火曜日, 10月 6, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

【池田充雄】霞月楼2代目の堀越正雄・満寿子夫妻は、山本五十六の土浦での親代わりのような存在で、日頃から親身に世話し、転出後も交流が続いたという。

ある日2人の下に山本から手紙が届く。正雄が贈った成田山のお札への礼状だ。日付は昭和16年(1941年)12月5日。太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃の3日前で、北方航路では真珠湾に向けて機動部隊が進軍、山本が座乗する旗艦「長門」以下主力部隊は、退却支援のため山口県岩国市の柱島泊地に待機していた。

手紙にある「最後の御奉公に精進致し居り候」の文言が暗示的だ。もはや生きては帰らぬ覚悟を示したか。海外経験が豊富で彼我の国力の差を知る山本は、対米戦争にはもとより反対の立場だったとされる。1940(昭和15)年9月の近衛文麿首相との会談では「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と答えていた。

霞月楼にある山本の手紙

航空軍備の重要性を認識

山本は1884(明治17)年、新潟県長岡市坂之上町に旧長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生、当時の父親の年齢から五十六と命名された。日露戦争中の1904(明治37)年、海軍兵学校を卒業。翌年、装甲巡洋艦「日進」に配属され、5月27日の日本海海戦に参加した。砲弾の炸裂により左手の指2本を失い、左大腿部に重傷を負った。

その後は乗艦勤務を経て、海軍砲術学校教官や海軍省軍務局員などを務める。1916(大正5)年、旧長岡藩城代家老職の山本家を相続。1619(大正7)年、旧会津藩士の娘・三好礼子と結婚した。

1919(大正8)年4月から約2年間米国に駐在し、ハーバード大学で学ぶ。1923(大正12)年6月から9カ月間、ワシントン軍縮条約下の欧米各国の情勢を視察し、日本海軍の将来には航空戦力の充実が不可欠との信念を抱く。

断髪令で隊の風紀を刷新

1924(大正13)年9月1日、自らの強い希望により霞ケ浦海軍航空隊に赴任。12月1日に教頭兼副長(後に副長兼教頭)に就くと、初日の朝礼で号令台から総員を見渡し「下士官兵にして頭の毛を伸ばしている者は皆切れ。一週間の余裕を与える。終わり」と宣告した。

霞ケ浦航空隊は1922(大正11)年11月の創隊で、隊員の間では英国教官団の影響から長髪の者が多く、腕一本で空を駆ける職人気質と、命知らずのやくざ気質が表裏を成し、遅刻や脱営も日常茶飯事だったという。そこでまずは軍紀風紀の刷新に着手し、勘や名人芸に頼らぬ合理的な飛行技術の確立を目指した。

土浦在勤中の山本の住居は、「山本五十六伝」(朝日新聞社)によると長岡中学の後輩・大崎教信少佐が建てた家だそうだ。神龍寺(土浦市文京町)の参道右手、今は墓地がある辺りにあった。なお当時の参道は桜並木が覆っていたが、1938(昭和13)年の大洪水で枯死している。

神龍寺の秋元梅峯住職とは意気投合し、1925(大正14)年9月に土浦で最初の花火大会を2人の私費で開催した。目的は海軍航空殉難者の慰霊、2年前の関東大震災の犠牲者の追悼、不況にあえぐ土浦の商業振興、農業収穫への感謝など。これが現在の土浦全国花火競技大会の基礎となった。

ブーゲンビルの空に散る

連合艦隊司令長官になった頃の山本五十六

山本の霞ケ浦在任は1年3カ月で終わり、1926年(大正15年)1月から2年間、駐米大使館付武官を拝命。帰国後は空母「赤城」艦長などを経て、1929年(昭和4年)11月少将に進み、以後は海軍航空本部長や海軍次官などの要職を歴任。1939(昭和14)年に連合艦隊司令長官、1940(昭和15)年に大将となる。

1941年(昭和16年)10月に成立した東條英機内閣は、米英蘭3国に対する開戦方針を推し進め、11月26日に対米交渉が決裂すると、12月8日の真珠湾攻撃で戦端を開いた。山本率いる連合艦隊は、初期の南方作戦では良好な戦果を挙げたものの、翌年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以後戦況は悪化の一途をたどる。

1943(昭和18)年4月18日、東部ニューギニア・ソロモン群島での戦いの最中、山本は前線視察のためラバウル基地を飛び立つが、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せに遭い撃墜された。享年59歳。

下半身像を56年ぶりに発見

山本には元帥の称号が遺贈され、同年6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われた。また12月8日には土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校、阿見町青宿)第1練兵場の号令台横に、コンクリート製の立像が建てられた。像の高さは3.6メートル、台座を含めると6.3メートルに達した。

1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると、進駐軍の狼藉を恐れて、山本の像は胴から半分に切断され、霞ケ浦に沈められた。上半身は1948(昭和23)年に湖底から引き揚げて神龍寺に安置され、1952(昭和27)年に菊池朝三元少将らが海軍殉職者のための慰霊祭を開いた。菊池は山本の部下で終戦時の海軍総隊参謀副長。梅峯の長女と結婚し、1959(昭和34)年から12年間土浦市議を務めている。

1952年に神龍寺で慰霊祭が催されたときの記念写真

上半身像は1958(昭和33)年に生家跡の山本記念公園に移されたが、風雨による傷みから1970(昭和45)年に青銅の複製像に置き換えられた。原像はいま海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校、広島県江田島市)の教育参考館にある。

下半身像も湖底にあるものと考えられてきたが、2002(平成14)年の調査で台座近くの地中に埋まっていると判明。56年ぶりに掘り出され、雄翔館前に新しく建てられた山本像の台座下部に収められた。号令台横の古い台座には今、山本の揮毫による「常在戦場」の碑が置かれている。

予科練記念館「雄翔館」は1968年、陸上自衛隊武器学校内に開館した。正面の山本像は2004年の建立

●取材協力・参考資料
陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽神龍寺▽阿川弘之「山本五十六」(1994年新装版、新潮社)▽三和多美「海軍の家族」(2011年、文芸春秋)▽阿見町歴史調査委員「海軍航空隊ものがたり」(2014年、阿見町予科練平和祈念館)▽「霞月楼百年」(1988年、霞月楼)▽「阿見と予科練」(2002年、阿見町)▽阿見町民話調査班「爺さんの立ち話」(2003年、阿見町)▽「花火と土浦」(2018年、土浦市立博物館)▽常陽新聞2002年6月11日付▽長岡市山本五十六記念館ウェブサイト▽土浦商工会議所ウェブサイト▽ウィキペディア

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最近のコメント

最新記事

霞ケ浦、水城に敗れ優勝ならず 秋季関東高校県大会

第79回秋季関東地区高校野球茨城県大会は4日、ひたちなか市民球場で決勝戦が行われ、霞ケ浦は水城に2―3で敗れ、11年ぶり5度目の優勝はならなかった。高橋祐二監督に代わってこの日も指揮をとった霞ケ浦の大高直人部長は「(水城のエースの)大川君の落差のある変化球に対応出来なかった」と敗因を語った。 水 城 010100100 3霞ケ浦 020000000 2 霞ケ浦は2回に失策で1点を先制されるが、その裏2死満塁のチャンスに鹿又煌翔が、先発の大川のストレートをレフトへタイムリーツーベースを放ち、2ー1と逆転する。「みんなが繋いでくれたので何としても打ちたかった。ヒットになって良かった」と鹿又。しかし水城は4回、内野ゴロの間に同点に追いつき、試合を振り出しに戻す。 霞ケ浦打線は4回以降、毎回走者を出すが、チャンスであと1本が出ずホームが遠のく。霞ケ浦先発投手の内山雷斗は、調子は悪いながらも徐々にスライダーの感覚が良くなり、6回まで粘り強く投げ、水城打線を抑えた。 しかし7回、甘く入ったスライダーを水城打線に仕留められ、水城の村田琳央、野口心大から連打を浴びる。1死一、三塁とされ、続く大森寧起にも低めのスライダーを上手くライト前に運ばれ、勝ち越しを許した。 7回途中、霞ケ浦の2番手投手として後藤稜空がマウンドに上がるが、水城の幡耕誠に四球を与え1死満塁のピンチを招く。しかし続く富田陽大をショートへの併殺打に仕留め、味方の反撃を待った。 その後、霞ケ浦打線は8回、9回と3者凡退に抑えられ、水城のエース大川を攻略することが出来ず、夏、秋と県大会連覇は果たせなかった。 先発した内山は「準々決勝、準決勝と三浦が頑張ってくれた。決勝は自分が任されたが、いい結果が出ず悔しい。関東大会では弱気にならずに攻めていき、霞ケ浦の野球をして、1勝、1勝積み重ねていきたい」と話した。主将の湯浅隼人は「投手を中心とした守りから攻撃に繋げていくチームだったが、今日は守りからミスを重ねて失点をしてしまい、打線も点を返すことが出来なかった。自分たちが今までやってきた野球が出来ず、負けてしまったのは悔しい。守りから勝つ霞ケ浦の野球をもう一度見直し、関東大会では自分たちが目標としている春の選抜甲子園出場を果たすために頑張る」と意気込みを語った。 霞ケ浦の大高部長は「守備のエラーが出たのは予想外だった。内山も不安なところはあったが、苦しい中でも何とか打ち取った。しかし守備のエラーで浮き足立ってしまった。鹿又のヒットで逆転し、気持ちが切り替わっていけたら良かったが、出来なかった」と話した。 水城は、今夏準優勝校の常総学院、優勝校の霞ケ浦を倒し、秋季県大会で16年ぶり2度目の頂点に立った。水城は茨城の王者として強豪校ぞろいの関東大会に挑む。霞ケ浦も2日の準決勝ですでに関東大会出場を決めている。(高橋浩一)

バイシクル・ダイアリーズ ⑹《ことばのおはなし》97

【コラム・山口絹記】ツール・ド・つくば2026、本番当日。朝5時前に起床。普通に寝不足である。炭水化物をとるため、山盛りのパスタとパンを無理やり食べ、前日に車に積んでおいた自転車とともに会場へ向かった。 会場に着くと、すでに参加者たちが周辺を走り込んでいる。使い込まれたロードバイクに本格的なサイクルウェア。チームで参加している人も多い。 私はこれまでスポーツの大会というものにほとんど参加したことがない。最後に出たのは、小学生のころの水泳の区民大会くらいだ。どうにも自分だけ場違いな気がする。 スタート地点には見たこともない数のロードバイクが並んでいた。その中に自分がいることが不思議で、一体どうしてこうなったのだろうと思う。 自分はいつもこうだ。自分で決めたことなのに、どうして自分が今ここでこうしているのかと、ふと我に返ってしまう。 55分21秒 201 スタート。 自転車屋の店長さんから「周りのペースに乗せられないように」と言われていたので、自分の脚にかかる負荷だけを意識する。 とはいえ、ずいぶん追い抜かれるな。 30代の集団では早々に最後尾。やがて後ろからスタートした40代の人たちにもすさまじい勢いで追い抜かれていく。 どうなってんだよ。おかしいだろ。 横をぶち抜いていく立派なふくらはぎを見て、まぁさもありなんと諦めた。 それでも練習で一度座り込んだ不動峠を今回は止まらず通過。スカイラインに入ると、今度は店長さんの「下りは休憩じゃないですからね」という言葉を思い出す。 ギアを上げ、一気に踏む。 下りで加速し、その勢いのまま次の登りへ。これは意外とうまくいった。今まで抜かれ続けていたのに、今度はこちらが何人も追い抜いていく。最高速度54.7キロ/時。人を追い抜くというのは、結構気持ちがいい。 風返し峠を越え、残り1キロで経過時間は50分。 コレは1時間を切れる。 急に気合が入り、初めてダンシングをしてみたら脚がつりそうになったので、すぐやめた。右膝も痛い。 最後まで見えないゴールへ向かって、残った力でペダルを踏む。 55分21秒201。 目標だった1時間を、4分以上縮めていた。 もっと遠くへ行ってみたい 帰りは参加者数十人で、登ってきた道をゆっくり下る。段差があれば前の人が手でサインを出す。それを見て、私も後ろの人にサインを送る。 なんだか、これがすごく楽しい。 ツール・ド・つくばを完走することは、私にとって大切な約束でもあった。その話は、いつかきちんと書こうと思う。 今はただ、もっと遠くへ行ってみたい。 そんなことを考えていたところ、父から「6月末に佐賀へ行かないか」と連絡があった。 佐賀は、この自転車にも深い関わりのある場所である。 そうか。このバイクを、佐賀に持っていけばいいんだな。 次の目標が決まった。(言語研究者)

タッチパネルの回転ずし《看取り医者は見た!》56

【コラム・平野国美】先日、遅い昼食をとろうと、大手チェーンの回転ずし店に入りました。ご存じのように、最近の回転ずしは、皿が回っていません。ここ数年、店内でのいたずらがSNSで拡散し、社会問題になりました。その対策として、タッチパネルで注文した品だけがレーンで届く仕組みに変わっています。 しばらくすると、私の隣に80代とおぼしき女性が、独りで座られました。やがて、その方が怒り出しました。しかも、見知らぬ私の方を向いてです。「すしを食べに来たのに、何よこれは。わけがわからないわよ。すしを回してよ」。私は、この怒りを、機械が苦手な高齢者の困惑だとは思いませんでした。 彼女の言い分は、筋が通っていると感じたのです。かって、回っている皿は目の前を通り過ぎていきます。彼女はそれを見て、気に入ったものに手を伸ばせばよかった。何が食べたいかを、あらかじめ言葉にする必要はありません。目で見て手が動く。それだけで食事が成立していました。 ところがタッチパネルは、何を食べたいかを決め、画面を正しく操作しなさい―と、こちらに要求します。回転ずしから回転が消えた瞬間、その店は「正しく注文できる人」のための店になったのです。彼女が失ったのは便利さではありません。「言葉にしなくても伝わる世界」です。 同じ年代の方々の会話では、スーパーのセルフレジも嫌われています。あれもタッチパネルすし店と同じでしょう。かつて、商店街には店の人がおり、お客の気配を察してくれました。今は、こちらが正しく操作しなければ卵一つ買えません。 ここで、誰かを責めるのは筋違いだとも思います。店が冷たくなったわけではありません。発端は、いたずらをした人間の側にありました。人口減少による人手不足もあるのでしょう。社会問題に対抗するためにシステムを変えた結果、新たな弱者を生んでしまった。この皮肉が、私の心に残りました。 誰一人取り残さない そして、これは私たちの世界の話でもあります。今の医療も、「どこがどう痛むのかを正確に説明できる患者さん」を前提に組み立てられています。スマホで受付を済ませ、症状を登録し、診察室で経緯を話し、質問に答え、そして薬を受け取る。この流れにうまく対応できない方は、後回しになってしまうのです。ここにも、回らなくなったレーンがあります。 タッチパネルのすし店で私にできたのは、「店員さんを呼びましょうか」と声をかけることだけでした。画面の使い方を教えることもできたはずですが、そのときは、なぜかそうする気になれませんでした。彼女に足りないのは、操作の知識ではなく、話しかける相手だろうと感じたからです。 やがて店員さんが来て、注文を聞き取ってくれました。しかし、彼女の機嫌は収まりませんでした。SDGsの理念は「誰一人取り残さない」ですが、回転ずしのカウンターで、そう感じたのでした。(訪問診療医師)

常総学院、8回に暗転 決勝進出ならず 秋季関東高校野球県大会

第79回秋季関東地区高校野球茨城県大会は2日、ひたちなか市民球場(同市新光町)で準決勝2試合が行われ、第2試合では常総学院が水城に2-5で敗れた。これで決勝の組み合わせは霞ケ浦対水城に決定した。 水  城 000000050 5常総学院 100001000 2 「新チームの難しさを勉強させられた。攻撃ではチャンスがつくれず、守備ではエラーやミスだらけ。これでは関東大会に行けたとしても通用しない。雨で練習が不足した部分はあるが言い訳にはならない。一から鍛え直す必要がある」と常総学院の島田直也監督はおかんむりだ。 先発投手の箕輪蒼は7回まで被安打1、無四死球、5奪三振と万全のピッチングをした。1回裏には、1年生ながら4番に座った坂本篤睦が左前への適時打で1点を挙げている。「前の試合ではチャンスで打てなかった変化球に狙いを絞り、今回は対応できた。いままで先輩に助けられてきたので、自分が助けたい気持ちで挑んだ」と坂本篤睦のコメント。 だがその後は、走者は出せてもなかなか点につながらない。2回には吉村颯人と加藤晴己の連打に、向原拓哉の四球で1死満塁とするが、続く坂本晃太郎が見逃し三振、佐藤泉里が右飛に倒れた。3回は望月星冴が内野安打で出塁し、宮原悠守の二ゴロでダブルプレー。4回は下山幹太が内野安打で出塁、ボークで二塁に進むが、向原の見逃し三振で終わった。 6回は宮原が四球で出塁し、下山と吉村がともに左前打で1死満塁。ここで加藤の投ゴロが敵失を誘って1点を追加。なおも満塁のチャンスは続くが、向原がスクイズを失敗し、ヒッティングに行っても投ゴロでこの回を終えた。「試合になると、何とかしてやろうという気持ちが裏目に出て、視野が狭くなってしまう。みんなの代表として出ているのだから、もう少し選ばれた責任感を持ってほしい」と島田直也監督の向原評。 そして8回表、箕輪は先頭打者を四球で歩かせ、次打者には右前打を浴びて無死一・二塁。ここで高橋幸聖が救援のマウンドに向かった。「箕輪は突然崩れることがある。今日も7回までは完璧だったが、残りのアウトを取りきる体力が足りない。行けるだけ行こうとしたが難しさが出た」と島田監督。 高橋は、最初の打者をスリーバント失敗に打ち取ったが、次打者の三ゴロがエラーとなって1死満塁。四球押し出しで1点を失った後、遊ゴロのエラーで2失点、さらに左前への適時打で2点を追加された。「勝って関東の切符をつかむつもりだったが、決勝点にからんでしまい申し訳ない。味方のミスをカバーするのが自分の仕事なのに、それもできず情けない。適時打を打たれたのは、自分の球が甘いところへ行った。1球の怖さを感じた」と振り返る。 三塁手の佐藤は「ゲッツー狙いの場面で、気持ちが先走ってジャックル(お手玉)してしまった。チームを引っ張る立場なのに、自分のせいで負けてしまい、スタンドの仲間や応援の人たちにも申し訳ない」と反省し、「次の甲子園のチャンスは夏だけ。もう一度見つめ直してチームを作り上げていきたい」と誓う。高橋も「今の自分に足りないのは、最後まで自分の球をコースに投げきる力。フィジカルもレベルアップして、一回り成長した姿で戻ってきたい」と気合いを入れる。(池田充雄)