水曜日, 9月 9, 2026
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県勢20年ぶりの4強入り 土浦日大 名参謀の丸林直樹コーチに聞く

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甲子園期間中の練習会場にて。(左から)慶應義塾の森林監督、土浦日大の小菅監督、丸林コーチ(丸林直樹コーチ提供)

6日から23日まで甲子園球場で開催された全国高校野球選手権記念大会で、土浦日大が茨城県勢として20年ぶりとなる4強入りを果たした。まずは土浦日大の甲子園の軌跡を1戦ずつをたどる。

6日の開会式直後に行われた1回戦は、上田西(長野)との開幕戦を延長タイブレークの末に8対3で制した。同点に追いつかれた4回裏など、記録に残らない守備のミスがあり、4番の大黒柱・香取蒼太が熱中症で途中棄権するなど、終始肝を冷やす試合展開だったが、タイブレークに入ったことが吉と出た。春の県大会決勝(対常総学院)と関東大会1回戦(対健大高崎)ではタイブレークを経て敗れたことからその攻略法を5月から6月にかけて徹底的に追求していた。息つく暇もなく試合が急展開するタイブレークは先攻が有利。先に点を積み重ねて相手を意気消沈させることに成功した土浦日大は見事に37年ぶりの夏1勝を挙げた。

2回戦の九州国際大付(福岡)は茨城大会で調子が上がらなかった小森勇凛に先発マウンドを託した。ストレートの制球が定まらず春に見せた本来の球威とはほど遠いものの、スライダーを高低に投げ分け5回まで無失点で切り抜けた。クーリングタイムを挟んで6回からは伊藤彩斗が、8回からは藤本士生と3投手の完封リレーで危なげなく完勝。同校として初となる甲子園2勝を挙げた。

3回戦の相手は竜ケ崎一、藤代、常総学院で監督を務め取手市在住の持丸修一監督が率いる専大松戸(千葉)だった。土浦日大の小菅勲監督が取手二時代に薫陶を受けた故・木内幸男さんとは、持丸監督も生前公私にわたり交流があり、常総学院の監督を引き継いだ間柄であることで「木内チルドレン対決」と見出しが打たれた。また両校が隣県でありJR常磐線で結ばれていることから「常磐線ダービー」や「チバラキ決戦」などと話題となった。試合は3回表を終わって土浦日大が6点ビハインドの大敗もあり得る展開であったが、3番目に登板した藤本が相手打線を完璧に封じると、打線が単打を積み重ね終わってみれば10対6の逆転勝利を収めた。本県勢の8強入りは2016年の常総学院以来9回目。

準々決勝は春の東北大会で今夏準優勝の仙台育英を抑え優勝した八戸学院光星(青森)。強力打線が武器の相手だけに、もうさすがに次は無理だろうと茨城の高校野球ファンのほとんどが大敗を予想したのではないか。しかしここでも土浦日大打線が爆発し、洗平(あらいだい)、岡本の2年生両エースをノックアウトしてしまった。9回には松田陽斗のバックスクリーン弾のおまけ付きである。9対2と大差の勝利を誰が予想できただろうか。本県勢の4強入りは常総学院が優勝した2003年以来20年ぶり5回目。紙面には「快進撃」の文字が躍った。ひょっとしたらひょっとする。

準決勝は日頃から練習試合で交流しているという慶應義塾とであったが、相手エース・小宅の内外のコースビタビタに決まるボールを捉え切れずに自慢の粘り強い打線が沈黙。0対2で敗れ、土浦日大の長い夏は8月21日をもって終わった。

3回戦(専修大松戸戦)のウイニングボールを丸林コーチ(手前右)にプレゼントする好走塁した松田選手(同)

甲子園で勝つためのチーム作りが結実

7月に掲載した土浦日大の小菅勲監督のインタビュー記事(7月9日付)はご覧いただいただろうか。小菅監督にとって2017年に土浦日大を率いて初めて出場した甲子園で松商学園に初戦で敗れたことが大きなターニングポイントだったという。県内を勝ち抜くことを目標にしていたのではいつまで経っても甲子園では勝てないことを痛感し、甲子園で勝つためのチームを作ろうと固く決意した。

甲子園で躍進したこの世代は中学時代のスカウティングの段階から「甲子園に行こう」ではなく「甲子園で勝とう」という志を持って土浦日大に集まってきたメンバーだ。小菅監督は目標設定や選手のスカウティング、練習の取り組みなど、ありとあらゆることを見直した。中でも食事内容やウェートトレーニングの頻度や強度にはこだわり、専門のスタッフを置きフィジカルの強化に力を入れた。こうして取り組んできた甲子園で勝つためのチーム作りが37年ぶりの初戦突破に止まらず県勢20年ぶりの4強入りという新たな歴史を刻んだ。

「一戦必勝で精一杯臨んだ結果」 丸林コーチ

小菅監督が伊奈高校の監督を務めていた頃から小菅監督の右腕として支えてきた丸林直樹コーチに今回の大躍進や今後のことについて聞いた。

次ページに続く

伝説の小さな堂宇の物語《写真だいすき》23

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写真は筆者

【コラム・オダギ秀】様々な取材は、長い歳月や人生を感じさせることが多かった。これもそのひとつ。伝説の小さな堂宇(どうう)を訪ねた話だ。

人家が途切れてしばらく、車は山あいの道を登りつづけた。そこは、笠間市から栃木県に抜ける旧い道で、登り詰めた県境の峠を「仏の山峠」と言う。撮影の日は暦の上ではもう秋であったが、照りつける日差しはまだ夏そのもので、車を降りると汗が吹き出ていた。降り注ぐセミの声が、ひときわ高く聞こえていた。

どれほど昔の話だろうか。この峠に、追い剥ぎをする男がいたと言う。男は、峠を越して行く旅人を鉄砲で射っては金品を奪って暮らしていた。男には、美しい娘が一人いた。娘は、父親の悪業を止めさせようと心を痛めながらいさめていた。だが男は、娘の言うことに耳を貸すことはなかった。罪のない旅人を襲い続けるのだった。

ある日、峠の松の木に登って獲物を見張る男は、笠を深くかぶり、道を急ぐ旅の女を見つけた。男はとっさに火縄銃で狙うと、女を射った。手応えに小躍りして走り寄り、血に染まった旅人の顔を見ると、それは父の悪業を止めさせようと、旅人に扮(ふん)して射たれ、命を断った己の娘なのだった。

娘のしかばねを抱いて初めて自分の罪を悟った男は、追い剥ぎを止め、峠道の東西にふたつの小堂を建て、娘と己が命を奪った旅人たちの冥福を、その堂で祈った。朝は朝日の射す堂に、夕は夕日の射す堂に、出家した男の読経の声が、日がな一日響いたという。

仏の山峠には、今も付近の住民らによって守られている朝日堂、夕日堂が、ひっそりとたたずんでいる。

訳ありげな父娘の顛末

一説によると、男は伝えられるような悪人ではなく、甲斐武田の武士であって、権力に苦しむ農民に同情して武士を捨て、ここに土着したのだとも言う。いずれにしても仏堂は、幾百年もの長い間、周辺の集落の人々によって守り伝えられてきた。

今はひっきりなしに車が行き交う峠にたたずむ二宇の小堂は、古びてはいるがきれいに拭き掃きされている。山深く肩寄せて潜み暮らしていた、いかにも訳ありげな父娘の顛末(てんまつ)が、人々の哀れを誘ってきたからなのだろうか。堂裏にまわると、山ユリが数輪、何かを物語るかのように咲いていた。

この取材から数年の後、峠の麓の住所の、男の姓と同じ姓の若い女性が私のスタジオのアシスタントになった。この伝説を彼女は知っているのだろうが、ボクは、彼女には話していない。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

「君死にたまふことなかれ」《ひょうたんの眼》60

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8月下旬の稲穂=土浦市内

【コラム・高橋恵一】戦後78年の8月が過ぎようとしている。広島、長崎、8月15日の戦没者慰霊、先の大戦の悲惨さ、愚かさがメディアで取り上げられ、戦争体験者からは、二度と戦争はしてはいけないと重い言葉が繰り返される。一方で、ロシアのウクライナ侵略が長引き、それにかこつけて、日本を取り巻く安全保障環境の深刻さが喧伝(けんでん)され、岸田首相はG7において、軍事費をGDPの2%(つまり世界第4位の軍事費大国)にすると宣言してしまった。

自分勝手な理由をかかげて、いきなりウクライナを侵略したプーチンのロシア軍の行動は、破壊力の拡大した兵器による殺し合いが繰り返され、学校も病院も住宅も商業施設も橋も道路も駅舎も破壊されている。民間人の生活の場が襲われ、略奪、婦女暴行、虐殺が当然のように行われている。

ロシアの行為は、満州事変や日中戦争、太平洋戦争での旧日本軍の行為に重なって仕方がない。戦後78年の報道では、関東軍など日本陸軍の甘い見通しの下、中国に対する前線を拡大し、現地軍先行のため、武器弾薬や食糧の補給も不足している状況下で、集落を襲い、戦闘員でない住民に対しても、略奪、婦女暴行、虐殺が行われ、恐ろしい南京大虐殺にまで至ってしまった。

日本軍の人命軽視、人権無視は、敵兵、敵国民だけでなく、自国の兵士、自国民も対象となり、日本軍の行為は、ナチスドイツとともに、近代人類史上最悪の軍事行為だったと言えるだろう。今、ロシアのプーチンが指揮している。

戦争の罪悪はここに極まる

日本は、「玉砕」「散華」などの理不尽な死を美化するような言葉を使い、日本人兵士や在留邦人までも切り捨てたのだ。悪名高い戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」で縛り、全滅させたのだ。サイパンも、硫黄島も、沖縄も、艦砲射撃が始まる前に降伏し、島民と兵士の安全を確保すべきだったのだ。自分が自決した後も、最後の一兵まで抵抗しろなどと指示して、米兵まで含めて、犠牲者を増やした司令官は、英雄とは程遠い、罪人だ。

日本の歴史の中では、敗軍の将は、自分の命と引き換えに、残兵と住民の命を保障させたものだ。まして、守備兵が住民をシェルターから追い出し、集団自決を迫ったりするなど考えられない。

「君死にたまふことなかれ」。旅順攻撃に出征中の弟に語る、与謝野晶子の詩だが、武器をとって敵を殺すことも否定している。戦争体験者の証言の中に、極めて少ないのだが、自分が無抵抗の捕虜を処刑したり、スパイの嫌疑で民間人を殺害したことを後悔する証言もある。ほとんど、上官の強制による殺害だが、80年以上トラウマを抱えたままで、多くの元兵士は家族にも言えず、いわゆる「墓場まで持って行く」のだろう。

同じような体験話は、元米兵にもあり、深く重い心の傷である。戦争の罪悪は、ここに極まるのだと思う。先の大戦で身も心も傷ついた日本人が、次の時間の生き方として、77年前にたどり着いた結論は、日本国憲法である。際限ない防衛力の強化よりも、実現可能な目標だと思う。(地図好きの土浦人)        

水戸市で農をテーマにした美術展 《邑から日本を見る》142

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「土とともに美術にみる〈農〉の世界」展

【コラム・先崎千尋】茨城県は全国有数の農業県。農業産出額は全国第3位だ。メロンやレンコン、白菜、ミズナ、栗などは全国一の生産量を誇っている。美術作品には昔から、農作業をする人々の姿が描かれてきた。19世紀のヨーロッパでは、現実をありのままに描く自然主義芸術のモチーフとして、また産業革命後には、都会人を癒す風景として田園や農民がクローズアップされた。画家たちは、とりわけ働く農婦の姿に労働の尊さと健康的な美を見出し、描く対象としてきた。一方で、農村における貧困や農民運動などの問題をテーマとする画家たちも登場する。

水戸市にある県近代美術館には、農業にまつわる作品や作家が多い。そこで企画されたのが「土とともに美術にみる〈農〉の世界」。命と食に直結する農をめぐる作品を5つのジャンルに分け、多彩な農のイメージが紹介されている。これまで、国内では農をテーマとした美術展はあまり開かれてこなかったので、農に関わる人にとっては格別の展覧会だ。

会場に入るとすぐにミレーの「落ち穂拾い」や「種をまく人」が目に飛び込んでくる。第1章は「田園風景の発見 フランスと日本」。「種をまく人」は岩波書店のロゴマークとして知られている。ピサロの「立ち話」、ミレー、ゴッホの「座る農婦」など、眼前の自然をありのままに描く風景画が並ぶ。農作業や家事・育児に励む女性たちの健康美とともに、勤労の尊さを伝えている。画家たちは筆を持って郊外に出かけ、働く農民を描いた。

一方、明治期に洋画を学んだ浅井忠らは、西欧の写実的な技法を学び、自国の自然と農村風景に目を向けていった。ここには浅井の「農家室内」「藁屋根」などが展示され、失われたこの時代の農村の風景を見ることができる。

「わが愛しき農村」「畑のマリア」

第2章は「ふるさとへの想い わが愛しき農村」。大正期以降の日本絵画に現れた故郷への愛着が感じられる。ここで圧倒的なのは小川芋銭。展示されている「畑のお化け」や「霞ケ浦」「春野」などで、芋銭のほのぼのとした理想郷としての農村風景が見られる。芋銭は牛久沼のほとりで農業に従事しながら制作を続け、河童の絵を得意とした。「芋銭」という号は、描いた絵で芋を買えるくらいになればという意味を持つ。

第3章「畑のマリア モデルとしての農婦と子」に続く第4章は「現実と抵抗と はたらく農民への共感」。農民の厳しい現実に関心と共感を寄せた作家たちの作品が取り上げられている。

明治以降、農村では地主層が台頭するのに伴い、地主と小作人が衝突する小作争議が各地で頻発した。第1次世界大戦後に小作争議はピークを迎える。戦後は食糧難や農村の貧困が社会問題となった。昭和の戦前期、鈴木賢二、上野誠らは農民をモデルにした彫刻や木版画を発表した。

戦後、農地改革により地主層は消滅したが、高率の税負担や米軍基地拡張による農地接収などのひずみは、各地で再び激しい農民運動を引き起こした。茨城、栃木では、農民の厳しい現実に共感した作家たちが社会問題を版画で伝え、市民に版画を広める「戦後版画運動」が盛んだった。この章では、鈴木、上野の作品の他、新居広治、飯野農夫也、滝平二郎らの作品が並び、農村の貧困を問うている。飯野の作品には、長塚節の「土」を演劇にした時のポスターと長塚の肖像画も含まれている。

終章は「アートの土壌としての農」。現代を生きるアーティストたちと農との関係がテーマ。種苗農家に生まれた草間彌生は、畑の植物や種子をモチーフに絵画の上で永遠の生命のテーマを奏でる。常陸大宮市でコメを作りながら油絵を描く野沢二郎、守谷市で有機農業をしながら版画を制作する大森薫子は、大地に息づく植物や動物の生命感を作品に反映させている。彼らのアトリエは田畑に囲まれ、まさに「土」とともにある。

本作品展は、水戸市千波町東久保の県立近代美術館で来月2日まで開かれている。(元瓜連町長)

様々な交通事情:米国での1980年代の経験《文京町便り》19

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は米国での交通・運転事情の体験を語ってみたい。とはいえ、ある特定の地域・時期にことであり、あくまでも私の個人的な感想である。

マイカーを実質的に運転し始めたのは、1980年代初頭、米カリフォルニア州だった。1960年代末期に、日本(地元茨城県)で免許証は取得していたが、東京の生活では、自分で車を運転する必要もなかった。したがって、渡米直前、陸運局に国際運転免許証(かなり大判)を申請し、それを持参したわけである。

入国後2~3カ月して、中古車(後に現地では欠陥車と判明)を安価で手に入れ、キャンパスのかいわいを利用していた。

たまたま郊外に出向くことがあり、パトカーに呼び止められた。そこで警察官(カリフォルニア州)に、日本から持参した国際免許証を見せたのだが、彼はこれを自分は知らないという。国際免許証には、これを承認している外国政府名が記載されていて(そのためにかさばっているわけだが)、当然、米連邦政府もその1カ国である。

しかし、この警察官は、自分はカリフォルニア州の法律に基づいて職務を執行しているのであって、米連邦政府の指示には従う必要はない、という。とはいえ、今回は車線侵入ミス程度なので警告だけにとどめておくと温情措置。

そこで私は、カリフォルニア州の運転免許証を取得するべく、試験会場に赴いた。筆記は、当時は英語以外にも複数の言語(スペイン語、日本語など)が選択でき、私は、試験問題の日本語訳に疑問はあったものの、日本語を選択した。記入済みの解答シートを受け付けに戻せば、30分後に結果が判明。

実技は、私のマイカーに試験監督者が乗り込み、近くの回遊ルートを15分ぐらい周回するというもの。そもそも、この運転免許申請者がどうやって(どのような手段で)ここにやってきたかは、問わない。

要するに、この試験は落とすための試験ではなく、最低限の交通ルールと運転操作マナーをクリアしているかどうかのチェックなのである。できるだけ多くの希望者に、ライセンスを授与することが趣旨だったのである。

希望者にはできるだけ免許証を交付

米国では、大都市以外では鉄道・地下鉄などのネットワークが限定されている関係で、スーパーおよびマイカーは、米国民の日常生活の基本中の基本であり、それなしでは夜も日も明けない。

そのために、できるだけ多くの希望者に運転免許を与え、かつ、ガソリン価格を安価に維持し、利用者にストレスを感じさせないパーキング構造を確保する。初心者でも、運転技能の低下している高齢者であっても、運転操作・駐停車できるようにしておくことが大前提になる。

そうした運転環境になじんでしまったせいか、私は現在でも、スペースに制約のある日本のコンビニなどでの駐車が苦手である。

そのことを、先般の高齢者講習で一緒になった他の受験者にポロっと語ったところ、それじゃ、日常生活で困っちゃうじゃないかと指摘され、だから自分はコンビニにはマイカーでは行かない、と返した。日本では、潤沢な駐車スペースの確保は望めないが、最近の車はカメラ機能が向上しているおかげで、こうした制約は解消されているかもしれない。(専修大学名誉教授)

まつりつくば 4年ぶり開催 ねぶたや山車が競演

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つくば駅近くの土浦学園線を埋め尽くしたねぶたや山車のパレード=26日午後5時50分ごろ

つくば市最大の祭り「まつりつくば」(つくば市など主催)が26日、4年ぶりに開催された。つくば駅近くの土浦学園線には午後5時半過ぎ、11基のねぶたが登場し「ラッセーラッセーラッセーラ」の掛け声と共に通りをパレードした。27日までの2日間、つくば駅周辺の土浦学園線やつくばセンター広場、中央公園、竹園公園などを会場に、みこしや山車のパレードのほか、ダンスフェスティバル、大道芸フェスティバルなどがにぎやかに催される。

土浦学園線の沿道はねぶたや山車が登場すると、大勢の市民が集まった。友人と見に来た近くに住む会社員、木村葉子さん(37)は「4年ぶりに祭りの活気が戻ってきてすごくうれしい」と話した。1年前に三重県からみどりの駅近くに引っ越してきて家族で初めてまつりつくばを見物したという会社員男性(42)は「思ったより祭りの規模が大きくて楽しい」と語った。

沿道近くに迫る大ねぶた=土浦学園線

正午から大道芸フェスティバルが催された中央公園前の通りでは、2日間で中国雑技芸術団など15の団体や個人が芸を披露するほか、筑波山ガマ口上保存会のメンバーががまの油口上を演じ、人だかりが出来た。

同フェスティバルを運営するアートタウンつくば実行委員長の大和田直紀さんは「つくばはサイエンスシティと言われるが、江戸時代に始まった元祖大道芸のがまの油口上があり、大道芸の聖地。まつりつくばといえば、ねぶたのパレードに人気が集まるが、アートタウンにも注目して欲しい。今年は4年ぶりの開催となり、暑い中、たくさんの人が訪れてくれたことに感謝したい」と話した。

人だかりが出来た「筑波山ガマ口上保存会」のメンバーによるがまの油口上=市中央図書館前

市によると、4年前の2019年は2日間で47万人が訪れた。今年は天気も良く、4年前と同じぐらいになりそうだと予測している。

つくば市の26日の最高気温は33度を記録し、かき氷や飲み物を販売する屋台はどこも行列が出来た。一方、午後3時までに熱中症などによる救急車の出動は無かったという。

まつりつくばは1981年に市民有志により大清水公園で始まり、今年でちょうど40回目。会場はつくば駅を中心に、つくばセンター広場、大清水公園、中央公園、竹園公園などに拡大し、実施されてきた。新型コロナの感染拡大で2020年から3年連続中止となった。昨年は研究学園駅周辺で計画されたが、今年は会場をつくば駅周辺に戻した。

屋台が並び大勢の人でひしめく会場

夏休みの熱中書集め 土浦の「寺子屋」で作品展

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観峰賞の坂入柚羽さん=寺子屋亀楽

夏休みの終わりに修練の成果集めて―。土浦市中央の古民家「寺子屋亀楽」で26日、1日限りの書道展が開かれた。同所でお習字の「おおせき教室」を開く大関まことさんが、日本習字教育財団主催のたなばた競書展に出品した生徒たちの作品を展示した。

教室で学ぶ生徒は、小学生を中心に成人を含む約60人。会場には1人1点、「新星発見」や「夏の太陽」など画仙紙半切サイズに墨書された60点の作品が並べられた。同財団の創立者、原田観峰にちなむ観峰賞をはじめ、金賞、銀賞の審査結果が張り出された。

「亀楽」は江戸時代末期の学者、沼尻墨僊(1775~1856)が開いた寺子屋のあった一画の古民家を改装して、地元のまちづくり団体が運営する。同市内2カ所で習字教室を開いていた大関さんが、同所に一本化して教室を開設したのが2019年。競書展には毎年出品しているが観峰賞に15点も選ばれたのは初めてという。

寺子屋での教室開設直後に新型コロナの感染拡大があり、運営面で苦労もあったが、「大人しく落ち着いて取り組む書道は継続しやすかったのかもしれない。小学校低学年の子どもたちが辞めずにがんばって6年生まで続けてくれた。その子たちが観峰賞をとってくれた」と大関さん。

その中のひとり、坂入柚羽さん(都和小6年)は会場入りして初めて受賞を知った。「とってもうれしい。新星発見の発の字の払いがうまく書けたと思う」とほほ笑んだ。学校から出された習字を含め、夏休みの宿題はほとんど完了、「今年の夏休みはお祭りにも行けたし楽しかった」そうだ。

観峰賞の宮本碧流さん(左)と金賞の神乃々華さん

金賞の神乃々華(じん・ののか)さん(市立東小4年)は、日焼けした体操着姿で会場入り。作品は7月中に仕上げ、今夏は室内のお習字ばかりでなく、室外のプールで思い切り泳いだそう。「水泳は日大幼稚園で始めて今妹が通っている。その土浦日大が甲子園で大活躍。うれしいこといっぱいの夏休みになった」という。(相澤冬樹)

「里山の暮らし」で学んだこと《宍塚の里山》104

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「里山の暮らし」(左)と「続・里山の暮らし」の表紙

【コラム・阿部きよ子】NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では会発足当時から、宍塚とその周辺の地元の方々から、高度成長期以前の暮らしの様子をお聞きして記録し、2冊の本にまとめました。今回はその中から、山林の利用、特に松の利用について紹介します。

松は肥料分のない土でも岩の間でも育つ木です。菌根菌(きんこんきん)と共生しているおかげだそうです。松が多いということは、痩せた土を意味します。江戸時代の地層の花粉分析では松の花粉が最も多いのですが、縄文時代の地層からは松花粉は出ていません。人々が里山の木、草、落ち葉などを利用した中で、土が痩せ、松に適する土壌に変化したのでしょう。

松は昔の農業と暮らしに欠かせない木でした。大木は頑丈な建築用材として切り出されました。山で切って運び出すのに牛を使った話も聞きました。私たちの会が修築した「百年亭」では、11メートル長さの梁(はり)と床材は松が使われています。宍塚のある旧家で1間(1.8メートル)幅の板戸を拝見したことがありますが、この板が取れる松は一体どんな太さだったのかとびっくりしました。

私がこの里山を歩きはじめた1970年代、「松葉とるべからず」とかかれた木札を見かけたことがありました。松葉は燃料にするほか、野菜の苗床の材料として不可欠なものだったそうです。

松葉を集めたら縄を3本横に並べた上に茅(ススキ)を敷き、集めた松葉を乗せて丸めて束ねます。それが1把(わ)。6把で1駄(だ=馬に乗せる荷物の単位、米俵だと2表が1駄)。家族数に応じて、1年分60駄とか、決まった量を木小屋に蓄えていたそうです。冬に落ち葉かきをしやすいように、8月下旬から下草刈りをし、枝下ろしもして、運び出していました。その結果、当時の松林は遠くまで見通せて、はだしで歩けたそうです。

根は油気が多く、火力の強い燃料となったので、伐採された松の根株も使われました。松の根を掘り起こす「ぼくぶち」の権利を山主から買った人たちは、根本の回りを掘って、横むきの根を1本残し、そこに藤蔓(つる)の縄をかけてぐるぐる回し、下に向かう棒根を抜き取ったそうです。一株の根っこで薪5、6把の量になりました。

今後の里山の在り方を探る

この伐根方法を、里山に通う法政大の学生たちが、地元のお年寄りから実地で教えていただき、休耕畑の開墾をしたことがありました。松林はきのこの宝庫で、特に若い松林に生えるハツタケは多くの人たちに好まれました。実生の3年目くらいの松は正月の門松にちょうどよく、東京の花屋に出荷した人もいたそうです。

1970年代後半に松枯れが広がり、林の景観は変わりました。里山の木は昔のように個々の住民の暮らしに不可欠なものではなくなりましたが、CO₂の削減、酸素の供給、水の保持、多様な生き物をはぐくむなど、万人にとって重要な役割を持つようになってきました。昔を振り返りつつ、今後の里山の在り方を探っていきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

ようこそ、無人島へ《短いおはなし》18

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写真は筆者

【ノベル・伊東葎花】

妻と2人で、無人島へ行く。

無人島だけど清潔なコテージがあり、冷暖房完備。冷蔵庫には必要な食材がある。

つまり、リゾート用に整備された無人島だ。

予約客は、1ツアー1組のみ。

島の存在は、ごく一部にしか知られていない。だから誰にも言わずに行く。

クルーザーで島に着いた。

美しい島だ。夜は星がきれいだろう。

「わあ、素敵なコテージ」

「明日まで、この島すべてが僕たちの物だ」

妻の肩を抱いてコテージのドアを開けた。

誰もいないはずなのに、物音がする。

中に入ると、僕たちと同じ世代の男女が、ソファーに座っている。

「誰だ?」

振り向いた男女は慌ててソファーから降りて、床に頭をこすりつけた。

「すみません。今日予約が入っていたのをすっかり忘れていました。すぐ出て行きます」

「どういうことだ?」

「実はこの家は、私たち夫婦の家です」

「ここは無人島だろう?」

「住んでいるのは私達だけです。この家の掃除や管理をしています」

「無人島じゃないなら、詐欺じゃないか」

「ですから、お客様が来る日は林の中の洞窟で寝泊まりしています。そういう約束で金をもらっているので、ツアー会社にはどうか内密に」

「わかったよ。さっさと出て行け」

「はい」と立ち上がった途端、女がフラフラと倒れた。

「すみません。ジメジメした洞窟暮らしで、すっかり病んでしまって」

女は青い顔で立ち上がった。さすがにちょっと胸が痛む。

「あなた。可哀想よ。泊めてあげたら」

妻が言った。確かにこのまま夫婦を追い出したら後味が悪い。

僕たちの邪魔をしないことを条件に、夫婦を泊めることにした。

夫婦は物音を立てず、僕たちの視界に入らないように気配を消した。それでいて、タオルやドリンクがさりげなく用意されている。有能な執事を雇った気分だ。

夕暮れ、海から戻ると、豪華なディナーが用意されていた。

テーブルには、夫婦からのメモがある。

『差し出がましいとは思いますが、泊めていただいたお礼です』

テーブルに並ぶ料理に、妻は大喜びだ。高級なワインも用意されている。

「後片付けもやってくれるかしら」

「やらせればいいさ。泊めてやったんだ」

僕たちは、いい気分で無人島の夜を楽しむ…はずだった。

目覚めると、もう陽が高い。いつの間にか眠っていたのだ。

ワインを2杯飲んだところで記憶が消えている。

「あなた、私たちの荷物がないわ。クルーザーの鍵もない」

「あいつらだ」

昨日の夫婦を探したが、どこにもいない。

急いで林の中の洞窟に行った。

生活していた後はあるが、夫婦はいなかった。

「あなた、手紙があるわ」

『次の管理人、お願いします。大丈夫。あなたたちのような、マヌケで親切な夫婦が来るまでの辛抱です。グッドラック』

やられた…。

(作家)

高校生4人、課題解決型インターンシップに挑戦 企業のSDGsを研究

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スライドでグラフを示しながら調査結果を発表する土浦日大高校1年のマレクさん(中央)

 

高校生を対象とした「課題解決型インターンシップ」が今夏、関彰商事(本社筑西市・つくば市)で実施され、23日、つくば市二の宮のつくば本社で成果報告会が催された。インターン生として参加したのは土浦日大高校1年のマレク・ラワハ・マナミさん、下館一高1年の富田にこさん、同2年の内山ひかりさん、茗溪学園高校1年の設楽桃さんの4人。報告会では集計したSDGsに関するアンケート結果の報告が行われたほか、同社の SDGsの取り組みを紹介するパンフレットの構成案が披露された。

課題解決型インターンシップは一般的なインターンシップの就労体験とは異なり、インターン生自身がテーマを設定し、受け入れ先でプロジェクトに加わり研究活動を行う。インターン生4人はSDGsを研究テーマに選び、同社は学生への情報発信に課題を感じていたことからインターン生に向けて「中学生に向けたSDGsのパンフレットを作成する」という課題を提示した。

7月から8月にかけて社員らとミーティングを重ねながら、在籍する高校や卒業した中学校の生徒を対象に県内の様々な企業の認知度やSDGsへの意識に関するアンケートを実施。また同社のオフィスや店舗を見学し、どのようなSDGsの取り組みを行っているかを調査した。

成果報告会ではアンケート結果を分析してまとめたスライドを示し、中高生の意識について分かったことを関正樹社長や社員らの前で発表し、質問に答えた。読み手となる中学生の意識を踏まえて考えたパンフレット案も披露。同社のカーボンニュートラルやダイバーシティ、スポーツを通じた地域活性化の取り組みなどを分かりやすく記載し、親しみやすいよう設楽さんが描いたイラストを添えた。今後、案をもとに同社で完成版を作って印刷し、中学生に配布する予定だという。

今回のインターンシップは、4月に開催された教育イベント「成蹊教育フォーラムinつくば」に参加したマレクさんが、登壇した関社長に「海外大学への進学を考えており、自己の成長につながる課題解決型のインターンシップを受けるにはどうしたらよいか」と相談したことがきっかけで実現した。近隣の高校に声掛けを行い、3校から4人の生徒がインターン生として参加した。

大学で経済学を学びたいというマレクさんは「参加したみんな違っていろんなスキルがあって、協力し合うことができた。このような経験ができ、この経験を生かしていけたら」と参加の感想を述べた。内山さんは「これまで1人で活動することが多かったが、年齢関係なく他の人の意見を聞くことはいいなと思った。SDGsへの理解が深まった」と話し、他者との協働から得た学びについて強調した。

関社長(中央)と、授与された修了証書を手にする高校生ら。左から富田にこさん、マレク・ラワハ・マナミさん、関社長、設楽桃さん、内山ひかりさん

同社では今後も高校生を対象にしたインターンシップを続けていきたいとしている。関社長は「(今回の報告会のように)大人だけでなく誰でも自由に意見を言い合える場所が必要。会社のあるべき姿であり、こういう場が将来日常になっていくだろう」と話し、一人一人にインターンシップの修了証書を手渡した。(田中めぐみ)

甲子園決勝 エンジョイ・ベースボール 《遊民通信》71

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【コラム・田口哲郎】

前略

夏の全国高校野球選手権大会の決勝に神奈川県代表の慶應義塾高校が進出し、昨年の優勝校である宮城県代表の仙台育英高校と対戦し、8対2で優勝しました。慶應義塾高校にとっては、実に107年ぶりの優勝ということになります。この年月の長さが高校野球の歴史を物語っていると言えるでしょう。最初に慶應高校が優勝したのは、1916年(大正5年)の第2回大会、旧制中学の慶應普通部時代です。高校野球黎明(れいめい)期で、学校がいまほど多くなく、野球をすること自体が先進的だったころです。

全国の旧制中学だった高校に通っていた出身者は母校の歴史を眺めたときに、母校が高校野球の全国大会の初期に出場していたことを見つけた人も多いのではないでしょうか。私の出身校の宮城県仙台第二高校も旧制二中時代、1925年(大正14年)に出場しています。初期の全国大会にはこうして全国の旧制中学、私立中学が名を連ねていました。

でも、いまはいわゆる強豪校が常連となっていて、初期に出場していた学校が甲子園にゆくことはほとんどないようです。そうした事情を思うと、慶應高校が103年ぶりに甲子園で決勝戦に進んだことには感慨深いものがあります。

あくまで勝ちにこだわる闘志こそ

慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」というモットーも話題になっています。慶應の生徒がプレーしている様子をテレビで見ていると、笑顔が絶えず、和気あいあいとしているので、野球を「楽しむ」ことなのかと思います。

それはそうなのですが、それだけではなさそうです。『三田評論』という慶應義塾内の広報誌にエンジョイ・ベースボールの記事がありました。この言葉は慶應大学の野球部で脈々と受けつがれてきたもので、それを高校でも監督前田祐吉氏が本格的に使い始めたのだそうです。

モットーの起源は明治43年にさかのぼります。慶應野球部が2人の大リーガーを神戸に招いて合宿を行い、日本人が理論的、系統的に野球戦術を学んだ最初とされる出来事に由来するそうです(「【From Keio Museums】Enjoy Baseballの原点」)。チームワークとしての野球を考え、創意工夫をして、試合では「どこよりも闘争的に勝ちを求める」ことにより、それでこそ味わえるBaseballの楽しみこそがエンジョイ・ベースボールの真意なのだそうです。

ここには鬼気迫る真剣さがにじみでています。慶應の生徒たちの笑顔のうらにあるだろう、どの対戦相手にも負けない闘志、勝利の渇望が、楽しそうに見える不思議。この姿勢はなにも慶應の生徒だけが見せるものではないでしょう。これこそが、日本人が長らく高校球児に見てきた、青春の汗とかがやきなのかも知れません。

草々

(散歩好きの文明批評家)

いよいよ小屋暮らし【続・平熱日記】140

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絵は筆者 140

【コラム・斉藤裕之】寝るところと小さな流しと少し広めの机。できれば朝起きてから寝るまで気持ちの良い、春から冬までを楽しめる風景があること。話をする人が身近にいること。そんなところに住みたい。それはいったいどこだろう?と考えていた。

夏を故郷の山口で過ごす。生まれ育った市街の実家はもう売ってしまって今はもうないが、車で30分ばかり山に入ったところに弟の家がある。カナダでログハウスを作っていた弟は長女を連れて帰国した後、故郷に戻り地元の大工さんに弟子入りする。そして四半世紀ほど前、ここに土地を求め山を切り開いて家を建てた。やがてふたりの娘は巣立ち、今は夫婦2人暮らしだ。

夏が来るたびに私も2人の娘を連れてここにきて、よく海に連れて行ったりしたものだ。なにしろ山も海もあるしお金をかけずに遊べる。薪(まき)で沸かす風呂に娘たちがみんなで入ったり、バーベキューをしたり。夏でも夜は少し寒いくらいに涼しく、エアコンは要らない。しかし月日が経って、今やここに帰って来るのは私ひとりとなった。

仲のよい弟夫妻は趣味趣向が私と合っている。生活のリズムや休日の過ごし方、食べるもの、身の回りの物の趣味や経済観念など。

とりあえず今はやりの二拠点生活

先日弟夫妻が我が家にやって来た。茨城で私の知人の家を建てたりしたのを機に友人にも恵まれ、今回も地元のお祭りの日に宴を設けて楽しい夜を過ごしたりした。短い滞在ではあったけど、娘達のことや自分達の行く末などを話しているうちに、ごく自然とある結論にたどり着いた。

それは弟の敷地に私の小屋を建てること。幸い弟の家は広い敷地の中にあって、私が望むほどのささやかな小屋は十分に建つ。飯は一緒に食べればいいし、別棟の風呂は拝借することにする。余談だが、今の風呂をそろそろ作り直したいというので、庭に転がっている五右衛門風呂の釜を使って、この際風呂を新調しようということにもなった。

そして、とりあえずは今はやりの二拠点生活。その先のことは、またその都度考えればいいということで。

昔住んでいた浦和の別所沼公園に小屋が建っていたのを思い出した。とても気になるそのモダンな小屋は、詩人であり建築家の立原道造の「ヒアシンスハウス」。記憶はおぼろげにしかないのだが、寝るところと机と…、必要最小限のとても心地の良い空間だったような…。

弟の作業小屋には、解体現場から引き取ってきた古材や建具がストックされている。使えるものは使って建てる安価で質素な小屋。アスファルトの上より自然の中を散歩するのが大好きな犬の「パク」もきっと気に入るはずだ。(画家)

土浦日大 決勝進出ならず

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祈るような表情でスクリーンを見つめる生徒たち=土浦市小松ケ丘の土浦日大高校

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は21日、準決勝の第2試合で県代表の土浦日大が慶応(神奈川)と対戦。0-2で敗れ、県勢として20年ぶりの決勝進出は果たせなかった。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら261人が試合の行方を見守った。

土浦日大の誇る強力打線が、この日は最後まで爆発力を欠き、慶応の先発・小宅雅己を打ちあぐねた。特に、ひざ元のきわどいコースに決まる直球やカットボールに翻弄(ほんろう)された。

土浦日大の先発は準々決勝に続き伊藤彩斗。立ち上がりからいきなり無死二・三塁のピンチを背負うが、続く3人を打ち取って事なきを得る。しかし2回は安打と送りバントで2死二塁とされ、小宅の右中間への二塁打で先制を許す。これが小宅をさらに乗せてしまった。

3回にも慶応の先頭打者に安打を許し、送りバントと進塁打で2死三塁。土浦日大はここで2人目の藤本士生をマウンドへ送り、ピンチを切り抜けた。4回はこの試合唯一の3者凡退を奪ったが、5回以降は毎回先頭打者を出し、ランナーを背負う展開が続いた。

6回は先頭打者が左翼フェンス直撃の二塁打。送りバントで1死三塁とされ、次打者の大村昊澄には一度スクイズを失敗させるものの、高めに抜けたチェンジアップを右前に運ばれる。慶応は試合の流れを引き寄せる大きな1点を手にした。

土浦日大も2回と5回以外は毎回走者を出しながら、なかなか得点圏まで進塁できない。7回は初めて2死三塁のチャンスを作るが、6番・鈴木大和は内野フライに倒れた。8回は代打・飯田将生の内野安打と1番・中本佳吾の右前打で2死一・二塁とするが、2番・太刀川幸輝はレフトフライ。あと一打が出ないまま試合終了を迎えた。

「60周年に心が震えるほどの感動」

土浦日大高校のPV会場で一喜一憂する生徒や保護者、教職員らの様子をビデオカメラに収めていたのは、放送部の小島優也さん(2年)と田中瑞姫さん(2年)。この夏の野球部の活躍をドキュメンタリー作品にまとめ、10月のホームカミングデーのイベントで上映する予定だ。「8回表の中本くんのヒットや、8回裏の塚原さんのファウルフライキャッチでは会場が大きく沸き、とてもいい雰囲気だった。みんなのはらはらした表情や落ち込んだ様子など、日常では見られない緊迫感ある表情がたくさん撮れた」と話す。

赤松浩二副校長は「勝負の世界は厳しいが十分に誇れる内容。本当にいい試合だった。本校の創立60周年にこのような機会が持て、心が震えるほどの感動を与えてもらった。野球部が戻ったときは、ぜひ感動をありがとうという気持ちで迎えてほしい」と、会場に語りかけた。(池田充雄)

酷暑日に核廃絶と核抑止について考えた《吾妻カガミ》165

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霞ケ浦総合公園のハスの花「紹興紅蓮」

【コラム・坂本栄】先のG7広島サミットで、首脳たちは平和記念資料館を訪れて核被爆の悲惨さを見聞きし、核廃絶の必要性を痛感したはずです。それなのに、採択された声明では核兵器が持つ戦争抑止力を正当化しました。8月前半の新聞には、首脳たちの矛盾を指摘する記事も見られ、資料館訪問をお膳立てしながら声明の案文を作成した岸田政権も批判されていました。

核廃絶か?核抑止か? 核保有国、非保有国を問わず、首脳たちとっては頭の痛い問題であり、国際政治学者たちにとっても議論が尽きないテーマです。8月6日、広島での平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「1945年夏の時点で日本が原爆を保有し、米国に対する核抑止力が効いていたら、原爆の投下はなかっただろうか?」と思い巡らしました。

米の原爆開発と理研/京大の研究

当時日本でも、理化学研究所(陸軍の命令と予算、中心は仁科芳雄博士)と京都大学核物理学研究室(海軍の命令と予算、中心は荒勝文策博士)が原爆開発を進めていました。しかし、いずれも研究の域を出ず、豊富な予算と人材を投入した米国の原爆開発(マンハッタン計画)にはとても及びませんでした。

完成した原爆を実戦で使うかどうか、米首脳は悩んだようです。しかし、その破壊力を日本に実感させて降伏に持ち込み地上戦を避けたい(米軍兵士の損耗回避)、巨額の開発費を使った原爆の力を実戦で確認してみたい(開発兵器の実証誘惑)、大戦後に主要な敵となるソ連の諸活動を抑制できる(冷戦想定の政略戦略)―などを総合判断、使用を決断したと伝えられています。

もし日本の原爆開発が実用レベルに達し、その情報が米首脳に届いていたら、不使用論「日本による核報復の可能性」が使用論「米軍兵士の損耗回避」「開発兵器の実証誘惑」「冷戦想定の政略戦略」を抑え、原爆投下をためらっていたかもしれません。

ウクライナに核が残っていたら?

現在進行中のロシアのウクライナ侵略でも、ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた核兵器をウクライナが継承・管理していれば、ロシアは核報復を恐れて侵攻しなかっただろうとの指摘があります。対ロシア核抑止力が効いたはずとの見方です。

ロシア・ウクライナ戦の現実は、G7を中心とする通常兵器の支援もあり、志気が高いウクライナ軍がロシア軍を押し返し、慌てたロシアは隣国ベラルーシに戦場で使う戦術核を配備し、ウクライナをけん制するという妙な展開になっています。いずれやってくる停戦交渉をにらんだカードなのでしょう。

核廃絶と核抑止は厄介な問題です。日本の場合、抑止力として米国の核の傘が差し掛けられています。しかし、78年前のように冷徹な判断を下す米国のこと、この枠組みが不変と考えない方がよいでしょう。岸田さんは「核被爆の悲惨さ確認」と「核抑止力の正当化」をセットで演出しましたが、そのケタ外れの破壊力を再確認して帰った首脳もいたかもしれません。(経済ジャーナリスト、戦史研究者)

筑波大学医学群発 「花火の力」療法《見上げてごらん!》17

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子どもたちが描いた絵と花火(つくばけやきっず提供)。左から「虹はなび」「カエル」「花畑」「流れ星」

【コラム・小泉裕司】千紫万紅(せんしばんこう)のごとく夜空を彩る打ち上げ花火は、見上げる人の心に「感動」や「癒やし」をもたらしてくれる。この「セラピー効果」は、「花火の力」そのものではないか。

筑波大生が学園祭で花火企画

今回は、筑波大学「雙峰祭(そうほうさい)」の花火イベント、第11回「ゆめ花火」を企画運営する同大医学群学生団体「つくばけやきっず」(構成員38人)の活動を紹介しよう。

「ゆめ花火」は2011年、同大医学系学生サークル「賢謙楽学」と「花火研究会」が共同して、同大付属病院で病気と闘う子どもたちを励まそうと、雙峰祭の後夜祭で花火を打ち上げたのが始まり。同病院小児科で闘病中の子どもたちの活動支援を行う「けやきっず」がこの活動を引継ぎ、今日に至る。

今年は、11月8日午後8時30分から、大学構内「虹の広場」で打ち上げ、観覧場所は後夜祭会場の「石の広場」。「ゆめ花火」60発、ミュージックスターマイン200発を計画している。子供たちには会場内特別ブースで楽しんでもらうという。

子どもたちの描いた絵を花火に

花火の形は、子どもたちが思い思いに描いた絵を夜空に再現するというもので、いわゆる「型物花火」といわれる種類の花火。大きさは4号玉(直径12センチ)を使用するとのこと。

第1回から花火づくりを担当する山﨑煙火製造所(つくば市、山﨑智弘社長)の花火師さんは、原画をできるだけ忠実に再現できるよう熟練の技術を傾注するとのこと。型物花火の難しさは、観客側から意図した形が見えるかがポイント。ひとつのデザインに3発使用するのはそのためだろう。子どもたちが大好きな曲に乗せて打ち上げる工夫も欠かせないという。

花火を見た子どもたちのアンケートには「絵が本物の花火になって最高の思い出だった」「辛い闘病生活だったけど花火を見てまた明日から頑張れる」「涙が出るほど感動した」などと。ご家族からは「娘にも私にも勇気を与えてくれた」などの感想が届いている。

現在、小児科病棟や外来で「絵集め」の真っ最中で、全てをどうにか花火として打ち上げたい!と思わせてくれるものばかりだそうだ。

闘病中の子どもに夢と希望を

「ゆめ花火」にかかる費用は、クラウドファンディング「闘病に励む子どもたちに、笑顔と希望の「ゆめ花火」を!」で募っている。筆者も応じてはいるが、昨今の火薬類や諸経費の価格高騰に対応するためには、募集終了日まで残り15日。あともう一踏ん張りというところ。

代表の穗戸田勇一さん(34)=医学類5年=は「第1回を『花火研究会』側で始めた自分が、今度は『つくばけやきっず』側で再び携わることにも感動している。今年はコロナの落ち着きもあって、たくさんの絵が集まっている。子どもたちに夢と希望を与えられるよう、最後まで精一杯駆け抜けるつもり。皆さんのご支援を心からお願いしたい」と話す。

穗戸田さんは、「花火プロデューサー」として、県内外の花火大会の企画運営にも携わるなど八面六臂(ろっぴ)の忙しい毎日を送る。

30年ほど前、3歳の娘が白血病で入院。脊髄注射など小さな体にはかわいそうすぎて目を背けたくなる辛い治療の3年間を、無菌室で過ごした。打たれ弱い筆者は、明日が見えない不安を抱きながら、下を向いて歩く日々が続いた。

「ゆめ花火」発案者の穗戸田さんが、30年前にワープしてくれていたら、「花火の力」療法で、少しでも前を向くことができていたのかもしれない! ちなみに娘は、医療スタッフのご尽力で寛解に至り、元気でいてくれるのが何より。本日は、この辺で「打ち止めー」。「ドン ドーン!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

土浦日大 地域の期待背負いベスト4

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選手の好プレーに沸く土浦日大高校のパブリックビューイング会場=土浦市小松ケ丘

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は19日、準々決勝の第2試合で県代表の土浦日大が八戸学院光星(青森)と対戦。9-2で勝利し、準決勝に駒を進めた。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら約70人が勝利の喜びに沸いた。

土浦日大の快進撃が止まらない。まずは3回、相手投手の乱れを見逃さなかった。2四球と送りバントで2死一・二塁から3番 後藤陽人の中前打で1点を先制。死球で満塁とした後、5番 松田陽斗の中前打で2点を加えた。八戸学院光星は4回と5回に内野ゴロで1点ずつを挙げ、じりじりと追い上げるが、6回に土浦日大はビッグチャンスを迎えた。

投手の替わりばなを捉え、先頭の松田と6番 塚原歩生真が右翼へ連続安打。1死一・三塁から8番 鈴木大和がスクイズを決め1点をもぎ取る。出鼻をくじかれた相手投手は2者連続四球を与え2死満塁。ここで2番 太刀川幸輝の右越え3塁打が飛び出し3点を追加。さらに後藤の中前打で1点を加えた。

リードを大きく広げた土浦日大は9回にも追加点。松田が甲子園で2本目となるソロ本塁打をバックスクリーン左へ放り込んだ。

投手は先発の伊藤彩斗から4回途中に藤本士生へつなぎ、今日も危なげない投球内容だった。

土浦日大高校では、土曜日とあって生徒の数はそれほどでもなかったが、代わりに保護者が多く集まった。「仕事が休みなので応援に来られた。PVは一体感が素晴らしい」と話す北村祟史さん(51)、知美さん(42)夫妻。ここまでの戦いについて「今度こそだめかもと思いつつ、毎回逆転してくれるのがうれしい」と話し、試合後は「藤本の安定感が光った。守りも固く、打線もつないでくれた。次も期待したい」と喜びの声。

最前列で応援していた仁平千陽さん(1年)は「迫力があって感動した。伊藤投手と藤本投手が、相手に隙を見せず投げていたのがすごいと思った。次も最後まであきらめない心で、自分の力を信じて頑張ってほしい」とエールを送った。

学校には応援メッセージも数多く届いているという。星野恵美子教頭は「甲子園の校歌はすごい。皆さんが期待してくれているということを実感でき、うれしく思っている。選手たちも試合ごとに団結力や精神力が高まり、一歩一歩強くなってきている。次も勝てるよう精一杯応援したい」と話した。

次の準決勝は21日、第2試合で慶應(神奈川)と対戦する。(池田充雄)

アストロプラネッツ 巨人に屈辱の大敗

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5回裏茨城2死、益子がこの日2本目のヒットを中前へ放つ(撮影/高橋浩一)

プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの茨城アストロプラネッツは18日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で、NPB(日本野球機構)との交流戦として読売ジャイアンツ3軍と対戦し、0-10で敗れた。これで公式戦5連勝の後、4連敗。通算成績は20勝38敗1分で南地区4位。今季残り試合はあと7つ。4.5差で追う3位神奈川との差を少しでも詰めたいところだ。

【ルートインBCリーグ2023公式戦】
茨城アストロプラネッツ-読売ジャイアンツ3軍
(8月18日、J:COMスタジアム土浦)
巨人 030050200 10
茨城 000000000 0

茨城は2回、先発投手の佐藤友紀が2四球と2安打で3点を献上。その後も流れを戻せず2回2死で降板。ゲームプランを大きく狂わせた。その後は8人の投手が継投するも、5回には3人目の伊藤龍介が4連打を浴び2点を奪われ、4人目の巽真吾は初球を3ランホームランとされる。7回には6人目・有馬拓の暴投と野手の悪送球で2点を失った。

放った安打数は巨人が10、茨城が9とほぼ互角、失策数は互いに1。何が勝負を分けたかというと四球数だ。巨人の0に対し茨城は13。ランナーをためてしまったところでの1本が大きなダメージになった。

「四球はある程度仕方がない部分もある。ボールを置きに行ってアウトを取っても評価されない。マウンドで全力で腕を振り、いいチャレンジができたかどうかが重要。ただし今日はNPBのチーム相手に、自分の球をストライクゾーンに投げて勝負できなかった投手が多かった印象がある」と巽兼任コーチ。

チャレンジ不足は打撃陣にもあった。せっかくヒットが出ても積極的に次の塁を狙おうとせず、結局得点に結び付かなかった場面がいくつかあった。「うちはチャレンジした上での失敗ならOKのチーム。なのにその準備ができていない。反省すべきところ」と伊藤悠一監督。「今年のチームは良くも悪くも雰囲気に流されやすく、それが連勝や連敗に結び付いている。だから序盤に食らいついて、今日は行けるという雰囲気を作ることが大事」

この日2安打を放ち敢闘賞に輝いた益子侑也(ひたちなか市生まれ、霞ケ浦高出身)はチームについて「勢いはあるし状態も悪くない。後は打たれても下を向かず、取られる点を抑えられれば。残り試合も少ないがみんなが一つになり、もっとやれるところをお客さんに見てもらいたい」と話した。

試合前にはチアダンスチーム「ベガスダンサーズ」のパフォーマンスに続き、土浦二高創作舞踊部のスペシャルパフォーマンスも行われた。創作舞踊部は土浦二高の創立した1903年からあるという伝統ある部。ベガスダンサーズの山口悠起子キャプテンは以前も指導に係わっていたことがあるが、昨年の部活動指導員制度の導入に伴い、再び声がかかったという。「ダンスは未経験の子が多かったが、みんな非常に真面目で、一つ一つの作品に一生懸命取り組んでくれた」と山口さん。「基礎からすごいダンスの技術まで、また、あいさつや社会に出るための礼儀なども教えていただいた」と主将の城野花咲さん(2年)。

土浦二高創作舞踊部のスペシャルパフォーマンス(同)

この日はメンバー11人が「フットルース」の音楽に合わせ、ベガスダンサーズ譲りのキレの良い踊りを一糸乱れず披露。「高校生ではなかなか踊れない、すごい舞台で踊ることができた。いつもと違って緊張したが、試合前の選手を少しでも盛り上げることができてよかった」と副主将の林美久さん(2年)。

このほかグラウンドでは、アストロプラネッツと関彰商事野球部の合同による少年野球教室なども開かれた。(池田充雄)

アストロプラネッツと関彰商事野球部の合同野球教室(同)


  

世界の見え方 《続・気軽にSOS》139

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【コラム・浅井和幸】AさんとBさんは仲が悪く、いつもけんかをしていました。Aさんは、Bさんがいつも自分の悪口を言っていて、嫌がらせばかりしてくると言っています。Bさんは、Aさんは些細(ささい)なBさんの言動に文句を言ってきて、いつもBさんのことを見張っていると言っています。

それぞれは、相手を分析し、自分としては何も思っていないのに、相手が自分のことが嫌いだからわざわざ嫌なことをしてくる、そして、AさんBさんのどちらも、相手は自分にだけそのような悪い言動をしてくるのだ―と主張します。

ですが、それぞれの相手に対する分析はことごとく間違っていました。Aさんは、誰に対しても相手がより良い行動をとれるようにと、口出しをしてしまう人でした。Bさんは、誰に対しても直接悪口を言う人でした。

ただ、他の人はこの2人を避けるような行動をとることに比べて、AさんとBさんは接する機会が多く、さらには自分から寄っていき、小さなことが流せずに、コミュニケーションをとるとエスカレートしてけんかになる2人でした。

ここで面白いと言ったら、真剣な2人には失礼ではありますが、気にかかるところがあります。それは、それぞれの相手に対する評価や推測が間違っているのです。例えば「相手は自分にだけしてくる」とか、「いつも嫌がらせを考えている」とか、「田舎者だからしてくる」など。

もうひとつ面白いのは、もう関わりたくないと何度も言いつつ、自分から近づいて行ったり、長い時間を共にしたり、手紙のやり取りをしたり、相手を正そうとしたり―と、はたから見ると、積極的に関わろうとしているような行動をとるのです。

「防衛機制」の「投影」

人は不快なものを取り除こうと、不快なものを意識し続けるという特徴があります。また、悪い奴が変わるべきで、自分は悪いことは一つもないのだから、何も変わらないと主張する人も多数います。それに加えて、悪い奴をやり込めてやろうという気持ちも出てきます。このようなことから、嫌なものに近づいていき、悪循環を起こすのです。

また、「防衛機制」という言葉を保健体育で習ったかと思います。ストレスから自分を守る機能なのですが、その中で「投影」というものがあります。自分自身を守るために、自分の性格や言動を認めず、相手に自分の悪い面を押し付けるような心の動きです。

自分が相手のことを嫌いだった場合、相手が自分を嫌いだと思い込むことです(ストーカーは、自分が好きな対象が、自分のことを好きであると思い込んで対象に執着していきます)。自分がしている嫌がらせはさておき、相手がよりひどい嫌がらせをしてくるという考えに至ります。犯罪者は被害者意識が高いということは、よく知られている事実です。

世界は苦しいものだ、人間はずるいものだ、日本は弱い者いじめが好きだ、あいつは常識がない―と思ったことは誰にでもあるでしょう。さて、それは本当に対象がそのような状態なのでしょうか? それとも自分自身がそのような状態で、対象に自分の嫌な部分をなすり付けていないでしょうか?(精神保健福祉士)

4年ぶり、境内に1万人ひしめく 土浦 からかさ万灯

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4年ぶりに開催されたからかさ万灯=土浦市大畑、鷲神社

土浦市大畑、鷲(わし)神社で17日、国選択・県指定無形民俗文化財の「からかさ万灯」が4年ぶりに開催された。仕掛け花火を奉納する地域の民俗行事で、例年8月15日の夜に開催されているが、今年は台風7号の影響で17日に延期された。4年ぶりの開催に約1万人が来場し境内はひしめき合った。

午後7時30分、地元のお囃子太鼓や打ち上げ花火が披露された後、安藤真理子土浦市長が来賓を代表してあいさつ。午後8時、離れた場所から導火線の綱火に点火され、からかさ万灯に火が着いた。高さ6メートル、直径5メートルのかさから色鮮やかな花火が勢いよく雨のように降り注ぎ、火の粉が光の芸術を作り出した。例年、点火は午後9時頃だが、今年は1時間早く、見逃した人もいたという。

からかさ万灯の始まりは、江戸時代中期頃といわれる。大畑地域は夏になると干ばつに苦しめられ、雨乞いを祈願した仕掛け花火「からかさ万灯」を神社に奉納して五穀豊穣を願ったと伝えられている。

見学に訪れた同市田土部の本橋英昭さん(57)は「4年間見ることが出来なくて寂しかった。今年は大勢集まり、無事、素晴らしい仕掛け花火を見ることができた。200年以上も続いているので、ずっと継続して欲しいと」述べた。地元のお年寄りは「儀式が終わって、ざあーっと雨が降ってくると大成功なんだ」などと話していた。(榎田智司)

トランスジェンダーの友人と語る教育《電動車いすから見た景色》45

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イラストは筆者

【コラム・川端舞】来月、あるイベントで、高校時代の友人と対談する。友人は、出生時に割り当てられた性は女性だが、男性として生きるトランスジェンダー男性だ。高校卒業後10年以上たってから再会し、互いの子ども時代を語り合う中で、今の学校で障害児やLGBTQの子どもたちが過ごしづらいのは、多様な子どもたちがいることを前提に学校がつくられていないからではと感じた。

障害者とトランスジェンダーが教育について一緒に話すことで、今の学校が抱える根本的問題が見えてくるのではと思い、今回のイベントを企画した。

公の場で友人と話すのなら、トランスジェンダーに対する基礎知識は持っておきたいと、書籍を複数購入した。一言に「トランスジェンダー」と言っても、当然、全く同じ人間は存在しないし、差別をより受けやすいトランスジェンダー女性の経験は、トランスジェンダー男性とはまた違う部分もあるはずだから、過度な一般化はせずに、できるだけ冷静に読んでいきたいと思う。

しかし、読み進めるうちに、「この部分は、友人はどうなのだろう」と、無意識に友人との対比で考えてしまう。そんな自分に気づき、苦笑する。子どもの頃、同じ学校に運動障害のある子どもは自分1人だけという環境で育ち、周囲から「理想の障害児」像を押しつけられることに辟易(へいえき)していたのに、同じことを友人にやっているのではないか。

互いのしんどさを同じ俎上に載せる

一方、私にとって一番身近なトランスジェンダーは友人だ。実際のトランスジェンダーが生きているのは、本やテレビの中ではなく、私たちが暮らす現実世界だ。友人が普段、身近で経験する差別について知り、そんな社会を一緒に変えていきたいから、差別を生み出す社会構造について本で勉強する。これは間違ったことではないのかもしれない。

トランスジェンダーは人口の0.7パーセントほどしかおらず、出会ったことがないと思っている人も多いだろう。しかし、全校生徒300人の学校なら2人はトランスジェンダーの生徒がいる計算だ。男女に分けるのが当然とされる学校で、見えなくさせられているだけだ。かつて、重度障害児として普通学校で育った私が、障害児がいない前提で進められる授業の中で、必死に自分という存在を消していたように。

もちろん、友人はトランスジェンダーの代表でなければ、私は障害者の代表でもない。ただ、子ども時代に互いが感じていたしんどさを同じ俎上(そじょう)に載せることで、今の学校にある課題が見えてくるはずだ。(障害当事者)