【コラム・田口哲郎】
前略

「羽根のついた靴」で味をしめて、歌詞を書くようになりました。いつか誰かに歌ってもらえることを密かに待ち望みながら。

コロナ禍で満員通勤電車はめっきり減りましたが、つい2年前まではスシ詰めの列車が大量の人間を都心に送り込んでいました。大学に再入学する前は私も都心に通勤していましたので、毎朝の満員電車はとてもつらかったです。

ある日、乗っている電車が大きな河にかかる鉄橋を渡っているときに、詩の断片が浮かびました。またある日、マザー・テレサのドキュメンタリーを見ているときに、また断片が浮かびました。マザー・テレサはコルカタの路上生活者に手を差し伸べた聖女ですが、私は思いました。(マザーはなぜ、わかりやすい貧しい人々を救うのだろう? ここに家の中でひとり苦しむどうしようもない私がいるのに…)

そのとき、ハッとしました。私は路上生活者を無意識に差別していたのです。彼らとは違う自分を必死に探していました。でも、それは間違いです。私こそが貧しいのです。マザーの救いを求めているのは私だったのです。私は知らぬ間に欲望優先の競争社会で生き、他人をx顧みない習性が染み付いてしまっていました。満員電車に押しつぶされる私こそが哀れで、救われたい。この気づきが詩の断片をつなぎました。

歌詞「平穏(セレニティー)」

鉄橋架かる大きな河
水面に映る満員電車

わたしは急いで運ばれる

どこへ?

みんなそんなに強く押さないで
どうしよう
思ったよりも 心は脆い

あれはもうすぐわたしが昇るビル
うしろ髪をひかれて
目を瞑(つむ)りながら

街路にできた水たまり
水面に映る遠いビル

わたしは彷徨(さまよ)い続ける

どこへ?

犬よ そんなに顔を舐(な)めないで
大丈夫
思ったよりも 心は静か

あれはもうすぐわたしが昇る空
思い残すことなく
微笑(ほほえ)みながら

緊張と不安と競争で疲れ切った心を休ませるときかも知れません。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)