月曜日, 1月 25, 2021
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《霞月楼コレクション》12 ツェッペリン伯号霞ケ浦飛来と熱烈歓迎

【池田充雄】1929(昭和4)年8月19日、風が止まったような夏の午後、土浦の町が突然薄暗くなり、見上げると巨大な銀色の葉巻のようなものが浮かんでいた。大空の巨鯨と形容されたドイツの飛行船LZ-127、愛称を「グラーフ(伯爵)ツェッペリン号」という。 大空を行くツェッペリン伯号の雄姿 ツェッペリン伯爵と後継者フーゴ・エッケナー博士は、1937年までに130機の飛行船を建造。軍事、旅客、航空郵便・貨物などに活用された。1928年に完成したLZ-127は全長236.6メートル、最大直径30.5メートルの偉容を誇り、マイバッハ社530馬力エンジン5基を搭載。燃料は重量軽減のため主にブラウガス(石油気化ガス)を用い、最高速度は128キロ。巡航速度の117キロでは1万2000キロの航続距離があった。 ツェッペリン伯爵(左)とエッケナー博士ら、1911年ごろ 幹部乗員らを霞月楼に迎える

《霞月楼コレクション》11 リンドバーグ夫妻 土浦で名残りの一夜「人生最良の日々」

【池田充雄】1931(昭和6)年9月12日、リンドバーグ夫妻は、霞ケ浦を発つ前の最後の1日を土浦で過ごした。錦秋の筑波山をケーブルカーで登り、夜の土浦の街でそぞろ歩きも楽しんだ。午後6時30分に霞月楼に戻って入浴後、霞ケ浦海軍航空隊の松永寿雄副長主催による歓送会が松の間で開かれた。 霞月楼での歓送会の様子。中央にチャールズと松永副長、その右にアン。外国客向けに特注した高脚の膳が並ぶ 宴を待つ間、満寿子女将が夫妻に茶を立てており、当時10歳の恒二(後の霞月楼3代目)が迎えに行くと、アン夫人が歩み寄り、頬に優しくキスをしてくれたそうだ。芸者の白粉とは違う、初めて嗅ぐ香水は少年にとって忘れられない思い出になり、集まった記者団に感想を聞かれ「とてもいい匂いがした」と答えたという。 1カ月の長旅の末に霞ケ浦へ 霞月楼で歓送会を前にくつろぐ夫妻

《霞月楼コレクション》10 山本五十六 真珠湾攻撃直前に届いた手紙

【池田充雄】霞月楼2代目の堀越正雄・満寿子夫妻は、山本五十六の土浦での親代わりのような存在で、日頃から親身に世話し、転出後も交流が続いたという。 ある日2人の下に山本から手紙が届く。正雄が贈った成田山のお札への礼状だ。日付は昭和16年(1941年)12月5日。太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃の3日前で、北方航路では真珠湾に向けて機動部隊が進軍、山本が座乗する旗艦「長門」以下主力部隊は、退却支援のため山口県岩国市の柱島泊地に待機していた。 手紙にある「最後の御奉公に精進致し居り候」の文言が暗示的だ。もはや生きては帰らぬ覚悟を示したか。海外経験が豊富で彼我の国力の差を知る山本は、対米戦争にはもとより反対の立場だったとされる。1940(昭和15)年9月の近衛文麿首相との会談では「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と答えていた。 霞月楼にある山本の手紙 航空軍備の重要性を認識

《霞月楼コレクション》9 東郷平八郎 霞ケ浦を愛した日露戦争の英雄

【池田充雄】霞月楼の「すみれの間」に、東郷平八郎海軍元帥の書「感神明」がある。東郷は霞ケ浦海軍航空隊が気に入って、たびたび阿見を訪れては霞月楼に立ち寄り、ここで遊んだという。店内では最も小体な8畳の部屋だが、3畳の脇間と2畳の畳縁も備えた粋な造り。美丈夫として名高い東郷は、若い頃は料亭遊びが盛んで何日も居続けたというが、当時はすでに70代半ば。軍神の鎧兜を脱ぎ、穏やかにくつろぐ一時だったに違いない。感神明の書は自ら揮毫して「ここに掛けておきなさい」と言い置き、以来ずっとすみれの間に掲げられている。 霞月楼すみれの間にある東郷の書「感神明」 丁字戦法でロシア艦隊を撃破 東郷平八郎 東郷平八郎は1848(弘化4)年、薩摩藩士・東郷吉左衛門の4男として鹿児島市加治屋町に生まれた。初陣は1862(文久3)年の薩英戦争。戊辰戦争では三等砲術士官として薩摩藩の軍艦「春日丸」に乗り、1868(慶応4)年の阿波沖海戦や1869(明治2)年の箱館戦争で幕府軍の艦隊と交戦。これが日本における近代海戦の始まりとされる。

《霞月楼コレクション》番外編 一色五郎ゆかりの場所

【池田充雄】前回(9月20日付)取り上げた土浦出身の彫刻家、一色五郎のゆかりの場所と、土浦周辺で見られる主な作品を紹介する。 1、一色五郎生家 土浦市西真鍋町10-4 2001(平成13)年に「一色家住宅主屋」として国の登録有形文化財に指定された。1863(文久3)年築の家屋を、元土浦藩家老で五郎の祖父である一色範疇が、明治維新後に隠居所として移築したもの。裏には小堀遠州流の庭もある。かつて日本料理店「一色園」として使われ、後に「和食つじ山」になったが昨年閉店した。現在、内部は非公開。 2、西真鍋獅子 西真鍋町公民館 土浦市西真鍋町3-13 西真鍋獅子

《霞月楼コレクション》8 一色五郎 地域を愛し地域に愛された彫刻家

塑造のように柔らかな写実表現 霞月楼にある「白鷺(しらさぎ)」は、一色五郎が土浦に帰郷した頃の作品だ。冠羽や尾羽の優美な曲線など、実物かと見まがうほど写実的に表現されている。これは油粘土や石こうで造った原型を、星取り法という技術で木彫に起こしたため。 「白鷺」1947年頃、木彫彩色、高さ26cm、霞月楼所蔵 星取り法は明治期に導入された西洋の石彫技術で、東京美術学校で木彫に応用され広く普及したが、戦後は顧みられなくなった。「身近に残るものではこの白鷺くらいか。素晴らしい出来で僕も大好きな作品。大事にされているのはありがたい」と、五郎の子で牛久市在住の彫刻家・一色邦彦さんは話す。 ちなみに五郎の妻・千代子の実家は当時土浦で名をはせた料亭・日新楼で、霞月楼からは本家筋に当たる。

《霞月楼コレクション》7 中村不折 洋画・書・挿絵・収集などに多大な業績

「これぞ不折流」 【池田充雄】霞月楼に「霞月」の書を残した中村不折(なかむら・ふせつ)を紹介する。落款には大正丁巳(1917年)二月との年紀があるが、残念ながら由緒などは伝わっていない。 額「霞月」1917年 霞月楼所蔵 「霞月」の書について、不折コレクションを収蔵する台東区立書道博物館主任研究員の中村信宏さんは「これぞ不折流という、特徴がよく出た作品」と述べ、「書の本場である中国には、ただ美しく書けばいいというものではなく、大事なのは気迫であり、それがあれば自然とまとまりが出るものだという理念がある。不折の字は決して美しくはないが、一度見たら忘れられない風格を備えている」と解説している。 不折が霞月楼を知ったのは、1907(明治40)年に東京朝日新聞の仕事で筑波山を訪れた際だろうか。あるいは小川芋銭の線もあり得る。本多錦吉郎の死後、芋銭ら門下生が建てた顕彰碑には不折が銘を書き、書道博物館には合作の「猫の図」が残るなど、2人の交遊を示す証拠もある。1907年や1917年ではなさそうだが、何かの機会に霞月楼で酒を酌み交わしていないとも限らない。

《霞月楼コレクション》6 門井掬水 日本の情緒や風雅を体現する美人画

芝居の一場面を描いたような屏風 【池田充雄】霞月楼にある門井掬水(かどい・きくすい)の屏風(びょうぶ)は謎の多い作品だ。右扇では若侍が花吹雪の中を歩み、左扇には女性が宴を楽しんでいるが、図柄は続いていない。また、本来は1隻に1つだけの落款が、左右2カ所に入っている。これらの点から、別々の屏風から人物だけを継ぎ合わせ、仕立て直したかと推察される。当初の形では、花見の場の出会いの景を描いていたのかもしれない。 題・制作年不詳 二曲一隻屏風 185×200cm 霞月楼所蔵 名実とも揺るがぬ清方の一番弟子 門井掬水は1886(明治19)年、鹿島郡札村(現鉾田市札)に生まれた。本名英。戸籍上の父は門井源左衛門だが実際は祖父にあたる。生家は「銭屋」の屋号で両替商や河岸問屋を営み、源左衛門は1889(明治22)年の町村制施行の際に白鳥村の初代村長も務めた。

《霞月楼コレクション》5 小林巣居人 田園と水郷を生涯描いた自然画人

芋銭・百穂の二師に鍛えられる 【池田充雄】小林巣居人(そうきょじん)は1897(明治30)年、稲敷郡長戸村(現龍ケ崎市半田町)の農家に生まれた。本名は善。長戸尋常小学校(現長戸小学校)を経て、1911(明治44)年に長戸農業補修学校を卒業、地元の青年学校で農業指導助手を務めた。 作品名・制作年不詳 紙本彩色額装 71×48cm 霞月楼所蔵 1917(大正6)年に画家を志し、牛久の小川芋銭を訪ねる。芋銭の勧めで翌年春に上京し、平福百穂の画塾に入門。後に巣居人は「第一の師・芋銭より発想の自由を教えられ、第二の師・百穂からは厳しい写生を叩きこまれた」と語っている。 1921(大正10)年の第2回中央美術展に初入選。茨展には1923(大正12)年の第1回から出品、2~5回に県賞を連続受賞し、その後無鑑査。院展では1928(昭和3)年の第15回展に「竹林」で初入選、1931(昭和6)年には院友に推挙され、画壇の評価を高めていく。

《霞月楼コレクション》4 永田春水 土浦に始まる戦後美術復興の先導者

対を成す郷土美術界の双璧 【池田充雄】色紙2枚を貼り交ぜた額が霞月楼にある。左の小川芋銭作は堂々たる雄の軍鶏(しゃも)のようで、右の永田春水作はその幼鳥にも見える。それぞれ時期も作風も異なるが、戦前・戦後の茨城画壇を牽引した2人の作品が肩を並べるのは、奇遇というか象徴的だ。 小川芋銭・永田春水の色紙額装 霞月楼所蔵 父母への恩愛を雅号に刻む

《霞月楼コレクション》3 小川芋銭 農村と水辺の風物を愛した文人画家

「浮れ舟」紙本淡彩 霞月楼所蔵 長期滞在の礼にと贈られた作品 【池田充雄】小川芋銭(おがわ・うせん)が霞月楼に滞在した際、主人に贈ったとされる作品「浮れ舟」を掲げる。制作年代は1934(昭和9)年春と伝わるが定かではない。かつての霞月楼は宿泊もでき、長逗留(とうりゅう)して作品に向かう文人墨客(ぶんじんぼっかく)が多くいたそうだ。 落款(らっかん)には「芋銭併題」とあり、これは画と題(賛、添え文とも)共に芋銭という意味。題の冒頭にある「花」と「月」の図柄で「花月」と読ませ、店の名である「霞月」を折り込んだ。全文は以下のように読める。 「花月美なるてふ 千金のよい おぼろ月夜や かすみが浦に 遊ぶなら あの うき草の 浮れ舟」

《霞月楼コレクション》2 浦田正夫 土浦疎開を機に新たな作風開花

【池田充雄】日本芸術院会員、日展事務局長などを務めた日本画の重鎮、浦田正夫は土浦とも縁が深い。1910年(明治43)熊本県山鹿市生まれ。代々画家の家系で祖父は浦田雪翁、伯父は高橋廣湖、父は浦田廣香。 題・年代不詳(1945年に描かれた類似構図の写生があるため、同年以降の制作と推察される)絹本彩色軸装 43×50.5cm 霞月楼所蔵 1915(大正4)年、父に連れられ上京。中学卒業後は画家を目指し、伝統の大和絵に近代的な造形感覚を加味した「新興大和絵」を唱えた松岡映丘に入門。並行して岡田三郎助らに洋画も学ぶ。東京美術学校日本画科に入学し、在学中の1933(昭和8)年、第14回帝展に「展望風景」で初入選。その後も帝展や文展などで受賞を重ねた。 美校卒業後は同じ映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社(るそうがしゃ)を結成。後にその活動は一采社(いっさいしゃ)に引き継がれる。正夫は両団体を通じて中心的役割を果たし、仲間と共に新しい日本画の創造に取り組んでいく。 戦後の美術復興を土浦から始める

《霞月楼コレクション》1 大川一男 国芳派の流れを汲んだ美人画

【池田充雄】長い間、土浦には美術館がないと指摘されていた。美術品を収集・展示する公共空間だ。アルカス土浦内に市民ギャラリーが2017年開館し、展示の機能は備わったが、収集による文化の保全・継承面は十分といえない。かつての土浦では、市民がそうした文化をよく担ってきた。その代表的存在が料亭・霞月楼(土浦市中央、堀越恒夫代表)。本シリーズでは霞月楼に残された地域ゆかりの名品に目を向けていく。 霞月楼 1889(明治22)年創業、130年の歴史を誇る土浦きっての老舗料亭。各時代の政治家、軍人、文化人ら、土浦に降り立つあまたの著名人をもてなした。2代当主の堀越正雄はかつて東京・麹町(現永田町)の星岡茶寮に在籍し、その草創期を支えた名料理人だったという。 往時の土浦の風情を漂わせる 「わかさぎ焼」1938年 絹本彩色 177×237cm 霞月楼所蔵 「わかさぎ焼」は土浦出身の日本画家、大川一男が1938(昭和13)年に描いた作品だ。当時の川口町(現川口1丁目)あたりは、霞ケ浦から揚がった新鮮なワカサギを焼き売りにする店が川筋沿いに立ち並び、あぶられた魚の香ばしい匂いが街中に漂っていたという。土浦小唄にある「焼かれながらも二本差し」の風情のまさにそのままだ。

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「春を取り戻したい」 入学式に代わるイベントを模索 筑波大1年生

【山口和紀】新型コロナ拡大の影響で入学式が中止となってしまった筑波大学(つくば市天久保)で、「春を取り戻す」ためのイベントを企画している学生がいる。水谷奈都乃さん(教育学類1年)、昨年4月から中止になった入学式に代わるイベントを学生有志で開催できないか模索してきた。 入学直後から企画のプロジェクト 昨年、筑波大学は新型コロナウイルスの拡大の影響を受けて、入学式や新入生歓迎祭、宿舎祭などのイベントをすべてに中止した。水谷さんが「春を取り戻す」ためのプロジェクトを企画したのは「ここで何もしなかったら、将来いまの状況を思い出したときにきっと後悔する」という思いがあったからだ。 プロジェクトを企画したのは入学してすぐの4月だったが、水谷さん自身も、大変な状況にあった。入学をきっかけに埼玉県からつくばに引っ越すつもりだったものの、当時大学からは「新入生は実家に留まるように」との指示が出ていたため断念せざるを得なかった。授業や新歓もすべてオンラインで行われ、所属する教育学類を除いて、交流関係はほとんど広がらなかったという。 企画がスタートした当初、水谷さんは「学生有志で入学式の代わりになる大きなイベントを行いたい」と考えていた。しかし、感染拡大はその後も続き、状況も悪化していった。「去年の7月くらいまでは夏を超えたらできるかも、とは思っていた。でも、夏休みに入ってから、自分の思った通りのことはできないと分かった」と振り返る。 水谷さんは、入学式の代わりになることはできなかったとしても「将来振り返ったときに後悔しないようなことがやりたい」考えた。

《食う寝る宇宙》78 「3分間宇宙天気」スタートへ

【コラム・玉置晋】高校生や大学生のとき、興味がある宇宙関係のイベントを見つけては出かけて行ったものです。必要とあれば、泊りがけで行くこともありました。でも社会人になって忙しくなると、なかなか出かけることは難しくなりました。 ところが、昨年から続くコロナ禍で様々なイベントがオンライン化されています。主催者側としては苦肉の策ということが多いようですが、日本中、いや世界中のイベントに気軽に参加できますので大変助かります。 昨年、学会などに自宅から参加できたのは大変新鮮な出来事でありました(例えばコラム71「おうちで宇宙環境シンポに参加」)。そして、イベントに参加するだけでなくて、遠隔地を拠点とするコミュニティーに加入することも可能になりました。自宅から新たな出会いが生まれたのです。 宇宙コミュニティー「宇宙人クラブ」 関西を拠点とする宇宙コミュニティー「宇宙人クラブ」(代表:福海由加里さん)で、宇宙天気防災に関する講演をさせていただく機会がありました。このクラブは、宇宙ビジネス新規事業のタネ創出を目指すコミュニティーです。関西の電気メーカーの有志が中心となり、2018年に設立されました。 福海さんは、「誰でも、いつからでも、自分の未来に挑戦できる。地球上の頑張るすべての人類のそれぞれの人生を応援したくて」、クラブを立ち上げたそうです。だから、社外にも開かれたコミュニティーとしたそうです。今や350人以上の個性的なメンバーが集まっています。

タブレット、PC寄付を つくばの無料塾 発達障害児支援やオンライン授業に

【川端舞】生活困窮世帯の子どもに学習支援を行う「無料塾」を運営するNPO法人「居場所サポートクラブロベ」(つくば市島名)が、不要になったパソコンやタブレット端末の寄付を募っている。発達障害などがある子どもたちに貸し出すほか、今後新設する障害児向け放課後デイサービスでも、パソコンやタブレットを使った学習支援を行う。 現在、無料塾に通っている子どもは3教室併せて小学生から高校生までの85人。そのうち、発達障害や外国人児童など読み書きに難しさを抱える子どもは45名程度いるという。 タブレット教材に集中 無料塾ではタブレットを1台、ノートパソコンを5台保有しており、読み書きが難しい子どもたちのうち、小学生にはタブレットを、中高生にはパソコンを貸し出している。理事長の森美智子さん(54)は「通常の教材だと興味を持てず、すぐに遊んでしまうが、タブレットの教材だと集中力が続く」と話す。 タブレットの台数を増やしたいと思い、民間の助成金事業に応募し、パソコンのみ寄付を受けた。それでも不足するため、一般家庭から寄付を募ることができないかと考えた。パソコンとタブレット、それぞれ10台追加できれば、必要な子どもに貸し出せるという。寄付されたタブレット等には、ゲーム感覚で学べる教材ソフトを入れる予定だ。

《宍塚の里山》73 謎の広場に2匹のタヌキを発見!

【コラム・及川ひろみ】宍塚には不思議な広場がある。雑草がなぎ倒され、ぽっかりと空いた広さ20畳ほどの広場。谷津のくぼ地で、日当たりがよく、周囲は背の高い雑草に覆われ、人が近寄った形跡は全くない。しかも、謎の広場は展望台と呼ばれる高台から丸見え。何のための広場なのか不思議でならなかった。 謎の広場 1月3日の午後3時過ぎ、1匹の丸々と太ったタヌキが広場の隅で寝入る姿があった。日が落ち、寒くなってきたなと思った4時少し前、眠っていたタヌキがやおら起き上がり、広場の縁を歩き始めた。間もなく、草むらから呼び出されたかのように、もう1匹のタヌキが現れた。2匹はしばらくじゃれ合っていた。その後、1匹が近くの穴に入ると、残された1匹も同じ穴に勢いよく飛び込み姿を消した。 2匹は同じような大きさ。番(つがい)のようだ。それにしてもこんな広場、どうやって作ったのだろうか。展望台は五斗蒔谷津(ごとまきやつ)と呼ばれる宍塚大池の南側の先端にあり、散策路から少し入ったところ。ここは谷津が広く見下ろせる見晴らし抜群なことから、野鳥観察のポイント。これまで何度となく訪れた所だが、これまで広場が作られたことはなかった。 それにしても、この広場は日当たりがよく、北側は小高く、北風が遮られ、昼寝には気持ちよさそうなところ。宍塚にはタヌキの成獣を襲う動物がいないからか、その無防備さにちょっと驚く。この時期のタヌキは、疥癬(かいせん、皮膚病)に侵され、やせ細るものも多いが、今回見た2匹のタヌキはとも丸々と太り、色つやもよく元気そうだった。 アライグマ、ハクビシン、キツネもいる