火曜日, 8月 11, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》2 浦田正夫 土浦疎開を機に新たな作風開花

《霞月楼コレクション》2 浦田正夫 土浦疎開を機に新たな作風開花

【池田充雄】日本芸術院会員、日展事務局長などを務めた日本画の重鎮、浦田正夫は土浦とも縁が深い。1910年(明治43)熊本県山鹿市生まれ。代々画家の家系で祖父は浦田雪翁、伯父は高橋廣湖、父は浦田廣香。

題・年代不詳(1945年に描かれた類似構図の写生があるため、同年以降の制作と推察される)絹本彩色軸装 43×50.5cm 霞月楼所蔵

1915(大正4)年、父に連れられ上京。中学卒業後は画家を目指し、伝統の大和絵に近代的な造形感覚を加味した「新興大和絵」を唱えた松岡映丘に入門。並行して岡田三郎助らに洋画も学ぶ。東京美術学校日本画科に入学し、在学中の1933(昭和8)年、第14回帝展に「展望風景」で初入選。その後も帝展や文展などで受賞を重ねた。

美校卒業後は同じ映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社(るそうがしゃ)を結成。後にその活動は一采社(いっさいしゃ)に引き継がれる。正夫は両団体を通じて中心的役割を果たし、仲間と共に新しい日本画の創造に取り組んでいく。

戦後の美術復興を土浦から始める

浦田正夫

1945(昭和20)年、空襲で池袋の家を焼失した浦田一家は藤沢村(現土浦市藤沢)に疎開。1948(昭和23)年には栄村(現つくば市上境)、1951(昭和26)年には土浦市内へ転居した。その間、正夫は永田春水らと県南美術協会を設立するなど地域の美術復興に貢献。栄公民館報の表紙絵も担当した。1953(昭和28)年には東京に戻るが、その後も県展審査員などの形で茨城との縁は続いた。

1951(昭和26)年から山口蓬春に師事。蓬春も古典的な大和絵から出発し、西欧近代絵画を取り入れながら新しい日本画を模索していた一人だった。

この頃から正夫の作調も大きく変化する。端緒となったのが1952(昭和27)年の「牛」だ。当時、土浦市下高津の国立霞ケ浦病院(現霞ケ浦医療センター)に入院中、窓外に見える牧場の牛を数多くデッサンした。まず生き物としての牛を研究するために描き、次に構図や色彩を考え、試行錯誤を重ねながら作品に落とし込んだという。

自然の風景を柔らかな表情で描く

「牛」1952年 絹本彩色額装 第8回日展出品 212×227cm 茨城県近代美術館所蔵

疎開先に土浦近郊を選んだのは、絵を描くのに必要な環境を考えた結果でもあった。朝昼晩と姿を変える風景があり、水辺や田園の音があり、土地の人情すら感じられる。そうした自然のすべての要素と一体となりながら、自身の琴線に触れた美を絵筆によって定着させていった。

土浦を離れてからも北関東や東北の自然に題材を求め、特に蓮のある水辺の風景は生涯の重要なモチーフになった。水彩画を思わせる柔らかな色彩とタッチを得意とし、一見すると無造作に描き上げたような印象の作品も、実は「牛」と同様に多くのデッサンや下絵の工程を経て、綿密な計算が施されている。

神龍寺障壁画に最期の思いを託す

1998(平成10)年に落成した神龍寺(土浦市文京町)本堂には、正夫と弟子で養女の浦田由佳子の手による障壁画がある。

正夫は1995(平成7)年に依頼を受けると、土浦での日々を思いながら構想を練り、写生など取材を重ねていたが、肝臓がんのため1997(平成9)年11月に87歳で他界。残された小下図を元に由佳子さんが制作を進め、完成させた。

神龍寺障壁画のうち「白梅」「太陽」 1998年

障壁画は全部で39枚。大間天井に「龍」、外陣3室には「松」「白梅・太陽」「紅梅・月」、室中には「蓮花」と杉戸の「竹」、室中脇間には「赤牡丹・白牡丹」がそれぞれ描かれている。由佳子は「小下図には部屋の大きさに対してふさわしくないものもあり、大幅に変更せざるを得なかったが、義父の思いは引き継ぐことができたと信じている」と話している。(文中敬称略)

  • 取材協力・参考資料▽茨城県近代美術館▽宝珠山神龍寺▽浦田由佳子氏▽図録「現代作家デッサンシリーズ浦田正夫展」(1987年、朝日新聞社)▽図録「茨城近代美術の精華」(1992年、茨城県近代美術館・茨城県つくば美術館)▽図録「浦田正夫の世界展」(2000年、茨城県近代美術館)▽桜村史下巻
  • シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

自宅に負傷した日本兵がかつぎこまれた【語り継ぐ 戦後81年】1

つくば市 飯田猷子さん(92) 筑波山麓のつくば市神郡に住む飯田猷子(みちこ)さん(92)の終戦は、小学6年の時だった。「戦争には良い思い出がなく、つらいことばかりなので、あまり話したくはない」と言いながらも、80年前を振り返ってくれた。 猷子さんは、室町時代から伝わる、和紙で贈り物を包む礼儀作法「折形(おりがた)礼法」の指導者で、「日本の折形歳時記 礼の心」などの著書がある。 81年前、筑波山麓の上空にはかなりの戦闘機が行き交った。空中戦を繰り返す戦闘機の様子も見られた。筑波山は飛行機にとっては目印なので、かなりの頻度でやってきたのではないかという。近隣の作谷には、落下傘やグライダーを用いて敵地に進むグライダー訓練基地だった西筑波陸軍飛行場があった。 ラジオで空襲警報が鳴ると、各家庭にある防空壕に身を寄せた。辺りが静かになると防空壕から出てくる。1時間ぐらい防空壕に身をひそめていたという。幸い神郡周辺に爆撃はなく家屋に被害はなかったが、近くの山林に戦闘機が墜落する事件があった。村人たちは米兵だと思い、竹やりを持って集まった。ところが、戦闘機に乗っていたのは日本兵。みんなで助け、当時、祖父が区長だったこともあり、猷子さんが住む飯田家にかつぎ込んだ。猷子さんは血だらけの兵士を見てとても怖かったと振り返る。兵士はその後、作谷にあった施設にかつぎこまれ手当てを受け、助かった。後に歩けるようになり、白い患者服を着たままお礼に来たという。 猷子さんは1933(昭和8)年、東京都北多摩(現在 東久留米市)の寺の長女として生まれるが、母の実家だった神郡に2歳で預けられた。その後、猷子さんの叔父にあたる飯田家の長男、次男が中国北部で戦死、3男も入隊したのち病気になり、戦後自宅で亡くなった。飯田家に男子の後継者がいなくなり、猷子さんは祖父母に育てられながら、飯田家の後継者となった。 1945(昭和20)年、戦況がひどくなるころは、通っていた田井国民学校(田井小学校、2018年に廃校)でも授業が少なくなり、サツマイモ作りなど農作業ばかりしていた。「当時の子供は食べるものも食べていないので力も出ず、くわなどの農具がうまく扱えず大変だった」。収穫前に、終戦を迎えた。 8月15日は、自宅で玉音放送を聞いた。意味はわからなかったが戦争が終わったことを知った。うれしいとか、悔しいとか、そういう感情はなかった。子供たちの間では、戦争が終わったのだから、勉強しなくても済むんじゃないかという噂も広がった。ただ「空襲警報もなくなり、戦争から解放されたのはうれしかったと思う」と語る。 猷子さんはその後、土浦の土浦二高に進学、自転車で常陸北条駅まで行き、旧筑波鉄道で通った。北条の坂がつらかった。大学に行きたかったが祖父母の反対で行けず東京洋裁学校をへて、大手電機メーカーに就職、社長秘書として2年勤め、大変勉強になったという。東京にいた4年間は、母親がいる東久留米から通った。 神郡の飯田家で生きていくことを納得し、つくばに戻り23歳で結婚。飯田家を守っていくことになる。一度東京に出たという体験が、田舎と東京の両方を知るという経験になり、田舎の良さや自然のありがたさがわかってとても良かったという。自然が好きで、日本アルプスなどの山を歩いた。「この年齢でも足腰が丈夫なのは若い頃山を歩いて鍛えておいたから」だともいう。 世界各地で今も戦争が続く世の中については「人間の欲望がある限り戦争はなくならない。欲望は人間の力の源でもあるから戦争をなくすのはとても難しい。小さなコミュニティでさえ、争いを起こす、人が争うのは必然のような気がするので、戦争がなくなる世の中は来ないのではないか」と話した。 今は本を読んだり、詩を書いたりして、ゆったりしたときを過ごしている。(榎田智司)

最終話《続・平熱日記》195

【コラム・斉藤裕之】ちょうど24年前、大工の弟と2人でここに家を建てた。その時に内壁に使った漆喰(しっくい)が余ったので、それを木っ端に塗って絵を描いてみた。それから古いハエたたきを見つけて、その朽ちかけた金網に漆喰を塗って最初に描いたのは、小さな木彫りの馬の絵。その絵は手製の額に入れられて今も手元にある。 「平熱日記」と題してその小さな絵を発表したのが今から16年前。その4年後、タブロイド判「常陽新聞」に同じタイトルのエッセイを寄稿し始めた。新聞休刊後は、タイトルを「続・平熱日記」に変え、WEB版「NEWSつくば」に掲載してきた。これまでにざっと350話ほど。 近く「平熱日記」を出版 今年の初め、千曲市にあるアートコクーンみらいの上沢さんから「平熱日記」を本にしてみないかというメールが来た。文章もさることながら、毎回自筆の絵を載せ、それも長い間続いているのがいい、と。そう言われると、「飽きもせずに続いているもんだ」と思わないではないが、毎朝小さな絵を描き、日々の些事(さじ)を言葉でつづることは性に合っていた。 正直うれしかったが、どこか他人事のように感じた。確かに前からそういった声はないではなかったが、「それほどのもんでもない」と本人は思っていた。ところが、彼女はあっという間に立派な企画書を作り(彼女は物書きからスタート)、出版社に話を持ち掛けてくれた。紆余(うよ)曲折はあったものの、本になる算段はついた。 そこで、「続・平熱日記」となってからの200話近くから、約90話を抜粋することとなった。70話前後までの作品画像は、デジカメでWEB用に撮ったので印刷には耐えられそうもない。そこで出版を機に撮りなおすことにした。すでに現物がないものは、仕方なく別の絵の画像に差し替えることにした。 コーヒーの花が咲きましたよ! その作業をほぼ終えた日のこと。NEWSつくばから、同メディアが配信開始から10年になるのを機に、コラムなどの顔ぶれを一新したいと言ってきた。この知らせに私は不思議な偶然を感じた。この夏からしばらく、故郷山口に帰って暮らしてみようと考えていた矢先だったからだ。私は何の未練もなく「続・平熱日記」を終えることにした。それから、このコラム「最終話」を出版される本の「まえがき」にすることを思いついた。 山口に発つ1週間前、スマホに着信が…。「コーヒーの花が咲きましたよ!」。カミさんが生前大切にしていた人の背丈もあるコーヒーの木。その後、わが子のように面倒を見てくれた「サイトウコーヒー」のマスターのやや興奮気味の声だった。送られてきてた、4年越しに咲いた星のような白いコーヒーの花の画像に「いってらっしゃい」と言われているような気がした。 コラム最後の絵は家の扉を描くことにした。家族や友人が出入りした扉。カミさんと結婚パーティーをした、今はなき東京芸大の大浦食堂からもらってきた扉の絵。(画家)

霞ケ浦、中京に勝利し2回戦へ【高校野球’26】

甲子園球場で開催中の第108回全国高校野球選手権大会は9日の第4試合、県代表の霞ケ浦が中京(岐阜)と対戦、6-3で勝利し2回戦に勝ち進んだ。阿見町青宿の霞ケ浦高校ではパブリックビューイングが催され、生徒、保護者、OB・OGら約70人がスクリーンに向かって声援を送った。 霞ケ浦は一昨年の智弁和歌山戦に続く甲子園で2度目の初戦突破。快挙は母校で観戦応援するクラスメートたちにも勇気を与えた。サッカー部3年の濱田晋吾さんは「彼らの活躍が、自分たちも頑張らなくてはと思う原動力になった。次は自分たちがみんなを(全国選手権大会の舞台となる)国立競技場へ連れていきたい」と意気込み、同じく稲葉涼太さんは「普段クラスでは明るく元気な野球部員たちが、スクリーンの向こうで真剣な表情で戦っているのを見て感動した」と話した。 第108回全国高校野球選手権大会 1回戦(9日、甲子園球場)霞ケ浦 001022100 6中 京 100000200 3 霞ケ浦が中京のエースでU-18日本代表候補の鈴木悠悟投手を打ち崩した。3回表、7番・菊地勇一が四球と盗塁で二塁へ進み、9番・相田歩希の左中間への安打で生還。5回にも相田の右前打や2番・村上聖の左翼線二塁打などで2点を追加し、流れをたぐり寄せた。 6回には、それまで精密にコースへ投げ分けていた鈴木の制球が乱れ、2死一・二塁の好機。ここで8番DH(指名打者)野口空真の中前打と相田の右前打で2点を獲得した。相田はこの試合3安打2打点の活躍。7回には中京の2番手投手・西岡海心に対し、村上の中前打と盗塁から犠打、四球で1死一・三塁とし、5番代打・小磯陽希の内野ゴロで1点を追加した。 霞ケ浦の先発は小林将大。高橋祐二監督は「最低でも打者一巡、良ければ5回まで」との目論見で送り出したというが、大きく曲がるスライダーとキレの良いストレートで次々と相手打線をほんろう。初回こそ野手が打球を足に当てる不運もあり1点を失うものの、その後は凡打の山を築いた。7回には相手打線もタイミングが合ってきて1点を奪われるが、この回途中からエース稲山幸汰がマウンドを引き継ぎ、中京の追撃をかわした。 霞ケ浦の2回戦は14日、第2試合で鳴門渦潮(徳島)と対戦する。試合開始は午後4時の予定。

「倭文織」をご存じですか《邑から日本を見る》197

【コラム・先﨑千尋】本コラムをお読みの皆さんは「倭文織」のことをご存じだろうか。私たちは「しづおり」と言っている。「倭文」だけだと、「しどり」、「しずり」、「しとり」、「しつ」などと読んでいる。 倭文織は、藤布、葛布、科布(しなふ)、からむし織などと同じく、山野に自生する植物(楮=こうぞ=など)を素材とした自然布の一つなのだが、いろいろな文献には残っていても現物が存在しないので、どのような織物なのかが分からず、幻の織物とされてきた。 私は35年前の瓜連(現那珂市)町長のとき、この復元に取り組んだ。私の町は奈良時代には「倭文郷(静織郷、しどりのさと)」と言われていた。713年に編まれた『常陸国風土記』久慈郡の条には「郡の西十里に静織の里あり。上古の時、綾を織る機を知る人あらざりき。時にこの村に初めて織りき。因りて名づく」とある。 また、同町にある常陸二宮静神社には、織物の神様・建葉槌命(たけはつちのみこと)がまつられており、織物関係者の信仰が篤(あつ)い。 倭文織を生産する専門的技術者は倭文部(しとりべ)と呼ばれていた。その一人、倭文部加良麻呂は、防人(さきもり)として北九州に派遣され、そのときに詠んだ長歌が『万葉集』に残っている。 私はこのような歴史遺産をよみがえらせようと考え、県の助成を受け、倭文織のルーツ調査を始め、復元のために、原料となる楮の栽培、織る機を購入、技術者を養成した。瓜連小学校には全国初の「しづ織クラブ」も誕生。織物が好きな人たちはグループ「手しごと」を組織し、現在に至っている。 倭文の名を冠した神社は全国に14社あり、関東、山陰、近畿に多い。地名だけだとさらに多く、北は岩手県にまで残っている。苗字が倭文という人もいる。あまり知られていないが、静岡という地名も「しづはた」に由来する。 この織物については、『日本書紀』『万葉集』『古語拾遺』『延喜式』『常陸国風土記』などに記載されており、特に平安時代の『延喜式』には頻繁に登場する。しかし、その素材についての記述はない。 「倭文織」の文献を1冊にまとめて刊行 私はこの時から、倭文織や自然布、古代布などの文献を集めるため全国各地を訪ねた。それが600余になったので、これをまとめるのが自分の使命と考え、5年前に書き始めた。今回やっとそれがまとまり、A4判112ページの『倭文織考』を自費出版した。 その内容は、我が国の倭文織に関する明治以降の研究史、静、倭文、志鳥などの地名、神社名と人名、建葉槌命と関わりのある香香背男(かがせお)、倭文織に関する最近の動向、文献リストなど。これまで目に触れられなかった江戸時代末期の松浦道輔の『倭文考』も、翻刻収録した。表紙は、江戸時代初期に書かれた「常陸名所図屏風」から採った。 本書は非売品。国会図書館と県内の主な図書館、博物館にあるので、関心のある方はそちらで読んでほしい。 最後に。私の筆力が最近衰え、切れ味が鈍くなったので、このコラムは今回でおしまい。長い間のご愛読に深謝。さらば。(元瓜連町長)