木曜日, 12月 26, 2024
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郷愁の商店街のゲートと鳥居《看取り医者は見た!》14

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写真は筆者

【コラム・平野国美】地域の特性に応じた役割を果たすために設けられてきた商店街のゲートは、どこから来たのでしょうか? というよりも、なぜ造られたのでしょうか?

都市計画学のバリー・シェルトンは、「日本の都市から学ぶこと」の中で、商店街におけるゲートと神社の鳥居を中心とした参道の共通性について指摘しています。私は古本屋でこの書籍を見つけ、読んでみました。日本で生まれて育った私たちにはわからない、いや、気づけない街の構造を異邦人側から見ると、どう見えるのか、とてもユニークでした。

近代以降の日本において、家屋の欧米化、街並みの欧米化が進んだわけですが、そこに、どこか日本固有の文化が残るようです。完全に欧米化しているようで、実は良くも悪くも日本的な要素が残る。そこが面白いのです。しかし、これは完全に証明はできないのだと思います。それは、無意識に行っているから。

商店街の成り立ちとして、神社が起点となっている痕跡は見られます。商店街や駅名に神社仏閣の名称が付けられていることからも分かると思うのです。江戸時代には商業が急速に発展しました。商人たちは商業活動を行う場所として、城下町や街道沿いの宿場町、そして門前町(神社の鳥居前町)があるのです。

神聖な世界と浮世を分ける結界

神社が単に宗教施設としてではなく、縁日や市場の場所として境内が利用されたことも、この流れなのだと思います。ここで、それを私が勝手に裏付けると思っている右の写真が、岡崎市のパワースポット呼ばれる「晴明神社」と本町晴明ストリートにある商店街のゲートです。

晴明の文字と五芒星(ごぼうせい)が飾られたゲートは商店街の入り口なのか? 神社の入り口なのか? いずれにしろ、神聖な世界と浮世を分ける結界を意味しているのではないでしょうか?

左の写真は、愛知県瀬戸市の「瀬戸銀座通り商店街」です。ここでは、ゲートと深川神社の鳥居が寄り添っています。調べてみましたが、商店街のゲートが神社の鳥居に由来するという記載は見つけられませんでした。しかし、全てではないとしても、一部の商店街のゲートが鳥居のデザインに影響を受けているのではないでしょうか?

バリー・シェルトンのような都市建築学の権威が、この二つの印象を関連付けています。商店街のゲートは日本の伝統的な要素も表現しています。それゆえ、日本全国に受け入れられ造られた時期があったのでしょう。(訪問診療医師)

筑波メディカルセンターの救命救急体制《メディカル知恵袋》3

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図2

【コラム・阿竹茂】現在、茨城県には救命救急センターが6カ所、高度救命救急センターが1カ所あります(図1)。救命救急センターの役割は「重篤患者に対する高度な専門的医療を総合的に実施することを基本とし、重症および複数の診療科領域にわたるすべての重篤な救急患者を24時間体制で受け入れること」です。

筑波メディカルセンター病院は、1985年に開催されたつくば科学万博に合わせ、県内2番目の救命救急センターとして設置されました。地方の救命救急センターとして、軽症から重症患者まで幅広い救急医療だけでなく、ドクターカーによる病院前救急医療、死後CT検査による死因究明のほか、災害時の救急医療も行ってきました。

図1

自家用車での救急外来受診も 

救急搬送される患者さんは、2022年には約 5000件に上り、うち1300件(全体の26%)が救命救急センターの集中治療室に入院しました。主な傷病は、急性心筋梗塞や心不全などの心疾患、重症外傷、脳血管障害(脳出血、脳梗塞)などです。

重症患者は救急車で搬送されるとは限りません。自家用車で来院して、救急外来を受診する方(walk in)の中に、急性心筋梗塞、脳卒中、重症感染症など、重症かつ緊急性の高い患者さんがいます。筑波メディカルセンターでは、緊急性の高い患者さんに迅速に対応し、来院後~診察の間に急変することを未然に防いでいます。

ドクターカーによる救急医療 

2012年から乗用車型ドクターカーの運用を始め、2022年にはドクターカーで786件出動し、240件の病院前診療を行いました。ドクターカーは消防署からの要請で出動し、救急車の救急隊と連絡を取りながら、現場や搬送途中で合流し、派遣された医師・看護師が診療を行います(図2)。

救急隊では行えない検査・処置・投薬を行うことで、傷病者の状態悪化を防ぎながら病院に搬送しています。急性心筋梗塞や重症外傷など、緊急性の高い傷病者の場合は、ドクターカー医師からの連絡によって、病院で対応するスタッフの招集や治療の準備を早期に始めることができます。

死後CT検査による死因究明 

筑波メディカルでは、救急外来での死亡確認症例のほぼ全例について、死後CT検査を行っています。来院時心肺停止の症例の多くは、救急外来で死亡確認を行います。2022年の外来死亡症例は149人で、死因究明のために141人(全体の95%)の死後CT検査が行われました。

特に目撃のない心肺停止の症例は経過が明らかでないため、死亡原因が不明となることがありますが、死後CT検査で急性大動脈解離や脳出血を認め、死因と診断できることがあります。目撃のある心肺停止でも、急性大動脈解離による心肺停止は通常の心肺蘇生法では救命できないため、新たな方法が必要となります。死後CT検査による死因究明が進むことで、急変時の対応方法が変化していく可能性があります。

災害拠点病院と救急災害医療 

救命救急センターを有する県内の病院はすべて災害拠点病院となっており、災害時医療の準備や訓練を行っています。筑波メディカルセンターでは、救命救急センターの医師や看護師が、災害医療派遣チーム(DMAT)の主な構成メンバーとなっています。

東日本大震災(2011年3月)、つくば竜巻災害(2012年5月)、常総市水害(2015年10月)では、筑波メディカルセンターは DMATの活動拠点となり、救急災害医療活動を行いました。今年1月に起きた能登半島地震では、3次隊として茨城DMAT15チームが被災地に派遣され、筑波メディカルセンターのDMATも珠洲市で活動しました。(筑波メディカルセンター病院 救命救急センター長)

初恋おひなさま《短いおはなし》24

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写真は筆者

【ノベル・伊東葎花】

僕の初恋は、姉のお雛(ひな)様。
美しい着物と優しい顔に、僕は見とれた。
手を伸ばすと姉に「触らないで」と叱られた。
だからいつも見ているだけの片思い。

あれは、10歳の春だ。
ひとりで留守番をしていた僕に、お雛様が話しかけてきた。

「ねえ君、私のことが好きなんでしょう。こっちにいらっしゃいよ」

振り向くとお雛様が、切れ長の目で僕を見ていた。

「君は良い子ね。お姉さんが私に触るなと言ったら、本当に触らないのね。だけどね、そんなのつまらないわ」

お雛様が手招きしている。

「触っていいの?」

「もちろんいいわよ」

僕はゆっくり手を伸ばして、お雛様に触れた。

「きれいだな」

「ありがとう。お内裏様は、そんなこと言ってくれないわ」

「そうなの?」

「もともと愛なんてないのよ。政略結婚だから」

「政略結婚?」

「昔はね、自分の気持ちなんて関係ないの。家のために結婚するの」

「ふうん。可哀想(かわいそう)」

「君とのおしゃべりは楽しいわ。お内裏様は無口で、何を考えているのか分からないの」

「僕も楽しい。雛祭りが過ぎてもここにいてよ」

「ダメよ。君の姉さんが行き遅れるわ」

「そうなの?」

「昔からの言い伝えよ」

お雛様は3月4日になるとすぐに、片付けられてしまった。
1年が待ち遠しい。早く会いたい。想(おも)いは募るばかりだ。

そして再び桃の季節がきて、お雛様が飾られた。
お雛様は、また僕にだけ話しかけてくれた。

「あら、少し大きくなったわね」

「もう5年生だよ。ねえ、触っていい?」

「いいけど、ちょっとだけよ。お内裏様がヤキモチ焼くから。彼、意外と可愛いの」

「えっ、政略結婚なのに? 無口でつまらないって言ってたよね」

「本当は優しいの。不器用なだけよ。簡単に愛を口にする人より信頼できるわ」

隣に並ぶお内裏様が、赤い顔で照れていた。
どうして? いつの間にか仲良しになっている。

「君も、いつか分かるわ。ほら、姉さんが来るわ。早く戻して」

僕は姉に叱られる前にお雛様を戻して、ため息をついた。
初恋は実らない。相手は人妻だ。

やがてお雛様が飾られることはなくなった。
姉は、言い伝え通り早くに嫁に行き、男の子3人の母になった。
僕も結婚して、女の子が生まれた。
女の子が生まれたら、姉のお雛様を譲ってもらおうと決めていた。

「えー、あんな古いのでいいの? あんた、よっぽどお雛様に触りたかったのね」

姉がコロコロ笑った。

初節句に、妻と2人でお雛様を飾った。
お雛様はもう話しかけてくれないけど、やはり美しい。

「素敵ね。お雛様もきれいだけど、お内裏様も凛々(りり)しいわね」

「本当だ。お似合いだね」

僕たちは毎年お雛様を飾った。
娘はすくすく成長し、もうすぐ小学生だ。
一緒にお雛様を飾っていた娘が、首を傾(かし)げながら言った。

「ねえパパ、政略結婚って、なに?」

(作家)

3月に山口県宇部市で「凱旋初個展」《続・平熱日記》152

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】この世の中で絵ほど高価なものはない。何億、何十億もするものは絵ぐらいのものである。オークションなどでも、他の美術品、例えば工芸品や彫刻などに比べても、桁違いに高価な値が付く。

要は、それでも欲しい人がいるということだろうが、私の場合、自分だったらいくら出すか、日当として(手製の額縁も込みである)これくらいはいただこうという値段をつけている。

芸術品としての市場価値や投資価値は今のところない。ついでに言うと、かかった時間や大きさに関係なく、同じ値段にしている。だから当然、絵を売って生活することなどできない。

個展が迫ってきた。3月中旬、山口県宇部市のアートギャラリー「グリシーヌ」で個展を開く。このギャラリーとのご縁については131話にある通りなのだが、実は昨年3月にギャラリーを訪れた折、そのつもりは全くなかったのだが、個展をするという話になって、あれから1年が経とうとしているわけだ。

1昨年、周南市にある粭島のホーランエー食堂で作品を並べさせてもらったのが故郷山口での初個展といえるかもしれないが、今回の宇部での展示が事実上の「凱旋初個展」となるのかな。

SNS上にあった20年前の私の絵

個展のタイトルは「平熱日記 in 宇部」とした。時折しも、山口が観光地として取りざたされているらしいが、宇部や山口にちなんだものを何かを描こうと思う。

宇部といえば、保育園の遠足で行って以来何度か訪ねた山口の誇る遊園地「ときわ公園」(昭和なジェットコースターもよかったけどトランポリンが大好きだった)。それから、中学のときに水泳大会で訪れたのは恩田プール(プールの底がセメント色で深かかった)。

山陽本線から乗り換えた当時の宇部線の車両をネットで探して描いてみた。それから何か建物が描きたくて、火災で焼失した山口の旧ザビエル記念堂を紙粘土で作って描いてみた。

そんなある日のこと。SNS上にどこかで見た絵の画像がアップされていて、それは20年前に私が描いた空を飛ぶ鳥の絵だった。私の数少ないフォロワーでもある投稿者の方のコメントによると、20年前に故郷のとあるギャラリーで買った絵を新しく額装し直したということだった。

当時、毎年正月に山口にちなんだ作家の小品展がこのギャラリーで開かれていて、私の作品をお買い求めいただいた方の投稿だったのだ。

残念ながら、私の絵の行方をすべて把握しているわけではない。ただ私の絵が私の知らないどこかのご家庭の壁に飾ってあって、そこにそれぞれの生活があるということは、とてもうれしいことで(友人宅で自分の描いた絵に出会い、こんなの描いたっけ?ということも)、今回の宇部での展示に「この方だけでもいらしていただければいいや」と思えた。

「平熱日記in 宇部」は3月15日から24日まで宇部市のギャラリーグリシーヌにて開かれる。(画家)

 

今、那珂市瓜連地域はてんやわんや《邑から日本を見る》154

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旧瓜連町役場(現那珂市瓜連支所庁舎)

【コラム・先﨑千尋】「瓜連(うりづら)のシンボル、旧役場庁舎がなくなるんだって?」。昨年暮れから那珂市瓜連地区ではこの話でもちきりだ。発端は、昨年12月に那珂市が「瓜連支所の組織配置再編に関する基本方針(案)」を市議会に示し、1月に入ってからネットで公表。この方針に意見があれば出してほしいと、パブリックコメントを募ったからだ。

市が示した方針案の骨子は「財政の効率化と施設の有効利用を行うために、現在市役所本庁の隣にある中央公民館を改修し、瓜連支所庁舎にある上下水道部と教育委員会の行政事務室を移設する。瓜連支所窓口は『総合センターらぽーる』に移設する。支所庁舎は取り壊しも視野に入れて検討する」というもの。5年後に移設を完了するスケジュールも示されている。

いきり立った瓜連地区の住民は市に説明するよう求め、先月28日、同地区まちづくり委員会が主催する形で説明会が開かれた。この説明会には先﨑光市長らが出席し、住民も約250人が参加した。市の説明のあと、約2時間にわたって住民から質問や意見が出され、執行部の姿勢を追及する激しいやり取りもあった。

住民の反発は、基本方針案に「支所庁舎の取り壊しも視野に入れて検討する」という文言があったからだ。

説明会では「取り壊しの方針を示すのはいきなり過ぎる」「住民の声を聞かず、市役所内部で十分な検討もせずにパブリックコメント(パブコメ)を募集するのは手続として瑕疵(かし)がある。提案を撤回すべきだ」「パブコメはガス抜きではないか」などの発言があり、「維持費がかかると言うが、まだ築40年足らずだ。今後の改装費や維持費の見通しを示さなければ判断できない」という意見も出された。

旧町役場庁舎は地域のシンボル

この説明会のあと、同地区まちづくり委員会は、独自に100通にのぼる住民の意見を集約し、今月6日に市に意見書を出した。その要望の主なものは「旧町役場庁舎は地域のシンボル的な建物なので残してほしい。庁舎内にある郵便局や社会福祉協議会を残してほしい」など。

そして19日には、「瓜連・歴史を学ぶ会」と「根本正顕彰会」が「瓜連庁舎に歴史民俗資料館の拡張・利活用を求める要望書」を出した。同市には歴史民俗資料館があるが、展示や保管のスペースが手狭になり、立地環境も悪いので、瓜連庁舎に移設してほしい、という内容だ。

さらに、瓜連出身の故岩上二郎氏が参議院議員時代に立法化した「公文書館法」があるにもかかわらず、同市は公文書館が未設置であり、歴史民俗資料館の移設と併せて公文書館の設置も求めている。

市では今後、パブコメで出た意見やまちづくり委員会などの要望をまとめた上で、改めて市の方針を示すようだが、住民感情を考慮せずに、経費削減などの財政的な理由だけで住民の日常の暮らしに直接関わる庁舎を取り壊すことになれば、行政運営上も今後に禍根を残すことになる。

まず、地区住民の声を聞き、今後どうするのかも一緒に考えていくなど、慎重な対応が求められよう。(元瓜連町長)

日本の法人税制は企業行動をゆがめていないか 《文京町便り》25

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】税制に求められる原則は、標準的な経済学では公平性と中立性(効率性)である。公平性とは、税制上同等(同じ所得)とみなされる人は納税でも同等に扱われるべき(同等の税額)であり、税制上異なる(異なる所得)とみなされる人は納税でも異なって扱われるべき(異なる税額)だ―というものである。前者は水平的公平で、後者は垂直的公平である。これはとりわけ所得税では、重要である。

中立性とは、租税制度の有無・濃淡によって、納税者の経済行動に変化が生じないことが望ましい、というものである。つまり、税制は、各経済主体のそれぞれの本来的に合理的・自由な活動が税制によって恣意的に左右されないように制度設計・運用されるべきだ―という意味である。経済活動の多くが法人によって担われていることからも、法人税ではこの原則は重要である。

この2大原則は政府税制調査会の答申『わが国税制の現状と課題』(中里実・会長、2023年5月)でも冒頭に謳(うた)われているが、実態を見ると、とりわけ中立性の原則については、運用面では違和感がある。

たとえば、国税庁保有行政記録情報の整備に関する有識者検討会(21年10月にスタートした、25年1月からの税務データの公開に向けた取り組み)における、国税庁保有行政記録情報を用いた税務大学校との共同研究である土居・別所・森「法人税申告書の個票データ(14~20年度)を用いた欠損法人等に関する実態分析」(https://bit.ly/NTCdp2)から探ってみよう。

この間(14~20年度)のわが国法人税の全体状況は、①資本金1億円以下の法人では法人所得0円(税制上欠損法人扱い)に集群(バンチング)している、②7年とも欠損法人は全法人(14年度259万、20年度277万)の37%、③7年とも利益法人は全法人の14%、④法人税500円超の法人は全法人の5%で、その10%弱が資本金1億円超法人で、その納税額は法人税額全体の95%、などである、⑤欠損法人割合は全法人では6割強で、資本金1億円以下の法人では6割強だが、資本金1億円超の法人では約25%である―。

企業活動を恣意的・不連続に左右

ここまでは概(おおむ)ね、これまでも指摘されていたことの再確認だが、この個票データ分析で明らかになったのは、(1)法人所得0円の法人の動向である。14年度では欠損法人167万のうち71万、20年度では欠損法人168万のうち63万で、全法人の25%に及んでいる。さまざま経済活動の結果、法人所得0円もありうるが、その割合が全法人の4分の1に及ぶのは、異常ではないか。

(2)税制上優遇措置となる資本金1億円に着目すれば、この間に資本金1億円以下に前年から減資した法人割合は、14年度は全法人4%、利益法人3%、欠損法人6%、外形標準課税法人4%だが、20年度は全法人5%、利益法人3%、欠損法人11%、外形標準課税法人6%、に増えている。この変化は、この間の経営悪化に伴う欠損法人化も影響しているが、10年代半ばの法人税改革で、資本金1億円超の法人への外形標準課税(事業税付加価値割・資本割)の拡大が、影響(租税回避)している可能性がある。

いずれにせよ、現行の法人税制は、企業活動に中立的というよりは、企業活動を恣意的・不連続に左右していると見るべきである。経済学の租税原則も、より実態に即したものでなくてはならない。(専修大学名誉教授)

次世代の担い手育成「里山体験プログラム」《宍塚の里山》110

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写真は筆者提供

【コラム・田上公恵】里山の保全活動においては後継者不足が大きな課題となっています。持続可能な里山保全を目指すために、当会では2022年度より、広く若者が参加できる「里山体験プログラム」を開始しました。3月の募集と同時に社会人や大学生に応募していただき、人気の企画となっております。

4月に開講式を行い、1年間当会に所属して、保全活動や環境教育、観察会などを体験しながら里山の意義と保全、資源循環、生物多様性、NPOの運営と意義などを学びます。そこに経験豊かな専門家集団がていねいに寄り添って指導に当たります。既定の単位を満たした場合、理事長名の修了証書を授与しており、22年度と23年度はそれぞれ5名の社会人、大学生、大学院生を受入れました。未来の担い手が少しずつ育っていることを大変うれしく思います。

参加者の満足度は高く、里山での体験活動を仕事に生かす社会人、筑波大学の体験活動の単位認定に取り組む学生―それぞれご自分の目標を目指して熱心に履修しています。プログラム生の中には自分の専門性を高めるために月例観察会の講師を希望した大学院生もいます。

人と人、自然と人がつながる場所

以下、1年間の体験を通して寄せられたプログラム生の感想です。

▽自然を体感できるところ、地域とのつながりや文化・歴史を学べるところ、様々な年代の方と関わり、詳しい資料配布などが非常にためになりました。

▽広いヤードがあり、様々なプログラムがあるところが非常によいと思います。

▽見つけた生き物や体験した作業について、詳しい方から解説をいただけることが多く、その場限りの体験ではなく、学びにつなげられるところがよかったです。

▽単に参加者として関わるのではなく里山の一員として活動に関われること、1人ひとりのやりたいことや得意なことを活動の中で実現してくださること―がよかったです。

▽体験プログラム参加者はみんな生き生きとしていて、お互いに助け合うこともあって、自然の中で多くの方々と関わりながら活動できたのがよかったです。

▽様々なプログラムを通して、多面的に里山を観察・体験できたことがよかったです。

▽特定のボランティアだけでなく、一般の方が参加できるプログラムが多く、活動を通して日常的に里山の意義をアピールできることはとても大切なことだと感じました。

▽以前よりも、里地里山という地に貢献したいと思うようになりました。

▽保全活動を継続して実施していくことの大変さをひしひしと感じています。

▽里山は、単に生き物がたくさんすんでいる自然というだけでなく、「人と人とがつながる場所」と思いました。

▽「人と自然がつながる場所」だと感じました。活動全体を通して、幼児からお年寄りまで、様々な世代が集って自然の恵みを感じる場所だなと感じました。(宍塚の自然と歴史の会 環境教育部)

問題のないところに問題を見つけること《遊民通信》83

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【コラム・田口哲郎】

前略

前回、日本社会に根を張っているいわゆるオールド・ボーイズ・ネットワークあるいはオールド・ボーイズ・クラブについて書きました(1月26日付)。同じ学歴、成功体験、失敗体験をもつ男性が結束力の強い集団をつくり、長い間、社会を支配してきた、という話です。その中で、女性は排除され、不当に差別を受けてきました。

しかし、このオールド・ボーイズ・ネットワークの構成員、つまりいわゆるエリート男性が意図的に抑圧を行ってきたのかというと、それはそうとも言えないということになりそうです。

たとえば、ある男性が高等教育を受けるまで受験戦争に勝ち抜き、大学を卒業し、大企業に就職、結婚をし専業主婦の妻と子どもと幸せな家庭を築き、そして定年を迎える、あるいは脱サラして起業をして大企業に育てあげる、あるいは議員に出馬して当選、自治体の首長や国務大臣を務めるまでになる、という人生を想定した場合に、その男性は、自分は置かれた環境で頑張ってきただけだ、大学の同窓、職場の仲間、選挙区の住民そして理想的な家族と共により良い社会をつくるために力を尽くしただけだ、と言うでしょう。

その信念や事実を否定することはできません。しかし、その「置かれた環境」自体がオールド・ボーイズ・ネットワークをつくり出している場合、そのネットワークに潜む問題には気付けないことが多いのではないでしょうか。

人間社会の基盤に潜む問題点

人間は集団をつくることで今まで生き延びてきました。厳しい自然環境に抵抗しながら、快適な文明生活をつくることは、近代社会が成し遂げてきたことで、そこにオールド・ボーイズ・ネットワークは深く関わっています。こうした人間が群れて生きるという基本的なことは、否定したら人間社会が成り立ちません。

かといって、基本なのだから、この基本は絶対に正しいので変えてはいけない、というのも危険です。基本は大切ですが、その基本が本質のように持っている問題点を見つけて解決してゆくことが、人類の進歩なのかもしれません。一見、問題のないところに問題を見つけることが求められているのでしょう。オールド・ボーイズ・ネットワークという言葉自体が生まれ、広く知られるようになったことは、そうした人類の進歩を表しているように思えます。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

今年も「さくらまつり2024」を開催します!《けんがくひろば》3

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さくらまつり=2022年4月2日(筆者提供)

【コラム・島田由美子】「けんがく」(つくば市研究学園)地区では毎年、地域の活動団体が連携して「けんがく さくらまつり」と「けんがく ハロウィン」の2大イベントを開催しています。今回は、開催を1カ月後に控えた「けんがく さくらまつり2024」をご紹介します。

「けんがく さくらまつり」のコンセプトは、“地域の文化祭&新歓祭”。けんがく地区の団体や住民の活動の紹介・発表の場であるとともに、春になって新しく移ってこられる方々をお迎えする交流の場です。2022年から開催しており、毎回200~300名の地域住民が来場されています。

多彩なアクティビティ

3回目の開催となる「けんがく さくらまつり2024」はバージョンアップし、12のアクティビティを楽しめます。一番のおすすめは毎年恒例の「さがせ!さくらエイト」。さくらまつりの会場となる研究学園駅前公園では2月下旬から4月下旬にかけて、河津桜、寒緋(カンヒ)桜、ソメイヨシノ、枝垂(しだ)れ桜、山桜、関山(カンザン)、普賢象(フゲンゾウ)、御衣黄(ギョイコウ)が順々に咲いていきます。

「さがせ!さくらエイト」では、その8種類の桜の木をスタンプラリーで巡ります。「けんがく パフォーマンス」で音楽やガマ口上、「けんがく ギャラリー」で絵や書を鑑賞した後は、スポーツチャンバラやグランドゴルフで体を動かせます。大きな桜の下では、昔あそびを楽しんだり、青空図書館の絵本をゆっくり眺めたりできます。公園北側の雑木林では玉入れ鬼ごっこや丸太切りなど、自然の中で思いっきり汗をかけます。

公園近くの中央消防署から消防士さんが駆けつけ、緊急車両展示や水消火器体験を催してくれます。そのほか、ゴミ拾いやフリーマーケット、ミニ縁日など、盛りだくさんですが、それぞれのアクティビティに参加すると押してもらえるスタンプを集めると、賞品を受け取れることができます(先着順)。

古くからの住民の思いをつなぐ

けんがく さくらまつりは、地域資源である千本桜にちなんで開催されます。千本桜はつくばエクスプレス(TX)が開通する以前から住まわれていた住民の方々が、“研究学園・葛城の発展繁栄を願って”2007年から12年をかけて植樹されてきたものです。

私たち主催者の「けんがくまちづくり実行委員会」は、さくらまつりで地域の様々な住民や活動団体が千本桜のようにつながることを祈っています。(けんがくまちづくり実行委員会代表 島田由美子)

<けんがくさくらまつり2024

▽日時:3月30日(土)午前11~午後3時(ゴミ拾いは午前10時から)

▽場所:研究学園駅前公園内 古民家(つくばスタイル館)他

▽主催:けんがくまちづくり実行委員会

▽荒天の場合は一部企画中止

千年の歳月に見たもの《写真だいすき》29

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あちこち崩れた仏像の部分(撮影は筆者)。この写真は本文とは関係ありません

【コラム・オダギ秀】心に残った撮影は、少なくない。古い仏像を撮ったことは多かったが、このときも、忘れ難かった。

小高い丘を登っていくと、林の中に、小さな堂宇(どうう)があった。のぞいてみると、中に、取り残されたような、全身傷ついた虚空蔵菩薩がおわした。堂宇の中には、厨子(ずし)もあったが、厨子にも入らず、いたるところシロアリに喰われ、持物を失い指も欠け、身体のあちこちが割れ、面貌も定かではなく、その像は流した悲しみの涙さえ乾いてしまったようであった。

どのような歴史を背負った寺院の本尊であったのか、その寺が、いつの時代に廃寺となったのか、明らかなものは残されていないという。しかし筑波山に連なる周辺の山中には、近くには名古刹(こさつ)もあり、山岳寺院らしき廃寺もあり、ここの虚空蔵菩薩像は平安時代後期の作と推定されているらしいから、集落の人々に護られながら、およそ一千年近い時を経てきたことになっていた。

虚空蔵菩薩は、妨げるものがない広大無辺の功徳で人々の願いをかなえてくれる菩薩だそうだ。だが、この菩薩の左手施無畏印(せむいいん)の指は欠け、右手に持っていたであろう宝珠(ほうじゅ)か剣も失われている。

全体にバランスのよい量感なのだが、整っていたであろう顔立ちの漆箔(しっぱく)は剥げ落ち、痛々しい表情も、はっきりとは見えなかった。そこここに深く入り込んだシロアリの食い後も目立った。剥ぎ目のズレにも心が痛んだ。そのような菩薩にすがってもいいものか、という気にさせられた。

憎悪も孤独も後悔も悲槍も…

坐していた千年近い歳月は、その長さだけで、この世の、憎悪も孤独も後悔も悲槍も、拭い去ってしまうのだろうか。虚空蔵さま、あなたは、今、時を経て何を思うのですか?

ボクは、流れる汗にまかせ、ボク自身の悲痛を、少し漏らした。すると、堂を覆うセミの声がひときわ激しくなった気がした。思わずボクが拭ったのは、汗なのか涙なのか、木立を抜ける風が、心なしか涼しくなった気がした。

あの撮影から、もう十数年が過ぎたろうか。あの菩薩にすがった人々の思いは、どこに残っているのだろうか。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

中国で見つけた魔法瓶の形《デザインを考える》5

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写真は筆者

【コラム・三橋俊雄】今回は、以前私が中国で出合った「魔法瓶の適正デザイン」についてお話しします。上の写真は、左から上海の友人が送ってくれた竹製の魔法瓶(中身本体はありません)、鉄製の魔法瓶、その次は上海の路上でおばあさんから譲り受けたアルミ製の魔法瓶、一番右は北京のデパートで購入したプラスチック製の魔法瓶です。

ここで言う「〇〇製」とは魔法瓶の外部構造のことです。内部はそれぞれ真空2重ガラスの容器が収まっており、魔法瓶の栓はすべてコルク製のものが用いられています。

穴だらけの鉄製魔法瓶 

鉄製の魔法瓶は、1986年に中国を初めて訪問した際、北京中央工芸美術学院の院長室で出合ったものと同じです。これは、私が中国で「ショック」を受けた二つのうちの一つでした。ちなみに、もう一つは、中国中南部・湖南省の駅ホームで見た、ズボンのお尻がぱっくり開いた(おむつ不要の)幼児用「股割れズボン」です。

なぜ鉄製の魔法瓶が穴だらけだったのでしょうか?

1980年代、中国では、この魔法瓶が日本で言う「役所の大きな黄色いヤカン」のように、多くの公の場で使われていたようです。当時は、工業製品として自転車が花形産業であり、そのチェーンに使うヒョウタン型の板金が大量に必要でした。そこで、製造工程ではそれを打ち抜いた後の端材が多く排出され、その端材を丸めてカバーとして利用したのが、この穴だらけの魔法瓶でした。

この魔法瓶は、上部もやはり板金を曲げて溶接しただけの簡素な作りであり、その上の小さな注ぎ口だけがプラスチック製でした。本体部分のガラス容器は、穴だらけの板金カバーの下部で、交差した2本の針金により固定されているだけでした。

適正技術・適正デザイン

これらの竹、鉄、アルミ、プラスチック製の魔法瓶を並べて気付いたことは、第1に、カバーの材質こそ異なっているものの、その大きさやプロポーション、取っ手の位置などは同様の形状をしていたということです。その理由は、「お湯を注ぎ」「保温し」「急須や茶碗に注ぐ」という、人と道具の関係が共通していたからでしょう。

第2に、魔法瓶の「使われ方」は共通しているものの、魔法瓶の外部構造に関しては、技術的発展に伴って、竹製、鉄製、アルミ製、プラスチック製のカバーが登場したように、その時代ごとに、中国が有する技術や生産方法によって作り出されてきたということです。

すなわち、これらの時代や地域に適合した魔法瓶の製造・デザインの在り方こそ、当該地域の自立的な発展につながる「適正技術・適正デザイン」であったと言えるのではないでしょうか。(ソーシャルデザイナー)

県に請求書送付を つくば市の高校通学費補助《吾妻カガミ》177

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茨城県庁(左)とつくば市役所

【コラム・坂本栄】つくば市は洞峰公園の維持管理を県から押し付けられましたが、県立高校問題では県の施策にはまりました。本来は県が負担してしかるべき費用を市の予算案に盛り込んだからです。この半年の間に、市民は知事の巧みさと市長の拙さを相次いで目撃したことになります。

遠距離通学に年間3万円補助

つくば市は2月1日に発表した来年度予算案に、土浦市、牛久市、常総市、下妻市など、遠距離の高校に通う生徒にバスや鉄道の通学費用を補助する予算を挿入しました。1億6152万円を計上し、通学に年間10万円以上かかる学生には年3万円を補助するという内容です。

この善政について、市は「急増する市内在住の高校通学者数と市内立地の高校定員数との不均衡により生じる遠距離通学負担に対して、経済的負担の軽減を図る」と説明しています。簡単に言うと、市内の県立高不足のために市外の高校に通学しなければならない学生の持ち出しを少し軽くする施策です。

つくば市は、高校生徒数と定員数の不均衡を解消する策として、市内に県立高を新設するよう県に要求してきました。しかし県は、県全体の少子化・人口減を理由に、県全体の傾向とは逆に人口が増えているつくば市での県立高新設にも消極的です。

そして、(A)市内にある既存県立高の学級増(高校経営予算の節約)、(B)近隣市の県立高への通学奨励(広域化による問題解決)―の2代替策で、高校新設を見送ろうとしています。

市長は新設実現を諦めたわけではないと言っていますが、遠距離通学補助によってTX沿線エリアに県立高を新設せよという声が弱まらないか心配です。

高校新設<既存高活用+広域通学圏

県の考え方(新設を渋る理由、代替策、高校教育の目玉)を整理すると、こういうことです。

▼少子化・人口減で県内の高校入学者は減っており、県立高は統合・廃止で減らす。

▼県全体の傾向とは逆のTX沿線についても県立高の新設は極力避ける。

▼これで生じる学生数と定員数の不均衡は既存高学級増と通学圏広域化で乗り切る。

▼上位の既存県立高については中高一貫併設によって学生のレベル・アップを図る。

県がこういった県立高経営の枠組みにこだわるのであれば、市が通学補助の窓口業務を代行するとしても、その費用は県に出してもらうべきです。県の仕掛け(B)に追随していると、県立高不足問題の解決は既存高学級増と通学圏広域化で進みます。

新設までの暫定措置として県ないし市が遠距離通学費を補助するにしても、上限が3万円では少な過ぎます。実際にかかる費用の3分の1以下ということですから。県に送る請求書は、少なくとも1億6152万円✕3=4億8456万円にする必要があるでしょう。

通学補助を大幅県に請求書送付

生徒数と定員数のミスマッチ解消は、人口が増えているTX沿線市の重要課題です。それなのに、県も市も目先の対策でごまかそうとしています。生徒に遠距離通学の時間的負担を強い、保護者には経済的負担を強いるのを放置し、微々たる通学補助金を出す「善政」で取り繕うとする市長も困ったものです。

市議会は来年度予算案を否決し、総額4億8456万円の修正案を出し直させ、県に同額の請求書を送らせる議案を決議すべきでしょう。研究学園市=高校過疎地では「世界に笑われるまち」TSUKUBAになってしまいます。(経済ジャーナリスト)

<参考>

▽記事「…市の新年度予算案 過去最大を…連続更新」(2024年2月1日掲載

▽コラム139「上り坂の市と下り坂の県のおはなし」(2022年8月15日掲載

▽コラム118「つくば学園都市は公立高の過疎地」(2021年10月18日掲載

「花火を聴く」 視覚障害者の花火鑑賞《見上げてごらん!》24

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第92回土浦全国花火競技大会ワイドスターマイン「土浦花火づくし」(実行委員会提供)

【コラム・小泉裕司】花火を季題とした風景や心象を描写した名句は数多い。人生や季節の移ろいを、儚(はかな)く消える花火に重ねるのだろうか。

盆などの慰霊行事であったことから、「初秋」の季語だったようだが、現代は納涼行事として「夏」が主流のよう。「遠花火(とおはなび)」も同様。たった3文字にもかかわらず、打ち上げ場所から遠く離れたところから「見る」花火への、切なさや愛(いと)おしさが心に沁(し)みる季語である。

花火鑑賞の多様性

昨年の土浦市議会第4回定例会では、「土浦全国花火競技大会時の障害がある方の観覧」についての一般質問に対する答弁で、佐藤亨産業経済部長は「花火会場で、視覚障害者に花火の魅力を感じてもらうことができた」という希有(けう)なエピソードを披露した。

大会当日の朝まで行くかどうか迷ったあげく、意を決し、会場を訪れた視覚障害のある男女2人は、打ち上げが始まるころには、桟敷席近くに到着することができたという。

杖(つえ)を持った2人に気付いた桟敷席担当の係員は、業務の傍ら、土手にたたずむ2人を気にかけていたそう。周知のとおり、打ち上げ終了後の道路は、超過密な状況と化し、視覚障害者には危険きわまりない。これを察知した係員は、土浦駅行きのシャトルバス停まで誘導し、無事帰路に着いたのこと。

2人は、花火の真下に来たことで、まぶたの奥に光を感じることができたという。音や振動を体感することや、音楽、場内アナウンスも聴くことができた。何よりも、観客と一緒に拍手をすることができたことに感動。「ここまで来て本当によかった。ありがとうございます」と涙を流し、花火を堪能した喜びを係員に伝えたそう。

この報告を聞いた部長は、障害者も花火の思い出をつくることができる、土浦の花火は様々な人たちに感動を与えることができることを実感したという。筆者も、土浦の花火ファンが、また2人、増えたことが実にうれしい。 一方で、本稿でこの話題を書くことに躊躇(ちゅうちょ)したのも事実。

つまり、主催者にとっては、来場者の安全を確保することが最優先の使命であって、身動きもままならぬ雑踏や道路面の不備も想定される中で、係員まで巻き込んだ身勝手な行動と非難されないか。

さらに、係員の対応は業務範囲を逸脱しているのではないかなど、大いに逡巡(しゅんじゅん)した。実行委員会は、会場から1.5キロ離れた安全な場所に「身障者用駐車場」を確保して、会場への誘導を勧めることはしていない。

しかしながら、今回の2人の行動によって、新たな気付きを得たことも事実。それは…「花火を聴く」。 

「花火の光を感じたい、心に響く音を聴きたい。こんな欲求を満たしてくれる環境づくりの必要性、誰ひとり取り残さないとの観点からも大切なことであり、これからもあらゆる面でみがきをかけて、多様な観客に楽しんでいただける大会づくりにまい進したい」と、部長答弁を括(くく)った。

まさに、安藤市長が標榜(ひょうぼう)するダイバーシティの考え方に沿った、崇高な精神である。

「亡き人を思い遠花火に耳澄ます」

このエピソードの対極にあるのが、Oi café 20「亡き人を思い遠花火に耳澄ます」(平野国美、常陽リビング、2017/8/19、6ページ)。

介護ベッド上で目を閉じ、遠くに響く土浦花火の音を聞きながら、母親代わりの亡き姉への郷愁、その姉と会話した花火への情念が動画のごとく流れる。訪問診療医で本サイトのコラムニストでもある平野氏ご本人から、以前に送っていただいたコラムを、読み返している。

「いつか一緒に、あの花火の真下で眺めたいねって話してたの。そのお姉ちゃんが行けないのに、今さら私だけ見に行くってわけにはいかないの」。昭和期の俳人鈴木真砂女の句が添えられていた。「死にし人 別れし人や 遠花火」

真下で体感するもよし、遠花火に耳澄ますもよし。本日は、この辺で「打ち留めー」。「ドドーン キラキラ!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

昭和にトリップできる郷愁の商店街《看取り医者は見た!》13

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写真は筆者

【コラム・平野国美】私は休日に商店街を歩くのが好きです。ショッピングとかでなく、ただ、何かあれば店に入ってみたり、古い純喫茶に入ってみたり―と。外国にはそれほど行ったことはありませが、自分も商店街育ちのせいなのか、日本の商店街が好きなのです。そこでは、その町の庶民文化を味わえますし、「昭和」にトリップができる気もするのです。

しかし、シャッター通り=歯が抜けたように消えていく商店街=が、最近では目立つどころか、ほとんどが消えていくのです。今、日本で活性化している商店街は、以前の数パーセントと言われています。最近では、シャッター通りは取り壊されたか、かつて商店街であったとは思えないような住宅街へと変わりつつあります。昔の「商店街」は博物館入りになるのでしょうか?

こういった痕跡を歩くのは、趣があって楽しいものです。先日、四国のある商店街を歩いていると、聞きなれない天地真理の歌がスピーカーから流れてきました。歌詞をスマホで調べると、「若葉のささやき」(1973年3月21日発売)という曲で、小学2年生だった50年前にトリップできました。

フランスなどの洗練された商店街も美しいのですが、どこか物足りなさを感じます。それは、文字表記がアルファベットということだけではありません。今、海外のしゃれた商店街と日本の猥雑(わいざつ)な商店街を比較すると、構造的にも文化的にも、日本らしさというものがいくつも見えてきます。

「町中華」「純喫茶」「レトロビル」

以下、私の「商店街」論です。昭和の人情商店街は消えていく運命なのか?についても、考えたいと思います。

残るものか?残らぬものなのか? それはわかりません。しかし数は減少していくでしょう。歩きながらその現実を見ると、消えていく運命なのだと思えてきます。一方で、「町中華」とか「純喫茶」とか「レトロビル」といった言葉が生まれてくる背景は何なのでしょうか?

商店街の見方、楽しみ方はいろいろあると思います。私は、その空間や形態に魅力を感じております。また、その発祥や由来など歴史的な流れに目を向けると、見えてくるものもあります。それがわかると、消えていく理由も見えてきます。

一方で、活気がある商店街の裏側を眺めることができたとき、「そういう商店街の存在の仕方もあるのだな」と感心するのです。上の写真は、私が好きなアーケード街(左、市場由来の那覇市の中央通り)、曲線が美しい商店街(右、瀬戸市の銀座通り)です。(訪問診療医師)

生きて、社会に抵抗せよ《電動車いすから見た景色》51

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】「生きるのは苦しい」。子どもの頃からずっと感じてきたが、なかなか表出できなかった言葉が堂々と書いてあることに、私は心底安堵(あんど)した。社会を変えたいと望みながら、本当の自分をさらけ出す勇気すらない私に、そっと寄り添ってくれるような言葉だ。

1995年生まれのライター、高島鈴さんの初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ―アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)。

高島さんは本書で、家父長制、異性愛規範、資本主義をはじめとする、弱い個人を追い詰める権力や差別を否定し、社会を変える働きかけ全てを「革命」と呼ぶ。「革命」と聞くと、行動力のある強い人がすることだと思いがちだが、著者によると、日常の中で自分を脅かすものに少しでも抵抗しながら生きることそのものがすでに革命への加担なのだ。

私は、世間のつくった「あるべき障害者像」を恨みながら、少しでもそれに近づこうとする自分が嫌いだ。窒息しそうなほど苦しいのに、誰かに褒められようと、笑顔で頑張る矛盾だらけの自分が大嫌いだ。そんな私に、「生きるのは苦しい」と断言しながら、それでも、たとえ布団から起き上がれなくても、今いる場所で生き延びることが「社会を変える力」だとする高島さんの言葉は響いた。

あなたという存在を伝えて

大げさなことはしなくてよい。家の近くの学校に、心地の良い服装で通う。ほしい情報を自分にとって分かりやすい方法で受け取る。周りから自分らしい名前で呼ばれる。愛し合った人と家族になる。そんな、あなたの望む生き方をすればいい。

しかし、この社会は、健常で、日本語が母語で、自分の性別に違和感がなく、異性愛で…、世間から見た「普通の人」しかいない前提でつくられている。そんな社会で自分という存在が無視されていると感じたときは、ほんの少し勇気を出して、この社会であなたという人間が生きていることを周囲に伝えてほしい。

伝える手段は何でもよい。具体的な行動をするエネルギーがないなら、今を生き延びるだけでいい。生きていれば、誰かがあなたの存在に気づくかもしれない。でも、あなたが死んだら、何も伝わらない。

社会は呆(あき)れるほどゆっくりとしか変わらない。それでも、誰かに生きづらさを押しつける社会を変えたくて、私は文章を書き続ける。私の言葉が小さな波紋となり、会ったこともないあなたと共鳴し合いながら、いつか社会を変える巨大な渦に合流することを願う。(障害当事者)

筑波学園病院内の「レストラン サンテ」《ご飯は世界を救う》60

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】サーロインステーキを初めて描きました。今まで、サーロインステーキって数えるほどしか食してないです。息子3人のお腹を、どうやって安価で栄養あるもので満腹にさせるか―こればっかり考えていました。そして、どうにかでっかくなりました。

筑波学園病院(つくば市上横場)にはめったに行かないですが、今回は連れ合いが整形外科を受診。かつては息子がはやり病とかで色々お世話になりました。でも、院内の「レストラン サンテ」は横目で見ても、毎回バタバタとスルーでした。それで、前々から一度入ってみたいと思っていました。今回ちょっと勇気。

病院ですから、優しい感じの麺類や和食かと思っていたら、サーロインステーキが「おすすめ」となっていて…。なんだか不思議ですよね。サーロインステーキが病院レストランのお勧め? お値段も超お得! それで、描くことに。いえ、食べることに。

病気でなくても、また行きたい

それが、食べつけない、つまり経験値が低いものは、描きにくいことが判明。育児後、まぁ、食べられれば食べたのですが、食べ慣れたものばかり食べるって、ありますよね。それに、上手に焼けないし…。

結構、描くのに苦戦です。お手軽価格の、とてもおいしいこのステーキ。もっと、おいしそうに描きたかったなぁ~。病気でなくても、また行きたいレストランです。

色々な方がランチなさっていました。病院のスタッフさん風の方。車いすでお連れの方に食べさせてもらっている方。多分、皆さん病院にご飯だけ食べに来ているのではないでしょう。

ご飯を食べないと生きていけない。そのたった1回の食事でさえ、長く診察の順番を待って、やっと終わって、結果がどうであれ、とにかくご飯を食べることができる。そんな何でもなさそうなことが、貴重で幸せなのではないかしら。

その一食が「おいしい!!」となったら、最高。サンテさん、これからも幸せな時間をつくってくださいね。(イラストレーター)

◆「レストラン サンテ」は2月19日から内装工事に入り、3月21日再開予定です。

「人生100年時代」というけれど…《ハチドリ暮らし》34

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畑のレタスに霜がかかっています

【コラム・山口京子】「人生100年時代」ということは、老後の時間が延びるということ、すると、体力や気力はどうなるのか? 長寿にどう心構えをするのか、しないまま歳を重ねてしまうのか…。

80歳まで生きるとは予想していなかった母。自身の母を自分が4歳のころに亡くしており、母親の顔は覚えていないと言います。母が35歳のとき、父親は65歳で亡くなりました。父が亡くなった年を超えたとき、感無量だったと言います。60代から80代前半までは旅行と趣味で日々忙しく、先のことは頭になかったと。

その母が90歳になったころ、「こんなに長生きするなら、お金のことをちゃんと考えておくべきだった」と言うのです。現在の日本では90歳以上の人が200万人を超え、その7割は要介護認定を受けているそうです。年齢を重ねるほど個人差が大きいように思われますが、やはり誰もが老いていきます。

母の老いを見ていると、85歳で体力がガクンと落ち、要支援1に認定され、90歳でガクガクガクンと落ち、要支援2と認定されました。1人暮らしで食事作りもままなりません。

私たち子どもが、月に数回、買い出しや病院通いのために実家に帰省していました。その後、カゼを引き体調を崩してから、呼び出される回数が増えます。体調が悪く、気持ちも落ち込んでいるときは「もう1人暮らしは無理だから施設に入ろうかな」と言い、体調が良くなれば「まだまだ1人暮らしを頑張れる」と気持ちが揺れます。

干し柿、うな丼、チョコレート

鼻が利かない母は、自分が漏らしているおしっこの臭いに気付きません。ですが、私たちからすると強烈な臭いです。加えて大便を漏らすようにもなりました。自分で箸をつかってご飯を食べることはできるけれど、調理や片付けは難しくなっています。1人でお風呂に入ることはできません。洗濯をすることも難しくなっています。

腰の痛みが尋常ではないと言うので、整形外科で診察していただきました。このままでは寝たきりになると言われました。施設入所を考えケアマネジャーさんに相談すると、入所に不本意な母に対して「今は寒い時期だから施設に入ろう。暖かくなったら家に戻ればいいよね」と言葉がけ。

母も納得し、施設に入ることにしました。施設に入る前の夜、干し柿、うな丼、チョコレートを食べ切りました。「長生きなんかしたくない」と言いつつ、不調があれば医者通い…。長生きとその代償との折り合いをどう付ければよいのでしょう。(消費生活アドバイザー)

明菜と聖子が市長選挙に出たら? 《映画探偵団》73

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】「中森明菜と松田聖子がつくば市長選挙に出たら、どちらが選ばれるだろうか?」と考えた。2月4日、ホテルグランド東雲で開催した『新春つくこい祭ツアー/80年代の中森明菜を舞い歌う』第1景の本番中だった。

明菜の80年代のヒット曲に合わせ、フラメンコと日本舞踊を次々に披露。参加者の手拍子、足拍子、掛け声でグングン盛り上がった。圧巻は『二人静』の曲によるフラメンコと日本舞踊の競演。扇を短刀に見立て、2人がグサッと刺すしぐさにはどよめきが起きた。

第2景であいさつに立った来賓は「見ていて、青春時代を思い出し涙ウルウルになりました。現在では娘がカラオケで歌っています」と話されていた。明菜再ブ一ムが起きていると知ってはいたが、眼前の40代以上の女性の反応を見て、本当にそうなのだなと実感させられた。

80年代の明菜の曲とつくばの歴史を重ねた構成(映画探偵団72)を理解していただけるか心配だったが、第2景の民謡版『少女A』が終わったあと、長年つくばで暮らす人がわざわざ私のところにいらして、構成が良いとほめてくれた。どうやら分かってくれたようだ。

今回のイベントで明菜のことを調べると、明菜より2年前の80年にデビューし同時期に活躍した松田聖子の存在が浮き上がってきた。

何人かの女性に明菜と聖子のことを尋ねると、皆熱心に2人のことを語ってくれた。髪型、衣装、振付などにこだわりセルフプロデュースする明菜を支持する派とぶりっ子と揶揄されながらも海外での飛躍をめざしていた上昇志向の聖子支持派に分かれる。また、2人とも大好きだという女性も多くいた。

薬師丸ひろ子と原田知世は?

2024年2月はつくば史にとって特別な月になる。2月1日、洞峰公園が茨城県から無償譲渡された。2月12日には、つくばセンタービルに市民センターと消費生活センターと市国際交流協会が入った「コリドイオ」(イタリア語で回廊の意味)がオ一プンするからだ。

明菜派、聖子派がどんな反応を示すか興味がある。洞峰公園を無視しコリドイオのことを語るのか? コリドイオよりも洞峰公園の維持管理に関心を示すのか? 2つの出来事を分けて考えるのか? だが2つの場所は都市の中心軸として一つにつながっている。別のものではない。

つくばセンタービルができた年、筒井康隆原作、大林宣彦監督、原田知世主演の角川映画『時をかける少女』(1983)が公開された。未来から植物採集にやって来た若者に女子高校生が恋をしてしまうというお話。未来人は念波を用い関係者の記憶を書き換える。

この年、先に角川映画でデビューしていた薬師丸ひろ子と原田知世のアイドル競争が始まった。音楽業界の明菜と聖子、映画業界の薬師丸ひろ子と原田知世の活躍も同時期だったのだ。また明菜は角川映画のファンでアルバムを作っている。

今秋にはつくば市長選挙を控えている。鍵を握るのは80年代に明菜と聖子の歌声で育った女性たち、ひろ子と知世の映画を見ていた女性たちである。 だからであろうか、2人が市長選に出たら、どっちが勝つかなどと不埒(ふらち)な妄想が湧いてしまったのだろう。

次のイベントも80年代の女性を対象にするつもりである。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

茨城の干し芋 最近の話題《邑から日本を見る》153

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干し芋づくりの体験

【コラム・先﨑千尋】茨城県の冬の風物詩は干し芋。と言っても、県南や県西地区の人はあまり関係ないと思っているかもしれない。私が県北地区に住んでいるからそう思うのだろうか。

誰にも好かれるその干し芋。全国の干し芋の産出額(生産額)は2021年のデータで130億円(1万910トン)。うち茨城が129億円。先進地だった静岡県などすべてを足しても1億円にすぎないのだから、ダントツ、独壇場だ。

その茨城の中でも、ひたちなか市、東海村、那珂市で90%を占める。他では、鉾田市、茨城町、那珂市などで生産量が多い。

干し芋は県内や首都圏などでは知られていても、全国レベルでの知名度は高くない。そこで県は1月10日を「ほしいもの日」と制定し、認知度の向上をめざすことにした。この日にしたのは、芋という字が草冠(くさかんむり)の下に一と十が入っているからだそうだ。

そうした県の動きに合わせて、干し芋加工業者の中にも新たな試みが見られる。そのうちの一つに、ひたちなか市阿字ヶ浦町のマルヒがある。同社ではこの1月から、「あなただけの特別な干し芋を作りませんか(MAKE HOSIIMO  YOURSELF)と消費者に呼びかけ、干し芋の手づくり体験ができる施設を作った。

会場は同社が海水浴シーズンに営業しているビーチガーデンの一室で、同社専務の黒澤一欽さんが、最初に干し芋の歴史や作り方を映像で紹介する。その後、エプロンや手袋、帽子などの作業着を身に着けてもらい、作業にとりかかる。

体験では、あらかじめ蒸しておいた約2キロのサツマイモを使う。イモの種類は、古くからある「玉豊」か、人気の高い「べにはるか」で、体験者が事前に選んでおく。作業は、ナイフでイモの皮をむき、スライサーを通して薄く切り、用意されたすだれに並べる。

すだれに並べたサツマイモは同社で預かり、1週間ほど天日で干し、完成した干し芋を体験者の名前が入ったパックに袋詰めし、届けられる。体験できるのは、1月から4月までの金・土曜日。申込者は県内や首都圏の干し芋が好きな人が多く、大阪からも来ている。

干し芋の皮で焼酎造り

マルヒのもう一つの話題は、蒸したサツマイモの皮や、大きくなりすぎて干し芋に適さないサツマイモなど、干し芋の製造工程でこれまで捨てられてきた残渣(ざんさ)を利用して3種類の焼酎を製造し、販売を始めたことだ。

干し芋の残渣を利用した焼酎

大量に出る干し芋の皮の処分は、放置しておくとクサくなり、これまで生産者の頭痛のタネだった。焼酎は3種類ともサツマイモの甘い香りが楽しめ、品種やサツマイモの状態の違いから生じる味の差を感じ取るのも楽しみの一つだ。

干し芋焼酎はこれまでにもひたちなか農協(現常陸農協)の「へのかっぱ」などがあるが、残渣を利用しての焼酎づくりは、干し芋産地の課題解決の新たな手法として注目されよう。

黒澤専務は2009年にスタートした「ほしいも学校」の最初からのメンバーだ。ほしいも学校のコンセプトは、コミュニケーション、商品開発、教育、広報、農業、志気。干し芋の体験教室や残渣を利用した焼酎造りは、ほしいも学校の目指す方向に沿った活動と言える。拍手を送りたい。(元瓜連町長)

◆問い合わせ先は㈱マルヒ(電話0120-028056)

せっかちでやせ我慢《続・平熱日記》151

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】小さい頃からずっと冬はこたつのある家だった。しかし、この冬はこたつを出したものの入らないでいる。始めは節約を心がけて寒さが厳しくなったらいずれは入ろうと思っていたのだが、羽毛布団に潜り込んでテレビを見たりしているうちに、とうとうこたつなしで年を越してしまった。

よく家族に「せっかち」だと言われる。確かに行列が大嫌いだし、請求書の類いはとにかく早く払ってしまいたい。しかしこれが私の気質なのかというと、意外に教育されたものでないかと最近思うようになった。

思えば、小学校の頃から体操服に着替えるのも計算ドリルも教室の移動も、とにかく手早くやるように言われ続けた。のろまで愚図(ぐず)は悪であるかのように教育されたのだ。

それと同じように教え込まれたのが「やせ我慢」。特に、寒さに対してのやせ我慢は善とされた。冷たい水で雑巾がけ。休み時間は校庭をぐるぐる走らされ、「子供は風の子、元気な子」作戦。乾布摩擦なんて今では見かけなくなったが、このような心頭滅却型のやせ我慢教育は少なからず私の身に沁みついている。

だが、そろそろやせ我慢も限界。毎月の光熱費の請求額にびくびくしながら暮らすのもうんざりだ。

貧乏性の男の春はまだ遠い

多分歳のせいか、こたつは我慢できても風呂には入りたい。以前は冬に2~3日風呂に入らなくとも平気だったのに、この頃は風呂に入って温まりたいと思うようになった。ちなみに、去年は節約チャレンジャーのつもりで真冬でもシャワーで済ませていたが、今年は考え直した。

毎日銭湯に行くことを考えれば、また冷えた体のまま風邪を引いたり免疫力が落ちることを考えれば、熱い風呂に入った方が結局安く上がるというものだ。さらばやせ我慢! どうせなら、少し熱めの湯に入浴剤などを入れて温泉気分を楽しむことにしよう。ここはせっかちな性分を封印して、ゆっくりと湯につかる。身も心も温まって、体の冷えも疲れも取れた気がする。

スーパーでは半額で買えるペットボトル飲料をコンビニで平気で買うのに、1円でも安いガソリンスタンドを探してしまう。歯磨き粉は親の仇(かたき)でもあるかのように最後まで絞り出すくせに、普段の買い物はどんぶり勘定である。全く何をケチっていくら節約しているというのか。

というか、そもそも1人暮らしなのがよくない。自分1人のために風呂に湯を張るのはもったいないという話だ。だから、今日も夕方になると風呂に入ろうかどうしようかと悩む。よし、今日は寒いし風呂に入ろう。たまった洗濯をするのに、残り湯を使うから。言い訳がましいのも歳を取ったせいか。

暮れに指をけがしたことで、洗い物にゴム手袋をするようになった。まさにけがの功名というか、毎年悩まされていた親指のぱっくり割れもないし、お湯を使わなくて済むのが何よりうれしい。せっかちでやせ我慢の上に貧乏性の男の春はまだ遠い。(画家)