金曜日, 11月 1, 2024
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東海第2原発の拡散シミュレーション《邑から日本を見る》149

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東海村役場から見た東海第2原発(写真奥)

【コラム・先﨑千尋】本コラムの読者は既に報道でご承知の通り、茨城県は11月28日、東海村の日本原子力発電(原電)東海第2原発で炉心が損傷する重大事故が起きた場合、放射性物質が周辺地域にどのように拡散するのかを示すシミュレーション(予測)を公表した(県ホームページ)。それによると、事故対応状況や気象条件を変えた22パターンのうち、原発から30キロ圏内の避難者は最大で約17万人に上る。東海第2原発は2011年の東日本大震災後、運転を停止しており、運転再開のための防潮堤工事などを進めている。

予測は、県が避難計画策定を進めるために原電に作成を依頼し、昨年12月に提出された後、県の専門委員会で検証され、周辺15市町村の首長でつくっている「東海第二原発安全対策首長会議」で公表が了承されていた。

予測はまず「30キロ周辺まで避難・一時移転の対象となる区域が生じるよう、事故や気象の条件を設定」という前提でなされている。事故時に放射性物質を取り除くフィルター付きベントなど安全対策設備が動作した場合と、設備がすべて喪失した場合を分け、気象条件も、同じ方向に風が長期間吹くなど風向きごとに示した。拡散範囲を30キロと限定したのがミソだ。

避難者数が最大になるのは、風が北東から南西に向けで吹き、降雨が長時間続いた場合、那珂市、ひたちなか市で10万5千人、5キロ圏内からの避難者を加え、約17万人となる。風が西ないし北西方面に吹くと、私が住んでいる那珂市北部も対象になる。

県の大井川知事は28日の記者会見で予測は「実効性ある避難計画策定の目安になる」と述べ、予測を活用することで計画策定が前進するとの考えを示した。県は、原発の30キロ圏内には約92万人が住んでいるが、そのすべてが一斉に避難するのではなく、風向きや降雨の状態によって避難重点地区を決めたい考えを持っているようだ。

実際には役に立たない絵空事

私がこの予測の発表を見てまず感じたのは、放射性物質の拡散範囲が30キロにとどまらない場合もあるのではないかということだ。風向きもずっと同じ方向ということは実際にはあり得ない。さらに、1日で事故が終息するとは限らない。東京電力福島第1原発事故の際は、50キロ離れている飯舘村の村民は、原発から放射性物質が飯舘村方面に達していることを知らされなかった。また、県内でも霞ヶ浦周辺や守谷市、取手市などで放射性物質の数値が高かったことが知られている。

東海第2原発運転差止訴訟原告団が11月30日に発表したコメントによると、「ヨウ素131の放出量は福島事故の1000分の5、セシウム137は100分の4と、防災に役立たない極めて過小な事故想定」だ。

30キロの範囲にとどめていることと合わせると、最悪の事態を想定していない今回のシミュレーションは、実際には役に立たない絵空事ではないか。最悪の事態を想定すれば、それ以下の事故でも余裕をもって対応でき、住民の被曝を回避できる。福島の事例を原電や県は忘れてしまったのだろうか。それとも知らんふりをしているのだろうか。(元瓜連町長)

次女のおねだり《続・平熱日記》147

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】「じゃあお願いね。よろしく!」。次女は私の絵を何かの贈答品ぐらいに思っている。これまでも、友人へのお礼だとか知り合いに子供がいてだとか…、何枚かの絵をねだられて描いた。冗談で手数料としての値段を言ってみたりするが、全く払う気もないし、「ありがとね」くらいの感じで済まされる。

では、それが私にとって腹立たしいことであるかというと、そうでもない。というのも、日ごろ、自分としてはまず描かないだろうというお題をもらっているようなもので、引き受けたときは少し躊躇(ちゅうちょ)することもあるのだけれども、いざ描き始めると結構楽しかったり、意外な発見があったり、出来上がりを喜んでくれたりするのがいい。そこが自分勝手に好きなものを描いているのと違うところだ。

その次女が、是非とも私を誘って行きたいというバーがあるというのだが、お酒もやめて久しいし、夜は8時に床に就く生活をしている私にとって、下北沢のバーなど海の向こうの国の話ほどにリアリティーを感じない。まあ、行くことはないだろうと思っていた。

ところが、その日はまず長女の家に行って、そうそう、長女の住む高円寺の阿波踊りを見に行った日のことだ。その後、下北沢の次女の家に泊まることにして連れていかれたのが件(くだん)のバーだ。

バー・オーナー夫妻の絵

細い階段を昇っていくと、暗い店内には音楽が流れて数人の客がいた。壁一面にびっしりと並んでいるのはレコード。それこそ、昭和の時代にタイムスリップしたかのような…。私はウーロン茶を注文して、出されたポップコーンをつまんだ。それから、次女はオーナー夫妻に私を紹介した。

それから、「実は2人の絵を描いてほしいの」と耳打ちをして、オーナー夫妻をテーブルに座らせて写真を撮り始めた。聞けば、何十年もこの店をやってきたのだけれども、建物の建て直しに伴って、来年には店をたたむのだそうだ。次女はその思い出を私の絵にして、オーナー夫妻にプレゼントしたいというのだ。

「好きな曲を言ってごらん。すぐにオーナーが棚から引っ張り出して、かけてくれるから。どこにだれの何の曲があるか、オーナーの頭の中には全部あるの…」。次女にそう言われたものの、それほどのマニアでもない私は、おびただしい数のレコードを前にして咄嗟(とっさ)には何も出てこなかった。

しばらくして、次女から画像が届いた。それは件のバーの店内に以前次女に渡した、私の作品展のハガキが飾られている様子が映っていた。「オーナー、飾ってくれてるよ」というメッセージが添えられていた。もう少し後で描こうと思っていたのだけれど、オーナー夫妻の絵を描き始めることにした。今度次女に会うときに渡せるように。多分、私はバーに行くことはないだろうけど。(画家)

秋夜の熱燗に酔いしれる《医療通訳のつぶやき》3

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写真は筆者

【コラム・松永悠】去年から日本酒に目覚め、日ごろ、自宅で地酒の飲み比べをして楽しんでいます。今年に入ってから飲むだけでなく、和酒フェスティバルのボランティアスタッフもして、日本酒との関わり方がさらにアクティブになってきています。そしてこの前の週末、日本酒好きな友人らと一緒に、埼玉県小川町にある酒蔵、松岡醸造を見学してきました。

驚きと幸せに満ちる1日でした。もちろん奥の深い世界だと知っていましたが、ここまで面白いとは…。お米の種類の解説から始まって、製造工程と発酵、タンクに振動を加える実験などの技術の話や、酒税と税務局常駐の歴史、世の中で流れている日本酒にまつわる噂話の真偽まで、興味津々の話題がてんこ盛りでした。

普段、違う銘柄の日本酒を飲み比べることが多いのですが、同じ酒蔵のラインナップを片っ端から飲み比べるのはなかなかできないことです。若々しくてフレッシュな新酒にうっとりしたり、芳醇(ほうじゅん)で濃厚な15年ものの古酒に驚いたり…。微発泡のものや濁り酒など、どれを取っても味や香りなどそれぞれ違っていて、様々な表情を見せてくれて、まさに「みんな違って、みんな良い」でした。

私は仕事柄、消化器内科に行く機会が多く、これまで胃カメラ・大腸カメラの立ち会いも数えきれないほど経験しました。もちろんアルコールは健康に良くないという概念は昔から知っています。肝臓がんの患者、胃がんの病巣画像写真もリアルに見ていますので、恐らく一般の人よりお酒による健康被害を実感しています。

「これらの数値、心当たりありますか?」

一方で、私自身はお酒大好きです。気のおけない友人と熱燗(あつかん)のお酒を飲みながら談笑するのは、まさしく至福の時間であり、人生でなくてはならない楽しみの一つです。父方の祖母は99歳まで生きて、大変お酒の強い人で、毎日のように飲んでいたそうです。祖母に及びませんが、どちらかといえば、多分飲める人に入ると思います。

体というのは、とても素直なものです。お正月のような、短期間でたくさんのお酒を飲む連休の後に血液検査をすると、肝機能数値がぐんと上がります。今年2月に、私が人間ドックを受けた後、看護師から「尋問」を受けました。

「これらの数値、心当たりありますか?」「はい、もちろんです。私は忘年会から始まって、お正月も毎日お酒を飲んでいましたから」「どうすればいいと思いますか?」「しばらく休肝します」。まるで先生に怒られる小学生のようでした。そして4月にもう一度血液検査を受けて、コントロールした効果が見事に現れて、2月の数値の半分以下でした。

ぼちぼち忘年会の予定が入ってくる時期になりましたね。そして来年の2月にはまた人間ドックがあります。同じやりとりになりそうな予感がする今日このごろです。(医療通訳)

<参考>医療通訳の相談は松永rencongkuan@icloud.comまで。

鉾田市の高品質イチゴ農園《日本一の湖のほとりにある街の話》18

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】農業大国・茨城県の中でも屈指の農産物生産地、鉾田市。メロンをはじめ、イチゴやゴボウ、水菜など、様々な農産物の生産量が全国トップクラスを誇っています。そんな中、銀座千疋屋やペニンシュラホテルなど、一流店で愛用される高品質なイチゴを栽培する「村田農園」代表の村田和寿さんに、農園の歴史と栽培にかける思いを伺いました。

村田さんは農園の2代目で、かつては春先にメロン、冬場はイチゴを栽培。それが25年ほど前、イチゴの品種が「女峰」から現在の主流品種「とちおとめ」に移ると、冬場から春にかけてもイチゴが出荷できるようになったため、イチゴ生産に特化することにしたそうです。

主力の品種は現在でも「とちおとめ」。甘味・酸味・香りのバランスの素晴らしさに加え、棚持ちが良く、今もってこれを超えるものは難しいと、村田さんはその品質に太鼓判を押します。

村田さんのイチゴが高級店で愛用されるようになったのは、2008年の洞爺湖サミットの頃。卸先の一つである築地で、ペニンシュラの野島シェフの目にとまったことがきっかけで、一躍パティシエ業界での認知度が高まったそうです。

ただし、村田さんのイチゴが売れるようになったのは、たまたま運が良かったから、ではありません。そこに至るまで、さまざまな栽培上の工夫や販売方法の工夫がなされた上での、必然的なものだったことがお話からわかりました。

丹精した「赤い宝石」

イチゴ生産の最盛期は12月から1月後半、その後春先まで収穫が続きますが、第一に重要なのは「土づくり」。天敵製剤などにより極力農薬を抑えつつ、自家製堆肥を加え攪拌(かくはん)した土壌を1カ月以上発酵させ、良質な土をつくります。

苗にもこだわり、良い系統のものから厳選。さらにハウスごとに状態を細かく観察し、それぞれ微妙に異なる最適な栄養素を見極め、個別に栄養管理をしているそう。見せていただいたハウスのイチゴの苗は、大きく厚く色も鮮やかな葉で、とても生きの良さが感じられました。

村田さんのこだわりは、収穫後も続きます。繊細な果実であるイチゴを、鮮度を落とさず消費者まで届けるため、包装にも並々ならぬ力の入れようです。何タイプかある包装に共通する考え方は、イチゴが箱に触れるのを「点」でなく「面」にし、傷みを抑えるというもの。

最も高品質なイチゴを納める包装の名は、その名も「ゆりかーご」。箱にイチゴ型にくぼんだ薄いフィルムが張られており、そのくぼみに1個ずつ納めるというものです。それはまさに揺り籠のようで、これほど繊細に扱うのかと、驚きを禁じえませんでした。

また、パッケージデザインにも一目で村田農園とわかる、イチゴのみずみずしさとスタイリッシュさを兼ね備えたデザインがなされ、ブランディングにも一切手を抜いていません。こうした積み重ねがあるからこそ愛されているのだと、深く納得です。

そんな、イチゴにひたむきな情熱を注ぐ村田さんに、イチゴ生産の魅力を伺うと「消費者の声が直に聞ける点」とのこと。卸先の「生産者カード」などを通じ、「おいしかった!」と届く声が、何よりの喜びだそうです。この冬も、村田さんが丹精した赤い宝石が、たくさんの家々で笑顔を生み出すことでしょう。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

➡これまで紹介した場所はこちら

巨大都市パリの郊外から見えるもの《遊民通信》78

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【コラム・田口哲郎】

前略

先日、NHKのBSで「地下鉄のザジ」というルイ・マル監督のフランス映画が放映されていました。1960年の作品です。冒頭はパリの郊外からパリ中心部に入る列車のフロント窓の風景が映し出されます。列車はパリの南東にあるオステルリッツ駅に向かうわけですが、沿線の風景を見て驚きました。

その風景は、郊外から東京都心に向かう京浜東北線や中央線、東海道線、常磐線から見える風景と変わらないからです。いわゆるパリと言われたら思い浮かべる、古いながらも豪華な外装のアパルトマンが立ち並ぶシャンゼリゼ通りのような風景ではなく、日本のどこにでもある機能的な建物が延々と続くのです。

パリは19世紀には世界の都と言われるほどに発展しました。世界の都というのは近代的な政治、経済、文化の中心という意味です。いま私たちが普通に目にしている大都市は、19世紀のパリやロンドンが人類史上最初だったと言えます。江戸も大きかったのですが、石づくりで道路も舗装されていたいわゆる近代都市としては、パリのほうが先でした。

パリの人口は増え続け、拡大してゆきます。古いパリはグラン・ブールヴァールという環状道路の内側で、新しいパリはその外に無限に増殖してゆくのです。東京の山手線の内側が古い東京、外側が新しい東京と言われるのに似ています。

欧米の枠組みとしての近代都市

東京も浅草や日本橋のような江戸風情の残るところを「東京」とするように、パリも19世紀の雰囲気が残る凱旋門の辺りを「パリ」とします。それが街の顔ですが、その周りには、どの国にも似たような「郊外」が広がっている。

前代未聞の巨大都市パリのような都市が、欧米文化の広がりとともに世界に広がりました。それはグローバル化の波と一致しているのだと、パリの郊外の風景を見ていて気づきました。江戸も当然、その波にのまれ、大きな変貌を遂げ、いまの東京があります。

コロナ禍を経て、欧米の価値観がどんどん流入してくるだろう、と以前に書きました。忘れてはならないのは、いまの私たちの生活基盤である都市も実は欧米の枠組みによって作られているということです。そういう意味で、日本にも欧米の価値観を受容する下地はつくられていて、ソフト面が入ってくる環境は整っていると言えます。

あたりまえの「都市」を見直すことで、新たな気づきがあるかもしれません。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

借金をして死ぬと家出 《続・気軽にSOS》144

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【コラム・浅井和幸】日々、様々な相談に対応している浅井心理相談室。過去に下記のようなやり取りがあったとか、なかったとか。

「甥(おい)っ子が家出をして、どうしてよいかわからない」と、叔母に当たる女性から相談がありました。親子の不仲が原因の一つであるのは間違いないのですが、甥っ子は借金をしていました。無職の甥っ子は母親(来談者の姉)にそれをとがめられ、死んでやると家出をして、1週間ほど行方不明になっていました。

LINEをしても、電話をしても、応答がありません。うろたえている姉を見かねて、その方は相談に訪れたそうです。もう諦めたほうがよいのでしょうかという来談者に、とりあえず下記のことをしてみるように伝えました。

▽今までの半分のペースで、LINEを送る。内容は、何かをアドバイスするのではなく、心配しているとか、あいさつ程度の短い内容のものにする。

▽LINEで、浅井という人に相談していることを伝える。電話番号も一緒に。心配しているよと。

「アルバイトで返せる額じゃないかな」

次の日の昼、来談者の甥っ子から私に電話がかかってきました。

浅井「はい、浅井です」

甥っ子「〇〇です。叔母から聞いて電話をかけています」

浅井「ずいぶん、つらそうだね。力も出ない様子だけど、ちゃんと食べている? 心配だな」

甥っ子「一昨日ぐらいから何も食べていません。もう死にたいです。死ぬしかないんです」

浅井「どうして?」

甥っ子「借金をして、仕事もしていないし、返せないし…。このままだと、親にも迷惑をかけてしまうから」

浅井「そうなんだ。それはつらいね。ところで、君みたいに若い男の子が死ななければいけないほどの借金って、何億円ぐらい借りたの? というか、よくそんなに借りることができたね」

甥っ子「いえ、そんなには大きい額では…」

浅井「そっか。じゃ、何千万円ぐらい借りたの?」

甥っ子「いえ、そんなには…」

浅井「そうかぁ。細かくはいいから、だいたい、どれぐらいの借金があるの?」

甥っ子「〇〇〇万円です」

浅井「それは大変だね。でも、そのぐらいの額だったら、ちょっと良い大きめのバイクか、軽自動車の新車が買えるぐらいだね。君ぐらい若い男の子ならば、その辺のアルバイトをして返せる額じゃないかな」

甥っ子「そんな感じですか? でも、何もかも嫌になって」

「今日1日は生き、また電話して」

この間に色々と話をして、本人の様子や、どんな場所にいるのか、雰囲気で予想していました。

浅井「でも周りが敵ばかりに感じて、つらいよね。もうどうなってもよいって感じるんだね」

甥っ子「はい」

浅井「遠くにいるということだけど、場所さえ教えてくれれば、迎えに行くか、何か方法を考えるよ。でも、すぐにとも、無理にとも言わない。その代わり、今日1日は生きてみて。夏だけど、ちょっと外は寒いかな。けど頑張って考えてみて。それでよかったら、明日、また、電話してよ」

甥っ子「わかりました。もういいです」

後日、私が電話をした次の日に帰ってきたと、母親から電話がありました。その後、来談者からも、お礼の電話とおいしいクッキーが届いたとか、届かないとか。いや~、いただきものはうまい。(精神保健福祉士)

バイデン大統領、中東政策で失点:米大統領選(3)《雑記録》54

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ポインセチア(写真は筆者)

【コラム・瀧田薫】バイデン米大統領は、これまで推進してきた「中東の安全保障構想」をハマス(ガザ地区を実効支配するアラブ武装勢力)のイスラエル奇襲によって根底から覆され、彼の中東外交は苦境に立っている。

バイデン政権は水面下でサウジアラビアとイスラエルとの国交正常化交渉を後押ししてきたのである。ウォール・ストリート・ジャーナル(8月上旬)によれば、サウジは米国に対し、イスラエルとの国交正常化をするための条件として、原発など民生用核開発計画への支援、安全保障関係の強化(対イラン)、パレスチナ政策でイスラエルに譲歩させる―の3点を要求したという。

一方、中東分析の専門家(reuters.com 10月4日付)によれば、パレスチナ自治政府とハマスは、パレスチナをバイパスして動いていく中東情勢に危機感を抱き、アラブの大義(全アラブがパレスチナ独立国家の樹立と反イスラエルで結束する)を取り戻そうとした。そのためにとった強硬手段が今回のテロである。

イスラエルのネタニヤフ首相を挑発し、彼の過剰反応(ガザ侵攻・市民に対するなりふり構わぬ暴力行使)を引き出せば、アラブ諸国はパレスチナ支援と反イスラエルで再結集せざるを得ず、自動的に米国が主導する中東新秩序構想を打ち砕くことができるとの判断である。

ハマスの意図を読んだバイデン氏は、9.11同時多発テロの経験を引いてネタニヤフ氏に自制を求めたが、彼は恐怖心と復讐心に駆られ、暴力への衝動を止めることができなかった。

ロシア→イラン→ハマス

一方、アラブ連盟とイスラム協力機構は、11月11日、サウジの首都リヤドで緊急の首脳会議を開いた。しかし、会議を支配したのは形式的な「口さきだけの介入」を思わせる雰囲気でしかなく、緊張感を見せたのはサウジのムハンマド皇太子とイランのライシ大統領による1対1の会談だけだった。

もともと、サウジやスンニ派のアラブ王制国家はシーア派大国イランによる革命の輸出(王制批判と民主化)を極度に恐れており、最近勢力を増し、核武装もささやかれるイランへの警戒心を募らせてきた。そうした背景のゆえに、サウジ以下のスンニ派諸国と米国そしてイスラエルとがお互いに接近する地経学上の理由があった。

つまりアラブ諸国は、イスラエルの軍事力と技術に期待し、米国の安全保障枠組みに参加すれば、イランに対抗できる。イスラエルは中東における国の安全保障環境を改善できる。米国は中東の安定により、ロシア、中国への対抗に余裕をもって向かうことができる。

しかし、今のパレスチナの状況では、こうした目論(もくろ)みに沿った交渉はしばらく停止するしかないだろう。

サウジとイスラエルが急接近しているとの情報がハマスに伝えられたとき、ハマスはテロ決行を決断したとの見方がある。情報の出先はロシア、そこからイランを経由したと思われる。パレスチナ紛争の背後にロシアの存在が垣間見られる。

情報戦において、イスラエルも米国も完全に出し抜かれた。両国にとって、パレスチナの存在を軽視したことのツケは大きく、アラブ諸国との関係修復はご破算となった。パレスチナの失ったものもあまりに大きい。暴力からは何も生まれないと、後々痛感するのではなかろうか。(茨城キリスト教大学名誉教授)

洞峰公園市営化問題 つくば市の変な調査 《吾妻カガミ》172

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アンケート調査用紙と公園市営化説明文
【コラム・坂本栄】つくば市は11月、県営洞峰公園の市営化問題についてアンケート調査を実施しました。問題のキモは県営⇒市営の是非にあるはずですが、市が考える公園の形に関する質問を中ほどに配し、市営化の是非は最後に聞く流れでした。これは市民の判断を「是」に誘導する手法であり、市民の声をきちんと聞く調査とは言えません。 回答者を誘導する質問の流れ 洞峰公園問題は県の公園運営コンセプトに市が異を唱えたことが始まりです。園内に民営のグランピング施設を設け、その収益で公園を管理したい県。そういった施設に反対し、現在の姿形の延長で公園を管理したい市。この対立を収める策として、県が公園を無償で市に譲渡し、市が自らのコンセプトで運営するという基本合意ができました。 ということは、市営化に伴う市の財政負担と市が考える公園の形を市民に説明し、市営化の是非をズバリ問うのが正しい手順です。ところが質問の流れは、①~⑤回答者の属性や公園の利用法、⑥~⑨市が考える公園の形の是非、⑩肝心の公園市営化の是非、⑪自由記述スペース―と、回答者を市案(下欄参考「ケチ・ボロ」計画で解説)賛成に誘導する構成でした。 調査の体を成していない調査 調査の欠陥は質問の順番だけではありません。この種の調査は回答者1000~2000人を無作為抽出(ランダムサンプリング)して聞くのが正しい手法です。ところが、希望者だけに回答用紙を回収箱に入れてもらう+市のホームページ(HP)に書き込んでもらう方式ですから、作為的な動員によって「是」「非」を操作できます。市民の賛否を正確に把握し、市政運営の参考にするのが調査の目的であるのに、これでは調査の体を成していません。 現市長には、シロをクロに塗り替える市政運営で前科があります。運動公園用地売却について市民の意見を聞くパブコメは、寄せられた回答を都合よく分類し、賛成はたった3%だったのに、賛成多数という結論をひねり出しました。前市長の運動公園計画を住民投票で撤回させた現市長は、市民の声を大切にする理念を忘れてしまったようです。 執行部に甘く見られた市議会 この調査の変な点をもう一つ挙げると、市のHPに「…本アンケートは無償譲渡への賛否の多寡を主眼とせず…」と書かれていたことです。これでは、市案を前提にした調査であると宣言しているようなもので、上の方のパラグラフで指摘した「回答者誘導」&「作為的手法」どころか、最初から「結論ありき」の調査になります。 12月議会に上程される洞峰公園市営化条例案、同公園管理予算案の取り扱いに悩んでいる市議さんは、ずいぶん甘く見られたものです。市執行部は条例案と予算案が議会で問題なく承認されことを前提に、行政プロセスを進めているのですから。(経済ジャーナリスト) <参考> ▽ケチ・ボロ計画:コラム「つくば市の洞峰公園『劣化容認』計画」(11月20日掲載 ) ▽変なアンケート:記事「洞峰公園問題で市民アンケート開始…」(11月15日掲載) ▽無作為抽出調査:コラム「洞峰公園の市営化、住民投票が必要?」(3月20日掲載) ▽運動公園パブコメ:コラム「…ダメでしょ『…市の行政手順』」(22年9月19日掲載

御朱印の力「ゲニウスロキ」《看取り医者は見た!》8

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私が拝受した御朱印

【コラム・平野国美】前回「神社仏閣の逆襲」(11月14日掲載)では、最近の神主さんの横顔を書きました。前職がIT系の神主さんは、神社のホームページ(HP)をしっかり作っている、と。当然の流れなのか?その後、近隣の神社でもHPを用意し、フェイスブックやインスタグラムにも参入してきました。

そうなると、神社に参拝しなくても、どんな行事が催されるか、意識するようになるものです。当然、お祭りの日も把握できます。そのうち、スマホを介して祈祷(きとう)する時代も来るでしょう。それどころか、デジタル賽銭(さいせん)箱も登場するでしょう。本来なら現地に行き、参拝することが望ましいのでしょうが、高齢化やコロナ禍では、ネットを介した祈祷(きとう)もありうるでしょう。

コロナ前、年数回、神社参拝に行きましたが、ほかの理由でも出かけていました。骨董(こっとう)市や手作り市が境内で行われていたからです。手作り市は、革物、紙物、布物、金属、パン、コーヒーなどを、作り手(作家さんと呼ばれます)から直接購入する場です。東京の雑司が谷鬼子母神や京都の下鴨神社にはよく足を運んでいました。

小説によく出てくる奈良の茶粥(ちゃがゆ)も、一度食べてみたいと思いながら、初めて食したのは、日曜の朝、奈良県橿原市今井町のお寺の前で、無料でふるまわれているのを見て列に並びました。このように、神社仏閣は写経や座禅だけでなく、色々な体験をする開かれた場所になっています。

「これはいいな。うちも考えなくては」

私は最近、この歳になって始めて、神社の御朱印を拝受しました。筆で書かれているのを眺めていたことはあるのですが、欲しいとは思わなかったのです。故郷の龍ケ崎市に戻ったとき、八坂神社で一枚の御朱印を目にしたのです。和紙に筆で書かれたものでなく、透明な薄いプラスチックにカラー印刷されたものでした。

こんな物もあるのかと、社務所で購入を希望すると、祇園祭限定のものだそうで、祭りの日に再訪して拝受しました。すると、別の図案の御朱印が目に入り、それも購入を希望すると、これは8月限定なのだそうで、再訪したのでした。この町にルーツを持つ私が、以前書いたことがある「関係人口」に片足を入れた瞬間でした。

その後、知り合いの住職にこの御朱印をお見せすると、「これはいいな。うちも考えなくてはならないな」と笑っていました。最近、御朱印はメルカリなどに出品されて問題になっていますが、私のような者も現れるし、収集が目的でこの地を訪れる人も増えるでしょう。友人が集めているマンホールカードも、似たようなものでしょうか。(訪問診療医師)

今こそジェンダーフリーの日本へ《ひょうたんの眼》63

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庭の紅葉

【コラム・高橋恵一】菅直人元首相が次回の衆院選には立候補しないと表明した。1974年、引退するという市川房江さんを「勝手に推薦する市民連」を立ち上げ、参議院に戻した人だ。それまで、労働組合運動や学生運動がイデオロギーに左右されがちだったものが、市民の視点、生活者の視点での政治参加の可能性が見えた瞬間であった。

当時の世界経済においては、中北ヨーロッパでは社会民主主義経済の福祉国家づくりが進んでいた。日本では、菅直人氏らの市民社会連合の政党も登場し、英国や西ドイツ、スウェーデンに代表される福祉国家体制を模索したが、米国に追随する保守勢力では懐疑的な反応が主流であった。

スウェーデンについては、福祉サービスが過剰に行き過ぎ、税金が高いので労働意欲が薄く、若者は国外に逃げてしまう、未婚の母親が多く、フリーセックスの国として「世界の歩き方」には、金髪の美人が待っているなどと紹介されていて、好ましくない国の印象が喧伝(けんでん)されていた。

実際のスウェーデン人は、朝早くからよく働き、安心できる社会保障のために、納税は当然というのが常識のようだ。日本と比較すると、税金は高いが医療や教育は無料で、住宅の心配はないから、住宅ローンで苦労する必要も無い。手元に残る可処分所得はほぼ同額と試算されている。

社会福祉の原点といえるノーマライゼーションの考え方も、身障者に不都合な段差は誰にとっても不都合、補装具も個々人にあわせて制作するという思想が、社会的弱者全般に行き渡り、高齢者施策や男女格差解消にも及んでいる。

真の需要に見合った経済社会の構築

現在、北欧5カ国の1人当たりGDP(国内総生産)は、世界ランキングの上位を占め、どの国も10位以内から外れたことはない。日本は30位前後で、先進国で最下位レベルだ。昨年は韓国にも抜かれたようだ。その要因として、女性の社会参加が挙げられる。就業率も給与水準も男性と差が無いのだ。日本の女性は、就業率も給与水準も男性の70%くらいだから、北欧女性のGDP貢献度の49%しかないことになる。

前述のフリーセックスは、セックス・フリー、すなわち現代のジェンダーフリーの翻訳間違い。北欧では、女性の社会進出に合わせて、勤労条件や出産・育児環境をはじめ多くの制度改革を行い、何よりも男性優位社会からの脱却を図ったのだ。

女性や高齢者の非正規雇用、低賃金、人手不足の解消には、公共部門の賃上げが直接効果がある。経済学者ジョセフ・スティグリッツは、米国や日本の新自由主義経済を批判し、真の需要に見合った経済社会を構築すべきとしている。人々は何よりも子どもと親(高齢者)の幸せを望んでいる。経済競争を放任すると、世の中に偏りが出来てしまう。

そこを、是正するために公共(政府)が需要を発動するのが、真の経済の好循環だという。税の基本は、応能負担の必要配分。国民負担に世代間不公平が言われるが、社会保険方式を止めて、全て所得(法人)税で賄う方が、不公平が解消される。負担と受益はシンプルな方が良いのだ。(地歴好きの土浦人)

花粉症と秋のおはなし《ことばのおはなし》64

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つくば山頂(写真は筆者)

【コラム・山口絹記】先日、筑波山に登った。ロープウエーを使い、女体山と男体山の山頂を平行移動しただけなので、搬送された、という方が正しいかもしれない。

目的としては紅葉を撮影することだったのだが、ロープウエーから見下ろす山肌は全体的に茶色い。女体山駅についてみると、紅葉どころか、葉は大方落ちて樹木の半分以上は裸木である。

先日の雨と強風で一度色づいた紅葉も飛ばされてしまったのかもしれない。と思ったが、地面に落ちた葉を観察してみても色づいたものは見当たらない。猛暑の影響か、そもそも色づきが悪かったのかもしれない。

なんとなく、そんな予感はあったのだ。私は月日の感覚に疎い代わりに、四季を感じながら生きているところがある。今回の筑波山も、いつまで経っても秋の気配が感じられないから、なんとか秋を観測するような心持ちで来たのだった。

以前のコラムでも書いたことがあるのだが、私の中で季節とは、匂いだ。春には春の、夏には夏の匂いがある。いつか私が花粉症になったら、私の春はどこにいくのだろうか、というおはなしだった。

枯枝に 烏のとまりけり なんとやら

このコラムを書いてから3年が経ったが、実はここ数年すっかり花粉症と思われる症状に悩まされており、年明けから数カ月鼻が利かない。つまりこの数年、私には春が来なかったわけだが、今年は11月からひどい症状が出てしまい、さすがに年貢の納め時と観念して受診した。処方されたお薬の効果はてきめんで、たちどころに体調がよくなった。匂いもわかる。

しかし、症状が出てからお薬を飲むまでの間に秋が過ぎ去ってしまったのか、それとも今年は秋がなかったのかわからないが、吸い込む空気の香りもすでに秋というより冬のそれに近い。 枯枝に 烏のとまりけり なんとやら といった風情である。

なんとなく意気消沈して、帰りもロープウエーで搬送されながら、今年は夏と冬しかなかったなあと侘(わび)しい気持ちになる。このやるかたない思いで一句、と思ったが、どうやら花粉症は春の季語らしい。花粉症をなめているとしか思えない。花粉は一年中飛んでいるのだぞ。

結局、今が秋なのか冬なのか判然としないまま、そもそも詠めもしない句はあきらめた。来年の春には期待しよう。(言語研究者)

保育園児が英語で国際交流《令和楽学ラボ》26

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ハワイ大選手と園児の記念写真(筆者提供)

【コラム・川上美智子】筑波大学を訪れていたハワイ大学のバレーボールチームの学生が、私が園長をしている「みらいのもり保育園」の子どもたちと交流しました。保育園では3歳児以上の園児に「英語で遊ぼう」のカリキュラムを組んでおり、ネイティブの講師が週30分ほど英会話を教えています。講師は授業中ほとんど日本語を使わず、英語でコミュニケーションをとってくれていますので、大人が考えるよりずっと上達が早いです。

選手と交流した年長組の子どもたち18名は、今回のハワイ大学生の訪問日を何日も前からとても楽しみにしていて、大歓迎でした。身長2メートル前後の体の大きな選手たちの前でも臆せず、英語で「My name is 〇〇」と自己紹介をして、すぐに仲良くなりました。

パフォーマンスでは、お互い文字を教え合うプログラムを準備し、選手にはひらがなで、子どもたちにはローマ字で自分の名前を書いてもらいました。次に、きれいな千代紙を使って、折り紙をしました。

保育士が考えた「手裏剣」の制作は、子どもたちにも、選手たちにも少し難しく、長い時間をかけて、ようやく折りあげました。子どもたちは出来上がった手裏剣を投げる姿を見せ、使い方を教えました。最後に、園児が英語の手遊び歌「Head, Shoulders, Knees and Toes(頭、肩、膝、つま先)」を披露して、大爆笑のうちに交流会は終わりました。

短い時間の交流でしたが、選手たちが乗ったバスが見えなくなるまで、園児たちは園庭で手を振って別れを惜しみました。

このように、子どものころに豊かな体験を積むことが、健やかな成長につながることから、保育園では地域との交流を大切にしています。新型コロナで保育園に外部の方が入る機会を遮断せざるを得なかったこの3年間、子どもたちから交流や体験の機会が失われました。それが、健やかな育みにどう影響するかはわかりませんが、それらを取り戻せるよう、この1年は地域交流に力を入れています。

ラグビー交流、アート活動、バイオリン演奏…

このほか、筑波大学のラグビー部の選手たちとのラグビー・スポーツを通した交流では、タッチダウンやパス回しを習いました。また、筑波大の芸術学群の研究室とは、名画の鑑賞と造形アート活動による交流を行っています。

昨年度からは、県立明野高等学校の「ジョブシャドウイング」を受け入れ、高校生に職場体験、職場観察をしていただき、子どもとの交流も図っています。また、地域のバイオリニストの方が楽器の話や演奏をしたり、地域の農家の方が絵本『あさごはんのたね』の読み聞かせや、お米やブルーベリー栽培の話をしたりと、毎月、どなたかが訪問してくださっています。

担任の保育士による養育や保育に加え、園児たちはいろいろな大人と触れる機会があり、興味・関心を広げ深められる環境の中で育っています。ここで幼少期を過ごした子どもたちが、将来どのように活躍してくれるのかが楽しみです。(茨城キリスト教大学名誉教授、みらいのもり保育園園長)

孫のお宮参り《続・平熱日記》146

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】長女の住む高円寺(東京都杉並区)に向かう。手には冷凍した分厚い牛肉2パック。そんなものわざわざ持っていかなくてもいいようなものだが、つくばのスーパーに売っている、この安い赤身の肉がお気に入りの長女。結婚する前から我が家では「肉姫」と呼んでいたが、この肉姫が7月に2人目の孫を生んだ。今日はその子のお宮参り。

私以外、一応きちんとした服装に着替えて車で出発。40年前にバイクで通っていた青梅街道は、中野坂上辺りから全く違う街並みになっていて、お上りさんのように高い建物を見上げていたら、間もなく明治神宮へ到着。

それこそ、最後に訪れたのはいつだったか記憶にないが、改めて都心にある広大な杜であることに感心する。広い参道を歩く。普通、神社の参道には大きな杉なんかが並んでいるものだが、カシやクスノキなどの雑木が多い。それもそれほどの太さではない。

そういえば、この杜は明治天皇の時代に人の手によって造られたと聞いたことがある。昨今話題になっている神宮外苑のイチョウ並木もその一部らしい。それにしても、外国人が多い。ちょうど結婚式の行列があって、外国の方々が集まっている。我が孫もレンタルの和装風の衣装に身を包んでいるので、外国の人にはエキゾチックに見えるらしい。

カツカレーが食べたくなった

さて、無事に御祈祷を済ませて食事をすることになった。敷地内の、最近建てられたのだろう、お土産物屋も併設されたモダンなレストランに入ることにした。向こうのご両親と私の次女を含めたにぎやかな昼食となった。

私はなぜか、めったに食べないカツカレーが食べたくなって注文した。しかし、いざ運ばれてくると、さすがに全部は食べきれないと思って、2歳を過ぎたお兄ちゃんの孫にカツを2切れやった。生まれたときから大柄なこの子は、お子様セットと共にカツもペロリと平らげた。さすが肉姫の子。

ちなみに、最近この子が私のことを「ディーディー(ジイジイじゃないところがいい)」と呼んでくれるのを、ちょっと気に入っている。大役を終えた弟の方はベビーカーですやすやと寝ていた。

娘たちから時計のプレゼント

駐車場で両親を見送って、それから私は寄り道などせずに、直接家に帰ることに決めていた。パクが待っているし、東京に来て帰るだけで結構くたびれるから。すると、別れ際に長女がプレゼントだと言って紙袋を渡してくれた。

思いがけないことに驚いていると、何年か前の誕生日に欲しいものを聞かれて、当時少し話題になっていた時計のことを私が言ったらしく(普段時計をする習慣もないし本人はもう忘れていた)、娘2人が探して買ってくれたのだという。初めての娘たちからのプレゼントに戸惑ったが、「ありがとう」とお礼を言った。

長女夫妻は2人目の子供の名前に「晴」という字を入れた。晴天の続く夏空の下に生まれたからだそうだが、なかなかいい字を見つけたと思う。その日も見上げれば、抜けるような秋の晴天。私は時計ブランドのロゴが恥ずかしいぐらい大きく入った紙袋を持って、新しくなった原宿駅に向かった。(画家)

茨城の原風景を撮り続けた柳下さん《邑から日本を見る》148

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柳下さんの作品

【コラム・先﨑千尋】10月末に旧山方町(現常陸大宮市)在住の記録写真家・柳下征史(せいし)さんが急逝した。享年83歳。柳下さんは高校卒業後、日立製作所に入社し、会社の広報誌を作る部署に配属になった。もともと写真が好きだったので、休みには自転車やバイクで写真を撮り歩いた。

日製時代には、世界的な写真家ユージン・スミスとの出逢いがあり、身近でスミスのカメラワークを見る機会を得た。1961年にスミスは日製の依頼を受け、海外向けのPR写真用に約1年、工場内で働く人の姿や日立市内の街並み、農漁村や庶民の生活風景を撮った。この経験が柳下さんの肥やしになったようだ。

柳下さんは1975年に会社を辞め、ひたちなか市内に写真工房を開き、写真家として独立した。独立後、郷土茨城をテーマに写真を撮り続け、「何か形あるものを残したい」と考えた。

県内では日本人の生活の源といえる草屋根の家が近代化の影響を受け、ものすごいスピードで消えていることに着目した。写真の記録は生活の基盤である「家」を中心にすべきだと考え、ひたすら県内のワラ葺(ぶ)き、茅(かや)葺き民家を探し歩き、撮り続けた。他の写真家に真似(まね)されるのを嫌い、仲間にも内緒にしていたという。

その成果が1994年に出した『ひだまりのワラ葺き民家』(八溝文化社)。翌年には東京・銀座の「富士フォトサロン」で企画展を開くことができた。写真展はその後も、つくば市、水戸市、山方町、ひたちなか市と続き、2009年には笠間市の日動美術館で、全国の茅葺き民家を描き続けてきた向井潤吉の作品展と同時開催した。

07年には、前著の写真集のタイトルと内容を変え、『ひだまりの茅葺民家-茨城に見る日本の原風景』(八溝文化社)を発刊した。245点の写真には説明が付き、ゲルト・クナッパーさんや安藤邦廣さんらのエッセイも載せている。

それより前の03年に、常陸太田市の西金砂神社東金砂神社が72年に一度という大祭礼を実施した。柳下さんはその公式記録を撮影することを依頼され、仲間の写真家と一緒に大冊の『磯出大祭礼全行程記録写真集』をまとめた。

カレンダー「ひだまりの茅葺民家」

茅葺き屋根だけでなく、写真を核として「人間の生から死までの所業」をまとめることを思いついた柳下さんは、これまでに撮った写真の中から111点を選び出し、旧知の俳人・今瀬剛一さんに見てもらって出来た俳句を、書家の川又南岳さんが墨を使って書き表した。3人のコラボは13年の『おまえ百まで、わしゃ九十九まで-写真・俳句・書で綴(つづ)る日本の原風景』として結実した。

柳下さんが残した業績の一つにカレンダーづくりがある。「ひだまりの茅葺民家」と題したカレンダーは、自分で撮ってきた作品の中から季節に合わせた6枚と表紙になる作品を選び、2005年から始めた。茨城県の原風景を毎日みんなに見てもらいたいという柳下さんの熱い思いが伝わってくる。

亡くなる2週間前、私にこれからやりたいことをいろいろ話してくれた柳下さんだが、その想いは叶(かな)わなかった。私にとっても無念だ。(元瓜連町長)

<ご参考>柳下さんの本とカレンダーは、ひたちなか市のヤギ写真工房(電話029-273-3202)で取り扱っている。

心に残る「俳句と生きた人」《写真だいすき》26

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喪に服しおり黄落の激しさに 乾 修平(写真は筆者)
【コラム・オダギ秀】若かった頃だが、ボクが珈琲店でのんびりしている時に、後から彼が入って来た。彼とは別に交流があったのではなかったが、ボクは彼の俳句が好きで、ボクがそれをその場で諳(そら)んじたことから交際が始まった。彼は土浦市にいた俳人。「葦枯れ村」など著書も多く、門人の数は数え切れないほどだった。撮影させていただいた方は数えきれないほどいるが、いつまでも心に残っていて、ファインダーに浮かぶ方は少なくない。彼もそのひとり。 彼の部屋を訪ねると、ここは書斎ではなく作業場だと笑っていたが、原稿用紙の束や文学書、辞書の類がうず高く積まれ、(当時はパソコンでなく)ワープロが2台とコピー機がデンとしていた。俳句誌「城」を主宰していた。そして彼は、俳句に熱心になったのは、病気になったから、と言った。 「若い頃、肺結核にかかりましてね。今はどうということないですが、その時は、目の前が真っ暗になった気がしました。入院するので本屋に行き、何か本がないかと探しても何もない。で、1冊売れ残っていたのが、この本だったんです」。彼は書棚から、古びて茶褐色になった本を取り出した、岩波文庫「一茶俳句集」。彼は、この本に人生が変えられてしまった、と語った。 「病気にかかったので、よかったと思う」 療養生活なんて何もすることないし希望もなかった。見舞いに誰か来てくれて、ゆっくり静養しろなんて言われると、かえって焦る。そして手術。当時の手術は、失敗が多かった。その寂しさ、取り残される気分はやり切れなかった。仕方なく、その本ばかり読んでいたという。「われときて遊べや親のない雀」なんて共鳴したそうだ。それから俳句にのめり込んでいったという。 「病気にかかったので、よかったと思う。それがなかったら俳句の道も知らず、仕事して定年を迎える味気ない人生だったろうと」。「俳句を通じて、たくさんの人とめぐり会えた。これがうれしい。苦しい病気のおかげで人生が変わったし、売れ残りの本が、その転機を作ってくれた。人生、どんなささいなことも大切にしなきゃならないと思います」 彼の句集は、いつもボクの枕元に置いてあるが、そろそろあの一茶句集のように古びてきた。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

宍塚の大池と絵本《宍塚の里山》107

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写真は筆者

【コラム・大田黒摩利】私事だが、神奈川県から茨城県に移住して30年になった。身近な自然が大好きで、引っ越してきてすぐにNPO法人「宍塚の自然と歴史の会」の観察会をタウン誌で見つけ、参加した場所が土浦市にある宍塚大池。タイムスリップしたかと思うような自然の残された環境に魅了され、すぐ会員になった。

会での様々な活動を通し、里山の自然環境は人の手で整備されることで、生き物たちの暮らしとの調和が成り立っていることを知った。皆さんには、本当にいろいろなことを教わり、経験もさせていただいた。年間を通して参加することで、四季の変化を感じることができ、私の中に里山の魅力が蓄積された。

この30年間、好きで描いていた野鳥や植物などのイラストで、出版関連の絵の仕事をいただけるようになった。自然や野鳥を扱った絵本の依頼もくるようになった。福音館書店の「ちいさなかがくのとも」という3~5歳児向け月刊誌では、絵のみの担当を含め7冊の本を出すことができた。

そのうち3冊は里山の絵本。季節の里山を歩きながらいいものを見つけて数えていく、カウンティングブックだ。『あきのおさんぽ いいものいくつ?』では、稲の実った谷津田で「たんぼには ばったが4ひき。はっぱのなかで かくれんぼ」と、4匹の隠れたイナゴを探す―そんな展開でページが進む。

『ふゆにさがそう いいものいくつ?』

このシリーズは、春、秋、冬版が発売されていて、季節を変えて里山でいいもの探しをする。宍塚大池、近所の公園、田んぼなどで取材をしているが、ほとんどは宍塚大池での写真やスケッチがもとになってお話を作った。

11月に冬版『ふゆにさがそう いいものいくつ?』が発売になったが、100パーセント、12月の宍塚大池の取材だ。ご存じの人には、なじみ深い光景がたくさん出てくる。絵本で生き物探しを楽しんでもらったあと、実際の里山に行き、ご自分たちのいいもの探しをしてもらいたい。

大池に行ったことない方、ぜひぜひ、行ってみてほしい。絵本で描いた本当の世界が広がっている。そして、季節を変えて訪れてみてほしい。林も池も昆虫も鳥たちも、みんな違う表情を見せてくれるはず。私の作った絵本から、里山に興味を持ってくれる子どもたちや親御さんが、出てくることを祈っている。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

<原画展>「えほんやなずな」(つくば市竹園2丁目)で『ふゆにさがそう いいものいくつ?』開催中。12月10日まで。

仙台という町の魅力《遊民通信》77

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【コラム・田口哲郎】 前略 先日、旅行で仙台に行ってきました。私は高校卒業まで12年間を仙台で過ごしましたので、思い出深い町です。仙台といえば杜(もり)の都として有名です。杜の都というのは伊達政宗が家臣の屋敷に果樹などの樹木を植えるよう推奨したことで、都市計画と植栽が絶妙なバランスでうまくいき、その伝統が現在の仙台市にも受け継がれているという意味だそうです。 たしかに、青葉通り、定禅寺通りのけやき並木は見事ですし、メインストリートのつき当たりには西公園という広瀬川沿いの崖の上にある緑地があり、都会の中でも存分に自然を感じられます。 ヒューマンスケールに見合った町 仙台平野の北端に青葉山があり、より北には泉ケ岳がそびえます。この都心へのアクセスもよい北側エリアには、バブル期に東京に本社を置く大手デベロッパーがニュータウンを開発しました。私はそこに住んでいました。 今回、自家用車でニュータウンに行きました。団地の住人の高齢化が進んでいたものの、空気がきれいなのか家々は古びておらず、20年前とそんなに変わらない光景がありました。団地から駅前(仙台では「まち」と言います)までは車で15分でした。住んでいた当時は、郊外は「まち」まで出るのに不便だなと感じていました(バスだと40分かかりました)が、その考えが間違っていることに気づかされました。 団地から「まち」までは近かったのです。車も多くなく、道も空いていました。茨城県南を含む首都圏では考えられないことです。仙台という町がいかにコンパクトで、都市機能が集中しているのかがわかります。あまり移動に時間をかけなくても、都市生活が送れるのはとても魅力的だと思います。 仙台駅前から勾当台(こうとうだい)公園までつづくアーケイド街を歩きました。古くからの仙台のお店はかなり閉店していて、チェーン店が増えていました。残念なことですが、裏を返すと、仙台でも東京と変わらないお店に行けるようになったということです。今回は仙台という町が持つポテンシャルを改めて知る機会になりました。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

韓国事情:インドネシア、ベトナムに続き 《文京町便り》22

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】10月下旬、韓国ソウルを訪れた。ソウル国立大学アジアセンターSNUAC・政治社会学会ASPOS共催の国際コンファレンス(10月27日)に参加・発表(基調講演)するためである。コンファレンスのテーマは、“Digital Globalization and Its Unequal Impacts on East Asia: Platform Economy, Migration, and Democracy(東アジアへのデジタル・グローバリゼーションの不均等な影響:プラットフォーム経済、移民、民主主義)”だった。

政治社会学会ASPOSは2010年3月に発足し、第1回研究大会(2010年10月)を早稲田大学で開催している。私自身は創立メンバーで第2代理事長だが、この国際コンファレンスは当初から、韓国SNUACと日本ASPOSが交互に隔年で開催してきた。コロナ渦の2020年・21年は開催を見送ったものの、2022年に同志社大学で再開したのに続いて、今年はソウルでの開催になった。

参加者は日韓に限定せず、今回でいえば、モンゴル、台湾(香港出身)、フィリピン(東洋大学に在籍)などもいたが、この会議の特徴はあくまでも個人資格での参加なので、所属国・機関の立場・主張を代弁するものではない。この継続には、カウンターパートの韓国SNUACの創立所長であるヒュンチン・リム名誉教授・韓国科学アカデミー会員の強力なリーダーシップと先見性が貢献している。

VUCA時代にはGDPを超えて

私の基調講演は“Political Economy in 21st Century: In the Age of Volatility, Uncertainty, Complexity, and Ambiguity(21世紀の政治経済学:変動、不確実、複雑、多義=ブーカ=の時代)”で、(この頭文字を取った)「ブーカ(VUCA)時代にはGDPを超えて」が趣旨だった。

併せて私は、OECD(経済協力開発機構、1961年創設、日本は1964年から、韓国は1996年からメンバー国)のWorld Forum on “Statistics, knowledge, and Policy(統計、知識および政策に関する世界フォーラム) ”(第1回は2004年にイタリアで)を韓国は2回開催していること、第7回は2024年にWorld Forum on ”Well-being: Approaches for a Changing World(ウェルビーイング(安寧)に関する世界フォーラム:変化する世界へのアプローチ)”と名称を変えてイタリアで開催予定(2回目)だが、日本では一度も開催していないことを指摘した。

今回の会議で印象に残ったのは、台湾の国立政治大学・客座教授の陳健民氏の発表だった。香港出身の彼は、2014年雨傘運動のリーダーでもあった。今回の参加者には(私を含めて)戦後ベビーブーム世代もいたが、雨傘運動の経緯と顛末(てんまつ)には同情を禁じえなかった。陳氏の遠くを見るまなざしと深い悔悟の念に、心が揺さぶられた。

ソウル市内は韓国車が8

ところで、文京町便り2021でインドネシアとベトナムの交通事情を語ったので、韓国(ソウルに限定)の自動車事情も補足しておく。ただし、これは、あくまでも私の数日間の滞在中の観察に基づく印象であって、データに基づくものではない。

何にせよ、日本車が少ない。6割以上がヒュンダイ(現代自動車)で、傘下のキア(起亜)も含めると、8割が韓国車。外車は、ベンツ・BWMなどで2割程度。日本車は、トヨタを数台見かけたほかは、日産・ホンダは皆無に近い。このうちどれだけがEV車かは、私の乏しい識別能力では判別できない。

とはいえ、再び日本再上陸を進めているヒュンダイ戦略の今後が気になるところではある。(専修大学名誉教授)

仮面夫婦《短いおはなし》21

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

サイドテーブルの上に離婚届。
今日、姪(めい)の結婚式に夫婦そろって出席した後、私たちは離婚する。

「ねえ、麻衣のために、今日だけは円満な夫婦を演じてね」

「わかってるよ」

夫は白いネクタイを無表情で結び、部屋を出て行った。
姪の麻衣は、子供がいない私たちにとって娘のような存在だ。
麻衣を悲しませたくないのは、私も夫も同じだ。

タクシーの中ではひと言も話さなかった夫が、式場に着くなり兄と義姉のところに駆け寄り、「おめでとうございます」とにこやかに言った。

「武夫君、仕事が忙しいのに悪かったね、平日の式なんて迷惑だったろう」

「いえいえ。麻衣ちゃんは僕にとっても娘みたいなものです。かわいい姪のためなら仕事なんて休みますよ。なっ、亮子」

夫が半年ぶりに私の名前を呼んだ。まあ、演技がうまいこと。
それなら私も女優になろう。夫に寄り添い、仲良し夫婦みたいに笑った。

「麻衣の理想の夫婦はね、武夫さんと亮子さんなのよ」

「え?」

「お互い仕事を持っていて、尊敬しあっているからですって」

義姉の言葉に、思わず夫と顔を見合わせてしまった。

「ふたりの生活スタイルが、おしゃれでカッコいいって言ってたわ」

麻衣が頻繁にうちに来ていたころ、夫と私は今みたいに険悪じゃなかった。
家事を分担したり、お互いの仕事の話で意見を言い合ったりした。
あの頃は楽しかった。

いつから歯車が狂ったのだろう。
夫も同じことを考えていたようで、席に着くなりため息をついた。

「子供がいたら違ったかしらね」

私の小さなつぶやきに、夫は何も答えなかった。
子供がいない人生を選んだのは私。原因がそこにあるなら、もはや修復は不可能だ。

ウエディングマーチが流れて、兄と腕を組んだ麻衣がバージンロードを歩き始めた。
ため息が出るほどきれいだ。
麻衣は、私たちを見つけると、無邪気な笑顔で手を振った。
途端に、夫が号泣した。うそでしょう。
それはもう、周りが引くほど泣いている。
ハンカチを手渡して、気づけばその手を握っていた。

式と披露宴、私たちは円満な夫婦を演じきった。
私たちの演技はうまかった。演技であることを忘れるほどだった。
披露宴の後、麻衣が私たちのところに来て言った。

「今日はありがとう。私、ふたりのような家庭をつくるね」

さすがに胸が痛む。

「私たちみたいになっちゃだめ。ちゃんと子供を産んでお母さんになりなさい」

いくらか涙声になってしまった。
すると夫が、後ろから私の肩に手を置いた。

「俺は子供がいなくてよかったよ。だってさ、姪の結婚式でこんなにぼろぼろだよ。自分の娘だったら会場が洪水になる」

あははと麻衣が笑ったけれど、私は涙が止まらなくなった。

帰りのタクシーを待っていると、夫がネクタイを緩めながらぽつりと言った。

「ちょっと飲んでいくか」

「…じゃあ、武夫のおごりね」

私は、久しぶりに夫を名前で呼んだ。仮面が少しだけ外れた11月22日。
世間では、「いい夫婦の日」と言うらしい。

(作家)

障がい者の意志を伝える装置《デザインについて考える》2

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足動式意志伝達装置

【コラム・三橋俊雄】私が浪人時代、高校の友人に誘われて、障がい者施設にボランティアに行きました。施設のガラス窓を拭いたり、石膏のギブスを埋める大きな穴を掘ったり…。あるとき、施設の子どもたちと遊んでいて、小さな女の子に「おにいちゃん、ぶらんぶらんして」と言われ、その女の子を遊ばせていましたが、彼女の両腕が無いことに気付きました。その子はサリドマイドの子であり、それが私にとって初めての障がい者との出会いでした。

そんなこともあって、大学での卒業研究のテーマが障がい者のためのデザインになったのだと思います。夏の熱い日差しを今でも覚えています。卒業研究のために訪れた千葉県の障がい者施設で、脳性小児麻痺のT君(14歳)と出会いました。

彼は、自分で歩くこともできない、話すこともできない、食べることもトイレに行くことも自分の力ではできませんでした。まさに、ないないづくしの少年でした。はじめ私は、彼のための車いすのデザインをしようと、その少年を紹介してもらったのですが、彼と一緒の時間を過ごし、彼を観察していくうちに、彼にとって一番大切なこと、一番解決しなくてはならないことは何なんだろうと考えました。

彼が使いやすい車いすのデザインや食器・便器のデザインも大切ではあるけれども、それよりも、彼の心の中にある「考え」や「思い」を、お母さんや家族、そして友達に伝えることのできる道具のデザインが、彼にとって一番必要なものではないかと考えました。彼は今までの14年間、自分の思いを伝えたくても伝えられず、我慢し、あきらめていたのではないかと思いました。

人間にとって何が大切な問題か

そこで私は、まず、T君の認知能力や身体的な可動部位、可動範囲などを知ることから始め、自分の気持ちを人に伝えるための道具のメカニズムや道具の使いやすさなどを検討しました。

最終的に、私は、T君のわずかに動く左の足指で、足下のキーボードの穴を押すと、机の上の「あいうえお」表示ボックスの豆電球が点灯し、例えば「お・な・か・が・す・い・た」と押すと、彼の気持ちがお母さんや家族に伝えることができる、足動式意志伝達装置をデザインすることにしました。

出来上がった試作モデルはT君に使ってもらいましたが、そのとき、こう実感しました。お医者さんにも、リハビリテーションの先生にも解決できない領域…人間にとって何が大切な問題であるかを発見し、その問題を解決するための道具を具体的に考案し、設計・制作する。その一連の行為が、デザインという世界であり、デザインの役割ではないかと。(ソーシャルデザイナー)