【コラム・山口京子】消費者の1人として、日々、何かを購入して生活をしているわけですが、消費者という言葉がストンと落ちないというか、違和感を覚えながら、消費者という言葉を使っています。消費生活アドバイザーの資格を取りましたが、なかなか資格名に慣れません。

この社会に生まれると、物心つかないうちから消費者として登場させられます。子どもの関心を引く商品やサービスの開発が止めどない光景を見ていると、正直、怖くなります。人はどこに向かうのかしらと。

自分は消費者の1人であるけれど、同時に働く人であり、働くことを通じてお金を得て、そのお金を使って消費活動をしている。でも、働く場を失ったら、お金の源泉を失ったら、人はどうやって生きていくのかしら…。60歳を過ぎたあたりから、そんなことを思うようになりました。

自分が子どものころ、農村に生まれたためか、畑と田んぼを耕して、家族の食べる分くらいはつくっていました。また市場(いちば)出しもしていた記憶があります。すでに現金がないと生活はできませんでしたが、今ほどに何でもお金で買う生活ではありませんでした。

1950年ごろ、第1次産業従事者は50%ぐらいはいたのではないでしょうか。わが家の祖父母は専業農家でした。父はトラック運転者になり、農業は三ちゃん農業(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)。祖父母が働けなくなると、田んぼは他人に頼むようになっていきました。

「相続土地国庫帰属法」という制度

高度経済成長期は、日本農業の衰退期と重なっているように思えます。経済成長と第1次産業の充実は両立できなかったのでしょうか。広がり続ける耕作放棄地は、他人事ではありません。頼んで耕作してもらっている田んぼを返されたら、私は途方に暮れるばかりです。

農村の閉鎖的で男尊女卑的な環境を嫌って、東京に出てきました。今は茨城に住んでいますが、実家をどうするのか頭が痛い問題です。来年4月、「相続土地国庫帰属法」が施行されます。相続人が相続により望まずに取得した土地を国が引き取る制度です。国にお金を払って引き取ってもらうもので、土地の条件などがこれからはっきりしていくのでしょう。

その制度を利用するか、だれかが有効活用してくれることを願って呼びかけてみるのか。本当なら、自分の食べる分くらいは作る生活が望ましいのだろうとは思うのですが…。庭の一角を耕して畑にしています。大根と白菜の苗を植え替えました。人参の苗も育っています。(消費生活アドバイザー)