日曜日, 12月 28, 2025
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【戦後74年の夏】6 ドローンで見る廃墟 鹿島海軍航空隊跡地の風化 ㊤

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霞ケ浦分院跡地は鹿島海軍航空隊跡地の一部=美浦村大山

【相澤冬樹】夏がくれば思いだす――のは、霞ケ浦に突き出た美浦村の東端、鹿島海軍航空隊跡地のこと。戦争遺跡があったり、心霊スポットの廃墟があったり、水辺レジャーの基地があったり、夏になると注目を集める場所だ。なかでも霞ケ浦分院跡地と呼ばれる遺構は、解体されるのか保全されるのか、「この先どうなる?」とよく聞かれる。許可を得て敷地内に入れてもらい、ドローン撮影を敢行した。

病院跡地に立つ旧軍施設

美浦村大山、南に小野川の河口が切れ込んだ半島状の土地約23ヘクタールが、鹿島海軍航空隊跡地である。国交省管理の水防拠点になっている湖岸の約1.5ヘクタールを除けば、ほぼ7ヘクタールずつ3等分できる。北から国立環境研究所水環境保全再生研究ステーション、中央の東京医科歯科大学霞ケ浦分院跡地、南の堤防の内側にある民有地である。戦後すぐに払い下げられた民有地以外の土地は、1946年から霞ケ浦分院が占めたが、1974年に北側部分は環境研(当時、国立公害研究所)に移管となった。

霞ケ浦分院は1997年までに閉院、最終的に中央部約7.6ヘクタールの土地を村が取得した。中央を走る道路の南側部分3.3ヘクタールは村営のメガソーラー発電所となっており、北側部分4.3ヘクタールは周囲をフェンスで封鎖している。分院跡地と呼ぶが、残っている建造物は旧軍時代からのものばかりである。ランドマークになっている煙突とボイラー棟が、深い夏草のなかから立ち上がっている。

許可を得て取材チームが入った8月初め、旧軍時代の司令部、分院時代の本部として使われた鉄骨コンクリート造の庁舎は民間のセキュリティー会社に管理が委ねられていたが、役場職員がその施錠を解こうとしたところ、ドアノブがバールのようなもので破壊されていて、ついに開錠できなかった。ドローンを飛ばすと、夏草は陸屋根になった屋上にも根を張って繁茂している。

いわゆる廃墟マニア、あるいは心霊マニアの関心をひくスポットだけに不心得の侵入者が後を絶たないらしい。建設から80年、無人となって20年、すさまじい風化のなか保全は成り立つのか、今後が注目されているのである。

左に南岸、右に東岸のスロープ。中央突端部にカタパルトの跡がある=撮影:伊能正登(TSORD)

湖岸のスロープから飛び立つ

鹿島海軍航空隊は、阿見町にあった霞ケ浦海軍航空隊の水上班が移転して1938(昭和13)年に開隊した。水上機の操縦訓練を行う練習航空隊であり、のちに予科練出身の飛行練習生が93式水上中間練習機で猛訓練を行った。いわゆる「赤とんぼ」の水上機バージョンで、滑走のためのフロートが付いていた。第二次大戦末期には特攻作戦の搭乗員として多くを送り出した。

大山地区の突端は、湖に2方向が面していることから、横風に弱い水上機の離陸に適していた。東側と南側の滑走路は、水面に向かって傾斜のついた斜路になっていて、大山スロープ(ゲレンデ)の呼び名がある。

この湖岸施設は現在も国交省管理の水防拠点に位置づけられており、2009年、土木学会選奨の土木遺産に認定された。斜路はプレジャーボートやジェットスキーの船艇搬入に便利なことから近年レジャー客の利用が増え、夏場の週末ともなるとごった返すほどの人出になる。民有地は艇庫が立ち並び、水上飛行機の格納庫も置かれている。(つづく)

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真夏日にハスの刈り取り 酸欠の宍塚大池でボランティア活動

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炎天下、ハスの刈り取り作業に汗を流す宍塚の自然と歴史の会のメンバー=土浦・宍塚大池

【相澤冬樹】土浦市宍塚の宍塚大池で14日、ハスの刈り取り作業が始まった。旧盆の迎え日、猛暑厳しき折にゴム製の胴長を着用し、ため池に浸かってハスを抜き取る力仕事。陣頭指揮のNPO法人、宍塚の自然と歴史の会代表の及川ひろみさん(75)には、湖面を埋めるハスの葉を急いで除去しなければならない理由があった。「ちょうど大学生と高校生がボランティアで来てくれることになった」ため、この日から作業を開始した。

約100ヘクタールのかん養林に囲まれるように、約3.3ヘクタールの広さに水をたたえる宍塚大池。農業用水として利用される。NEWSつくばの9日付けコラム「宍塚の里山」で、及川さんが「大池はピンクの蓮の花が満開です」と書いたように、ハスの群生は水面を埋めるように育って、8月初めには花の見ごろを迎えていた。中旬には花期は終わりに近づいたが、花托(かたく)がふくらんで実をつけ始めており、なお生長を続けている。

作業中もコイやオオクチバスの死がいが上がる=同

見た目には華やかだが、ハスの浮き葉、立ち葉の周囲は水草のヒシが取り囲むように密集し、水面をすっかり覆っている。池の水は酸欠状態になっていると見られ、ここ数日、コイやフナ、オオクチバスなどが次々に水面に浮き上がって、へい死が確認された。「多様な生物相」が大池の魅力だけに放置しがたい水環境になっている。

9月からエアレーション実験を予定

同会の活動と連携し、大池周辺を研究フィールドにしている茨城大学農学部の黒田久雄教授(農業工学)の申し入れで、9月から水質浄化のために空気を送り込むエアレーション実験を行うことになった。水処理専業の大手企業が協力する。

このため、水面がまったく見えない状態は望ましくないとして、及川さんの判断でハスの刈り取りを決めた。堤防道路入口付近の500平方メートルほどの湖面からハスを抜き取って、実験に備えることにした。

ちょうど夏休み中の課外活動で、ボランティア先を探していた同市内の高校生から申し込みがあり、筑波大学院生で同会会員でもある東谷一煕さん(24)のボランティア活動日に当たっていたため、及川さんら4人で作業をすることになった。野生のハスは根や地下茎が地中深く潜り込んで、とても手で引っこ抜くことはできない。装置がないため、レンコン農家のように水圧をかけて掘り取ることもできない。腰まで水に浸かり、水面を覆うハスの葉を根本から、花や実もろとも刈り取る力勝負となった。

生物多様性を研究テーマに、普段から山岳や防災分野でフィールドワークをしているという東谷さんは「大池での作業は息抜きみたいなもの」だそうが、高校生はほとんど無口で作業をこなす。この日の日中の最高気温は31℃、直射日光こそなく猛暑日とはならなかったが、真夏日に初めて身につける胴長の蒸し暑さはこたえる。2時間ほどをかけて、100平方メートルほどの水面がやっと見えてきた。

同会では1990年から毎年、動員をかけ、舟で刈り取り作業を行っていたが、ハスの勢いに押されるように中断、今回6年ぶりの再開となった。作業は断続的に夏休みの間じゅう続く。

【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後 ジオラマで蘇る少年時代

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原の前住宅にあった4棟長屋の模型は上から間取りをのぞける構造になっている=土浦市中、原ノ前公民館

【相澤冬樹】この春、土浦市立博物館で開かれた特別展「町の記憶―空都土浦とその時代」、海軍航空隊や戦前の町の記憶をたどる展示に、入場者が思い思いに見入る会場で、ほとんど全員が足を止めるコーナーがあった。同市原の前にあった引揚者住宅の模型、街区全体を住宅地図のように復元したジオラマで、見下ろす来館者たちが「これあそこじゃない?」などと記憶を呼び覚ますシーンが見られた。

戦後生まれが大多数となった来館者に、戦争や銃後の暮らしの「記憶」はない。だから戦前を引き継ぐ風景や地図は思い出を語る糸口になりやすい。しかし模型製作者の同市中(なか)、大貫幾久男さん(71)を訪ねると、旧海軍航空廠(しょう)の兵舎跡とされる引揚者住宅に、戦前の生活は刻まれていなかったというのである。

同市右籾の第一海軍航空廠(現在の陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地)は終戦に前後して取り壊され、その現場作業に就くため父親が栃木県藤岡から土浦にやってきたのは1947年のこと。翌48年に生まれた大貫さんは5人きょうだいの末弟だった。当時の土浦には、戦争終結に伴い引き揚げてきた無縁故の(国内に身寄りのない)在外邦人を収容する「引揚寮」が数多く設けられていた。空き家となった海軍住宅や航空廠の工員宿舎が多数あり、転用されたためだ。その戸数約800という。

6畳一間に7人が暮らす

原の前の引揚者住宅もその一つ。大貫さんの入居した住宅は47年に払い下げられているが、「真っ先だったから、一番南の見晴らしのいい住戸に入れたと聞いた」という。43年ごろ工員宿舎用に接収され建設されたが、戦局の悪化で入居者を迎えないまま終戦に至った。復員軍人や引揚者向けに入居者募集が行われたのは戦後になってからだった。

入居当時の引揚者住宅での暮らしを語る大貫さん=同

住宅は6畳の和室一間と板敷3畳の台所に土間のついた間取りで、4軒を一棟に連ねた長屋状の建物だった。これが南北に最大16棟並んで、全93戸があった。杉板を張り合わせた外壁、杉皮で葺かれた屋根、4軒共用の井戸があった。長屋の両端の家は地続きの畑が使えたが、内側の2軒は離れた区画に畑を持ったそうだ。

原の前はかつての字名で中村、今の住居表示で中の一部にあるが、93戸の住宅は周囲から孤立して立地していた。父親の職場だった霞ケ浦駐屯地は常磐線の通る谷津地形をはさんだ対岸にあり、東京通勤者は谷津のあぜ道を歩き線路伝いに荒川沖駅に出たのだった。

地区内に商店はないから、畑を耕し、鶏を飼う「自給自足」の生活となった。住宅に風呂はなく、1キロ以上離れた右籾や大房の銭湯に通う日々だったという。両地区とも引揚者住宅から街区形成が進んだ町内だ。

大貫さんは常磐線に向かって立つ広告看板の下でよく遊んだ。白髪染めの「君が代」と清酒の「白雪」だけは覚えている。6畳一間の住宅に一家7人が暮らしたが、高校進学を機に単身東京の親戚宅に身を寄せたそうだ。のちに原の前に戻って、以前は畑だった場所に自宅を建てたが、少年時代の原風景に年々郷愁を募らせた。

原ノ前公民館に展示

約60年前の記憶をたどる形で模型を作り始めたのは2015年からだった。古い家に長く暮らした姉や周囲の人たちに聞き込みをするなどして、まず4棟長屋を作り、それから概ね200分の1の縮尺で全住戸を配したジオラマを作った。自身は建設関係の仕事に就いていたが、技術職ではなく、柱や梁の建て方など見様見真似での製作となった。

それぞれ1年ほどを掛けて16年には2点が仕上がった。「ほとんど我流。子供のころ好きだった住宅模型の工作を思い出しながら作業した」そうだが、趣味の日本画で培った筆遣いが役立った。田畑や台地の植栽はもとより、井戸や鶏小屋のディテールにまでこだわった。「君が代」と「酒の白雪」も書き入れた。その鮮やかな再現性が特別展で評価されたのだった。

原の前の引揚者住宅は水道が引かれると各戸こぞって家風呂を設け、敷地いっぱいに増改築を繰り返し、やがて周辺にも戸建て住宅が張り付いた。4棟長屋から分離された当時のままの家屋が今も1、2棟残っているが、住む人はいない。「戦争の記憶が薄れるように、僕らが生きた戦後の時代も忘れかけられている。そういう作業を一緒にしたいという人がいれば、また模型を作ってもいいと思っている」と大貫さん。2つの住宅模型は今、原ノ前公民館に展示されている。

➡【戦後74年の夏】4はこちら

若手テニス選手の登竜門 19日からつくばでセキショウ国際女子

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「第30回セキショウ国際女子オープンテニストーナメント」のポスター=筑波学園記者クラブ

【崎山勝功】本県唯一の国際女子テニス大会、第33回セキショウ国際女子オープンテニストーナメント(関彰商事主催、つくば市共催)が19日から25日まで、つくば市北原の筑波北部公園テニスコートで開かれる。

県出身の選手も参戦

大会には、主催者推薦枠(ワイルドカード)で、県出身のアマチュア選手が出場を予定している。シングルス予選に、茨城国体予選準優勝でつくば市出身の佐藤久真莉さん(17)=富士薬品=、同国体予選優勝で牛久市出身の川村茉那さん(18)=フジキン=、筑波大学の阿部宏美さん(19)、筑波大OGの牛島里咲さん(23)=マサスポーツシステム=らがエントリー、20日からの本戦出場に挑む。

同大会は1987年に第1回大会を開催。2005年からつくば市内に会場を移して実施している。これまでにクルム伊達公子選手(1988年ダブルス優勝)や、リオ五輪代表の日比野菜緒選手(2013年シングルス優勝)も出場するなど、若手女子テニス選手の登竜門となっている。

大会期間中の20日~22日には関連イベントとして、小学生向けの「第7回セキショウチャレンジカップ2019」を、つくば市花室のNJテニスクラブで開催する。

猛暑対策 プロ教室が中止に

例年、大会期間中の最終日に開いてきたプロテニス選手によるテニスレッスン教室は、今年の開催中止を決定した。猛暑による健康被害へのリスクを考慮したため。関彰商事の広報担当者によると、昨年は気温が37~38度の猛暑日が続いたという。今年は猛暑対策として、観客にかき氷や氷のうを無料提供、屋外用のエアコンや大型ミスト扇風機を導入するなど、観戦の安全対策に力を入れている。

入場は無料。詳細、問い合わせは大会公式サイトで。

【戦後74年の夏】4 飛行場があったと零戦が伝える 筑波学園病院のモニュメント

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ゼロ戦のモニュメントの前で談笑する藤沢順一さんと女子事務員たち=筑波学園病院(つくば市上横場)

【大山茂】「今の若い人たちに戦争の悲惨さを知ってもらい、平和の尊さをかみしめてもらいたい」。元つくば市長で、筑波学園病院(つくば市上横場)を運営する筑波麓仁会の理事長、藤沢順一さん(78)は同病院の敷地内に5年前に建立した戦闘機のモニュメントの前で若い職員たちにこう語る。

病院は戦前の谷田部海軍航空隊(谷田部飛行場)跡地内に建つものの、今ではその面影を失い、過去を知る人は少ない。ところが兵士たちが出撃の際に祈願したという『谷田部神社』が今も病院近くにひっそり佇(たたず)んでいる。毎年桜の咲く時期に元航空隊員たちがこの神社に参拝しているとの話を伝え聞いた藤沢さんが「後世に飛行場が存在した事実を伝えなければ」と、象徴的な零戦像の建立を思いたった。

モニュメントが設置されているのは病院の正面入り口に近い緑地の一角。すぐ隣に飛行場時代から花を咲かせているという桜の老木が2本、まるで零戦を守るかのように枝葉を広げている。御影石のモニュメントは台座を含め高さ約2メートル、零戦の長さは約60センチ。400万円をかけ、笠間市の伝統工芸士に製作を依頼した。

谷田部基地と零式艦上戦闘機六二型=記録集「谷田部海軍航空隊記念碑建立にあたり」に寄せた元海軍中尉、香川宏三さん提供写真

市教育委員会の資料によると、谷田部飛行場は病院の敷地に本館が建ち、常磐自動車道をはさんで向こう側にある農研機構(同市観音台)の研究施設群には芝生の滑走路が、さらにその奥には飛行機を格納する掩体壕(えんたいごう)があった。太平洋戦争の最中には九三式練習機(通称・赤とんぼ)の飛行訓練が行われた。しかし戦局が悪化すると実戦機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が配備され、10代後半の若い兵士が特別攻撃隊(特攻隊)として南方の戦線に送り出された。

モニュメントの除幕式には元航空隊員や霞ケ浦の予科練生、谷田部神社の世話人、地元関係者らが多数出席した。同航空隊の卒業生で千葉県在住の元海軍中尉は「多くの若者がこの地から出撃して命を落とした。生きながらえた者で慰霊祭を行ってきたが、当時を偲ぶ構造物はなく、寂しい思いだった。記念碑が建立されたことで戦友たちの心の拠り所ができた」と紅潮した表情で語ったという。

病院近くの常磐自動車道に架かる橋の名は『飛行場橋』。銘板に気付く人は少ない

今回、藤沢さんとモニュメントの前で撮影に応じた病院の女子事務員たちは、妻子を残して戦艦に突撃する特攻隊員の苦悩を描いた百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』の話題に触れながら、「平和な時代に生きていて良かった。これからも日本は平和でいて欲しい」と神妙な面持ちで語っていた。

➡【戦後74年の夏】3はこちら

【戦後74年の夏】3 遺品の日章旗還る 比で戦死のつくば市笈川さん

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返還された父の日章旗を広げる娘の笈川美起子さん(中央)と家族

【谷島英里子】1945年3月9日、フィリピン・ルソン島で戦死した26歳の兵士が身に付けていた日章旗が2016年、つくば市の娘のもとに還ってきた。終戦から71年が経っていた。笈川美起子さん(75)は当時、母のお腹にいたため父の顔を写真でしか知らない。「70年以上も経ってとても驚いた。本当に、本当に家に帰りたかったのだと思う」と美起子さんは今も目頭を熱くする。

米の日章旗返還活動通じ

太平洋戦争の激戦地、ルソン島クラーク地区で戦死した父は、笈川清次郎さん。1920年生まれの秋田県出身。志願兵で、谷田部海軍航空隊で訓練を受け、戦地に赴いた。

美起子さんの両親の写真。軍装姿が笈川清次郎さんの遺影

戻ってきた日章旗は、カルフォルニア州在住の米国人男性が、元海兵隊員の父から譲り受け、保管していた。男性はテレビ番組で遺族への日章旗返還活動を行う団体「OBON」を知り、返還を依頼したという。日本遺族会、秋田県・茨城県遺族会、つくば市などを通じて笈川さんのものと判明した。墨で「祈 武運長久 笈川清次郎君」という激励の言葉が力強く書かれ、秋田の近隣住民とみられる名前が40人ほど記されている。また、2、3カ所小さな穴が開いているだけで、笈川さんが大切に身に付けていたことをうかがわせる。

母親が亡くなったのは返還の数年前だった。母からは生前、出征前の父が「美起子」と名付けていったという話は伝え聞いた。ほかに、美起子さんが父を感じることができたのは、兵隊姿の写真ぐらいしかなかった。会ったことはないし、もちろんお骨もない。周囲の人から、父は戦地で足を撃たれて死んだと聞いていた。寄せ書きの日章旗を目にすると父が必死で戦った思いを感じ、「とても悔しかったと思うし、やっと家に帰ってこられてよかった」と感慨深く語る。現在、日章旗は仏壇に納めて、毎日線香をあげているという。

美起子さんは戦後、母や親戚に大切に育てられた。衛生状況の悪化で伝染した頭のシラミには苦労したが、家では野菜をたくさん作っていたため食べ物には困らなかったという。テレビなどで戦時中の様子を見ると父を重ねてしまう。「戦争が二度とない世界で安心していきたい。日章旗を大切にし、次世代につなげていきたい」と話した。

➡【戦後74年の夏】2はこちら

東京五輪へスイスチームが公開練習 つくばでトライアスロンの事前合宿

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陸上競技場を走るスイストライアスロンチームの選手たち=つくば市天王台の筑波大学陸上競技場(撮影/筑波大学・矢神若菜)

【崎山勝功】2020年開催の東京オリンピック・パラリンピックを前に、スイス・トライアスロンチームが11日、筑波大陸上競技場(つくば市天王台)で公開練習を実施した。チームは7月29日から8月13日まで、同大学をはじめ市内の施設で合宿中。報道関係者や一般市民らに向けて公開した練習では、選手たちは競技場内で走り込みや身体をほぐすストレッチなどの軽めの練習を行った。

同チームのアリッサ・クニック選手(23)は「全部つくば市の人たちが準備をしてくれて、整った環境で練習できる」と日本側の関係者らに感謝の意を示した。その上で「個人の目標は2024年(パリ五輪)だけど、2020年の東京ではミックスリレーでベストを尽くせるようにしたい」と意欲を語った。

ラース・ホーレンウェガー選手(21)は、日本の猛暑を1年前に体験できたのが事前合宿の大きな意義だったよう。「最初は暑さに慣れるのが大変だったけど、慣れるに従いから体調が整った」という。公開練習には市民ら約40人が見学に訪れており、ホーレンウェガー選手は「いつもはこんなにたくさんの人が練習を見に来ることが無いので面白いと思った。今の時点では全力を尽くすことが2020年の目標」と述べた。

同チームの選手たちは、15日から18日まで東京・お台場海浜公園で行われる「ITUワールドトライアスロン・オリンピック・クオリフィリーケーションイベント」に出場する。

スイストライアスロンチームメンバー(白色シャツの女性)に取材する「こども記者クラブ」の記者=同

◆こども記者も選手たちを取材

この日の公開練習には、報道各社の記者たちに交じって「こども記者」たちが取材に励んだ。つくば市の「こども記者クラブ」事業の一環で募集した約15人が参加した。

こども記者たちは、市内在住の小学4年生から中学3年生の児童生徒らが、3人1組のチームを組んで、記者・カメラマン・インタビュアーとなって1本の記事を作成。この日の取材では、同事業の運営協力を担う筑波大学新聞編集部の大学生記者たちが、こども記者たちの引率に当たり、デジタル一眼レフカメラでの撮影の仕方や、選手たちへの取材をサポートした。

同新聞編集部の木村誠編集長(20)は、「子どもたちが『こういうところを聞きたい』というのが新鮮で、積極的に取材に動いてくれたのが良かった」と評価した。写真撮影でも「練習後、自分からどんどん撮っていった。いい写真で『これは使える』というのが多かった」と、こども記者たちの活躍に感心していた。

選手への質問を担当した、こども記者の小澤真結さん(15)=並木中等教育3年=は「日本の文化で好きなものは」「トライアスロンの3つの競技の中でどれが好きか」「精神面で辛かったときどうする」「東京五輪の目標」など矢継ぎ早に質問。その中で「身体の面で辛いときはどうする」という質問に、「コーチがいるから大丈夫」という答えが返ってきて、「コーチとの信頼関係」が印象に残ったという。

B1へ走り抜く決意 茨城ロボッツの新陣容

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鎌田選手とハイタッチする小さなブースター=水戸市緑町のアダストリアみとアリーナ

【池田充雄】男子プロバスケットボールの茨城ロボッツは10日、水戸市緑町のアダストリアみとアリーナサブアリーナで新加入選手発表会を開催。外国籍選手4人を含む6選手が新ユニフォーム姿で登場し、それぞれに抱負を述べた。今季のチームスローガンは「RUN as ONE」。B2優勝とB1昇格という目標に向かい、全員が一丸となって走り抜くという意味を込めた。開幕戦は9月21日、アダストリアみとアリーナで福岡ライジングゼファーと対戦する。

ロボッツの今季契約選手は14人。昨季から6人が入れ替わり、特に外国籍選手は4人全員が新戦力となった。首脳陣は、終盤に失速した昨季への反省から「走力を含むフィジカルの重視」「ディフェンスとトランジションの改善」をテーマに掲げ、補強を進めてきた。

新戦力6人 HCにガーべロット氏招く 

ヘッドコーチ(HC)には、イギリス代表監督のほか4カ国の7つのプロクラブで指導してきたアンソニー・ガーベロット氏を招いた。ガーベロットHCはロボッツに、最後まで戦い抜くための「構造的にきちんとした定義を持つディフェンス」と「勝利につながるカルチャー」を構築することを明言。個人の活躍以上に、選手全員がチームとして勝つことにこだわり、努力することを大事にしたチーム作りを進めている。今回獲得した各選手も、いずれもそういった観点から選ばれた。

「高いレベルの選手がそろった。能力だけで選んだのではなく、いずれも素晴らしい人間性があり、なおかつチャンピオンシップを経験し、勝つことを知っている。B1に昇格してそこで活躍するために、必要なものを全て持っている選手たちであり、われわれのカルチャーを醸成する上で大きく貢献してくれると思う」と、ガーベロットHCは期待を込める。

左から鎌田、小林、二ノ宮、ウィル、チェフ、ニックの各選手。中央は上原和人GMとガーベロットHC

新加入各選手のプロフィルと会見でのコメントは以下の通り。

小林大祐 愛称ダイス。31歳。昨季までライジングゼファー福岡に所属、同チームをB3からB1昇格へ導いたSG。会見では栃木ブレックス時代からのファンも大勢詰めかけ、サイン会に長蛇の列ができた。3×3の日本代表でもあり、東京五輪出場が期待される。「10点にも匹敵するような、勝負どころでの重要なゴールを決めたい。チームの勝利が第一なので個人成績にこだわりはないが、あえて挙げるなら優勝のための1という数字に常にこだわりたい」

二ノ宮康平 愛称ニノ。30歳。スピードを活かした切り込みや正確なシュート、冷静な判断からのアシストなど、攻守のバランスに優れたPG。アルバルク東京、琉球ゴールデンキングス、滋賀レイクスターズでB1のタイトル争いに貢献。「ロボッツは将来ビッグクラブになれるポテンシャルの高いチーム。そこに自分の経験を伝えていくことが役割だと思う。リーダーシップを発揮してチームを引っ張れる存在になり、笑顔で終われるシーズンにしたい」

鎌田 真 愛称コト。18歳。今季は特別指定選手として加入。ジャンプ力を生かしたプレーを持ち味とし、シュート能力も高いSG。2018年ハワイ州高校選手権で優勝し、MVPなど個人賞の数々を獲得。同年の若手日本代表候補にも選出された。ハワイ生まれハワイ育ちで趣味はサーフィン。母国語は英語だが家庭内では日本語で話していたので、初めての日本の生活にも不安はない。「レベルアップのため大学よりプロを選んだ。多くのことを学びたい」

ニコラス・カナー・メドリー 愛称ニック。35歳。米国出身。欧州を中心に各国のプロリーグで第一線での活躍を続け、2018-19シーズンにはスペイン1部のリーガACBでリバウンド王に輝いたPF。「ロボッツの魅力は勝利への熱意。トニー(ガーベロットHC)は私のプレースタイルを理解してくれており、そこにも心を動かされた。リバウンダーやアシストリーダー、そして何より勝つためには守備が大切なので、素晴らしいディフェンスになりたい」

ウィル・クリークモア 愛称ウィル。30歳。米国出身。日本では西宮ストークス、アースフレンズ東京Z、山形ワイヴァンズでプレーし今季4年目。日本の試合の流れを熟知しており、バスケットボールIQの高さや、アウトサイドを含むシュート力を強みとするPF/C。「B1に上がる機会をもらえたことに感謝している。前のチームでは得点やリバウンドだったが、ここではまた違う役割が求められると思う。自分ができることの全てで優勝に貢献したい」

ダニエル・オチェフ 愛称チェフ。25歳。米国出身、ナイジェリア代表。2m11cm・111kgの恵まれた体格を持つ万能型のフォワード。フィジカルの強さを武器としながらスピードもあり、PF/Cとしてポストプレーはもちろんミドルレンジからの得点も得意。2016年ビラノバ大で全米大学選手権に優勝、NBA下部のGリーグなどで活躍してきた。「B2優勝とB1昇格に貢献するため、与えられたことは全部やり、全てのタスクをコンスタントにできるよう頑張る」

会見は一般公開され、大勢のブースターが選手と交流した

【戦後74年の夏】2 慰霊碑前に集い阿見大空襲の惨禍を記憶

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慰霊碑建立のいわれを話す福田さん=土浦市大岩田、法泉寺

【鈴木宏子】74年前の1945年6月10日、土浦海軍航空隊(阿見町青宿)が米爆撃機B29による空襲に見舞われ、予科練生と教官ら281人と民間人計374人が犠牲になった。慰霊碑がある土浦市大岩田、法泉寺の慰霊碑前で毎年6月10日、犠牲者の冥福と平和を祈る「つどい」が市民の手で開かれている。

1961年に慰霊碑が建立されて以降、毎年、全国から遺族が集い供養が行われてきたが、高齢になり集まれなくなった。遺族に代わって「土浦の戦争惨禍を記憶する会」が慰霊を引き継いだ形だ。6年前の2013年から毎年14~15人の市民が集り、6月10日朝8時50分、慰霊碑に線香を手向け、手を合わせる。記憶する会代表の福田勝夫さん(75)は「再び戦争の惨禍を繰り返さないため身近で起きた戦争体験を記憶したい」と語る。

土浦海軍航空隊は、10代の予科練生(海軍飛行予科練習生)が操縦士になるための基礎訓練をする教育部隊で、1940年に航空隊員を養成する霞ケ浦海軍航空隊から独立して発足した。

阿見大空襲は、終戦2カ月前の6月10日午前7時37分に起こった。この日は家族面会が許された日曜日だったため、父母らが隊門脇の面会所に集まり、練兵場では予科練生が教官の訓示を受けていた。総員退避命令が出て、隊員らは周辺の何カ所にも掘られた防空壕に避難した。

米軍の小型機が低空で機銃掃射を浴びせ、爆弾が防空壕に命中した。土砂が崩れ落ち、多数の隊員が防空壕の中で生き埋めになった。

負傷者や犠牲者を運ぶ担架代わりとして、付近の民家から雨戸の戸板が強制的に集められた。4人1組になって犠牲者を戸板に載せ、近くの同航空隊適性部(土浦市大岩田、現在の県立土浦三高)に運んだ。適性部は、予科練生の採用試験や採用後の適正検査などを行っていた部署で、隣に法泉寺がある。犠牲者は運ばれた先で荼毘(だび)に付された。

慰霊碑に刻まれた阿見大空襲で犠牲になった予科練生の名前を見る福田勝夫さん=同

体験談収集きっかけに

市民による慰霊の「つどい」のきっかけは、戦後50年を機に福田さんらが土浦の戦争体験談を収集したこと。元予科練生だった大塚嘉考さん(故人)らから生々しい体験談を聞いた。

「よくしごかれた」という話がある。予科練生はすべて連帯責任とされ、だれがミスをすると長さ1メートルくらいの太い青竹がばらばらになるまで全員が尻を叩かれた。訓練が厳しく、気絶したり、訓練中に死んだ人、自殺した人もあった。

「成績優秀だった若者が志願したと伝えられるが、夜中にしごかれる子供たちの悲鳴を聞いていた地元の親たちが子供を志願させるわけがない。校長から『お前が行け』と指名され行った」と大塚さんは語り、「戦争をする人間をつくるためにマインドコントロールされた。戦争を二度と繰り返してはいけない」と福田さんらに言い残した。

福田さんは「当時、高校3年生くらいだった18歳か19歳のいがぐり頭の少年たちが犠牲になった。私たちの子供や孫、身近な人から、土浦でこういう現実があったことをきちんと伝えていきたい」と語る。

➡【戦後74年の夏】1はこちら

つくば市の待機児童数 また県内ワースト1

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【山崎実】茨城県子ども未来課が公表した4月1日現在の待機児童数は345人で、最も多かったのはつくば市の131人。同市だけで県内待機児童数の3分の1以上を占めた。つくば市の待機児童は昨年も県全体の3割を占めワースト1だった。今年は昨年同期の116人より15人増えた。

県全体の待機児童数は昨年比41人(約11%)減り、直近の5年間では最少となった。345人の内訳をみると0~2歳児が303人と87.8%を占め、3歳児以上は42人(12.2%)だった。0~2歳の待機組が全体の約9割を占めている。

つくば市を含めた県南地域の待機児童は239人で、県全体の7割程度に達している。このうち土浦市の待機児童数は8人で県内ワースト12位。昨年同期は2人だったが6人増えた。

待機児童が発生しているのは20市町村で、うち20人以上いるのはつくば市、つくばみらい市、阿見町、ひたちなか市の4市町。女性の就業率の向上に伴う入所希望者の増加に対し、受け皿対策が間に合わないことなどが原因。

このため同課では、今後の対応として▽国の保育所整備交付金を活用し地域の実情に応じた保育所や認定こども園、小規模保育施設などの整備、家庭的保育事業者の増加を図るなどして受け皿の拡大を目指す▽「いばらき保育人材バンク」や保育士修学資金貸付制度など、各種施策を推進し保育人材の確保に取り組む―ことなどを重点的に進めていくとしている。

市町村別待機児童数
順位 市町村名 待機児童数(人)
1 つくば市 131
2 つくばみらい市 33
3 阿見町 31
4 ひたちなか市 25
5 水戸市 18
5 牛久市 18
7 古河市 15
7 取手市 15
9 那珂市 13
10 下妻市 11
11 東海村 9
12 土浦市 8
13 常総市 4
14 高萩市 3
14 鹿嶋市 3
14 神栖市 3
17 常陸太田市 2
18 守谷市 1
18 稲敷市 1
18 美浦村 1
2019年4月1日現在

【戦後74年の夏】1 戦時下の土浦 「どんな時も楽しみを見つけた」

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山口あささん=土浦市西根南

戦後74年目の終戦の日が今年も巡ってくる。戦争体験者が高齢化し、戦争の実態を次世代にどう伝え、平和への願いをどう引き継げばいいのか。74年前と今をつなぐ夏の景色を追った。

【田中めぐみ】土浦市に住む山口あささん(98)は、16歳で母を亡くし、戦時中は父と妹と3人で土浦駅のそばで暮らした。兄は兵士として中国に行き、弟は横須賀海軍航空隊に所属した。

信仰が心の支えに

あささんが小学4年生の時、長屋の前を通っていると美しい讃美歌が聞こえ、思わず中に入った。キリスト教の講義所だった。大人たちが優しく招き入れてくれたのがきっかけで講義所に通うようになり、クリスチャンとなった。戦時中も週に1度は集まりに参加した。「一生懸命努力して自分の力を出して働きなさい、そして良いことを行いなさい」という牧師の話を聞くと、いつも元気になって帰ることができたという。教会では皆が協力して食べ物を持ち寄り、行けばいつでも食べ物があった。教会は心の支えだったと話す。

あささんは戦前から、叔父の経営する会社で洋裁の技術を生かし、学生服を縫って働いた。太平洋戦争が始まる1941年には、社長だった叔父が従業員を並べ、「これから戦争になる。縫うものにも混ぜ物が入るかもしれない」と話をした。「こんな大きい戦争になるとは思いもしなかった」という。

男子が兵隊に取られ、労働力が不足すると、一時期、東京に出て、品川の軍需工場で働いた。しかし、洋裁のことも忘れなかった。学生服だけではなく家族が着る物も縫えるようになりたいと、夜間は五反田にある洋裁の製図専門学校に通った。昼間は軍需工場でラジオの真空管を作り、夜は学校に通う生活が1年半ほど続いた。仕事の行き帰りや昼休みには、同僚と干し芋を食べるのが楽しみだったという。「みんな同じ境遇だから辛くはなかった。どこに行っても楽しみはあるもの」と話す。戦中から今に至るまで、洋裁の仕事を辞めずに続けてきたことが誇りだという。

阿見大空襲、町が赤く燃えた

土浦に戻ったある日、大岩田の畑にじゃがいもを植える勤労奉仕をしていた時、数匹の猫を見つけ、嫌がってひっかくのを無理やり抱いて1匹連れ帰った。猫はすぐになつき、「ミーちゃん」と名付けかわいがった。空襲警報のサイレンが鳴ると、猫を抱いて一緒に防空壕に逃げた。

土浦ではほとんど怖い経験はなかったが、1945年6月10日の阿見大空襲の時は、B29に爆撃された町が赤く燃えているのを見て恐ろしかったと振り返る。

駅前は歩けないほどの人混み

終戦の年、あささんは24歳だった。8月15日の玉音放送の日、土浦駅前は人でごった返した。玉音放送がよく聞こえず何が起こったか分からない人、敗戦を信じられない人、日本が負けたと悟っている人、多くの人々が互いに情報を求め、駅前に詰めかけていた。

歩けないほどの人混みの中、教会に向かっていると、途中で泣いている若い女性と出会った。夫が霞ケ浦海軍航空隊に所属しているという。女性は何が起こったのか分からず、とにかく海軍航空隊に行けば情報が得られるのではと考え、遠くから来たということだった。泣く女性を連れて教会に行くと、牧師はいつも通り落ち着いていて、「大丈夫だから」と話してくれた。あささんは安心し、その女性も気持ちを落ち着け、帰っていった。駅前の人々もそれぞれの方法で納得し、帰ったようだった。

町を見下ろし涙があふれた

幸いなことに、終戦後すぐ中国に出征していた兄が帰ってきた。追って横須賀の海軍航空隊にいた弟も無事戻った。父は兄と弟の無事を心から喜んだ。

戦時中は貴重品などの荷物を真鍋の親戚に預けていた。終戦の翌年の2月、預けていた荷物を取りに行き、真鍋の坂から土浦の町を見下ろした時、思わず涙があふれてきた。「これでやっと終わった」。あささんは、この時初めて終戦を実感しほっとした。その翌日、土浦に雪が降ったことを覚えている。

今は短歌や詩、文をつづるのが趣味というあささん。日々の出来事を書いて投稿し、新聞に掲載された切り抜きをスクラップしている

➡昨年の終戦の日連載企画「戦後73年の記憶」はこちら

故郷にお帰り ピエロたち 10日から土浦で「塙賢三展」

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作品解説を聞きながら展示を観て回る「塙賢三展」内覧会=土浦市民ギャラリー

【相澤冬樹】遺族から作品の寄贈を受け、10日から「塙賢三展」を開く土浦市民ギャラリー(同市大和町、アルカス土浦1階)で9日、内覧会が開かれた。同ギャラリーに関係者を集め、土浦生まれで「ピエロの画家」と呼ばれた塙賢三さん(1916-1986年)の画業をたどった。3男で、遺作の寄贈を申し出た塙義雄さん(74)=東京都練馬区=が駆けつけ、「ここなら大事にしてもらえると思った。喜んで送り出した」と語った。コミック「ちびまる子ちゃん」の作者で、ちょうど1年前に亡くなったさくらももこさんとの交流に関わる作品も展示されている。

あいさつする塙義雄さん=同

土浦に生まれた塙さんは戦後本格的に絵筆を握り、二科展を中心に活躍した。同市出身の福田義之助、鶴岡義雄らに師事したが、「美術学校を出たわけでもなく独学だったため、それまでの絵画の概念を打ち捨てられた」といい、広い背景の中に人物を小さく配置する構図に新境地を見出した。中でもピエロの描像は印象的で、「ピエロの画家」と呼ばれ、親しまれた。

今回の「塙賢三展」には、寄贈の10点に加え、義雄さん所蔵の18点が展示される。さらに賢三ファンだったさくらももこさんが20歳になった記念に買い求め、大事にしてきた作品「夢のサーカス」が、さくらさんが2007年に描き、義雄さんに贈った「ピエロとちびまる子ちゃん」の絵と合わせて特別出品された。これら画業の変遷をたどる全30作品で構成される。

17年11月にオープンした同ギャラリーの開館記念展「茨城ゆかりの洋画家たち」に賢三さんの作品2点が展示されたのがきっかけ。来場した義雄さんが「自宅での管理が難しくなっている。このまま作品を埋もれさすには忍びない」と申し出た。ふるさとの心地よさが決め手だった。土浦市の美術品収集検討委員会(小泉淳一委員長)が義雄さん宅を訪れるなどし、最終的に10点を選定、4月までに寄贈を受けた。1950年代の作品から1986年作の絶筆(I am Pirrot)までが含まれる。

内覧会で解説を務めた学芸員の萩谷良太さんによれば「ピエロは本来Pierrotでeが抜けたつづりだが、調べると賢三の作品名は二転三転して気まぐれなのもおもしろい。解説を聞く機会があればその辺も楽しんでほしい」という。

◆「塙賢三展~ピエロの画家、ふるさとへ」は8月10日~9月16日(毎週月曜日休館)午前10時~午後6時。入場無料。問い合わせは同ギャラリー(電話029-846-2950)。美術品収集検討委員長の小泉淳一さんによる記念講演会「塙賢三という画家」が25日午後1時30分から、同ギャラリーで行われる。先着50人。

県内ロケ作品が過去最高に 旧土浦市役所などで撮影

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旧土浦市役所(同市下高津)で撮影された映画「祈りの幕が下りる時」。現在は使用できない(土浦フィルムコミッション提供)

【山崎実】映画、テレビドラマなどの県内撮影を市町村と支援している県フィルムコミッション(FC)がまとめた2018年度の実績調査によると、ロケ支援作品数は606作品(対前年度比15%増)で過去最高となり、地域別のロケ実施では県南が27%と最も多かった。

FCは、茨城県のイメージアップ、観光振興と誘客促進などを目的に、2002年10月に設立。以後、県内ロケの誘致、支援活動に積極的に乗り出し、16年間で6508作品と、既に6500作品を突破した。

昨年度の実績は、作品数はもとより、撮影日数も1318日(同7%増)と前年度を上回ったほか、経済波及効果の推計額は約4億5000万円(同2%増、02年からの累計額は約78億1000万円)に及ぶ。

また、一般県民がボランティアエキストラとして参加した人数は、映画やドラマ194作品に延べ約1万5000人が出演。映画「平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」(水戸市・県庁)に3日間で延べ900人、ドラマ「ハケン占い師アタル」(土浦市・旧斗利出小学校)でも3日間で延べ800人が参加した。

主な支援作品は、映画「ダイナー」「アルキメデスの大戦」「ある町の高い煙突」、テレビドラマ「なつぞら」「ひよっこ」「あなたには帰る家がある」など。全てのジャンルでの主要ロケ場所では、採石場(常陸大宮市)、筑波海軍航空隊記念館・こころの医療センター(笠間市)、大洗サンビーチ(大洗町)がベスト3。地域別のロケ地で多かったのは県南の27%、次いで県央25%、県北22%、県西18%、鹿行8%の順だった。

ロケツーリズムで情報発信、1000万円を制作補助

県はロケ適地PRのため、昨年前期はロケ地として数多く利用されている霞ケ浦流域下水道、旧土浦市役所(現在は使用できない)、JAXA筑波宇宙センターなど土浦、つくば市、後期は特撮の聖地とされる県庁にテーマを絞ったロケツーリズムを実施するなど情報発信に力を入れた。さらに、本県を舞台題材とした映画作品の制作補助を打ち出し、映画「ある町の高い煙突」(日立市の鉱山煙害と大煙突)に1000万円の補助を行った。

FC活動は、市町村との連携、協力が重要だが、現在設立しているのは29市町村。下妻、坂東、かすみがうらの各市と茨城町などが設立を検討中という。

県FC推進室は今年度の事業として、海外フィルムマート(商談会)出展や、映画制作団体の訪問、海外映画監督の招へいと、県内ロケ地ツアーの実施など、「海外で本県のロケ地のプロモーション活動を行い、海外映像作品の誘致を進めていきたい」としている。

 

土浦市高岡の旧斗利出小学校で撮影されたテレビドラマ「探偵が早すぎる」(土浦フィルムコミッション提供)

【戦後74年】「戦争が起きないよう願う」 土浦の野田信次さん(90)博物館で体験語る

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戦争体験を語る野田信次さん=土浦市中央1丁目の市立博物館

【谷島英里子】土浦市立博物館(同市中央1丁目)で7日、「戦争体験のお話をきく会」が開かれた。1945年3月10日の東京大空襲で凄惨(せいさん)な体験をした市内在住の野田信次さん(90)が講話し「過去の教訓を学ばぬものは再び同じ過ちを繰り返す。今後(戦争が)起きないように願っている」と力強く語った。

野田さんは現在の東京都墨田区に生まれ、旧制中等教育学校のころ空襲に遭った。焼夷(しょうい)弾で一面火の海で逃げ場がなくなり、自宅も燃えてしまった。食糧のコメを防空壕に入れ、火に追われながら父親らと風上に走って隅田公園に避難した。そこには火の粉が浅草からも飛んできており、避難してきた人たちと叱咤(しった)激励して消火にあたったと生き延びた当時を振り返った。

この辺りでは「熱さで隅田川に飛び込む人、電柱につかまりながらセミのような状態で焼死した人、死体がゴロゴロ転がっていた」と悲惨な光景を話した。野田さんはその後何日か過ぎてから汽車で両親の実家がある土浦に疎開した。試験に合格し、土浦海軍航空隊の適性部(土浦市大岩田)に従事したという。

会場には国民服や当時の写真などが展示され、参加した30人を超える市民らは平和への思いを新たにした。戦時中、土浦に疎開していたという参加者の森玲子さん(84)=牛久市在住=は「戦争は心も体も食べ物も全てを失う。何が何でも戦争だけは食い止めないといけない」と話していた。

展示された戦時中の国民服を見る参加者=同

【高校野球’19】霞ケ浦、甲子園は初戦敗退 生徒ら最後まで声援

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スクリーンの向こうのクラスメートに歓声を送る生徒たち=7日、霞ケ浦高付属中学校多目的ホール

【池田充雄】第101回全国高校野球選手権大会は2日目の7日、第1試合で本県代表の霞ケ浦高校が登場。大阪府代表の履正社高校と対戦し6対11で敗れた。待望の甲子園1勝はまたもお預けとなった。阿見町青宿の同校では生徒、保護者、職員ら200人以上が応援観戦に詰めかけ、勝利を信じ、スクリーンに向かって最後まで声援を送り続けた。

この試合、履正社は1試合5ホームランの大会タイ記録を含む17安打の猛攻。霞ケ浦は中盤に打線がつながり追い上げを見せたが、序盤の大量失点が最後まで響いた。

霞ケ浦の先発・鈴木寛人は1回表、履正社の先頭と4番にそれぞれソロホームランを打たれ、ペースを乱された。低めを突こうとしたスライダーやチェンジアップが決まらず、高めに浮いたストレートを狙われた。2、3回にも2ランを含む計5安打を浴び、0-7と引き離されたところで降板。3回1死からマウンドを継いだ山本雄大は変化球を巧みに使い、テンポの良い投球で相手の打ち気をそらすが、わずかに甘く入った球を捉えられ、5・6・8・9回に1点ずつを許す。

霞ケ浦の反撃は3回裏、天野海斗のソロホームランから。6回には先頭の黒田悠真が四球を選び、小田倉啓介の中前打で一、二塁とすると、吉本光甫の右翼への二塁打と、天野の左中間三塁打で計3点を加え、履正社のエース清水をマウンドから引きずり下ろす。2番手の岩崎からも飯塚恒介の二ゴロで1点を奪い、この回で5-9と4点差まで迫る。

8回には山本の遊ゴロで1点を加えたが、反撃もここまで。9回はダブルプレーであえなく試合終了。3回の2死満塁や、5回の無死一、三塁といった好機を生かせていれば、また別の展開もあったかもしれない。

「来年も頑張ってほしい」

「2回戦はみんなで甲子園で応援するつもりだった。行けなくなって残念だけど、ここまで一緒に頑張ってこれて野球部には感謝している」と試合終了時、目頭を押さえながら話したのは、2年生の岩瀬桃奈さん。山本投手や瀬川悠人捕手ら同級生の活躍に「来年もすごく応援したい気持ち。頑張ってほしい」とエールを送る。

「天野くんが打ってくれてチームに流れが来て、すごくよかった」と話すのはクラスメートの瑞穂花鈴さん(3年)。日ごろの天野選手は明るく元気で、いつもふざけている感じなので、試合中の真剣な表情に感動したそうだ。

先輩の活躍をまぶしそうに見つめる附属中硬式野球部の部員たち

同高附属中学の硬式野球部員、約30人も試合を見守った。「両チームとも一つひとつのプレーのレベルが高くてすごかった」と比氣叶夢さん(中3)、「一緒に練習した人が甲子園に出ていて感動した」と根本優真さん(同)。先日、ボーイズリーグの全国大会であるリポビタンカップの中学生の部に出場し、1回戦突破を果たしてきたばかり。兄弟チームそろっての1勝はならなかったが、次は自分たちが先輩の夢を引き継ぐ番だ。「来年は自分たちが1年からベンチ入りして、甲子園で活躍したい」と山田大河くん(同)は意気込んだ。

【履正社】清水、岩崎-野口 【霞ケ浦】鈴木寛、山本- 鈴木春、瀬川 ▽本塁打=桃谷、井上、野上、西川、桃谷(履正社)、天野(霞ケ浦)

筑波ふれあいの里をアウトドア拠点に つくば市が基本構想着手

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筑波山麓の筑波ふれあいの里

【鈴木宏子】筑波山麓にあるつくば市営の自然活用型施設「筑波ふれあいの里」(つくば市臼井)を、近年注目を集めるアウトドアの拠点に再整備しようと、つくば市が基本構想の策定に着手する。

五十嵐立青市長の公約の一つ。2018年度にアウトドアフィールド観光資源活用調査を実施した結果、筑波ふれあいの里が最もアウトドア拠点にふさわしいという回答を得たため再整備する。18年8月に同市と地域活性化に関する包括連携協定を締結したアウトドア用品メーカー「スノーピーク」(新潟県三条市、山井太社長)が、17年から市の委託を受けて観光資源のコンサルティングを実施してきた。

基本構想の策定に向け市は、7月12日から22日まで策定業務のプロポーザル参加申し込みを公募した。企画提案書を8月16日まで受け付け、21日に非公開で審査を実施する。同策定業務の予算は約815万円。

市観光推進課によると、何社から応募があったかについて現時点で公表できないとしている。基本構想は来年3月までに策定する。2020年度以降、設計、再整備を実施するが、来年度以降のスケジュールは未定。現在の施設を生かすのか、全面的に再整備するのかなど、再整備の規模や予算額なども現時点で未定という。

筑波ふれあいの里は1989年3月に都市と農村の交流施設としてオープンした。面積は約14ヘクタール。宿泊施設、コテージ、キャンプ場、バーベキュー施設、そば打ちや染色の体験施設、長さ100メートルのローラースライダーなどがある。2017年度の利用人数は約2万5500人で、目標の年間2万5000人をわずかに上回る。利用人数はここ数年ほぼ横ばいとなっている。17年度の年間事業費は約7280万円。

【霞ケ浦 4年ぶりの夏舞台】㊦ 頼むぞ!夏の初戦の壁を越えろ

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決勝進出を決め喜ぶ山本と仕黒

こつこつ打線が花開く

【伊達康】初戦の土浦三は好投手・濱崎鉄平に3点に抑えられたがミスなく守り勝つことができた。その後、藤代・中山航と石岡一・岩本大地の県内で5本の指に入る好投手との壮絶な死闘を2試合勝ち抜いた霞ケ浦は、試合を重ねるたびに強くなった。

特に今年は弱点と言われていた打線が上り調子になったことが大きかった。チームとしてホームランは1本もなかったが、髙橋祐二監督が「こつこつ打線」と名付ける単打でつなぐ打線が花開いた。1番の天野海斗は6試合全てでヒットを記録し打線を牽引、.360もの高打率を残した。4番に起用された山本雄大も打率.368と役目を果たした。

特に藤代戦のサヨナラ打が印象に残る。大会前の監督インタビューで髙橋監督が期待する選手として挙げた5番の仕黒大樹は、21打数9安打と監督の期待に大いに応える活躍をみせた。守備でも準決勝・水城戦で相手の追い上げムードを断つ逆シングルグラブトス併殺のビッグプレーがチームに勇気を与えた。

監督の期待に見事に答えた仕黒大樹

さらに1年生ながら2番に起用された飯塚恒介が21打数10安打と大当たりし、攻撃の起点として大いに機能した。巧みなバットコントロールで甲子園を沸かせてくれるに違いない。

4回戦のヤマ場 Dシードが生んだ偶然の産物

投手の起用方法では左腕の山本雄大(2年)が初戦の土浦三をはじめ、石岡一や水城などのシード校に対し中盤まで試合を作り粘り強く戦う原動力となった。県内ナンバー1の好投手・鈴木寛人をストッパーとして起用できたことで終盤に競り負けるリスクをうまく回避できた。

また、大会前に髙橋監督が勝ち上がりのポイントに挙げていた藤代戦では、髙橋監督の思惑どおりに休養十分の両エースのガチンコの投げ合いとなった。4回戦という早い段階で強敵・藤代とのヤマ場を迎え鈴木寛人が完投できたことはDシードが生んだ偶然の産物だ。これがもし準々決勝や準決勝で藤代と当たる組み合わせとなっていたならば、決勝戦での鈴木寛人の消耗具合は異なったであろう。

夏初戦の壁を越えてくれ

6日から開幕する夏の甲子園。霞ケ浦は大会2日目の第1試合に大阪代表の履正社と対戦する。相手はプロ注目の強打者・井上広大を擁して春夏連続出場を果たした超強豪校であり正直言って分が悪い。ただし霞ケ浦のエース鈴木寛人も大会屈指のプロ注目右腕として各種の媒体から取り上げられる。よく「野球はピッチャーの出来で試合の9割が決まる」と言われる。総合力は相手が勝っていようとも、霞ケ浦の「こつこつ打線」でなんとか1点をもぎ取り、大エース鈴木寛人がピンチを背負いながらも最後までしのぎきる。そんな試合展開に持ち込んで勝利をたぐり寄せて欲しい。

去年も書いたが「常総学院じゃないと夏の甲子園で勝てない」―ちまたではこんな言葉をよく耳にする。茨城の常総学院以外の夏の代表校は、2005年の藤代が柳川(福岡)に勝利して以来、14年間も勝利していない。常総学院以外の代表校には長く初戦の壁が立ちはだかっているのだ。長く立ちはだかった決勝戦の2度の壁を越えた霞ケ浦が、今度は夏の初戦の壁を越えてくれるに違いない。頼むぞ霞ケ浦!

➡大会前の霞ケ浦・髙橋祐二監督のインタビューはこちら

【霞ケ浦 4年ぶりの夏舞台】㊤ プロ注目右腕の鈴木寛人が期待以上の活躍

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マウンドに集まる霞ケ浦ナイン=茨城大会

【伊達康】第101回全国高校野球選手権茨城大会は7月25日、霞ケ浦が4年ぶり2度目の栄冠を手にして幕を閉じた。6日から始まる甲子園に向けて霞ケ浦の戦いぶりを振り返る。

立ちはだかる好投手たち

優勝した霞ケ浦は、初戦となった2回戦で最速145キロ右腕・濱崎鉄平を擁する土浦三を2番手格の山本雄大(2年)と岩瀬元希の継投により3対1で振り切ると、4回戦は昨秋の県大会準々決勝で敗れた相手であり秋準優勝、春優勝のAシード藤代と早くも激突した。

大会前の髙橋祐二監督の予想通りに、この試合が一番の山場となった。ここまで互いに温存してきた霞ケ浦・鈴木寛人と藤代・中山航の両エースの壮絶な投げ合いは9回を終えても両者譲らず延長戦に突入。10回二死二塁から4番・山本雄大が運命の一打を放って劇的なサヨナラ勝ちを収めた。

4番で2番手投手としてもチームを牽引する山本雄大

2試合続けて延長サヨナラ勝ち

準々決勝は最速148キロ右腕でプロ注目の岩本大地を擁する石岡一と対戦。前の試合で10イニングを投げ切り疲労が残る鈴木寛人を温存し、山本雄大が5回まで2対1と試合を作り1点リードしたまま鈴木寛人につなぐ必勝リレーが成功したが、石岡一がすぐに反撃した。鈴木寛人の140キロを超える高めのストレートを石岡一の5番・武田翼が左中間に弾き返してスリーベースでチャンスを作ると、6番・岩本大地が2ストライクと追い込まれながらも落ち着いてスクイズバントを決めて同点に追いついた。この時、必勝リレーが崩れた霞ケ浦ナインには明らかに動揺が走ったが、場を沈めたのが代わってマスクをかぶった鈴木春樹だった。

鈴木春樹が「低め」を徹底的に要求して凡打の山を築くと次第に鈴木寛人は落ち着きを取り戻し、10回まで石岡一打線をパーフェクトに抑えた。同点となってからも再三のチャンスを迎えたが岩本大地の粘りの投球に全く勝ち越し点を奪えない。

しかし延長10回、石岡一の守備のほころびから勝負が決まる。鈴木春樹が四球と盗塁と暴投で二死三塁とすると、スライダーをキャッチャーが弾いたのを見て瞬時に本塁に突入。非常に際どいタイミングであったが、タッチをかいくぐって生還した鈴木春樹の攻守にわたる活躍で霞ケ浦は2試合連続で劇的なサヨナラ勝ちを収めた。

死闘を終えて抱き合う鈴木寛人と岩本大地(石岡一、背番号1)

常総学院敗退 霞ケ浦に追い風

昨年8月の県南選抜大会決勝(新人戦)では常総学院に大敗を喫した。常総学院の分厚い壁を越えなければ甲子園にはたどり着けないと常に意識し、万全な対策を練ってきた霞ケ浦にとって意外な出来事が起こった。この試合と同時刻に行われていた別会場の準々決勝において、優勝候補筆頭とされた常総学院が常磐大高に1点差で敗れたのだ。ここから一気に霞ケ浦に追い風が吹いた。

準決勝 反撃を断った仕黒のビッグプレー

準決勝はBシードの水城と対戦することとなった。水城は4回戦で昨夏の覇者・土浦日大に完封勝ちを収め、準々決勝ではAシードの鹿島学園をコールドで粉砕した。1年生右腕の樫村佳歩がここまで4試合全てで先発を任され、小柄ながら最速136キロの小気味のよい投球で相手打線を圧倒して勝ち上がってきた。

この試合でも水城は樫村が先発であったが、霞ケ浦打線は初回一気に4点を挙げ、水城の勝ちパターンを早々に攻略。6点をリードして6回からエース鈴木寛人につないだ。しかし水城打線が粘りを見せ中軸の4連打で2点を返された。今大会初めて2失点を喫した鈴木寛人であったが、セカンド仕黒大樹のビッグプレーで落ち着きを取り戻してその後は4点のリードを守り切り決勝へと駒を進めた。

決勝 100点満点の投球

決勝の相手は常磐大高となった。準々決勝で優勝候補の筆頭・常総学院を相手に4番の所宜和(2年)が5打点の大暴れで9回に逆転。猛打を武器に勝ち上がってきた相手だ。だが、常磐大高は投手陣の疲弊が激しく準決勝までの勢いが残っていなかった。

霞ケ浦は初回から着実に得点を重ね3回で4点差をつけ試合の主導権を握ると、4回には2番手左腕の児島愛斗(2年)を捉え7点を挙げるビッグイニングとした。投げては鈴木寛人が「100点満点でした」という通り7回途中まで1本もヒットを許さない気迫の投球で1安打完封。14対0の大差をつけて4年ぶり2度目の優勝を果たしたのである。(続く)

➡大会前の霞ケ浦・髙橋祐二監督のインタビューはこちら

土浦一高1、2年生が病院訪問 医学コース設置見据え

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土浦一高

【山崎実】県立土浦一高(土浦市真鍋)は、医学部進学研究会(医学研)活動の一環として、1、2年生の病院訪問を実施する。

医学研は、同校が筑波大学や水戸協同病院などの協力の下、病院見学、出前授業などを通して、医学部進学志望生徒に対し、医師になるための志を育むことを目標に、独自に取り組んでいる。今年度は、来年度からの第2学年「医学コース」設置を見据え、第1学年も実施する。

病院訪問は、第1学年医学研が16日、1年生48人が土浦協同病院(同市おおつ野)を訪れ、オリエンテーション、病院内見学、実習、研修医との懇談などを行う。

次いで、第2学年医学研は20日、2年生20人が水戸協同病院(同市宮町)を訪問。カンファレンス見学、院長講話、病院内見学、研修医との懇談などを通し、医療現場や医師としての在り方などを学ぶ。

県は、医療後進県からの脱却―特に、医師不足解消に全力を傾けており、同校医学研の活動が注目される。

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外国人の長期収容問題訴え 土浦駅前で市民がちらし配布

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入管問題の啓発チラシを配布する市民有志たち=JR土浦駅西口

【崎山勝功】牛久入管センター(牛久市久野町、法務省東日本入国管理センター)で外国人収容者が長期収容に抗議してハンガーストライキを続ける中=7月22日付=、多文化共生を目指す市民団体「カチカジャ!いばらき」による街頭啓発キャンペーンが4日、JR土浦駅西口前で行われた。同団体の呼び掛けで集まった市民有志らが、土浦キララまつり会場に向かう市民に向けて啓発チラシを配布し、外国人の長期収容を止めるよう訴えた。

主催した同団体の岡美徳代表(46)=土浦市=は、約2年前から同センターに収容されている外国人との面会活動に取り組んでいる。「会うといつもニコニコしていた人が(ハンストで)ゲッソリしていた。ハンストで歩けなくなって車いすの人もいた」とセンター内の様子を話す。外国人の中には「(外に)出られないなら死んだ方がいい」という人もいるという。ハンストは現在も続いており、参加者数は、仮放免の約束を取り付けてハンストを止めた人も含め、延べ100人近いという。

岡代表は「(外国人収容者は)命を賭けて闘っているので、長期収容問題を広げる運動をしないといけない。牛久入管の問題は外国人の問題ではなくて日本の問題」と訴え、多くの市民が声を挙げることの大切さを強調した。

差し入れ品募る

同団体と共に街頭啓発キャンペーンに参加した市民グループ「FREE USHIKU(フリーうしく)」メンバーの森川暁夫さん(49)=牛久市=らは、ツイッターで、収容されている外国人に差し入れる国際電話用テレホンカードや、シャンプーなどの衛生用品などを募集している。詳細はツイッター「#FREEUSHIKU」まで。