土曜日, 10月 10, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

【池田充雄】霞月楼2代目の堀越正雄・満寿子夫妻は、山本五十六の土浦での親代わりのような存在で、日頃から親身に世話し、転出後も交流が続いたという。

ある日2人の下に山本から手紙が届く。正雄が贈った成田山のお札への礼状だ。日付は昭和16年(1941年)12月5日。太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃の3日前で、北方航路では真珠湾に向けて機動部隊が進軍、山本が座乗する旗艦「長門」以下主力部隊は、退却支援のため山口県岩国市の柱島泊地に待機していた。

手紙にある「最後の御奉公に精進致し居り候」の文言が暗示的だ。もはや生きては帰らぬ覚悟を示したか。海外経験が豊富で彼我の国力の差を知る山本は、対米戦争にはもとより反対の立場だったとされる。1940(昭和15)年9月の近衛文麿首相との会談では「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と答えていた。

霞月楼にある山本の手紙

航空軍備の重要性を認識

山本は1884(明治17)年、新潟県長岡市坂之上町に旧長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生、当時の父親の年齢から五十六と命名された。日露戦争中の1904(明治37)年、海軍兵学校を卒業。翌年、装甲巡洋艦「日進」に配属され、5月27日の日本海海戦に参加した。砲弾の炸裂により左手の指2本を失い、左大腿部に重傷を負った。

その後は乗艦勤務を経て、海軍砲術学校教官や海軍省軍務局員などを務める。1916(大正5)年、旧長岡藩城代家老職の山本家を相続。1619(大正7)年、旧会津藩士の娘・三好礼子と結婚した。

1919(大正8)年4月から約2年間米国に駐在し、ハーバード大学で学ぶ。1923(大正12)年6月から9カ月間、ワシントン軍縮条約下の欧米各国の情勢を視察し、日本海軍の将来には航空戦力の充実が不可欠との信念を抱く。

断髪令で隊の風紀を刷新

1924(大正13)年9月1日、自らの強い希望により霞ケ浦海軍航空隊に赴任。12月1日に教頭兼副長(後に副長兼教頭)に就くと、初日の朝礼で号令台から総員を見渡し「下士官兵にして頭の毛を伸ばしている者は皆切れ。一週間の余裕を与える。終わり」と宣告した。

霞ケ浦航空隊は1922(大正11)年11月の創隊で、隊員の間では英国教官団の影響から長髪の者が多く、腕一本で空を駆ける職人気質と、命知らずのやくざ気質が表裏を成し、遅刻や脱営も日常茶飯事だったという。そこでまずは軍紀風紀の刷新に着手し、勘や名人芸に頼らぬ合理的な飛行技術の確立を目指した。

土浦在勤中の山本の住居は、「山本五十六伝」(朝日新聞社)によると長岡中学の後輩・大崎教信少佐が建てた家だそうだ。神龍寺(土浦市文京町)の参道右手、今は墓地がある辺りにあった。なお当時の参道は桜並木が覆っていたが、1938(昭和13)年の大洪水で枯死している。

神龍寺の秋元梅峯住職とは意気投合し、1925(大正14)年9月に土浦で最初の花火大会を2人の私費で開催した。目的は海軍航空殉難者の慰霊、2年前の関東大震災の犠牲者の追悼、不況にあえぐ土浦の商業振興、農業収穫への感謝など。これが現在の土浦全国花火競技大会の基礎となった。

ブーゲンビルの空に散る

連合艦隊司令長官になった頃の山本五十六

山本の霞ケ浦在任は1年3カ月で終わり、1926年(大正15年)1月から2年間、駐米大使館付武官を拝命。帰国後は空母「赤城」艦長などを経て、1929年(昭和4年)11月少将に進み、以後は海軍航空本部長や海軍次官などの要職を歴任。1939(昭和14)年に連合艦隊司令長官、1940(昭和15)年に大将となる。

1941年(昭和16年)10月に成立した東條英機内閣は、米英蘭3国に対する開戦方針を推し進め、11月26日に対米交渉が決裂すると、12月8日の真珠湾攻撃で戦端を開いた。山本率いる連合艦隊は、初期の南方作戦では良好な戦果を挙げたものの、翌年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、以後戦況は悪化の一途をたどる。

1943(昭和18)年4月18日、東部ニューギニア・ソロモン群島での戦いの最中、山本は前線視察のためラバウル基地を飛び立つが、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せに遭い撃墜された。享年59歳。

下半身像を56年ぶりに発見

山本には元帥の称号が遺贈され、同年6月5日に日比谷公園で国葬が執り行われた。また12月8日には土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校、阿見町青宿)第1練兵場の号令台横に、コンクリート製の立像が建てられた。像の高さは3.6メートル、台座を含めると6.3メートルに達した。

1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると、進駐軍の狼藉を恐れて、山本の像は胴から半分に切断され、霞ケ浦に沈められた。上半身は1948(昭和23)年に湖底から引き揚げて神龍寺に安置され、1952(昭和27)年に菊池朝三元少将らが海軍殉職者のための慰霊祭を開いた。菊池は山本の部下で終戦時の海軍総隊参謀副長。梅峯の長女と結婚し、1959(昭和34)年から12年間土浦市議を務めている。

1952年に神龍寺で慰霊祭が催されたときの記念写真

上半身像は1958(昭和33)年に生家跡の山本記念公園に移されたが、風雨による傷みから1970(昭和45)年に青銅の複製像に置き換えられた。原像はいま海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校、広島県江田島市)の教育参考館にある。

下半身像も湖底にあるものと考えられてきたが、2002(平成14)年の調査で台座近くの地中に埋まっていると判明。56年ぶりに掘り出され、雄翔館前に新しく建てられた山本像の台座下部に収められた。号令台横の古い台座には今、山本の揮毫による「常在戦場」の碑が置かれている。

予科練記念館「雄翔館」は1968年、陸上自衛隊武器学校内に開館した。正面の山本像は2004年の建立

●取材協力・参考資料
陸上自衛隊武器学校▽陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地▽土浦市立博物館▽神龍寺▽阿川弘之「山本五十六」(1994年新装版、新潮社)▽三和多美「海軍の家族」(2011年、文芸春秋)▽阿見町歴史調査委員「海軍航空隊ものがたり」(2014年、阿見町予科練平和祈念館)▽「霞月楼百年」(1988年、霞月楼)▽「阿見と予科練」(2002年、阿見町)▽阿見町民話調査班「爺さんの立ち話」(2003年、阿見町)▽「花火と土浦」(2018年、土浦市立博物館)▽常陽新聞2002年6月11日付▽長岡市山本五十六記念館ウェブサイト▽土浦商工会議所ウェブサイト▽ウィキペディア

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

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