(つぶや)きそうになった。ちと大袈裟(おおげさ)だが、たまたま住んでしまったと思っていた牛久に、少しだけ運命的なものを感じた。しかし、この微妙な感動を誰と分かち合えるわけでもなく、とりあえず共感してくれそうなのは、縁あって牛久で2棟の家を建てた山口に住む弟くらいのものか。 「今日は終戦記念日じゃ」 実は歴史館に来たのは、カミさんの同僚の方が企画に携わった展示をやっているとのことで、お供することになった次第だ。35度を超えた気温も手伝って、「茨城と戦争」というテーマはちょいと気が重かったのだが。 私の故郷は海軍の燃料所があったところで(今も数万トン級のタンカーが出入りする)、戦時中は空襲を受け、母はよくその話をした。学校の先生も、よく戦争中の体験を語った。時代は高度経済成長期。忙しくておかずの少ない夕餉(ゆうげ)には「今日は終戦記念日じゃ」、ご飯をがっついて食べる様子を見ると「欠食児童がおるよ」などと、まだまだそんな言葉が日常的に使われていた。 そんなことを思い出しながら見る戦時中の白黒写真に写っているのは、どこかで見かけたような今の若者たちとよく似た顔の青年たちだ。 「茨城? 結構いいところだよ!」 最近気になることがある。震災以降のことだろうか。子供たちまでもが「ぼくらのプレーでみんなを勇気づけたい…」とコメントし始めたことだ。そう、スポーツやエンターテイメントの世界で、よく耳にするようになった。そんなことを考えて試合をされたり、歌われたら堪(たま)らない。頼むから、そんな薄っぺらい大人の受け売りはやめてくれ。 将来に向けて、自分で考えることのできる子供を文科省は育てるらしいが、国や会社にいいように使われないような教育のことかな? 戦争に反対する糸井重里さんの名コピーを思い出した。「とにかく死ぬのやだもんね」。 20年前に、今住んでいる土地を探してきのはたカミさん。帰りに立ち寄った直売所で、新鮮で美味しそうな野菜や果物でいっぱいになったカゴを抱えてご満悦。「茨城? 結構いいところだよ!」(画家)

10カ月ぶり出場の高橋竜也が判定勝ち コロナ禍、声援禁止し拍手で応援

【崎山勝功】日本バンタム級7位の高橋竜也(29)=土浦市出身、ヤマグチ土浦=が20日、つくばカピオ(つくば市竹園)で催された「東日本大震災復興チャリティー ダイナミックヤングファイトボクシングinつくば」(ヤマグチ土浦ボクシングジム、ヤマニ主催)に出場し、城後響(26)=大阪府出身、三迫=と対戦、3―0で相川に判定勝ちを収めた。高橋の通算成績は今回の勝利を含め47戦32勝21KO9敗6分。 高橋は昨年11月9日の試合で負傷して以来約10カ月ぶりの出場となった。中盤辺りから積極的な攻めを見せキレのある攻撃を展開、左ストレートを城後の顔面に決めるなど攻勢を強めたが、城後も粘り強く試合を進め、全8ラウンド(R)終了し、判定に持ち込まれた。結果、3人の審判が高橋優位と判定し、勝ちが決まった。 試合後、高橋は「声援が無くても応援してくれる気持ちは伝わった。チャンピオンになってみんなに感謝を返したい」と、今後への意欲を示した。 根本は判定負け、人見は3R TKO負け 同日の試合では、根本裕也(34)=つくば市出身、同=もスーパーウエルター級で足名優太(26)=東京都出身、渡嘉敷=と対戦。出血しながら全6Rを戦い抜き善戦したものの、判定で勝利を逃した。根本の通算成績は17戦6勝1KO9敗1分。根本は「ちょこちょこと相手から(パンチを)もらっていた。相手の方が強かった」と試合を振り返った。 人見信男(35)=土浦市出身、同=は小安慎吾(24)=東京都出身、三迫=と対戦。前回のデビュー戦に敗れたため何としても初勝利を飾りたかったが、小安の攻勢に押され3R49秒でレフェリーストップがかかりTKO(テクニカルノックアウト)負けを喫した。人見の通算成績は2戦0勝2敗。人見は「相手のパンチも良かったし、自分も打ち返すチャンスがあったけど、相手に飲まれて最後はストップ負けになってしまった」と語った。 感染防止対策を徹底 コロナ禍、試合会場では感染防止対策が徹底して行われた。観客はホール入り口前で体温検査を受けた後、連絡先を署名簿に記入して会場に入った。入り口が混雑したため、退場時に記入するように急きょ変更した。 観客席は1階リングサイド席を通常の約3分の1に減らし、2階は1席おきと2分の1に削減した。報道席もリングサイドからの撮影が禁止され、2階席から望遠レンズで撮影。東京から来たカメラマンは「上からだと迫力がある写真が取れない」と不満を口にした。 選手入場の際に、ファンが選手名入りののぼり旗を立て、隊列を組んでの出迎えは取り止めになった。観客が声を出しての応援も禁止され、観客はマスクを着用して拍手のみの応援となった。メーン試合の高橋竜也―城後響戦では、1R目に2階観客席の子どもたちが「竜也がんばれー」と声を出して応援し、場内アナウンスが注意する一幕があった。 1試合終わるごとに、フェイスシールドとマスクを付けた運営スタッフが、リングに強酸性電解水を散布して消毒した。 会場の感染防止対策について東京から観戦に訪れた久米礼華さん(37)は「ソーシャルディスタンスをみんなで保って感染防止に努められればいいなと思った」と話した。つくばみらい市の井上直人さん(42)は「会場の雰囲気もいいし(感染防止対策を)ちゃんとやっている」と好意的に受け止めていた。

創作版画の草分け 永瀬義郎展 つくばの古書店

【池田充雄】県西出身で大正・昭和期に活躍した版画家、永瀬義郎の作品展「創作版画の草分け 永瀬義郎展」が、つくば市吾妻の古書店、ブックセンター・キャンパスで開かれている。展示作品は版画や絵皿など14点。一部は額装されて店頭に飾られている。ほかに表紙画を描いた雑誌や著書、画集なども展示している。 永瀬は1891(明治24)年、現在の桜川市入野に生まれた。県立土浦中学校を卒業後、白馬会洋画研究所を経て東京美術学校彫刻科に入学。ムンクの作品に影響を受け、版画制作を始める。1912(大正元)年、詩人、日夏耿之介や西條八十らが創刊した文芸同人誌「聖盃」(後に「仮面」と改題)に参加。表紙画や口絵を手掛けたほか、小説や戯曲、詩なども発表した。 創作版画に対する考え方は「仮面」1914(大正3)年9月号掲載の評論「現今の版画に就いて」に詳しい。当時、自画自刻の版画作品が増えてはいたが「皆装飾的趣味の遊技的産物に過ぎず、版画の独立した芸術としての価値を発揮している者は一人もない」と嘆き、一方で長谷川潔に対しては「白と黒の調和を基礎として簡潔にして偉大な印象」と讃え、広島新太郎については「刀のテクニックにも他の人と違った切れ味」があり「従来の版画と違った近代思想に触れた氏の個性のひらめき」が認められると述べた。 1916(大正5)年、永瀬・長谷川・広島の3人は本邦初の版画結社「日本版画倶楽部」を結成したが、翌々年には長谷川がフランスへ活動拠点を移し、自然消滅した。後に広島は晃甫の名で日本画家として名声を高め、永瀬は山本鼎らが創立した日本創作版画協会に活動の場を移していく。 1922(大正11)年に永瀬は技法書「版画を作る人へ」を上梓。当時の美術書としては異例のベストセラーになり、棟方志功や谷中安規ら多くの版画家に影響を与えたほか、多様な分野の芸術家に斬新な発想の転換をもたらしたという。今展では旧版と新版を展示しており、旧版の方は木版刷りの口絵が殊に美しい。 もう1冊の著書は1977(昭和52)年刊行の自伝「放浪貴族」。谷中安規や宇野浩二ら画人・文人との交遊が興味深い。土浦出身の随筆家で劇作家の高田保も登場する。永瀬は1923(大正12)年の関東大震災の後、東京の子どもたちを人形芝居で慰めようと高田に呼び掛け、坪内逍遙、島崎藤村、北原白秋、武者小路実篤らに援助を仰いだ。宇野宅では永瀬が人形を操って「舌切り雀」のひと踊りを披露し、高田が口笛で伴奏をつけたという。 永瀬は1929年(昭和4年)から7年間の渡仏を経て、帰国後も戦中・戦後を通して精力的に活動した。晩年はシルクスクリーンを改良した独創的な版画技法「ナガセプリント73」を駆使し、代表作「もの想う天使」や「女とこども」など、愛と幻想に満ちた作品を発表し続けた。 再評価の契機に 「今回の展示は戦後が中心だが、戦前の作品の方が評価は高く、特に初期の木版画はかなり斬新。『版画を作る人へ』の口絵などを見ると、その良さがよく分かる」とブックセンター・キャンパス店主の岡田富朗さん。 今展の開催意図については「盟友の長谷川潔は世界的に有名だが、永瀬はいま一つ評価が低い。日本で最初に版画の展覧会を開いたすごい人なのに、今は知る人が少ない。版画のほか油絵や文章などマルチな才能を発揮したことも、日本では逆に軽視されやすい傾向がある」と話し、再評価の契機としたい考えだという。 ◆同展は30日まで。会場のブックセンターキャンパスは同市吾妻3-10-12。営業時間は午前10時~午後4時。現在は不定休、来店前の電話確認が確実。電話029-851-8100(同店)。

8カ月ぶりのゴング 20日、つくばカピオのリングに地元勢3選手

【崎山勝功】ボクシング試合「東日本大震災復興チャリティー ダイナミックヤングファイト」が20日、つくばカピオ(つくば市竹園)で開かれる。主催のヤマグチ土浦ボクシングジム(土浦市東崎町)によると、同ジム主催の試合は今年1月27日に後楽園ホール(東京)での開催が最後で、新型コロナウイルスの感染拡大以降では初めて。 同ジムでは例年4月と7月頃にボクシング試合を開いていたが、メーン会場の後楽園ホールがコロナ禍のため使用中止となり開催を断念した。橘朗代表コーチは「(選手たちが)気持ちやモチベーションを維持していくのが大変だった」と振り返った。 つくばカピオでの試合開催に当たり、同ジムでは▼座席数を通常の3分の1に削減し座席は全席指定▼1試合終わるごとにリングに強酸性電解水を散布して消毒▼セコンドはマスクかフェイスシールドを着用▼報道関係者はリングサイドからの撮影を禁止し2階席から撮影―などの対策を講じた。消毒に使う強酸性電解水は、ボクシング愛好家のつくば市内の業者から寄付を受けたという。 再開に腕ぶす選手たち 久しぶりの試合とあって、ジム所属の各手たちはそれぞれに意気込みを見せた。 土浦市出身のプロボクサーで日本バンタム級7位の高橋竜也(31)は、47戦目のリングに上がる。昨年11月の試合で肩を痛めて以来の試合出場。「プロになって初めてこれだけ期間が空いた。全然マイナスじゃなくて自分の悪いところを見直したり、短所や悪いところを鍛えられたりしたのでプラスになった」と自粛期間も前向きに受け止めた。「勝つことしか考えていない。勝ち方にこだわってしっかり勝つ。KOだったら最高。いいボクシングをできるようにする」と自信を示した。 同市出身で今年1月から51.4キロ契約でプロデビューした人見信男(35)は「1月のデビュー戦は負けてしまったので、その時の反省を生かしたい。試合が延びたことで自分を鍛える時間を使えたので、プラスに捉えて挑みたい」と意気込んだ。「試合が決まったのがコロナで流れて、残念な気持ちになったけど、また次の試合を組んでくれるのが分かったので会長に感謝して練習に集中することができた」と振り返った。 つくば市出身でスーパーウェルター級の根本裕也(34)は「年齢的にそんなに先が長く無いので、負けたら終わりの気持ちでやっている」と背水の陣で試合に臨む。「自分も試合が2回流れたので久しぶりの試合。いずれはやると思っていたので、いつ決まってもいいように準備はしていた。やっとその時が来たという感じ」と試合再開を歓迎した。 20日は午後5時から7試合が組まれている。人見は第2試合で小安慎吾(三迫)と、根本は第6試合で足名優太(渡嘉敷)と、高橋はメーン試合で城後響(三迫)と、それぞれ対戦する。(かっこ内は所属ジム) ◆問い合わせ先は同ジム(電話029-824-8686)。

「難病患者の防災ガイドブック」作成 交流団体アミーゴ

【山崎実】難病患者、家族に向け月1回、定期的な交流会を開いている「難病カフェ アミーゴ」が、「難病患者のための防災ガイドブック」を作成し積極的な活用を呼び掛けている。 アミーゴは2016年5月の設立以来、毎月1回の交流会を通し、「患者と防災」を活動の柱の一つとして取り組んできた。 難病といっても種類は300を超え、症状もさまざまであることから難病患者に特化したガイドブックはこれまで作成されてなかった。 そこで、患者や家族、支援者の「備え」や「配慮」に役立ててもらうを目指し、昨年3月には基礎資料収集のため、福島、宮城県で東日本大震災を経験した患者、家族への聞き取り調査を実施し、災害への備えについて知識やアドバイスを受けてきた。 ガイドブックは、イラストや写真を多く取り入れ、大きな文字で読みやすさを重視しているほか、実際に情報収集に役立つようQRコードを随所に掲載するなど、読みやすい構成に気配りしている。 具体的な内容は、非常持ち出し袋の中身を紹介したり、袋は玄関先や寝室など決まった場所に保管する、食料を入れる時は水や熱を使わないで食べられるものを用意する、災害発生から3日間は自分の身は自分で守る意識が大切だ、などとしている。 患者自身が考えた「難病患者ならではの必需品」として、日常服用している薬は1週間分くらいあると安心、薬が持ち出せなくなるケースも考えられるの自宅内ので2カ所以上に保存するようにする、保険証や指定難病特定医療費受給者証、処方箋などはコピーでも可、スマホで撮影しておくーなどのアドバイスもしている。 新型コロナウイルス感染者対策についても、3密(密閉、密集、密接)を避け、人との距離を2メートル以上空けるソーシャルディスタンスの遵守を訴えている。 ガイドブックには、災害時に援助を受けやすくするため作成された「緊急用ヘルプマーク」が添付され、裏側には疾患名や必要な処置、飲んでいる薬、かかりつけ医療機関名などが書き込めるようになっており、切り取って使える工夫もされている。 問い合わせはアミーゴ代表の桑野あゆみさん(電話090-2986-8198)

《茨城鉄道物語》4 ブルネル賞って なんだっぺ

【コラム・塚本一也】皆さんは「ブルネル賞」という賞をご存じだろうか? 鉄道関連施設のデザインに対する国際的な賞で、鉄道のノーベル賞ともいわれている。受賞対象は、駅舎、鉄道インフラ、関連施設、工業デザイン、車両の5つの部門に分かれており、部門ごとに優秀賞と奨励賞が選定される。 第1回表彰式は1985年に英国で行われ、以後2~3年ごとに不定期で開催されている。JR東日本の代表的な受賞作品としては、第4回(1992年)の成田エクスプレスや第12回(2014年)の東京ステーションシティが挙げられる。 私たちに身近なところにも、ブルネル賞を受賞した作品が3つある。1つは、日本が初参加した第3回(1989年)に奨励賞を受賞した651系「スーパーひたち」である。そのスタイリッシュな外観デザインは「タキシードボディ」とよばれ、毎時130キロの運転で疾走するスーパー特急の先駆けとなった列車である。 2番目が、第6回(1996年)に駅舎部門で奨励賞を受賞した水郡線の磐城塙(いわきはなわ)駅である。同駅は、JR東日本が水郡線の各駅舎に対して取り組んだ、都市機能と鉄道駅舎を一体化した「合築駅」という施策の一環として建築された。設計は東北大学の伊藤邦明先生(故人)で、設計監理はJR水戸支社が行った。 ガラス張り外装のJR日立駅 3番目は、第12回(2014年)に優秀賞を受賞した常磐線日立駅である。同駅は日立市出身で水戸一高OGでもある妹島和代先生が設計した。妹島先生の設計は、細長比ギリギリかと思われるような柱で支えられた、大きなガラス張りの外装が特徴的である。 実は、日立駅のオープニングセレモニーは2011年3月13日を予定していた。その前々日に東日本大震災に被災したわけだが、たいした損傷もなく済んだということである。妹島先生の設計がデザインだけでなく、構造的にも優れていることが実証されたエピソードである。同駅は太平洋を一望できるカフェが有名であり、筆者も一度訪れてみたいと思っている。 このように、地方支社の管轄でブルネル賞作品が3点もあることは、JR東日本内では大変珍しいケースである。651系のスーパーひたちはすでに廃車となっているため、現在では乗車体験することはできないが、磐城塙駅と日立駅は現存している。是非、読者の皆様にも見学に行っていただき、鉄道建築の斬新さと奥深さを味わっていただきたい。(一級建築士)

《茨城鉄道物語》4 ブルネル賞って なんだっぺ

【コラム・塚本一也】皆さんは「ブルネル賞」という賞をご存じだろうか? 鉄道関連施設のデザインに対する国際的な賞で、鉄道のノーベル賞ともいわれている。受賞対象は、駅舎、鉄道インフラ、関連施設、工業デザイン、車両の5つの部門に分かれており、部門ごとに優秀賞と奨励賞が選定される。 第1回表彰式は1985年に英国で行われ、以後2~3年ごとに不定期で開催されている。JR東日本の代表的な受賞作品としては、第4回(1992年)の成田エクスプレスや第12回(2014年)の東京ステーションシティが挙げられる。 私たちに身近なところにも、ブルネル賞を受賞した作品が3つある。1つは、日本が初参加した第3回(1989年)に奨励賞を受賞した651系「スーパーひたち」である。そのスタイリッシュな外観デザインは「タキシードボディ」とよばれ、毎時130キロの運転で疾走するスーパー特急の先駆けとなった列車である。 2番目が、第6回(1996年)に駅舎部門で奨励賞を受賞した水郡線の磐城塙(いわきはなわ)駅である。同駅は、JR東日本が水郡線の各駅舎に対して取り組んだ、都市機能と鉄道駅舎を一体化した「合築駅」という施策の一環として建築された。設計は東北大学の伊藤邦明先生(故人)で、設計監理はJR水戸支社が行った。 ガラス張り外装のJR日立駅 3番目は、第12回(2014年)に優秀賞を受賞した常磐線日立駅である。同駅は日立市出身で水戸一高OGでもある妹島和代先生が設計した。妹島先生の設計は、細長比ギリギリかと思われるような柱で支えられた、大きなガラス張りの外装が特徴的である。 実は、日立駅のオープニングセレモニーは2011年3月13日を予定していた。その前々日に東日本大震災に被災したわけだが、たいした損傷もなく済んだということである。妹島先生の設計がデザインだけでなく、構造的にも優れていることが実証されたエピソードである。同駅は太平洋を一望できるカフェが有名であり、筆者も一度訪れてみたいと思っている。 このように、地方支社の管轄でブルネル賞作品が3点もあることは、JR東日本内では大変珍しいケースである。651系のスーパーひたちはすでに廃車となっているため、現在では乗車体験することはできないが、磐城塙駅と日立駅は現存している。是非、読者の皆様にも見学に行っていただき、鉄道建築の斬新さと奥深さを味わっていただきたい。(一級建築士)

《続・気軽にSOS》65 いろいろな人の支えがあるから

【コラム・浅井和幸】「浅井さんさぁ、何とかなんないかなぁ」。電話から、Aさんの声が聞こえたのは、2011年3月11日から1週間ぐらい経った日だったろうか。そう、あの東日本大震災の少し後。以前からの知り合いAさんは、福島に送る支援物資の調達活動に関わっていた。その中で、数トンの米を寄付いただけることになったが、それを福島まで送る手段を探しているとのことだった。 とても立派な活動で、お手伝いしたいのは山々だけれど、当時の私には(今もだけれど)、それに対応できる方法が想像もつかない。「え~っ、ちょっとどうしてよいか分からないけど、とりあえず考えてみるので期待しないで待っていてください」。そう回答するのが精いっぱいだった。 さて、何人かの知り合いに声をかけてみる。もちろん、よいアイデアは無い。知り合いもみな被災しているし、ガソリンも不足しているし…。そこで、当時始めたばかりだったツイッターで呼びかけてみた。電話がつながりにくい当時、ボランティア同士のやり取りや情報収集に役に立っていたけれど、今ひとつ使い方が分からず、わらをもつかむダメ元ってやつ。 そうしたら、所有しているトラックで運転して持って行けますという声が返ってきた。まったく見ず知らずの人だ。急いで電話で連絡を取ると、ガソリン代も交通費もいらない、すべて無償のボランティアで協力してくれるとのことだった。 こんなこともあるものなのかと、最初は半信半疑で話をすると、とても誠実そうな声で、丁寧に話をしてくれた。Aさんの連絡先を教えるので、直接話してもらってもよいかと尋ねると、その方は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく連絡すると答えてくれた。 後日、Aさんから連絡があり、うまく、ことが運んだそうである。さすがと、Aさんは私をほめてくれたが、どう考えても、素晴らしいのはAさんとそのトラックドライバーの方。本当にこんなことがあるんだなぁと、このような素敵な人たちと話ができたことをうれしく思っていた。 感謝、感謝 元気の源 その後も、ネット上で呼びかけたら、見ず知らずの他県の方から、乳幼児用の服や離乳食の詰め合わせが送られてきたこともあった。それは、ある貧困の若夫婦にお届けした。その時に添えられていた、温かい文章が書いてあるかわいらしいメモは、今でも宝物のように事務所の机にしまってある。たまに思い出して読むと、自分も負けてられないよなと、力が湧いてくる。 そのような印象的なこともたくさんあるし、日常的にタオルが欲しいとか、冷蔵庫が欲しい―など、私のおねだりに応えてくれるネットワークのおかげで、私の様々な活動が成り立っている。おねだりをする前から、まだ使えるどころか、浅井家で使っている品物よりもキレイで高価なものを、必要ないかと声をかけてくれる方たちもいる。 感謝、感謝なのです。私の元気の源と言ってよいでしょう。(精神保健福祉士)

《続・気軽にSOS》65 いろいろな人の支えがあるから

【コラム・浅井和幸】「浅井さんさぁ、何とかなんないかなぁ」。電話から、Aさんの声が聞こえたのは、2011年3月11日から1週間ぐらい経った日だったろうか。そう、あの東日本大震災の少し後。以前からの知り合いAさんは、福島に送る支援物資の調達活動に関わっていた。その中で、数トンの米を寄付いただけることになったが、それを福島まで送る手段を探しているとのことだった。 とても立派な活動で、お手伝いしたいのは山々だけれど、当時の私には(今もだけれど)、それに対応できる方法が想像もつかない。「え~っ、ちょっとどうしてよいか分からないけど、とりあえず考えてみるので期待しないで待っていてください」。そう回答するのが精いっぱいだった。 さて、何人かの知り合いに声をかけてみる。もちろん、よいアイデアは無い。知り合いもみな被災しているし、ガソリンも不足しているし…。そこで、当時始めたばかりだったツイッターで呼びかけてみた。電話がつながりにくい当時、ボランティア同士のやり取りや情報収集に役に立っていたけれど、今ひとつ使い方が分からず、わらをもつかむダメ元ってやつ。 そうしたら、所有しているトラックで運転して持って行けますという声が返ってきた。まったく見ず知らずの人だ。急いで電話で連絡を取ると、ガソリン代も交通費もいらない、すべて無償のボランティアで協力してくれるとのことだった。 こんなこともあるものなのかと、最初は半信半疑で話をすると、とても誠実そうな声で、丁寧に話をしてくれた。Aさんの連絡先を教えるので、直接話してもらってもよいかと尋ねると、その方は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく連絡すると答えてくれた。 後日、Aさんから連絡があり、うまく、ことが運んだそうである。さすがと、Aさんは私をほめてくれたが、どう考えても、素晴らしいのはAさんとそのトラックドライバーの方。本当にこんなことがあるんだなぁと、このような素敵な人たちと話ができたことをうれしく思っていた。 感謝、感謝 元気の源 その後も、ネット上で呼びかけたら、見ず知らずの他県の方から、乳幼児用の服や離乳食の詰め合わせが送られてきたこともあった。それは、ある貧困の若夫婦にお届けした。その時に添えられていた、温かい文章が書いてあるかわいらしいメモは、今でも宝物のように事務所の机にしまってある。たまに思い出して読むと、自分も負けてられないよなと、力が湧いてくる。 そのような印象的なこともたくさんあるし、日常的にタオルが欲しいとか、冷蔵庫が欲しい―など、私のおねだりに応えてくれるネットワークのおかげで、私の様々な活動が成り立っている。おねだりをする前から、まだ使えるどころか、浅井家で使っている品物よりもキレイで高価なものを、必要ないかと声をかけてくれる方たちもいる。 感謝、感謝なのです。私の元気の源と言ってよいでしょう。(精神保健福祉士)

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