日曜日, 10月 11, 2026
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《続・平熱日記》70 水戸の歴史館で学んだこと

【コラム・斉藤裕之】ここ数年でカミさんと県内をよく回った。この日訪ねた水戸の歴史館で茨城の歴史を見ながらそう思った。「魅力のない県、茨城」。私も始めはこの手のランキングに目くじらを立てるのは大人気ないと思っていたが、万年最下位効果?もあってか不思議と茨城をメディアでよく見かけるような気がする。

例えば、U字工事(ゆーじこうじ)のネタがなぜ受けるのか。これが20位とか30位の東京から遠い地方ではつまらない。つまり、茨城は今や「万年最下位のいじられキャラ」としてのおいしい地位を築きつつあるということか。

さて展示も終盤に差し掛かったころ、「廃藩置県」というところに目が留まった。「牛久県、知事、周防(すおう)の守…」? 周防といえば我が故郷・山口県東部。「周防だって」とかみさん。ググってみる。なんと、長く牛久藩を治めた領主は戦国時代に周防の国からはるばる呼ばれた方で、それに因(ちな)んで姓を山口氏としたそうだ。

「そうじゃったんか!」と山口弁で呟(つぶや)きそうになった。ちと大袈裟(おおげさ)だが、たまたま住んでしまったと思っていた牛久に、少しだけ運命的なものを感じた。しかし、この微妙な感動を誰と分かち合えるわけでもなく、とりあえず共感してくれそうなのは、縁あって牛久で2棟の家を建てた山口に住む弟くらいのものか。

「今日は終戦記念日じゃ」

実は歴史館に来たのは、カミさんの同僚の方が企画に携わった展示をやっているとのことで、お供することになった次第だ。35度を超えた気温も手伝って、「茨城と戦争」というテーマはちょいと気が重かったのだが。

私の故郷は海軍の燃料所があったところで(今も数万トン級のタンカーが出入りする)、戦時中は空襲を受け、母はよくその話をした。学校の先生も、よく戦争中の体験を語った。時代は高度経済成長期。忙しくておかずの少ない夕餉(ゆうげ)には「今日は終戦記念日じゃ」、ご飯をがっついて食べる様子を見ると「欠食児童がおるよ」などと、まだまだそんな言葉が日常的に使われていた。

そんなことを思い出しながら見る戦時中の白黒写真に写っているのは、どこかで見かけたような今の若者たちとよく似た顔の青年たちだ。

「茨城? 結構いいところだよ!」

最近気になることがある。震災以降のことだろうか。子供たちまでもが「ぼくらのプレーでみんなを勇気づけたい…」とコメントし始めたことだ。そう、スポーツやエンターテイメントの世界で、よく耳にするようになった。そんなことを考えて試合をされたり、歌われたら堪(たま)らない。頼むから、そんな薄っぺらい大人の受け売りはやめてくれ。

将来に向けて、自分で考えることのできる子供を文科省は育てるらしいが、国や会社にいいように使われないような教育のことかな? 戦争に反対する糸井重里さんの名コピーを思い出した。「とにかく死ぬのやだもんね」。

20年前に、今住んでいる土地を探してきのはたカミさん。帰りに立ち寄った直売所で、新鮮で美味しそうな野菜や果物でいっぱいになったカゴを抱えてご満悦。「茨城? 結構いいところだよ!」(画家)

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