木曜日, 12月 26, 2024
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出来ない理由が先に出てくる《続・気軽にSOS》146

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【コラム・浅井和幸】先日、友人Aと待ち合わせの話し合いをしました。大したことではないので、さっと済ませられるかと思っていたのですが、なかなか話が進まず、何を話し合っているのか、途中から分からなくなることもありました。

A「来週の月曜日に一緒に昼食を食べよう」

浅井「たまにはよいね。どこかで待ち合わせてから、食べに行こう」

A「どこで待ち合わせる? 浅井が決めてよ」

浅井「どこでも良いよ。事務所で待ち合わせようか? それともAの家に迎えに行こうか?」

A「事務所まで行くのは面倒だなぁ」

浅井「じゃ、Aの家に迎えに行くよ」

A「いやいや、遠いし、申しわけないよ」

浅井「別に構わないけど」

A「でもなぁ…」

結局、事務所で待ち合わせをすることになったのですが、Aの考え方のくせが私の考え方のくせとあまり合いません。待ち合わせ場所をどうするかとかではなく、どのような場所で待ち合わせるのが嫌かというやり取りに終始するのです。

逆立ちして待ち合わせるのは苦しい

この話には続きがあって、私は「こちらも、アメリカで待ち合わせるのは遠いので嫌だし、逆立ちして待ち合わせるのも嫌だな。場所を決めることぐらい、大した問題ではないと思うけど、こちらも待ち合わせには適さないことを永遠と言い続けようか? 車を担いで待ち合わせるのは不可能だとか」と、極端なことを言います。するとAはハッとして、事務所で待ち合わせることになったのです。

自分は何も悪いことをしていないのに、運が悪いとか周りの人間が悪いやつばかりだと、Aはいつも言います。ですが実のところ、A自身が解決策を考えるどころか、悪いところを探し出して、あげつらっている日々なのです。

どんなことにも良い点と悪い点があります。悪い点ばかりを見続ける、改善させないように立ち振る舞う、苦しさをかなり抱え込む―。大変な人生を選択している彼に、同情の念を抱かずにはいられないのですが、改善策をアドバイスすることは彼のストレスを大きくしてしまいます。

それにAは、耐えられないほどの苦痛を感じて反発するだけなので、苦しみを重ね続ける彼を遠くで見守るしか手はないのだと、自分に言い聞かせる今日この頃です。(精神保健福祉士)

住むのに便利な街《遊民通信》82

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【コラム・田口哲郎】

前略

先日、「徹子の部屋」に阿川佐和子さんが出ていて、おもしろい話をしていました。阿川さんは終(つい)の住処(すみか)になるだろう我が家を探すのに、海が見えるところに住みたいと思ったそう。海が見える家にずっと憧れを持っていたのがその理由です。

最初は瀬戸内海沿岸の尾道あたりを考えたけれども、東京での仕事が多く、通うのが不便なので断念。次に東京近郊の湘南はどうかと年上のお友達に相談したら、湘南は東京都心まで距離があるし、海辺は生活利便施設があまりないところが多いので、生活が不便になるから止めた方がよいと言われたそうです。

「海なら年に数回見に行けばよいじゃないか」と言われたらしい。そして結局、都心の便利なところに住んでいるというオチでした。

これを見て、なるほど海辺や森の中の家に憧れるけれども、景観がよいのは心を和ませてくれても、生活するのに直接的便利さは提供してはくれないー。改めて考えさせられる言葉でした。

県南で住むのに便利な街は?

私は常々、茨城県南には筑波山や霞ケ浦を始めとして風光明媚(めいび)な場所はたくさんあるのに、特に霞ケ浦はいまいち観光地としてパッケージ化がされていないように思っていました。京都の宇治みたいな楽園感があまりないような気がするのです。

でも、よく考えると、宇治の観光地のど真ん中にスーパーマーケットやホームセンターはないです。行くたびに、こんなところに住みたいと願うのですが、実際に住むとなると不便さが出てくるのかもしれませんね。

そういう意味で、筑波山や霞ケ浦の周辺は鉄道駅から離れていたりして少し不便ですので、逆に観光地としての可能性は大いにあると考えてもよいんじゃないでしょうか。

ところで、生活利便施設があるといっても、それが点在していると、結局、自動車に乗らなければならなくなったりと不便さがあったりします。駅前にスーパーマーケット、ホームセンター、家電量販店などが集中しているところが、生活に便利な街ということになるでしょう。

すると、県南地域で思いつくのはTXの研究学園駅です。さらに、JR常磐線のひたち野うしく駅周辺も隠れた便利エリアになっています。関東広しといえども、これほど便利な街はそうそうないと思います。

コロナ禍が収まり、東京への集中の傾向が出てきた昨今、郊外の駅チカの便利な街がますますにぎわうかもしれませんね。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

県立中学入試から、学びを考える《竹林亭日乗》13

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立春の筑波山(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】1月6日の県立中入試で、定員920人に2393人が応募した。これは2023年度の県内小学6年生2万3442人の10.2%になり、10人に1人が県立中を受験したことになる。今まで受験といえば高校入試だったが、最近は小学生の中学受験が増えている。

学ぶ力をつけるのは、生徒も含め私たちの一生のテーマであり、学びたいときがスタートだ。しかし、中学受験について保護者の話を聞くと、どうしても塾が話題になる。そういった一方向の流れに疑問を感じながら、中学受験を意識した生徒の学びも応援する、一生モノの「学びの大河」を提起できないかと悩んでいる。

中学入試も貫く「読む力」

県立中試験は、①長い問題文を読む力、②複数の図表から設問と関係する部分を柔らかく読む力、③問い-意見-理由-説明の記述を意識した設問の意図を読む力―を重視している。

2024年の適性検査1は全13ページで算数と理科。問題数は29問、回答時間は45分で、90秒で1問を解く必要がある。算数の問題1は本文13行と図の次にあり、短時間で「問いは何か」「どう解くか」の2ステップで読み解く必要がある。

長文化が指摘される共通テストも、県立中の問題でも、長い文章を正確に速く読むには、文章の型を学び、先を予想する力が要となる。それには、教科書・新聞・本などを主体的に読むための基本となる「3つの読み」が有効である。

情報読み、読解、対話読み

1.情報読み=何が書いてあるか? 文章をキーワードや段落を意識して必要な情報を効率的に探す。設問と関係がある文を探すのもこれだ。

県立中入試のように図表が多い問題は、マンガを読むように、株のディーラーように、拘りのない緩い目の「並行読み」で対処する。でも、情報読みばかりでは当然疲れる。

2.読解=著者はなぜ書いたか? 情報読みで「あっれ」と立ち止まり、新聞の切り抜きをノートに貼る。そのときに、主体的な読解と学びの蓄積が始まる。効率や速さからwhyへの深化だ。

なぜ、この問題を出したか? その意図を考えると、情報読みが読解となる。問題作成者の意図を読み取る学習は、設問と関係する文を探す(正解に接近する)速さを上げ、正解率が高まる。試験で効率的に解答するにも、ゆっくりwhyと考える読解の学習段階が重要だ。

3.対話読み=「そうか?」と著者に問う。切り抜いた新聞記事をノートに貼ると、意見を書きたくなる。著者と自分との対話である。

小論ならば著者の結論や根拠に、物語では山場で主人公が行動で示した著者の思いについて、あれこれ耕す。対話読みとは、言葉がどんな場面で発せられたかを読み解き、自分の意見を著者にぶつけることだ。これを行って、初めて自分の読みが完結する。

読みから記述へ、始まりは読み

読みは、著者がどう書いたか、つまり「表現の工夫」に至る。そこから、読みが記述につながる。そして、記述は話すことに、話すことが聞くことにも広がっていく。始まりは読みである。

学びや中学受験を意識したら、以上の3つの読みを参考に、一生モノの「学びの大河」となる読む力をつけてほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

2058年に1億人割れ、日本の人口減少対策は?《ひょうたんの眼》65

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山茶花(さざんか)=写真は筆者

【コラム・高橋恵一】国立社会保障・人口問題研究所は、日本の人口が2050年には、現在より17%減の1億600万人になると予測した。2058年には1億人を割り込み、2100年には7500万人としている。

少子化が進めば、人口減少で働き手や消費者が減り生産力が低下して、経済全体を弱めると考え、人口減少を抑えることを最重要課題として、与党も野党も、メディアも子育て対策に夢中のようだ。岸田政権は、異次元の子育て対策を喧伝(けんでん)している。

子どもづくりを国策として奨励したのは太平洋戦争時代で、「産めよ、増やせよ」「軍国の母」などの掛け声とともに、「兵隊さん」を確保するためだったが、赤ん坊が兵士になるまで15年から20年を要するので、泥縄政策であり、効果は無かった。まして戦死を美化し、食糧確保もままならない戦時中に子育てをするなど、母親にとって納得できる国策では無かったであろう。

ある調査で、大学生の19%(女子は23.5%)が子どもを欲しくないと答え、経済面の不安や女性に育児負担が偏ると考えているとの結果が報告されている。非正規低賃金の若者には、子育てどころか、結婚もままならない。また、異常な受験競争でトリプル学習塾や勝利至上主義の部活に身を置く子どもたちの現状で、生まれる子供たちは自由と笑顔で成長できるのだろうか?

欧州の福祉国家を構築する経済政策

折しも、GDPがドイツに抜かれて世界第4位になり、日本の経済成長力が低下しつつあることが明らかになった。独の人口は8400万人、2070年に予想される日本の人口だ。日本が、失われた30年と言われ、個人消費が低迷している間に、独、英、仏、北欧諸国は、福祉国家を構築する経済政策で進み、30年の間に日本に差をつけた。

例えば、医療福祉サービスは、経済需要の大きな分野であり、賃金は、個人消費支出として循環するのだ。財源が公的部門から出れば、建設部門の公共事業と同じ機能を持つことになる。日本の低賃金政策が、結局、GDPで独に抜かれた所以(ゆえん)なのだ。医療・介護従事者の賃金は政府が決められる。岸田総理は明日にも、望む賃上げを実現でき、人手不足を解消できるのだ。

人口減少は、少子化要因だけでなく、後期高齢に達した団塊の世代の今後20年ほどの急速減少も加わっていく。人口1億人なら、1億人分の需要に応じた供給力で対応すればよいだけだ。(地図好きの土浦人)

台湾・総統選挙と立法院選挙《雑記録》56

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プリムラ・ジュリアン(写真は筆者)

【コラム・瀧田薫】1月13日、台湾総統選挙の投開票が実施された。選挙前、中国の習近平国家主席が台湾侵攻に踏み切るレッドラインは「台湾の独立」にあるとの見方が流布されていたため、次期台湾総統に誰がなるのか、世界の関心が集まっていた。

選挙の結果、親米派の与党(民進党)賴清徳候補が得票率40.05%を獲得して次期総統に当選した。中国政府が期待していた親中派の野党(国民党)侯友誼候補は得票率33.49%で敗れた。第三勢力として無党派層や若い世代から支持された柯文哲候補(民衆党)は得票率26.46%と健闘した。

一方、同時に実施された立法院(国会)選挙(定数113)においては、与党・民進党が過半数を割り込み51議席で第2党に転落し、野党・国民党は議席を増やして第1党になったが、過半数を獲得できず、52議席にとどまった。

この結果、8議席を獲得した民衆党がキャスティングボートを握ることになった。与党・民進党の過去8年間の統治が「対中関係の悪化」とそれに伴う経済の不調さらに経済格差をもたらしたとの批判・不満が若者世代と無党派層にあり、これが民衆党への支持につながったようだ。

与党が議会の過半数を失ったため、賴次期総統の政権運営は困難を極めるだろう。頼氏は民衆党との連立工作を急ぐが、柯氏がこれに素直に応じるとは思えない。

選挙戦中、柯氏は「民進党と国民党による旧来の2大政党制を打破しよう」と訴えた。選挙後の記者会見では「他党と協力はするが、個々の法案、政策には是々非々で臨む」と述べ、台中関係では「対話を望むが、重要なのは台湾の民主主義と生活を守ることだ」とし、その上で「候補者中、米中双方に受け入れられるのは私だけだ」と強調した。(世界日報、1月13日付)

米中・台中関係 日本の役割は大

ちなみに、柯氏の発言がそのまま今回の選挙の総括になっている。つまり、台湾の有権者は、米中対立の狭間(はざま)にあって、台湾の現状維持策を選択するバランス感覚を示すと同時に、旧態依然の2大政党制に楔(くさび)を入れ、民主主義の堅持と経済格差の解消を望んだのである。現総統・蔡英文氏を継承すると宣言した頼氏を次期総統に選びはしたが、頼氏の台湾独立志向は支持しない意思を立法院選挙(ねじれ国会)で示したと言えよう。

野党・侯友誼氏の対中融和姿勢については、有権者の間に、香港の二の舞になりかねないとの警戒心があった。実際、有権者は外部からの選挙干渉に強い拒否反応を示し、中国政府による侯候補への後押しは、結果として侯氏の足を引っ張ることとなった。

中国政府は台湾の民意に失望し、台湾に対する経済、軍事両面の圧力を強化する姿勢だが、早晩、民進党との対話を模索せざるを得なくなるだろう。米国のバイデン大統領は頼氏に対し、台湾の独立は支持しない旨のメッセージを届けた。日本政府も祝意を届けたが、政府よりも超党派の議員連盟「日華議員懇談会」の方が精力的に動いた。

1972年の日中国交正常化以降、議員外交そして民間外交が日台関係の推進軸となってきた。こうした努力あってのことだろう、台湾政府に限らず国民党も民衆党も日本を信頼し、米中関係そして台中関係において日本が果たす役割に期待している。台湾有事を未然に防ぐため、日本政府は米中間の仲介役を果たさねばならない。日本外交の真価が問われることになる。(茨城キリスト教大学名誉教授)

土浦博物館と市民の郷土史論争に市長が回答《吾妻カガミ》176

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本堂清さんと土浦市立博物館

【コラム・坂本栄】土浦市立博物館から郷土史論争を拒否された市民が市の広聴窓口に質問状を送ったところ、市は博物館が執筆した反論文を同封した市長名の回答書をまとめ、同市民に郵送してきました。博物館はこの郷土史家をクレーマー(常習苦情者)扱いにして論争を拒んでいましたが、博物館を監督する市長が代わりに回答したことで、市の論争拒否姿勢は改められたことになります。

郷土史家をクレーマー視した博物館

この問題については本コラムでも何度か取り上げました。経緯、争点、私の疑問などについては下の青字部をクリックしてご覧ください。

▽論争を挑む本堂氏⇒博物館が論争拒否通告:158「…博物館が郷土史論争を拒絶!

▽本堂氏をクレーマー扱いする市⇒論点整理:159「…論争拒否…土浦市法務が助言

▽教育委担当課の論争封殺の動き⇒私の提案:163「…拒否…市民の研究者が猛反発

経緯はこういうことです。元市職員の本堂清氏が博物館の郷土史解釈に疑問を持ち、糸賀茂男館長や学芸員に何度も会って回答を求めたところ、A4版3ページの回答(23年1月30日付)が送られてきて、末尾に「…これ以上のご質問はご容赦ください。…今後は口頭・文書などいかなる形式においても、博物館は一切回答致しません…」と書かれていました。

主な争点はこういうことです。▼本堂氏:筑波山系の市北部は古くから「山の荘」と呼ばれていたvs.▼博物館:そう呼ばれるようになったのは中世以降である、▼博物館:「山の荘」は桜川南側の現つくば市北部にあった「方穂荘(かたほのしょう)」の一部だったvs.▼本堂氏:いや、「方穂荘」は桜川北側の「山の荘」までは延びていない。

市長は論争拒否を事実上取り下げ

本堂氏は3ページの回答に納得せず、市の広聴窓口「こんにちは市長さん」経由で、市長に「再検討要請」(同8月30日付)と「回答への反論」(同9月27日付)を提出しました。最初のパラグラフで触れた市長の回答(A4版1ページ、同12月14日付)は、本堂氏の要請と反論に応えたものです。

市長回答には「…現段階においては、従前と同様の質問については(博物館の)これまでの見解と相違はないため、前回以上の回答は難しいとのことです。別添1・2の2部は私が受けた報告ではございますが、ご参考までに同封させていただきます」と記載され、博物館による「市長へのご報告①」(A4版43ページ、1月回答の詳述版)と「市長へのご報告②」(同28ページ、反論への反論)が添付されていました。

広聴窓口に寄せられた市政への疑問には答えなければなりませんから、市長はA4版1ページで回答したわけです。それに、博物館が「今後…回答致しません」と通告した手前、市長が代わりに回答するという体裁を取り、博物館が作成した全71ページの報告書が添付されました。ということは、市としては論争拒否を事実上取り下げたことを意味します。

特別展「本堂vs.糸賀論争」を期待 

論争拒否絡みでは、博物館に通じるルートが市役所にできました。しかし郷土史解釈では、本堂氏も博物館も相手の主張を認めていません。本堂氏は「屁理屈はこれまでと同じ。論点をズラしている箇所もある」と言っており、今回切り開いた「こんにちは市長さん」チャネルを使って博物館との論争を続けるそうです。

館長が率いる学芸員団と郷土史に詳しい研究者によるこの論争、いずれも自説を譲らず、どうやら平行線の状態が続きそうです。この際、博物館が特別展「本堂vs.糸賀論争」を企画し、争点を公開するも面白いと思います。また、館長と学芸員は研究室にこもらず、市民と議論する「サロン」を館内に設けたらどうでしょうか。(経済ジャーナリスト)

<参考>

土浦市長の回答書(23年12月14日付)

市立博物館の解答書(23年1月30日付)

街角に建つ洋館の秘密 ある大物の事務所《看取り医者は見た!》12

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写真は筆者

【コラム・平野国美】私の町歩きのテーマとして洋館探しは大切なものです。全国各地には歴史的建造物が多数あります。東京駅や岩崎邸クラスもありますが、私の好きなのは、商店建築、個人宅、医院建築、理容店など、意外と知られていない街角の洋館です。

なぜ、このタイプの洋館が好きになったのか? 18年前の訪問診療のおかげなのです。個人宅なので場所は明かせませんが、ある日、新患の依頼を受け、車のナビを合わせました。到着した場所に、上の写真の建物がありました。

外観からは古さを感じなかったのですが、玄関に入ると、歴史を感じさせる佇(たたず)まいでした。患者さんがいる2階へと、木造の手摺(す)りが付いた階段を上ります。窓はサッシでないことから、古いものであることがわかりました。患者さんは2階に寝ていました。

診察終了後、寄り添う御家族に「この洋館は何でしょうか?」と、微妙な質問をしてみました。出てきた答えは「政治家の〇〇先生の個人事務所だったそうです」。そう、持ち主は変わっていたのです。診療事務所に戻り、パソコンでこの名前を検索し、少し興奮してきました。

華やかさの裏に何かある?

明治19年の生まれの〇〇先生は、旧制中学を土浦→下妻→水海道と渡り歩き、早稲田大学予科に入学。そこで、政治家を多く輩出する雄弁会に所属しました。早大政治経済学部政治学科卒業後、新聞記者を経て政治家となった謎が多い人物です。

近衛内閣で司法大臣などの要職に就いたものの、1941年に起きたゾルゲ事件(旧ソ連の対日スパイ事件)で取り調べを受け、戦後は公職追放となりました。近衛文麿、山本五十六、米内光政ら数多くの要人との手紙は、終戦後すぐに焼却されたそうです。この人物が、この洋館に君臨していた時代があったのです。

ウクライナと戦争をしているプーチン大統領がKGBに入りスパイを志した理由が、ゾルゲを主人公にした映画を見たことによると言われています。私は、ドラマや映画に出てくる洋館の華やかさの裏にある何かに興味があります。そういった建物がまだ街に眠っているのです。(訪問診療医師)

桜川市真壁のひなまつり《日本一の湖のほとりにある街の話》20

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】茨城県唯一の重要伝統的建造物群保存地域である桜川市真壁地区。この歴史ある街並みで開催される「真壁のひなまつり」は、2003年より地域有志によって行われ、24年で第20回目を迎えます。今回はこのおまつりについて、第1回開催時からの有志の一人、柳田隆さんにお話を伺いました。

現在では6万人もの観光客が訪れる、桜川市の一大行事となったこのおまつりですが、そのスタートは地元住民の素朴な話し合いから生まれたものだそうです。02年に登録文化財の数が10軒ほどとなり、春や秋に地域を散策する観光客が以前より増えると、わざわざ足を運んでくれる人たちを、何かおもてなしすることはできないだろうか、という声が自然に上がり始めました。

そんな折、たまたま立ち寄った山形県で、家々におひなさまを飾り、訪れる人たちに見てもらっている光景を柳田さんは目にします。「古いお雛(ひな)様が、真壁でも家から出てくるのではないか?」そう考え、真壁に帰りすぐ皆でおひなさまを探すと、昭和や大正のものだけでなく、江戸時代のものまで見つかったそうです。

「おもてなし」の心を第一に 

そうして、見世蔵や土蔵・石蔵・塗屋といった伝統的な建物の中を、様々な時代の個性豊かなおひなさまが彩った、和の風情あふれる第1回目のおまつりが始まりました。街を訪れる人達が喜ぶ様子を見て途中から参加する家も現れ、スタート時に21軒だった参加会場は最終的には43軒まで増加。当初用意していた案内図の内容が、日を追うごとにどんどん変わっていったそうです。

また開催にあたり、ただおひなさまを並べて見てもらうだけのものにせず、「おもてなし」の心を第一に、おひなさまを通じ、地域を訪れた方とのコミュニケーションを心掛けたそうです。おひなさまと伝統的町並みが織りなす風情や、地域の人達とのあたたかな交流は好評を博し、回を重ねるごとに参加する家は増えました。東日本大震災や新型コロナウイルスの感染拡大といった試練を乗り越え、20回目となる24年の開催では127軒の家々が参加予定です。

高齢化などにより最盛期より参加する軒数は減っているものの、地域にとっては地元再発見と愛着形成の機会となり、観光客には真壁の良さを感じてもらえるこのおまつりを、大切に続けていきたいと柳田さんは穏やかに語ってくださいました。開催は毎年2月4日から3月3日まで。伝統的な日本の風情とおもてなしの心を味わいに、ぜひお出かけください。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

→これまで紹介した場所はこちら

裕次郎の幽霊と意外と残らなくなってしまったもの《ことばのおはなし》66  

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】先日、ご高齢の知り合いにカセットテープの音源をデジタル化する作業を依頼された。イベントでBGMを流したいのだが、流したい音源がカセットテープしかなく、プレーヤーが壊れてしまったらしいのだ。

どうしたものか。たしか我が家のどこかにSONYのポータブルカセットプレーヤーがあった気がする。それをMP3の録音機器につなげば…と押し入れをガサガサあさっていて、ふと気づく。プレーヤーが見つかったらそのまま使えばいいじゃないか。

なんだかアホらしくなってしまい、座り込んで託されたカセットテープのケースを開けてみた。

「途中裕次郎の声がダブってますが、幽霊ではありませんので気にしないで下さい」と書かれていた。カセットテープにはありがちなことである。しかしイベントで流すのにあたり、気にしないのはいささか難しいのではなかろうか。

試しにケースの裏側に書かれていた曲リストをネットで検索してみると、音源CDが中古で売られているのが見つかった。送料の方が高くつくが全部で500円。迷わず購入した。

依頼主に事情を話してCDを渡すと、「コレでカセットテープは用なしかしらね」と言われ、私は思わず「とっておいてもいいんじゃないですか」と答えた。意外そうな顔をされる。

日頃から私が、お願いされてもないのにスマホの使い方を教えたりしていたものだから、いわゆる“デジタル派”な人間だと思われていたのだろう。私自身、答えながらなぜあんなことを言ったのだろうと思ったのだから仕方ない。

カセットという記録媒体の懐の深さ

後々考えていて思い出したことがある。実家の祖父の部屋でカセットテープを見つけたことがあって、ふと再生してみると、布施明の歌声が流れてきたのだ。祖母が布施明が好きだったので、祖父が録音してあげたのかもしれない。

そのまま再生していると突然、ワイワイと複数人の会話が流れ始めた。私には誰の声だかわからず、母に聞かせてみると、「ああ、これお父さんの声よ、あとお隣のおばちゃんかしら。お母さんもいるわね」と、懐かしそうに聞き入っていた。

なぜ何でもない会話が録音されていたのかはわからないが、私はその時、当時のカセットテープという記録媒体の懐の深さを感じたのだ。なんでも気軽に記録に残せる時代になったようで、意外と残らなくなってしまったものも多いのかもしれないな、と思ったりする今日この頃である。(言語研究者)

外来魚ハクレンを中華で食べる!《医療通訳のつぶやき》5

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四川料理「沸騰水煮魚」 (写真は筆者)

【コラム・松永悠】仕事のとき、重病に苦しむ患者の対応をしなければならない反面、オフのときの自分は「楽しく、おいしく」をモットーにしています。新年早々、大変おいしいイベントに参加してきました。今人気の四川料理「麻辣十食」(つくば市天久保)が会場となって、霞ケ浦で獲れる特定外来種ハクレン、アメリカナマズを食材とした試食会が開かれたのです。

ご存知の方も多いと思いますが、数十年前、霞ケ浦や周辺水系に食用として持ち込まれたアメリカナマズやハクレンが逃げ出してしまった結果、驚異的な適応力によって霞ケ浦にすみ着いて、繁殖し続けてきました。今では、在来種を脅かす特定外来種として迷惑な存在になっています。

漁協や周辺住民はあの手この手を考えたものの、決まったパターンの料理法しか思いつかず、好んで食べる人も少ないそうです。しかし、中国や東南アジアでは、ナマズもハクレンも代表的な淡水魚で、おいしい魚として知られています。

初めて外来魚の問題を耳にしたのは2022年ごろでした。有志の仲間と一緒に、実際釣りに行ったり、自宅で調理したり、さらに東京の中華料理店でナマズイベントを実験的に企画しました。なかなか反響が良く、「想像した臭みもなく、淡白な白身魚で、中華の味付けも新鮮でおいしい」と、皆さんが驚きます。

北京で生まれ育って、淡水魚を当たり前のように食べてきた私にとって、これは驚きではなく、当たり前のことですが…。

環境問題を中華料理で解決?

特定外来種問題に強い関心を抱いているのは私だけじゃありません。活用法を見つけたいと考える方が他にもいらっしゃいました。漁師さん、麻辣十食、主催者の素晴らしい連携プレーによって、今回の「霞ケ浦を食す」イベントが開催されました。しかもバージョンアップして、ハクレンまで登場しています。

ハクレンは成長すると1メートルを超える淡水魚で、頭から尻尾まで利用できます。上の写真は「沸騰水煮魚」という有名な四川料理です。「水煮」ですが、仕上げにたっぷりの「沸騰」した油をかけるので、この名前になっています。

油をどの程度熱するか、シェフが油の泡を見て、手を当て、鍋の上の温度を確かめてから、かけるタイミングを見極めます。温度計もなければ時間も計りせん、長年の勘だけが頼りです。

40名いるお客さんの前で、巨大なやかんで油を熱していき、あらかじめ豆やモヤシやハクレンを入れた巨大ボールの中に、じゃ~~っと油をかけていきます。迫力いっぱいの調理に、一同大盛り上がりでした。

見た目は辛そうですが、実は唐辛子にもいろいろ種類あって、この中に入っているのは主に香り担当です。熱した油によって食欲をそそる香りが立ち、柔らかく煮えたハクレンを何杯もおかわりした方もいたほど大人気でした。イベントは絶賛の嵐で終わりました。

おいしいものとの新たな出会いだけでなく、明るい未来も見えた気がしました。茨城の環境問題を中華の力で解決する日もそう遠くないかもしれませんね。(医療通訳)

<参考> 医療通訳の相談は松永rencongkuan@icloud.comまで。

たそがれの土浦・節分会《土着通信部》55

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「まあかっしょ」会場となる旧水戸街道の四辻=土浦市中央2丁目

【コラム・相澤冬樹】古い水戸街道が土浦市大手町から中城通りに入り、桜橋を渡って、旧町名でいう本町から仲町、田町、横町にいたる界隈(かいわい)は昭和の半ばまで、土浦旧市内きっての繁華街であった。今の中央1、2丁目から城北町には天神や稲荷講、三夜講など、月々に随所で縁日が開かれ、売り出しの市が立った。水運で桜橋近く、川口川の河岸(かし)に集まった農山漁村の民たちが一仕事終えて、日暮れから夜にかけてにぎわいをつくり出したのが土浦の特色だった。

昭和の終わりから平成にかけ、通りは活気を失い、各種の縁日はほとんど途絶えてしまったが、年に一度だけ界隈がわずかににぎわいを取り戻す宵が来る。桜橋をはさむ水戸街道の一画に節分の夜、土浦らしい節分行事が出現する。

ことしの節分は2月3日、まずは中央2丁目側の旧本町で、午後4時から「まあかっしょ」が始まる。語源は不詳だが、郷土史家の故永山正さんはこう書いた。

「節分の夜東崎の鷲神社に参拝の帰りに本町の四辻(昔の土浦にはここのほか三叉路や四辻はなかった)で、厄年に当たる人々(男は42歳、女は33歳)がかねて用意したお金(年の数だけ百円硬貨でも十円硬貨でも何でもよい)を男は褌(ふんどし)に、女は腰巻に包んで投げる。これによって厄払いができたというわけである。これを拾ったものは幸運がくるというわけで、争ってこれを拾った」(『土浦町内誌』)

「逢魔が時」の逢魔が辻に出現する、奇祭である。褌や腰巻が飛ぶ時代ではなくなったが、小銭やお菓子をまく風習はコロナ禍の間も細々続けられてきた。温かい飲食物もふるまわれる。記述に出てくる東崎の鷲神社では旧暦正月の15日に、味噌おでんで無病息災を願う「じゃかもこじゃん」という行事も行われていたが、こちらは2014年で途絶えた。

にぎわう不動院の豆まき=2017年撮影、中央1丁目

続けて、中央1丁目側の中城にある琴平神社と不動院が前後して節分会(え)を催す。土曜の夜 午後5時から不動院が、同6時から琴平神社が豆まきを予定する。

宮中行事の追儺(ついな)にちなむ節分の豆まきは、疫病退散を願う意味合いもある行事だが、コロナ禍には勝てず、地域の神社・仏閣では過去3年、豆まきを中止したり祭事を縮小したりするところが相次いだ。両社寺並んでの豆まきは4年ぶりの開催だ。

ここでは豆というより、餅まきというのがふさわしい。かけ声は「福は内」だけで、「鬼は外」は言わない。町内の顔役らが箱ごとぶちまけるように投げつける紅白の丸餅は、直撃されると結構痛い。境内に集まったお年寄りや子供たちは、当たらぬようにかわしながら追いかけ、受け止める。

年越しの節分の夜が明けると、4日は立春。新しい年が始まる。琴平神社と不動院の入り口には中城通りをはさんで向かい合う土浦まちかど蔵の「大徳」「野村」があり、同日から始まる「土浦の雛(ひな)まつり」のメーン会場となる。会期は3月3日まで、市街地の商店・飲食店など約100店が参加、旧家に伝わる人形から最近の創作びななどを店内にあしらう。土浦のかつての豊かさがほんのり薫ってくる、春の入り口である。(ブロガー)

多様性を認め合う育ちの場へ《令和楽学ラボ》27

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ペンダント(園児の卒業制作から)。みんな違って素晴らしい

【コラム・川上美智子】先般、つくば市内の民間保育園、認定こども園、幼稚園の施設長を対象とする研修会が開かれた。2名の講師をお迎えし、「つくば市の特徴を捉えたこれからの保育施設に必要なこと」「療育と保育の連携の重要性について」という、タイムリーなテーマで講演が行われた。

小学校では通級希望の児童が待機待ちですぐに通級措置が受けられないことが話題になっているが、つくば市内の保育園や幼稚園でも保育士が上手に対応しきれないお子様が増えてきており、施設長会での課題となっている。

特別支援を要する身体的、知的障害には当てはまらない、気になる子や、グレーゾーンと呼ばれる子どもが近年増えていると言われている。多様性を認め合うダイバーシティ(Diversity)や障害のあるなしにかかわらず共に学び合うインクルージョン(Inclusion)が尊重される現代社会にあって、幼児教育施設では、そのような子を排除したがる風潮があることは否めない。

実際、適切な個別対応の方法についての知識や経験に乏しい現場の保育士たちにとっては、手に負えない子どもであって、やっかいもの扱いである。危険だとか、他の子どもの迷惑になるとか、責任が負えないとか、集団行動から外れる子どもは、いつも怒られてばかりで嫌な思いをしている。

どの子どもにも優しく接してもらいたい、子どもの人権を尊重してほしいと願っているのであるが、余裕のない中で働く保育士たちにとっては酷なのであろう。ゆったりと一人ひとりの子どもに向き合える環境を整えることが第一と考えられるが、学校教育の場ほど保育の現場は恵まれておらず、国の厚い支援が求められるところである。

また、保育士の質の向上も喫緊(きっきん)の課題である。養成施設のカリキュラムでは、子どもの心理や療育の学びが十分とは言えず、キャリアアップ研修などで力を入れる必要がある。

「人は皆違う、違ってよい」社会

完璧な人間などいないし、完璧な子どももいない。皆、人それぞれに特性であって、それが人間である。今回の講演の中で、文科省が2022年度に実施した「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」の数値(推計値)が披露されたが、小中学校で知的発達に遅れはないものの「学習面または行動面で著しい困難を示す」子どもは8.8%で、10年前より2.3ポイント上がったという。

しかし詳しく調べていくと、高校生では2.2%に過ぎない。学年別に見て行くと小学校低学年で割合が一番高く(12%前後)、中、高と進むに連れ、困難な割合は下がり、高校3年では2.1%となる。人間成長するにつれ、気になる面が解消されることがわかる。

また、この調査で使われている学習面、行動面(「不注意」「多動性‐衝動性」)、行動面(「対人関係やこだわり等」)の項目をみると、誰でもいくつか該当すると思われる項目があって、小学生にここまで要求するのかという疑問も残る。

例えば「多動性・衝動性」では、①手足をそわそわと動かし、またはいすの上でもじもじする、②教室や、その他、座っていることを要求される状況で席を離れる、③不適切な状況で、余計に走り回ったり高い所へ上ったりする、④静かに遊んだり余暇活動につくことができない、⑤「じっとしていない」、またはまるで「エンジンで動かされているように」行動する、⑥しゃべりすぎる、⑦質問が終わる前に出し抜けに答え始めてしまう、⑧順番を待つことが難しい、⑨他人を妨害したり、邪魔をする―の9項目で判定する。

さらに「不注意」9項目を加え、うち6つ該当すれば、困難児とされてしまう。もちろん、科学的根拠があってこのようなスケールが出来たのであろうが、小さい頃からレッテルを貼られてしまう今の子どもたち、親たちには余りにも残酷な気がする。

早く診断をすることよりも、「人は皆違う、違ってよい」という社会になることを、また、違っていることを受容し、周囲が上手に対応するキャパシティーのある社会になってほしいと願う。(茨城キリスト教大学名誉教授、みらいのもり保育園園長)

大学生による里山保全活動《宍塚の里山》109

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落ち葉のプールにダイビング

【コラム・森本信生】法政大学・市ケ谷キャンパスを中心とした学生で構成される環境系サークル「キャンパス・エコロジー・フォーラム(キャンエコ)」は2002年10月以来、毎月1回(コロナ禍による休止時期を除く)、宍塚の里山で活動しています。

キャンエコは、主に棚田班と里山班の2つで構成され、棚田班は千葉県鴨川市の大山千枚田で、里山班は宍塚の里山で活動しています。学内サークル満足度1位の人気サークルで、OB、OGは841人とのこと。東京から高い交通費を使って、月1回、30~40人のメンバーが参加しています(TXの回数券が廃止されたのが痛手ですが…)。

活動は多岐にわたっています。湿地保全のために過繁茂する柳の伐根や外来種の抜き取り、雑木林の林の下にも光が当たり里山独自の植物が育つための落ち葉かき、落ち葉のプールでのダイビング、水路の落ち葉かき、ブルーギルやブラックバスを駆除するための釣り。

そして、梅などの果樹の剪定(せんてい)、自然農の水田での田植えと収穫、フクロウの巣箱の設置、孟宗竹(モウソウチク)の切り倒し、切り出した竹を使ってのランタン作り、クリスマスや正月飾り作り、雑木を利用しての遊具作り、雑木を利用しての遊具作り。

さらに、「田んぼの学校」に参加した子どもたちとの木登りや、ブランコ、ハンモック遊び。竹と藁(わら)で造る秘密基地(お昼寝場所)建設、窯でピザを焼き、畑で芋を育て大学祭での販売、観察路の手入れやSNSを利用した道案内システムの構築。

こういった様々な活動を、私たちの会員と綿密な相談をして行っています。山の中の体力勝負の作業も、男女隔てなく頑張っています。

将来に役に立つ体験を提供

学生たちの一番の楽しみになっているのが、「里山のごちそう」。宍塚でとれたお米や野菜、山菜、地元に古くから伝わる大豆「たのくろ豆」を原料にした味噌などを使った昼食を提供しています。私たちの会員による「つくし亭」のメンバーが、里山の現地で調理をしています。休憩場所は、明治14年(1881)築の古民家「百年亭」です。

人間環境学を専攻する学生たちは、授業で学ぶ環境と人間との関係を里山体験を通じて学べているようです。卒業後、里山で学んだことを生かした仕事に就いている学生もいます。学生たちの将来に役に立つ体験を提供できてうれしいい限りです。

もちろん、彼らは里山保全作業の大きな力になっていますし、若い息吹に、(比較的歳をとった)会員たちは元気をもらっています。私たちの里山の近隣には、大きな大学がいくつかあります。近くの学生たちも、どんどん来てほしいと思っています。(宍塚の自然と歴史の会 会長)

派閥秘書団は、どう考え、行動していたのか 《文京町便り》24

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】自民党派閥(とりわけ安倍派)のパーティー券収入のキックバックならびに不記載問題は、とりあえずは、2、3の派閥の会計責任者の起訴とそれに続く派閥解散で、(少なくとも岸田総裁としては)幕を引き、事務処理ミスの形式犯で済ませようとしている。

こうした会計処理が、どうして隠然と継承されてきたのか、という疑問がある。派閥会長やベテラン議員はともかく、新人議員では、政治家本人も事情・経緯が分からず、ましてやいきなり国会に登院したばかりの新人議員の秘書ではどう処理すべきか、途方に暮れるのではないか。その際、頼りになるのは派閥であろう。

派閥の会長・幹部が新人議員を呼び、こうした事務処理の機微は派閥のベテラン秘書団が詳しいので、彼らに相談して対応するように、とアドバイス・指導・指示するに違いない。まさに、新人議員にとっては、派閥はありがたい、のである。しかし、ひとたびこのクモの巣にからめとられると、生涯(少なくとも国会議員の間は)そこから抜け出ることはできなくなる。

そもそも、秘書には3つのタイプがある。第1は、親族(多くは父親)が国会議員の場合で、この場合は、何でも懸念無く相談でき、(秘密を共有できる)片腕としてそばに置きたい、という動機に由来している。家業としての政治家を続くける限りは、こうした父子相伝は(良し悪しは別にして)重要な要素である。

この場合は、いずれ適当な時期に、この国会議員のポストを子弟(多くは息子)に譲るのが既定路線である。つまり、この場合の秘書はあくまでも見習い・帝王学の最中であって、事務(とりわけ会計)処理の子細に立ち入るかどうかはケースバイケースであろう(無い場合も少なくない)。

第2のタイプは、将来議員になる野望を秘めていて、その前段階で、国会議員秘書を務めているケースである。いきなりの国会議員はハードルが高くても、市会議員・県会議員などへの立候補は、国会議員秘書としての顔見せ効果がかなり有効である。しかし、このケースでも、事務・会計処理の具体については大体の状況・雰囲気は分かるものの、確実なところ(裏側など)は疑問符かもしれない。

蓄積されたノウハウを継承

第3のタイプは、当初は第2のタイプだったけれども、なかなか転身(議員への立候補)がうまくいかず、かつ、親分(国会議員)が引退した場合、秘書を止めるか続けるか、で分かれる。秘書を止める場合は、自分の家業(父親の跡)を継ぐなどの事例もあるが、地元でどこか適当な企業・事業所に然るべきポストを見つけるのは、先の見えた秘書が手繰り寄せる手堅い転職・転身ルートであり、これは相当数に上っている気配がある。

そうした転身先を見つけられない場合は、親分(国会議員)を変えて秘書稼業を不本意ながら続けることになる。派閥秘書団はこうした(親分のいなくなった)秘書のリストをプールし、新人議員に斡旋(あっせん)している可能性がある。その際、秘書の有能さの評価には、事務・会計処理能力(グレーゾーンの見極め)の高さが含まれるはずである。

派閥の会長・幹部の指針・了解のもとに秘書団に蓄積されてきたノウハウの継承が、今回のような派閥主催のパーティー券収入のキックバック処理の慣習が野放図に継続する契機だったのではないか。(専修大学名誉教授)

焼け跡の銀座風景 《くずかごの唄》135

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】震災にあった石川県の中学生が、高校受験に備えて集団で移住するニュースを見たとき、私たちが6年生のときに強制疎開させられたことを想い出し、涙が出そうになってしまった。

「小学3年生から6年生まで全員、東京にいてはいけない。疎開しなければならない」

「来年3月の中学受験、僕は都立しか受けたくない」

「私も、都立を受験したいわ」

「皆、方々に疎開してバラバラになってしまうけれど、受験の日には逢えるね」

「受験の日に逢いましょう」

6年生のクラスメート全員、受験の日に逢うという堅い約束をして別れたのだった。

受験日は3月12日。運命の日、東京大空襲が3月10日。約束を守って、東京へ帰ってきた人は、東京大空襲に巻き込まれてしまった。約束を守れない私は、疎開先の長野県飯田の県立女学校を受験して無事だった。

有楽町駅のものすごい臭い 

1946年の冬休み。父は「あなたに見せておきたいものがある。今から東京へ帰るから、一緒に行こう」。

父の会社「尚榮精機株式会社」は銀座西8-1にあった。米国から電気冷蔵庫など、日本にはない電気器具を輸入して売っていたが、米国との戦争で輸入どころではなくなってしまって、江戸川区の平井に工場を造って、戦争中は電気器具の修理などをしていた。

父の銀座の会社は、幸い焼け残っていたので、私はそこへ泊って、新橋、有楽町あたりを毎日見て回った。

焼け野原になってしまった東京。残った建物も、爆弾の熱風でカラスが吹き飛んでしまい、どのビルも窓に新聞紙が張りつけられていた。爆風と一緒に吹いてきたガラスの破片が体に突き刺さって、出血多量で亡くなった人も多かったらしい。

私がびっくりしたのは有楽町駅の臭いである。この駅は銀座の繁華街に近いので、特別厚いコンクリ―工事が施されていたという。空襲のとき、頑丈なコンクリートの駅舎にたくさんの人が詰めかけたらしい。そのまま全員蒸し焼きになってしまった。

敗戦の夏。暑さの中で、その人たちの、コンクリートに染み込んだ脂肪や血液が発酵・蒸発し、駅全体が表現の仕様がないような、ものすごい臭いになってしまっていた。

私は、臭いが怖くて有楽町駅に行けなくなってしまった。小学校の同級生は一体何人生き残ったのだろうか?(随筆家、薬剤師)

男性中心社会、オールド・ボーイズ・ネットワーク 《遊民通信》81

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【コラム・田口哲郎】

前略

オールド・ボーイズ・ネットワークという言葉をご存知でしょうか? ウィキペディアによると「男性中心の組織文化や人間関係などを表す用語である。オールド・ボーイズ・ネットワークが強固な組織では、男性中心の独特の閉鎖性・排他性によって多様性が失われ、女性の活躍やイノベーションが阻害される。そのため、日本では2020年頃から見直す機運が高まっている」ということで、いわゆる男性中心社会を表す言葉です。

先日、元日本IBM取締役の内永ゆか子氏の講演を聞く機会があり、そこで初めて知りました。

内永氏がおっしゃるには、オールド・ボーイズ・ネットワークは、同じ経歴、同じ成功体験、同じ失敗体験、つまり同じ価値観を生きてきた男性の集まりのことだそうです。つまり男性のみの学閥や派閥などいわゆるエリート集団です。いままでその知的優位と結束力の強さで、資本主義経済を主導し、近代社会の経済的繁栄を築いてきました。

そもそもこの組織は欧米で生まれ、明治以降に日本に入ってきて、いまや日本はこのネットワークが欧米に比べて強固だそうです。日本社会を眺めてみると、このオールド・ボーイズ・ネットワークに支配されている組織やシステムが多いことに気づかされます。

一枚岩が切り崩される現状

さて、現在、世界はグローバリゼーションが席巻し、今までの価値観が覆される事態になっています。その激変の時代にあって、オールド・ボーイズ・ネットワークへの風当たりは強いようです。

価値観を変えるのは簡単ではありません。価値観が一枚岩みたいにみんな同じだと、多様な考え方の波に対応するのはほぼ不可能でしょう。しかも、いまは一枚岩ばかりが一流で頑丈なのではなく、多様なベンチャーでも大岩を切り崩せる時代です。要するに、ひと握りの男だけの集団が世界を牛耳り、価値観を押し付ける社会が終わろうとしています。それは弱者が抑圧から解放される良いことなのです。

しかし、いままで社会の隅々までをがんじがらめにしていた枠組みが外れるのですから、不安や衝突が生じるでしょう。個々人が自由に生きなければならないアフター・コロナの時代に人びとの心を支える価値観をどうつくってゆくのか、考える時がきているのかもしれませんね。

イエ制度や地域コミュニティが崩壊した現在、人々が安心するために緩やかにつながれる、いわば共通の新しいイエが求められているように思えます。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

自分の責任で自由に過ごせる居場所を!《けんがくひろば》2

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12月の「きつつきプレイパーク」

【コラム・吉田絵里子】私たちは、TX研究学園駅前公園の林内に「きつつきプレイパーク」を設けています。きつつきも訪れる外遊びの場所です。毎月1回、放課後に開催して今年で6年目になります。

「きつつきプレイパーク」って?

「プレイパーク」ってどんな場所なのでしょう? 「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに、出来る限り禁止事項を減らした「何をしても、何もしなくても、いい」ところと、私たちは考えています。その対象は子どもたちだけではありません。赤ちゃんからシニアの方まで、すべての人にとって「遊び(心)」や「居場所」は必要だと考えるからです。

「遊び(心)」の無い日々は人を窮屈にさせます。また、世界のどこかに一つでも「自分の居場所」があるという実感によって人は幸せを感じるのではないでしょうか。ささやかな日常の喜び、思い出、つながりが、思いがけずあなたを支えてくれた、救ってくれたことはありませんか?

落とし穴を掘る。たき火で焼きイモをつくる。お湯を沸かしてラーメンをつくる。コーヒーを入れておしゃべりをする。木登りをする。ロープを木にひっかけてブランコやジップスライダーをつくる。思いっきり大声をだして叫ぶ。物置の上から飛び降りる。泥んこになって暗くなるまで遊ぶ。異年齢で遊ぶ。集まる。つながる。

「きつつきプレイパークって何がおもしろい?」と聞くと、「特別な遠い場所じゃなくて、すぐ近くで普段できない特別なことが出来ること」。そんな答えが返ってきました。

「やってみたい」「挑戦してみたい」 

普段できない特別なことって、昔なら出来ていたことがたくさんあります。今では怒られたり止めさせられてしまう、出来る環境がそもそも無い。「やってみたい」「挑戦してみたい」「夢中になって没頭したい」が出来ない、苦しい時代になっています。

私たちは「あたりまえにやっていいこと」=権利なのではと思うのです。子どもの権利は、昨年施行された「こども基本法」で保障されています。この法律は1989年に国連総会で採択された「国連児童の権利条約(子どもの権利条約)」を受けた国内法で、大人の都合が優先されるのではなく「子どものため」の法律です。

自分には権利がある、「大きな人」に従うだけの存在じゃない―これは大人になっても大切な考えです。どんな状況でも人生の主権は自分にあると。「きつつきプレイパーク」もそれを保障したいのです。人生を「自分の責任で自由に遊ぶ」ために。もちろん「何をしても、しなくても」。(つくばdeプレイパークひろめ隊 代表)

<きつつきプレイパーク>
▽毎月第4月曜日の午後3~5時開催(冬季は日没まで)。次回は2月26日
▽予約不要・参加費無料。未就学児は要保護者同伴
▽詳しくは、フェイスブックまたはインスタグラム
▽問い合わせは、SNSダイレクトメッセージまたはメール

朝寝坊さん《短いおはなし》23

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

子どもの頃から、枕元に「朝寝坊さん」がいます。
夜になるとやってきて、優しい声で子守唄を歌うのです。
毎晩ぐっすり眠ります。
目覚まし時計をこっそり止めるのも「朝寝坊さん」の仕業です。
だから私は、毎日寝坊をします。

「起きなさい、何度言ったら起きるのよ。まったくあなたは」

母の声は、なんて耳障りでしょう。
私は目を閉じて、「朝寝坊さん」の歌声に酔いしれます。
5回くらい起こされて渋々起き上がると、「朝寝坊さん」の歌はゆっくりフェイドアウトして、やがて風のように、どこか遠くへ行ってしまうのです。

おかげで私は、ほぼ毎日遅刻です。

「こら、おまえ、また遅刻か」

先生に毎日怒られます。友達もあきれています。
だけど平気です。「朝寝坊さん」の歌声が、私にとって一番なのです。

「学生のうちはいいけど、社会人になったらどうするの? あなたを一生起こしてあげることなんか出来ないのよ」

母は朝からガミガミうるさいです。耳をふさいでやりすごします。
私は起きられないのではありません。起きないのです。
「朝寝坊さん」と離れたくないのです。
「朝寝坊さん」は、昼間はどこにいるのでしょう。
梅の花がもうすぐ咲きそうなことに、気がついているかしら。

翌日、いつものように寝坊をした私は、陽が高くなっていることに気づきました。
いつまでたっても母が起こしに来ないから、お昼になってしまったのです。
遅刻のレベルを超えています。いつものガミガミが聞こえないのも不便なものです。

「お母さん?」

リビングにもキッチンにも母はいません。
部屋へ行ってみると、布団を被って寝ているのです。

「お母さん、何で起こしてくれないの? もうお昼だよ」

母は、布団をもぞもぞさせながら、しゃがれた声で言いました。

「起きる必要ないだろう。だってあんた、仕事もせずに寝ているだけじゃないか。これ以上あたしの年金を当てにしないでちょうだい」

そう言って布団から顔を出した母を見て、私は腰が抜けるほど驚きました。
母の髪は真っ白で、顔はしわくちゃのおばあさんでした。
そして鏡を見たら、私自身も驚くほど年を取っていたのです。

「お母さん、私、どうしちゃったの! ねえ、お母さん。起きてよ」

母は起きません。母の枕元で「朝寝坊さん」が不気味に笑っていました。
「朝寝坊さん」が、私たちの時間を奪ってしまったのです。
気持ちよく眠っている間に、数十年もの時間を失ってしまったのです。
私は耳を塞ぎました。「朝寝坊さん」の歌は、まるでレクイエムのようでした。

*  *
目覚まし時計が鳴りました。
ハッとして起きると、いつもの朝でした。
私は、元の中学生に戻っていました。

「あら珍しく早起きね。雪でも降らなきゃいいけど」

母は、ちゃんと太った黒髪の、いつもの母でした。

それっきり「朝寝坊さん」は姿を消しました。
他の誰かの心に住み着いたのかもしれません。
うららかな春が、やがてやってきます。どうかご用心を。

(作家)

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妙に懐かれた教え子の結婚式《続・平熱日記》150

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】恐らく、後にも先にも教え子の結婚式に出るのはこの一度きりだろう。記憶に残っている限り、一番てこずった「問題児」が多かった年。だからよく覚えている。新郎は、中学校1年生から3年生まで美術の授業を担当し、高校1年の選択授業も受け持った。

これまで何千という生徒を教えてきたが、いまだに交流のあるのはこの子を含めて男3人だけ。なにせ日雇い先生だし、授業が終わればさっさと帰るし、それ以上の付き合いをすることもなかった。でも、なぜかこの3人には妙に懐かれてしまって、休みには薪(まき)割の手伝いに来てくれ、私の関わった美術イベントにも参加してくれた。

1月吉日。都内某所で、式、披露宴は賑々(にぎにぎ)しく開かれた。宴もたけなわになった頃、ご両親が私の座るテーブルに回ってこられた。

実は、新郎は高校に入って間もなく、些細(ささい)なことで学校をやめてしまっていた。詳しい事情は聞かないでいたが、その後、別の高校に入り直して上智大学を卒業し、在学中にバイトをしていた会社の仕事から起業に至り、今は社長。

やや向こう見ずなところもあるが、目標に向かう前進力には感心する。しかし、在学中よりも卒業してから絵を学びたいなどと言い出して、うちのアトリエやお絵かき講座にデッサンをしに来ていた時期があった。それから、個展会場にひょっこり現れて絵を買ってくれたりもするようになった。

ご両親は、新郎がことあるごとに私に随分と助けられたという意味のお礼を述べられた。短い会話ではあったが、そのご苦労をお察しするのに難くはなく、それゆえに今日のよき日を格別に喜んでおられることが伝わってきた。

余談だが、私の座ったテーブルには3人の中学同級生がいて、そのうち2人は中途退学した生徒だった。でも、とてもちゃんとした大人になっていて、1人は見目麗しいパートナーを同伴していた。先生、恩師として呼ばれたのは、多分私ひとりだったと思う。

忌野清志郎「僕の好きな先生」

余談だが、同じテーブルに座っていたもう1人は、新郎と共によく私の元を訪れていた同級生。宴もお開きとなって、彼とクロークに上着を受け取りに行った。「この上着に見覚えがあるか」と彼に聞いた。「もちろん。よく持っておられましたね」。キョトンとする彼。

これは、かれこれ10年近く前、彼が北海道の大学から帰ってきたときに着ていたダウンジャケット。就職が決まった春休み、薪割りを手伝ってもらった折に、もう十分着てくたびれてしまったので捨ててくださいと言って、置いていった。見ればそれほど汚れてもいなかったので、私がもらって今日もこうして着させてもらっているのだった。

帰りの電車で、忌野清志郎の「僕の好きな先生」という歌が頭の中を流れ始めた。私としては、何か特別なことを教えたつもりもないし…。

考えてみると、新郎はもちろん絵が好きだったということはあったにせよ、美術の授業や絵を描くことに、何というか、救われていたのかもしれないと思った。ということで、新年に向けて、改めてテキトーに授業をしていこうと思った。(画家)

危機一髪の志賀原発《邑から日本を見る》152

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古徳沼(那珂市)のハクチョウとカメラマン

【コラム・先﨑千尋】元日はいつものように子どもたちが集まり、私は酒飲み。いい気分でいる時、地震の予兆があり、次いでやや強い揺れ。子どものスマホが鳴り出し、だんだんに地震の全容が分かってきた。

これまでに分かった範囲では死者や避難者などは東日本大震災などよりも少ないが、地震の起きた所がわが国で最大の半島だけに「陸の孤島」と化し、道路は土砂崩れや陥没と亀裂。津波と隆起で港も使えず、交通網が寸断され、電気が止まり、水も出ない。輪島では大規模な火災も起きた。私が最初に心配したのは、半島中部の志賀町にある北陸電力志賀原発がどうなっているのか、だった。

どうしてなのか、原発に関する情報は少しずつ、だんだんにしか入ってこない。これまでに分かった範囲では、運転停止中だったために東京電力福島第1原発のようなひどい事故にはならなかったが、震源地にもっと近かったら、停止中でも危ないことになっていたかもしれない。

気象庁の情報では、揺れの大きさを示す加速度は原発の近くの志賀町香能で2826ガルだった。これは東日本大震災の最大値2934ガル(宮城県栗原市)に匹敵する大きさだ。同原発の原子炉建屋部分でも、1号機、2号機とも原子力規制庁が定めた上限を超えていた。日本地理学会災害対応チームの調査によれば、原発近くで内陸の活断層が動いたようだ。今後の詳しい調査が待たれる。

同原発は今回の地震で変圧器配管が破損し、約2万リットルの絶縁油が漏れ、一部は海に流出。使用済み燃料を冷やす貯蔵プールの水も飛散し、1号機では一時冷却ができなくなった。原発周辺の空間放射線量を測定するモニタリングポストも15カ所で測定できなくなった。この実測値で住民の屋内退避や避難開始などを決めるが、復旧の見通しは立っていないという。原発近くの海岸も3メートル隆起している。

原発災害の避難計画は各自治体が策定することになっている。志賀町ではどうなっているか。「志賀町原子力災害避難計画」によれば、主たる移動手段は自動車。自家用車で避難できない人はバスで運ぶ。避難ルートは国道、県道など。自衛隊車両や海上交通手段も活用する。警察・消防が避難誘導を行う、とされている。

地震はいつどこで起きるか分からない

今回の地震では原発事故は起きなかったのでこの避難計画は適用されなかったが、道路はズタズタになり、海路も使えない状態だった。避難しようにもできない地区があちこちにあったことが現地からのニュースで伝えられている。電波が届かなければ安否の確認すらできない。持病を抱えている人や人工透析を受けている人たちはどうだったのだろうか。

作文でどんな立派な計画を立てても、しょせん絵に描いた餅。実際には全く役に立たないものだったことが今回の地震で証明されたのではないか。宮城県の女川原発や愛媛県の伊方原発は半島上にある。原発の先に住む人たちは逃げようがない。原発災害の避難計画は原子力規制委員会の審査対象外であり、専門家のチェックは入らない。それでいいのだろうか。

断層のことをもっと調べろ、基準地震動が低すぎる、原子力規制委員会は新規制基準と原子力災害対策指針を見直すべきなど、専門家からもいろいろな提案が出ているが、地震学会も公式に地震の予知はできないと言っているのだから、地震はいつどこで起きるか分からない。「地震大国のこの国では、原発は危ないから止めよう」とすればいいのではないか。柏崎刈羽だって東海だって危ないのだ。(元瓜連町長)