【ノベル・伊東葎花】

サイドテーブルの上に離婚届。
今日、姪(めい)の結婚式に夫婦そろって出席した後、私たちは離婚する。

「ねえ、麻衣のために、今日だけは円満な夫婦を演じてね」

「わかってるよ」

夫は白いネクタイを無表情で結び、部屋を出て行った。
姪の麻衣は、子供がいない私たちにとって娘のような存在だ。
麻衣を悲しませたくないのは、私も夫も同じだ。

タクシーの中ではひと言も話さなかった夫が、式場に着くなり兄と義姉のところに駆け寄り、「おめでとうございます」とにこやかに言った。

「武夫君、仕事が忙しいのに悪かったね、平日の式なんて迷惑だったろう」

「いえいえ。麻衣ちゃんは僕にとっても娘みたいなものです。かわいい姪のためなら仕事なんて休みますよ。なっ、亮子」

夫が半年ぶりに私の名前を呼んだ。まあ、演技がうまいこと。
それなら私も女優になろう。夫に寄り添い、仲良し夫婦みたいに笑った。

「麻衣の理想の夫婦はね、武夫さんと亮子さんなのよ」

「え?」

「お互い仕事を持っていて、尊敬しあっているからですって」

義姉の言葉に、思わず夫と顔を見合わせてしまった。

「ふたりの生活スタイルが、おしゃれでカッコいいって言ってたわ」

麻衣が頻繁にうちに来ていたころ、夫と私は今みたいに険悪じゃなかった。
家事を分担したり、お互いの仕事の話で意見を言い合ったりした。
あの頃は楽しかった。

いつから歯車が狂ったのだろう。
夫も同じことを考えていたようで、席に着くなりため息をついた。

「子供がいたら違ったかしらね」

私の小さなつぶやきに、夫は何も答えなかった。
子供がいない人生を選んだのは私。原因がそこにあるなら、もはや修復は不可能だ。

ウエディングマーチが流れて、兄と腕を組んだ麻衣がバージンロードを歩き始めた。
ため息が出るほどきれいだ。
麻衣は、私たちを見つけると、無邪気な笑顔で手を振った。
途端に、夫が号泣した。うそでしょう。
それはもう、周りが引くほど泣いている。
ハンカチを手渡して、気づけばその手を握っていた。

式と披露宴、私たちは円満な夫婦を演じきった。
私たちの演技はうまかった。演技であることを忘れるほどだった。
披露宴の後、麻衣が私たちのところに来て言った。

「今日はありがとう。私、ふたりのような家庭をつくるね」

さすがに胸が痛む。

「私たちみたいになっちゃだめ。ちゃんと子供を産んでお母さんになりなさい」

いくらか涙声になってしまった。
すると夫が、後ろから私の肩に手を置いた。

「俺は子供がいなくてよかったよ。だってさ、姪の結婚式でこんなにぼろぼろだよ。自分の娘だったら会場が洪水になる」

あははと麻衣が笑ったけれど、私は涙が止まらなくなった。

帰りのタクシーを待っていると、夫がネクタイを緩めながらぽつりと言った。

「ちょっと飲んでいくか」

「…じゃあ、武夫のおごりね」

私は、久しぶりに夫を名前で呼んだ。仮面が少しだけ外れた11月22日。
世間では、「いい夫婦の日」と言うらしい。

(作家)