【コラム・浅井和幸】先日、友人Aと待ち合わせの話し合いをしました。大したことではないので、さっと済ませられるかと思っていたのですが、なかなか話が進まず、何を話し合っているのか、途中から分からなくなることもありました。

A「来週の月曜日に一緒に昼食を食べよう」

浅井「たまにはよいね。どこかで待ち合わせてから、食べに行こう」

A「どこで待ち合わせる? 浅井が決めてよ」

浅井「どこでも良いよ。事務所で待ち合わせようか? それともAの家に迎えに行こうか?」

A「事務所まで行くのは面倒だなぁ」

浅井「じゃ、Aの家に迎えに行くよ」

A「いやいや、遠いし、申しわけないよ」

浅井「別に構わないけど」

A「でもなぁ…」

結局、事務所で待ち合わせをすることになったのですが、Aの考え方のくせが私の考え方のくせとあまり合いません。待ち合わせ場所をどうするかとかではなく、どのような場所で待ち合わせるのが嫌かというやり取りに終始するのです。

逆立ちして待ち合わせるのは苦しい

この話には続きがあって、私は「こちらも、アメリカで待ち合わせるのは遠いので嫌だし、逆立ちして待ち合わせるのも嫌だな。場所を決めることぐらい、大した問題ではないと思うけど、こちらも待ち合わせには適さないことを永遠と言い続けようか? 車を担いで待ち合わせるのは不可能だとか」と、極端なことを言います。するとAはハッとして、事務所で待ち合わせることになったのです。

自分は何も悪いことをしていないのに、運が悪いとか周りの人間が悪いやつばかりだと、Aはいつも言います。ですが実のところ、A自身が解決策を考えるどころか、悪いところを探し出して、あげつらっている日々なのです。

どんなことにも良い点と悪い点があります。悪い点ばかりを見続ける、改善させないように立ち振る舞う、苦しさをかなり抱え込む―。大変な人生を選択している彼に、同情の念を抱かずにはいられないのですが、改善策をアドバイスすることは彼のストレスを大きくしてしまいます。

それにAは、耐えられないほどの苦痛を感じて反発するだけなので、苦しみを重ね続ける彼を遠くで見守るしか手はないのだと、自分に言い聞かせる今日この頃です。(精神保健福祉士)